澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍晋三の反知性。情けないだけではなく、恐ろしいといわねばならない。

2016年2月15日(月)の衆議院予算委員会の議事の記録を掲記する。政権与党の総裁であり、内閣総理大臣となっている安倍晋三という人物の反知性とそれを必死で覆い隠そうという低俗な人間性がよく表れている。これは国民必見の内容である。こういう人物が、日本の政治と行政のリーダーになっているという現実を、国民は見つめねばならない。

歴史を美化すること、歴史の恥部から目を背けることは許されない。過去に目を閉ざすものは未来に盲目となって、過ちを繰り返すことになるのだから。同様に、安倍晋三を美化し、アベ政治の恥部から目を背けることは許されない。政治の現状にも改革すべき未来にも盲目とならざるを得ないのだから。

正式な会議録はまだ公表されていない。しかし、中継動画で発言の正確性を確認することが出来る。質問者は民主党の山尾志桜里議員。以下は抜粋だが、出来るだけ恣意に陥らないように心掛けての掲載である。

○安倍首相
 …それと、テレビ番組に出演していて、私は当然、自民党総裁として呼ばれているわけであります。私も呼ばれれば、他の党の人たちも呼ばれる。その中にあっては、党として、この編集の仕方はどうなんですかということは当然言う。これは、言えば、いや、そんなことは安倍さん、ありませんよ、こうこうこうですよと反論すればそれで済む話じゃないですか。
私は、当該番組に大分昔に出たことはありますが、そのときも、拉致問題について、大きな大会をやってもおたくの番組は全然取り上げませんでしたねということを言って、当時の、筑紫さんだったかな、全く黙り込んでしまったこともございました。私は、必ずしもテレビ番組の制作方向、こういう番組をつくりたいという方向に常に協力するわけではありません。私の考え方を勇気を持って申し上げますよ。
テレビ局に対して物を言うというのは結構大変なことなんですよ。私は、それを言ったがために、当該番組から、かつて総裁選挙のときに、七三一部隊の石井中将と顔をリンクさせられて、イメージ操作されたこともあったんですよ。そういうことすらあったんですよ。これは、私にとっては相当のダメージだった。それは、私が議論をしたからなんですよ。議論をすればそういうこともあるんですよ。そういうこともあるということは、どちらの方が大きな権力を持っているか。
私は別に総理大臣として、裏において、権力を行使するときにこの番組は問題があるからといって行政組織に指示したんじゃないんですよ。この番組に一出演者として出ていて議論をしているわけであります。そういう議論がおかしいということ自体が私は、全く間違っているな、このように思います。

○山尾委員
 安倍総理がそういった答弁をされるのは、自分自身が内閣総理大臣であり、そしてまた政権与党のトップであるということ、自分がどういう力を持っているのか、政治権力とは何なのかということに全く無自覚であるから、そういう答弁ができるんだと思いますよ。
もし、自覚しておられてそういう答弁をしているのなら、総理は、憲法、特に21条、表現の自由について全く理解が足りないのではないかと思いますので、これに関して質問をさせていただきたいと思います。
総理、そもそも、時の政治権力がテレビ局の政治的公平性の判断権者となり、電波停止までできる、この制度解釈自体が検閲に当たり、許されないのではないか、こういう懸念の声もあります。総理、この電波停止ができるということは検閲に当たりますか、当たりませんか。

(高市が延々と答弁をする。)

○山尾委員
 委員長が3回注意されて、私が尋ねてもいないことを延々と述べられて、それに与党が大拍手でこの質疑を遮るというこの運営、委員長、どうなっているんですか。質疑妨害もいいかげんにしてください。
私は、憲法の21条、表現の自由、これに対する総理の認識を問うているんです。総理がちゃんと憲法21条をわかっているかどうか、国民の皆さんの前で説明をしていただきたいと思っているんです。
尋ねます。
総理、この前、大串議員に、「表現の自由の優越的地位って何ですか」と尋ねられました。そのとき総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由のあかし」という、かみ合わない謎の答弁をされました。
法律の話をしていて自由のあかしという言葉を私は聞いたことがありません。
もう一度尋ねます。優越的地位というのはどういう意味ですか。
私が聞きたいのは、総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたいんです。どっちですか。表現の自由の優越的地位って何ですか、総理。言論の自由を最も大切にする安倍政権、何ですか。
事務方がどんどんどんどん後ろから出てくるのはやめてください。

○安倍首相
 これは、いわば法的に正確にお答えをすれば、経済的自由より精神的自由は優越するという意味において、この表現の自由が重視をされている、こういうことでございます。

○山尾委員
 今、事務方の方から教わったんだと思います。
なぜ精神的自由は経済的自由に優越するのですか。優越的地位だということは何をもたらすのですか。

○安倍首相
 いわば表現の自由が優越的であるということについては、これはまさに、経済的な自由よりも精神的な自由が優越をされるということであり、いわば表現の自由が優越をしているということでございますが、いずれにせよ、そうしたことを今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか。
それと、もう一言言わせていただくと、先ほど、電波について、とめるということについては、これは民主党政権、菅政権において、当時の平岡副大臣が全く同じ答弁をしているんですよ。その同じ答弁をしているものを、それを高市大臣が答弁したからといって、それがおかしいと言うことについては、これは間違っているのではないか、このように思うわけでございます。

○山尾委員
 総理、ふだんは民主党政権よりよくなったと自慢して、困ったときは民主党政権でもそうだったと都合よく使い分けるのは、いいかげんやめてもらえませんか。
ちなみに、民主党政権では、個別の番組でも政治的公平性を判断し得るなどという解釈はしたことがありませんし、放送法四条に基づく行政指導もしたことがございません。明らかに、安倍政権と比べて、人権に対して謙虚に、謙抑的に、穏やかに向き合ってきました。
総理、もう一度お伺いします。
精神的自由が経済的自由より優越される理由、総理は、優越されるから優越されるんだと今おっしゃいました。これは理由になっておりません。これがわからないと大変心配です。もう一度お答えください。どうぞ。

○安倍首相
 内心の自由、これは、いわば思想、考え方の自由を我々は持っているわけでございます。

○山尾委員
 総理は知らないんですね、なぜ内心の自由やそれを発露する表現の自由が経済的自由よりも優越的地位にあるのか。憲法の最初に習う基本のキです。
経済的自由は大変重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じてこれは直すことができるんです。でも、精神的自由、特に内心の自由は、そもそも選挙の前提となる国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。これが憲法で最初に習うことです。それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのはやめていただきたいというふうに思います。

(略)

○山尾委員
 最後に、報道の自由度ランキングを御紹介して終わりたいと思います。
自民党時代、報道の自由は、42位、37位、51位、37位、29位。そして、民主党政権になって、メディアに対して大変オープンになり、11位まで上がりました。現在の安倍政権は61位、最悪のランキングです。憲法と人権に関する総理の認識を聞くと、ある意味当然の結果ではないかと私は思いました。
ぜひ、総理、もう一度憲法の趣旨をしっかり考えていただいて、本当の意味で豊かではつらつとした議論をしていただきたいと思います。
以上です。

山尾議員の問題関心は、「首相が、憲法の最初に習う基本のキがわからないでは大変心配」「総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたい」ということだった。これは、山尾議員ならずとも、国民の大きな関心事である。

国会で、権力によるメディアへの弾圧が話題とされているときに、一国の首相の憲法認識がこんな情けないレベルでは困るのだ。いや、情けないにとどまらない。実は、国民にとって恐ろしい事態といわざるを得ない。

安倍は、「今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか」と逃げを打ったが、これは「クイズ」ではない。国民が知りたい「首相の資格」の当否である。権力を預かる地位にある者が、委託されるにふさわしい資質を持っているか否かの確認であり検証なのだ。

結果は、明らかに落第である。安倍晋三には、表現の自由の重さ貴さに対する認識がないのだ。我が国の首相が、事務方のメモ(カンニングペーパー)に助けられてもなお、法学部1年生終了時の憲法理解のレベルに達していないことも明らかとなった。所轄の大臣が「歯舞」を読めないとか。環境大臣が放射線量の規制基準根拠を知らないとか、かつての首相が「未曾有」の読みを間違えるとか、そんなレベルの問題ではない。国民の基本的人権にとって、恐るべき事態が、現にここにあることを認識しなければならない。

なるほど、知らないということは恐ろしい。同時に、知らないということほど強いこともない。アベ政権が、表現の自由攻撃にかくも果敢であり、憲法改正にかくも積極的な理由も、無知ゆえとすれば合点が行く。

事態はおそるべきものであることを正確に認識しつつも、このような反知性の蛮勇に負けていてはならない。
(2016年2月23日)

「AGAINST WAR LAW」「GO VOTE」

高等学校生徒諸君
プラカードを高く掲げて街頭に躍り出た諸君よ
 AGAINST WAR LAW
 GO VOTE 

諸君こそは
颯爽たる未来圏から吹いて来る
透明で清潔な風そのものだ

諸君はこの時代に強ひられ率いられて
奴隷のやうに忍従することを拒絶した

自らの手で
自由と平等と平和な未来を築こうと
声を上げた
 AGAINST WAR LAW
 GO VOTE 

今日までの歴史を論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
社会の不合理と不平等とは
意識的に温存されてきた
これを打ち砕こうとする心ある人々の
力や行動はいまだに足りない。

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
 AGAINST WAR LAW
 GO VOTE 

諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ

宙宇は絶えずわれらによって変化する
時機を失してはならない
 もう少し様子を見てから
 経験を積んでから
そんなことを言ってゐるひまがあるか
さあ、われわれは一つになって
 AGAINST WAR LAW
 GO VOTE 

