昨日(3月7日)の朝日新聞社会面が、スラップ訴訟関連の記事を取り上げた。
見出しは、「言論封じ『スラップ訴訟』」「批判的な市民に恫喝・嫌がらせ」というもの。デジタル版では、「批判したら訴えられた…言論封じ『スラップ訴訟』相次ぐ」となっている。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3652LRJ36UTIL00H.html?rm=324
ようやくにしてではあるが、まずは目出度い大手メディアデビューである。
スラップの実態や弊害についての議論は、ネット上では旺盛に行われている。当ブログの「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズは本日が第77弾。おかげで、スラップに関する情報の提供を受けたり、相談に与ることも少なくない。しかし、大手メディアの沈黙が不気味であった。記者会見には来るメディアも、記事にはしない。萎縮効果はここまで…と疑わざるを得ない事態だった。が、この記事をきっかけに、他紙も安心してスラップの記事を書くことができるようになるのではないか。遠慮なく、DHC・吉田嘉明の名前を出して。そのような批判の記事なくしては、メディア自身の表現の自由も危うくなるではないか。
朝日の記事の冒頭に次のリードがある。
「会社などを批判した人が訴訟を起こされ、『スラップ訴訟だ』と主張する例が相次いでいる。元々は米国で生まれた考え方で、訴訟を利用して批判的な言論や住民運動を封じようとする手法を指す。法的規制の必要性を訴える専門家もいるが、線引きは難しい。」
具体的な事例として、最初に「伊那太陽光発電スラップ訴訟」を紹介し、この事件に大きくスペースを割いている。
次いで、DHCスラップ訴訟(対澤藤事件)が取り上げられている。その全文が次のとおり。
「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。
1月、化粧品大手ディーエイチシー(DHC)と吉田嘉明会長が、ブログで自らを批判した沢藤統一郎弁護士に賠償を求めた訴訟の判決が東京高裁であった。
吉田会長がみんなの党(解党)の渡辺喜美元代表に8億円を貸していた問題を、沢藤弁護士はブログで『自分のもうけのために、政治家を金で買った』と批判。吉田会長は、同様の批判をした評論家や他の弁護士も訴えた。このため沢藤弁護士はブログで『スラップ訴訟だ』とさらに批判。すると2千万円だった請求が6千万円に増やされた。
東京地裁に続いてDHC側の請求を棄却した高裁の柴田寛之裁判長は『公益性があり、論評の範囲だ』と述べた。判決後、沢藤弁護士は『訴えられると、言論は萎縮せざるを得ないと実感した。判決にほっとした』と話した。DHC側は上告受理を申し立てた。」
これをいかにも朝日らしい、というのだろうか。臆病なまでに公正らしさに配慮して、「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。」と書いたあとでの、DHCスラップ訴訟の紹介なのだ。
それでも、この記事の掲載には大きな意義がある。「スラップ訴訟」という用語の解説もあるし、これまでの「訴えられた側が『スラップ訴訟』だと主張した例」として、幸福の科学事件、武富士事件、オリコン事件などの経過概要も紹介されている(もっとも、固有名詞はすべて伏せられている)。スラップ訴訟という言葉を人口に膾炙せしめ、スラップのダーティーなイメージを世に広めるために、大きな役割を果たすことになるだろう。
この朝日記事の最大の評価ポイントは、コメンテーターとして、内藤光博教授を採用したことである。その全文を引用しておこう。
「スラップ訴訟の研究を進める専修大学の内藤光博教授(憲法学)は『特定の発言を封じるだけでなく、将来の他の人の発言にも萎縮効果をもたらす。言論の自由に対する大きな問題で、法的規制も検討するべきだ』と指摘する。
米国では1980年代、公害への抗議や消費者運動をした市民に、大企業が高額賠償を求める訴訟が多発。『表現の自由への弾圧』と批判され、90年代以降に防止法が作られた。カリフォルニア州など半数以上の州で制定。裁判所が初期段階でスラップと認定すると訴訟が打ち切られ、提訴側が訴訟費用を負担する仕組みが多いという。
ただ、日本ではまだ認識が薄く、基準もあいまいだ。内藤教授は『まずは事例を研究した上で、きちんと定義し、議論を深める必要がある』と話す。」
さて、公正にして中立な朝日の記事は、スラップ訴訟の仕掛け人である吉田嘉明のコメントを掲載している。
「朝日新聞の取材に、吉田会長は『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し、泣き寝入りしている人がほとんどではないでしょうか。それをいいことに、うそ、悪口の言いたい放題が許されている現状をこそ問題にすべきです』とのコメントを寄せた。」
開いた口が塞がらない。この人はなんの反省もしていない。多くの敗訴判決から何も学んでいないのだ。これでは、今後も同じことを繰り返すことになる。
この人が『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し』とは、聞かされる方が驚くほどのこと。吉田嘉明は、自ら「何度も長者番付に名を連ね、現在も多額の収入と資産がある」と表明している人物である。私は、「カネに飽かせてのスラップ訴訟常連提起者」と批判してきた。その当人が「敗訴必至の訴訟に驚くほど金銭を要した」というのだ。
通常の訴訟は経済合理性に支えられている。勝訴してもペイせず、費用倒れに終わることの明らかな提訴は、普通は行われない。敗訴のリスクが高ければなおさらのことである。真っ当な弁護士に相談すれば、「およしなさい」とたしなめられるところ。ところが、スラップ訴訟はまったく様相を異にする。経済合理性は度外視し、判決の帰趨についての見通しも問題としない。ただひたすらに自分に対する批判者に、可能な限り最大限のダメージを与えようという目的の提訴なのだ。だから、「金銭を要する」のはスラップ訴訟である以上、あまりに当然のことなのである。これを当の本人が「驚くほど」高額ということになのだから、いったいどれほど莫大な金額をかけたものやら、驚くほどのことというわけだ。
「週刊新潮・8億円裏金提供暴露手記」の批判者を被告として、DHC・吉田が原告となって提起したスラップ訴訟は、私に対するものを含めて同時期に10件ある。損害賠償請求額は最低2000万円、最高は2億円である。この請求金額が、貼用印紙額や弁護士費用の計算基準となる。敗訴覚悟の無茶苦茶な高額請求をしておいて、「驚くほど金銭を要し」たのは自業自得以外のなにものでもない。しかし、問題の本質は別のところにある。
DHCスラップ訴訟とは何か。吉田嘉明が8億円もの裏金を政治家渡辺喜美に提供して、規制緩和の方向に政治を動かそうとした。そのことに対する批判の意見が噴出したとき、その批判の政治的言論を高額損害賠償請求の訴訟を濫発して封殺しようとしたものなのだ。しかも、その提訴を通じて社会を威嚇し、政治的な言論に対する萎縮効果を狙ったところに、最大の問題がある。
吉田は、自らに対する政治的な批判の言論を「うそ、悪口の言いたい放題」という。自らが、事実を手記として週刊誌に発表しておいて、これを批判されると、批判に「うそ、悪口の言いたい放題」と悪罵を投げつける。果たして批判の言論が「うそ」であるか、「悪口」であるか、「言いたい放題」であるか、いくつもの判決が既に決着をつけている。
吉田は、自分への批判を封じ込めたいというのだが、それが許されるようでは、世も末だ。表現の自由は地に落ち、民主主義が崩壊する。
メディアは、これを他人事として傍観していてはならない。やがては自分に降りかかってくる問題ではないか。これまで、私が記者会見で何度も訴えてきたことを繰り返したい。
「私の判決が、DHC・吉田の完敗でよかった。もし、ほんの一部でもDHC・吉田が勝っていたら、政治的な言論の自由は瀕死の事態に陥いることになる。
DHCスラップ訴訟とは、優れて政治的な言論の自由をめぐるせめぎ合いの舞台なのだ。そのような目で、私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも、そしてその他のスラップ訴訟にも注目していただきたい。
ぜひ、記者諸君に、自分の問題としてとらえていただくようお願いしたい。自分が書いた記事について、記者個人に、あるいは社に、2000万あるいは6000万円という損害賠償の請求訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。
