澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

弁護士会選挙結果報告ー安保関連法廃止の方針に変化はない

日弁連会長選挙は、昨日(2月5日)の投開票で、「現執行部の路線を継承する大阪弁護士会元会長の中本和洋氏(69)が、東京弁護士会の高山俊吉氏(75)を破り、次期会長に内定した」(毎日新聞)

日弁連選管の発表は以下のとおり。
選挙人数       37,374
投票総数       17,633
投票率        47.18%
中本候補有効票  12,282
高山候補有効票   4,923
白票             386
疑問票            42
中本候補獲得会      48単位会
高山候補獲得会   下記4単位会
(埼玉・千葉県・栃木県・岩手各弁護士会)

なお、その他、下記のように拮抗している単位会がある。
横浜   362対330
長野県  94対71
愛知県 266対193
岐阜県  41対33
大分県   44対30
仙台   101対62
函館    24対15

ダブルスコアでの中本候補圧勝は、両陣営の地力の差なのではあろう。とは言うものの、嫌われ者稲田朋美への政治献金話題の影響が小さかったことに意外の感を禁じ得ない。

もっとも、私にも何本かあった中本候補への投票依頼の電話は、いずれも中本候補の憲法感覚や人権擁護に関して筋を通す姿勢を評価してのものだった。また、「中本氏は開票後の記者会見で安全保障法制について『施行されても違憲性に変わりはない。廃止を求め取り組んでいく』と述べ、憲法改正の動きも注視していく考えを示した」(毎日新聞)と報道されてもいる。中本陣営は、「稲田献金による誤解」を払拭すべく、立憲主義、平和主義などの姿勢を強調したという印象。そのため、稲田献金問題は事前に予想されたほど大きな失点にはならなかったようだ。ぜひ、当選後の記者会見での姿勢を貫ぬく活躍をされるよう期待したい。

なお、東京弁護士会選挙の公式発表は以下のとおり。
「2016(平成28)年度の東京弁護士会役員は,本日下記のとおり確定いたしました。
会  長  小林 元治 (こばやし もとじ)
副会長  成田 慎治 (なりた しんじ)
副会長  仲   隆  (なか たかし)
副会長  芹澤 眞澄 (せりざわ ますみ)
副会長  佐々木広行 (ささき ひろゆき)
副会長  谷  眞人  (たに まさと)
副会長  鍛冶 良明  (かじ よしあき)
監 事  菅沼 真    (すがぬま まこと)
監 事  村田 智子  (むらた ともこ)
※副会長は選挙の得票順
※監事選挙は無投票・立候補届出順

◇副会長選挙投票率は以下のとおりです。
有権者数:7676名
投票者数:4477名
投票率 :58.325%

副会長選挙の得票数は以下のとおり。
1位 成田 慎治  837
2位 仲  隆    784
3位 芹澤 眞澄  655
4位 佐々木広行 627
5位 谷  眞人  618
6位 鍛冶 良明  542
7位 赤瀬 康明  359 (落選)

私には選挙事情のディテイルはよく分からないのだが、大方の予想にしたがった順当な選挙結果なのだろう。番狂わせのない現状維持の選挙結果は、これまでの弁護士会の方針が是認されて続くことになる。

なお、投票前の選挙に関する当ブログでの論評は以下のとおり。

https://article9.jp/wordpress/?p=6309
https://article9.jp/wordpress/?p=6329

政権が極端な憲法軽視の姿勢に偏るとき、法の専門家集団としての弁護士会が在野の立場から政権批判の側に立つことは、きわめて健全なあり方と言わねばならない。政権によって戦後民主主義が攻撃されているとき、人権や民主主義そして平和を、崩壊せぬよう支えている弁護士の役割は大きい。今回の選挙結果は、多くの弁護士がこれまでの弁護士会の立憲主義擁護の運動のあり方を是認したものと受け止めてよいと思う。
(2016年2月6日)

「機密解禁文書にみる日米同盟」(末浪靖司著)から見えてくる、日米安保体制と9条擁護のたたかいの構図

本日は、日民協憲法委員会の学習会。末浪靖司さんを講師に、「『機密解禁文書にみる日米同盟』から読み解く日米安保体制と私たちのたたかい」というテーマ。

末浪さんは精力的にアメリカの公開された機密公文書を渉猟して、日本側が隠している安保関係の密約文書を世に紹介していることで知られるジャーナリスト。『機密解禁文書にみる日米同盟』は、その成果をまとめた近著である。

最初に、アメリカの文書開示制度と国立公文書館についての解説があった。
1789年フランス人権宣言15条には、「社会は、その行政のすべての公の職員に報告を求める権利を有する」と明記されている。フランス革命に先立って、独立革命をなし遂げたアメリカ合衆国第2代大統領アダムズ(独立宣言起草に参加)は、「政府が何をしているかを知るのは国民の義務」とまで述べ、これが公文書公開制度のモットーとなって、1967年制定の「情報の自由法」FOIA(The Freedom of Information Act)に生きている。その充実ぶりは、日本の外務省の外交文書公開の扱いとは雲泥の差。この10年アメリカ公文書館その他に通って、大要下記のことを確認した。

※アメリカ政府の憲法9条改憲の内的衝動と米軍の駐留
☆アメリカ政府内で最も早い時期に改憲要求を明確化したのは、ジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官(国際法学者)である。
アメリカの核独占体制がソ連の核実験によって破られ中華人民共和国が成立するという状況下の1949年11月4日、機密文書「日本軍隊の復活に関する覚書」の中で、「日本再軍備の決定は、憲法の『戦争と軍隊の放棄』をどうするかという決定と無関係ではない」とし、同月10日には、国務長官宛の機密覚書で、「日本軍復活に関して国務省のとるべき態度」との表題をつけて「米の援助と日本の資金・労力は米軍の駐留と強力な警察部隊の維持にあてられるべき」と述べている。
ハワードは、国務長官をはじめ国務省、国防総省などに論文、報告書をばらまいて自分の考えを売り込んだ。彼は、9条改憲を望みながらも、改憲が実現する前に米軍駐留を合憲とする理屈を考えた。50年3月3日付の極秘報告「軍事制裁に対する日本の戦争放棄の影響」には、「外国軍隊は日本国憲法9条が禁止する戦力ではない」「外国軍事基地は憲法の範囲内の存在」という、その後の安保そして砂川判決の論理が明記されている。

☆日本の再軍備と改憲要求は米軍司令部から出てきている
1950年8月22日ブラッドレー統合参謀本部長から国防長官宛の機密覚書「主題:対日平和条約」には、「アメリカは非武装・中立の日本に生じる軍事的空白を容認し続ける立場にはない。それ(軍事的空白の解消)は、万一世界戦争が起きた際に、アメリカの戦略と世界戦争に良い結果をもたらすだろう」
また、同年12月28日付統合参謀本部への機密文書「アメリカの対日政策に関する共同戦略調査委員会報告」では、「米国の軍事的利益は日本の能力向上により得られる。そのために憲法変更は避けがたい」と9条改憲の意向が明確化されている。
さらに、51年3月14日統合参謀本部宛の海軍作戦部長の機密覚書には、「日本が合法的に軍隊を作れるようになる前に、憲法の改定が必要になる」とされている。

☆1951年8月8日 統合参謀本部から国防長官へ、極秘覚書、主題:対日平和条約に関する文書 「行政協定により、ダレス訪日団が準備した集団防衛に参加する」。12月18日統合参謀本部から国防長官宛の機密覚書には、「統合参謀本部は、戦時には、極東米軍司令官が日本のすべての軍を指揮する計画である」。52年2月6日文書には、「行政協定交渉で米側提案:軍事的能力を有する他のすべての日本国の組織は、米国政府が指名する最高司令官の統合的指揮の下に置かれる」とされている。
こうして、旧安保条約が成立した。

※安保改定秘密交渉で改憲問題はいかに議論されたか
1958年8月1日 マッカーサー?(ダグラスマッカーサーの甥。)大使から国防長官へ、秘密公電は「適切な措置をとることが、安保条約を改定し、日本の軍隊を海外に送り出すことを可能にする憲法改定の時間をわれわれに与えてくれるだろう」としている。
8月26日 マッカーサーから国務長官への極秘公電には、「岸は自分が考えていることを大統領に知ってもらいたいと言って、友人としての最初のフランクな会話をしめくくった。——私は個人的には、岸が好む線で日本との安保関係を調整することが、われわれ自身の利益になると考える。」とある。
その岸は、同年10月15日に、NBC放送のインタビューで「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果たすために、憲法から戦争放棄条項を除去すべき時がきた」と述べている。

☆58年10月4日帝国ホテルで藤山愛一郎とマッカーサーの秘密交渉が開始され、安保改定の原案が固まった。藤山は東京商工会議所会頭で、海軍省の顧問であり、東条内閣の終末を決めた岸とは親友の間柄。

折り合わなかったのは、藤山が安保条約第3,5,8条を「憲法の枠内」「憲法の制約の範囲内で」と提案。アメリカ側は「憲法の規定に従うことを条件として」という対案。結局アメリカ案で決着するが、この間の文書が興味深い。たとえば、59年6月18日マッカーサーからディロン国務長官への機密公電「われわれが提案した(「憲法の規定に従うことを条件として」などの)文言を[日本側が]受け入れることが難しいのは、憲法に自衛力に関するいかなる規定もないことからきている。反対に、憲法第9条では、陸海空軍を、その他の戦力とともに、日本が維持することを絶対的に禁止している。日本国憲法は、固有の自衛権を、したがって自衛隊の必要性を否定していないと解釈されている一方で、そうした能力が「憲法の規定に従うことを条件として」維持され発展させられるということは、法的に不可能である。なぜなら、憲法にはそうした規定がないからである。」

☆マッカーサー大使の情勢観
ダグラス・マッカーサー?(駐日大使)は、沖縄をはじめ、九十九里浜、内灘、妙義山、砂川、北富士、横田、立川、新潟、小牧、伊丹、木更津などの基地反対闘争、原水爆禁止と核持ち込み阻止を求める日本国民の運動に手を焼いたジョン・フォスター・ダレスにより日本に送り込まれた。マッカーサーが57年2月に東京に着任した時、日本はジラード事件や米兵犯罪で米軍に対する怒りが渦巻いていた。
危機感をもったマッカーサーは、4月10日岸信介と長時間にわたり密談し、「このままでは、米軍は日本から追い出される」と長文の秘密公電で日本の情勢を報告している。