新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
 
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て

衝動のやうにさへ行われる
すべての労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
芸術の域にまで高めよ

新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
 AGAINST WAR LAW
 GO VOTE 

潮や風、歴史や科学、知と友愛と……
あらゆる価値あるものを用ひ尽くして
諸君は新たな世界を形成するのに努めねばならぬ

戦争法廃止の声を上げつつある若者よ
 君たちの目の前に、
 君たちの受け継ごうとしているこの世の現実がある。
 富を持つ者が支配者となり、
 権力を持つ者が富を持つ者に奉仕するこの社会。
 不本意ながら、これが現世代の君たちへの遺産だ。

 富を持つ者はさらに収奪をくわだて
 権力を握る者は、持たざる者の抵抗を押さえつける。
 富める者、力ある者に、正義も理想もない。

巨きなる理想もて、卑小なる現実を拒否せよ
ああ諸君こそはいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じつつあるのだ  
 AGAINST WAR LAW
 GO VOTE 
(2016年2月22日)

学校行事での「日の丸・君が代」に賛成する人々の「理由」

もうすぐ卒業式の季節。そして、入学式の季節が続く。春は、国旗国歌の季節であり、「日の丸・君が代」強制の季節なのだ。

なぜ、公権力はこうまでして全国の学校儀式に国旗国歌を浸透させたいのだろうか。敢えて現場の抵抗を押し切っての強制までし、多くの裁判を抱えながら。毎年考え込まざるを得ない。

その理由はともかく、多数派民衆の意識が学校行事における国旗国歌を肯定しており、その多数派の「日の丸・君が代」肯定意識に支えられて、国旗国歌強制策があることは疑いない。ちょうど、多くの国民が天皇制や靖國の存在を支持しているように、である。多くの国民の意識において、戦前の「天皇・靖國・日の丸君が代」は、切れ目なく現在につながっている。だから、「自主憲法制定」などというスローガンを広言する自民党が長く政権を担ってこれたのだ。
(参照「自主憲法制定」とは無法者のスローガンである。  https://article9.jp/wordpress/?p=2712

「たかじんのそこまで言って委員会」なる関西系テレビ番組が、視聴者を対象に次のような意見を募集した。2004年3月のことである。
「春の卒業式シーズン到来。そこで皆さんにお聞きします。
あなたは学校の式典で「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱する ことに賛成ですか?反対ですか?」

これに対して、何通の回答があったのかは分からないが、調査結果は、
 賛成 92%
 反対 8%
とされている。

世論調査の正統手法に則ったものではなく、これが日本人の意識状況の正確な分布とは言えないものの、この質問であれば、賛成派が反対派を圧倒していることは間違いなかろう。今も、大きくは変わるまい。だからこそ、国旗国歌法の制定があり、石原慎太郎が「10・23通達」を出し、橋下徹が「君が代条例」を作るのだ。

国旗国歌問題は、多数派がその同調圧力で少数派の意見に介入する恰好のテーマとなっている。石原や橋下にとって、自らが多数派として、攻撃すべき敵を定める恰好のテーマでもある。

「賛成92%」の調査結果以上に興味深いのが、多くの「賛成の理由」である。賛成の理由について与えられた選択肢はなく、すべて自由記載。この回答群は貴重な資料である。アトランダムに、賛成意見の一部を抽出してみた。これをいくつかに分類してご紹介したい。

※ 学校式典に国旗国歌は「当然」「日本人である以上当然」とするもの。これが圧倒的な多数派。
◆日本人なら当たり前
◆自国の国旗掲揚、国歌斉唱をして当たり前是非を問う問題ですらない。
◆当然。
◆日本国民として当然
◆当然の話
◆当然でしょ。
◆当然のことだから
◆あたりまえ。いやな奴は国籍変えれば?
◆日本人として当然。
◆よその国でこれをやるなら、いざ知らず、ここは日本です。これが嫌な人、または都合の悪い人はどういう人?
◆日本国民としてあたりまえのこと。
◆ここが日本だから
◆日本人なら当たり前だと思う。反対してる奴はバカ
◆日本人として当然です!
◆なにか問題でも?こんなくだらない議論してるのは日本だけですよ。
◆いまさらこんな調査をすること自体がわからない。
◆当然のことだから
◆あたりまえ。いやな奴は国籍変えれば?
◆常識だろ
◆日本人なら当たり前だ
◆ここは日本です。
◆自分の国の国歌ぐらい歌えなあかんで。
◆歌わないヤツは非国民
◆このようなことが問題になること事態甚だ遺憾です。国家、国旗なんだから当たり前
◆当然過ぎて理由をいう必要もない。
◆君が代を斉唱することに何が問題?賛成です。
◆別に問題無いと思うけど。
◆いまさらこんな調査をすること自体がわからない。
◆国旗国家を尊重するのは当然だから。
◆当たり前
◆ここは日本です。大韓民国とやらじゃありません。
◆問題ないでしょ。
◆当たり前のこと
◆日本人なら当然。
◆当たり前だと思いますけど。こんなアンケートやってることに何か違和感を感じます。変な国・・・
◆自然なこと。問題視することではない。どうしても気に入らない、という人は、参加しなければいいのです。
◆当然の事
◆自国の国旗・国歌に敬意を払うのは当然のことだと思う。
◆国旗・国歌です。
◆当たり前のこと。
◆日本の常識。
◆こんなことで、とやかく言う人間は、日本人じゃないと思いませんか反対する人の心が知れない!クダラナイ
◆日本人として当然
◆日本人であれば当然の事だから。
◆日本人である以上、当然の行為と思われます。
◆国歌なのだから当たり前。
◆理由など無い
◆卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱は当然だと思うからです。
◆当たり前のことは当たり前に行われるべきです。
◆日本の国旗、国歌だから。
◆だって、日本の国旗であり、国歌でしょ。
◆日本の国民として当然のこと。嫌なら日本から出て行くべきでしょう。
◆当たり前です。そう言えば俺も高校の時、電波先生が学校の前で日の丸反対のビラ配ってたなぁ。
◆日本国民なら当然のことである。
◆日本人なら当然。売国奴、国賊は国外追放。在日という名の不法滞在者は直ちに国外強制退去。
◆そんな当たり前の事に反対する人の気が知れない。
◆日本国民として当然の事をすべきではないのか?当たり前のことです。
◆なにか問題でも?こんなくだらない議論してるのは日本だけですよ。
◆日本国民であるから「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱することはあたりまえ
◆そうするのが当然。国歌、国旗を否定するのは反政府組織のすることというのは世界の常識。
◆日本国民ですから。日本国籍や日の丸・君が代を拒絶する人は、日本から出て行けば良い。
◆こんな当然の事を反対する理由がわからない。日教組の洗脳?

※ 儀式・式典なんだから当然とするもの
◆公式行事、儀式では当然やらなければならない。
◆式典なんだから当たり前。
◆「節目」の時に国歌を斉唱し国旗を掲げるのは普通のこと。何の問題があるのか逆に問いたい。
◆今まで普通に接してきたので違和感も何もありません。これからもそれでいい。
◆公的な場では当然のことと思うのですが。

※ 「反対理由が分からない」「理解できない」とするもの
◆なぜ日の丸と君が代が駄目なのか私にはわからない。
◆日本人が,自国の国歌「君が代」と国旗「日の丸」を否定するのは全く理解できない。
◆国民の当然の義務。反対する理由がわからない。
◆国歌ですから当然賛成です。反対する理由が分かりません。
◆反対する理由がわからん
◆反対する理由がない
◆反対する事がおかしい。
◆賛成するってより、別に国歌や国旗に意味はないのだから、反対する必要がないから。
◆自分の住んでる国の国旗・国歌を否定する理由が見つからない。
◆本来の意味を考えると、反対派の言っている理由付けは、これを拒否する理由にはならない。
◆てか、むしろこんな疑問がわくこと自体に疑問があるんですが。

※ 愛国心の確認・発揚・涵養の機会として必要というもの
◆賛成。愛国精神のない人間なんて信用できません。
◆日本国民として当たり前で、反対する理由も無い。自分の国を愛するという機会が無い今、必要かと。
◆日本人だから
◆日本が好きだから。
◆自国の国旗、国歌に誇りを持つためにも、式典では掲げ、歌うべきだ。
◆自分が帰属し、支え、庇護を受ける集団である「国」を認識する良い機会だと思う。
◆政治的云々でなく、自国のアイデンティティの象徴として必要だと思う。
◆歴史のある自分の国を愛せないって最低だと思う。
◆国に祝福されて学業を終えた事、成人として認められた事に感謝できたので。

※ 国旗国歌には敬意をもつべきだからとするもの
◆過去がどうであろうと、日本の国旗や国歌に表された理念に対して敬意を持っているから。
◆我が国のものに限らず、その国の象徴たる国旗と国歌に対する礼節は、義務教育の場で学んでおくべき常識。
◆つか、自国の国旗、自国の国歌に敬意を払えない屑はどっか他所の国に行ってください。
◆自国の国旗と国家を尊重するのは、他国のそれの尊重につながる。負の歴史があるのならそれをも背負うべき
◆日本人が長年愛し培ってきた伝統だから。フォーマルな式典で掲揚・斉唱は国民国家の基本。
◆日本という国に守られながら、そのシンボルに対し侮辱を唱えるのは、私にはひどく醜くく感じられます。
◆いいことも悪いこともすべてを引きずっての国家、国旗、国歌だと思う。