権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。ジャーナリストを志望した初心に立ち返って、金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、想像力を働かせていただきたい。今、世に頻発しているスラップ訴訟の害悪を広く知らしめ、スラップ防止の世論形成に努めてもらいたい。
スラップ訴訟は、言論の萎縮をもたらす。今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。けっして、スラップに成功体験をさせてはならず、その跋扈を防止しなければならない。」
(2016年3月8日)
古来、正義が勝つ…ことは稀である。正邪にかかわらず強い者が勝ち残る。また、狡い者が勝ちをおさめる。これが冷徹な現実だ。
大坂冬の陣では、手痛い反撃を受けた家康は、和睦して休戦中に大阪城の外堀ばかりか、内堀まで埋めてしまう。こうして、防御能力を失った秀頼側は、夏の陣ではあっけなく敗れる。狡い者が勝つ、典型例。辺野古基地訴訟の和解は、冬の陣後の和睦を思い出させる。もちろん、アベがタヌキおやじの役どころ。
今日(3月7日)午後、石井啓一国土交通相が、県の埋め立て承認取り消しは違法だとして翁長雄志知事へ是正を指示する文書を郵送した。
4日記者会見のアベ発言を思い起こそう。
「本日、国として、裁判所の和解勧告を受けて、沖縄県と和解する決断をしました。20年来の懸案である普天間飛行場の全面返還のためには、辺野古への移設が唯一の選択肢であるとの国の考え方に何ら変わりはありません。しかし、現状のように、国と沖縄県双方が延々と訴訟合戦を繰り広げているこの状況のままではこう着状態となり、家や学校に囲まれ市街地の真ん中にある普天間飛行場をはじめ、沖縄の現状がこれからも何年も固定化されることになりかねません。これは誰も望んでいない、そうした裁判所の意向に沿って和解を決断すべきと考えました。」
多くの人が、「国と沖縄県双方が延々と訴訟合戦を繰り広げているこの状況」を抜本的に解決するための和解受諾で、誠実な協議によって事態の打開をはかろうとしたものと考えたことだろう。NHKの岩田朋子(解説委員)なども、アベの「真意」をその言のままに解説していたのだから、NHKを一人前のメディアと信じる善男善女が「法的手続は脇に置いて、これから国と県との円満解決に向けた協議が始まるのだ」と、そう思い込んだのもむりはない。
ところがどうだ。和解成立が4日の金曜日。土・日をはさんでの週明けの今日、舌の根の乾かぬうちの宣戦布告である。早くも、「国と沖縄県双方の延々と訴訟合戦」再開を告げる鏑矢を打ち込んだのだ。その矢の射手となった石井啓一が公明党議員だということを確認しておこう。
国交相から、翁長雄志知事への文書の内容は、「3月15日までに、辺野古海面の埋立承認の取り消し処分を取り消す」べしとする是正の指示だという。
公用水面の埋立は県知事の承認がなければ着工できない。防衛施設局の埋立承認申請に、仲井眞前知事が承認を与えた。そのために、仲井眞は民意の支持を失って知事選に敗れた。代わって辺野古新基地建設反対の民意を担って新知事となった翁長雄志が、前知事の承認には瑕疵があるとしてこれを取り消す処分をした。「この『取消処分』を取り消せ」というのが、石井の指示なのだ。
まったくなんの話し合いもしないうちのアベの宣戦布告である。結局は、敗訴のリスクが高かった訴訟を取り下げ、最も安全な訴訟1本に絞るという思惑だけでの和解受諾であったことを満天下に示すことになった。
それでも和解によって沖縄県側が得たものは小さくない。
何よりも埋立工事が中断した。これからしばらく、工事の着工はできない。翁長県政の努力の成果が目に見える形となった。これは大きい。
また、アベ政権の無理は必ずしも通らないという自信にもつながっている。閣議決定までして拳を振り上げた代執行訴訟は結局取り下げざるを得なかった。このままでは敗訴となることを恐れての和解だと国民みんなが知ることとなったみっともなさ。アベ政権の強権的コケオドシ恐るにたりず、と印象づけられた。
さらに、この性急な宣戦布告は、アベ政権の狡さと汚さ、酷薄さを国民に強く印象づけるものとなった。県民世論だけでなく、心ある国民の多くの怒りを呼び起こし、拡大し、強固にするという効果ももたらすだろう。必ずや、国民の支持は大きく沖縄に向かうことに違いない。
さて、今後である。和解の内容に従って、3月15日に沖縄県は、国交相の指示に不服として、「国地方係争処理委員会」(係争委)に審査を申し出ることになる。そして、係争委の結論がどうなっても、訴訟合戦が続くことになる。
右手の拳を振り上げて、左手で握手はできない。アベの姿勢は、到底「円満解決」に向けた協議を行おうという姿勢ではない。
翁長知事は、本日県庁で会見して、「『大変残念だ』と不快感を示した」と報じられている。抑制した談話だが、本心は「はらわたが煮えくりかえる思い」なのだろう。それでも、アベ流「ダ・マ・シ・ウ・チ」は両刃の剣だ。酷薄なアベ自身をも窮地に陥れることになるだろう。
(2016年3月7日)
東京君が代裁判4次訴訟のこれまでの法廷では、毎回原告一人と代理人弁護士一人が各意見陳述をしてきた。単に書面を提出して各裁判官に目で読んでもらうだけでなく、真摯さに溢れた生身の声や息遣いを裁判官の胸に響かせたいという思いからである。法廷での意見陳述を許すか否かは、裁判所の裁量にかかっている。これまでのところ、裁判所は原告側の申し入れを容れ、真面目に聞く耳をもっているという姿勢を示している。
原告代理人の意見陳述は、長い準備書面のエッセンスを効果的に裁判所に伝えることにある。3月4日期日の原告第7準備書面のテーマは多岐にわたるが、その冒頭に、憲法の根底にある価値多元主義についての論述がおかれている。多元的な価値観尊重の態度涵養は教育の本質とも関わる。とりわけ、国家と個人の関係についてのとらえ方は、最も憲法が関心をもつテーマとして価値観の多様性尊重が最大限に重視されなければならない。
にもかかわらず、都教委による教育の場での国旗国歌への敬意表明の強制は、この価値多元主義に真っ向から反する、という主張である。
このことを白井剣弁護士が、下記のように、裁判官に穏やかに語りかけた。説得力に富んでいると思う。これが裁判官の胸に響かぬはずはない…と思うのだが。
(2016年3月6日)
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国旗国歌は起立斉唱して敬意を表す対象であると生徒に教えることの意味について,7分間のお時間を頂戴いたします。
今から半世紀前のことです。1968年8月20日夜,チェコスロバキアの首都プラハに7000台の戦車と62万人の軍隊が進入しました。チェコ事件です。プラハの春と呼ばれた民主化の動きが一夜で制圧されてしまいました。価値観の多元性が否定されました。ソ連共産党が正しいと決めたことだけが正しいとされる社会になりました。
その2か月後の1968年10月。メキシコでオリンピックが開催されました。チェコスロバキア選手団のなかに女子体操選手ベラ・チャスラフスカがいました。64年の東京オリンピックのときには華麗な演技が評判になりました。メキシコオリンピックでは彼女は4つの金メダルと銀メダル1つをとりました。優勝するたびに「ベラ!。ペラ!」とその名を呼ぶ声が観客席から沸きあがりました。
床運動ではソ連の選手と同点優勝になりました。ふたりが並んで表彰台に立ちました。チェコスロバキア社会主義共和国とソビエト社会主義共和国連邦の2枚の国旗がならんで掲揚台に上がりました。ふたりとも国旗に向かって真っすぐに立っていました。やがてソ連の国歌が演奏されました。演奏が始まると,チャスラフスカは首を右に曲げ,国旗から顔を背けました。ソ連国歌の演奏のあいだずっと,その姿勢をとり続けました。ソ連の国旗と国歌に敬意を表することができなかったのです。演奏が終わると彼女は国旗に向き直りました。そして満面の笑顔で観衆の拍手に応えました。その姿は,衛星中継で世界中にテレビ放送されました。多くの人々に感銘を与えました。
もしもこのとき,被告と同じ主張をする人がいたら,どうだったでしょうか。
「自国のものであれ,他国のものであれ,国旗・国歌に敬意を表しないのは,周囲から批判を受ける行動である」
そんなことを言う人は,逆にその人が世界中から非難を受け,笑い者になったでしょう。この裁判で被告が主張していることはそういうことです。
被告の主張を少し読んでみます。
