澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

プーチンの汚職疑惑を訴えるブロガーの覚悟

2月12日の各紙に小さく載った時事通信の配信記事。ロシアのブロガーが、プーチンを訴えたのだという。ほかならぬ「あのプーチン」を、である。短い記事なので全文を引用しよう。タイトルは、「ロシア大統領を提訴=政敵ブロガー、汚職と指摘」というもの。穏やかな話しではない。

【モスクワ時事】ロシアの反政権ブロガー、アレクセイ・ナワリヌイ氏は11日、プーチン大統領に汚職疑惑があるとして、モスクワの裁判所に提訴したと発表した。大統領の決定で昨年10月、娘婿が株主の石油化学会社に政府系ファンドから約18億ドル(約2000億円)が拠出されたという。
ペスコフ大統領報道官は記者団に「(大統領は訴えを)知らない」と説明した。次期大統領選の前哨戦となる9月の下院選前に、波紋を広げる可能性がある。

これだけの記事では、正確なことは分からない。汚職疑惑があるなら刑事告発をすべきところだが、プーチンの手下がプーチンを訴追することは考えがたい。では、いったい裁判所にどのような提訴をしたのだろうか。どのような勝訴への成算があるのだろうか。提訴が記事になるインパクトだけが獲得目標なのだろうか。そもそも「疑惑」は秘密のことなのだろうか。それとも誰もが知っていることなのだろうか。どれほどの根拠あっての「提訴」なのだろうか。

それはともかく、ロシアにも「反政権ブロガー」が存在するのだ。その「反政権ブロガー」が権力者プーチンの最大の政敵として、プーチンの巨大汚職を告発したのだという。「提訴したとの発表」もおそらくはブログでなされたのだろう。プーチンと渡り合うという武器となったブログの威力に興味津々ではないか。

権力的統制には弱いロシアのメディアである。遠慮のないプーチン批判は難しかろう。ましてや、プーチンの汚職摘発はハードルが高い。それでも、ブログで批判や告発がなされているという間接的な形であれば、記事にできるのではないか。「ナワリヌイがプーチンを提訴」は、現に報道されている。メディアの腰が引けているとき、これに代わるものとしてのブログの影響力は大きい。メディアが沈黙するとき、人々の情報の渇望に応えて、たったひとりが発信するブログの政治的意義ははかりしれない。

アレクセイ・ナワルヌイとは、「弁護士資格を持つロシアの人気ブロガー」だそうだ。今やプーチンの最大の政敵と自他共に認める存在で、2度の被逮捕経験があるとのこと。この逮捕された経験によって、彼はブログの世界の活動家から、リアルな反体制活動家に変身したのだという。

ブログは、使い手次第でプーチン政権とも対等に戦う恐るべき武器たりうる。組織なく資力なくとも、多くの人に事実を知らせ、多くの人を説得し、多くの人の意識を変え、多くの人に行動を促し、もしかしたら政権や体制を変革するきっかけにすらなり得るのだ。

そのためには、二つの要件がある。一つは、信念を貫く不退転の決意である。プーチンの政敵や批判者たらんとするには、暗殺の恐れを絵空事ではなく現実味あるものと想定し覚悟せざるを得ない。ナワルヌイのブロガーとしての人気は、そのような危険をも覚悟した決意に満ちた発言だからこそ、なのだろう。

私もブロガーの端くれだが、省みてナワルヌイほどの覚悟も決意もない。アベ政権批判も、DHCや吉田嘉明批判も、その他の政治家や大企業や御用メデイアや御用学者批判も、そして天皇や天皇制批判も、稲田や高市批判も、嫌がらせ程度は避けられないにせよ、暗殺を恐れるなどという大仰な覚悟は不要である。

私は、ナワルヌイに学んで、暗殺も恐れぬ覚悟と決意でブログを書こうなどとはけっして思わない。暗殺など恐れる必要なく批判の言論を展開できる自由の獲得に全力を尽くすことにこそ覚悟と決意を向けたいと思う。

そしてもう一つの要件。ブロガーの威力や影響力は、多くの人に読んでもらえてこそのこと。多くの人に読んでもらえる工夫と努力が必要だ。まずは、長い、くどいの悪評を払拭しなければならない。いまに…。そのうちに…。いつかきっと…。
(2016年2月16日)

自治会・町内会ーこの身近にして問題多き難しきもの

朝日が、2月8日から12日まで5回のシリーズで「自治会は今 フォーラム面の現場から」という特集を連載した。各回のタイトルは以下のとおり。

 1 断れない「寄付」って変 2月8日
 2 神社維持、全員で負担? 2月9日
 3 選挙協力、まるで後援会 2月10日
 4 退会者に「ごみ出すな」 2月11日
 5 「地域の要望」誰の声? 2月12日

自治会・町内会は日本全国に遍く組織されている。多くの人にとって、最も身近な組織と言えよう。自治会・町内会との付き合いにおいて、プリミティブに組織と個人の関わりの基本問題が表れる。したがって、自治会・町内会の運用のあり方は、日本社会全体の構造の縮図として深く関心を寄せざるを得ない。民主主義や個人の自立の問題が見えてくるはずなのだ。いま、その切り口となるキーワードは「社会的同調圧力の組織化」ではないか。

「寄付」や「神社維持」への協力の強制、「選挙」や「地域の要望」への動員は、典型的な社会的同調圧力といえよう。「退会者に『ごみ出すな』」はその強制の手段としての深刻な問題。全体的傾向として、個人の自立が社会的同調圧力に組み敷かれている構図が描かれている。地方行政の末端組織として組み入れられた自治会・町内会のあり方の再考が求められてもいる。

言うまでもなく、自治会・町内会に入会するもしないも自由。なんの理由も不要でいつだって退会可能だ。とは言うものの、ひとり入会せずに非協力を貫くことには相当のプレッシャーがかかってくる。敢えて、退会するのはなおさらのことだ。これが、社会的同調圧力。

非権力的組織であるから、住民の合意だけで組織され運営される。親睦のみならず、地域の環境保全や治安や災害対策に有用であることは言うまでもない。地域と行政とのパイプ役としても、その存在意義は否定し得ない。しかし、現実には民主的な運営の確保が難しく、社会的同調圧力を合理化し実行する組織になる危険を常にはらんでいる。

連載第1回に掲載の、佐倉市の自治会の例が示唆に富む。14年前、役員会での討議を経て、日本赤十字社などへの寄付という事実上の強制をやめたという。もちろん、建前としては寄付は強制ではない。しかし、衆人環視の中で寄付を断ることは難しい。これが、社会的同調圧力のなせる業。そこで、任意制が徹底するよう集め方を変えた。「大判の封筒を使う方法だ。誰がいくら入れたか分からないように封筒のお金を入れるところだけ開けておき、隣の家に回す。封筒の表には寄付するかどうかも、金額も自由と書いた。」

任意のはずの寄付が事実上の強制となる不合理を不合理として確認し、任意制を徹底する具体的な方法まで考えて実行した、最も身近な場における民主主義の実践に、敬意を表せざるを得ない。

朝日の記事は、次の点でさらに示唆に富む。
当時自治会長だった内野光子さんは、封筒方式を実現できたのは当時、役員10人のうち女性が6、7人を占めていたからだと思っている。「リタイア男性中心の『オヤジ自治会』や、同じ人が長く居座る『ボス自治会』では改革が難しい。役員に主婦がもっと入らないと変わらない。

なるほど、言われてみればそのとおり。男性中心の『オヤジ自治会』や『ボス自治会』の問題性は、ひろがりを持っている。自治会が日本社会の構造の一部であり縮図である以上は、地方政界の『オヤジ議会』や『ボス自治体』の問題でもあり、さらには『オヤジ国会』や『ボス内閣』という日本の政治構造にもつながっている。

オヤジやボスは、今この社会の多数派を取り仕切っている。オヤジやボスの常識は、「地域共同体の日常の懇親や親睦による出る杭のない、穏やかな秩序が何より」「行政に貸しを作り、いざというときには行政に口利きのパイプをつなげておくことが肝要」「みんなが文句を言わずに労力と経済的負担をして自治会を支えるべきが常識」「地域の結束のためではないか。自治会が神社への奉賛をすることになんの問題があろうか」「役員は多大な労力を費やしているのだから、会費で多少の飲み食いしたくらいで、細かいことをうるさく言うな」というもの。

このオヤジ感覚ボス体質が保守政党の末端組織とつながる。自治会・町内会を通じて、オヤジやボスの体制派的常識が組織化され保守勢力に吸い上げられる。平時は、天皇制と結びついた神社を支え、行政や警察機構の末端として働き、また保守政党を地域で支える。そして、一旦緩急あらば、大政翼賛会か国防婦人会の末端組織に、あるいは関東大震災後の自警団に早変わりしかねない危うさを持っている。

