またまた、「またも負けたか都教委よ」である。
本日(3月24日)午後、東京高裁第4民事部(綿引万里子裁判長)は、都立高校教員の懲戒免職処分取消請求控訴事件において、東京都教育委員会の控訴を棄却する判決を言い渡した。しかし、都教委敗訴は、もはやニュースにならない。負けつづけているからだ。都教委が勝訴したら、それ自体が大きなニュースという時代なのだ。
この件は、都教委が当該教員に非違行為があったとして懲戒免職処分としたことに対して、教員が処分の取り消しを求めて提訴したもの。2015年10月26日一審判決があって都教委が敗訴し、これを不服として控訴をした都教委の再びの敗訴である。
担当の加藤文也弁護士からの報告は、「判決の事実認定も判断も、現場で生徒のためにがんばっている教員を励ます内容となっています。」というものだった。
都教委はこの件では判決で2度負けているだけではない。原告は懲戒免職処分の取消請求訴訟を提起しただけでなく、処分の執行停止(民事の仮処分に相当する)を申立て、一審・二審の両裁判所とも、この執行停止申立を認める決定を出している。都教委は、都合4件の敗訴「判決・決定」を受けたわけだ。
敗訴続きの都教委は、きっぱりと上告受理申立などやめるがよい。「違法」な免職処分を行ったことを真摯に謝罪して現職復帰を認めるべきである。その上で、どうして裁判所から違法と断罪される処分を発令してしまったのか、責任の所在を明らかにしたうえ、同じ過ちを繰り返さぬよう適切な措置をとらねばならない。
?2013年12月 東京地裁判決。再発防止研修未受講事件(原告Fさん・都立高校)で減給6月の処分取消。控訴なく確定。
?2014年10月 東京高裁判決。都立高教員の再任用更新拒否損害賠償請求を認容。都教委上告せず確定。
?2014年12月 東京高裁判決。都立高教員条件付き採用免職事件で勝訴。都教委上告せず確定。
?2015年 1月 東京地裁。都立高教員免職処分執行停止申立を認容決定。
?2015年 5月 東京地裁判決。再雇用拒否撤回二次訴訟(原告22名)原告勝訴。都側が控訴し高裁でも敗訴(下記?)。
?2015年 5月 東京高裁判決。河原井さん根津さん停職処分取消訴訟で逆転勝訴。都側が上告。
?2015年10月 東京地裁判決。岸田さんの停職処分・人事委修正裁決取消訴訟で原告勝訴。都教委が控訴し高裁で係争中。
?2015年10月 東京地裁判決 都立高校教員Oさん免職処分取消。都教委が控訴。
?2015年12月 東京高裁判決。東京「君が代」裁判三次訴訟。都教委敗訴(5名の減給・停職処分取消)について上告を断念。
?2015年12月 東京高裁再雇用拒否撤回二次訴訟判決 原告勝訴。都教委が上告受理申立。
?2016年 1月 東京高裁、都立高校教員Oさん免職事件執行停止決定。
?2016年 3月 都立高校教員Oさん免職事件控訴棄却 東京高裁判決。
これで、都教委は、自らが処分者として関わった教育裁判で12連敗!である。その内、7件が「日の丸・君が代」強制関係。その他が5件。その他の5件も、明らかに都教委の強権体質を表すものである。
これだけ多くの裁判を抱えるに至ったことだけでも都教委は恥とし反省しなければらない。さらに、12連敗とは、滅多にできる芸当ではない。前人未踏の金字塔というべきであろう。この不名誉な責任は、6名の教育委員にある。
「自分は職員の起案を了承しただけ」などという弁明はできない。そんな能なし委員は即刻退任してもらわねばならない。 教育委員にこそ、再研修が必要だ。
教育委員とは何者であるか。あるいは、あるべきか。地教行法第4条は、その資格要件をこう定めている。
4条1項「教育長は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育行政に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」
4条2項「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」
法が想定する教育委員(長)像は、「人格が高潔で、教育行政に関し識見を有する」教育長と、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」その他の教育委員である。12連敗の教育委員諸君。諸君は、自分の責任をどう自覚しているか。
本日は、東京「君が代」裁判の弁護団会議。原告を交えた雑談の中で乙武洋匡元教育委員の不倫不祥事が話題となった。いま、暴かれているこの人物の行状。この人が、ごく最近まで東京都教育委員の一人として、多忙な不倫生活の合間に、片手間仕事の教育委員としての務めに従事していたのだ。到底「人格が高潔」でもなく、「教育、学術及び文化に関し識見を有する」とも言えない。これでも、委員が「務まった」のだ。
処分を受けた教員のひとりが、「こんな人物に処分されていたんだね」と呟いた。私には、痛々しく聞こえた。本気で教育に取り組んでいる現場の教員にとっては、なんとも情けない思いなのだ。
次は、4月18日に都教委が被告となっている再雇用拒否撤回三次訴訟(東京地裁民事第11部)の判決が控えている。おそらくは、これが都教委13連敗の日となる。
裁判所に、「違法」「違法」と言われ続けているのだ。これだけ敗訴を重ねて、その体質を改善しようとしないのか。舛添知事よ。オリンピックにかまけていないで、なんとかしなければならない事態だと自覚していただきたい。
(2016年3月24日)
私は、天皇制不要論者である。憲法から、第一章「天皇」を削除すべきだと思ってはいる。しかし、いま天皇制打倒が喫緊の課題とは思わない。むしろ、天皇制については、現行憲法の基本的な理念である国民主権や平和主義の実現に障害とならぬよう運用し、国民の総意によって廃止に至ることが望ましいと思う。
そのような、「できるだけ現行憲法の理念実現に支障のない天皇制のあり方」として、性差別のない皇位継承があってもよいのではないだろうか。
憲法に天皇は男性に限ると書いてあるわけではない。皇位継承のルールは、「国会の議決した皇室典範」が定めることになっている。皇室典範はそのネーミングに「法」の文字がないが、単なる法律のひとつである。国会の過半数の賛成で皇位承継のルール変更は可能なのだ。不磨の大典などではないのだ。国会で、皇位継承についての男女平等を決めれば、女性天皇が誕生することになる。
この提案は、天皇制の廃棄につながる積極的意義があるわけではない。その意味では、枝葉の些事なのかも知れない。が、女性天皇が就任すれば、性差に関する国民意識を大きく変えることになるのではないか。こんなことを考えたのは、女性差別撤廃委員会(CEDAW)の日本への勧告ドラフトが皇位承継の女性差別を問題にしていたからだ。
3月7日、国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)が、日本政府に対する女性差別是正の勧告を含む「最終見解」を公表した。この報告書ドラフトの最終段階まで、「皇位を男系男子に限っているのは女性差別に当たるのだから、皇室典範を改正して差別をなくするよう求める」勧告が盛り込まれていたという。最終見解に盛り込まれていれば、世界の良識が天皇制をどう見ているのかを、日本の国民が知ることになったろう。所与のものでしかなかった天皇制のあり方が、実は国会の議論を通じて国民自身の意思で変更できるのだという、当たり前のことに気が付くきっかけになったのではないだろうか。
いったい、どうして最終段階ではこのドラフトが撤回されたのだろうか。いつか内情を知りたい。そして、今回は見送られたが、いずれしっかりした「勧告」がなされることを期待したい。
政府や自民党、右翼筋は、まったく逆なことを考えているようだ。3月14日の参院予算委員会で、この点に関わる若干の質疑があった。質問者は、右翼筋との関係深い山谷えり子である。
○山谷えり子 自由民主党、山谷えり子でございます。
国連女子差別撤廃委員会で、先頃、日本に対する最終報告案の中に、皇室典範改正を求める勧告が盛り込まれようとしておりました。皇位継承権が男系男子の皇族にしかないという、女性差別ではないかという勧告が盛り込まれようとしたんですけれども、皇室典範改正まで言及するというのは内政干渉でもありますし、また日本の国柄、伝統に対する無理解というのもあろうかと思います。外務省は、しっかりと抗議をして、説明をして、最終的な文章からはそれが削除をされましたけれども、日本の正しい姿を更に戦略的に対外発信していくということが大切ではないかと思います。