「もし国(くに)の象徴である国旗・国歌を尊重しないような態度をとるならば,国際社会において…他国を尊重しない国民とみられかねないのであって,…世界の人々が信頼と尊敬を寄せてくれるかは極めて疑問であろう。国際社会においては,その歴史的な沿革がいかなるものであろうとも,自国のものであれ,他国のものであれ,国旗・国歌は尊重されるべきものであるとの共通認識が存在することは周知の事実である」(答弁書121頁)
国旗はただのハタではありません。国歌はただのウタではありません。そのハタとウタの向うに,国家の存在をひとは見るのです。聴くのです。
国旗国歌が象徴する国家は抽象概念ではありません。まさに歴史の事実を,正と負の両面の遺産として背負った,具体的存在です。国旗国歌の向うに何を見て何を聞くのか,そして国旗国歌にどう向き合うのかは,ひとそれぞれです。国家にどう向き合うのかという価値観の問題だからです。
教育現場では価値多元性が大事にされなければなりません。およそ価値観をめぐる教育課題は,生徒が自ら考えて自ら選び取ることこそが肝要です。
10・23通達より以前の都立学校では,国歌斉唱の際,起立斉唱するかどうかは個人が判断すべきことであり,静かに着席しても不利益を受けることはないというアナウンスが多くの学校でおこなわれていました。これもまた価値多元性を大事にする姿勢の現れでした。
被告はこう主張しています。
「都教委は,将来,児童・生徒が,国歌斉唱をする場に臨んだとき,一人だけ,起立もしない,歌うこともしない,そして,周囲から批判を受ける,そのような結果にならないよう指導すべきと考え,国旗・国歌の指導を行ってきたのである」
立たないことが間違いであると決めつける,このやり方は「価値多元性の否定」です。10・23通達は「価値多元性の否定むを都立学校に持ち込んだのです。
論理的に考える機会を与えるのではありません。立って歌うという機械的行動と教職員の懲戒処分とをセットにして,不起立不斉唱は「周囲から批判を受ける」と教え込む。国家について生徒に考えさせるのではなく,「国家象徴に敬意を表しなければならない」というショートカットを生徒の心のなかに成立させることになります。こんなものは教育ではありません。まったくの別物です。
駒村圭吾慶應大学教授は意見書のなかでこう述べでいます。
「本来,複雑な検討や広汎な考察が必要な『国家』の問題を,教育現場のいろいろな局面で丁寧に教えていくことを誠実に施行していくこととは別に,また,生徒がそのような課題をゆっくりとしかし誠実に考察していく前に,まずは敬意の対象であることを身体に教え込むのは,思考停止あるいはショートカットを生む」
2003年10月23日以来,都立学校の多くの教職員たちが葛藤し脳み苦しんできました。長い教職員人生のなかで,懲戒処分で脅かされるの機会が毎年かならず訪れてくることの重みと辛さは,想像をはるかに超えるものがあります。処分が重いか軽いかにかかわらず,重く辛い試練です。
それでもなお起立斉唱命令には従えないという思いに教職員たちは駆られます。
それは,価値多元性こそが教育の本質的要請であると思うからです。起立斉唱しなければならないという特定の価値観を生徒たちに教え込んではならないという教職員としての職責意識があるからです。
10・23通達が出されてから12年余りが経過しました。都立学校における価値多元性の否定をいつまでも続けていいものかどうか。どうか裁判所にはあらためて慎重にお考えいただきたいのです。
そのことを申し上げて本日の代理人弁論といたします。
昨日(3月4日)、「東京君が代裁判」第4次訴訟法廷での原告陳述を紹介したい。
毎回の法廷での原告陳述が、例外なく感動的なものである。それぞれが、個性溢れる語り口で教師としての使命感を述べ、その使命感に照らして、国旗国歌(あるいは日の丸・君が代)強制がなぜ受け容れがたいかを語っている。そして処分の恫喝に抗して、煩悶しながらも信念をどう貫いてきたかが痛いほどよく分かる。すべての原告の一人ひとりに、記録に値する歴史があるのだ。
私は、その人たちの代理人の立場で、歴史に立ち会っているのだという思いを強くする。さすがに裁判官もよく耳を傾けてくれているとは思うのだが、さてどこまで胸の内に響いているのだろうか。
本日ご紹介する陳述は、典型的な、平和を願う立場から「日の丸・君が代」の強制には服しがたいとする教員のものである。固有名詞は一切省いたことをお断りする。
(2016年3月5日)
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私は理科(物理)の教員です。それまで勤めていた民間企業を辞めて、予備校の講師を経ての仕事でした。新採として赴任した学校は、勉強が苦手でやんちゃな生徒の多い工業高校、それも、特に手のかかる大変な生徒の多い高校でした。喫煙、暴力、万引き等も頻繁にありました。しかし、次第に、経済的・学力的・境遇的に恵まれていると言えない多くの生徒が、それでも一生懸命一人前の大人になるために頑張っている、そんな彼らの人生に少しでも関わり寄り添うことができ、最後は「ありがとう」とさえ言ってもらえるこの高校の教員という仕事が、なんとやりがいのある責任ある仕事であるか、日に日に理解することができるようになりました。
1991年に「湾岸戦争」が起こったとき、「教え子を再び戦場に送るな」の言葉を聞くようになりました。そして次第にその言葉が、自分の教員としての価値観の中で大きな位置を占めるようになっていきました。
幼い頃から父母に、特に海軍に行った父に戦争の話を聞かされ、その最後には必ず「おまえの時代にはこんなことがないようにしていくのだよ」と繰り返し言い聞かされていたことが、目の前の生徒に対して自分が行う教育活動と結びついていったのです。そんな私にとって「日の丸・君が代」は、若者を戦争に駆り立てたものの象徴であり、再び若者の心を偏狭な「愛国心」へと導くことのないよう注意深く見張って行かなくてはならないものなのです。
敗戦直後には、戦争を深く反省し平和憲法がつくられましたが、その後の東西対立の時代には日本の再軍備が静かに始まりました。1953年には「教育の場で『愛国心』を育てる」という意味の日米の合意もなされ、実際教育現場では、少しずつ少しずつ「日の丸」や「君が代」が入り込み、ついには強制されるようになったのです。そして2003年、ついにいわゆる「10.23通達」が出されたのです。
通達後初めての、2004年の3月の卒業式では、「君が代」斉唱時に立つか立たないかを初めて「処分」という言葉とともに突きつけられることになりました。式の前日の夕方、答辞を読むことになっている卒業生が私のところへ挨拶に訪ねてきてくれて、「先生のことも答辞に出てくるからよく聞いていてね」、と嬉しそうに帰って行きました。今までなら精一杯心から喜んであげることができたはずです。しかし、その時の私の頭の中は、この理不尽な職務命令を受け入れるのか否かでいっぱいでした。
卒業式を心から祝う気持ちになれない罪悪感の中で、それでもどうすることもできず悩んでいました。もう夜の9時は回っていましたが、やはり同じように考えあぐねいていた同僚がやってきて、しばらく話をしていきました。家に帰ってからも、「日の丸・君が代」に対して同じ考えをもつ同業の夫と、明け方近くまで話し込みました。
結局心を決めたのは式の直前でした。これからどうなるかわからない不安の中で、私は職務命令のとおりに起立することにしました。社会の急速な右傾化が危ぶまれ、教育基本法の改悪が問題になっている時でした。これで全てが終わってしまうわけではない。私が教員としてやらなければならないことは山ほどある。たとえ今回どんなに苦しくても、私は強い人間だから我慢して立つことくらいできる。立ったところでこんな通達に屈したことにはならない、と心を決めました。それでも歌の間こぼれる涙をどうすることもできずにボロボロ泣きながら立っていました。その後しばらくの間は、このときのことに触れると、発作のように涙があふれ喋れなくなる状態が続きました。自分はちっとも強くないと、初めて知りました。通達後初めて迎えた卒業式は、私にとってはそのように辛いものでした。
2006年についに教育基本法は改悪されてしまいましたが、このとき「愛国心」教育については多くの議論がありました。そんなとき、中学校教員であった竹本源治氏が1952年に発表した詩「戦死せる教え兒よ」を目にしました。ここに書かれている思いこそ、私が引き継ぎかつ次の世代にも繋げていかなければならないものである、と確信しました。
『戦死せる教え兒よ』 竹本 源治
逝いて還らぬ教え兒よ
私の手は血まみれだ!