※ 日本の国旗国歌が優れているからとするもの
◆国旗はデザイン的に優れてるし、国歌は他に比べて平和的+個性溢れる。歴史を失わせるのが教育者?
◆ちなみに君が代は万葉の昔ほどでは無いですが、平安時代にはすでに在りましたよ
◆世界一のものだから
◆日本の国歌は美しいと感じるから

※ 公立校の儀式には国旗国歌が当然とするもの
◆少なくとも、税金で運営されている組織は日の丸君が代必須
◆公立の学校なら当然だと思う。それが嫌なら私立という選択肢もちゃんとあるんだから
◆公立学校=公的機関が行う行事は公的行事であり、国旗掲揚・国歌斉唱は当たり前。
◆教育には税金から助成金が出ているから、その税金で勉強させてもらったから当然のこと。
◆常識だから。嫌なら私立へ行ってください。私の学校は私立でも君が代斉唱してましたが

※ どの国においても普遍的なあり方だから、とするもの。
◆国旗掲揚、国歌斉唱を式典で行うのは世界の常識だから。
◆国旗・国歌を敬うのは世界中の常識。それが分かってないのが馬鹿な左翼。
◆ 日本人が、国家・国旗を尊重するのは当たり前。国際人としても、礼儀のうち常識です。
◆世界中見ても常識だろ。
◆どの国でも国旗と国歌に誇りを持つのは最低限の事。式典で義務付けるのは当然。歌う歌わないは自由。
◆アメリカの学校なんか毎日、朝礼で国旗に向かい国歌斉唱してますが何か?
◆尊重しなければならないと教えた方がいい。そうしないと世界に出て恥をかく。

※ 反対派に対する反感を理由とするもの
◆反対してる人って「中国の核はきれいな核」とか言っちゃってる人だけでしょ
◆反対派が、怪しいから。
◆ 反対派がサヨクだから
◆日本人として当然。さらに、反対する連中がうさん臭過ぎ。
◆反対する奴は,日本が嫌いなんでしょ!早く日本から出て行け!なめとんか!ふざけるな!
◆自分の意見を正義だと思い込んで「君が代=軍国主義!」と喚いてる平和主義者が嫌いだから、歌ってやります
◆人生の大切なセレモニーだから。一部の左巻きが生徒をだしに、デムパを出すのは、非常に不愉快。

※ 国旗国歌反対を強制されることが不当だから。
◆「国旗を掲揚せず、国歌を歌わない」事の強制に反対。ファシズムを許してはならない。
◆教育現場に「日の丸反対」「君が代反対」を持ち込むな!「強制」するな!
◆反対を強制されるのはおかしいと思う。

※ 国旗国歌は郷土愛の表れだから、とするもの
◆みんな日本がふるさとで日本が我が家でしょ?その象徴に背を向ける行為をしちゃいけないだろ。
◆郷土を愛する気持から国旗・国歌を敬うのは当然です。

※ 国際的常識を理由とするもの
◆他の国もみんなやってるから、良いと思う。
◆反対している連中は、サッカーやオリンピックの応援で日の丸は振らないのか?
◆だいたいサッカーなどのイベントで、国歌や国旗でもめたという話を聞かないしねぇ。不思議だ。
◆国旗掲揚のときに脱帽しない、無礼者の金メダリストを輩出しないためにも
◆海外勤務での経験から一言。国旗国歌に敬意を払はないと、相手は「侮辱」と受け取ります。
◆国旗国歌に敬意を払うこと、社会生活、国債慣習を身につける意味でも学校で習っておくべきでしょう。日本の旗に限らずどの国に対しても敬意を払う態度をとるのが常識です。
◆自国の国旗国家に敬意をはらえない人間は他国に対しても鈍感になる。
◆どくの国にも国旗や国歌はあるものやし、反対する人たちが何を気にしてるのか分からない。

※ 自分の学校体験から
◆母校は、朝晩、学園中に国歌が流れ直立不動で国旗掲揚していたので違和感は無い
◆ 私の学校では毎年歌っています。今年、卒業生なのでみんなかなりの気合が入ってました!

※ 賛成だが、強制すべきでないとするもの
◆基本的賛成、但し強制的にせよというなら反対です。国籍の違う人間が国歌う必要性は無いですから。
◆反対する権利は認めるが、国旗で国歌である以上は当然。
◆歌わない自由もあれば歌う自由もある

回答を呼びかけた番組自体が、国民全体の意見を聞くにふさわしいものではないとしても、公権力の国旗国歌強制を支えている民衆の生の意識がよく見える。「日の丸・君が代」強制との闘いは、実はこのアンケートに表れた、社会意識との論争が主戦場なのかも知れない。
(2016年2月21日)

「日の丸・君が代」強制の信教の自由侵害

頑迷な都教委との、10・23通達関連訴訟は熾烈に継続している。とうてい先は見えない。国旗・国歌(「日の丸・君が代」)に対する敬意表明の強制は違憲・違法である、との主張をめぐる攻防である。
愚かな都教委が強制をやめるか、最高裁がすべての事案について違憲判断をすることになるまで、この訴訟は継続し続けることになる。

いま、第4次の処分取消訴訟が一審に係属中であり、その第7準備書面を作成の作業中である。今回の私の担当は、憲法20条1項・2項(信教の自由保障規定・政教分離ではない)を根拠とする、「日の丸・君が代」強制の違憲論。

周知のとおり、最高裁は、神戸高専剣道授業拒否訴訟において、信仰上の信念から剣道の授業は受け容れがたいとした学生の訴えを認容した。剣道の授業が客観的に宗教性を帯びると認めたのではない。それでも、剣道の授業強制が特定の信仰者の信教の自由を侵害することを認めたのだ。「日の丸・君が代」強制は、これによく似ている。似ているどころではない。もともと「日の丸・君が代」は神なる天皇と結びついた国家神道のシンボルであった。信仰者が受け容れがたいとする理由の明白さにおいて、剣道の授業とは比較にならない。

論争の応酬の一コマではあるが、その書面のドラフトの比較的まとまりがよい部分を読み易く整理した形で、ご紹介したい。何が、どのように、論争の対象となっているか。その一端をご理解いただけるものと思う。

☆被告(都教委)は、「日の丸・君が代は、国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という。この文章の論理自体がきわめて曖昧である。むしろ、ことさらに曖昧な文章とされたものというべきであろう。
あたかも、「日の丸・君が代」が「国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたもの」である以上は、「それ自体宗教的な意味合いを持つものではない」と述べているごとくであるが、明らかに失当である。
「日の丸」は神話的な起源をもつデザインであり、「君が代」は神なる天皇の御代の永続を称える祝祭歌として、明治期に事実上の国旗・国歌とされた。「日の丸・君が代」を事実上の国旗・国歌とする天皇制国家は、国家神道を主権原理の根拠とした宗教国家であった。したがって、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であっただけでなく、国家神道の宗教的な象徴でもあった。このことは動かしがたい、歴史的事実である。
その後、敗戦を経て神権天皇制は法制度上崩壊し、主権原理を転換した日本国憲法の時代となった。しかし、天皇制は象徴天皇制として存続し、宮中祭祀は「伝統」を固守し続けている。国家神道を支えた各地の神社も宗教法人に衣替えして往時の姿をとどめている。国家神道を支えた社会基盤も社会意識も崩壊に至っていない。その社会基盤と社会意識に支えられて、「日の丸・君が代」も廃絶されることなく、日本の社会に生き残り、国旗国歌とされるに至った。
「日の丸・君が代」の宗教性の有無は、法によって決せられるべき事項ではない。国旗国歌法が成立しようと廃絶されようと、なんの消長も影響も受けるものではない。とりわけ、今議論の局面は、憲法20条1項および2項の基本的人権としての個人の内面における信教の自由をめぐってのものである。国会の多数決の議決によっても動かしがたいものなのである。このことについて、被告が無自覚であることが恐るべきことなのである。
被告都教委の「日の丸・君が代は、国旗国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という、恐るべき無自覚、無神経が、原告教員らの積極・消極両面の信教の自由をないがしろにしていると嘆かざるを得ない。

☆また、被告は、「日の丸・君が代は、原告らが主張するように『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』ではない。それまで日の丸・君が代が我が国の国旗・国歌であることが慣習として成立していたという事実的経過があって、議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化されたものである。」ともいう。
問題は、個人の精神的自由の根幹をなす、自己の内面をいかに形成するかの自由を論じる局面にある。日の丸・君が代が『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』であるか否かは、個人それぞれの判断にかかる問題であって、法がその判断に介入出来ることではない。
被告の主張の誤謬は、「議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化された」という一文に象徴される。被告は、あたかも「議会制民主主義」や「国民多数の意思」が、人権を制約する大義名分としてオールマイテイであると考えている如くである。
しかし、議会制民主主義がなしうることには明確な限界があって、いかなる絶対多数によっても基本的人権を侵害することは許されない。被告主張の如くに、国会の議決によって、「日の丸・君が代」の意味づけが変えられて、信仰者の信教の自由や、無神論者の信仰を持たない自由が傷つけられてはならないのである。
しかも、国旗国歌法の内容はわずかに2か条、国旗と国歌のデザインと歌詞メロディを定めるだけのものである。それ以上の意味づけ規定はなく、国民の権利義務ともまったく無関係なものである。国旗国歌法の趣旨・目的は、国旗国歌を定義づけるだけのものであって、それを超えて、法の成立が「『日の丸・君が代』から『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』を排除した」などという効果を生じるものではない。被告の主張は、何重にも牽強付会を重ね、何重にも誤っている。