安倍内閣になりましてからは、昨年度、国際的な広報予算五百億円上積みをいたしまして、来年度の予算も七百三十億円取っております。この国際広報体制の在り方について、総理はどのようにお考えでございましょうか。
○安倍晋三 国際広報体制についての御下問でございますが、言わば日本の真の姿をしっかりと諸外国に理解をしていく上において、また日本の伝統文化、また日本が進めようとしている政策について正しい理解を得るために広報活動を展開をしていく必要があると、このように考えております。
我が国の皇室制度も諸外国の王室制度も、それぞれの国の歴史や伝統があり、そうしたものを背景に国民の支持を得て今日に至っているものであり、そもそも我が国の皇位継承の在り方は、条約の言う女子に対する差別を目的とするものではないことは明らかであります。委員会が我が国の皇室典範について取り上げることは、全く適当ではありません。また、皇室典範が、今回の審査プロセスにおいて一切取り上げられなかったにもかかわらず、最終見解において取り上げることは手続上も問題があると、こう考えております。
こうした考え方について、我が方ジュネーブ代表部から女子差別撤廃委員会側に対し、説明し、皇室典範に関する記述を削除するよう強く申し入れた結果、最終見解から皇室典範への言及が削除されました。
我が国としては、今回のような事案が二度と発生しないよう、また我が国の歴史や文化について正しい認識を持つよう、女子差別撤廃委員会を始めとする国連及び各種委員会に対し、あらゆる機会を捉えて働きかけをしていきたいと考えております。
典型的な狎れ合い質疑であって緊張感を欠くこと甚だしい。緊張感を欠く中での問題質問であり問題答弁である。首相と与党議員が、こんなレベルでしか「女性差別撤廃条約」の理解をしていないということが大きな問題なのだ。
山谷は、「皇室典範改正を求める勧告は内政干渉だ」という。「日本の国柄、伝統に対する無理解」という言い回しで、国連の勧告を拒否する姿勢を露わにしている。人権の普遍性を認めないいくつかの後進国とまったく同じ姿勢で、滑稽の極みというほかはない。
安倍も呼吸を合わせて、いかにも安倍らしく「日本の伝統文化」については、国連にはものを言わせないという姿勢。
しかし、日本が締結し批准もした「女性差別撤廃条約」は、すべての締約国のあらゆる部門において、男女差別を容認している「傳統・文化」を是正しようとしているのだ。「我が国の傳統・文化に対する無理解」ということ自体が筋違いも甚だしい。
したがって、「伝統に基づく文化としての女性差別が国民の支持を得ている」ことも、国連の勧告を拒否する理由にはなりえない。多くの場合、女性差別は伝統や文化として定着し、国民多数派の支持を得ているからこそ頑迷固陋でやっかいなのだ。それなればこそ、国連や国際社会が是正に乗り出す意味があるのだ。
「そもそも我が国の皇位継承の在り方は、条約の言う女子に対する差別を目的とするものではない」というのもまったくおかしい。安倍は、条約は「女子に対する差別を目的する」制度や傳統・文化だけを問題にしている、と理解しているのではないか。明らかに間違いである。
究極の問題点は、「我が国の歴史や文化について正しい認識を持つよう国連」に働きかけるという点である。国連や国際社会の見解に耳を傾けようというのではなく、「我が国の歴史や文化」を正しく認識せよ、とは独善性の極み、思い上がりも甚だしい。
女性差別撤廃条約(正式名称は、「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」)の関連個所を抜粋しておこう。
「この条約の締約国は、国際連合憲章が基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認していることに留意し、
世界人権宣言が、差別は容認することができないものであるとの原則を確認していること、並びにすべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利について平等であること並びにすべての人は性による差別その他のいかなる差別もなしに同宣言に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることを宣明していることに留意し、
人権に関する国際規約の締約国がすべての経済的、社会的、文化的、市民的及び政治的権利の享有について男女に平等の権利を確保する義務を負つていることに留意し、
しかしながら、これらの種々の文書にもかかわらず女子に対する差別が依然として広範に存在していることを憂慮し、
女子に対する差別は、権利の平等の原則及び人間の尊厳の尊重の原則に反するものであり、女子が男子と平等の条件で自国の政治的、社会的、経済的及び文化的活動に参加する上で障害となるものであり、社会及び家族の繁栄の増進を阻害するものであり、また、女子の潜在能力を自国及び人類に役立てるために完全に開発することを一層困難にするものであることを想起し、
衡平及び正義に基づく新たな国際経済秩序の確立が男女の平等の促進に大きく貢献することを確信し、
国の完全な発展、世界の福祉及び理想とする平和は、あらゆる分野において女子が男子と平等の条件で最大限に参加することを必要としていることを確信し、
社会及び家庭における男子の伝統的役割を女子の役割とともに変更することが男女の完全な平等の達成に必要であることを認識し、
女子に対する差別の撤廃に関する宣言に掲げられている諸原則を実施すること及びこのために女子に対するあらゆる形態の差別を撤廃するための必要な措置をとることを決意して、
次のとおり協定した。
第一条 この条約の適用上、「女子に対する差別」とは、性に基づく区別、排除又は制限であつて、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう。
第二条 締約国は、女子に対するあらゆる形態の差別を非難し、女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求することに合意し、及びこのため次のことを約束する。
(a)男女の平等の原則が自国の憲法その他の適当な法令に組み入れられていない場合にはこれを定め、かつ、男女の平等の原則の実際的な実現を法律その他の適当な手段により確保すること。
(b)女子に対するすべての差別を禁止する適当な立法その他の措置(適当な場合には制裁を含む。)をとること。
(c)女子の権利の法的な保護を男子との平等を基礎として確立し、かつ、権限のある自国の裁判所その他の公の機関を通じて差別となるいかなる行為からも女子を効果的に保護することを確保すること。
(d)女子に対する差別となるいかなる行為又は慣行も差し控え、かつ、公の当局及び機関がこの義務に従つて行動することを確保すること。
(e)個人、団体又は企業による女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとること。
(f)女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること。
第三条 締約国は、あらゆる分野、特に、政治的、社会的、経済的及び文化的分野において、女子に対して男子との平等を基礎として人権及び基本的自由を行使し及び享有することを保障することを目的として、女子の完全な能力開発及び向上を確保するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとる。
以上のとおり、この条約は、あらゆる場面での女性差別撤廃という観点から、各締約国の、憲法にも法律にも切り込むことを任務としている。そのことを承知で、日本も締結しているのだ。内政干渉という非難は筋違いである。
また、第1条に「女子に対する差別」の定義がある。
皇位の承継が男系男子に限られ、女子が皇位を継承できないのは、「社会的、文化的分野」における、「性に基づく区別、排除又は制限」であることは自明である。しかも、象徴とされた天皇が男性に限られ、天皇の子として生まれても、女性は皇位の承継から排除されている現状は、国民意識に男尊女卑の遺風を残存させることに影響は大きい。
仮に、皇室典範の立法者である国会に、典範作成の目的が女性差別にはないとしても、国民意識に男尊女卑の遺風を刷り込む、その効果さえあれば、「是正されるべき女性差別」なのである。