報告はもっと多岐にわたるが、上記のことからだけでも、以下の事情がよく分かる。
1947年に施行となった日本国憲法は、その直後の冷戦開始以来、日米両政府から疎まれ改憲が目論まれる事態となっている。そのイニシャチブは常にアメリカ側にあり、改憲論を裏でリードし続けたのがアメリカ政府の意向であった。旧安保条約、改定安保条約が基本的にそのようなものであり、そしてガイドライン、新ガイドライン、さらには新新ガイドラインも同様である。

憲法を侵蝕する安保条約、ないしは安保体制の実質的内容は、アメリカの意向と日本の国民の闘いとの力関係で形づくられてきた。これが、末浪報告の核心だと思う。アメリカの意向とは、アメリカの軍事的世界戦略が日本に要求するところだが、実は軍産複合体の際限の無い戦争政策である。そして、これに対峙するのが、核を拒否し米軍基地のない平和を願う日本国民の戦後の平和運動である。

アメリカにおもねりつつ、9条改憲をねらっていた岸政権を倒した60年安保闘争が、あの時期の改憲を阻止した。そしていま、また安倍政権が、9条改憲をねらっており、その背後にはこれまでのようにアメリカがある。

末浪報告で、戦後の歴史の骨格が見えてきたように思える。詳細は、「機密解禁文書にみる日米同盟?アメリカ国立公文書館からの報告」(末浪靖司・高文研)を参照されたい。
(2016年2月5日)

表現の自由を護るための、スラップ防止対策シンポジウム構想 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第71弾

先週の木曜日、1月28日にDHCスラップ訴訟控訴審の判決が言い渡されて本日でちょうど1週間が経過した。上告ないし上告受理申立期間は本来は来週の木曜日、2月11日までだが、この最終日が休日(「建国記念の日」)なので、2月12日(金)となる。DHC・吉田嘉明は、おそらく期限ぎりぎりまで考え続けるのだろう。

上告も上告受理申立も、これが受理され審理されるのはきわめて制限された狭い門である。本件の場合も、この高いハードルを乗り越えての逆転など万に一つの目もない。そのことは、一審・二審と完全な敗訴を続けたDHC・吉田側もよく分かっているはず。いや、最初から勝訴の見通しなど持っていなかったというべきなのだろう。勝訴の見通しなくても、提訴自体の言論封殺効果をねらっての典型的スラップ訴訟。だからこそ、威嚇として十分な非常識高額請求訴訟となったのだ。

DHC・吉田の当初の請求は2000万円だった。私が、この訴訟をスラップ訴訟として当ブログで反撃を開始した途端に、請求額は6000万円に跳ね上がった。当初は2000万円の請求金額で威嚇効果十分と考えたのが、予想外の反撃を受けてこの程度の金額では提訴の持つ威嚇効果不十分と認識したからこその請求の拡張、それもいきなりの3倍化ということなのだ。

DHCスラップ訴訟の被害者は、被告とされた私だけではない。社会の多くの人が、「DHCや吉田嘉明を批判すると、やたらと訴訟を提起されて面倒なことになる」ことを恐れてDHC・吉田に対する批判を自制している現実がある。言論の萎縮効果が蔓延しているのだ。

私は、当事者として、また弁護士という職業上の使命において、このような言論の萎縮をねらった社会悪に立ち向かわなければならない。いかに面倒であっても、逃げるわけにはいかない。飽くまで闘うのみである。

DHC・吉田の上告(受理申立)可否についての考慮の構図は、次のようなものだ。

積極方針の根拠。
「最初から覚悟していたことではあるが、こんなみっともない敗訴には腹が立つ。万に一つでも逆転の可能性があるのなら最高裁まで争ってみたい」「それだけではない。もともとが澤藤に負担をかけることを目的とした提訴だ。少しでも長く、被告の座に坐らせ、少しでも大きな財政的心理的な負担をかけようという初心にたちかえって最高裁に上訴すべきだろう」「幸い、我が方にはカネの力がある。弁護士費用なぞはいくらかかってもかまわない。上告の手数料(貼用印紙)は、わずか40万円余だという。貧乏人には高いハードルとして評判悪いが、私にはなんの負担感もない」

消極方針の根拠。  
「最高裁でもほぼ確実に敗訴を重ねる公算が高い。3度めの恥の上塗りはみっともなさを天下に曝すことになる」「スラップだ、濫訴だ、不当提訴だと、また叩かれることになる」「渡辺喜美に8億円を提供したことをまた蒸し返され、結局は規制緩和を求めて裏金を渡したと世間に印象づけることになってしまう」「化粧品やサプリメントを販売している当社にとって、ダーティーな商品イメージにつながって商売に影響を及ぼすことが心配だ」「結局は、上告をやめてこのトラブルを早めに終息させた方が経営上は得策だろう」

どちらでも、よく考えてみるがよい。どちらにしても針のムシロ。自分で播いた種だ。自分で刈り取るしかない。

スラップ訴訟は、訴権を濫用して、表現の自由を萎縮させる深刻な社会悪である。スラップ訴訟の提起者には、相応の制裁があってしかるべきだ。控訴・上告に至ったスラップには、比例原則にしたがった制裁措置がなくてはならない。制裁の方法や制裁が及ぶべき範囲についてはいろいろと考えられるが、まずはその方法を考える大きなシンポジウムを開催したい。仮称「スラップ訴訟とDHC」である。

シンポジウムは2部構成とする。
第一部は、スラップ訴訟一般について。スラップの何たるか、その実態と弊害。憲法的な問題点、訴訟法的な問題点、米国のスラップ事情、どのように、スラップ防止の仕組みを構築すべきか。そしてスラップ提起者や代理人弁護士に、どのような実効性ある具体的制裁が可能か。

第二部は、もっぱらDHC問題。DHCが過去に起こしたスラップ訴訟の総ざらい。そして、DHCスラップ訴訟対澤藤事件における、上告(受理申立)理由の徹底検証を公開の場で行う。

メディアも招待して、自分の問題として考えもらうきっかけとしたい。記録を映像化し、また書籍化して、多くの人に広めたい。

先日、「バナナの逆襲」というドキュメント映画を製作したフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と対談の機会があった。世界的な大企業であるドールフードからの「上映差止請求スラップ訴訟」との闘いを、そのままドキュメントにしたもの。このスラップ訴訟を取り下げさせた監督の述懐として、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」とのこと。

バナナとサプリメントでは商品の違いも、流通経路の違いもあるだろう。対DHC不買運動の提起が有効かどうか。どのようなやり方があり得るか。この点も大いに議論したいところ。

シンポジウムでは、上告(受理申立)から50日を期限として、上告(あるいは上告受理申立)理由書が出て来る。これを徹底して検討し叩く場にしたい。連休明け頃がこのシンポジウムの時期となるだろう。ぜひお楽しみにしたいただきたい。
(2016年2月4日)

差別のない寛容な社会が平和と安全をつくり出すーフランスの現状が示唆するもの

「法と民主主義」1月号をご紹介する。時宜に適ったタイムリーな企画となっている。「理論と運動を架橋する法律誌」の名に恥じないと思う。編集委員の一人として、多くの人にお読みいただきたいと思う。

目次は以下のとおり。
特集★戦争法廃止に向けて──課題と展望
◆特集にあたって………編集委員会・丸山重威
◆戦争法は廃止しなければならない──日本社会の岐路と新たな選択………広渡清吾
◆「国際平和協力」を理由とした武力行使への突破口………三輪隆
◆「戦争法」は世界と紛争地における日本の役割をどう変容させるのか──国際人権・国際協力NGOは戦争加担に反対する………伊藤和子
◆「落選運動」の意味と展望………上脇博之
◆戦争法廃止運動と自衛隊裁判の位置付け──砂川・恵庭・長沼・百里・イラクの経験をふまえて………内藤功
◆「戦争法」違憲訴訟の目標と課題………伊藤真
◆戦争法反対にむけたロースクールでの運動………本間耕三
◆国会周辺の抗議活動に関する「官邸前見守り弁護団」の活動………神原元

・司法をめぐる動き・人権救済の使命を回避した司法──「夫婦同姓の民法規定を合憲」とした最高裁大法廷判決………折井純
・司法をめぐる動き・12月の動き………司法制度委員会
・トピックス☆日本軍「慰安婦」問題に関する日韓外相会談の合意について………川上詩朗
・メディアウオッチ2016☆新年のニュース 参院選の焦点に「改憲」「ニュース操作」に警戒感を………丸山重威
・あなたとランチを〈№15〉 ………ランチメイト・長谷川弥生先生×佐藤むつみ
・連続企画☆憲法9条実現のために〈3〉フランスにおける人権と社会統合………村田尚紀
・時評☆国民対話カルテットのノーベル平和賞受賞…………鈴木亜英
・ひろば☆2016年 安倍政権による改憲策動を打ち砕く年に………澤藤統一郎

下記のURLで、丸山重威さんの「特集にあたって」、鈴木亜英さん(弁護士・国民救援会会長)の時評「国民対話カルテットのノーベル平和賞受賞」、そして私の「ひろば」の記事が読める。その余の記事は購読していただけたらありがたい。
  http://www.jdla.jp/houmin/index.html

広渡清吾さんの巻頭論文に続く、著名執筆者の特集記事は読み応え十分。
以下は、敢えて特集ではない論文「フランスにおける人権と社会統合」(村田尚紀関西大学教授・憲法)をご紹介したい。目からウロコのインパクトなのだ。

シャルリーエブド事件やパリ同時多発テロなど、フランス社会が話題となっている。イスラム社会との軋轢の厳しさにおいてである。多くの日本人の印象としては、「先進的な自由主義社会が蒙昧な勢力から攻撃を受け防衛せざるを得ない立場にある」というくらいのものではないだろうか。しかし、フランスの法制や社会事情をよくしらないことが理解を妨げている。とりわけ、イスラム社会との接触におけるキーワードになっているフランス特有の「ライシテ」という概念が呑みこめない。フランス流政教分離がどうして、イスラムとの軋轢を生じることになるのか。こんな疑問を村田論文が氷解してくれる。