☆さらに被告は、「国旗・国歌が国民統合の象徴の役割を持つことから、国旗・国歌を取り巻く政治状況や文化的環境などから、過去において、日の丸・君が代が皇国思想や軍国主義に利用されたことがあったとしても、また、日の丸・君が代が過去の一時期において、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として利用されたことなどを理由として、日の丸・君が代に対して嫌悪の感情を抱く者がいたとしても、日本国憲法においては、平和主義、国民主義の理念が掲げられ、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であることが明確に定められているのであるから、日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という。
これは、意味不明の無意味な主張である。いま、「日の丸・君が代」の宗教的象徴性について論じている局面で、被告の主張は論争テーマと関連性を持たない。
とりわけ、「日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という一文は法律論ではない。政治的な宣言文書としては意味を持つかも知れないが、「役割が期待されている」との文言は、何らの法律要件とも法律効果とも結びつくものではない。
被告の論法では、「天皇は憲法において日本国及び日本国民統合の象徴であると定められているのであるから、天皇という存在は当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということになる。また「『日の丸・君が代』も国旗国歌法において国旗国歌とされた以上は、当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということにもなる。
憲法が天皇を制度上どう定めようと、また憲法上の天皇についての規定の有権解釈がどのようなものであろうとも、個人が天皇についてどのような見解を有するかは自由でなくてはならない。とりわけ、天皇制の形成過程や歴史的に果たした役割から、天皇の宗教的象徴性についての見解やそれをめぐる思想は完全に自由でなければならない。これは自明の理である。また、当然のことながら、その天皇に関する思想表明の自由には格別の保障がなされなければならない。
同様に、国旗国歌法が「日の丸・君が代」を国旗国歌と定めたとしても、国民個人が「日の丸・君が代」をどう位置づけ、どう理解し、どう評価すべきかという点に関して、いささかも影響されるところがあってはならない。国旗国歌法の制定如何に関わらず、信仰者である原告らについても、また信仰者でない原告についても、その「日の丸・君が代」をめぐる宗教性の有無についての考え方の自由は、最大限に尊重されなければならない。
要するに、基本権侵害を論じる主観的違憲論の局面において、国旗国歌法の出る幕は一切ない。被告が国旗国歌法を持ち出したこと自体が、見当外れの謬論なのである。

☆また、被告は「原告らにおいても、個人として信教の自由が保障されているが、公務員として全体の奉仕者としての地位にあり、しかも、その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」という。
「そもそも教育公務員には信教の自由を保障する必要がない」という被告の粗雑な論法は、教育公務員をして精神的自由を持たない奴隷の地位に貶めるものと言わざるをえない。この論法は、社会生活を送るものに、そもそも信教の自由はないというに等しい。
「信教の自由が保障されている」というためには、最低限自らの信仰に反する行為の強制を受けないことが保障されていなければならない。外部的な行為と切り離されて純粋に内心に限定された信教の自由は、権利として論じる意味を持たない。
また、被告が「個人として信教の自由が保障されている」という意味は不明確であるが、「個人として」の意味が「社会生活とは切り離された純粋に私的な生活領域においては」という意味であれば、これも権利の保障に値しない。
きわめて常識的に、「国民のすべてに信教の自由が保障されている」とは、いかなる信仰を持つ者も、また持たざる者も、宗教に関わる理由で通常の社会生活に支障をきたすことのない社会環境が整えられていることを意味する。
キリスト教の信仰者である複数の原告に限らず、「日の丸・君が代」の宗教性に鋭敏な信仰者は数多く存在する。これらの信仰者が、「日の丸・君が代」の強制を甘受せざるを得ないことを理由にその宗教上の精神生活に支障をきたすようなことがあってはならない。換言すれば、通常の社会生活と信仰者としての精神生活との矛盾に陥らせてはならないということが、「信教の自由を保障する」という意味でなくてはならない。
信仰者である原告らは、自己の信仰者としての精神生活を堅持しながら、教育公務員としての社会生活を支障なく送るべく被告に配慮を要求する憲法上の権利を有し、被告にはこれに対応する憲法上の義務があるというべきなのである。

☆被告がいう「その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」との主張は、著しく偏頗な一面的な議論に過ぎない。原告らの憲法上の権利性を全面的に否定し、教育公務員という属性を理由に、原告らに信仰者としての精神生活の保障を排除する結論となっているからである。
また。被告の立論は、一方的に結論を述べているが、理由や根拠に触れるところがないが、憲法上の権利の制約を容認すべきとする主張は、制約の根拠についての主張・挙証の責任を負うべきが当然なのである。

☆なお、原告らとしても、教育公務員としての職務の遂行が当該教育公務員の宗教上の信念と衝突する場面において、いかなる場合にも宗教的信念の保障が優越すると主張するものではない。
信教の自由という精神的自由権の中核的権利についての制約が許容されるか否かは、合違憲判断の常道として、制約の目的、制約の手段、目的と手段との関連性の3面における、厳格な違憲審査基準の適用をもって判断されなければならない。
目的審査は、当該教育公務員に課せられる具体的な職務上の義務が真にやむを得ない利益を達成するためのものであるか否か。手段審査は、その利益を達成するための必要不可欠な手段であるか否か。そして、(目的と手段の)関連性審査は、その義務によって課せられる信教の自由に対する制約が必要最小限度のものであるか否か。この3面における検証のすべてに合格して始めて憲法上の人権の制約が許容されることになる。
厳格審査基準からしても、教員の本来的な職務である生徒に真理を教授する場面において、自己の宗教的信念を貫くことは許容されない。「天地は神が創造したもうた」「進化論は聖書に反する誤った考えである」「日本の建国は神武の即位に始まる」などを、真理ないしは真実として教授することは許容されない。子どもの教育を受ける権利を全うする目的から上記3面の審査による制約は容易に肯定されうることになろう。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することは、何らの真にやむを得ない利益を達成するための目的を肯定することにはならない。国旗・国歌ないしは「日の丸・君が代」の強制は、生徒たちに国家意識あるいは愛国心を醸成することを目的とするものであろうが、このことは真理の伝達とは異なり、教育公務員の本来的な職務ではない。むしろ、国家をどのように位置づけ理解するかは、優れて価値観に関わる問題として、教育にも強制にも馴染まない。少なくとも、そのような教育公務員の信念は尊重されなければならない。とうてい、「真にやむを得ない利益を達成するためのもの」とは言えない。
また、仮に卒業式等の儀式における秩序維持が肯定されるべき目的ないし利益だとしても、全教員に対する起立・斉唱の強制が、この目的を達成するための必要不可欠な手段であるとも、必要最小限度のものとも到底言えない。積極的に式の進行を妨害することなく、国歌斉唱時に静かに坐っているだけの教員に懲戒処分を科してまで起立や斉唱を強制する必要はあり得ない。
以上のとおり、原告らが、憲法20条1項および2項にもとづいて有する基本権が、「日の丸・君が代」への敬意表明強制によって制約されることは許容し得ない。被告の主張は誤りである。
(2016年2月20日)

ボクたち、アベ政治応援団。がんばれ高市総務相。

ボクたち「放送法順守を求める視聴者の会」。顔ぶれに新味のない、いつもの右翼の常連ですが、アベ政治応援団としてまたやりました。どうです、「放送法4条守れ」のキャンペーン。2月13日付読売新聞への全面広告ですよ。あのぎらぎらする目で睨みつける意見広告。「キモい」「感じワルーイ」「センスゼロ」「恐ろしい」…。そんな読者の声もありますが、恐がってもらうのも、われわれの狙いのうち。大きなインパクトで、テレビが萎縮してくれれば、それが何より。

しかも、高市早苗総務相の「停波あり得る発言」が2月8日だから、13日の全面広告は絶好のタイミングで援護射撃になったでしょ。

ボクたち、アベのやることなんでも賛成。アベ政治親衛隊です。なんと言っても、アベこそが右翼の星なのですから。教育基本法改正・特定秘密保護法・自虐史観攻撃・靖國神社公式参拝・従軍慰安婦の強制性否定・内閣法制局人事介入・集団的自衛権行使容認・安保法制強行成立・沖縄辺野古新基地建設強行…、そして断固高市総務相発言の容認。何よりも、戦後レジームからの脱却、そして美しい日本を取り戻す。天皇を戴く国を目指す「自民党・日本国憲法改正草案」に大賛成。

この全面広告の大きな活字のフレーズは、「視聴者の目はごまかせない」「ストップ!“テレビの全体主義”」「放送法第4条が守られ、知る権利が保障されなければ、表現の自由や、民主主義は成り立ちません」「誰が国民の『知る権利』を守るの?」というもの。そして、円グラフで特定秘密保護法や安保法制などで、「TVの電波は独占状態!」と訴えています。苦心の作だって思うでしょ。ちょっと見だと、右翼の宣伝文書に見えないところがミソ。

ボクたちも学びました。まずは、古くさい仲間内だけの右翼用語を使っていてはダメだということを。偏向だの、反日だの、ブサヨなどという用語は一切避けたのです。ボクたちの顔ぶれを見れば、大きな英断だとお分かりでしょう。

次に心掛けたのは、左翼・リベラル用語の取り入れ。内容は換骨奪胎にしても、これまでは敵の陣営が使っていた言葉を使ったのですから、どうもしっくりは来ないけれども、凄いことだと思いません?

