那覇地裁「沖縄戦・国賠訴訟判決」の冷酷さには承服しかねる。
昨日(3月16日)那覇地裁(鈴木博裁判長)で「沖縄戦被害・謝罪及び国家賠償訴訟」の判決が言い渡された。請求棄却。沖縄戦で筆舌に尽くしがたい被害を受けたとして、住民とその遺族79人が、国を被告としてその責任を問い、被害に対する謝罪と慰謝料の賠償を求めた訴えはすべて斥けられた。空襲被害国家賠償訴訟も同様だが、原告となった被害者の無念の思いはいかばかりであろうか。
あらためて、国家とは何か、国家が引き起こす戦争という罪悪とは何か、国家は国民にいかなる責任を負っているのかなどを考えさせられる。
我が国のは、戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという決意を原点として新たな国を作った。その戦争の惨禍が、具体的な被害実態として法廷に持ち込まれたのだ。この被害をもたらした国家の責任を問うために、である。この課題に司法は、正面から向き合っただろうか。
2014年3月に、高文研から「法廷で裁かれる日本の戦争責任」という大部な書籍が刊行されている。戦争の被害と国家の責任について法廷で争われた各事件について、担当弁護士のレポートを集大成したもの。大きく分類して、日本軍の加害行為によって対戦国の被害者が原告になっている事件と、日本人の戦争被害者が原告になって国家に被害救済を求めた事件がある。前者の典型が、従軍慰安婦・強制連行・住民虐殺・細菌兵器・毒ガス兵器・住民爆撃事件など。後者は、原爆投下・残留孤児・東京大空襲・大阪空襲訴訟・シベリア抑留訴訟などである。その編者が、瑞慶山茂君。私と同期で司法修習をともにした、沖縄出身の弁護士。今回の「沖縄国賠訴訟」の弁護団長でもある。
私は、たまたまこの書の書評を書く機会を得て、民間戦争被害者が被害の救済を得られぬままに放置されている不条理への瑞慶山君の並々ならぬ憤りと、国家の責任を明確にしようという訴訟への情熱を知った。判決には注目していたが、彼の無念の思いも察するに余りある。
日本人の戦争被害は、軍人・軍属としての被害と、民間人の被害とに分類される。いずれも、国家が主導した戦争被害として、国家が賠償でも補償でも、救済を講じるべき責任をもつはず。しかし、「軍人・軍属としての被害」に対する国の救済姿勢の手厚さと、民間人被害に対する冷淡さとには、雲泥の差がある。いや、「雲泥の差」などという形容ではとても足りない、差別的取り扱いとなっているのだ。
昨日(3月16日)付の弁護団・原告団声明のなかに、次の1節がある。
「被告国は、先の大戦の被害について恩給法・援護法を制定して、軍人軍属には総合計60兆円の補償を行ってきたが、一般民間戦争被害に対しては全く補償を行ってこなかった。沖縄戦の一般民間戦争被害については、その一部の一般民間人については戦闘参加者として戦後になって認定し補償を行ってきたが、約7万人の死者と数万人の後遺障害者に対しては謝罪も補償も行うことなく放置している。ここに軍人軍属との差別に加え、一般民間人の中にも差別が生じている(二重差別)。そこで、この放置された一般民間戦争被害者のうち79名が、人生最後の願いとして国の謝罪と補償を求めたのがこの訴訟である。
にもかかわらず、那覇地方裁判所は原告らの切実な請求を棄却したのである。基本的人権救済の最後の砦であるべき裁判所が、司法の責務を放棄したものと言わざるを得ない。」
戦後の日本は、軍人軍属としての戦争被害には累積60兆円の補償をしながら、民間被害にはゼロなのである。「60兆円対0円」の対比をどう理解すればよいのだろうか。これを不合理と言わずして、何を不合理と言えるだろうか。
過日、福島第1原発事故の刑事責任に関して、3名の最高幹部が強制起訴となった。
「あれだけの甚大な事故を起こしておいて、誰も責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」という社会の常識がまずあって、しかる後にこの社会常識に応える法的構成や証拠の存在が吟味されたのだ。私は、このようなプロセスは真っ当なものと考える。
同じことを国家の戦争責任と民間被害救済についても考えたい。「あれだけの甚大な戦争被害を生じさせておいて、国家が責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」から出発しよう。
国家が違法な戦争をした責任のうえに、個人の戦争被害救済をさせるのに障害となる大きなものが二つある。一つは、日本国憲法によって国家賠償法ができる以前の常識的な法理として、「国家無答責」の原理があったこと。国家権力の行使に違法は考えられない。損害賠償などあり得ないということ。昨日の判決もこれを採用した。そもそも損害賠償の根拠となる法がないということなのだ。
そして、もう一つの壁が消滅時効の成立という抗弁である。仮に、戦争被害に損害賠償債務が生じたとしても、時効が完成していて70年前の被害についての法的責任の追及はできない、ということ。
この両者、「国家無答責の壁」と「時効の壁」を乗り越える法的構成として、「立法不作為」の違法が主張されている。軍人軍属への補償だけではなく、民間人の戦争被害についても救済しなければならないにもかかわらず、これを放置したことの違法である。
軍人軍属にばかり手厚く、民間に冷淡なこの不公平は、誰が見ても法の下の平等を定めた憲法14条に違反する、違法な差別というべきだろう。「人の命に尊い命とそうでない命があるのか。救済が不十分なのは憲法の平等原則に反する」というのが、原告側の切実な訴えである。不当な差別があったというだけでは、賠償請求の根拠にはならないが、立法不作為の違法の根拠には十分になり得る。
ところが、昨日の那覇地裁判決はこの、「60兆円対0円」差別を不合理ではないとしたのだ。「戦争被害者は多数に上り、誰に対して補償をするかは立法府に委ねられるべき。軍の指揮命令下で被害を受けた軍人らへの補償は不合理ではない」と判断したという。
もう一度、常識的感覚に従って、全体像を眺めてみよう。
「『軍官民共生共死の一体化』の方針の下、日本軍は住民を戦場へとかり出し、捕虜になることを許さなかった。陣地に使うからと住民をガマから追い出したり、スパイ容疑で虐殺したり、『集団自決(強制集団死)』に追い込むなど住民を守るという視点が決定的に欠けていたのである」「判決は「実際に戦地に赴いた」特殊性を軍人・軍属への補償の理由に挙げるが、沖縄では多くの住民が戦地体験を強いられたようなものだ。(沖縄タイムス3月17日社説)」
にもかかわらず、軍人軍属にあらざる民間人の救済は切り捨てられたのだ。血も涙もない冷酷な判決と言うしかなかろう。こんな司法で、裁判所でよいものだろうか。健全な社会常識を踏まえた「血の通った裁判所」であって欲しい。このような判決が続けば、裁判所は国民の信頼を失うことにならざるを得ない。
(2016年3月17日)