朝日記事の第2回が、神社の費用負担問題を取り上げている。
この中に、ある自治会長(男性・72)の「神社は地域の守り神、文化のようなもの。特定の宗教という感覚はない」との見解が紹介されている。おそらくホンネなのだろうし、これが社会の多数派の意見なのかも知れない。しかし、少数派のなかには、潔癖な信仰者もいようし、無神論者として特定宗教への寄金に抵抗感をもつ者もいる。このような少数者の意見が無視されてよかろうはずはない。

もっとも、なかなかに少数者の発言は難しい。黙っていれば、多数派の横暴がまかりとおる。自治会・町内会の意見が、地域全体の意見にすり替えられる。かくて、自治会・町内会は、保守政権支配の末端組織として機能することになる。

地元の自治会・町内会の活動に積極的に関わって、原則を曲げずに辛抱強く民主的な運営を実践している方を尊敬する。マンションの管理組合もPTAも同様だ。私には、上手にやり遂げる自信がない。ならば、次善の策として自治会に加入しないのも一つの意思表示。

これまで、居を構えてから幾十年、地域自治会や町内会に加入したことがない。回覧板も寄付の要請も、私の家だけは通り過ぎる。

ずいぶん以前のことだが、ある町会長さんに呼ばれて、親切に加入を勧められたことがある。そのとき、町内会の規約や会計報告、そして立派な会の歴史をまとめた冊子を見せていただいた。ずいぶん整った自治会だと一面好感をもったが、ご多分にもれない問題が2点。自動的に近くの著名な神社の氏子となって自治会からの奉納金の支出が行われていた。そして、もう1点、私の大嫌いな自民党の有力政治家との友好関係が見えていた。自治会の大きな行事はその政治家の「会館」で行われ、会史にその政治家が登場してくる。これは、生理的に受け容れがたい。

中にはいって改革すべきなのだが、私にできそうもない。私にできることは、自治会に加入しない選択肢もあるのだと身をもって示す程度のこと。私は未熟であり、この先も成熟の可能性はない。もしかしたら、この程度のことも都会だから出来ることなのかも知れない。

佐倉市内の住民自治会で、果敢に民主主義を実践してこられた内野光子さんのブログを参照していただきたい。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/cat7752986/index.html

(2016年2月15日)

高市早苗発言のホンネ

私、高市早苗です。総務大臣のポストにあって、微力ながらもけなげにアベ政権を支えています。甘利さん、島尻さん、丸川さん、岩城さんなど、アベ政権を支える閣僚の不祥事や問題発言、そして無能ぶりが話題になっています。しかし、私に関しては不祥事とも、問題発言とも無縁です。もちろん無能とも。私の発言はすべて計算ずく、言わば確信犯なのですから、島尻さんや丸川さん岩城さんなどと一緒にされるのは、迷惑至極と言わねばなりません。

アベ政権の反知性の姿勢が批判の対象となっていますね。島尻さん、丸川さん、岩城さんなどは、いかにも「反知性」を感じさせますが、飽くまでも私は別格です。私は、アベ政権の知性を代表して、アベ政権を支えるために日夜奮闘しているのですから。

総務省って昔の自治省と郵政省を統合したもので、郵政省が管轄していた電波監理行政は今総務大臣である私の手の内にあります。NHKも民放も、放送法の縛りの中での免許事業ですから、私の意向を忖度しながら動かなければなりません。それが当然、当たり前のことではありませんか。

放送に携わる多くの方には、私が何を考えているか、どうすれば私の意に沿う放送内容になるのか、またどうすれば私の逆鱗に触れることになるのか、よくご理解いただいています。それくらい気がきかなければこの世界で生き抜いていくことが出来るとは思えませんものね。「憲法9条を守れ」だの、「解釈改憲は怪しからん」だの、「アベ政権の姿勢はおかしい」「アベノミクスは大失敗」だのといえば、免許権を持っている官庁との間に無用の摩擦が生じてものごとが面倒になる、そのくらいのことは大人の分別をお持ちの方ならよくお分かりのはず。

でも、今に限っては、「よくお分かりのはず」では不十分なのです。テレビやラジオの放送事業に携わる者の大部分はものわかりのよい方ばかりですが、ごく一部ではありますが変わり者もいます。「ジャーナリズムの真髄は政権批判にある」などと訳の分からぬことを言う人たち。普段ならともかく、今はこういう確信犯的人物の出番をなくさねばなりません。そのために、放送事業者に絶えずシグナルを送り続けなければならないのです。

何しろ、これから無理をしてでも、国民に不人気な明文改憲をやろうというアベ政権なのです。今のメディアの状況が続けば、アベ政権批判が噴出して、もたないことになるかも知れない。その危機感は閣内全体のものとなっています。だから、私がアベ政権を支える立場から、メディアの政権批判を抑制するよう火中の栗を拾わなければならないのです。

私は知性派ですから、必要な限りでホンネを発言しつつ、突っ込まれても躱せるように、切り抜け策を十分に準備しています。それが、「忖度と萎縮効果期待作戦」あるいは「ホンネチラ見せ戦術」と言うべきものなのです。私の独創ではなく、敏腕の政治家や官僚の常套手段といってもよいのではないでしょうか。

「おまえ、人を殺すようなことをするなよ」とか、「嘘を言うものじゃないよ」と言えば、言われた方は怒ります。「オレを人殺しだというのか」「嘘つきだというのか」と。でも、「『人を殺すようなことをしてはいけない』も『嘘を言ってはいけない』も、当然のことを言ったまでのことで、あなたを人殺しや嘘つきと決めつけたわけではない。だからなんの問題もない発言」と切り返すことを準備しているのです。これがアベ政権の悪知恵、いや知能犯、でもなく知性のあるやり方なのです。

私は、2月8日の衆院予算委員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と確かに言いました。でも、飽くまで、一般論を述べただけ、「人を殺すようなことをしてはいけないのは当たり前だろう」と開き直って切り抜けられるように計算した発言なのです。何が政治的な公平性を欠くものか、どこの局のどのような番組にその虞があるのか、具体的な決め付けは何もしていません。

それでも、停波可能性発言のあとに、「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と続けました。ここまで言っておけば、放送事業者には私の真意を十分に忖度していただけるはず、そして萎縮してくれることが十二分に期待できるのです。

当たり障りのないことを言っているようで、実は萎縮狙いの効果抜群の私の発言。知性派である私なればこそ出来ることで、私がアベ政権をけなげに支えていると申しあげた意味も十分にお分かりいただけるものと思います。

ところで、「政治的な公平性」とは何か、誰が判断するのか、ということがにわかに議論となってまいりました。

「政治的な公平性」あるいは「公平性を欠く」という判断は誰がするのか。その判断の権限は、主務官庁の責任者である私にあることは明らかです。私は、逃げることなくその判断をいたします。

考えてもいただきたい。民主主義の世の中です。選挙で主権者の多数からご支持をいただいて政権が出来ています。私の職責も、主権者国民から委託されたものなのです。私がその職責を果たさないことは、国民を裏切ることになろうというものです。

では、「政治的な公平性を欠く」とはどういうことか。私が申し上げましたとおり、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」で十分だと思います。これで、多くの放送事業者はものわかりよく、「憲法を守れ」「9条改憲反対」「アベ政権は非立憲」などと言ってはいけないのだと、正確に呑み込んでいただけるはず。これをアウンの呼吸とか、魚心あれば水心というものでしよう。これにツッコミを入れるなんて野暮というものではありませんか。

えっ? なんですって? 「あなたの目は結局政権だけに向いていて、国民の方には向いていないのか? とおっしゃるのですか」

その質問がおろかなのです。国民が選んだ政権ではありませんか。アベ政権こそが、国民の意思を体現しているのです。ですから、軽々にアベ政権批判は慎んで戴きたいという私の真意は、国民の意思を尊重することでもあるのです。お分かりでしょうか。

ああ、私って、なんて知性派。
(2016年2月14日)

「緊急事態条項は、かくも危険だ」

共産党地区委員会主催の学習会ですから、地域の最前線で活動していらっしゃる皆さまに、実践的なレポートを心掛けたいと思います。

レジメの標題は「緊急事態条項は、かくも危険だ」としましたが、この標題はややおとなしい。「緊急事態条項は憲法政治破壊への突破口」「緊急事態条項は立憲主義へのレッドカードだ」あるいは、「緊急事態条項は地獄の一丁目」などでもよかったのです。要するに、緊急事態条項は日本国憲法を変質してしまうことになる。日本国憲法に異質な緊急事態条項を導入することは、日本国憲法の体系を破壊する、たいへん危険な、それこそ憲法にとっての緊急事態だという危機意識が、本日のテーマです。