だって、「全体主義」を攻撃しているのですよ。「知る権利」でしょう。「表現の自由」でしょう、そして「民主主義」なのです。これまでは、左翼・リベラルに独占させていた言葉をボクたちの陣営にもぎ取ったのですから、たいしたものなんですよ。もう少ししたら、「平和」も、「立憲主義」も、「反権力」も「ヘイトスピーチ反対」も、「歴史修正主義糾弾」だって、我が手にしてしまおうかと思っています。いや、ホントに。

さらなる工夫は、アベ政権応援を隠していること。もちろんボクたちアベ政治の応援団で、そのことはバレバレなんだけど、ロジックとしてはアベ政権応援は前面に出さないことにしたの。ホントは、テレビ局がアベ政権に反抗していることが怪しからんので、「アベに代わって局を打つ」の気概なんだけど、それじゃアベの人気をまた下げちゃうことになる。そこで頭をひねってね。政権ではなくて、視聴者が批判しているという形にしたの。アタマいいでしょ。

なんたって、アベ政治がポシャれば、憲法改正も夢と終わる。天皇陛下を元首とし、堂々たる国防軍を持って近隣諸国から舐められない、軍事大国を作るための憲法改正。二度とこんなチャンスはやってこない。ところがアベの人気がイマイチだ。これはみんなテレビのせい。だから、テレビを脅かして、「アベを持ち上げないと免許を取り上げる」「アベの悪口言えば、電波の停止もありうるぞ」とたしなめているの。

高市早苗総務大臣は立派だ。堂々と、テレビ局締め上げの発言をしているのだから。ボクたちアベ応援団、心一つに高市を孤立させずに支援をしよう。よいタイミングで、全面広告出せてほんとによかった。

ところで、「政治的公平」ってなんだか知ってる? そう、政権の言うとおりの報道と意見が公平で公正なんだ。だってさ、世の中にはいろんな意見がある。勝手気ままでまとまらなければこの国が滅びる。意見は政権の言うとおりにまとまることが大切で、これを公平・公正という。「それって全体主義」って言われればそうかも知れないけど、民主主義に支えられた全体主義なら悪くないんじゃない。なんてったって選挙で勝った者が国民の代表者だもの。アベ政権が国民の意見の代表者で、アベ政権の言うとおりが公平・公正で間違いないでしょ。

NHKだけがボクたちのメガネに適っている。籾井会長が言うとおり、「政権が右と言っているのに、局が左といっちゃいけない」に決まっているはずじゃない。ボクたちアベ応援団だから、権力批判はしないの。アベが、NHKの人事に介入し、番組の内容まで変えようとしているのことに、「視聴者の目はごまかせない」って声は上げない。その点は、目をつぶる。もちろん、安倍晋三と一緒に飯を喰う仲の「ジャーナリスト」の批判もしない。

えっ? ボクたちの言うこと、どこかおかしい? いや、おかしいというキミの方が、偏っているのさ。
(2016年2月19日)

カール・クラウスの「炬火」に沈黙を強いた巨大な闇

池内紀著の「カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり」(講談社学術文庫2015年11月10日)に目を通した。世の中は広い。歴史は深い。このような驚嘆に値する人物もいるのだ。

カール・クラウス(1874?1936年)は、ウィーンで活躍した「稀代の作家・ジャーナリスト・編集者」と紹介されている。「批評家、諷刺家、詩人、劇作家、論争家」でもあるという。その活動の時期は、世紀末からナチスの台頭期まで。

「炬火」は、彼が一人で編集・執筆し、生涯を通じて発行し続けた個人雑誌。1899年4月の創刊から、1936年2月の922号まで。総ページ数2万3008頁。その大半をクラウス一人が書いた。最盛期には当時のオーストリア・ハンガリー帝国内外で3万をこえる予約購読者を得ていた。イギリスの「タイムズ」が5万程度の発行部数だった当時のこと。雑誌であったが広告を一切のせず、刊行日も定めない。要するに、どこからも制約されず、世の雑音ないし権力にわずらわされず、書きたいものを書きたいときに書きたいように書いた。その我が儘を読者が支え続けたという。

彼は、この雑誌発行を手段として、激動の時代、権力に立ち向かい、政治の堕落腐敗を批判し続けた。彼の武器は『ことば』だけだった。これは、まさしく元祖ブロガーではないか。

1899年6月発行の「炬火」第9号には次のような「3か月の決算報告書」が載せられているという。これも、硬骨ブロガーの証しではないか。
 匿名誹謗文 236通
 匿名脅迫文  83通
 襲撃      1件

彼の人気は、批判の仮借なさと洗練された文体の面白さにあったという。その魅力が熱烈なファンを得たが、反面多くの敵対者も作った。
彼の考えかたが、次の文章によく表れている。
「強い熱を受けて始めてひそかな『悪』があぶり出されるとき、そしてその『悪』がもっとも問題であるというのに、ただ、証明できるものだけを述べ、ほどよい節度の下にだけ語るのが許されるとすれば、その言論の自由にどんな意味があるのだろう」

彼の社会批評は辛らつであったが、常に弱者の側に立っていた。弱者の側に立ちきれない者、権力と対峙し得ない大手新聞も仮借ない批判の対象とされた。その活躍ぶりには目を瞠らざるを得ない。

その彼の最晩年に、ドイツではヒトラーが政権をとり、全権委任法が成立してナチスの独裁がはじまる。ヒトラーの誕生日を祝って、新聞はこの「救国者」をほめたたえ、ハーケンクロイツの旗が全ドイツになびいた。

この書を読み進む読者は、当然にクラウスがナチスにどのような抵抗をし批判の言葉を浴びせたか、その一点に関心を寄せることになる。彼はユダヤ人でもあった。ところが、この点が、実はスッキリしないのだ。

この書の序言ではこう書かれている。
「そのときクラウスはすべての仕事をなげうって執筆に没頭した。新しい権力者に迎合する知識人のことばを集め、辛らつな注釈を加えた。情報宣伝相ゲッベルスの論説をことこまかに分析した。そのウソとデマゴーグぶりをとりあげた。ナチスの機関紙『フェルキッシェ・ベオーバハター』にみる残虐行為を収録した。事実を否認し、それが通用しないとなると、他人に転嫁し、そののち居直って逆襲に出る。そんなナチズムの常套手段をあばいていった。風刺技法をかたむけて、暗示し、もじり、皮肉り、嘲罵した。何にもまして一貫しているのは怒りの激しさだった。暗いトンネルをひた走るようにして『矩火』を続けた。そこにはシェイクスピアの『リア王』の引用がまじえてある。
  神よ、事態がさらに悪化せぬと誰に言えましょう?
  昔より今はもっと悪くなっています。
  そして、さらに悪化するかもしれません。
  これが最悪だと言える間は、それは最悪の事態ではないのです。」

この文章は、硬骨を貫いた表現者への手放しの讃辞である。しかし、本文を読むと事情は異なるのだ。「クラウスがすべての仕事をなげうって没頭し完成した執筆」は300頁に及ぶものだったが、彼はその作品の公刊を断念した。そして、生前これが発表されることはなかった。

「たえずひとりで執筆者と雑誌編集者と出版人を兼ねていた男だが、このたびは編集者の段階で作品を差し止めにした。優に一冊分の300ページあまりを執筆し、印刷に廻し、朱筆までいれたが『炬火』には掲載しなかった」

代わりに出た「炬火」888号(33年10月)は、わずか4頁。その最後に、次の10行詩が掲載されていたという。
   問うなかれ、このときにあたりわたしが何をなしたかと。
  わたしは沈黙をまもる、
  そしてそのわけを語らない。
  静寂があるのは、地球がすさまじい音をたてて砕けたからだ。
  この有様にかなうことばはなかった、
  われひとはただ眠りのうちから語るばかり。
  そして、かつて輝いた太陽を夢みる。
  ことは過ぎ去り、
  後になれば同じことだった。
  あの世界が目覚めたとき、ことばは永遠の眠りについた。

その後9か月の沈黙ののち、315頁の大部な号が発行された。「なぜ炬火は発行されないか」という奇妙なタイトルを付けてのもの。その全ぺージのほとんどが、先の10行詩に対する反響が収録されているのだという。そのほとんどは、自分を痛烈に批判し非難する左翼陣営の新聞、雑誌の記事で埋められていた。
 「カール・クラウスの最後の挨拶!」
 「なぜカール・クラウスは沈黙するのか?」
 「カール・クラウスの終焉」
 「カール・クラウス最期の日々」

ある新聞の論説が引用されている。
「暗い時代にこそ人間の本性が知れるものだ。これまで講演会場において、芝居がかった身振り入りで獅子吼していたというのに、まさしく口をつぐんではならないこの時代にあたり、彼は矩火の火を消そうとしている」

この同時代における批判がクラウスの対ナチス姿勢についての定説になった。事実、彼はナチスへの迎合こそしなかったが、けっして正面からは闘わなかった。「カール・クラウスは激しく彼のファンを裏切った」のだ。それゆえ、大戦後評価されることがなかった。

著者は、難解な彼の言動を、けっして裏切りではないとの立場から弁明を試みているが、それこそ難解で了解は難しい。

元祖ブロガーは、最晩年を有終の美で飾ることが出来なかった。無念ではある。しかし、時代状況は、まさしく「地球がすさまじい音をたてて砕けた」のだ。「この有様にかなうことばはなくなった」のだ。彼にして、「わたしは沈黙をまもる」「ただ眠りのうちから語るばかり」と観念せざるを得なかったのだ。あらためて思う。「ことばを永遠の眠りにつかせ」てはならない。

凡庸なわれわれブロガーが、なべて沈黙を強いられる時代を到来させてはならない。敵は、ちゃちなスラップを試みる程度の小物に限らない。権力そのものであったり、モンスターであったりもするのだ。その強大な敵に押し潰されないためには、片時も沈黙することなく、言葉を武器に語り続けなければならない。個別の表現者を孤立させてはならない。多くの表現者が連帯して、権力者の側をこそ孤立させなければならない。