「女性は天皇になれない、これは女性差別だ」。女性差別撤廃委員会(CEDAW)はそう考えて、差別を是正するよう勧告案を起草したのだ。今回は手続的な不備があったのかも知れない。今回は撤回となったが、次の機会にはこの勧告が現実のものとなり、さらには国会の審議で皇室典範の改正が実現することを望む。
重ねて言うが、私は、天皇制不要論者である。だが、現行憲法に天皇の存在が明記されている以上は、天皇制廃棄は将来の課題でしかない。そのような時代に、女性天皇はあってもよいではないか。女性天皇が就任すれば、性差に関する国民意識を大きく変えることになるだろう。
敢えて言えば、男系男子皇位承継主義は男尊女卑意識の象徴である。ここに切り込んだ女性差別撤廃委員会(CEDAW)の慧眼に敬意を表したい。
(2016年3月23日)
昨日(3月21日)防衛大学校の卒業式が行われた。壇上正面に大きな日の丸。学問の自由とも、本来的な意味での教育とも無縁のこの場である。「日の丸」も「君が代」も、そして安倍晋三の出席も違和感がない。
安倍晋三が自衛隊最高指揮官として、かなり長い訓示を述べた。
「卒業、おめでとう。諸君の規律正しく、誠に凛々しい姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、大変頼もしく思います。」から始まり、最後は「御家族の皆様。大切な御家族を、隊員として送り出して頂いたことに、自衛隊の最高指揮官として、感謝に堪えません。お預かりする以上、しっかりと任務を遂行できるよう、万全を期すことをお約束いたします。…平素から、防衛大学校に御理解と御協力を頂いている、御来賓、御家族の皆様に、心より感謝申し上げます。」と締めくくられている。
軍隊大好きのアベ訓示には美辞麗句が連ねられているが、防衛大学校の学生とは、どうも「規律正しく、誠に凛々しく、心強く、大変頼もしい」存在ではなさそうなのだ。また、自衛隊最高指揮官や大学校当局が、「学生をお預かりした責任に万全を期している」とは到底言い難い。安倍晋三は、「御家族の皆様」に感謝ではなく謝罪しなければならない立場にあるようだ。
今年の防大の卒業生は419人。その中での卒業後自衛官への任官を辞退する「任官拒否者」は47人、11%に達した。昨年に比べ2倍近い。このことが戦争法の影響と話題になっている。入学時は500人程度であったはず。卒業に至らなかった80人ほどの退学の理由にも関心をもたざるを得ない。しかし、格段に大きな衝撃は、防大生間の陰湿なイジメが明らかになったことである。しかも、そのイジメの内容が半端なものではない。こんなイジメをする連中には、およそヒューマニズムの片鱗もない。反知性的で、反社会的で、凶暴きわまりない。武器を扱う者たちの本性がこれだとすると、自衛隊とは恐るべき暴力集団と警戒を要する。
これまでも、自衛隊内の上官から部下に対するイジメが話題となったことはすくなくない。そのことによる自殺もあった。しかし、隊内エリート育成機関でのイジメは、これと質を異にする。自衛隊という組織の基本性格を形づくるものと指摘せざるを得ない。
この卒業式に先立つ3月18日、20代の男性が3697万円の損害賠償を求めて福岡地裁に提訴した。提訴後、この若者の母親が、記者会見して訴状の内容を語っている。
原告は、上級生のイジメ(正確には暴行あるいはリンチというべきだろう)に遭って、退学を余儀なくされた元防大生。被告は、国と暴行実行の上級生8名である。
朝日によれば、提訴の内容は以下のとおりである。
「防衛大学校(神奈川県横須賀市)の学生だった福岡県内の20代男性が、上級生らから暴行や嫌がらせを受けてストレス障害になり退学を余儀なくされたとして、当時の学生8人と国に計約3697万円の損害賠償を求めて18日、福岡地裁に提訴した。
訴状によると、男性は2013年4月の入学直後から、上級生らに「学生指導」と称して殴られたり、アルコールを吹きかけ火をつけられたりする暴行を繰り返し受けたほか、写真を遺影のように加工して通信アプリ「LINE」に流されるなどした。男性は「重度ストレス反応」と診断され、14年8月から休学。昨年3月に退学した。
男性側は「教官も学生間の暴力行為やいじめを認識していたのに、対策を怠った」などと主張。防衛大を設置する国にも賠償を求めている。
男性は14年8月、上級生や同級生計8人を傷害容疑などで横浜地検に刑事告訴。同地検は昨年3月、うち3人を暴行罪で略式起訴し、横浜簡裁が罰金の略式命令を出した。防衛大は今年2月、新たに関与が判明した学生を含め3?4年生12人と、当時の教官ら10人を処分した。
男性の母親(50)が18日、福岡市で会見し、『息子は自衛隊員になりたくて防衛大に入った。こんなことがあると知っていたら行かせなかった』と語った。防衛大学校は『再発防止に取り組んでいますが、訴状の内容を確認しておらずコメントは控えます』としている。」
毎日新聞の報道も同旨。以下は抜粋。
「防衛大学校の学生寮(神奈川県横須賀市)で起きた暴行事件を巡り、被害者で福岡県内に住む20代の元男子学生が18日、『上級生らからいじめを受け、大学側も適切な対応を怠った』として、国と上級生ら計8人に慰謝料など計約3690万円の賠償を求める訴訟を福岡地裁に起こした。
自衛隊内の暴力を巡っては、海上自衛隊呉基地(広島県呉市)の2等海尉が自殺未遂した問題で、両親が先月、山口地裁に提訴したばかり。
防衛大の教官については『暴行を認識しつつ、助けたり予防したりする対策をとらなかった』として安全配慮義務違反を主張している。元学生は体調を崩し14年8月から休学し、15年3月に退学した。」
本日(3月22日)付赤旗の報道がさらに具体的な内容を伝えている。
「原告の元学生が本紙の取材に応じ、胸中を語りました。
元男子学生は2013年4月に入学し、学生寮に入寮。しかし同年6月から14年5月にかけて上級生らから受けたのは『指導』と称して殴る、蹴るなどの暴行と、ロッカーにある私物を荒らされるなどのいじめの繰り返しでした。
『指導』は上級生らの気分しだいで繰り返されるといいます。元男子学生が、なかでも耐えられなかったことは、放課後に上級生から『風俗店にいき、写真をとってこい』という「指導」でした。
元男子学生が「行けない」と拒むと、「罰」がまっています。仰向けに寝かされ、上級生らが上から足で思い切り踏みつけてきます。
こうした暴行には「ネーミング」があります。例えば「○○ファイヤー」。下半身にアルコールをふりかけ、それに火をつけるという蛮行です。
熱さと痛みに耐えられず消そうとすると「まだ我慢しろ」と上級生の罵声が襲ったといいます。
理不尽ないじめと暴行に、思い悩んだ末に学校のカウンセラーに相談しましたが、返ってきたのは「1カ月我慢すればなくなる、辛抱しろ」という言葉でした。」
元男子学生は、振り返ります。「あのときはもうだめだ、と思った。最後の頼みの綱が切られた」。心身ともに絶望のふちに立たされ、『重度ストレス反応』と診断されました。14年8月、家族とも相談し休学しました。あわせて上級生ら8人を横浜地検に刑事告訴しました。同地検は15年3月、上級生3人を暴行罪で『略式起訴』し、残りの5人は起訴猶予にしました。横浜簡易裁判所は3人に罰金を命じました。
元男子学生は、防衛大を昨年3月に退学しました。被害体験から自衛隊への見方、考え方も大きく変化したといいます。
「実家の福岡が水害にあったときに、自衛隊が住民の救援のために働く姿をみて共感、自分も自衛官になると考えた。高校卒業で国立大学も合格していたが防衛大学校を選んだ。しかし入学して厳しい上下関係を利用した陰湿ないじめ、暴行の限りを尽くす上級生。これを容認する学校側の体質は許せなかった」
原告の元学生は2013年の入学である。この年彼をいじめた2年生が、今年(2016年)卒業している。神妙にアベの訓辞を聞き、帽子を投げた372人(任官拒否者は卒業式に出席できない)のなかに、彼に暴行を働いた者がいる。被告となっている者もいるはずだ。おそらくは、別の場面で別の下級生にイジメを行っていた者もいるに違いない。
「防衛大学校は、自衛隊のリーダー(幹部自衛官)を育成する日本で唯一の大学教育機関です。」と同校ホームページが言っている。卒業して任官すると直ちに曹長となり、半年で三尉となる。下級生をいじめた者が、そのメンタリティをもったまま、兵を指揮する立場に立つことになるのだ。必然的に、隊全体がイジメの体質をもつことになる。