本日は、憲法の危機の話しですから、まずは日本国憲法の構造のイメージを確認しておきたいと思います。

日本国憲法が形づくっている体系を、家屋の構造に喩えることでイメージしてください。基礎ないし土台に立憲主義があります。国家の形を憲法で定めるという大原則です。憲法の定めを離れた権力の暴走を許さないという原則でもあります。この土台の上に、3本の柱が並び立って建物の構造の基本を作っています。

中心にある最も太い柱が、基本的人権尊重の柱です。この柱の中心は憲法13条の個人の尊重で出来ています。その周囲に、精神的自由や、人身の自由、経済的自由、さらには生存権や政治参加の権利なども加わって、立派な大切な柱となっています。

2本目の柱が民主主義です。政治は主権者の意思で行う。国民が選挙によって立法府をつくり、立法府が行政府である内閣をつくって国民のための政治を行う。立法府や行政が暴走しないように、憲法の番人としての裁判所を置く。国民の国民による政治という仕組みが民主主義の本質をなすものです。

そして3本目の柱が平和です。我が国は、天皇制政府の軍国主義・侵略主義によって国の内外に計り知れない戦争の惨禍をもたらし、国はいったん事実上の滅亡を経験しました。その復活の原理として平和が憲法上に書き込まれて、3本目の柱となっています。

それぞれの柱はバラバラに立っているのではありません。組み合わさり支え合って、土台と3本の柱が整然とした憲法秩序を形づくっています。これをトランプに喩えたのが、大江志乃夫さん。4種各12枚、合計52枚のカードの整然たる秩序は、1枚のジョーカーによってぶちこわされてしまう。この強力なジョーカーにあたるものが、国家緊急権と言われるもので、大江さんは戒厳令を念頭にジョーカーと言ったのですが、今アベ政権が言い出している緊急事態条項もまったく同じことなのです。

ジョーカーに喩えられる緊急事態条項がいかに、日本国憲法の秩序にふさわしからぬもので、いかに危険か。このことについて、今日は同じことを、レジメの第1章から3章それぞれで3回繰り返します。レジメをご覧ください。

第1章 スローガン編(骨格)
 ビラの見出しに、マイクでの呼びかけにご活用ください。
第2章 理論編(肉付) 
 確信を得て、改憲派と切り結ぶために、面倒ですが耳を傾けてください。
第3章 資料編
 資料を使いこなすことで説得力を身につけてください。

第1章 スローガン編
 「いま、緊急事態条項が明文改憲の突破口にされようとしている」
 しかし、「緊急事態条項は不要だ」「緊急事態条項が必要はデマだ」
 「緊急事態条項は不要と言うだけではない。危険この上ない」
 「緊急事態条項の導入を『お試し改憲』程度と軽視してはならない」
 「緊急事態条項は既に準備されている」
 「自民党改憲草案9章(98条・99条)に条文化までされている」
 「緊急事態条項は、立憲主義を突き崩す。人権・民主々義・平和を壊す」
 「緊急事態とは、何よりも『戦時』のことである。
    ⇒戦時の法制を想定している」
 「『内乱等による社会秩序の混乱』に対する治安対策である。
    ⇒大衆運動弾圧を想定している。
 「緊急事態においては、内閣が国会を乗っ取る。政令が法律の役割を果たす」
    ⇒議会制民主主義が失われる。独裁への道を開く。
 緊急事態条項とは、国家緊急権を明文化したもの。
  国家緊急権は、それ一枚で整然たる憲法秩序を切り崩すジョーカーだ。
  国家緊急権は、天皇主権の明治憲法には充実していた。
  その典型が、天皇の戒厳大権であり、緊急勅令であった。
  ナチスも、国家緊急権を最大限に活用した。
  悪名高い授権法によって、政府は国会から立法権を剥奪し独裁を完成させた。
  最も恐るべきは、緊急事態条項が憲法を停止すること。
  そして、緊急時の一時的「例外」状況が後戻りできなくなることである。

第2章 理論編
1 憲法状況・政権が目指すもの
 ☆解釈改憲(閣議決定による集団的自衛権行使容認から戦争法成立へ)だけでは、
  政権に満足し得る状況ではない。戦争法は、必ずしも軍事大国化に十分な立法ではない。現行憲法の制約が桎梏となっている。⇒明文改憲が必要だ。
 ☆第二次アベ政権の明文改憲路線は、概ね以下のとおり。
  96条改憲論⇒立ち消え(解釈改憲に専念)⇒復活・緊急事態条項
  改憲手続(国民投票)法の整備⇒完了
  そして最近は9条2項にも言及するようになってきている。
2 なぜ、緊急事態条項が明文改憲の突破口とされているのか。
 ☆東日本大震災のインパクトを利用
  「憲法に緊急事態条項がないから適切な対応が出来なかった」
 ☆「緊急事態への定めないのは現行憲法の欠陥だ」
  仮に、衆院が構成がないときに「緊急事態」が生じたら、
☆政権側の緊急事態必要の宣伝は、「衆院解散時に緊急事態発生した場合の不備」に尽きる。
  「解散権の制限」や「任期の延長」規程がないのは欠陥という論法。
  しかし、現行憲法54条2項但し書き(参議院の緊急集会)の手当で十分。
 ☆それでも「お試し改憲」(自・公・民・大維の賛意が期待できる)としての意味。
 ☆あわよくば、人権制約制限条項を入れたい。
3 政権のホンネ
 ☆国家緊急権(規程)は、支配層にとって喉から手の出るほど欲しいもの
  大江志乃夫著「戒厳令」(岩波新書)の前書に次の趣旨が。
 「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。
  他の52枚のカードが形づくる整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」
 ☆自由とは権力からの自由と言うこと。人権尊重理念の敵が、強い権力である。
  人権を擁護するために、権力を規制してその強大化を抑制するのが立憲主義。
  立憲主義を崩壊せしめて強大な権力を作るための恰好の武器が国家緊急権。
 ☆戦時・自然災害・その他の際に、憲法の例外体系を形づくって
   立憲主義を崩壊させようというもの。
4 天皇制日本とナチスドイツの国家緊急権
 ☆明治憲法には、戒厳大権・非常大権・緊急勅令・緊急財政処分権限などの国家緊急権制度が明文で手厚く規程されていた。
 ☆ナチスドイツは授権法を制定して内閣が立法権を乗っ取った。
 ☆その反省から、日本国憲法は、国家緊急権(規程)の一切を駆逐した。
  その経過は制憲議会の金森徳次郎答弁に詳しい。
  戦争放棄⇒戦時の憲法体系を想定する必要がない。
  徹底した人権保障システム⇒例外をおくことで壊さない
5 自民党改憲草案「第9章 緊急事態」の危険性
 ☆旧天皇制政府の戒厳・非常大権規程が欲しい⇔「戦後レジームの総決算」
  ナチスの授権法があったらいいな⇔「ナチスの経験に学びたい」
しかも、緊急事態に出動して治安の維持にあたるのは「国防軍」である。
 ☆自民党改憲草案による「緊急事態」条項は
  濫用なくても、「戦争する国家」「強力な権力」「治安維持法体制」をもたらす。
  しかも、濫用の歯止めなく、その危険は立憲主義崩壊につながる
6 まずは、徹底した「緊急事態条項必要ない」の訴えと
 次いで、「旧憲法時代やナチスドイツの経験から、きわめて危険」の主張を

第3章 資料編
☆日本国憲法54条2項
「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。」
「現行憲法の欠陥」はない。この条項で十分。まったく困ることはない。

☆自民党改憲草案(2012年4月27日)「第9章 緊急事態」
 98条 緊急事態の宣言⇒「要件」
 1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる

 99条 緊急事態宣言の効果⇒「効果」
 1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、《内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる》ほか、内閣総理大臣は《財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。》
 3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。

☆自民党「Q&A」(99条3項関連)⇒憲法の質を変える
 現行の国民保護法において、こうした憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかったことを踏まえ、法律の定める場合には、国民に対して指示できることとするとともに、それに対する国民の遵守義務を定めたものです。

☆民主党「憲法提言」(民主党憲法調査会 2005 年10 月31 日)
3.違憲審査機能の強化及び憲法秩序維持機能の拡充
国家非常事態における首相(内閣総理大臣)の解散権の制限など、憲法秩序の下で政府の行動が制約されるよう、国家緊急権を憲法上明示しておくことも、重ねて議論を要する。
? 国家緊急権を憲法上に明示し、非常事態においても、国民主権や基本的人権の尊重などが侵されることなく、その憲法秩序が確保されるよう、その仕組みを明確にしておく。

☆公明党憲法調査会による論点整理(公明党憲法調査会、2004 年6 月16 日)
「ミサイル防衛、国際テロなどの緊急事態についての対処規定がないことから、あらたに盛り込むべしとの指摘がある。ただ、あえて必要はないとの意見もある。」

☆大日本帝国憲法の国家緊急権規程
 第14条(戒厳大権)
  1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
  2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
 第8条(緊急勅令)
  1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
 第70条(緊急財政処分) 
  1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
 第31条(非常大権)
   本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ

☆ナチスドイツの授権法(全権委任法)全5条
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる。
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる。
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は《1937年4月1日までの時限立法》である。

☆日本国憲法制定時の、対GHQ「3月2日」案(GHQ草案が46年2月13日)
 明治憲法下の緊急命令及び緊急財政措置に代わるものとして、76 条において、「衆議院ノ解散其ノ他ノ事由ニ因リ国会ヲ召集スルコト能ハザル場合ニ於テ公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ必要アルトキハ、内閣ハ事後ニ於テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシ法律又ハ予算ニ代ルベキ閣令ヲ制定スルコトヲ得」と規定されていた。GHQ側は、国家緊急権に関する英米法的な理解を根拠に、「非常時の際には、内閣のエマージェンシー・パワー(emergency power)によって処理すべき」としてこれを否定したが、その後の協議の結果、日本側の提案に基づき、参議院の緊急集会の制度が採り入れられることになった。(衆議院憲法審査会「緊急事態」に関する資料)

☆制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁
緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ仲展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス」
「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」

☆法律による「緊急事態」への対処について(『改憲の何が問題なのか』(岩波、2013年)所収の水島朝穂「緊急事態条項」)水島朝穂さんのブログ「直言」から
 「日本の場合、憲法に緊急事態条項はないが、法律レヴェルには「緊急事態」という文言が随所に存在することである。例えば、「警察緊急事態」(警察法71条)、「災害緊急事態」(災害対策基本法105条)、「重大緊急事態」(安全保障会議設置法2条9号)である。これに「防衛事態」(自衛隊法76条)、「武力攻撃事態」(武力攻撃事態法2条)、「治安出動事態」(自衛隊法78、81条)が加わる。憲法9条の観点から合憲性に疑義のあるものもあるが、ここでは立ち入らない。」

最後に、東北弁護士会連合会の会長声明を引用します。これは、今国会(1月27日)の代表質問で志位委員長が引用して、急に有名になったものですか、たいへんよくできています。説得力に富むものだと思います。

☆東北弁連会長声明
災害対策を理由とする国家緊急権の創設に反対する会長声明
現在、与党自民党において、東日本大震災時の災害対応が十分にできなかったことなどを理由として、日本国憲法に「国家緊急権」の新設を含む改正を行うことが議論されている。
国家緊急権とは、戦争や内乱、大災害などの非常事態において、国民の基本的人権などの憲法秩序を一時停止して、権限を国に集中させる制度を言う。《この制度ができると国は強大な権限を掌握することができるのに対し、国民は強い人権制約を強いられることになる。災害対応の名目の下に、国家緊急権が創設されることは、非常に危険なことと言わざるを得ない。》
そもそも、日本国憲法の重要な原理として、権力分立と基本的人権の保障が定められたのは、国家に権力が集中することによって濫用されることを防ぎ、自由・財産・身体の安全など、国民にとって重要な権利を守るためである。大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という)時代には国民の人権が不当に侵害され、戦争につながった経験に鑑みて、日本国憲法はかかる原理を採用している。また、旧憲法には国家緊急権の規定があったが、それが濫用された反省を踏まえて、日本国憲法には国家緊急権の規定はあえて設けていない。
《確かに、東日本大震災では行政による初動対応の遅れが指摘された事例が少なくない。しかし、その原因は行政による事前の防災計画策定、避難などの訓練、法制度への理解といった「備え」の不十分さにあるとされている。》例えば、震災直後に被災者に食料などの物資が届かなかったこと、医療が十分に行き渡らなかったことなどは、既存の法制度で対応可能だったはずなのに、避難所の運営の仕組みや関係機関相互の連絡調整などについての事前の準備が不足していたことに原因があるのである。東京電力福島第一原子力発電所事故に適切な対処ができなかったのも、いわゆる「安全神話」の下、大規模な事故が発生することをそもそも想定してこなかったという事故対策の怠りによるものである。つまり、災害対策においては「準備していないことはできない」のが大原則であり、これは被災者自身が身にしみて感じているところである。
そもそも、日本の災害法制は既に法律で十分に整備されている。例えば、災害非常事態等の布告・宣言が行われた場合には、内閣の立法権を認め(災害対策基本法109条の2)、内閣総理大臣に権限を集中させるための規定(災害対策基本法108条の3、大規模地震対策特別措置法13条1項等)、非常事態の布告等がない場合でも、防衛大臣が部隊を派遣できる規定(自衛隊法83条)など、災害時の権限集中に関する法制度がある。また、都道府県知事の強制権(災害救助法7?10条等)、市町村長の強制権(災害対策基本法59、60、63?65条等)など私人の権利を一定範囲で制限する法制度も存在する。従って、国家緊急権は、災害対策を理由としてもその必要性を見出すことはできない。
他方で、《国家緊急権はひとたび創設されてしまえば、大災害時(またはそれに匹敵する緊急時)だけに発動されるとは限らない。時の政府にとって絶対的な権力を掌握できることは極めて魅力的なことであり、非常事態という口実で濫用されやすいことは過去の歴史や他国の例を見ても明らかである。国民の基本的人権の保障がひとたび後退すると、それを回復させるのが容易でないこともまた歴史が示すとおりである。》
よって、当連合会は、《東日本大震災において甚大な被害を受けた被災地の弁護士会連合会として、災害対策を理由とする国家緊急権創設は、理由がないことを強く指摘し、さらに国家緊急権そのものが国民に対し回復しがたい重大な人権侵害の危険性が高いことから、国家緊急権創設の憲法改正に強く反対する。
2015年(平成27年)5月16日
東北弁護士会連合会 会長 宮本多可夫

最後に、参照すべき資料として次の2サイトを推奨します。
まずは、この分野なら水島朝穂さん。その姿勢が最も信頼できる。
「なぜ、いま緊急事態条項なのか――自民党改憲案の危うさ」
  http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0125.html

そして、衆議院憲法審査会事務局がまとめた下記資料を
「緊急事態」に関する資料 – 衆議院   http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi.htm
  (衆憲資87号をクリック)

以上で終わります。皆さまの日常の活動に、少しでもお役に立てばと念じます。ご静聴ありがとうございました。
(2016年2月13日)

DHC・吉田、成算なき上告受理申立 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第72弾

DHCと吉田嘉明は、1月28日のDHCスラップ訴訟控訴審全面敗訴判決を不服として、本日上告受理の申立をした。事件番号は平成28年(ネ受)第115号。

これで私は、もうしばらくのあいだ被告の座に留め置かれることになった。正確には、一審では「被告」と呼ばれ、控訴審では「被控訴人」となり、本日以降は上告受理申立事件の「相手方」となった。言わば、フルコースの「お・も・て・な・し」である。

来週早々に、高裁第2民事部が上告受理申立通知書を当事者(申立人・DHC吉田、相手方・私)の双方に発送し、申立人がその通知を受領した日から50日以内に、上告受理申立理由書を提出することになる。この上告受理申立理由を徹底して吟味し完膚なきまでに反論しようと思う。スラップ訴訟の典型となった本件で、スラップ常習のDHC・吉田を叩いておくことが、スラップ蔓延を防止するために有効だからである。

ところで、民事訴訟での控訴審判決に不服があって最高裁に上訴するには「上告の提起」と、「上告受理の申立」の2方法がある。両者を併せて提起することが可能で、実務ではその例が多いが、DHC・吉田は上告はせず、上告受理の申立だけであった。

上告の提起が本則だが、厳格に限定された上告理由がないと「上告の提起」はできない。上告理由の原則は、「判決に憲法の解釈の誤りがあること、その他憲法の違反があること」である。つまり、最高裁での上告審は、憲法解釈の統一をはかることを主要な任務としている。

その他の上告理由としては、口頭弁論の公開の規定に違反したこと、判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと、判決に理由を付せず又は理由に食違いがあること、訴訟代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと、等々の重要な手続違法が並ぶ。

控訴審判決に憲法違反があるとの指摘ができなければ上告できないことになるが、上告ができない場合にも、「上告受理の申立」をすることができる。上告受理申立事件のうち、判例違反やその他の法令の解釈に関する重要な事項を含むと認められる事件について、最高裁は上告審として事件を受理することができることになる。上告事件として受理するという決定があれば「上告があったものとみなされ」て、最高裁が上告審として受理した後は、基本的に通常の上告と同様に扱われるという構造になっている。

「上告受理の申立」がされた事件について、最高裁判所が受理するかどうかは、まったくの裁量に委ねられている。圧倒的に多くの事件は、ある日突然の「上告受理申立不受理決定通知」が舞い込んで事件は終了する。通知書に不受理の具体的な理由は書いていない。定型の三行半が書き込んであるだけ。