村田論文の教えるところは、「フランスにおけるきわめて深刻なムスリムの人権状況」である。「今日のフランスの移民問題は、移民=ムスリムが引き起こす社会統合の機能不全ではなく、イスラモフォビー(イスラム嫌い・対イスラム偏見)というイデオロギーが作り出す人種差別である」という。問題はけっしてライシテにあるのではない。そして、イスラモフォビーはパワーエリートとメディアによって意識的に捏造され拡散されたイデオロギー(虚偽意識)だという。

その例証として、公共空間からのムスリム排除を象徴する二つの法律が詳しく語られる。私はこの二つの法律の区別を知らなかった。ニュースでは接していたが、ほとんど何も分からなかった。

二つの法律の前段階の時代がある。1989年にパリ郊外クレイユのコレージュ(中学校)校長が授業中にスカーフをはずすことを拒否した3人のムスリム女子学生に対して教室への入室を禁じるという事件が起きた。
このイスラム=スカーフ事件は、メディアによって大きく報道され、国論を二分する論争に発展した。憲法上の中心的な争点は、「スカーフを着用して登校することが信教の自由によって保障される」のか、それとも「ライシテ(政教分離)原則に反して許されないのか」というものであった。
国民教育相から諮問を受けたコンセイユ=デタ(最高行政裁判所)は、1989年11月27日答申において、「ライシテ原則は、必然的にあらゆる信条の尊重を意味する」と述べて、宗教に対するいかなる優遇も拒否しつつ他者を害しないかぎり宗教的信条の表明を許す白由主義的ないわば「寛容なライシテ」の立場をとることを明らかにした。その後のコンセイユ=デタの判決は、このような立場を堅持し、学校内における宗教的シンボルの着用の制限を慎重に判断した。たとえば、1996年のある判決は、学校が、スカーフ着用を性質上ライシテ原則と両立しないとして、スカーフをはずさなければ授業に出席することを許さないとした処分を違法とした。

この「寛容なライシテ」の立場が見直された。「2004年3月15日ヴェール法」である。リヨン郊外のリセにおいて、ムスリムの女子学生がバンダナをはずすことを拒否して、教師が抗議行動を起こしたことがきっかけだという。

この法は、正式には「ライシテの原則を適用して、公立の学校およびコレージュおよびリセにおいて宗教的帰属を明らかにする徴表または衣服を着用することを規制する法律」という名称で、ライシテ原則を根拠に「これみよがしな宗教的シンボルや衣服の着用」を禁止する教育法典条項を創設するものであった。

この法の通達は、呼称の如何を問わずイスラムのヴェールや明らかに大きすぎる十字架を許されない例として明示している。これはイスラム=スカーフが「これみよがし」に該当しないとしたコンセイユ=デタの判例を覆すものであった。

著者はこの法を次のように評している。この評は示唆に富むものと思う。
「教会と国家の分離に関する1905年12月9日法によって確立するライシテ原則は、『社会の宗教的多様性』を可能とし、公序を侵害しないかぎり『さまざまな宗教的傾向が公共空間に共存する可能性』を保障する自由主義的な原則である。2004年ヴェール法は、この寛容なライシテを排除して、宗教も文化的独自性も特別扱いしない共通価値を学校が継承することを前面に押し出すいわば『戦闘的ライシテ』を採り、さらにライシテを公立学校という公共空間を支配する原則とすることによって、国家を拘束する原則からその場にいる私人をも拘束する原則に転換したのである。」

問題はさらに深刻になった。通称「ブルカ禁止法」によってである。
強硬な移民排斥路線を打ち出したサルコジ大統領の政権下で成立したこの法律の正式名称は、「公共空間において顔を隠すことを禁止する2010年10月11日法律」という。これは、宗教的シンボルの着用を禁じるものではなく、もはやライシテ原則に拠るものではない。イスラモフォビーに発した、公共の安全のための治安政策なのだ。

筆者はこう批判している。
「そもそも奇妙なことに、2010年10月11日法には目的規定がない。1789年人権宣言5条は、『法律は、社会に害をなす行為にかぎりこれを禁止することができる』と定める。公共空間で顔を隠すことがライシテ原則を侵害するとはいえないとすると、何を侵害するのか? 同法に賛成した多数派の主流は、公共の安全を害すると同時に社会生活上の最小限の義務に反するという驚くべき主張をした。社会生活上の最小限の義務とは、人前では顔を見せるものだというフランス共和国のマナーなるもののことである。2010年10月11日法によってフランスの公共空間は道徳化するのであるが、現実にこの道徳によって公共空間から排除されるのは、ブルカやニカブを着用するムスリムの女性である。実質的に一部のムスリム女性だけが同法のターゲットになっているといえるのである。それゆえ、この法律をブルカ禁止法と呼ぶことには充分理由がある。」

筆者は結語として次のように言う。
フランス共和国の標語は《自由、平等、友愛》である。しかし、このうちの「友愛」は相次ぐテロ対策によって「安全」に取って代られてきている。それとともに、以上のようなイスラモフォビーの法的表現というべき立法によって、「自由」・「平等」も変質しつつある。フランス共和国は、いわば戦う原理主義的な共和国と化している。

フランスの現実はなんとも暗く重い。この論文は、「憲法9条実現のために」とするシリーズとして執筆されたものである。格差・差別や貧困が、憎悪と対立を生んで、平和や安全を脅かす。格差と貧困を解消し、差別のない寛容な社会こそが平和をつくり出す。まことに示唆的で教えられるところが多い。
(2016年2月3日)

頑張れ原告・弁護団! 「安倍靖國参拝違憲訴訟・関西」1月28日大阪地裁判決を読む

明文改憲を呼号する安倍晋三の反憲法的性格は、戦争法だけのものではない。教育基本法・地教行法の改悪、特定秘密保護法の制定や武器輸出3原則の清算、NHKの人事統制等々多岐にわたる。靖國神社公式参拝も顕著な反憲法的姿勢の表れである。

2013年12月26日、安倍晋三は内閣総理大臣の公的資格をもって靖國神社参拝を強行した。国内外からの強い反対論、明白な憲法違反の指摘を押し切ってのことである。安倍は、公用車で靖國神社に向かい「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳したうえ正式に祓いを受けて昇殿参拝した。政教分離を規定した憲法第20条3項に違反することは自明といわねばならない。

最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は、愛媛県知事の靖國神社への玉串料奉納を違憲と断じている。多数意見13人対反対意見2人の大差であった。この孤立した反対意見者のひとりが当時最高裁長官だった三好達、現日本会議議長である。

県知事の玉串料奉納ですら違憲なのだ。ましてや内閣総理大臣の靖國神社公式参拝が違憲であることに疑問の余地はない。なお、最高裁判決で首相の靖國参拝の合違憲に触れた判決はまだないが、仙台高裁(仙台高判1991年1月10日)が岩手靖國違憲訴訟で明確に違憲判断をして以来、高裁・地裁での違憲判断はいくつかある。もちろん、合憲判断は皆無である。

この安倍晋三の違憲行為に司法の場で制裁を加えようとの果敢な試みが、「安倍靖國参拝違憲訴訟」として東京と大阪の両地裁で行われ、大阪訴訟の審理が先行して、2015年10月23日結審、本年1月28日(木)午前10時に判決言い渡しとなった。注目の判決だったが、はからずもDHCスラップ訴訟控訴審判決日と重なり、内容紹介のブログ掲載が遅れた。

ご存じのとおり、判決主文では敗訴であった。が、判決を一読した印象において、さしたる敗北感がない。判決は憲法判断を回避したが、無理をしてでも憲法判断はしたくない、という姿勢が見え見えなのだ。

「原告団一同」の名による判決への抗議声明が出されている。その冒頭の一節をご紹介する。
「本日大阪地裁は、安倍靖国参拝違憲訴訟に対して極めて不当な判決を出した。判決は、小泉首相靖国参拝違憲訴訟の2006年最高裁判決にいう、「人が神社に参拝をしても他人の権利を侵害することはない。これは内閣総理大臣が靖国神社を参拝したとしても変わりがない」をなぞるだけのものであった。
 しかし、ここにいう「人」は、違憲の戦争法をごり押しし、憲法そのものにも敵対しこれを破壊する意図を明確にしている内閣総理大臣の安倍晋三である。「神社」は、殺し合いを強いられた人を天皇に忠義を尽くした人として顕彰し未来の戦死を誘導する靖国神社である。このことを踏まえれば、これを「人が神社に参拝する行為」と一般化同列化することができないことはだれが見ても明らかなことである。
 安倍靖国参拝はそれが単に政教分離規定に反する違憲行為として内心の自由等の権利を侵害するのみならず、いわば戦争準備行為なのであり、平和的生存権も侵害する行為である。」

ここに怒りはあっても、敗北感はない。原告らの抗議の声は「安倍靖國参拝は戦争準備行為であり、平和的生存権を侵害する」となっている。安倍晋三の9条改憲の野望と軌を一にするものとして、靖國神社参拝が位置づけられている。これまでの靖國違憲訴訟にはなかったトーンである。

言うまでもなく、靖國神社は、国家神道における軍事的施設であり、軍国主義における宗教的施設である。軍国主義からの訣別を宣した日本国憲法の政教分離とは、時の政権と靖國との癒着を禁じたものと読むべきなのだ。いま、安倍政権の戦争推進政策の中で、新たな危険な意味合いをもった政教の癒着として靖國神社公式参拝が強行されているのだ。

この訴訟と判決が注目されたのは、政教分離問題としてだけでなく、戦争法違憲国賠訴訟、あるいは自衛隊派兵差止訴訟提起の試みに関連してのものである。国民ひとりひとりが持つ平和的生存権を根拠として訴訟の提起が可能か否か。

これまで、靖國公式参拝を政教分離に反するとする訴訟は、主として国賠請求事件として争われてきた。その場合の請求の根拠とされたものは宗教的人格権の侵害である。先に引用した抗議声明の文中にある「2006年最高裁判決」とは、2006年6月23日第2小法廷判決。その理由中に、「人が神社に参拝する行為自体は,他人の信仰生活等に対して圧迫,干渉を加えるような性質のものではないから,他人が特定の神社に参拝することによって,自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし,不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」「このことは,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから,本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。」という一文がある。この論理を克服しなければならないのだ。