何度でも呼びかけたい。「万国のブロガー団結せよ」と。
(2016年2月17日)

これは、大きな問題だ。ぜひあなたも、高市早苗と安倍政権に抗議の声を。

2月8日と9日の衆議院予算委員会における総務相高市早苗発言。放送メディアを威嚇し恫喝して、アベ路線批判の放送内容を牽制しようという思惑の広言。あらためて、これは憲法上の大問題だと言わざるを得ない。政治とカネの汚い癒着を露呈した甘利問題もさることながら、表現の自由・国民の知る権利、そして民主主義が危うくなっていることを象徴するのが高市発言。もっと抗議の声を上げなければならない。

表現の自由こそは、民主主義社会における最重要のインフラである。これなくして、民主主義も平和も、社会の公正もあり得ない。そして、この表現の自由とは、何よりも権力からの自由である。表現の自由の主たる担い手であるメデイアは、常に権力からの介入に敏感でなくてはならない。いま、放送というメディアに権力が威嚇と恫喝を以て介入しているときに、肝心のメディア自身に危機感が見えない。もっと真剣に対峙してもらいたい。

残念ながらメディアの反応は鈍く、中央紙の社説では下記の3本が目につく程度。
 毎日社説 2月10日 総務相発言 何のための威嚇なのか  
 読売社説 2月14日 高市総務相発言 放送局の自律と公正が基本だ  
 東京新聞 2月16日 「電波停止」発言 放送はだれのものか  

政府寄り・アベ御用達と揶揄されるスタンスの社も、メディアのプライドをかけて高市発言を批判しなければなるまい。この事態を放置しておけば、確実に「明日は我が身」なのだから。しかも、各紙とも系列の電波メディアを持っている。とうてい他人事ではないのだ。

メディアの反応が鈍ければ、主権者が直接に乗り出すしかない。そこで、ご提案したい。ぜひ皆さま、抗議の声明を出していただきたい。個人でも、グループでも、組合でも、民主団体でも…。声明でも、要請でも、抗議文でも、申入書でも…形式はなんでもよい。宛先は高市早苗と安倍政権。あるいは、各放送メディアへの要請もあってしかるべきだろう。手段は、ブログもよし。手紙でもファクスでもメールでもよい。

問題は、文面である。在野・市民団体の側の危機感は鋭く、高市発言以来昨日(2月16日)までに、多くの抗議の声が上げられている。その内、下記4本の声明や申入れが代表的なもので、ほぼ問題点を網羅している。いずれも、日頃からの問題意識あればこその迅速な対応としての声明文だ。それぞれに特色があるが、並べて読めば網羅的に問題点を把握できる。これを読み比べ、議論の叩き台として、見解をまとめてみてはいかがだろうか。

官邸の宛先は
〒100-8968 東京都千代田区永田町1-6-1
   内閣総理大臣 安倍晋三殿

下記アドレスから官邸へのメール発信が出来る。
  https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html

総務大臣の宛先は、
〒100?8926東京都千代田区霞が関2-1-2
     中央合同庁舎第2号館
 総務大臣 高市早苗殿

総務大臣宛には、下記URLからメールで。
  https://www.soumu.go.jp/common/opinions.html

なお、2月8日衆院予算委員会議事録のネットでの公開はまだないが、下記のサイトで、記録を起こした全文が読める。「高市早苗氏『電波の停止がないとは断言できない』放送局への行政指導の可能性を示唆」
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160209-00010000-logmi-pol

また、参考とすべき放送法は
  http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO132.html

電波法は、
  http://www.houko.com/00/01/S25/131.HTM

代表的な4本の抗議声明とは、下記のA?D。いずれも、信頼できる団体の信頼できる内容。

A 2月10日 民放労連声明
 「高市総務相の「停波発言」に抗議し、その撤回を求める」
  http://www.minpororen.jp/?p=293

B 2月12日 放送を語る会・日本ジャーナリスト会議
 「高市総務大臣の「電波停止」発言に厳重に抗議し、大臣の辞任を要求する」
  http://jcj-daily.seesaa.net/article/433733323.html

C NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ 申入れ
  「高市総務相の「停波」発言の撤回と総務大臣の辞職を求める申し入れ」
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-e9fb.html

D 2月16日 東京弁護士会・会長声明
 「高市早苗総務大臣の「放送法違反による電波停止命令を是認する発言」に抗議し、その撤回を求めると共に、政府に対し報道・表現の自由への干渉・介入を行わないよう求める会長声明」
  http://www.toben.or.jp/message/seimei/post-425.html

それぞれの特色があるが、下記の点では、ほぼ共通の認識に至っている。
(1) 高市発言の「放送法の規定を順守しない場合は行政指導を行う場合もある」「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」の部分を問題として取り上げ、これを不要不適切というのみならず、放送メディアに対する威嚇・恫喝と把握していること。

(2) 高市発言が、「放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した」ことについて法の理解を間違いとしている。憲法・放送法の研究者においては放送法第4条は放送事業者に法的義務を課す規範ではなく、放送事業者の内部規律に期待した倫理規定とみなすのが定説であって、権力規制に馴染まないこと。

(3) 高市発言は、安倍政権の報道の自由への権力的介入の姿勢の象徴であるとともに、高市自身の日頃の政治姿勢の問題の発露でもあること。

(4) 電波管理行政を所管する大臣からの、メディアへの威嚇・恫喝は、憲法21条の理念に大きく違背するものとして、憲法上重要な問題であること。

(5) 高市には閣僚としての資質が欠けているとして、本人には辞任を、政権には更迭を求めていること。(弁護士会声明だけは別)

以下、各声明・申し入れの特徴を略記しておきたい。
A 2月10日 民放労連声明
さすがに、対応が迅速である。高市発言を放送の自由に対する権力的介入と捉え、これを我がこととしての当事者意識が高い。その自覚からの次の苦言が印象的である。
「今回のような言動が政権担当者から繰り返されるのは、マスメディア、とくに当事者である放送局から正当な反論・批判が行われていないことにも一因がある。放送局は毅然とした態度でこうした発言の誤りを正すべきだ。」

また、問題の根源が未熟な政府の放送事業免許制にあるとして、次の提案がなされている。
「このような放送局への威嚇が機能してしまうのは、先進諸国では例外的な直接免許制による放送行政が続いていることが背景となっている。この機会に、放送制度の抜本的な見直しも求めたい。」

B 2月12日 放送を語る会・日本ジャーナリスト会議声明
高市総務大臣の「個性」に着目して背景事情を語り、その資質を問題として糾弾する姿勢において、もっとも手厳しい。

「もし高市大臣が主張するような停波処分が可能であるとすれば、その判断に時の総務大臣の主義、思想が反映することは避けられない。
 仮に高市大臣が判断するとした場合、氏はかつて『原発事故で死んだ人はひとりもいない』と発言して批判をあび、ネオナチ団体代表とツーショットの写真が話題となり、また日中戦争を自衛のための戦争だとして、その侵略性を否定したと伝えられたこともある政治家である。このような政治家が放送内容を『公平であるかどうか』判定することになる。
 時の大臣が、放送法第4条を根拠に電波停止の行政処分ができる、などという主張がいかに危険なことかは明らかである。」
「我々は、このような総務大臣と政権の、憲法を無視し、放送法の精神に反する発言に厳重に抗議し、高市大臣の辞任を強く求めるものである。」

C NHKを監視・激励する視聴者コミュニティの総務大臣宛申入れ
小見出しを付した3パラグラフから成る。もっとも長文であり、叙述も広範囲に亘っている。
1.倫理規範たる放送法第4条違反を理由に行政処分を可とするのは法の曲解であり、違憲である。
「最高裁判決は、放送法4条の趣旨を、『他からの干渉を排除することによる表現の自由の確保の観点から,放送事業者に対し,自律的に訂正放送等を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めたもの』と言っている。権力的な介入を認める余地はない。」

2. 停波発言は2007年の放送法改正にあたって行政処分の新設案が削除され、真実性の確保をBPOの自主的努力に委ねるとした国会の附帯決議を無視するものである。
「高市総務相は『BPOはBPOとしての活動、総務省の役割は行政としての役割だと私は考えます』と答弁し、BPOの自立的な努力の如何にかかわらず、行政介入を行う意思を公言した。しかし、権力的介入を防止し、社会的妥当性を踏まえた自律機能を発揮するのがBPOの存在意義。高市発言は、BPOの存在意義を全面的に否定するものにほかならない。」

3. 放送法第4条に違反するかどうかを所管庁が判断するのは編集の自由の侵害である。
 「政治的に公平だったかどうか、多角的に論点を明らかにしたかどうかは往々、価値判断や対立する利害が絡む問題である。そして報道番組の取材対象の大半は、時の政権が推進しようとする国策であり、報道番組では政府与党自身が相対立する当事者の一方の側に立つのがほとんどである。放送に関する許認可権を持つ総務大臣が、放送された番組が政治的に公平かどうかの審判者のようにふるまうのは、自らがアンパイアとプレイヤーの二役を演じる矛盾を意味する。その上、放送事業者に及ぼす牽制・威嚇効果は計り知れず、そうした公言自体が番組編集の自由、放送の公平・公正に対する重大な脅威となる。」