どのくらいの事件について、上告ないし上告受理申立がなされるか。最高裁の2010年の統計が公表されている。
 上告事件の上訴率(控訴審判決に対する上訴件数の割合) 25.2%
 上告受理申立事件申立率(同上上告受理申立件数の割合) 27.2%
なお、前述のとおり、以上の件数には相当数の重複がある。

では、上告受理申立事件にどれほどの成算が見込まれるか。
最高裁の公表しているところでは、2010年の全上告受理申立件数は、2247件。その内、不受理決定で終わるものが2166件。実に96.4%に及ぶ。

受理されて判決に至るものが55件だが、うち12件は棄却の判決。2247件のうち、原判決(控訴審判決)破棄の逆転に至るものは43件、率にして1.9%に過ぎない。

なお、2014年度の上告・上告受理申立両事件の合計事件数は5879件。その内、破棄判決は45件(上告10件、上告受理35件)と報告されているので、併せた破棄率は0.77%となる。DHC・吉田の上告受理申立が上告として受理され、破棄判決に至る可能性は絶無ではないが、きわめて狭き門と言わねばならない。

以上は統計からの推測だが、具体的な内容を見れば、破棄判決に至る可能性はさらに厳しい。DHC・吉田としては、最高裁判例違反を申立理由として掲記する以外にはないのだが、「ロス疑惑夕刊フジ事件」と「朝日新聞事件」の各判決を引用した主張をして一審で一顧だにされず、控訴審でも同じことを繰り返して同様に一蹴されている。東京地裁の判決も東京高裁の判決も、DHC・吉田が引用した判決を百も承知で、「事案が違う。本件に参考とするに適切ではない」としているのだ。最高裁で、この判断が変わるはずもない。私は、法廷で「控訴人(DHC・吉田)のこのような判決の引用のしかたは児戯に等しい」と言った。

DHC・吉田が、何らかの成算あって上告受理申立に及んだとはとうてい考えがたい。むしろ、DHC・吉田が2度の敗訴に懲りることなく敢えてした本日の上告受理申立は、3度目の恥の上塗りとなる公算が限りなく高い。それでもなお、3度目の恥を覚悟で、上告受理申立に踏み切ったのは、少しでも長くいやがらせを続けて、スラップの効果を大きくしようとの意図によるものと判断せざるを得ない。

スラップとは、民事訴訟を手段として、自分を批判する者を威嚇し恫喝し嫌がらせして、言論の萎縮を狙うものである。直接の標的とされた者だけでなく、社会全体に「DHCや吉田嘉明を批判すると面倒なことになるぞ」と威嚇し、批判の言論を封殺しようというものである。だから、標的とした相手に可能な限り大きな負担をかけることが目的となる。スラップ側は、「勝訴できればそれに越したことはないが、敗訴したところで、少しでも長く相手に財政的心理的負担をかけ続けることができれば、威嚇・恫喝・嫌がらせの効果としては十分」という基本戦略を持つことになる。

そんな卑劣な相手に負けてはおられない。もう少しの辛抱だ。もうしばらく、我慢をしよう。自分にそう言い聞かせている。今度こそ、確定的な勝訴が間近に見えているのだから。
(2016年2月12日)

「なかば偶然なかば必然の、弁護士と事件との関わり」

私は、司法修習生となって間もなく青年法律家協会(青法協)に入会した。私の同期では、3分の2を超す修習生が青法協の会員となった。学生自治会のノリである。私は、修習2年の半分ほどの期間を同期会の議長の任にあって、有意義な課外修習をした。

私の司法修習が終わる頃が、司法の嵐吹く時代であった。石田和外長官時代の最高裁は、私と同期の仲間に、司法権の権力装置としての本質を、懇切丁寧に実地に教えてくれた。その時期、私は弁護士になって直ちに、自由法曹団に加入した。こちらは、「闘う弁護士の組織」。私の依拠する弁護士団体は、青法協から自由法曹団に移り、やがて日民協となった。それでも、いまだに青法協の会員であり、滅多に顔を出さないものの自由法曹団でもある。

その自由法曹団の東京支部ニュースに寄稿を求められた。「若手弁護士へのメッセージ」を書けという。ともかく、責めを塞いだ文章が支部ニュースの最新号に掲載となった。「なかば偶然なかば必然の、弁護士と事件との関わり」と標題を付けたもの。一興に、ご紹介したい。

弁護士人生、なかなかに味があり捨てがたい。最近、つくづくとその思いが強い。
自分の外に自分の主人を持つ必要はない。自分の生き方を自分で決めて、自分の責任で自分の流儀を貫くことができる。誰におもねることもないこの立場をありがたいと思う。私には、器用に立ち回って、カネや権力や名声を得ようという過分な望みはない。最期までこの自由をこよなく愛し謳歌しようと思っている。
この、「自由業としての弁護士」という職能をつくり出したのは、近代市民社会のすばらしい知恵である。市民社会は、権力にも資本にも屈せず、弱者の人権擁護のために闘う専門家職能としての弁護士集団を必要としたのだ。芸術や文芸や学問の才能に恵まれない私にとって、いま享受している私の自由は、市民社会からの恩恵としてあるもの。だから私は、在野に徹して、権力や資本に抗い、社会的同調圧力にも妥協しないことで、社会の期待に応えなければならない。そう思い続けている。

弁護士になるときは、自由法曹団員弁護士となることを自覚的に選択した。そして、初心を忘れてはならない、などと自分に言い聞かせもした。しかし、あっという間に「初心を忘れない」などという心得は不要だと悟った。権力も資本も社会的多数派も、私に相談も依頼もしては来ないのだ。その対極にある、権力や資本に人権を蹂躙された者、少数派として排斥された者だけが、私を頼ってくれることになり、初心は自ずから貫かざるを得ない立場となった。こうして、精神衛生的にきわめて快適な健康状態を保っての45年が経過した。

結局は、弁護士のあり方は、依頼者と依頼事件が決めることになる。弁護士と事件との結びつきは、なかば偶然なかば必然である。

私は、東京南部法律事務所で「駆け出し時代」を過ごした。文字どおり、どこにでも駆け出して行った。ストライキやロックアウトの現場は大好きだった。しばしば団交にも参加した。労働組合結成のための学習会、弾圧事件の接見、警察への抗議行動、被解雇者と一緒に会社の門前での宣伝行動参加などに躊躇することはなかった。いくつものワクワクするような労働事件の受任の機会に恵まれた。今は昔の物語である。このとき、私の受任事件のすべては、南部事務所が地域からの信頼によって得たものだった。

その後、独立したとたんに依頼事件の質が変わった。労働事件は激減し、私の依頼者は、表現の自由であり、消費者の利益であり、患者の権利であり、政教分離であり、平和あるいは平和に生きる権利であり、教育を受ける権利であり、民主主義であり、行政の公正となった。決して、私の方から依頼者や事件を追いかけたものではない。すべて、なかば偶然に事件に関わらざるをえなくなったものだ。だが、事件との関わりにはなかば必然の要素もあったのだと思っている。 

いまは、あちらこちらに駆け出していくだけの体力と気力に乏しい。だが、弁護士として役に立つ限り、出会った事件と依頼者を大切に、誠実に仕事をしていきたい。何しろ、弁護士人生、なかなかに味があり、捨てがたいのだから。
(2016年2月11日) 

若者よ、安倍晋三の反知性に学ぶな。サンダースのカネに綺麗な格好良さに学べ。

アメリカ大統領選挙の予備選挙から目が離せない。2月9日のニューハンプシャー州予備選開票結果が、ひときわ興味津々たるものとなった。

まずは共和党。
「9日夜、支持者の前で勝利宣言したトランプ氏は開口一番、『なんて素晴らしいんだ。我々は偉大な米国を取り戻しつつある』と誇らしげに語った。トランプ氏が掲げるスローガンは、『偉大な米国を取り戻す』。政治経験はなく、イスラム教徒入国禁止や全不法移民の即時強制送還など、過激で現実離れした主張が目立つが、政治家としての『経験』よりも『変化』を望む共和党支持層に浸透した。」(読売)

ならず者トランプのスローガンは、「偉大な米国を取り戻す」なのだ。いま、「偉大な米国」は、何者かによって奪われ、失われている。その認識を前提に、奪われた「偉大な米国」を「何者かの手から」取り戻さねばならない。そう、大衆のナショナリズムの感性に訴えて、支持を獲得しているのだ。反知性の「にわか政治家」が、反知性の大衆に語りかけるには、「偉大な米国」を「取り戻す」という論法がうってつけだというわけだ。

「偉大なアメリカ」を「美しい日本」に置き換えれば、安倍晋三の論法そのままである。「活力ある大阪」に置き換えれば橋下流だ。「偉大なアーリア人国家」を「ユダヤ人の手から取り戻せ」といえば、ナチスのスローガン。すべて、兄たりがたく弟たりがたし。