こういう、隊内のイジメの体質は、旧軍時代からの傳統の受継というべきものなのだろう。軍隊とは、戦争をするための組織。戦争はお互いに相手を殺し合うこと、人間性や人権意識があってはなし得ることではない。敢えて不合理な蛮行を日常化する体質や感覚が必要なのだろう。仮に、旧軍からの傳統の受継でなければ、「軍隊というものは、理不尽に慣れなければならない。ようやく自衛隊幹部も一人前に理不尽なことができるようになってきた。それでこそ本来の軍隊に近づいてきた」と言うことなのだ。
(2016年3月22日)
本日は、三題噺である。お題は、3人の人名。古舘伊知郎と菅孝行、そして忌野清志郎。
まずは、古舘伊知郎。3月18日の報道ステーションの内容が大きな話題を呼んでいる。キャスター古舘本領発揮の熱い語りかけ。歴史に残る放送ではないか。古舘流に「これぞ全国民必見」と評して過言でない。友人に教えられていくつかのURLで録画を見た。下記がそのひとつ。完全なものではないが、URLが短い。是非ともの視聴をお勧めし、拡散をお願いしたい。
https://www.dailymotion.com/embed/video/x3ym0kc
番組の表題は、「憲法改正の行方…『緊急事態条項』ーワイマール憲法が生んだ『独裁』の教訓と緊急事態条項」。ヒトラーの台頭を許したワイマール憲法の陥穽と、自民党改憲草案「緊急事態条項」とを対比して、安倍自民の危険な動向に警鐘を鳴らすものとなっている。
古舘自身がワイマールに飛び、ナチス台頭ゆかりの故地を訪ね、強制収容所跡で記録映像を重ね、ナチスから弾圧を受けた犠牲者の家族を取材し、ドイツの法律家や憲法研究者の意見を聞く。構成がしっかりしており、映像に訴える力がある。そして、古舘の情熱の語り口が聞かせる。影響は大きいのではないか。
この番組が抉ったものは、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項がどのように使われて、ナチスの暴発を許したのかという問題性である。「最も民主的な憲法のもとでも、独裁が生じうる」そのメカニズムを検証して、安倍自民が準備している「自民党改憲草案」における「緊急事態条項」と重ねて、その類似性・危険性を警告している。
ドイツの憲法学者に自民党改憲草案の緊急条項部分を読んでもらうと、「これはワイマール憲法48条(国家緊急権条項)を思い起こさせる」「内閣が法律と同じ効力を持つ政令を制定することは危険」「財政措置まで議会の関与なく内閣の一存で決められる」「災害などには法律で適切に対処している日本で、このような憲法条項があるだろうか」という指摘は重い。
最後は、スタジオで長谷部恭男が「法律と同じ効力を持つ政令が制定できるとは、緊急時には令状なしの逮捕や捜索もできるという危険を残すこと」と、オーソドックスな解説をして締めくくっている。
当時、最も民主的で進歩的と言われたワイマール憲法であったが、その憲法の欠陥を衝いてヒトラーの独裁が成立した。これを許したのが、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項である。緊急事態に名を借りて、ナチスは全権委任法を成立させた。その結果、1933年からドイツ敗戦の1945年まで、ドイツの議会は事実上死んだ。議会制民主主義は崩壊し、法律は議会に代わってヒトラーの内閣が作った。
自民党改憲草案の緊急事態条項はこの悪夢の再現に道を開くもの、という危機感に溢れた番組構成となった。古舘は、「いまの日本で、ドイツで起こったようなこととなるわけはありません。」と繰り返している。もちろん、このフレーズに「しかし、…」と続くことがある。その語り口は、付け入る隙を与えない見事なものだ。古舘の意識的な否定にかかわらず、誰が見ても安倍がヒトラーに重なる。緊急事態条項を準備した自民党がナチスだ。
この番組の映写を集会や学習会で活用することが考えられないだろうか。ほぼ30分。これを借り出して使えるようにできないか。関係者にお考えいただきたい。
スタッフ一丸となった使命感に溢れた番組作りの姿勢に敬意を表したい。それだけでなく、古舘個人にも讃辞を惜しまない。彼には怒りのエネルギーが充満しているはず。安倍内閣やこれを支える右翼連中からの圧力への怒り。番組担当はもうすぐ終わりというこの時期に怒りのほとばしりを見事に冷静にやってのけている。
私は先日のブログに、「憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。『保育園落ちた。日本死ね』の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。」と書いた。古舘は、品良く怒りを表した。これがあっぱれ。
その反対に「憤怒の思いを、これ以上は考えられない品の悪さで表現した」典型例を引きたい。
お題の二つ目。菅孝行という人物がいる。何者とも言い難いが、彼の若き日を回想する次の一文をお読みいただきたい。
「舞芸一年目の秋には砂川基地拡張のための測量が強行され騒然となった。私たち舞芸自治会は全学連に加入して砂川町に泊りこみ、歌と踊りのバラエティーショーを仕こんで、闘争の合間のひとときを、隊列のあちこちや神社の境内でやった。
数千のデモ隊と機動隊とが対峙した夕刻の一触即発の時、「赤とんぼ」の歌が湧き起こった隊列の只中に私はいたが、あの歌の意味はなんだったのか。次々と歌でも歌ってなきゃ間ももたなかった。全くの素手でスクラムを組んでいたデモ隊には、次にくる機動隊の暴力の予感にふるえる悲鳴だったか、あるいはアメリカ軍の基地拡張への、日本人のナショナルな心情の吐露だったのか。おっちょこちょいの舞芸の連中が、折からの夕焼けシーンに乗って歌いはじめたのかもしれぬが、とても奇妙な情景だった。『赤とんぼ』の歌を打ち消すように機動隊が襲いかかり、引きずり出されては、機動隊の乱打のトンネルに次々と送りこまれていった。機動隊の暴力行為で多数の負傷者を出したこの日の流された血の代償として、政府は強制測量無期延期を決定しなくてはならなかった。」
私がこの人の文章に目を留めたのは、「歌に刻まれた歴史の痕跡」の一章として書かれた三木露風「赤とんぼ」2番の歌詞についての解釈。私の記憶では、彼は大意次のように述べている。
「十五でネエヤが嫁に行ったはずはない。ネエヤは身を売られたのだ。本当に嫁に行ったのなら、お里のたよりが途絶えることはない。当時、貧しい家の女児は幼いうちから裕福な家の子守に出され、長じては身を売られる例がすくなくなかった。露風は、子ども心に漠然とそのことを感じていたのだろう。そのことがこの歌詞のものかなしさの根底にある」
まったく自分には見えていないことの指摘を受けて、うろたえた憶えがある。
この人が、最近の「靖國・天皇制通信」に、「闘争の歌の〈品格〉とはなにか」という一文を寄稿している。これが面白い。ここに出て来る忌野清志郎が、お題の三つ目だ。
先年亡くなった忌野清志郎という過激な歌手がいた。
RCサクセションの「いけないルージュマジック」はいわれもなく挑発的に聴こえた。彼は、おかしなことを一杯やった。その一つが、タイマーズの結成である。《清志郎に「よ〈似た男」》ゼリーが率いる覆面バンドが結成され、アン・ルイスのライブとか、あちこちのコンサートに乱入して飛び入りで歌った。タイマーズとは「大麻」のことだというから、入を食っている。彼らは広島平和コンサート、パレスチナ独立記念パーティなどにも出演した。
1989年10月フジテレビのヒットスタジオR&Nに出演して、リハーサルとは全く道う、放送禁止用語に溢れたFM東京を罵倒するうたを歌って物議をかもした。奇しくも司会は、先ごろ朝日放送の報道番組のキャスターを下ろされた古舘伊知郎たった。タイマーズが罵倒ソングを歌った理由は、山口富士夫との共作「谷間のうた」、COVERS収録の「サマータイム・ブルース」、「土木作業員ブルース」などの放送禁止や放送自粛への抗議だった。因みに「土木作業員ブルース」を歌う時のいでたちは、ヘルメット、覆面姿の「武装」学生のパロディだった。
♪FM東京腐ったラジオ FM東京 最低のラジオ
何でもかんでも放送禁止さ!
FM東京汚ねえラジオ FM東京 政治家の手先
なんでも勝手に放送禁止さ!
FM東京バカのラジオ FM東京
こそこそすんじゃねえ○○○○野郎! FM東京
♪FM東京腐った奴らFM東京気持ち悪いラジオ
何でもかんでも放送禁止さ!
FM東京汚ねえラジオFM東京政治家の手先
○○○○野郎! FM東京
※(セリフ)ばかやろう!
※(加筆)なにが27極ネットだおらあ!FM仙台おらあ!
○○○○野郎! FM東京!