安倍靖国神社参拝違憲訴訟・関西の原告は765名。
被告は、安倍晋三・靖國神社・国の3名。

「請求の趣旨」は以下のとおり、3個の請求からなる。
1 (差止請求) 被告安倍晋三は内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
2 (差止請求) 被告靖國神社は、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
3 (賠償請求) 被告(安倍・靖國・国)らは、各自連帯して、原告それぞれに対し、金1万円及びごれに対する2013年12月26日から支払済みまで年5バーセントの割合による金員を支払え。

分離を求められている政(権力)と教(宗教)とは、公式参拝をめぐっては安倍晋三と靖國ということになる。その安倍には、「靖國神社に参拝してはならない」とし、靖國には「安倍晋三の参拝を受け入れてはならない」とする。この形で、両者の癒着の禁止を命じる判決を求めるのが、第1項と第2項の請求。

そして、安倍と、安倍が代表する国と、靖國との3者に対して、違憲違法な行為によって原告らにもたらされた精神的損害の賠償を求めるのが第3項の請求。

以上の3個の請求を認容するためには、いくつかのハードルを越えねばならない。
担当裁判所は、そのハードルを8個として、次のとおりに整理した。これが各「争点」である。

(1) 本件参拝は公務員が職務を行うについてされた行為といえるか。
(2) 本件参拝は政教分離原則に違反し違法か。
(3) 本件参拝により損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(4) 本件参拝受入れにより損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(5) 原告らの損害
(6) 被告安倍の個人責任の成否
(7) 本件参拝差止請求の必要性
(8) 本件参拝受入差止請求の適法性及び必要性

このハードルを全部越えることができれば、前記の3個の請求が全部認容されることになる。原告にとって、最大の関心事は、憲法問題としての「(2)本件参拝は政教分離原則に違反し違法か」という点である。他と切り離して、これだけでも真っ先に判断してもらいたいところ。ところが、この8個のハードルの並べ方、つまり判断の順番は裁判所の裁量に任されている。どのような順番でもよいのだ。

だから、憲法判断を真っ先にして違憲であることを確認し、しかるのちに「その他の損害賠償の要件が認められない」「安倍参拝は違憲ではあるが、差し止めの要件が調っているとは言えない」などとして、請求を棄却する判決はあり得る。もちろん、多くの実例もある。

しかし、本件ではそうはならなかった。重い、違憲判断は避けられた。整理された争点の(1)と(2)の判断に裁判所が触れるところはまったくなかった。もちろん、安倍参拝を合憲とは言わない。裁判所は憲法判断を回避した。敢えて言えば逃げたのだ。

裁判所の判断は、もっぱら、(3)と(4)「安倍の本件参拝、ならびに靖國の参拝受け入れにより、原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか」に集中することになる。

前述のとおり安倍晋三の靖國参拝が違憲であることは明々白々であるが、問題はそのことを裁判で争うことが出来るかどうか、である。裁判とは、原告の権利が侵害されたときにその回復を求めてするもの。自分の権利侵害ないのに抽象的な法令違反を糺すための制度とはなっていない。だから、安倍の参拝によって法的な意味で各原告らの権利、または法的保護に値する利益の侵害がなければならない。それあると言えなければ、訴訟として成立し得ないことになる。このハードルをクリアーするためのキーワードが、宗教的人格権であり、平和的生存権である。各原告がそれぞれに持っているこの権利(あるいは権利と言えないまでも、法的な保護に値する利益)が侵害されたとの認定がなければ、憲法判断に到達できない公算が高くなる。

したがって、関心はもっぱら被侵害利益の有無に集中する。原告らの主張は、概要以下のようなものだった。
(1) 宗教的人格権の侵害 
原告らは、被告安倍の本件参拝及び被告靖國神社の参拝受入れによって、内心の自由形成の権利、信教の自由確保の権利、身近な死者を回顧し祭祀することについての自己決定権を侵害された。
>(2) 平和的生存権侵害
本件参拝等によって、原告らの平和のうちに生きる権利が侵害された。現代社会においては、平和なしにはいかなる個人の権利も実現することができない。平和的生存権に対ずる侵害によって生ずる損害は、人格的生存の根幹に関わるものである。
 靖國神社の歴史的経緯等に加え,被告安倍が憲法9条の改正を政治家としての目標に掲げていることからすれば,本件参拝は靖國神社という戦前の軍国主義・全体主義を承認するばかりか、称揚鼓舞する行為である。さらに,被告安倍が,これまでの内閣法制局の見解を無視し集団的自衛権の行使について憲法に反しないと主張している事実、訪米時に「私を右翼の軍国主義青と呼びたければそう呼んでいただきたい」と発言した事実等に鑑みれば,本件参拝は、靖國神社の有していた戦前の軍国主義の精神的支柱としての役割を現在において積極的に活用しようという意図のもと行われた、「戦争の準備行為」にほかならない。

しかし、判決は、安倍の靖國神社参拝によって、原告らに法的保護に値する利益の侵害があったとは認められないとした。

まず、宗教的人格権について。
「原告らは、人が神社に参拝する行為と、内閣総理大臣が靖國神社に参拝する行為は異なるとして、被告安倍が内閣総理大臣として憲法9条の改正等を目標としていることや靖國神社の歴史的経緯等に照らせば、本件参拝及び本件参拝受入れは,大々的に喧伝されることによって,国又はその機関が靖國神社を特別視し, あるいは他の宗教団体に比べて優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ,原告らを含む個人の内心の自由形成、信教の自由確保,回顧・祭祀に関する自己決定に対し,重大な圧迫,干渉を加え,原告らの内心の自由形成の権利,信教の自由確保の権利,及び遺族原告らの回顧・祭祀に関する自己決定権を侵害するものであると主張する。
確かに,靖國神社は,その歴史的経緯からして一般の神社とは異なる地位にあることは認められ、また、行政権を有する内閣の首長である内閣総理大臣の被告安倍が本件参拝をすることが社会的関心を喚起したり,国際的にも報道されるなど影響力が強いことは認めることができる。しかしながら、被告安倍が参拝するという行為は、それが参拝にとどまる限度において,原告らの特定の個人の信仰生活等に対して、信仰することを妨げたり,事実上信仰することを不可能とするような圧迫,干渉を加えるような性質のものでないと解される。
そうであれば,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても,原告らが、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」

また、平和的生存権については、次のように言及されている。
「平和に生存する権利の具体的な内容は曖昧不明確であり,認定事実を前提としても、憲法第3章に規定する基本的人権として保障される権利自由とは別に平和的生存権として保障すべき権利,自由が現時点で具体的権利性を帯びるものとなっているかは疑問であり,裁判所に対して損害賠償や差止めを求めることができるとまで解することはできない。
したがって、原告らの主張する平和的生存権を根拠として, 裁判所に対し,損害賠償や差止めを求めることはできないというべきであり,本件参拝及び本件参拝受入れによって, 原告らの平和的生存権が侵害されたとの主張は理由がない。」

超えられなかったハードルは相当に高い。そのことは率直に認めざるを得ないだろう。しかし、原告や弁護団にとっては、想定の範囲のものといってよい。むしろ、裁判所の判断はけっして説得力を持ったものとなってはいない。既にある結論ののための理屈づけにしても、けっして成功していない。今回は実を結ばなかったにせよ、ハードルを超えるための工夫も積み重ねられている。

原告団は控訴の意向である。そして、東京地裁の判決も今秋には出ることになろう。敗訴判決にめげていない、原告団と弁護団の努力に声援を送りたい。
(2016年2月2日)

東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ

1月が行って、今日から2月。今年もまた弁護士会役員選挙の季節となった。2月5日(金)が日弁連と単位会の投票日。今日から期日前投票が始まっている。

私は、弁護士会の人事はけっして私事ではないと思っている。弁護士会の役員選挙は、社会の関心事でなければならない。どんなグループがどんな理念をもって選挙に打って出ているのか、何が対立する論争のテーマなのか。出来るだけ正確に市民に知ってもらうことが望ましい。だから、各陣営や有権者の選挙運動は開かれたものとして市民の目に触れるものとすべきであろう。

今年の日弁連会長選挙は、もっぱら「稲田朋美騒動」の様相。「稲田朋美に政治献金をするような候補者は日弁連のトップにふさわしくない」のか、「稲田がいかに唾棄すべき輩であるとしても、それだけを候補者選定の基準にするのは了見が狭すぎる」のか。私は、ほかの政治家はともかく、稲田だけはアウトだろうという立場。そのことは下記のブログに書いた。
 野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(1月29日)
  https://article9.jp/wordpress/?p=6309

ところで、東京弁護士会は会長立候補者がひとりだけ。これは淋しい。が、選挙公報で語られている「立候補補に当たっての基本姿勢」は、至極真っ当である。その冒頭の文章は、次のとおり。
「私たちの先達は、戦前の官憲による人権弾圧の経験から、戦後、議員立法である弁護士法により弁護士自治を獲得しました。それにより、弁護士は基本的人権の擁護と社会正義の実現を自らの使命として高らかに謳い、戦後の民主主義と人権の担い手となりました…。」

憲法問題については、「安保法制と憲法改正」という項を起こして、「2014年7月1日閣議決定を踏まえた安全保障関連法案は、昨年9月19日に成立しました。 憲法解釈の限界を超え、立憲主義に違反すると言わざるを得ません」「恒久平和主義を根底から覆すような憲法改正には反対です」と明記されている。

そして、「司法アクセスへの充実」「人権課題への取り組み」「法曹養成のあり方」などが、バランス感覚よく語られている。安心できるという印象。

さて、問題は副会長選挙である。定員6名のところに7名が立候補した選挙戦となっている。
本日昼ころ、法律事務所には場違いのファクスが舞い込んできた。
「てか、弁護士会職員の人件費 高くね? そう思った方はもう少し読んでください。」
そういえば、先週には、こんなのもきていた。
てか、若手弁護士会費負担 減らせね? そう思った方はもう少し読んでください。」

中学校や高校の児童会・生徒会でも、こんな品位に欠けた乱暴なチラシは作らないのではないか。弁護士会選挙にふさわしくないなどと言うのではない。とても、大人が真面目に書いた文章とは思えない。