そして、真っ当な政治戦で歴史的な開票結果となった民主党。
「サンダース氏は9日夜、大歓声をあげる支持者を前に笑顔で手を振り、『偉大な我が国の政府は、一握りの裕福な選挙資金提供者のものでなく、すべての人々に属するものだ』と強調。同氏はウォール街など一部富裕層と政治の癒着を指摘。ウォール街への課税強化や貧富の格差是正、公立大授業料無償化、国民皆保険導入などを訴え、この日も「勝利は、まさに『政治革命』の始まりに他ならない」と訴えた。」(朝日)

さすがサンダース。政治とカネの真髄を語っている。「一部富裕層と政治の癒着」こそが諸悪の根源なのである。クリントンは「一部富裕層と癒着した政治の担い手」として、この選挙に敗れたのだ。この意味は、とてつもなく大きい。まさに、革命的というべきではないか。

政治資金と賄賂、本質的にその差はない。人が政治にカネを注ぎ込むのは、政治からの見返りを求めてのことである。政党や政治家がカネを受けとれば、スポンサーに利益を還元する政策を実行しなければならない。だから、「一握りの裕福な選挙資金提供者」はウォール街に利益をもたらす政治を求めて、莫大な政治資金を提供するのだ。大企業が累進課税に抵抗し逆進性の高い消費増税を求めて、企業献金をしているのだ。アベ政権がそれに応えて、貧乏人への増税で財源を捻出し、大企業と大金持ちに減税しているではないか。企業経営者が、企業への規制緩和の政治を求めて巨額の裏金を提供している例もある。

古今東西を問わず、カネをもらえば縛られる。カネを出したら報われる。スポンサーと政治家の持ちつ持たれつの醜悪な関係が結局政治のあり方を決めてきた。アメリカ大統領選挙こそ、資金力が当落を決め、スポンサーを潤す政治が行われた典型例として怪しまれなかったではないか。

サンダースの選挙はこれまでの常識を逆転した。政治資金の潤沢は、「一握りの裕福な選挙資金提供者との癒着の証明」となった。企業や富裕層からの支持は、マイナスイメージに暗転した。社会を貧富対立の階級構造から見る立場からすれば、当たり前のことだが、今までなかったことが実現したのだ。

これから先、クリントンの巻き返しを予想する声も高い。それでもなお、ニューハンプシャーの開票結果は、持たざる陣営に限りない希望を与えるものとなった。富裕層からのカネで買われない候補者が、格差や貧困をなくする政治を実現する希望である。がんばれサンダース、熟年の星。

ところで、本日の東京新聞「こちら特報部」の欄で、「高校生未来会議」なる存在を初めて知った。明らかにシールズ対抗を意識した体制派動員組織。というよりは、アベお手盛り組織。こちらの方に、文科省や教育委員会がいちゃもん付けることはないのだろう。

3月に全国から150人を集めて2泊3日の「全国高校生未来会議」なる合宿イベントを行うという。場所は、衆議院第一議員会館。見逃せないのは、「交通費も宿泊費も支給する」と明言していること。その金の出所は企業の寄付金なのだ。要するに、紐のついた金で、金をもらうことに抵抗感のない無自覚な高校生をあつめて、アベ流の政治教育をしようというのだ。

サンダースが、カネに綺麗なことでアメリカの若者にアピールしている一方で、日本の若者が体制派に金で釣られようとしている。日本の若者よ、サンダースを見よ。サンダースを支持しているアメリカの若者たちを見据えよ。

「全国高校生未来会議」に集おうとしている高校生諸君に言いたい。
キミたち、格好悪いぞ。キミたち意地汚いぞ。キミたち、みっともないぞ。精神が貧しいぞ。
そして、忠告しておきたい。金をもらえば縛られるのだ。高校生未来会議なんぞに関わると未来が失われる。人生の大損をするぞ。

人の精神は若いときほど自由でしなやかなのだ。キミたちは、いま何ものにもとらわれず、自由に誰の意見をも等距離で聞いて自分を形成することができる。当然に反体制、反アベの選択も自由。実はこれが、若さの大きな特権なのだ。年を経るにしたがって、人は次第にしがらみを身につけていく。このしがらみは、精神の自由をも奪う。考え方も表現や行動も自由でなくなるのだ。現にあるこの社会の体制に適合せざるを得ないと自ら自由を捨てることが、多くの人にとって大人になるということだ。悲しいがそれが現実だ。キミたちは貴重な精神の自由を謳歌せよ。安倍晋三ごとき者の策略に乗って、金をもらって縛られる愚挙をやめよ。歴史修正主義として名高く、自ら「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら、そう呼んでいただきたい」などという人物の手の内で躍ることをいさぎよしとしてはならない。

安倍晋三の反知性ではなく、サンダースのカネに綺麗な格好良さを学ぼうではないか。
(2016年2月10日)

緊急事態条項は、日本国憲法の3本の柱を壊してしまう

本郷にお住まいの皆さま、ご通行中の皆さま。地元の「九条の会」です。少しの時間お耳を貸してください。

ご承知のとおり、日本国憲法は3本の柱で組み立てられています。
 まずは、基本的人権の尊重。
 そして、民主主義。
 さらに、平和主義です。

この3本のうち、人権と民主々義とは、どんな憲法にも書いてあります。これが欠けていれば憲法とは言えないのですから。しかし、3本目の「平和」の柱をしっかりと立てて、堅固な家を建てている憲法は、実はごく少ないのです。

日本国憲法の3本目の「平和主義」の柱は、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」「国の交戦権は認めない」という徹底した平和主義に貫かれています。誇るべき非凡な憲法と言わなければなりません。しかも、日本国憲法の平和主義は、9条に戦争放棄・戦力不保持が書いてあるからだけでなく、その理念が前文から本文の全条文に貫かれています。戦争をしないこと、国の外交・内政の選択肢として戦争も戦争の準備もあり得ないことを憲法全体が確認しています。その意味で、日本国憲法は文字どおり「平和憲法」なのです。

日本国憲法の3本の柱は、互いに支え合っています。けっしてバラバラに立っているのではありません。そして、この3本の相性がとてもよいのです。とりわけ強調すべきは、「平和」を欠いた「人権」と「民主主義」の2本だけでは、実はとても座りが悪いのです。この点が世界各国の憲法の悩みの種でもあるのです。

多くの憲法の条項には、立派な「人権」と「民主主義」の柱が立てられています。しかし、見かけは立派でも、この2本の柱は完全な物ではありません。実は大きな虫喰いがあるのです。「人権や民主主義は平時の限り」という限定の大穴が開いているのです。「戦争になれば、人権や民主主義などと生温いきれいごとを言ってはおられない」「そのときは、戦争に勝つために何でもありでなくてはならない」と人権や民主々義尊重の例外が留保されているのです。この例外は、「戦時」だけでなく、「戦争が起こりそうな場合」も、「内乱や大規模なデモが起こった場合」も、「自然災害があった場合も」と、広範に拡大されかねません。これが、「普通の国の憲法」の構造なのです。

日本国憲法は、堅固な平和主義の柱を立てています。ですから、一切戦争を想定していません。そのため、人権や民主主義の例外規定をもつ必要がなかったのです。戦時だけでなく、内乱や自然災害に関しても、意識的に憲法制定過程で人権擁護や民主主義遵守の例外をおきませんでした。戦前の例に鑑みて、例外規定の濫用を恐れたからです。

典型的には戦時を想定した人権や民主々義擁護の例外規定を「国家緊急権条項」と呼びます。日本国憲法にその条項がないばかりか。曲がりなりにもこれまで平和主義を貫いてきた日本では、憲法に国家緊急権条項を入れる必要はありませんでした。しかし、戦争をする国を作ろうとなると話は別です。「お上品に人権や民主々義を原則のとおりに守っていて、戦争ができるか」ということになります。

いま、安倍政権が改憲の突破口にしようとしているのは、このような意味での国家緊急権を憲法に書き込もうということなのです。それは、戦争法の制定と整合するたくらみなのです。とうてい、「お試し改憲」などという生やさしいことではありません。

改憲勢力は、頻りに「東日本大震災時に適切な対応が出来なかったその反省から、災害時に適切な対応が出来るように憲法改正が必要だ」と言っています。これは、何重にもウソで固められています。なにせ、「完全にコントロールされ、ブロックされています」とウソを平気で言う、アベ政治です。自信ありげな顔つきのときこそ、信じてはなりません。

2012年4月27日決定の自民党改憲草案が、アベ政権の改憲案でもあります。ここに、書いてある緊急事態の要件は、真っ先に戦争です。書きぶりは、「日本に対する外部からの武力攻撃」となっていますが、まさか日本からの侵略とは書けません。ついで、「内乱」。内乱だけでなく、「内乱等による社会秩序の混乱」という幅広く読める書き方。3番目が「地震等による大規模な自然災害」ですが、それだけではありません。「その他の法律で定める緊急事態」と続いています。
自然災害は「三の次」で、実は、「緊急事態」は際限もなく広がりそうなのです。