※(セリフ)ざまあみやがれい! (註 菅の文章に伏せ字はない)
これ以上品の悪いうたを歌うのは難しい。しかし、YouTubeで聞いてみると、凛としていて、少なくとも私には、爽やかなプロテストソング以外のものではない。
たかがFM東京の放送禁止や放送自粛への抗議といって楼小化してはならない。権力のラジオやテレビヘの表現弾圧、メディアの自主規制という、いまでは全然珍しくなくなってしまった事態への、本質的なプロテストの姿勢がそこにはあった。タイマーズというRCサクセションを一皮剥いたマトリューシュカのようなバンドが結成されたのが、天皇代替わりの自粛蔓延の年、このFM東京罵倒ソングの誕生が、その翌年であることは決して偶然ではない。
忌野清志郎の「FM東京腐ったラジオ」のYouTubeを私も聞いてみた。なるほど菅のいうとおり「爽やかなプロテストソング」である。からっと痛快なのだ。このとき司会の古舘は、確かに「不適切な表現」を謝罪してはいる。が、まったく恐縮した様子はない。もちろん、止めにはっいてもいない。プロテストをおもしろがっている気持が伝わってくる。古舘を含む当時の業界人の暗黙の支援あっての清志郎のパフォーマンスであったろう。
菅孝行の文章は、もう少し続く。
「昨年、国会前で、茂木健一郎が、この歌の替え歌を歌った。勿論、罵倒対象は安倍と政府と与党に置き換えられていた。茂木という人物は、アヤシイ奴である。もし、茂木ではなくデモ隊本体が、腐った政府、キタネエ政府、アメリカの手先、経団連の手先、こそこそすんじゃねえと歌ったら、本歌の精神を引き継ぐ見事なリバイバルだったのに、と思う。生きていれば恐らく、忌野清志郎は、反原発の首相官邸前行動や、戦争法制反対の国会包囲の群衆の中にいて、新しいうたを作ったに違いない。」(抜粋)
プロテストの新しい歌が欲しい。プロテストの精神を大切にしたい。そのような目で「日本死ね」の文章の後半ををもう一度読み直してみよう。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。
これ、歌になる。古舘ほどの品はないものの、「闘争の歌」としての品格十分。立派な歌詞だ。誰か曲を付けないだろうか。
(2016年3月21日)
話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山?望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山?が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。
ここで山?は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」
戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。
以上の文章にも明らかなとおり、山?はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山?にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。
「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」
この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。
では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。
その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。
だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。
山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。
■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。
■レイシズムに重点を置く奇妙さ
人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。
■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。
なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。
グローバル化と新自由主義⇒国民国家の揺らぎ⇒ナショナリズムの変容
という構図自体は分かるものの、一般論と具体論との連結はよく見えてこない。何が、どのように、ネトウヨに代表されるような奇妙なナショナリズム変容をもたらしたのか、このあたりの丁寧な説明が欲しいと思う。そのような診断があってこそ、安倍や橋下やヘイトスピーチを克服するにはどうすればよいのか、処方も書けることになるだろう。次を期待したい。
なお、山?望論文の紹介で手一杯だが、この書の全体の構成(目次)は以下のとおりである。山?の問題意識で下記の9論文が並んでいる。
序 論 奇妙なナショナリズム? 山崎 望
第1章 ネット右翼とは何か 伊藤 昌亮
第2章 歴史修正主義の台頭と排外主義の連接 清原 悠
―読売新聞における「歴史認識」言説の検討
第3章 社会運動の変容と新たな「戦略」 富永 京子
―カウンター運動の可能性
第4章 欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭 古賀 光生
第5章 制度化されたナショナリズム 塩原 良和
―オーストラリア多文化主義の新自由主義的転回
第6章 ナショナリズム批判と立場性ポジショナリティ 明戸 隆浩
―「マジョリティとして」と「日本人として」の狭間で
第7章 日本の保守主義 五野井 郁夫
―その思想と系譜
第8章 「奇妙なナショナリズム」と民主主義 山崎 望
―「政治的なもの」の変容
おわりに
著者のほとんどが、1970年代・80年代生まれ。若い気鋭の研究者(政治学・社会学・社会運動論・比較政治学など)らの意欲を頼もしいと思う。
(2016年3月20日)
被曝当時の第五福竜丸漁労長だった見崎吉男さんが亡くなられた。一昨日(3月17日)の夜分遅い時刻だったとのこと。1954年3月1日ビキニ環礁での米国の水爆実験によって被ばくしてから62年後の逝去。享年90。ご冥福をお祈りする。
お目にかかったことはない。しかし、第五福竜丸の乗組員23人のリーダーとして、かねてからお名前は伺っていた。漁労長とは、航行と漁労スケジュールの責任者である。ひとたび漁船が出港したあと、いつどこに船を廻しどこで網を下ろすか、その判断を委ねられている。一山当てるも大損するも、漁労長の腕と判断次第なのだ。
夢の島の第五福竜丸展示館には、彼自筆の「船内心得」が展示されている。元は船内の操舵室に貼ってあったもの。一部は剥落しているが、「新しき出発、新しき束縛」と表題した長文のこの掲示物は、筆跡といい、行き届いた文章といい、見事というほかはない。
ごく一部分だが、末尾の文章を抜粋する。
「協同生活に一番大事なことは、才能のある人とか立派な仕事をする人が大勢集まる事ではない。それよりもその人が加入する事によって協同生活が何らかの形でプラスになるような人を一番必要とする。
そして、信頼と団結によって力強い誇り得る傳統を生み、愛する人々の期待にそむかない最良の航海を続けなければならない。」
次の箇条書きの心得もある。
「時間を厳守すること
出航及作業前の飲酒を厳禁す
船中の賭博行為を厳禁す
……
一々の事故に関しては今更説明を必要としない
各々立派な良心の所有者である故」
時に、見崎は28歳。驚くほかはない。なお、乗組員の最年長が無線通信士久保山愛吉の39歳。平均年齢は25歳であった。
被曝後、23人は急性放射線障害で、東大付属病院と東京国立第一病院(現国立国際医療センター)に分かれて入院する。見崎は東京国立第一病院入院中にも旺盛に手記を書いている。リーダーとして、他の乗組員を気遣っていることがよく分かる。展示館の所蔵物のなかに、デパートの包装紙をつなぎ合わせた3メートルもの巻紙に彼が書きつづったものが残されている。その抜粋の次の文章が、展示館が作成した図録に収録されている。
「…あらゆる言論機関はいっせいに立ち上がり、あらゆる角度からこの事件にメスを入れ、世界の世論は沸き立ち、当事者である私は事件のただならぬために苦悩の連日。嵐に飛ばされた木の葉のそんざいそのまま病院に収容され、暖かい日本中の人びとにまもられて日時を経過した。そして、水爆禁止が大きく叫ばれた。…事件以来の米国側の言明に対し無条件で私は叫ぶ。そして悲憤の涙を流す。乗組員の幾多の悲惨なる姿、ニュース、映画、雑誌に新聞はもちろん。私はたまらない、彼らの心中を思うと。我々は無関心ではない。名誉毀損、彼らの言明により全員に与えた心の動揺に対する償いを要求する。」
その見崎も、事件後しばらくは被曝体験を語っていない。「「第五福竜丸」が「ビキニ事件」による被ばくの象徴のように扱われ、船員に対する世間の偏見、無理解にも深く傷ついた。」(静岡新聞)からであろう。時を経て、「地元中学校から依頼を受けたことをきっかけに2002年からは市民や子供たちに自身の経験について語る活動を続けてきた」(同)という。また、「事件から50年となる2004年前後から被曝体験を公の場で語り始め、06年には被曝経験などを手記にまとめて自費出版した。講演などの活動を続けていた」(朝日)
「第五福竜丸展示館30年のあゆみ」に、見崎の次の談話が出ている。全文を掲載する。
「船が夢の島で発見されて保存庫とが話題になったときに夢の島に新聞社の人に連れられていったことがある。改装されていたけれど、まさしく福竜丸の面影は残っていた。しかし、ゴミのなかにもぐってしまって、こりゃ保存するといっても何年もかかるなあ。それだったら解体して海に沈めて最後はきれいにしなさい、私はその時はそう思ったね。