D 2月16日 東京弁護士会・会長声明
 高市問題に関する最初の弁護士会声明である。憲法21条についての実践的重要課題として迅速に取り上げた執行部に敬意を表したい。
最後は、「よって、報道・表現の自由を萎縮させ、国民の知る権利を侵害し立憲民主主義を損なう高市早苗総務大臣の発言に強く抗議し撤回を求めると共に、政府に対し報道・表現の自由への干渉・介入となり得るような行政指導や発言を行わないよう求める。」と結ばれている。ここにも見られるとおり、高市よりは、むしろ政府に対する抗議と要請になっていることに特色がある。

「菅官房長官や安倍総理も、この(高市)発言を『当然のこと』『問題ない』として是認している。しかし、このような発言や政府の姿勢は、誤った法律の解釈に基づき放送・報道機関の報道・表現の自由を牽制し委縮させるもので、我が国の民主主義を危うくするものである。」というのが基本姿勢。

「憲法21条2項は検閲の禁止を定めているが、これは表現内容に対する規制を行わないことを定めるものでもある。1950年の放送法の制定時にも、当時の政府は国会で「放送番組については、放送法1条に放送による表現の自由を根本原則として掲げており、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない」と説明している。
放送法4条が放送内容への規制・制限法規範になるものではなく、放送事業者の自律性における倫理規定に過ぎないことは明らかである。」「政府が、放送法4条の「政治的に公平」という言葉に部分的に依拠しそれが放送事業者に対する規制・制限法規範であると解釈して、行政指導の根拠とすることは許されず、さらに違反の場合の罰則として電波法76条1項による電波停止にまで言及することは、憲法および放送法の誤った解釈であり許されない。」とする。
その上で、「放送法4条についての今般の解釈を許すならば「政治的に公平である」ということの判断が、時の政府の解釈により、政府を支持する内容の放送は規制対象とはならず、政府を批判する内容の放送のみが規制対象とされることが十分起こり得る。さらに、電波停止を命じられる可能性まで示唆されれば、放送事業者が萎縮し、公平中立のお題目の下に政府に迎合する放送しか行えなくなり、民主主義における報道機関の任務を果たすことができなくなる危険性が極めて高くなるものである」とたいへん分かり易い。

安倍政権は、今や誰の目にも、存立危機事態ではないか。アベノミクスは崩壊だ。閣僚不祥事は次々と出て来る。そして、メディアを牽制するだけが生き残りの道と思っているのではないか。なんとか生き延びて、悲願の改憲をしたいというのがホンネであろう。
一つ一つの課題に、抗議の声を積み上げたいものと思う。
(2016年2月17日)

プーチンの汚職疑惑を訴えるブロガーの覚悟

2月12日の各紙に小さく載った時事通信の配信記事。ロシアのブロガーが、プーチンを訴えたのだという。ほかならぬ「あのプーチン」を、である。短い記事なので全文を引用しよう。タイトルは、「ロシア大統領を提訴=政敵ブロガー、汚職と指摘」というもの。穏やかな話しではない。

【モスクワ時事】ロシアの反政権ブロガー、アレクセイ・ナワリヌイ氏は11日、プーチン大統領に汚職疑惑があるとして、モスクワの裁判所に提訴したと発表した。大統領の決定で昨年10月、娘婿が株主の石油化学会社に政府系ファンドから約18億ドル(約2000億円)が拠出されたという。
ペスコフ大統領報道官は記者団に「(大統領は訴えを)知らない」と説明した。次期大統領選の前哨戦となる9月の下院選前に、波紋を広げる可能性がある。

これだけの記事では、正確なことは分からない。汚職疑惑があるなら刑事告発をすべきところだが、プーチンの手下がプーチンを訴追することは考えがたい。では、いったい裁判所にどのような提訴をしたのだろうか。どのような勝訴への成算があるのだろうか。提訴が記事になるインパクトだけが獲得目標なのだろうか。そもそも「疑惑」は秘密のことなのだろうか。それとも誰もが知っていることなのだろうか。どれほどの根拠あっての「提訴」なのだろうか。

それはともかく、ロシアにも「反政権ブロガー」が存在するのだ。その「反政権ブロガー」が権力者プーチンの最大の政敵として、プーチンの巨大汚職を告発したのだという。「提訴したとの発表」もおそらくはブログでなされたのだろう。プーチンと渡り合うという武器となったブログの威力に興味津々ではないか。

権力的統制には弱いロシアのメディアである。遠慮のないプーチン批判は難しかろう。ましてや、プーチンの汚職摘発はハードルが高い。それでも、ブログで批判や告発がなされているという間接的な形であれば、記事にできるのではないか。「ナワリヌイがプーチンを提訴」は、現に報道されている。メディアの腰が引けているとき、これに代わるものとしてのブログの影響力は大きい。メディアが沈黙するとき、人々の情報の渇望に応えて、たったひとりが発信するブログの政治的意義ははかりしれない。

アレクセイ・ナワルヌイとは、「弁護士資格を持つロシアの人気ブロガー」だそうだ。今やプーチンの最大の政敵と自他共に認める存在で、2度の被逮捕経験があるとのこと。この逮捕された経験によって、彼はブログの世界の活動家から、リアルな反体制活動家に変身したのだという。

ブログは、使い手次第でプーチン政権とも対等に戦う恐るべき武器たりうる。組織なく資力なくとも、多くの人に事実を知らせ、多くの人を説得し、多くの人の意識を変え、多くの人に行動を促し、もしかしたら政権や体制を変革するきっかけにすらなり得るのだ。

そのためには、二つの要件がある。一つは、信念を貫く不退転の決意である。プーチンの政敵や批判者たらんとするには、暗殺の恐れを絵空事ではなく現実味あるものと想定し覚悟せざるを得ない。ナワルヌイのブロガーとしての人気は、そのような危険をも覚悟した決意に満ちた発言だからこそ、なのだろう。

私もブロガーの端くれだが、省みてナワルヌイほどの覚悟も決意もない。アベ政権批判も、DHCや吉田嘉明批判も、その他の政治家や大企業や御用メデイアや御用学者批判も、そして天皇や天皇制批判も、稲田や高市批判も、嫌がらせ程度は避けられないにせよ、暗殺を恐れるなどという大仰な覚悟は不要である。

私は、ナワルヌイに学んで、暗殺も恐れぬ覚悟と決意でブログを書こうなどとはけっして思わない。暗殺など恐れる必要なく批判の言論を展開できる自由の獲得に全力を尽くすことにこそ覚悟と決意を向けたいと思う。

そしてもう一つの要件。ブロガーの威力や影響力は、多くの人に読んでもらえてこそのこと。多くの人に読んでもらえる工夫と努力が必要だ。まずは、長い、くどいの悪評を払拭しなければならない。いまに…。そのうちに…。いつかきっと…。
(2016年2月16日)

自治会・町内会ーこの身近にして問題多き難しきもの

朝日が、2月8日から12日まで5回のシリーズで「自治会は今 フォーラム面の現場から」という特集を連載した。各回のタイトルは以下のとおり。

 1 断れない「寄付」って変 2月8日
 2 神社維持、全員で負担? 2月9日
 3 選挙協力、まるで後援会 2月10日
 4 退会者に「ごみ出すな」 2月11日
 5 「地域の要望」誰の声? 2月12日

自治会・町内会は日本全国に遍く組織されている。多くの人にとって、最も身近な組織と言えよう。自治会・町内会との付き合いにおいて、プリミティブに組織と個人の関わりの基本問題が表れる。したがって、自治会・町内会の運用のあり方は、日本社会全体の構造の縮図として深く関心を寄せざるを得ない。民主主義や個人の自立の問題が見えてくるはずなのだ。いま、その切り口となるキーワードは「社会的同調圧力の組織化」ではないか。

「寄付」や「神社維持」への協力の強制、「選挙」や「地域の要望」への動員は、典型的な社会的同調圧力といえよう。「退会者に『ごみ出すな』」はその強制の手段としての深刻な問題。全体的傾向として、個人の自立が社会的同調圧力に組み敷かれている構図が描かれている。地方行政の末端組織として組み入れられた自治会・町内会のあり方の再考が求められてもいる。

言うまでもなく、自治会・町内会に入会するもしないも自由。なんの理由も不要でいつだって退会可能だ。とは言うものの、ひとり入会せずに非協力を貫くことには相当のプレッシャーがかかってくる。敢えて、退会するのはなおさらのことだ。これが、社会的同調圧力。

非権力的組織であるから、住民の合意だけで組織され運営される。親睦のみならず、地域の環境保全や治安や災害対策に有用であることは言うまでもない。地域と行政とのパイプ役としても、その存在意義は否定し得ない。しかし、現実には民主的な運営の確保が難しく、社会的同調圧力を合理化し実行する組織になる危険を常にはらんでいる。

連載第1回に掲載の、佐倉市の自治会の例が示唆に富む。14年前、役員会での討議を経て、日本赤十字社などへの寄付という事実上の強制をやめたという。もちろん、建前としては寄付は強制ではない。しかし、衆人環視の中で寄付を断ることは難しい。これが、社会的同調圧力のなせる業。そこで、任意制が徹底するよう集め方を変えた。「大判の封筒を使う方法だ。誰がいくら入れたか分からないように封筒のお金を入れるところだけ開けておき、隣の家に回す。封筒の表には寄付するかどうかも、金額も自由と書いた。」

任意のはずの寄付が事実上の強制となる不合理を不合理として確認し、任意制を徹底する具体的な方法まで考えて実行した、最も身近な場における民主主義の実践に、敬意を表せざるを得ない。