今日のファクスの内容は、「私は、無駄な委員会活動、そしてそれに伴う人件費を徹底的に削減します」というもの。このファクスの送信者は、「ごめんなさい。熱くなりすぎてしまって…(笑)皆さんおなじみの赤・瀬・康・明(あかせやすあき)です!!」となっている。

昨年に引き続いての問題候補赤瀬康明の立候補である。私は昨年当ブログで2回この候補者を取り上げて、「立候補の理念を欠く」と叱責した。

 弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
  https://article9.jp/wordpress/?p=4313
 東京弁護士会役員選挙結果紹介 ? 理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
   https://article9.jp/wordpress/?p=4409
今年も同じことを繰り返さなければならない。そして、もう一つ、その訴え方の不まじめさの指摘を付け加えねばならない。

東京弁護士会選挙公報から同候補の「立候補の弁」の一部を抜粋してみる。

昨年度の副会長選挙では私が掲げたマニフェスト以前に、私の立候補には「理念がない」とのお声をいただきました。
その声がいう「理念」とはなんでしょうか?
「理念」という言葉をひとり歩きさせ、何も動かないことでしょうか?
その声がいう「理念」が、東京弁護士会の会員の方を満足させたのでしょうか?
私に「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「実際に決断・実行し、東京弁護士会の会員にとって東京弁護士会をより魅力的な会にすること」です。
東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか?
誰のお金によって運営できているのでしょうか?
いうまでもなく、東京弁護士会に所属する会員こそが「お客様」であるはずです。
他の誰でもなく、会員の方こそが会費を支払っているのです。
もう一度、皆様にお尋ねします。
今の弁護士会のあり方や活動に本当に満足していますか?
今の弁護士会の活動はあなたの意志を本当に反映していますか?

疑問形になっているから、答えよう。私が、キミの理念の欠如を指摘したひとりだ。私がいう「弁護士になくてはならない理念」とは、弁護士法にいう「基本的人権の擁護と社会正義の実現」のことだ。このような理念をもっていればこその弁護士であり、この理念を失えばバッジをつけていても弁護士ではない。その点で、キミはどうやら失格ではないか。

もちろん、「理念」がひとり歩きすることはない。理念の実現のためには、弁護士と弁護士会が汗をかいて動かねばならない。課題は数え切れないほどにある。冤罪の訴えある者を支援し、ヘイトスピーチの被害に泣く者を救済し、外国人難民の在留に手を貸し、震災被害者の救援もし、公害・薬害・消費者被害に苦しむ者を援助し、さらには司法制度の円滑な運用や、憲法上の人権・民主主義・平和を守ることまで、弁護士会はその使命として目配りをしなければならない。
キミに「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「基本的人権の擁護と社会正義の実現などという陳腐な呪縛は捨ててしまえ」という姿勢のみだ。人権擁護活動などは、弁護士個人が勝手にやるべきことで、東京弁護士会としては何もしないと決断すべきだというのだ。そうして会費を節減することこそが、会員のホンネにおける魅力的な会のあり方、と言っているのだ。キミは、東弁の会員弁護士や、とりわけ若手を見くびっているのではないか。

キミは、「東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか? 誰のお金によって運営できているのでしょうか?」と問う。そのとき、キミの視野には市民が入っていない。本当の「お客様」は市民ではないか。弁護士の「お金」も市民からのものだということが忘れられていないか。市民の役に立ち、社会に支えられていればこその弁護士であり、弁護士会ではないか。市民からの支援あれば司法修習の給費制を実現出来る。弁護士・弁護士会の人権活動や公益活動なくして給付制の実現はない。実は弁護士活動のすべてについて言えることなのだ。市民から見捨てられるような、弁護士会のあり方の政策提起は、とうてい是認し得ない。

去年のブログの一節をもう一度繰り返す。
弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているという。志のない弁護士たち、漫然と法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら報酬を求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。

歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。

昨年の暗澹たる思いは、赤瀬候補の落選で多少は救われた気持になっている。まさか今年が、嘆きの年になるまいとは思うのだが。
(2016年2月1日)

季刊『フラタニティ』創刊号に「私はいかにして弁護士となったか」

季刊『Fraternity フラタニティ』が創刊され、明日(2月1日)が発行日となる。
フラタニティとは友愛のこと。フランス革命のスローガンとして知られている「自由・平等・友愛」の内、「自由・平等」は普遍的原理として世界に定着したものの、友愛が不当に軽視されている。日本国憲法の理念として友愛を根付かせることによって、憲法をよりよく活かそう、というコンセプト(だと思う)。雑誌のモットーが副題として「友愛を基軸に活憲を!」となっている。私も賛同して、編集委員のひとりとなった。編集長が村岡到、編集委員に西川伸一、吉田万三などの名がある。

資本主義社会の「競争」に対峙する原理としての「協同」の奥あるいは基礎に「友愛」がある。私は個人的にそう理解している。「友愛」を理念とする市民が、「競争」を行動原理とする企業をコントロールすることが、夢想ではなく可能ではないか。その基本は民主主義による企業統制だが、それ以外にも現実にいくつかの手法が成功しているように思う。

創刊号が刷り上がっているが、なかなかの出来だと思う。読ませるこの内容で、一冊600円は割安感がある。

ぜひ、下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
  http://logos-ui.org/fraternity.html

創刊号の特集が「自衛隊とどう向き合うか」で、次の3本の記事がメインとなっている。
 村岡 到 「非武装」と「自衛隊活用」を深考する 
 松竹伸幸 護憲派の軍事戦略をめぐって
 泥 憲和 安保法制批判側が国民の支持を得られない理由
そのほかに、
 編集長インタビュー 孫崎 享 東アジア共同体が活路
 TPPを何としても止めよう!  山田正彦
 沖縄は今
 脱原発へ
 高野 孟 ジャーナリストの眼? 
 地域から活憲を? ねりま9条の会
 ロシアの政治経済思潮 ? 
 友愛を受け継ぐ人たち? 友愛労働歴史館
 わが街の記念館? 賢治とモリスの館
等々

創刊号の裏表紙に、編集長の「季刊『フラタニティ』創刊アピール」が掲載されている。「季刊『フラタニティ』は、「友愛を基軸に活憲を!」をモットーに刊行されます。」ではじまる創刊の辞は、かなりの長文で意気込みに溢れたもの。最後が「ともに〈活憲〉の時代を切り開いていきましょう」に収斂する。しかし、何よりもこの雑誌の性格をよく物語っているのは、欄外に小さな活字で書かれた編集長自身の次の文章である。
「〈付〉上記のアピールは小さな編集委員会でもいろいろ異論があります。一つの方向として、深く考える素材として発せられたものです。」

こういう、まとまりのなさを率直に明示しているところがこの雑誌の魅力である。多様な書き手のそれぞれの個性が、まとめられたり整理されたりすることなく、素のまま表れているのだ。

私も連載を引き受けた。「私がかかわった裁判闘争」というタイトル。5頁というスペースをもらっている。執筆を引き受けて、自分のこれまでの弁護士生活を振り返るよい機会だと思っている。編集長からの注文があって、その第1回で「岩手沿岸の『浜の一揆』訴訟」を取り上げた。自分で読み直してみて、結構面白いと思う。

その連載第1回の冒頭に、「私はいかにして弁護士となったか。」を書いた。
フラタニティ創刊号の予告編として、その一部を抜粋して引用しておきたい。抜粋でなく全文に興味が湧けば、ぜひ雑誌の購読をお願いしたい、という魂胆。

 実は、私こそが法が求める弁護士であると自負している。密かに自負していれば穏当なのだが、執拗に広言してやまない。
 「資格を持っているだけの弁護士」と「法が想定する弁護士」とは一致しない。「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は、在野・反権力に徹し、かつ資本の支配に抗することによって初めて可能となる。それだけではない。この社会においては、権力は社会の多数派によって担われる。だから、社会の多数派が形づくる常識が、権力のイデオロギーとなる。毅然として権力と対峙するには、社会の常識に絡めとられてはならない。私は、意識的にこの社会の常識を排する。「和の精神」も、愛国心や国旗・国歌も大嫌い。民族の歴史・伝統・文化には馴染めない。その中核をなす國體思想には生理的嫌悪を禁じ得ない。
 そのような私だからこそ、最も弁護士らしい弁護士なのだ。現行法制度は人権擁護のために「弁護士という国家権力から独立した法技術者の職能集団」をつくった。その法の趣旨にもっとも適合的な弁護士像が、在野に徹し、資本に抗い、天皇制批判に躊躇しない私だと思っているのだ。

 啄木の「一握の砂」に、「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く」という一首がある。啄木が詠んだから「歌」になっているが、散文にすれば唯物論の基本に過ぎない。「この社会において人が抱く思想は、すべて金なきに因する」か、あるいは「金あるに因する」かのどちらか。私が抱いた思想も、基本的に「金なきに因する」ものだった。
 「苦学生」とは今は死語になっているのだろうか。私はまさしく古典的な苦学生だった。高校卒業後はいっさいの仕送りなしの生活。奨学金とアルバイトだけでの自活だった。
 今はなき東大駒場寮に居住していた当時、寮生の自治運営だった寮食堂は格安だったが、その安い食費の捻出ができない寮生も多かった。そのような寮生に、「残食」という制度があった。夜8時頃だったろうか。ダンピングの「残食」にありつこうという寮生が列をなすのだ。経済的下層の学生が、「残食」グループを形成する。ところが、下には下がある。私ほか数名は、その列を尻目に、自由に掬える汁類をごっそりと漁るのだ。こちらは一汁だけだがタダの夕食。これを咎められた覚えがない。誰もが暖かく見守ってくれていたはずはないが、大目には見てくれていた。