よく展示館を作ったよね。焼津に保存してはどうか、とかいろんな意見があった。敷地もいるし金もかかる。よほど熱心に保存をすすめないと実現しない。当時いい人がたくさんいたよなあ。都では美濃部さん、保存に協力した。最初、静岡では、被爆者の会の杉山秀夫さんなどが保存の会をつくって尽力した。私も声を掛けられたよ。その当時の焼津のえらい人は、保存に関係したいと思ってなかったね。当時の市長も「焼津の市政と第五福竜丸は何ら関係ない」と市議会でも答弁した。静岡県でもやらない。
ではどうするか、沈めるか、大平洋のど真ん中へ持ってって沖で放置すりゃ、流されてアメリカに着くか、潮流はそうなってるから。アメリカが拾ってくれりゃいいからね。黒潮へもっていって沈めよう、さっぱりしていいじゃないか。それが焼津の意見だったね。
でも若い衆の新聞の投書とかあって、保存の運動になった。美濃部さんと部も協力したわけだね。平和運動は本来は国をあげてやるべきことだと思うね。部に「おまかせ」という感じだね。しかし、人に見てもらえるようにしたのは素晴らしい。保存した人たちに感謝したいね。第五指竜丸は一つの漁船にすぎないが、原水爆というのは人類の犯罪ですよ。これをやめようじゃないか、と訴えているその象徴になってる第五福竜丸、それを作った東京都と運営している平和協会の存在は大きいね。保存のだめに、展示館建設のために働いた大勢の人たち、日本全国の人たちが取り組んだね。それを伝えて、この歴史を大事にしていきたいよね。みんなの力、日本の宝だよね。これからも福竜丸が原水爆のことを伝えて、展示館が役割を果たしてくださるこを願ってます。」(2005年12月4日談)
歴史は貴重な証人を失ったことになる。公益財団法人第五福竜丸平和協会からも、Eメールで見崎さんの訃報が届いた。その末尾に、「現在 元乗組員でご存命の方は5名となりました」とある。
この方たちの存命のうちに、原水爆の廃絶を実現し、核による放射線被害のない世界を到来させたいものと思う。
(2016年3月19日)
「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものがある。
「国民主権に基づく民主主義のもと、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体です」と自ら称している。「国民主権」「民主主義」「公平公正な報道」そして、「知る権利の擁護」というのだから、一瞬これはリベラル派の市民運動組織かと思い込みはしないだろうか。
「政府が『右』というときに、『左』とは言えない」と、歴史に残る名言を吐いた「国営」放送局の会長を糾弾して、「公平公正なNHK報道を求め、国民の『知る権利』を守る活動を行うリベラル市民団体」のことではないかと、いかにも間違いが起こりそうではないか。
もちろん、呼びかけ人や賛同者の名前を見れば、誤解は吹っ飛ぶ。すぎやまこういちであり、渡部昇一であり、西修、東中野修道、呉善花、小堀桂一郎、西岡力等々のおなじみの面々。なるほど、ものは言いよう。「公平公正」とはアベ政権擁護の立場のこと、「国民の知る権利を守る」とはアベ政権の言い分を国民に浸透させること、「国民主権」も「民主主義」も政権の正当性の根拠の説明限りのもの。権力から独立してこそのジャーナリズム、という認識はない。
これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。
変わり映えのしない狭い右派人脈の名の羅列だが、その中で、たった一人、思いがけない名前を見つけて驚いた。「溝口敦」という名。これはインパクトがある。
この会のホームページを閲覧すると、13人の「賛同者」がメッセージを寄せている。そのなかの一人として、顔写真付きで溝口敦の次のコメントがある。
「NHK、民放を問わず、局の体質はゼイ弱です。ともすれば、権力と多数陣営に迎合しがちです。せめて放送法を盾に民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います。」
私は、溝口について特に知るところがあるわけではない。とりわけ彼の政治信条や政治的人脈については、何も知らない。右翼人脈との付き合いあって、こんな所に名前を出したのだろう。単純にそう思っていた。
溝口敦の名を知らぬものとてなかろう。ノンフィクション作家といってもよいし、ルポライター、ジャーナリストと言ってもよい。私の知る限り、最も危険な立場に身を置いてその姿勢にブレのない、稀代の物書きである。暴力団・創価学会・同和・サラ金・食の安全等々タブーに切り込む姿勢の果敢さにおいて、驚嘆すべき人物である。
暴力にも圧力にも筆を鈍らせることのない、不屈の姿勢においてジャーナリストの鑑のごときこの人物と、政権応援団右翼組織の奇妙な組み合わせ。奇妙ではあるが現実と受け止めざるを得ない残念な気持を印象にとどめた。
ところが、本日(3月18日)の毎日夕刊で、この「奇妙」の謎が解けた。この謎解きをしてくれた毎日の記者に感謝したい。
記事は、「特集ワイド」の「続報真相 改憲急ぐ安倍首相を応援する人々 『美しい日本の憲法』とは」という読み応えのある調査報道。
「安倍晋三首相が憲法改正を『参院選で訴える』と前のめりだ。この姿に喝采を送るのが、改憲を支持する『安倍応援団』とも呼べる人たちだ。首相に近いとされる彼らがどんな憲法観を持っているのか、有権者は知っておくべきだろう。一般には知られていない発言などを掘り起こしてみた。」というリードでその姿勢はお分かりいただけよう。記事の全文は下記URLでお読みいただける。
http://mainichi.jp/articles/20160318/dde/012/010/017000c
記事中の「安倍応援団」の一つとして、「放送法遵守を求める視聴者の会」が出て来る。そして、記者も溝口に注目して、溝口を取材している。その結果が以下の記事だ。「溝口敦さん『不注意で視聴者の会賛同』」と小見出しが付いている。
最後に意外な人物に登場してもらおう。暴力団問題に詳しいジャーナリスト、溝口敦さん(73)である。
「国民の会」代表発起人でもある小川氏やすぎやま氏らが呼びかけ人となり、「公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体」として昨年設立した「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」の賛同者に名前を連ね、多くの人を驚かせた。呼びかけ人の7人全員が、安倍氏と近かったり、改憲を支持したりしている人たちだったからだ。
… …
溝口さんに真意を尋ねると『不注意でした』と意外な答えが返ってきた。「『放送法遵守』というから、どういう人たちが作った団体か確認せずに『賛同する』としてしまったんです」。昨秋、前触れなく届いた封書に記入し、返送しただけだという。
改めて自身の意見を聞くと、こう語るのだ。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ。もっと批判しなきゃ。キャスターが特定の立場で批判的発言をしたっていいじゃないですか。放送法1条は放送の自律の保障をうたっている。これが前提です。高市早苗総務相の『停波』発言はそれこそナンセンス。真実と自律を保障する放送法を盾に、政治権力と戦わなきゃ」
溝口さんは同会に寄せたメッセージで「民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います」と記していた。改憲論議についても同じことが言えるだろう。
この記事を読んで、私は胸のつかえが降りた。今日は良い気持ちだ。さすが正義漢・溝口敦の言である。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ」「政治権力と戦わなきゃ」とは、視聴者の会の主張とは正反対ではないか。それにしても、最近は右翼の言説がこれまでリベラル派が言ってきたことと紛らわしい。溝口でさえも間違うことを教訓としなければならない。
ジョージ・オーウェルの「1984年」に出て来る、真理省のスローガンを想い起そう。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
積極的平和主義とは平和憲法破壊のこと。
公平公正とは政権批判抑制のこと。
知る権利擁護とは政権の言い分を伝えること、なのだ。
あらためて、「視聴者の会」賛同者のコメントを見直してみる。もしかしたら、間違えた賛同者が、溝口の外にもいるのではないだろうか。たとえば、次のようなコメントに考え込まざるを得ない。
「特定の立場からの報道であるのであれば、その立場を明確に表し反論の機会を提供すべきです。中立公正を装って、特定の立場からの意見を表明することは、許されることではありません。」
「国民一人一人が、借りものの思想や価値観で判断するのではなく、自分の頭で考え判断できるようにするためには、放送内容の公平性と公正さを守ることが必須です。」
「1.マスコミは権力者である 2.権力者は国民がチェックできなければならない。」
「NHKの分割・民営化、少なくとも視聴料禁止、娯楽番組に限り双方向性で課金するようにすべし」
(2016年3月18日)
昨日(3月16日)那覇地裁(鈴木博裁判長)で「沖縄戦被害・謝罪及び国家賠償訴訟」の判決が言い渡された。請求棄却。沖縄戦で筆舌に尽くしがたい被害を受けたとして、住民とその遺族79人が、国を被告としてその責任を問い、被害に対する謝罪と慰謝料の賠償を求めた訴えはすべて斥けられた。空襲被害国家賠償訴訟も同様だが、原告となった被害者の無念の思いはいかばかりであろうか。
あらためて、国家とは何か、国家が引き起こす戦争という罪悪とは何か、国家は国民にいかなる責任を負っているのかなどを考えさせられる。
我が国のは、戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという決意を原点として新たな国を作った。その戦争の惨禍が、具体的な被害実態として法廷に持ち込まれたのだ。この被害をもたらした国家の責任を問うために、である。この課題に司法は、正面から向き合っただろうか。