誰が緊急事態宣言を発するか。内閣ではなく、内閣総理大臣です。これは大きな違い。国会での承認は事前・事後のどちらでもよいことになっています。

そして、その効果です。緊急事態を宣言すれば、内閣は国会を通さずに、法律と同じ効力のある政令を制定することができるようになるのです。いわば、国会の乗っ取りです。そして、国民は「国その他公の機関の指示に従わなければならない」という地位におかれます。

1933年制定の悪名高いナチスの全権委任法となんとよく似ているではありませんか。全権委任法は「内閣が法律を作ることができる」としました。ともに、非常に危険と言わざるを得ません。ナチスの全権委任法も、緊急時の例外として時限立法とされましたが、敗戦までの12年間、「例外」が生き続けることになったのです。

日本国憲法を形づくる3本の柱のうち、平和の柱を崩そうというのがアベ政治の悲願。そのための大きな仕掛けが緊急事態条項です。しかも、この緊急事態条項は人権や民主主義に後戻りできない傷をもたらす危うさを秘めているのです。

アベ政権になって以来、教育基本法が変えられ、特定秘密保護法が成立し、戦争法が強行されました。そして、今度は明文改憲に手が付けられようとしています。その突破口と目論まれているのが、緊急事態条項です。さらに、9条2項を変えて、「戦力」ではない自衛隊を、堂々たる一人前の国防軍とする。これが、アベ政治の狙いと言わざるを得ません。

60年の安保や、昨年の戦争法反対の国民運動が大きくなれば、国家緊急事態として、国防軍が治安出動もできるようになる。恐るべき近未来ではありませんか。

ぜひ皆さま、日本国憲法に対する本格的な挑戦である緊急事態条項創設に反対の世論形成に力を貸していただくよう、よろしくお願いします。

そして、その闘いの一環として、平和を擁護するための「戦争法廃止2000万人署名」にご協力ください。
(2016年2月9日)

「孔教問題」?安倍晋三改憲論は100年前の中華民国における憲法論争に及ばない

宮崎市定は『論語』で説かれる徳目の掲載頻度を数え出しているそうだ。いちばん多いのは、孔子が最も大切にした「仁」で97回。次に多いのは、孔子が職業教育的に教えた「礼」の75回。その次が「信」で38回。そして、その次が「孝」と「忠」が同じく18回だという(片山智行『孔子と魯迅』筑摩選書69頁による)。

かくも「忠」の頻度が少ないのは意外ではないか。「忠」は孔子が重視した徳目の一つではあるが、孔子の教説におけるキーワードではなさそうだ。しかも、孔子のいう「忠」は、忠義・忠節という主君に対する服従を美徳とする意味ではない。片山の解説では、「誠実さ」「誠実に真心を尽くす」という普遍性の高い一般的な対人関係での心得である。

「君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす」という一文があるが、これとて、「臣下が主君に仕えるときにも、『忠=誠実さ』が必要」というだけのこと。「普遍的道徳としての忠を君臣間に当てはめ」たに過ぎないという。孔子自身がひとりの君主への「忠節」を尽くした人ではないとも指摘されている。なるほど、そのとおりだ。

ところが後代、儒学が体制の教学となって、事情が変わる。
このことを痛烈に喝破しているのが、清末の思想家譚嗣同という人物の『仁学』。彼は戊戌の政変に敗れて刑死したが、『仁学』は処刑前に友人に託された覚悟の遺稿だという。片山は「儒教道徳の恐ろしさを痛烈に批判したこの書は、出色の名著」という。

譚嗣同によれば、荀子こそが、「後王(当代の君主)に服従し、君統(君主支配)を尊ぶ」方向に道(孔子の教え)を歪めた憎むべき張本人なのである。すなわち、荀子の考えが李斯(戦国時代の法家。始皇帝のときの丞相)に引き継がれ、秦の始皇帝より連綿と王朝の支配のために利用されて、朱儒(朱子学)に至ってそれがいよいよひどくなった、と言う。

したがって、二千年来の政治は秦の政治であり、みな「大盗」(大泥棒=皇帝のこと)であったと言わなければならない。二千年来の学は旬学であり、すべて郷愿(にせ君子。封建思想の儒者)であったと言わなければならない。大盗が郷愿を利用し、郷愿が大盗にうまく媚びただけである。二者は互いに結託し、すべてを孔子にかこつけてきたのである。かこつけた大盗、郷愿を捉まえて、かこつけられた孔子のことを責めたところで、どうして孔子のことがわかろうか?

つまり、論語に表れた孔子の思想と、その後長く封建制度を支えた儒学とは別物というのだ。孔子は権力者とこれに媚びる後代の儒者に利用されたに過ぎないというのが、譚嗣同の立場であり片山の是認するところ。

二千年来、儒者たちは「孔子の名を騙って、孔子の道を敗(やぶ)った」。その際に「支配の道具」として利用され、封建王朝の支配を維持したのが「三綱五倫」である。三綱とは「忠・孝・(貞)節〈君臣・父子・夫婦間の身分的秩序〉」、五倫とは「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」をいう。これが、支配者が目下の者を、倫理において服従させるための道具になった。

各王朝の歴代皇帝を「大盗」(大泥棒)という激しさはすさまじい。自らの政治を正当化するために、孔子の学問の真髄を盗み取ったという謂いなのであろう。明治維新以来の日本の天皇は「大盗」のイミテーションというところ。現実に、このようなやり方が敗戦まで通用し、さらにその残滓が今日まで清算されることなく生き残っていることが恐ろしい。

私は知らなかったが、中華民国憲法制定過程で「孔教問題」が論じられたという。
康有為は、儒家でありながら儒教批判の先鞭をつけた大学者だったが、辛亥革命(1911年)後の憲法に「孔教」を国教とするよう提案して論争を巻き起こした。康有為がいう「孔教」は、封建道徳の根拠となった後代の儒教とは異なった、言わば「原始儒教」としての「孔子の教え」だったのだろう。

これに、反対の論陣を張ったのが、のちに共産党創立の立役者の一人となった陳独秀だった。彼の康有為に対する反論は、儒教批判を徹底したもので、「三綱五輪は、単に後代の儒者が偽造したものではなく、孔教の根本教義と見なすべきだ、とさらに批判の度を強めた」(片山)

片山が引用する陳独秀の論が、たいへんに興味深い。

「三綱の根本的意義は、階級制度である。尊卑を分け、貴賤の別をはっきりさせるこの制度を擁護するものである。近代ヨーロッパの道徳と政治は、自由、平等、独立の説をもって大本となし、階級制度とは完全に相反する。これが東西文明の一大分水嶺なのである。」(陳独秀『吾人の最後の覚悟』1916年)

「まず西洋式の社会と国家の基礎、いわゆる平等と人権の新しい信仰(思想)を、輸入しなければならない。この新社会、新国家、新信仰と相容れない孔教に対しては、徹底した覚悟と勇猛な決意を持たなければならない。(陳独秀『憲法と孔教』1916年)

100年前の中国における憲法論争である。日本の現在の憲法状況に通じるものとして、たいへんに興味深い。示唆されるところをいくつか述べておきたい。

康有為対陳独秀の憲法制定に際しての孔教論争は、固有の歴史を憲法に書き込むべきか普遍的原理を貫徹するかの争いである。

康有為には、中華民族の誇るべき精神文化としての孔教が、深く位置づけられていたのだろう。支配の道具としての儒教ではなく、人倫の根本を貫く普遍的な倫理として孔教が間違っているはずはない、という思いが強かったに違いない。これに対する陳独秀は、孔子の教えそのものが人間を差別して怪しまない旧時代の道徳を肯定するものとして排斥の対象とした。個人の「自由・平等」を徹底すべき近代憲法の原則に適合しないと説いたのである。

いま、安倍晋三が「これが具体的改憲案」という、2012年自民党改憲草案は、陳独秀の論だけでなく、康有為のレベルにも及ばない。日本の「歴史・民族・文化」がてんこ盛りなのだ。つまりは、日本民族の固有性をもって、近代憲法の普遍的原理を限りなく薄めてしまおうとの魂胆が見え見えなのである。

しかも、日本民族の固有性の内実とは、「天皇を戴いていること」と「和の精神」以外にはない。いずれも、支配者に都合のよい旧道徳。とうてい、100年前の陳独秀の批判に耐えうるものではなく、康有為にも嗤われる類の代物。

私には、陳独秀が、どのような憲法を作るかを「思想の問題」と捉えていることが印象的である。長い中国の歴史を通じて、学問とは、人格を形成し、生き方の根本を形づくる営みであった。科学や技術の習得を学問とは言わないのだ。その文化の中で育った陳独秀が、「尊卑を分け貴賤の別を前提とする身分制度」を攻撃して、その温存につながる学問思想を否定する断固たる姿勢が小気味よい。この点について、「これが東西文明の一大分水嶺なのである」というのは、学問や思想が身分制度の否定につながることを当然とするという確信に支えられたものであろう。