 そんな学生だった私には、自分が企業への就職活動をするなどとイメージできなかった。公務員になることも考えられなかった。「資本の走狗にも、権力の尖兵にもならない」などと言えば格好は良いのだが、務まりそうはないというのがホンネのところ。芸術や文筆の才能あれば、その道で生きていきたいところだが、所詮は夢のまた夢。アルバイトで明け暮れた大学生活4年間が過ぎるころに、弁護士になろうと腹を決めた。
 志望の動機の最大のものは消去法である。他人に使われての勤めは自分には無理だ、と思い込んでいた。その自分にも、弁護士という自由業なら務まるのではないか。憧れたのは、飽くまで自由な生き方。誰にも束縛されず、他人におもねることなく生きる自由である。
 1969年3月に6年間在学した大学を中退し、4月に最高裁管轄下の司法研修所に入所して司法修習生、つまりは法曹の卵になった。当時の司法研修所は牧歌的で、少なからず学生生活の延長の雰囲気があった。私は、正規のカリキュラムよりは、課外の自主活動で有益な研修をした。その過程で、世の中の紛争はさまざまであり、弁護士も誰の利益を代弁するか、実にさまざまであることを知った。
 こうして、いくつかの「別の道」の選択もあったのだが、結局「金なきに因するわが抱く思想」に忠実であろうと心に決めて弁護士実務に就くことになった。権力の側、資本の側には就かない。強い側、多数派には与しない。こう心に決めての職業人生の出発だったが、しばらくして気が付いた。権力も資本も、私に事件の依頼などして来ない。だから、格別改めての決意など不要で初心を忘れずにいられる。こうして45年が過ぎ、いつの間にか、過去を語る齢になった。

 これまで私が携わってきた分野は比較的広い。それだけ、専門性は低いとも言える。労働・労災職業病・消費者・医療過誤・薬害・差別・政教分離・選挙運動の自由・教育・平和訴訟・「日の丸君が代」強制反対等々。なんとなく、「思想・良心の自由」のフィールドがライフワークとなっている感がある。その中から、今後いくつかの事件を拾って報告の連載をしてみたい。第一回は、私の故郷岩手で、始まったばかりの「浜の一揆」訴訟である。
(2016年1月31日)

『消費者法ニュース』「スラップ訴訟(恫喝訴訟・いやがらせ訴訟)特集号」本日発売 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第70弾

多くの方から、一昨日(1月28日)の「DHCスラップ訴訟控訴審勝訴判決」に、祝意のご挨拶をいただいた。あらためて御礼を申し上げます。

ほとんどの方が、「当然の勝訴とは思いますが、よかったですね」「当たり前の判決ですが、おめでとう」というもの。そして、「DHCや吉田嘉明は、こんなスラップを提起した責任をどうとるつもりなのでしょうか」というご意見も。

なかに、「判決主文には訴訟費用はDHC・吉田の負担とされている。具体的には、どのくらいの金額を支払わせることが出来るのか」というありがたい問合せもあった。残念ながら、これはDHC・吉田が訴状と控訴状に貼った印紙の代金について、「澤藤からはとれません」というだけのもの。私(澤藤)には1円もはいってこないのだ。これが、スラップのスラップたる所以。スラップの標的とされたものが、その訴訟に勝訴しただけではなんの見返りもない。弁護士費用も、応訴の時間消費も、その間の減収の補償もない。そこが、スラップを起こす者の付け目でもある。

もっとも、「こんなことをする、DHCの製品は決して購入しません」という声もあった。これは嬉しいことだし、本質を衝いた問題提起でもあると思う。

弁護士は別として、DHC・吉田の私に対する訴訟によって、「スラップ」「スラップ訴訟」という言葉を初めて知ったという方が、ほとんどのようだ。「スラップ」の陰湿でダーティーなイメージと、こんな提訴をする企業や経営者への社会的評価の低下は避けがたい。大きな規模でDHCの化粧品やサプリメントの商品イメージの低下にまでつながれば、再度のスラップの抑止効果を期待出来るところ。

「スラップに成功体験をさせてはならない」だけではなく、スラップ提起者への法的、社会的な制裁が必要である。そのために、まずは「スラップ」「スラップ訴訟」の実態と、社会的被害を世に知らしめなければならない。

そのような試みは、着実に始まっている。たとえば、本日発売の『消費者法ニュース』が「スラップ訴訟(恫喝訴訟・いやがらせ訴訟)」の特集を組んでいる。

『消費者法ニュース』は季刊誌である。消費者問題に携わる研究者・弁護士・司法書士・消費生活相談員・消費生活コンサルタント・市民活動家・消費者被害者らが寄稿して支えている。

2015年10月発行の前号(105号)の概要をご覧いただけば、その充実振りがご理解いただけよう。
特集1:不招請勧誘規制(Do Not Call制度、Do Not Knock制度)
特集2:公益通報者保護法の改正
シリーズ1:消費者庁・消費者委員会・国民生活センター・地方消費者行政、以下15の各テーマについてのシリーズが連載されている。続いて、学者の目、相談員の目、Q&A、判例・和解速報、国民生活センター情報、政府・政党・国会議員の声、消費者運動の歴史、判決全文紹介…とならぶ。

さて、本日(1月30日)発売の106号は、スラップ訴訟について30頁を超す盛りだくさんの特集。下記9本の論稿が並んでいる。もちろん、私も執筆者のひとり。

1 「スラップ概論」 弁護士(福岡)青木歳男
2 「伊那太陽光発電スラップ訴訟」 弁護士(長野)木嶋日出夫
3 「スラップに成功体験をさせてはならない─DHCスラップ訴訟の当事者として─」 弁護士(東京)澤藤統一郎
4 「ホームオブハート事件─ 消費者被害者に対する加害者側によるSLAPP事例─」MASAYA・MARTHこと倉渕グループ問題を考える会代表・山本ゆかり
5 「第一商品株式会社からの不当訴訟について」 弁護士(東京)荒井哲朗
6 「スラップ訴訟と名誉毀損の法理について」 弁護士(東京)飯田正剛
7 「カルト問題とスラップ」 やや日刊カルト新聞主筆・鈴木エイト
8 「スラップとメディア」 フリージャーナリスト・藤倉善郎
9 「アメリカにおける『戦略に基づく公的参加封じ込め訴訟』(SLAPP)」 創価大学法科大学院教授・藤田尚則

スラップに深く関心を持っている、当事者・弁護士・ジャーナリスト、そして研究者の深刻な問題提起と貴重な提言が持ち寄られている。消費者問題の切り口を主とする特集で、必ずしもスラップ全体をカバーするものではないが、これからスラップを語る出発点としての貴重な基本文献となっている。ようやくにして、スラップは人々の口の端に上るようになり、スラップの提起は唾棄すべき愚行であるとの社会通念が着実に形成されつつあると実感する。

スラップはさまざまに定義されているが、私は、「強者の側からの民事訴訟の濫訴を手段とした、表現の自由や市民活動の自由に対する侵害の試み」と考えている。弁護士費用・訴訟費用の負担を厭わない公権力や経済的強者の側の武器として、極めて有効なのだ。表現の自由・市民活動の自由に、重大な脅威をもたらし、我が国の民主主義を変容させかねない。

司法本来の主たる役割は、法がなければ守られない社会的弱者の権利救済にある。しかし、スラップは、その正反対の望ましからぬ役割に利用された提訴である。しかも、強者が弱者を提訴するそのことだけで、大半の目的を達する。被告とされた本人だけではなく、被告以外の多くの者、つまりは社会に対する表現や行動の萎縮効果をもたらすからである。スラップを默過し放置することは、司法の悪用を認めることにほかならない。

巻頭論文となった、青木歳男「スラップ概論」の中に「便利でお得なスラップ」という一節がある。これが、「スラップの社会学」であり、「スラップの費用対効果」である。だから、スラップがはびこり、スラップが根絶されないのだ。

(1)組織力と財力に優れた大規模な組織から訴訟を提起されるという事態は、一個人からすれば経済的・心理的に大きな負担であり、確実に被告への過大な負担を与えることが可能となる。
(2)被告の周囲の者に対しても、提訴の可能性を示唆することができ、被告への協力を躊躇させることができ、反対運動のような場合であれば反対運動自体を抑制することが出来る。
(3)加えて、他の言論機関に対しても名誉毀損訴訟の可能性を示唆することができ、メディア全般への牽制にもなる。
(4)スラップを防ぐ手立てがなく、一度被告とされると、原告が納得するまで訴訟に付き合わなければならない(米国の反スラップ法では予備審にて却下という救済制度があることと対照的である)。
(5)提訴は合法な行為であり、表面上それ自体非難されるものでない。反訴により違法性を認定されなければ不当性を指摘されることは少ない。
(6)特に名誉毀損訴訟での提訴の場合、日本の判断基準は曖昧であるから、不当であるかどうか名誉毀損が成立するかどうか(考え方としては名誉毀損が成立してもスラップと考える場合もあるが)ハッキリしないので、不当だと批判されにくい。
(7)多くの被告は訴訟の長期化を避けるため(負担が増えるため)反訴提起は起こりにくいし、反訴において不当訴訟として認定されるための要件は大変厳格である。
(8)スラップを提起したことが広く社会に知られた場合、原告が社会的非難を受ける危険性はあるが、スラップが報道される例は多くない。
(9)原告は、社会的評価を低下させる表現を見つけて訴訟を弁護士に委任すればよく、その費用は大規模組織のメディア対策費とすれば極めて低廉である。不当訴訟と認容を受けても賠償額は弁護士1名分程度の費用が上積みされたに過ぎない(幸福の科学事件判決の認容額は100万円、武富士事件の認容額は120万円、伊那太陽光発電スラップ訴訟は50万円)。
(10)現実に言論の萎縮が生じており、大変効果的な手段であると考えられる。

オウム真理教は江川昭子さんを訴え、幸福の科学は山口廣さんを訴え、DHC・吉田は係争中の労組員や私を含む批判者多数を訴えた。提訴側は、スラップに敗訴したところで何の失うものもない。負けてもともと、やり得なのだ。負けても得るものがある。スラップ常連者は、自らを厄介な存在と社会に認識させることで、自らに対する社会からの批判の言論をブロックできるのだ。

スラップ提起によるイメージの悪化が、客離れや自然発生的なボイコットあるいは不買運動などによって、スラップ提起者に経済的な打撃が生じる状況が生じれば、抑止的な効果を期待することが出来る。しかし、そのことは常に期待できることではないし、スラップの主体が、顧客を抱えているとも限らない。何らかの法的あるいは制度的な制裁の仕組みが必要である。