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧 悔恨 懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらつて君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
40代の終わりの異動で、夜間定時制高校で働くことになりました。そこでの生徒を取り巻く環境は、初任校と比べても、はるかに過酷なものでした。一日1食しか食べられない生徒、よくぞここまで生きてきた、と思うような生徒もたくさんいました。担任として彼らと接していくうちに、そんな生徒一人ひとりには、社会に出てからたとえ一人でも自信を持ってやっていけるだけの基本的な力や自分で考える力を身につけさせることが何より大切であること。また、自らのために努力すれば報われる社会、戦時中のように「お国」のためではなく、それぞれが自分自身のための人生を生きることができる社会を、私たち大人が保障しなければならない、と思うようになりました。卒業までの4年間をかけて、戦争のこと、憲法のこと等、自らも学習しながら必死に生徒達に語ってきました。
こうして迎えた2013年3月の卒業式で、私は「君が代」が聞こえる中、初めて静かに座ったのです。
「『君が代』のたった40秒の我慢ができないのか」と言われることもあります。しかし、あの戦争を体験した多くの人が警鐘を鳴らしている今、文科省や都教委の異常な強制のもとで、かつて「日の丸」とともに人々を戦争に駆り立てた「君が代」を起立斉唱せよというこの職務命令が、「立って歌を歌え」という以上の意味を含んでいることは明らかだと思います。このような時代にこそ、「繰り返さぬぞ絶対に!」の誓いを忘れてはいけない。たとえそれが「40秒」であっても、「形だけ」であっても、それが戦争に向かう道であるならば、たとえそれがどんなに小さな道であっても、その道を塞いでいかなければいけないと思うのです。そうでなければ、人間の知性は何のためにあるのか。あの戦争で失った多くの命が無駄になってしまうと思うのです。思想良心の自由が謳われているこの国で、どうしてそのような心の深いところで大切にしている思いを、「40秒だから」、「形だけやればいいのだから」と、自ら踏みにじることができるでしょうか。
人の一生の中でも、10代後半から20代にかけての時は、その生がまぶしく輝いて見える時期です。そんな中にいる生徒らに寄り添い、泣き笑いをともにすることができるこの教員という職業が、私は好きです。私は大人として、彼らには、少なくとも他の誰でもない自分のために生きることのできる社会を手渡したいと思っています。人間の知性を信じ、人類が生きながらえていくべき存在であると確信するのであるならば、私たちは過去の過ちを繰り返してはなりません。「戦争法」や「経済的徴兵制」などという言葉が飛び交う現在、過去の歴史に思いを馳せ、先輩教員の言葉にならない嘆きの声に真摯に向き合うのなら、その奥に何らかの意図を感じられる職務命令に何の問題意識も持たずに従ってしまうことはできないのです。
「君を縊ったその綱の端を私も持っていた」となりたくなのです。「お互いにだまされていた」と言いたくないのです。「繰り返さぬぞ絶対に!」の気持ちを、私たちは決して忘れてはいけない、私は決して忘れたくないと思うのです。
以上、処分を受けるに至った経過と思いを述べました。裁判所の公正な御判断をお願い申し上げます。
あー、面白くない。どうしてこんなことになっちゃったんだ。総理大臣の私に、できないことが多すぎる。やっぱり、憲法がよくない。憲法を眠り込ませたヒトラーはエライ。ナチス政権が羨ましい。
ホントのことを言うと、国と沖縄県との間でどんな裁判をやっているのか、私には詳しいことはよく分からない。何度も説明は受けたけれど、複雑で覚えきれない。分かっているのは、「世界一危険な普天間飛行場」をなくすには、辺野古に新しい基地を作って、米軍に移ってもらうしか方法がない、ということ。辺野古新基地建設の埋立工事を続行するための代執行訴訟だくらいは私も分かっている。この訴訟は、こちらが原告となって仕掛けた訴訟だ。それを、判決はあきらめて、和解に応じなければならないなんて、屈辱じゃないか。
「和解を受諾せざるをえない」と言われたときには、私も驚いた。でも、指定代理人になっている専門家が、「判決をもらえば敗訴の公算が高い」と言うんだから、仕方がない。「補充性」というらしいが、他にとりうる手段がないときに限り、代執行訴訟が可能なんだそうだ。その補充性の立証が難しいということのようだ。この訴訟提起の前に、国交大臣の執行停止命令があって、知事の埋立承認取り消しへの対処はできている。現実に工事は続行できているのだから、補充性の要件に欠けるというややこしいことらしい。専門家なら、初めからそんなことくらい分かっていたはずだと思うんだがしょうがない。敗訴のみっともなさよりは、作り笑いで和解に応じた方が、浅い傷で済む。
でも、和解の内容を説明されると、なるほど一方的な譲歩という話しだけでもなさそうだ。負けそうな判決を避けて、あとで反撃に転じることも可能なのだから、これも悪知恵のうちかも知れない。
和解は次のような骨子だ。
▽国は代執行訴訟を取り下げる。沖縄県知事は、国地方係争処理委員会に申し出た審査請求が却下されたことを不服として起こした訴訟を取り下げる。
▽防衛省沖縄防衛局長は、沖縄県知事による埋め立て承認取り消しに関する国土交通相への審査請求と執行停止申し立てを取り下げ、埋め立て工事を直ちに中止する。
▽国は知事に対し、埋め立て承認取り消しについて地方自治法に基づき是正を指示する。知事は不服があれば、指示があった日から1週間以内に国地方係争処理委員会へ審査を申し出る。
▽委員会が是正指示を違法でないと判断し知事に不服がある場合や、違法と判断し国が勧告に応じた措置をとらない場合、知事は是正指示の取り消し訴訟を提起する。
▽国と知事は、是正指示の取り消し訴訟の判決が確定するまで、普天間飛行場の返還と辺野古の埋め立てについて円満解決に向けた協議を行う。確定した判決に従い、互いに協力して誠実に対応することを確約する。
けっして、協議を先行する内容ではない。協議の進展に関わりなくいつでも「埋め立て承認取り消しの是正指示」ができることがミソなのだ。結局は、現在3本ある裁判を、是正指示取消の裁判に一本化して、これで決着をつけようということなんだ。その裁判での決着がつくまでの間に、「普天間飛行場の返還と辺野古の埋め立てについて円満解決に向けた協議を行う」ことになる。
この問題で、国が方針を変更することはあり得ないのだから、円満解決のためには沖縄県が譲るしかない。明日にでも是正の指示を出すことができるわけだが、ここは駆け引きだ。いつ出すのが得策かよく考えてみよう。指示が遅れれば、裁判での解決も遅れ、それまで埋立工事がストップするのは面白くないが、ここは選挙対策の意味もある。寛大なアベの顔を見せることも無駄ではない。
担当者の起案のとおりに、記者会見ではこう言った。
「本日、国として、裁判所の和解勧告を受けて、沖縄県と和解する決断をしました。20年来の懸案である普天間飛行場の全面返還のためには、辺野古への移設が唯一の選択肢であるとの国の考え方に何ら変わりはありません。しかし、現状のように、国と沖縄県双方が延々と訴訟合戦を繰り広げているこの状況のままではこう着状態となり、家や学校に囲まれ市街地の真ん中にある普天間飛行場をはじめ、沖縄の現状がこれからも何年も固定化されることになりかねません。これは誰も望んでいない、そうした裁判所の意向に沿って和解を決断すべきと考えました。」