「神聖なる天皇」を元首とし、「個人よりは家族を重視」し、「承詔必謹の和を以て貴しとなす」憲法を作ろうというのが、安倍晋三の願望。個人の尊厳や、自由・平等という普遍的価値を理解できない反知性というにふさわしい。憲法の理念を学ぶことは、本来的な意味で学問をすることであり、教養を深めることなのだと、あらためて思う。

引用した片山の著書は、昨年(2015年)6月の発刊。主として、孔子の教説をヒューマニズムに通じるものとして肯定的に捉え、魯迅と通底するものがあるとして、魯迅を詳説する。魯迅の儒教批判は痛烈ではあるが、これは後代の支配の道具としての儒教であって、けっして孔子の教えそのものの批判ではないとするのが片山の立場。

もっとも、魯迅の儒教批判は徹底している。『狂人日記』の中では、「狂人」の口を借りて儒教は人食いの教え、とまで言っている。「人食い」とは、体制がつくり出した儒教の倫理が、民衆を徹底して支配していることの比喩である。儒教の倫理に絡めとられて、体制の不合理に反抗しない「中国民衆の無自覚」に対する魯迅の切歯扼腕が詳細に語られている。

他人ごとではない。戦前には、直接的に民衆の精神に侵入して支配の道具となった神権天皇制を唯々諾々と受容した臣民について、そして戦後70年なお、臣民根性を捨てきれない日本の民衆の無自覚に対しても、魯迅と同様に切歯扼腕せざるを得ない。
(2016年2月8日)

民主社会主義者の米大統領誕生で、歴史にインパクトを

アメリカ大統領選の予備選が実に興味深い。共和党のトランプとクルーズは、言葉の正確な意味で「ならず者」、あるいは「ゴロツキ政治家」というべきだろう。排外主義と極端な宗教保守主義をウリにし、いずれもその非寛容の政治姿勢を示すことで、右派の民衆から熱狂的支持を獲得している。アメリカの反知性と暗部を象徴しているとしか形容すべき言葉を知らない。

一方、民主党である。ヒラリー・クリントン独走の構図が崩れて、バーニー・サンダースが本命に躍り出た。2月9日ニューハンプシャー州の予備選挙では、サンダース圧勝を予測する複数の世論調査結果が公表されている。これは凄いことだ。サンダースこそがアメリカの希望を象徴している。

かくて、アメリカの光と影、リベラルと極右が、大きな対立とせめぎ合いを見せている。アメリカが抱えている深刻な矛盾をリベラルの側から解消するとすればサンダース。極右の側から切り込めば、トランプかクルーズ流に。アメリカは両極化の様相なのだ。

アメリカの抱える深刻な矛盾とは、格差と貧困であり、それがもたらす絶望である。中間層が没落し、若者が未来に展望を見出しがたい現実。希望を見出しがたい社会は、当然に荒れる。暴力と犯罪がはびこり、刑務所が満杯になっている。これが、レーガノミクスから始まった新自由主義が到達した社会だ。さらに、宗教や文化に対する非寛容が加われば、テロの温床はバッチリだ。まさしく、アベノミクスがもたらすであろう日本社会の先取りの姿にほかならない。

アメリカの抱える矛盾への対応策としては二つの基本手法が考えられる。まずは、社会の矛盾を解消するのではなく、矛盾に対する不満や批判を押さえ込む手法だ。難民は受け入れない。マイノリティーの宗教も文化も押さえ込む。テロも暴力も犯罪も厳罰をもって徹底して取り締まる。刑務所は必要なだけ増やせばよい。かくて、マイノリティーの主張を一掃し、不平や不満を表に出さないよう封じ込めば、いっときながらもマジョリティーにとっての住みごこちのよい社会ができあがる。

もう一つは、この社会の格差や貧困を社会悪として、これをなくすことを目指すやり方だ。いまやアメリカ社会の財産と所得分布の不公平は耐えがたいものとなっている。ならば、所得や財産の再分配が必要だ。これに手を付けなければならならず、ウォール街との闘いが避けられない。これが、サンダース自らが、「民主社会主義者」と称する所以であろう。

民主社会主義(democratic socialism)であって、社会民主主義(social democracy)ではない。民主的(democratic)という形容は付けながらも、自らを社会主義(socialism)を信奉する者(socialist)だと広言しているところが見事である。

アメリカの社会で政治的影響力を持とうとすれば、自助努力こそが大切とする、経済的自由主義を逸脱することは考えられなかった。いま、自らを民主社会主義者(democratic socialist)と規定する人物が有力な大統領候補となり、若者層から熱烈な支持を得ているという。そのことを必然化するだけのアメリカの深刻な現実があるのだ。

サンダースは急進的な格差是正策を前面に打ち出し、最低賃金の大幅な引き上げや、大企業や富裕層への増税などを訴えている。国民皆保険や公立学校の無償化などが政策の目玉として話題となっているが、これは他と切り離された個別政策ではなく、格差、貧困の再生産を防止するための政策という位置づけ。その政治姿勢について、1月26日の毎日新聞に現地で取材する西田進一郎記者の次の記事が分かり易い。

「『多くの人々を助ける計画を紹介してきたが、現実的にお金はどう手当てするのか』集会では、格差是正を中心課題に据え、公立大学の無償化などを掲げるサンダース氏に対し、こんな質問が浴びせられた。クリントン氏との差が縮まってきたことで、政策の詳細にも少しずつ焦点が当たり始めている。
サンダース氏は政策実現に必要な予算について、税制の『抜け道』を使っている企業への課税や、最富裕層への増税を充てると説明。タックスヘイブン(租税回避地)などを使った企業の課税逃れを無くすことで1000億ドル(約12兆円)を徴収し、社会基盤整備に投資して雇用を生み出すなどと説明した。
公約に掲げる国民皆保険制度の実現には、10年間で約1700兆円必要との試算がある。集会で司会者から増税について尋ねられたサンダース氏は『増税する。しかし、個人や企業の保険料もなくす』などと説明した。」

所得再分配を実現するために、企業課税を強化し、個人所得課税の累進制を強化するのは常識的な手法である。サンダースは、その政策を推し進めることを掲げて大統領選を闘うことを公表し、その掲げる政策故に支持を獲得しているのだ。企業減税の大盤振る舞いをして、庶民増税を押しつける、安倍晋三流の経済・財政政策とは真逆の政策である。

ニューハンプシャー州予備選を控えての、サンダースとクリントンの討論会が報道されている。「民主党の立候補者を2人に絞った討論会は今回が初めて。両候補の政策の違いが浮き彫りとなった」(BBC日本語版)とのことだから、関心をもたざるを得ない。結局は、サンダースの政策にクリントンが引っ張られているではないか。

毎日新聞の西田記者報道は、両者の討論を、「『体制派』対『反体制派』」の構図を作りたいサンダース氏に対し、これを否定して『実績と政策の実現可能性』に焦点を当てたいクリントン氏が反撃し、火花を散らした」としている。

「クリントン氏はエスタブリッシュメント(体制派)を代表しているが、私は普通の米国人を代表している」。サンダース氏は、クリントン氏が自分や自分を支持するリベラル層や若者たちとは異なる立ち位置にいると再三印象付けようとした。クリントン氏が『進歩派』を自称することについても、かつて『穏健派』と表現していた発言を持ち出して否定した。

これに対し、クリントン氏は『私を体制派とみなしているのは一人(サンダース)だけだ』と反論。サンダース氏が、金融業界(ウォール街)からクリントン氏側への資金提供に触れ、同氏は中間層や労働者家族に必要な変化をもたらすことはできないと批判すると、『あなたや陣営がやってきた巧妙なレッテル貼りはやめる時だ。政策課題への見解の違いについて話そう』と強い口調でまくし立てた。」

金融業界(ウォール街)とつながり、ここから政治資金の提供を受けていることが、「非進歩派」「体制派」の烙印と見なされ、明らかにマイナスシンボルとされている。格差、貧困の抜本是正をテーマとする選挙では、その格差や貧困の張本人である財界との関係が厳しく問われる。政治資金をウォール街に依存していることは、それだけで非難される材料になるのだ。これまでのアメリカの選挙とは明らかに様相を異にしている。

サンダースの問題提起に、クリントンが振り回されているという構図。また、サンダースがTPP反対の立場を明確にし、クリントンもこれに追随せざるを得ない論戦となっているのも興味深い。

これは、ひょっとするとひょっとするのではないか。初の女性大統領もみたいところだが、女性というだけでは稲田朋美のような極右もいる。「民主社会主義者の米大統領」の実現の方が、はるかに世界と歴史へのインパクトが強い。
(2016年2月7日)

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