2014年3月に、高文研から「法廷で裁かれる日本の戦争責任」という大部な書籍が刊行されている。戦争の被害と国家の責任について法廷で争われた各事件について、担当弁護士のレポートを集大成したもの。大きく分類して、日本軍の加害行為によって対戦国の被害者が原告になっている事件と、日本人の戦争被害者が原告になって国家に被害救済を求めた事件がある。前者の典型が、従軍慰安婦・強制連行・住民虐殺・細菌兵器・毒ガス兵器・住民爆撃事件など。後者は、原爆投下・残留孤児・東京大空襲・大阪空襲訴訟・シベリア抑留訴訟などである。その編者が、瑞慶山茂君。私と同期で司法修習をともにした、沖縄出身の弁護士。今回の「沖縄国賠訴訟」の弁護団長でもある。
私は、たまたまこの書の書評を書く機会を得て、民間戦争被害者が被害の救済を得られぬままに放置されている不条理への瑞慶山君の並々ならぬ憤りと、国家の責任を明確にしようという訴訟への情熱を知った。判決には注目していたが、彼の無念の思いも察するに余りある。
日本人の戦争被害は、軍人・軍属としての被害と、民間人の被害とに分類される。いずれも、国家が主導した戦争被害として、国家が賠償でも補償でも、救済を講じるべき責任をもつはず。しかし、「軍人・軍属としての被害」に対する国の救済姿勢の手厚さと、民間人被害に対する冷淡さとには、雲泥の差がある。いや、「雲泥の差」などという形容ではとても足りない、差別的取り扱いとなっているのだ。
昨日(3月16日)付の弁護団・原告団声明のなかに、次の1節がある。
「被告国は、先の大戦の被害について恩給法・援護法を制定して、軍人軍属には総合計60兆円の補償を行ってきたが、一般民間戦争被害に対しては全く補償を行ってこなかった。沖縄戦の一般民間戦争被害については、その一部の一般民間人については戦闘参加者として戦後になって認定し補償を行ってきたが、約7万人の死者と数万人の後遺障害者に対しては謝罪も補償も行うことなく放置している。ここに軍人軍属との差別に加え、一般民間人の中にも差別が生じている(二重差別)。そこで、この放置された一般民間戦争被害者のうち79名が、人生最後の願いとして国の謝罪と補償を求めたのがこの訴訟である。
にもかかわらず、那覇地方裁判所は原告らの切実な請求を棄却したのである。基本的人権救済の最後の砦であるべき裁判所が、司法の責務を放棄したものと言わざるを得ない。」
戦後の日本は、軍人軍属としての戦争被害には累積60兆円の補償をしながら、民間被害にはゼロなのである。「60兆円対0円」の対比をどう理解すればよいのだろうか。これを不合理と言わずして、何を不合理と言えるだろうか。
過日、福島第1原発事故の刑事責任に関して、3名の最高幹部が強制起訴となった。
「あれだけの甚大な事故を起こしておいて、誰も責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」という社会の常識がまずあって、しかる後にこの社会常識に応える法的構成や証拠の存在が吟味されたのだ。私は、このようなプロセスは真っ当なものと考える。
同じことを国家の戦争責任と民間被害救済についても考えたい。「あれだけの甚大な戦争被害を生じさせておいて、国家が責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」から出発しよう。
国家が違法な戦争をした責任のうえに、個人の戦争被害救済をさせるのに障害となる大きなものが二つある。一つは、日本国憲法によって国家賠償法ができる以前の常識的な法理として、「国家無答責」の原理があったこと。国家権力の行使に違法は考えられない。損害賠償などあり得ないということ。昨日の判決もこれを採用した。そもそも損害賠償の根拠となる法がないということなのだ。
そして、もう一つの壁が消滅時効の成立という抗弁である。仮に、戦争被害に損害賠償債務が生じたとしても、時効が完成していて70年前の被害についての法的責任の追及はできない、ということ。
この両者、「国家無答責の壁」と「時効の壁」を乗り越える法的構成として、「立法不作為」の違法が主張されている。軍人軍属への補償だけではなく、民間人の戦争被害についても救済しなければならないにもかかわらず、これを放置したことの違法である。
軍人軍属にばかり手厚く、民間に冷淡なこの不公平は、誰が見ても法の下の平等を定めた憲法14条に違反する、違法な差別というべきだろう。「人の命に尊い命とそうでない命があるのか。救済が不十分なのは憲法の平等原則に反する」というのが、原告側の切実な訴えである。不当な差別があったというだけでは、賠償請求の根拠にはならないが、立法不作為の違法の根拠には十分になり得る。
ところが、昨日の那覇地裁判決はこの、「60兆円対0円」差別を不合理ではないとしたのだ。「戦争被害者は多数に上り、誰に対して補償をするかは立法府に委ねられるべき。軍の指揮命令下で被害を受けた軍人らへの補償は不合理ではない」と判断したという。
もう一度、常識的感覚に従って、全体像を眺めてみよう。
「『軍官民共生共死の一体化』の方針の下、日本軍は住民を戦場へとかり出し、捕虜になることを許さなかった。陣地に使うからと住民をガマから追い出したり、スパイ容疑で虐殺したり、『集団自決(強制集団死)』に追い込むなど住民を守るという視点が決定的に欠けていたのである」「判決は「実際に戦地に赴いた」特殊性を軍人・軍属への補償の理由に挙げるが、沖縄では多くの住民が戦地体験を強いられたようなものだ。(沖縄タイムス3月17日社説)」
にもかかわらず、軍人軍属にあらざる民間人の救済は切り捨てられたのだ。血も涙もない冷酷な判決と言うしかなかろう。こんな司法で、裁判所でよいものだろうか。健全な社会常識を踏まえた「血の通った裁判所」であって欲しい。このような判決が続けば、裁判所は国民の信頼を失うことにならざるを得ない。
(2016年3月17日)
安倍晋三は「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら呼んでいただきたい」と言った。私は、右翼も軍国主義者も大嫌いだ。しかし、保守政治家一般を毛嫌いしているわけではない。むしろ正統保守には、しかるべき敬意を払ってきた。舛添要一という人物にも、それなりの評価を惜しまない。石原慎太郎に比べては気の毒だが、あんなものよりずっとマシなのは確かだと思ってきた。
しかし、時に評価は揺れる。オヤオヤこれは見損なったかと思わざるを得ないこともある。たとえば、昨日(3月15日)の都知事定例記者会見。下記のURL映像をご覧いただきたい。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160315.htm
全体で14時から14時22分までの短いものだったが、「週刊金曜日として取材のフリー記者」氏が質問している。知事は、この記者の質問をはぐらかすことなく答えている。質問と回答の全部の映像が公開され、文字情報としても起こされている。この透明性には好感が持てる。しかし、その回答の内容には、落胆せざるを得ない。舛添知事は、「日の丸・君が代」問題に関しては、何も知らない。部下から何も教えられていない。そして、何も考えようとしていない。
記者の質問のテーマの一つが、「日の丸・君が代」関連処分に関連する服務事故再発防止研修の問題だった。「過度の『研修』強要は、それ自体が思想・良心の侵害であり、イジメに等しい人権侵害ではないか」。それが、記者の問題意識だった。しかし、残念ながら知事はこの問題自体を理解できていない。さらに、記者とのやり取りの中で、「日の丸・君が代」強制問題に関する認識の浅薄さや、誤謬をさらけ出した。
関連の質疑応答部分を以下に摘記する。
【記者】知事の人権認識について伺いたいと思います。知事は昨年10月のヒューマンライツ・フェスタという人権を考えるシンポジウムに出席されまして、人権尊重都市東京とか、価値観の多元性の大切さということを説かれ、この記者会見の席でも同じ趣旨のことを何回か言われていると思います。それを踏まえて伺うのですけれども、…都立学校の卒業式、入学式の問題なのですが、不起立などの職務命令に違反した教職員に、再発防止研修というものが行われています。これは、なぜ不起立だったのかということを反省させるような研修でございまして、2015年度の場合は(一人の人に)6回も行われているのです。これはいじめのような、人権を侵害するものではないかと思うのですけれども。このことについて2004年には東京地裁が、『繰り返し何回も自分の非を認めさせるような研修を受けさせるのは違憲の可能性がある』という決定を出しておりまして、やはりこういう再発防止研修も、人権という観点から実態を調査していただいて、例えば、処分された先生に話を聞くというような、そういうお考えはないか、お答えをお願いします。
【知事】国旗・国歌の問題なのですけれども、これもいつもお話ししていますように、日本国憲法のもとにおいてきちんと制定された国旗・国歌の法律があります。したがって、それは法律違反をしていいということにはならないと思います。そこから先、どういう形でそれをやるかというのは、教育庁を含めての大きな方針だと思いますので、そこは、私は教育庁の方針でしっかりやってもらって、やはり教育の場にいる者が法律を平気で違反するというのはどうなのかと思うので。
【記者】そこをいつもおっしゃるのですが、国旗・国歌法というのは、起立しなければいけないとか、歌わなければいけないということは一切決めていないのです。単に日の丸を国旗にします、君が代を国歌にします、ということしか決まっていなくて、要するに強制するという法的な根拠はないのです。
それで伺いたいのは、何回も何回も同じようなことを繰り返して、反省させるというあり方が、教育の場にふさわしくない、教師へのいじめではないかということなのです。
【知事】そこを何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。
「反知性の極右知事」から「知性豊かな学者知事」に代わって、事態は「強権強行の膠着」から抜け出て「対話による解決」への展望が開けるものと希望をもった。ところがどうも、「学者知事の知性」は買い被りだったのかも知れない。舛添知事は、思想・良心の自由にも、個人が国家をどうとらえるかという価値観の多元性も、行政の教育への支配の謙抑性にも、ほとんど関心をもっていないのだ。国旗国歌法というわずか2か条の法律にも目を通したことがない。「国旗国歌法には、『日の丸・君が代』強制を正当化する根拠条文が、何か書き込まれているに違いない」と信じているようだ。恐るべき権力者の無知である。