この取り繕った理由、自分でも白々しいと思う。そんなこと、裁判を起こす前から分かりきっていた。これまでは、裁判所の和解案を無視し続けてきた。ここで突然折れた理由にはならない。誰の目にも、「よく考えたら、敗訴の可能性が高い」「それなら、不本意だけど和解の方がマシ」という判断が見え見えだ。
それでも、ゴリ押しの印象は選挙によくない。沖縄県議選が5月27日告示、6月5日投票日に決まっている。直後に、参院選も控えている。それまでは、マイルドにいかなくちゃならない。敗訴のリスクはどうしても避けなくてはならない。辺野古の工事は、機動隊に守られて続行というイメージが定着して甚だよろしくない。だから、一旦停止だ。リセットだ。再度の強行は、選挙のあとにしよう。
もちろん、すんなりと方針が決まったわけじゃない。断乎として埋立工事は続行したいところだ。そのために起こした裁判を取り下げて工事も中止じゃあ、国としての面子が立たない。案外弱いんだなと侮られることも避けたい。工事を阻止しようと現地に集まる人たちに、バンザイなんて言わせたくはない。でも、敗訴判決をもらうことを思い比べれば、我慢ができるし、我慢をしなければならない。
じっと耐えて選挙が終わったら、そのときこそが、本格的なアベ晋三の底力。遠慮のないゴリ押しを始めよう。そして今度は、途中で「敗訴の可能性が高い」などということのない訴訟の準備を指示しなくちゃ。
それにしても、仲井眞さんは名知事だった。常識的な考え方で、分かり易かった。共通の土俵の人だった。「県民世論がなかなかウンとは言いませんぞ」などといいつつ、上手な条件闘争を積み重ね、取るだけのものを取ったうえで折れあった。さすがに、経済人だけのことはある。ところが、翁長知事ときたらどうだ。どうしてあんなに、強情で折れ合おうとしないのか。私には理解しかねる。この人相手では、そして私が総理でいる限り、やはり、裁判でしか問題は解決しそうにない。そうなれば、裁判官はきっと国の立場をよく分かってくれるはずだ。
(2016年3月4日)
昨日(3月2日)の「首相の改憲意欲発言」が各紙に大きく報道されている。参院予算委員会での答弁に際してのもの。安倍が何を口にしたかもさることながら、「安倍首相『改憲、在任中に』」と各紙が揃って報じたことが、実は大きなニュースとしてインパクトのあることなのだ。
たとえば朝日。「18年9月までを念頭」として、「安倍晋三首相は2日の参院予算委員会で、憲法改正について『私の在任中に成し遂げたいと考えている』と述べ、強い意欲を示した。夏の参院選で改憲勢力が3分の2を確保し、2018年9月までの自民党総裁任期を念頭に国会発議と国民投票による実現をめざす考えを示したものだ。」
たとえば毎日新聞。「『在任中改憲』首相表明」「参院選争点化確実」「衆院と同日選も視野」と見出しを打った。これだけで、政局へのインパクトは大きい。
もちろん、各紙とも「首相は同時に『我が党だけで(発議に必要な)3分の2を(衆参で)それぞれ獲得することは不可能に近い。与党、さらに他の党の協力もいただかなければ難しい』とも語り、改憲に向けたハードルが高いとの認識も示した。」との報道もしている。が、こちらは飽くまで付け足しでしかない。刺身のつまほどの存在感もない。改憲のスケジュールについて、「在任中」すなわち、「2018年9月まで」と期限を切ったことが、重要なのだ。
毎日は、年頭以来の安倍改憲発言を次のようにまとめている。
1月4日 「憲法改正はこれまで同様、参院選でしっかり訴えていく。訴えを通じて国民的な議論を深めていきたい」(年頭記者会見)
1月10日 「与党だけで(致憲発議に必要な衆参各院の)3分の2は難しい。おおさか維新もそうだが改憲に前向きな党もある。改憲を考えている責任感の強い人たちと3分の2を構成していきたい」(NHK番組、収録は9日)
1月21日 「いよいよ、どの条項を改正すべきかという現実的な段階に移ってきた。新しい時代にふさわしい憲法のあり方について、国民的な議論、理解が深まるよう努めたい」(参院決算委員会)
3月1日「(自民党の憲法改正)草案には自衛隊を国防軍と位置付ける記述がある。私は自民党総裁だ。草案と私が違うことはあり得ない」(衆院予算委員会)
3月2日「自民党だけではなく、他党の協力もなければ(衆参での3分の2の獲得は)難しい。私も在任中に成し遂げたいと考えているが、そういう状況がなければ不可能だろう」(参院予算委員会)
アベ発言をこう並べてみると、なるほど、彼の改憲への執念の緊迫度を感じざるをえない。やる気満々なのである。
とはいえ、必ずしも成算あってのものとは考えにくい。今、あらゆる世論調査が、「改憲ノー」の回答を示しているではないか。「任期中改憲」の発言は、安倍晋三の焦りの表れと言わざるを得ない。
しかし、焦りであろうと、成算なかろうと、無鉄砲アベは、猪突猛進する可能性が高い。7月参院選は重い闘いとなる。これからは、衆参両院の憲法審査会が議論の舞台となる。ここから目が離せなくない。
衆議院憲法審査会
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/index.htm
参議院憲法審査会
http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/
明文改憲阻止の闘いがもう始まっている。その緒戦の参院選では、自民と公明、そしておおさか維新を加えた改憲勢力に議席を与えてはならない。選挙の結果が憲法の命運を決める。憲法の命運は国民の生存と平和に関わる。
なお、アベ政権が狙う最初の改憲項目は、緊急事態条項からと言われている。緊急事態条項を憲法に新設しようという改憲勢力のたくらみを、深く学ぼう。この分野であれば水島朝穂さん。本日(3月3日)の赤旗に水島さんのレクチャーが出ている。読み応え十分だ。そして下記の本格的なブログの記事も。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0125.html
これを学んで自分のものとし、周囲に訴えようではないか。
(2016年3月3日)
一昨日(2月29日)の毎日新聞夕刊。特集ワイドが、「『バナナの逆襲』フレドリック・ゲルテン監督に聞く」を掲載した。全面に近いスペースを割いた、文字どおりの「ワイドな特集」。
http://mainichi.jp/articles/20160229/dde/012/200/005000c
「農民VS米大企業、映画にしたら訴えられた」「衰える『表現の自由』」というストレートな大きな見出しが小気味よい。 記者の力量もあって、表現の自由への圧力とジャーナリズムのあり方についての問題提起として、読み応え十分である。ただ、残念ながら、「スラップ訴訟」という言葉が出て来ない。
この特集での映画の紹介は以下のとおり。
「ニカラグアのバナナ農園で働く労働者12人が、米国では使用禁止の農薬の影響で不妊症になった可能性があるとして、米国の食品大手ドール・フード・カンパニーを相手取り損害賠償を求める裁判を起こす。ゲルテンさん(スウェーデン人)は、その裁判を追ったドキュメンタリー映画を製作。これが第2話(2009年、87分)だ。」
「映画は09年、ロサンゼルス映画祭に出品される予定だったが、ドール社は主催者に上映中止を要求。ゲルテンさんを名誉毀損(きそん)で訴える。監督自身が上映に向け孤軍奮闘する姿を描いたのが第1話(11年、87分)だ。」