朝日の記事は、次の点でさらに示唆に富む。
当時自治会長だった内野光子さんは、封筒方式を実現できたのは当時、役員10人のうち女性が6、7人を占めていたからだと思っている。「リタイア男性中心の『オヤジ自治会』や、同じ人が長く居座る『ボス自治会』では改革が難しい。役員に主婦がもっと入らないと変わらない。

なるほど、言われてみればそのとおり。男性中心の『オヤジ自治会』や『ボス自治会』の問題性は、ひろがりを持っている。自治会が日本社会の構造の一部であり縮図である以上は、地方政界の『オヤジ議会』や『ボス自治体』の問題でもあり、さらには『オヤジ国会』や『ボス内閣』という日本の政治構造にもつながっている。

オヤジやボスは、今この社会の多数派を取り仕切っている。オヤジやボスの常識は、「地域共同体の日常の懇親や親睦による出る杭のない、穏やかな秩序が何より」「行政に貸しを作り、いざというときには行政に口利きのパイプをつなげておくことが肝要」「みんなが文句を言わずに労力と経済的負担をして自治会を支えるべきが常識」「地域の結束のためではないか。自治会が神社への奉賛をすることになんの問題があろうか」「役員は多大な労力を費やしているのだから、会費で多少の飲み食いしたくらいで、細かいことをうるさく言うな」というもの。

このオヤジ感覚ボス体質が保守政党の末端組織とつながる。自治会・町内会を通じて、オヤジやボスの体制派的常識が組織化され保守勢力に吸い上げられる。平時は、天皇制と結びついた神社を支え、行政や警察機構の末端として働き、また保守政党を地域で支える。そして、一旦緩急あらば、大政翼賛会か国防婦人会の末端組織に、あるいは関東大震災後の自警団に早変わりしかねない危うさを持っている。

朝日記事の第2回が、神社の費用負担問題を取り上げている。
この中に、ある自治会長(男性・72)の「神社は地域の守り神、文化のようなもの。特定の宗教という感覚はない」との見解が紹介されている。おそらくホンネなのだろうし、これが社会の多数派の意見なのかも知れない。しかし、少数派のなかには、潔癖な信仰者もいようし、無神論者として特定宗教への寄金に抵抗感をもつ者もいる。このような少数者の意見が無視されてよかろうはずはない。

もっとも、なかなかに少数者の発言は難しい。黙っていれば、多数派の横暴がまかりとおる。自治会・町内会の意見が、地域全体の意見にすり替えられる。かくて、自治会・町内会は、保守政権支配の末端組織として機能することになる。

地元の自治会・町内会の活動に積極的に関わって、原則を曲げずに辛抱強く民主的な運営を実践している方を尊敬する。マンションの管理組合もPTAも同様だ。私には、上手にやり遂げる自信がない。ならば、次善の策として自治会に加入しないのも一つの意思表示。

これまで、居を構えてから幾十年、地域自治会や町内会に加入したことがない。回覧板も寄付の要請も、私の家だけは通り過ぎる。

ずいぶん以前のことだが、ある町会長さんに呼ばれて、親切に加入を勧められたことがある。そのとき、町内会の規約や会計報告、そして立派な会の歴史をまとめた冊子を見せていただいた。ずいぶん整った自治会だと一面好感をもったが、ご多分にもれない問題が2点。自動的に近くの著名な神社の氏子となって自治会からの奉納金の支出が行われていた。そして、もう1点、私の大嫌いな自民党の有力政治家との友好関係が見えていた。自治会の大きな行事はその政治家の「会館」で行われ、会史にその政治家が登場してくる。これは、生理的に受け容れがたい。

中にはいって改革すべきなのだが、私にできそうもない。私にできることは、自治会に加入しない選択肢もあるのだと身をもって示す程度のこと。私は未熟であり、この先も成熟の可能性はない。もしかしたら、この程度のことも都会だから出来ることなのかも知れない。

佐倉市内の住民自治会で、果敢に民主主義を実践してこられた内野光子さんのブログを参照していただきたい。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/cat7752986/index.html

(2016年2月15日)

高市早苗発言のホンネ

私、高市早苗です。総務大臣のポストにあって、微力ながらもけなげにアベ政権を支えています。甘利さん、島尻さん、丸川さん、岩城さんなど、アベ政権を支える閣僚の不祥事や問題発言、そして無能ぶりが話題になっています。しかし、私に関しては不祥事とも、問題発言とも無縁です。もちろん無能とも。私の発言はすべて計算ずく、言わば確信犯なのですから、島尻さんや丸川さん岩城さんなどと一緒にされるのは、迷惑至極と言わねばなりません。

アベ政権の反知性の姿勢が批判の対象となっていますね。島尻さん、丸川さん、岩城さんなどは、いかにも「反知性」を感じさせますが、飽くまでも私は別格です。私は、アベ政権の知性を代表して、アベ政権を支えるために日夜奮闘しているのですから。

総務省って昔の自治省と郵政省を統合したもので、郵政省が管轄していた電波監理行政は今総務大臣である私の手の内にあります。NHKも民放も、放送法の縛りの中での免許事業ですから、私の意向を忖度しながら動かなければなりません。それが当然、当たり前のことではありませんか。

放送に携わる多くの方には、私が何を考えているか、どうすれば私の意に沿う放送内容になるのか、またどうすれば私の逆鱗に触れることになるのか、よくご理解いただいています。それくらい気がきかなければこの世界で生き抜いていくことが出来るとは思えませんものね。「憲法9条を守れ」だの、「解釈改憲は怪しからん」だの、「アベ政権の姿勢はおかしい」「アベノミクスは大失敗」だのといえば、免許権を持っている官庁との間に無用の摩擦が生じてものごとが面倒になる、そのくらいのことは大人の分別をお持ちの方ならよくお分かりのはず。

でも、今に限っては、「よくお分かりのはず」では不十分なのです。テレビやラジオの放送事業に携わる者の大部分はものわかりのよい方ばかりですが、ごく一部ではありますが変わり者もいます。「ジャーナリズムの真髄は政権批判にある」などと訳の分からぬことを言う人たち。普段ならともかく、今はこういう確信犯的人物の出番をなくさねばなりません。そのために、放送事業者に絶えずシグナルを送り続けなければならないのです。

何しろ、これから無理をしてでも、国民に不人気な明文改憲をやろうというアベ政権なのです。今のメディアの状況が続けば、アベ政権批判が噴出して、もたないことになるかも知れない。その危機感は閣内全体のものとなっています。だから、私がアベ政権を支える立場から、メディアの政権批判を抑制するよう火中の栗を拾わなければならないのです。

私は知性派ですから、必要な限りでホンネを発言しつつ、突っ込まれても躱せるように、切り抜け策を十分に準備しています。それが、「忖度と萎縮効果期待作戦」あるいは「ホンネチラ見せ戦術」と言うべきものなのです。私の独創ではなく、敏腕の政治家や官僚の常套手段といってもよいのではないでしょうか。

「おまえ、人を殺すようなことをするなよ」とか、「嘘を言うものじゃないよ」と言えば、言われた方は怒ります。「オレを人殺しだというのか」「嘘つきだというのか」と。でも、「『人を殺すようなことをしてはいけない』も『嘘を言ってはいけない』も、当然のことを言ったまでのことで、あなたを人殺しや嘘つきと決めつけたわけではない。だからなんの問題もない発言」と切り返すことを準備しているのです。これがアベ政権の悪知恵、いや知能犯、でもなく知性のあるやり方なのです。

私は、2月8日の衆院予算委員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と確かに言いました。でも、飽くまで、一般論を述べただけ、「人を殺すようなことをしてはいけないのは当たり前だろう」と開き直って切り抜けられるように計算した発言なのです。何が政治的な公平性を欠くものか、どこの局のどのような番組にその虞があるのか、具体的な決め付けは何もしていません。

それでも、停波可能性発言のあとに、「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と続けました。ここまで言っておけば、放送事業者には私の真意を十分に忖度していただけるはず、そして萎縮してくれることが十二分に期待できるのです。

当たり障りのないことを言っているようで、実は萎縮狙いの効果抜群の私の発言。知性派である私なればこそ出来ることで、私がアベ政権をけなげに支えていると申しあげた意味も十分にお分かりいただけるものと思います。

ところで、「政治的な公平性」とは何か、誰が判断するのか、ということがにわかに議論となってまいりました。

「政治的な公平性」あるいは「公平性を欠く」という判断は誰がするのか。その判断の権限は、主務官庁の責任者である私にあることは明らかです。私は、逃げることなくその判断をいたします。

考えてもいただきたい。民主主義の世の中です。選挙で主権者の多数からご支持をいただいて政権が出来ています。私の職責も、主権者国民から委託されたものなのです。私がその職責を果たさないことは、国民を裏切ることになろうというものです。

では、「政治的な公平性を欠く」とはどういうことか。私が申し上げましたとおり、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」で十分だと思います。これで、多くの放送事業者はものわかりよく、「憲法を守れ」「9条改憲反対」「アベ政権は非立憲」などと言ってはいけないのだと、正確に呑み込んでいただけるはず。これをアウンの呼吸とか、魚心あれば水心というものでしよう。これにツッコミを入れるなんて野暮というものではありませんか。

えっ? なんですって? 「あなたの目は結局政権だけに向いていて、国民の方には向いていないのか? とおっしゃるのですか」

その質問がおろかなのです。国民が選んだ政権ではありませんか。アベ政権こそが、国民の意思を体現しているのです。ですから、軽々にアベ政権批判は慎んで戴きたいという私の真意は、国民の意思を尊重することでもあるのです。お分かりでしょうか。

ああ、私って、なんて知性派。
(2016年2月14日)

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