この点については、カリフォルニア州の「反スラップ法」が典型として参考になる。「消費者法ニュース」の藤田尚則論文は、大要次のように紹介している。

「同法は、SLAPPの標的(被告)を訴訟から早期に解放するための手続を定め、『裁判所が、原告は請求において勝訴する蓋然性があることを立証したものと決定しない限り、特別の削除申立てに服さなければならない。』と規定し、特別の削除申立ては『原告の訴状の送達から60日以内に提起することができるものとし、又は裁判所の裁量で当該裁判所が適切と決定するその後の適切な時期に提起することができるものとする。申立ては、裁判所書記官によって申立ての送達後30日以内に裁判所の未決訴訟事件表の状況が後の審尋を要求しない限り審尋に付されるよう訴訟日程表に登載されなければならない。』と規定している。更に同法は、ディスカバリー(日本法にはない証拠開示手続)による負担から被告を保護するため、訴訟における全てのディスカバリー手続は…申立ての通知の提出まで停止される。…そのうえ被告の経済的負担軽減のために『特別の削除申立てに勝訴した被告は、彼又は彼女の弁護士費用及び訴訟費用を回収する権利を付与される。』と規定している。」

さらに、「ワシントン州反SLAPP法」がスラップ被害者の救済を強化したものとして、次のように紹介されている。

「原告が明白且つ確信を抱かせるに足る証拠に基づいて申立てに成功し得る蓋然性を立証できなかった場合、裁判所は『訴訟費用及び相当の弁護士費用を含まない10,000ドル』の支払いを原告に命じ、『裁判所が応答当事者〔原告〕の行為及び同様の立場に置かれた他者によるそれに匹敵した行為の反復を抑止するに必要と決定した、応答当事者及び当該当事者の弁護士又は法律事務所に対する制裁を含む付加的救済』を命ずると規定している」

このような立法例を参考にして、我が国の「反スラップ法」「民事訴訟におけるスラップ抑制制度」を創設したいものと思う。

「消費者法ニュース」の購読申込みは下記URLで。
  http://www.clnn.net/form/order.html
(2016年1月30日)

野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。

昨日の私のDHCスラップ訴訟控訴審判決法廷に、徳岡宏一朗さんが私の代理人のひとりとして出廷してくれた。記者会見にも出席して、著名ブロガーとしての自らの体験から、ブロガーの表現の自由の大切さを語った。

徳岡さんは、私の「万国のブロガー団結せよ」という呼びかけに呼応して、「リベラルブロガーの団結」の機会を作ろうと具体的プランを練っている。その彼が、記者会見の席で、ブロガーの表現の自由を守り通すことの困難な状況をも語った。

その困難な状況のエピソードのひとつとして、日弁連会長選挙に関連した彼のブログ記事が、「選挙管理委員会から削除を要請された」と報告された。その理由は、「候補者以外の会員による選挙活動は禁止されている」からだという。徳岡さん自身は、会見の場では選挙管理委員会の措置を不当とも不満とも言わなかったが、これは看過できない問題ではないか。

私は、これまで刑事弁護活動に際して公職選挙法に目を通す機会は多く、「べからず選挙」となっている選挙活動の制約過剰を批判し続けてきた。かなり以前のことだが、「戸別訪問禁止は憲法(21条)違反」という判決を勝ち取ったこともある。(もっとも、無罪は一審段階限りで、検事控訴によって覆り最高裁でも上告棄却で終わったが)

日弁連会長選挙が、公職選挙法に類する「べからず」選挙とは知らなかった。今回、初めて会長選挙規定を一読して、首を傾げた。なるほど、これはおかしい。社会正義と人権の擁護者としての弁護士の組織が行う選挙である。選挙における民主主義や人権は、国の法律よりも抜きん出て重んじられなければならない。にもかかわらず、なんと古色蒼然たる理念に基づく規定であろうか。

関連規定は、以下のとおり(読み易く一部省略)である。
第56条の2(ウェブサイトによる選挙運動)
1項 候補者は、ウェブサイトを利用する方法により、選挙運動をすることができる。
2項 選挙運動のために利用するウェブサイトは、選挙運動の期間中に限り開設される選挙運動専用のものでなければならない。

第58条(禁止事項)
候補者及びその他の会員は、選挙運動として次に掲げる行為をし、又は会員以外の者にこれをさせてはならない。
第4号 第56条の2の規定に違反してウェブサイトを利用する方法による選挙運動をすること。

要するに、ウェブサイトを利用する選挙運動は、候補者だけに可能とされ、一般会員有権者には禁止されているのだ。規定がこうなっている以上、任務に忠実を心掛ける謹厳な選管委員氏が、徳岡さんのブログを看過できないとしたわけだ。だが制裁措置は予定されていない訓示規定。どう運営するかは選管次第。看過したところでなんということもないのだ。むしろ、規定の方に大いに問題があり、異議ありなのだ。

この会長選挙規定をおかしいという根拠の一つは、選挙運動主体についての理念を古色蒼然で戦前型といわねばならないことにある。私は、民主主義社会の選挙運動の主体は候補者でもその取り巻きでもなく、主権者国民であることを疑わない。かつて、普通選挙法(1925年改正衆議院議員選挙法)成立後敗戦までの間は、「演説又は推薦状による場合を除き、候補者、選挙事務長、選挙委員又は選挙事務員でない第三者は選挙運動をすることができない(第96条)」と規定された。この「第三者」とは有権者国民のことである。選挙運動の主体は、候補者と、登録された運動員に限られ、「第三者」たる一般国民には選挙運動が禁止されていた。国民は選挙運動の主体ではなく、もっぱら選挙運動の受け手に留め置かれたのだ。可能な限り臣民に民々主義的な政治感覚を育てたくないとする天皇制政府の(悪)知恵の所産である。日弁連の会長選挙規定がこの思想を受継しているかにみえることに一驚せざるを得ない。

選挙とは、本来的に有権者相互間の言論戦である。選挙運動としての言論の規制を合理的だというためには、カネがかかりすぎるか、虚偽や詐術の場合以外には考えがたい。しかし、ブログこそは最も金のかからない言論手段ではないか。また、虚偽や詐術には反論を第一とすべきであろう。後見的に選管が注意や勧告をするのはよくよくのことがなくてはならない。

徳岡さんのケースを具体的に見る必要があるだろう。彼の1月25日付ブログに次の記事がある。

「さっき、日本弁護士連合会選挙管理委員会の副委員長さんから、わざわざお電話をいただきました。わたくし、なんかの選挙にも出た覚えがないので、ビックリしたのですが、なんと私のブログ記事が日弁連の選挙管理規定に違反するので、削除して欲しいと言うのです。」
問題となったのは以下の記事。2016年1月17日付け記事で、
「【悲報】日本弁護士連合会の執行部側○○○○候補が、稲田朋美自民党政調会長に何度も献金していた。」というもの。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/91b8d2267e07171d450b4c1dd6ab2c65

選管は、同候補が稲田朋美に献金をしていたことが事実かどうかを問題にするのではなく、形式的に「日弁連の選挙管理規定違反」だけを削除要求の理由に挙げたようだ。

私は、今回の候補者のひとりが稲田朋美という極右の政治家に政治献金をしていたという事実を知らなかった。徳岡ブログによって、貴重な私自身の投票行動の判断基準となるべき重要事実を知ることとなった。明らかに、候補者以外の会員が発するブログ記事は有益である。

もっとも、今回は、選管が動いたということが大きな話題となって、末端会員である私も、某候補者と極右稲田との関係を知るところとなった。選管の徳岡ブログ削除要求は話題作りの高等戦術なのか、あるいは単なるオウンゴールなのかは判然としない。

稲田朋美が何者であるか、いったんは私も情報を整理しようとしてみたが、その必要はない。徳岡さんが、これ以上はないという綿密さで、見事なプロファイリングをしてくれた。これを読めば、稲田が政治家としても、弁護士としても、いや市井のひとりしても、人間性を疑問視されるべきトンデモナイ人物であることが一目瞭然である。これも、選管介入の賜物であろうか。ぜひとも多くの人に読んでいただきたい。大いに拡散したいものである。
「日本弁護士連合会会長候補が献金していた稲田朋美政調会長とは、こんな極右政治家。」
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/db48f4b75b6bf719015cffa4eb8f2d57

公正を期すために、稲田との関係を指摘された候補者の釈明(抜粋)を記載しておきたい。
「年数万円の政治献金だけが事実で、あとはみなでたらめです。しかも、私が献金しているのは、稲田議員だけではありません。
稲田議員は、私と同じ大阪弁護士会に所属しており、旧知の間柄であるだけではなく、給費制やTPPの弁護士に関する条項の問題では、弁護士会と同じ立場に立って活動しています。法曹人口問題や法曹養成問題、給費制など、弁護士をめぐる様々な問題は、政治問題でもありますので、政治家への働きかけは欠かせません。私はこう考え、弁護士議員を中心に、与野党を問わず、幅広い議員に政治献金をしています。ここで個人名を挙げるのは控えますが、憲法問題でおよそ稲田議員と対極の立場にある野党議員にも献金しています。それを言わないで、稲田議員のみを取り上げるのは、ためにする議論としかいえません。」「弁護士の立場を守る議員は与野党を問わず応援するが、個別の政見については是々非々で対応する。これが私の立場です。もっとも、今までは一人の弁護士として献金してきましたが、公的な立場である日弁連会長となった暁には、全議員に対して献金を控えることといたします。」

稲田への「年数万円の政治献金だけが事実」と認めた上で、堂々とその理由を述べている。これはこれで見識と言えよう。「極右稲田もいまや有力な与党政治家なのだから、これと上手に付き合う必要がある」「弁護士会の利益のために、清濁併せ呑むべきは当然」「良い人とだけつきあっていたら選挙落ちちゃうんですね」「濁の濁たる稲田とでも付き合わなくては」との考え方である。他方「こんな輩とエールを交換することは断じてあってはならない」とする潔癖な批判は当然にある。考え方は、いろいろあってよい。が、「某候補者に対稲田献金あり」との事実摘示のブログを削除せよとする選管のやり方は穏やかではない。

必要にして十分な情報の交換とともに、批判と反批判の応酬の場を保障して、判断は有権者に任せればよいだけのことではないか。いずれ、この首を傾げざるを得ない日弁連会長選挙規定は変わらざるをえない。それまでの間、この点についての四角四面の厳格運用は野暮ではないか。野暮とは、法形式のみにとらわれて、民主主義の本質についての理解に欠けるという程度の意味合いである。
(2016年1月29日)