私が注目したのは、以下の点だ。
米メディアの多くはゲルテンさんに厳しく、非難の矢面に立たされる。「メディアの大半はドール社やそのPR会社に取材し、『貧しいキューバ人移民の悪徳弁護士がバナナ農民を原告に立て、米企業を脅迫している』『世間知らずのスウェーデン人が弁護士を英雄に仕立て上げた』といった物語として報じました。作品を見てもらえず、うそつき呼ばわりされ、かなりのストレスを感じました」
「米国の報道陣には、大多数とは違う視点で物事を報じるエネルギーや好奇心が薄いという印象を受けました」とも。
ゲルテンは、アフリカや中米で記者活動の経験をもつ。その経験から、ジャーナリストの一般的な習性を「事件でも問題でも一つの現象を描く場合、人と、特に大多数とは違う角度から描くことに熱意と努力を発揮する」と見ているという。それだけに、企業に配慮したかのような米メディアの報道姿勢を意外に感じたというのだ。この指摘は、示唆に富むものではないか。
その理由について、ゲルテンの語るところはこうだ。
「米国は一種の『恐怖社会』じゃないかなという印象を持ちました。例えばスウェーデン人の私は、失職しても子供の教育費も家族の医療費も無料ですから、すぐには困らない。でも民間頼りの米国では、そうはいかないんです」
さらに、こうも言う。
「米国企業の場合、自社の信用を落とすような報道に対しては、イメージ戦略として、とりあえず訴えを起こす傾向がありますが、記者たちはそれを恐れているように思います。大企業に訴えられた新聞社が、末端の記者を解雇して訴訟を免れる例が過去に何例もあるのです。少人数の調査で、ようやく貴重な事実を発掘しても、十分な訴訟費用のないメディアだと記者たちを最後まで守りきろうとしないこともあります」
彼は、「映画は裁判を描いただけなのに、それが上映されないのはおかしいと私は言い続けた。つまり当たり前のことをしたわけです」という。ところが、「私の知る少なからぬ米国人には、一人で抵抗することがよほどすごいことのように思えたようです。それだけ当局や大企業からの圧力が浸透しているということではないでしょうか」
ゲルテンは「ジャーナリストが年々弱くなってきている」と慨嘆し、こう締めくくっている。
「ネットの浸透、紙メディアの衰退で、ジャーナリストは常に失職を恐れています。でも不安や恐れにばかりとらわれていては、良い仕事はできません。独立した、自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育ちません。政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流されることになってしまいます。本当の話には必ず批判があります。後に賞を受けたような報道は必ず、その渦中では反論を浴び、圧力や批判を受ける。だからこそ、ひるんではならないのです」
すばらしい言ではないか。本当にそのとおりだ。「自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育たない」のだ。だが、ジャーナリストといえども、衣食足りてこそ自由に物を書けるのだ。失職の恐れ、社会保障のない社会に放り出されることの恐れが、結局はジャーナリズムを「政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流される」ことにしてしまう。ジャーリスト個人の資質だけの問題ではなく、社会のあり方がジャーナリズムの質を規定しているのだ。
ゲルテンは、スウェーデンと米国を比較して、明らかに米国のジャーナリズムはおかしくなっていることに警告を発している。では、日本はどうだ。「社会のあり方がジャーナリズムの質を規定している」とすれば、米日は大同小異。しかも、伝統浅い日本のジャーナリズムは、米国よりもはるかに権力や企業の圧力に弱い。
権力の意向を忖度し、萎縮して「無難な話だけが流される」状態は既に定着している。それであればこそ、停波処分をチラつかせた権力の威嚇効果はてきめんなのだ。さすれば、DHCや吉田嘉明相手程度でも、恐れることなく私が批判を続けることの意義はあろうというもの。けっして「ひるんではならない」し、「ひるむ必要」もないのだから。
『バナナの逆襲』は、東京・渋谷のユーロスペース(配給・きろくびと)で上映中。3月18日までの予定。問い合わせはユーロスペース(03・3461・0211)へ。
3/05(土)15:00回後に、小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)らのトークを予定。
渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開。
http://cinemarine.co.jp/counterattack-of-bananas/
さらに、続いて下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ
(2016年3月2日)
本日の朝日川柳欄に
己こそ党名変えよ自由民主(西崎敦子)
なくてもがなの選者のコメントが「看板倒れ」。党名という看板と党の実態との大きなギャップが、川柳子の嘲笑の種になるのだ。
もっとも、「自由民主党」の党名は、「自由党」と「民主党」が合党したことによる安直なネーミング。「三菱東京UFJ銀行」だの「三井住友海上あいおい生命保険株式会社」などというノリなのだ。既に事実上は、「自由民主公明おおさか維新党」が結成されているとみて間違いがない。
民主党の党名変更の是非と、変更あった場合の新党名が話題となっている。
個人の命名は、「最短形式の詩」である。生まれいずる者への祝意と期待が、短い詩となって生涯その命を表すことになる。子をなした者が、いつくしみを込めた名を考えればよい。個人の命名に他人が介入する余地はない。命名される本人さえ、何も言わないし言えない。
政党名の命名はなかなかに難しい。党名自体が、政党に結集する多くの人々を統合する役割を担うことになるからだ。また、政党は多くの有権者に政策を発表して支持を得、票を獲得しなければならない。そのとき、党名の果たす役割はけっして小さくない。
最もオーソドックスには、その政党が実現を目指す社会や政治手法の理念を党名にすることだ。名は体を表すという常識に沿ったネーミング。これが王道である。
社会主義党・共産主義党・資本主義党・社会民主主義党・民主社会主義党・民主主義党・立憲主義党・平和党・自由党・平等党・友愛党・民生増進党・国民福利党・女性の権利党・子どもの福祉党・国家主義党・軍事大国化党・軍事緊張煽動党・経済的強者の自由を目指す党・経済格差拡大党・政党「大阪だけの繁栄を約束しまっせ」・アメリカ従属党・51番目の州を目指す党・大アジア主義党・政策は風向き次第票を頂戴党・株価上昇党・天皇親政党・復古党・祭政一致党・日本民族優越党・王仏冥合党…。
支持者・支持層をそのまま党名にしてもよい。
労働者党・勤労者党・政党「中小企業の権利のために」・貧困者党・農民党・漁業党・消費者党・青年党・女性党・奥羽越列藩同盟後継者党・賊軍末裔党・東北人の党・王党・金持ち党・右翼人脈党…。
政党のイメージをウリにした党名
清新党・親切党・誠実党・真理党・献身党・実行党・言行一致党・断固党・ぶれない党・政党みどり・青空党・元気いっぱい党・ゆるゆる党・新党・新新党・フレッシュ党・チェンジ党…。
特定の事件を想起させる党名
8月15日党・12月8日党・6月15日党・9月19日党・3月11日党・6日9日15日党・2月11日党…。