しかし救いは十分にある。舛添知事は性格的に傲慢ではないようなのだ。「(研修の名での呼出し嫌がらせ)を何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。」と謙虚に言っている。是非、誠実に調査してもらいたい。その上で、的確な判断による人権侵害の一掃を願いたいものだ。
実は、都教委は「思想転向強制システム」と呼ばれた処分の累積加重方式実行に着手していた。これは、毎年の卒業式・入学式のたびに繰り返される職務命令違反について機械的に懲戒処分の量定を加重する、おぞましい思想弾圧手法である。心ならずも、思想良心を投げうって起立斉唱命令に屈服し、「日の丸・君が代」強制を受容するに至るまで、懲戒処分は順次重くなり確実に懲戒解雇につながることになる。
最高裁は、さすがにこれを違法とした。以来、原則として減給以上の重い処分はできなくなった。すると、猛省しなくてはならないはずの都教委はこれに代わる嫌がらせとして、服務事故再発防止研修を強化し、繰りかえしの呼び出しという弾圧手法を編み出したのだ。この点についても、よく調査していただきたい。
さて、就任以来2年を経て、「日の丸・君が代」問題を何も知らない、知ろうとしない知事に、どうすれば「日の丸・君が代」に関心を向けさせることができるだろうか。その一つの手段として、東京オリンピックパラリンピックの機会の最大限利用があろう。大いにこのビッグチャンスを利用しなければならない。
知事は、オリンピックの実施にはことのほか熱心なようだが、オリンピック憲章には、次のような美しい文言が並んでいる。
「オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。」「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。」「スポーツの実践はひとつの人権である。」
人間の尊厳・人権・差別の解消・友情・連帯・フェアプレー…。まさか、東京の教育現場が偏狭なナショナリズム強制の場となり、400年前のキリシタン弾圧と同じ思想・良心弾圧が行われていようとは。オリンピックのために来日する世界の人々が、知れば驚くことになるだろう。
東京オリンピック・パラリンピックは、東京都教育委員会の強権的愚行を世界に訴える絶好のチャンスである。知性ある世界の人々に、日本の首都東京で、愛国心涵養教育の名のもと、「日の丸・君が代」の強制が行われ、既に474件もの懲戒処分が行われていることを広く知らせよう。最高裁が、一定の歯止めをかけているのに、都教委の教員に対する人権侵害はいまだに終息しないのだ。
東京は、思想良心の自由を圧殺する野蛮都市である。価値観の多様性を認めず、「日の丸・君が代」強制を強行している思想・信条・良心・信仰の弾圧都市である。「日の丸」とは、ナチスのハーケンクロイツと同様の、皇国日本の全体主義と軍国主義のシンボルである。「君が代」とは、神である天皇統治の永続を願うアナクロニズムの象徴である。キリスト教徒やイスラム教徒にとって、その斉唱の強制は苦痛きわまりないのだ。現実にすくなからぬ教員が、自分の信仰ゆえにこの歌を歌えないとして処分を受けている事実を知ってもらいたい。
日本の民主主義も人権意識も、この程度のものなのだ。東京オリンピックに集う各国の人々に、オリンピック期間中に氾濫する「日の丸・君が代」が、東京都の全教員に強制されるという異常な事態であることをよく認識していただきたい。世界の知性と国際世論で、東京に抗議の声を集中していただきたい。思想・良心・信仰の自由、人権という普遍的な価値のために。
(2016年3月16日)
これ以上はない大きな反響を呼んだ話題のブログの冒頭の一節。
保育園落ちた日本死ね!!!
何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
国会で取り上げられ、アベとその取り巻きのことさらの無視が、同じ境遇の女性を中心に大きな反発を招いた。「保育園落ちたの私だ」デモとなり、署名活動が行われて、署名簿提出にはカメラの前で厚労大臣が直接受領せざるを得なくなった。その後、アベ内閣はこの問題に真剣に取り組んでいる姿勢をとらざるを得ない事態となっている。野党も世論も、重大なテーマとしてこの問題に関心を向けている。市井のひとりのブログが、これだけのインパクトをもった例は他にないだろう。
そのインパクトの根拠は、何よりもテーマにある。多くの人が、このブログを我が身のこととしてとらえ、自分の心情を代弁したものと認識した。共感の輪を広げようと当事者意識をもったのだ。
さらに、このブログは、必ずしも「我がこと」でない多くの人にも、広く共感を得るテーマでもあることを示した。アベ政権が本気になって働く女性の立場に立とうとしてはいないことを、みんなが知っている。実のところアベの関心は、企業にとっての安上がりの労働力と、財政にとっての安上がりの保育。そして、なおざりの政策で女性の立場に立っているようなフリのパフォーマンスが成功しているか否かだけなのだ。「保育園落ちた日本死ね!!!」は、その虚妄を厳しく衝いた。「日本死ね」の本心は、「アベ政権つぶれろ」と読まなくてはならない。
それだけではない。私は、このブログが大きなインパクトをもった理由として、テーマや内容だけでなく、一見乱暴な文体も大いに寄与していると感心している。あらためて読み直してみると、怒り心頭の気持にふさわしいみごとな表現ではないか。
このブログは、間違いなく普段よくものを考えている人の文章である。知識も豊富で、論理的な思考にも長けている。別の場面では、きちんとした文章を書く能力の持ち主だ。その人が、半分は怒りのほとばしりとして、また半分はインパクトを計算して、為政者のタテマエとホンネの懸隔にみごとに切り込んだのだ。
品格だの、文体の美しさだの、日本語の奥ゆかしさだの、そんなことを言いたい人には言わせておけ、という突き放した気持ちが表れている。私は、怒りの表現にふさわしい、怒れる文体を、立派なものと称賛したい。
憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。「保育園落ちた。日本死ね」の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。
お元気だった頃の大江志乃夫さんから聞いた話。大江さんの父君は、陸軍大佐大江一二三。日中戦争で戦死した部下の遺品に胸が痛んだという。その兵士が身につけていた母親の写真の裏面に母を恋う長歌が書き込まれ、その最後に「お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん」と24回。繰りかえして「お母さん」が書き連ねてあったそうだ。
私は、この話を思い起こすたびに目頭が熱くなる。なまじの整った文章よりも、思いを書き連ねた率直さこそが、人の胸を打ち、心をとらえる。母を想う心情でも、政策への怒りでも同じことだろう。
などと思っていたところに、言わずもがなのことを言って水を差す人物が表れた。やはりこの人、と言ってよかろう。曾野綾子である。産経新聞に曽野綾子のコラムが連載されている。連載コラムの標題が、「小さな親切、大きなお世話」。3月13日のこのコラムに、曾野が例の如く、アベ政権擁護の立場からの記事を書いた。
今回の記事は「貧しい表現力が招く不幸」という見出し。「このブログ文章の薄汚さ、客観性のなさをみていると、私は日本人の日本語力の衰えを感じる。言葉で表現することの不可能な世代を生んでしまったのは教育の失敗だ」「SNSに頼り、自分の思いの丈を長い文章で表す力をついに身につけなかった成人は、人間とは言えない」というのだ。こんな右翼作家のくだらぬ世迷い言にまともに反論するのも大人げない。曾野の時代錯誤の文章には、「何をえらそうに、ちゃんちゃらおかしい」。「大きなお世話だ」。そう言っておけばよいだけのこと。
しかし、少しだけ気になるところがある。右翼曾野が、「日本死ね」の言い回しに過剰反応していることだ。「自分に都合の悪いことがあると、『日本死ね』である。別に大人げなく反論する気もないが、日本を有数のいい国だと思っている私のような人間もいるのだから、この人の方が嫌いな日本を捨てて、今すぐもっと上等な他国に移住なさればいい。」というものの言い方。
曾野の日本語力が、「日本人の日本語力の衰え」を嘆くに値するほどのものとも思えないが、それは別問題。曾野の文章の虚飾を剥ぎ取れば、「保育園落ちたくらいで政権を批判する輩は日本から出て行け」と言っているのだ。ネトウヨ言葉を借りれば、「反日非国民は日本から出ていけ」ということ。
曾野コラムに対するまともなネットの反応は、「『日本から出ていけ』とか『文章の書けない成人は人間とは言えない』とは自分が多少書けるからと言って、底辺に生きる人に思いを馳せることない随分思い上がった見解」「私はこの文書を投稿した人の悲痛な気持ちが痛いほど伝わってきましたし、自分の思いをきちんと表現していると思いました。」「実際にこの匿名の投稿がネットで話題になり、国会で話題になり、子育て世代の保護者を動かしました。ということは、多くの人を動かした文章だった…ということですよね?」というのが代表的なもの。しかし、当然のことながら、産経・右翼グループは曾野に賛意を表して一群を形成している。
曾野の言にみられるような、
「政権批判」⇒「非国民」「反日」のレッテル⇒日本から出て行け
の反知性的短絡論法蔓延の危険を過小評価してはならない。攻撃的な同調圧力や排外・排斥主義には警戒を要する。
とはいえ、「保育園落ちた日本死ね」のこのブログ。アベとその取り巻きに無視されたことがきっかけで天下の注目を浴びることとなり、さらに今度は、産経・曾野綾子コラムの「大きなお世話」で再びの話題に。政権と右翼のおかげでの知名度アップ。今年の流行語大賞は、もう決まりだべ。「保育園落ちた日本死ね」か、それとも「保育園落ちたのは私だ」のどちらかだろう。
(2016年3月15日)