DHCスラップ訴訟控訴審判決。またもスラップを仕掛けたDHC・吉田の完敗。 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第69弾

DHCと吉田嘉明が私を被告として提起したDHCスラップ訴訟、本日その控訴審判決が言い渡された。当然のことながら、「控訴棄却」。私の全面勝訴である。

「スラップに成功体験をさせてはならない」。これが何よりの重要事。私にスラップを仕掛けたDHC・吉田の成功体験を阻止し得たことは、私個人にとっても、また、表現の自由という基本権擁護の立場からも、まずは良い結果となったことが喜ばしい。政治的民主主義や、規制緩和問題、消費者問題、健康食品・サプリメントの安全性の問題など、さまざまな視点から訴訟を支援していただいた方々に厚く御礼を申し上げます。

勝訴判決は当然のこと、当然勝訴とは思いつつも、判決言い渡しあるまでは、一抹の不安を禁じ得なかった。この被告に対する心理的な圧迫感や負担感が、スラップ訴訟特有の効果でもあろう。

弁護士の私においてさえ、スラップを起こされたことの不快感と圧迫感は否定し得ない。6000万円という金額を「バカみたい」と笑えるのは、第三者の立場にあればこそ。当事者とされた身には、高額請求という手法の効果と、それ故のやり口のあくどさを実感してきた。訴訟の世界に縁の薄い方が、スラップの標的となった場合の驚愕と焦慮は察するにあまりある。この裁判が確定すれば、攻勢に転じて、スラップ防止の具体的な策を講じなければならない。

本日の判決は、一審判決の結論を維持したが、DHC・吉田の請求を棄却する理由について、一審判決より、やや踏み込んだ判断をしている。この点において、判例としての価値のあるものと考えられる。

訴訟における最大の争点は、最高裁が採用している判断枠組みを前提として、名誉を毀損するとされている表現が「事実摘示」か、あるいは「意見・論評」かの分類判断基準についてである。前者であれば、摘示事実の真実性について証明責任が被告に負わされることになる。後者であれば、そもそも真実性の問題が生じない。

DHCと吉田は、私のブログのなかの16個所(???)が名誉を毀損するものと主張した。これに対して、原判決は1個所だけを除いた15個所につき、その表現が原告らの名誉を毀損することを認めた。しかし、その15個所の全部について、これは「事実摘示ではなく、論評である」として、違法性を欠くという判断をした。この枠組みは、本日の控訴審判決も是認した。

DHC・吉田は、その判断が最高裁判決(いずれもロス疑惑についての「夕刊フジ事件」「朝日新聞事件」)を根拠として、???はいずれも事実摘示だとする控訴理由を主張した。これに、判決は丁寧に応えている。
たとえば、次のようにである。

イ 本件記述?及び?について
控訴人らは,「吉田嘉明なる男は(中略)自分の儲けのために,尻尾を振ってくれる衿持のない政治家を金で買った」(本件記述?),「大金持がさらなる利潤を追求するために,行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す」(本件記述?)との記載が,8億円の貸付けに係る控訴人吉田の動機という事実を摘示するものであると主張する。
しかしながら,本件記述?及び?は,控訴人吉田が様々な規制を行う官僚機構の打破を求め,特に,控訴人会社の主務官庁である厚生労働省の規制について煩わしいと考えていた事実,控訴人吉田が渡辺議員に合計8億円を貸し付けた事実,控訴人吉田が雑誌に本件手記を掲載し,渡辺議員との関係を絶った事実を前提にするものであるが,これらの事実は,いずれも平成26年4月3日号の週刊新潮に掲載された控訴人吉田の手記(本件手記)に記載されている事実であり,それ以外に,例えば被控訴人が独自に入手した情報など,本件手記の記載以外の情報を付加して推論を行ったものではなく,このことは,ブログの記事の記載から理解可能である。そして,このような場合には,読み手としては,本件記述?及び?に記載された本件貸付けの動機は,前提事実を元にした推論であると理解するものと考えられる。また,ブログの記事によって取り上げられた本件貸付けは,政治の過程における政治と金銭の問題に関係するものであり,国民の立場から重大な関心事になり得ることからすれば,控訴人吉田が本件貸付けに当たり真実どのような動機を有していたかという事実の問題とは別に,前提事実の組合せに対する社会的な評価や推論・解釈ないしこれに基づく議論が存在し得るものであって,本件記述?及び?はそのような性質のものと理解することも可能である。これらからすれば,本件記述?及び?は被控訴人の意見ないし論評であるとの評価に結び付きやすいといえる。

また,控訴人らは,本件手記や控訴人会社のウェブサイトに控訴人吉田が8億円を貸し付けた動機が記載されており,その真否は控訴人吉田の供述の信用性判断により確定できるから「証拠等をもってその存否を決することが可能な事項」であるとも主張するが,ここで問題とされている本件貸付けの動機は,飽くまで人の内心に係る一般的な行為の動機であり,本件手記等に控訴人吉田の動機に関する記載があるからといって容易にその真否を判定できるものではないというべきである。控訴人らが指摘する前掲最高裁平成10年1月30日第二小法廷判決は,犯罪の嫌疑を受け公訴提起された者について,被告事件(犯罪)を犯したとして犯行動機を推論する新聞記事が事実を摘示するものであるとされた事案であり,本件は,刑事手続において犯罪行為の動機が犯罪事実そのものと共に証拠等をもって認定され,その存否を決することができるとされるものとは異なるものである。
このようにしてみると,本件記述?及び?の記載は,一般の読者の普通の注意と読み方をもってすれば,証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張するものと理解することはできず,控訴人吉田の本件貸付けの動機についての事実の摘示を含むものと解することはできないというべきである。

また、控訴人が「目的の公益性の欠如を主張する点について」の判決の次の指摘も重要である。

控訴人らは,?披控訴人のブログ記事において,攻撃的な表現,控訴人らを嘲笑し馬鹿にする記述,控訴人らに対する敵意ないしは反感に満ちた表現があること,?ブログ記事の掲載に当たり事実関係の調査がされなかったこと,?披控訴人が控訴人会社について「元祖ブラック企業」と記載したチラシを配布していたこと,?経済的強者=悪という個人的な信念ないしは偏見のもと,大企業である控訴人会社及びその代表取締役会長である控訴人吉田を悪人に仕立て上げたいというのが披控訴人のブログ記事掲載の隠れた動機であること,?披控訴人が,本件に便乗して控訴人会社の商品の安全性に対する一般消費者の不安を煽り,その信用をおとしめることも隠れた動機として有していたことから,その執筆態度に真摯性がなく,公益性の否定につながる隠れた目的も存したのであるから,本件各記述について,専ら公益を図る目的に出たものとは認められないと主張する。
しかしながら,本件各記述については,確かに,上記?の指摘のように受け取られる部分があることは否定できないが,原判決の説示のとおり,その内容が,政治家への資金提供の透明性を確保し,民主主義の健全な発展のためには,金員の提供を受ける政治家だけでなく,金員を提供する私人についても監視,批判が必要であるということを訴えるもの,サプリメントの販売については,規制緩和の要請があることや,機能性評価が不十分であること,さらに,有害物質の含有や健康被害の例など安全性の問題等があることを指摘するもの,本件訴訟の提起について,経済的強者等が自らの意に沿わない意見について,訴訟により相手方に精神的,経済的負担を負わせ,当惑させ,論評を封じ込める目的で訴訟を提起するという訴権の濫用及び言論の自由に関する主張を行うものであり,いずれも,その内容に照らし,専ら公益を図る目的に出たものと認められるものである。
控訴人らのこの点の主張は採用できない。

私のブログでの表現は、吉田嘉明の人身攻撃にわたるものではなく、彼自身が手記で語った行為に対する批判である。私の表現は、典型的な「公共に関わる事項に関して、もっぱら公益を目的とする」言論であり、前提とする事実の真実性にいささかの疑問もない。

ところが、DHC・吉田は、私がブログを書いた意図をこう邪推する。
「経済的強者=悪という被控訴人(澤藤)独自の価値判断に基づき,従前から悪の権化と考えてきた控訴人会社(DHC)の代表取締役会長である控訴人吉田をおとしめて懲らしめるという隠れた目的のもとにされたものであり,控訴人吉田の行為等への批判ではなく,個人本人に向けられた人格攻撃であって,控訴人吉田の名誉感情を不当に侵害し,侮辱するものである」
これに対する判決の判断は、「その主張に係る被控訴人の目的を認めるに足りる証拠はないことに加え,上記各記述は,原判決の説示するとおり,控訴人吉田の行為や言動に向けられたものであり,社会通念上許される範囲を超えて人格的価値を否定するものとまでは認められないというべきである。したがって,控訴人らのこの点の主張も採用できない。」というもの。

当然の判断ではあるが、表現の自由にとって重要な判断である。私のブログによって、いかに吉田嘉明とDHCの名誉が傷つけられようと、私のブログは、決して吉田嘉明個人の人格攻撃を目的としたものではなく、その行為に対する批判として「表現の自由」の旗に守られているのだ。吉田とDHCは「身から出たサビ」として、名誉の侵害を甘受しなければならない。

昨日のブログにも、こう書いた。
表現の自由とは、人畜無害の表現を保障するだけのものであるだけなら、憲法にわざわざ規定するだけの意味に乏しい。一審判決はこのことを認めた。その一審判決の認定が覆ることは、万に一つもあり得ない。

実際に控訴審判決は、この立場を踏襲しただけでなく、さらに明確にしたといえよう。

本日の記者会見は、山本さんの司会で進行した。冒頭私から、判決の概要とスラップ被害の深刻さを説明し、阪口さんが「政治とカネの癒着を批判する言論の重要性」を、徳岡さんが「ブロガーの言論の自由の重要性」を、塚田さんが「規制緩和が及ぼす消費者被害を告発する言論の重要性」を、最後に中川さんから「サプリメントにおける安全性についての警告の重要性」について、それぞれの発言があった。

上告ないし上告受理申立の考慮期間は2週間。「印紙代も弁護士費用も無駄だよ」と言ってみても、聞く耳はないだろうな。私が確定的に被告の座から離れることができるのは、もう少し先のことになりそうだ。
(2016年1月28日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2016. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.