アメリカでは、共和党が、「移民拒絶党」か「世界のカネをアメリカに!党」に党名を変更しそうな勢い。民主党は、「格差解消党」か「格差容認党」か。
さて、政権与党「自由民主党」の党名問題である。「自由」と「民主」。
「自由」とは多義である。本来の「自由主義」は、国家権力の制約からの自由を意味する。フランス革命の理念とされた自由・平等・友愛の「自由」がまさしく王権からの自由であり、自由民権運動の「自由」も藩閥権力からの自由であった。
当時、「自由」は市民の権利とされた。市民とは新興ブルジョワジーを中心とするもので、彼らが市民革命の推進者となった。いま、新興ブルジョワジーの中の一部が、巨大企業となって様相が大きく変わっている。企業活動の自由は、多くの人の犠牲をもたらすのだ。これには、民主主義を武器にして、企業活動に厳重な規制をかけなければならない。
一握りの大企業とそれ以外の広範な国民との利害が鋭く対立するとき、「自由」の内実が問われる。自民党の看板の「自由」は何を表しているのか。大企業の「自由」擁護とは、労働者の搾取と収奪の自由のことであり、消費者の権利を蹂躙する自由にほかならない。いったい自民党とは誰の味方なのか。
たまたま今日の新幹線車内で開いた週刊朝日のトップの記事が「農協の逆襲」だった。「逆襲」とは、安倍政権に対する逆襲の意である。これまで、自民党に操られ虐げられてきた農協が、ついに自民党に叛旗を翻し、逆襲に転じたというのだ。痛快きわまる事態ではないか。
要因はいろいろあるが、要は自由民主党の「自由」が、大企業の横暴の自由で、農民を犠牲にする自由だということなのだ。農協こそは、長く自民党最大の大票田だった。特に、地方に強い自民党を支える屋台骨だったはず。
ところが、同誌が独自にした全国の農協組合長に対するアンケート調査(但し、悉皆調査ではない)では、「各地の組合長が本誌に激白『選挙で与党は推薦しない』」という。まさしく「安倍政権に対する農協の逆襲」の実態なのだ。
安倍政権の農政改革について
支持する 3.6%
支持しない 74.5%
どちらでもない 21.8%
今夏の参院選で与党候補を推薦するか
推薦する 37.7%
推薦しない 13.2%
決まっていない49.1%
自由記入のアンケート回答もなかなかのもの。
「自民党議員を減らさないといけない。驕ってもらっては困る。」
「組合員の与党への不信感が強い。県単位では自民党候補を推薦すると思うが、地域農協が推薦することはない」
「県としても応援しないと会長が明言している」
「自民党の政治家は官邸のいうとおり。日本国の展望や未来に対する政治家の信条は、地に落ちたように感じる」
「自民党議員には入れたくないが、個人的関係で推さざるをえない」
「農家の思いや情報が伝わっていない」
「他に頼れる政党がない。仕方がない」
これが、農協組合長の意見なのだ。かつては考えられなかったこと。事態急変の最大の理由は、「TPPは平成の売国」という見出しのフレーズが物語っている。さらに、必ずや石原伸晃担当相が「農協の逆襲」の火に油を注ぐ役割を果たしてくれるだろう。
要は、自由民主党の「自由」は、製造・流通・通信・金融の大企業の自由であり、社会的規制を取っ払った、儲けの自由である。その自由の確保のために、農業も漁業も酪農も犠牲にされようとしている。そのことが、「農協の安倍自民党への逆襲」の原因なのだ。おそらく、「逆襲」は農協だけでなく、これからあちこちで起きてくるだろう。安倍自民党が、現今の不幸な日本の総元締めであることが、今分かりつつあるからだ。
では、「党名変えよ自由民主」に応えて、安倍自民党が、正確に党名を変えたらどうなるだろうか。
理念のうえからは、
市場原理主義党・大企業の利益本位党・規制緩和推進党・規制撤廃主義党・平成の売国党・格差貧困容認党・地方切捨党・沖縄蹂躙党・歴史修正主義党・ビリケン(非立憲)党・大日本帝国体制復古党・戦後民主主義否定党・メディアの自由抑制党・原発推進党…。
支持勢力からは
大企業党・アメリカ追随党・極右党・靖國党・神社党・軍需産業党・右翼人脈結集党…。
イメージからは
国防色党・茶色党・オスプレイ党・日の丸君が代党・頑迷固陋党・非知性党・感じ悪いよねー党・停波党・口利きあっせん党・失言妄言党…。
自民党にふさわしい特定の事件を想起させる党名といえば、
4月27日党(自民党改憲草案発表記念日)
7月1日党(集団的自衛権行使容認閣議決定記念日)
9月18日党(戦争法強行成立記念日)
そして、「コントロールとブロック党」であろうか。
(2016年3月1日)
毎日新聞に、評論家若松栄輔の連続対談企画がある。「理想のかたち」という標題。
その第11回がゲストとして作家吉村萬壱を招いて「先進国でのテロ事件」を論じている。一昨日(2月27日)の朝刊。
リードは、「きれいごとでは済まない人間の姿を描いてきた吉村さん。昨年11月のパリのテロ事件を受けて、時代に抗する言葉はどう生まれるか、単なる反戦ではない「非戦」の意義などを話し合った」というもの。これなら読みたくなる。
吉村は、「『きれいな言葉』ってありますやんか。「愛」とか「平和」とか「祖国」とか。こういう言葉が流布するときは危ない。僕はきれいな言葉が、どうも好きになれない。小説ではそれを骨抜きにする作業をしています。」という。
これに、特に文句を言う筋合いはない。
若松「大事にしたいのは、反戦と非戦の違いです。目の前の戦争に反対して、その戦争を止めるまでが反戦。非戦は、戦うこと自体を徹底してなくそうと考える。反○○で解決はない。こちらが善で、こちらが悪の……。」
吉村「二項対立では解けない。犯罪者がなぜ犯罪を犯すのか。理由をさかのぼれば無限に遡行できる。刑法はそこに線を引いて直接の個人に罪を負わす。」
若松「限りなく不可能でも、敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれないでしょう。」
ここまでは、結構。若松の『敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれない』には共感する。ところが、次がおかしい。
吉村「インターネットでは、ISや中国や原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪して自分を善だと錯覚したい人ばかり目立ちます。でも、『自分は正しい』と思っている人が、自分は『悪人』だと自覚している人よりも善人だとは必ずしも言えない。」
なんだ。そりゃ。いったい。
吉村萬壱は「原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪して自分を善だと錯覚したい人ばかりが目立つ」ことを嘆いているのだ。これが、「敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれない」の文脈と同義として語られるから混乱せざるを得ない。
これが、「時代に抗する言葉」だというのか。二項対立では解けない問題提起だというのか。これが、時代に切り込む姿勢だというのか。それが文学だともてはやされるなら、私たちの社会の前途は暗い。
もっとも、この手の発言は、昔から掃いて捨てるほどある。リベラルな発言をしておいて、そのあとに「私はけっして反体制ではありません」「危険思想をもってはいませんよ」と毒消しの発言をしておくあの手だ。「だから安心して私を使ってください」というアピールにしか聞こえない。二項対立の一方に立つ姿勢を示すなんぞ、ダサイ。愚か。いや損ではないかという態度。そういう手合いの一群。立派な日和見主義ぶりではないか。保身は、よぼよぼの老人になってからでも遅くない。
原発も安倍晋三も橋下徹をも「悪と決めつけてはならない」とは、この世のすべてを相対化すること。理想を揶揄し、権力に対する批判を嘲笑し、よりよい社会を作ろうと努力する人たちへの、冷ややかな醒めた視線。
毎日新聞も、貴重な紙面を割いてつまらない対談記事を載せたものだ。
もっともっと、熱くなって原発批判をしよう。安倍晋三批判もやろう。橋下徹批判も徹底しよう。そのエネルギーでしか、社会や歴史を変えることができない。
(2016年2月29日)
私は、「論語」をたいしたものとは思わない。所詮は底の浅い処世術としか理解できないと公言して、顰蹙を買うことがしばしばである。しかし、警句として面白いとは思う。どうにでも自分流に解釈して便利に使えばよいのだ。多分、使い手によっては、切れ味が出てくるのだろう。アベ政治への批判についても使える。
よく知られている顔淵編の次の一節。
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。
子貢、まつりごとを問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民これを信ず。
子貢曰く、必らず已むを得えずして去らば、この三者において何をか先にせん。
曰く、兵を去らん。
子貢曰く、必らず已むを得ずして去らば、この二者において何をか先にせん。
曰く、食を去らん。いにしえより皆死あり、民、信無くんば立たず。
私なりに訳せば、以下のとおり。
子貢が孔子に政治の要諦を尋ねた。
「経済を充実させ、軍備を怠らず、民意の支持を得ることだね」
「その三つとも全部はできないとすれば、まずどれを犠牲にしますか」
「そりゃ、軍備だね」
「残りの二つも両立は無理だとすれば、どちらを犠牲にすべきでしょうか」
「経済だよ。民生の疲弊はやむを得ないが、民衆の信頼がなければそもそも政治というものが成り立たないのだから」
孔子は、政治の要諦として、「食(経済)」・「兵(軍備)」・「民の信」の3者を挙げた。おそらくは、きわめて常識的な考え。しかし、面白いのは、重要性の順序が必ずしも、常識のとおりではないこと。政治の中心的課題を「民のため」の政治というにとどまらず、「民からの信頼」と考えている。もちろん民主主義ではない。しかし、読み方次第では、その思想的萌芽を感じさせる一文ではないか。
アベ政権は、平和主義を放擲して戦争法までつくり、近隣諸国の危険性を鼓吹して国民の不安を煽り、軍事予算を増額するというのだから「兵(軍備)」の充実にだけはご執心だ。
しかし、既に「食(経済)」を足らしむことにおいて失敗している。アベノミクスがアホノミクスであることについては、誰の目にも明らかになりつつある。経済を投機化したことによって、実体経済は停滞し、格差貧困は拡大し、株価の維持まで危うくなっている。
さらに、最大の問題は「民の信」である。アベ政権が、そして政権与党が、国民の信に耐え得るか。安倍自身もこの点は、気にしているようだ。過日不倫騒動で辞任した宮崎議員について問われた際に、「信なくば立たず」と口にしている。宮崎の辞任の弁にも「信なくば立たず」があった。宮崎がやめることで「信が立った」か。とんでもない事態である。閣僚の妄言はあとを絶たない。これは民主主義の問題であり、立憲主義の問題でもある。
要するに、「兵」だけが突出して、「食」も「信」も、アベ政権にはない。孔子の教えに逆行しているのだ。そこに、直接に民意を問う国政選挙が迫ってきている。アベ政権を総体としてとらえ、分析し、迫った参議院選挙の投票行動の意義を見定めなければならない。こんな事態で、明文改憲を許す議席をアベ政権に与えてはならない。
私も編集委員の一人となっている「法と民主主義」は、4月号を、アベ政権の総体を問う特集とする。
特集の編集責任者は、清水雅彦さん(日本体育大学教授・憲法学)。以下のラインナップで、すべての執筆者のご承諾をえた。発売は、4月20日頃となる予定。是非、ご期待いただき、憲法の命運に関わる大切な選挙にご活用をお願いしたい。
もし孔子が世にあれば、必ずやこれを薦める内容になるはず。そしてこう呟くことになる。
子曰く、必らず已むを得えずして、アベ政権を去らん。
*******************************************************************
2016年『法と民主主義』4月号(№507)
特集●アベ政権を問う〈仮題〉
■企画の趣旨
今号は、4月号ながら、憲法記念日近くに発行される予定です。この間の安倍政権による憲法破壊を批判的に検討し、憲法理念の実現に向けた理論提供を行う憲法特集号として位置づけております。ただし、憲法の個別テーマを扱った論文が各号に掲載されていることを受けて、今号では、これまであまり触れていないテーマをとりあげております。安倍政権の総体を問う特集になることを期待し、企画いたしました。
■特集企画の構成執筆予定者(敬称・略)
◆特集にあたって(特集リード) 清水雅彦(編集委員)
◆安倍政権下の憲法情勢森英樹(名古屋大学名誉教授・憲法学) 2015年国会で戦争法の制定を強行するなど、この間のconstitutional change を進めてきた安倍政権が、いよいよconstitutionのchangeの必要性を堂々と何度も主張するようになった。このような安倍政権下で進む憲法情勢について検討していただく。
◆アベ改憲論を問う──緊急事態条項論の検討 植松健一(立命館大学法学部教授・憲法学)
参院選で与党3分の2以上の議席確保を狙い、場合によっては衆参同日選挙もありうる中で、安倍政権が主張している緊急事態条項論や改憲論について、これまでの憲法学における国家緊急権論やドイツなど外国との比較から検討していただく。
◆アベの政治手法を問う──安倍政治の検討 西川伸一(明治大学政治経済学部教授・政治学)
従来の自民党政治には見られなかった強権的で異論を認めず、極右色の強い安倍政治の内容・特徴や、メディアへの圧力、極端な内閣法制局人事等への介入など、その独特の「お友だち」の活用と批判派の排除といった政治手法について検討していただく。
◆選挙を問う?衆参同日選挙、小選挙区制度などの検討 小松浩(立命館大学法学部教授・憲法学)
場合によってはありうる衆参同日選挙の問題点や、衆議院の小選挙区制度の問題点について、この間の定数是正違憲訴訟やご専門のイギリス(可能であれば、他国も)との比較に触れつつ、検討していただく。
◆若者の政治参加を問う? 18 歳選挙権と政治教育などの検討 安達三子男(全国民主主義教育研究会事務局長)
今後の18歳選挙権の実施と文部科学省による高校生の政治活動についての新通知などについて、『18歳からの選挙Q&A』(同時代社)の執筆者の立場から、文部科学省や教育委員会の問題点などについて検討していただく。
◆『一億総活躍社会』を問う?社会福祉・医療政策の検討 伊藤周平(鹿児島大学法科大学院教授・社会保障法)
安倍政権が打ち出した「一億総活躍社会」論によって、国民の生活と権利はどうなるのか、この間、急激に進む医療介護保険「改革」や「子育て支援新制度」などの社会保障、医療制度改革の動向とあわせて検討していただく。
◆市民は問う─その1 菱山南帆子
◆市民は問う─その2 武井由起子(弁護士)
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(2016年2月28日)