本日の要請行動は、これからの卒業式・入学式のシーズンを前にして、「日の丸・君が代」強制の職務命令を発令しないように要請するものです。具体的な要請内容とその理由については、要請書に記載されたとおりであり、いま「被処分者の会」や「五者卒業式・入学式対策本部」の責任者から補充して説明があったとおりです。
私は、要請者の代理人弁護士としての立場で、教育情報課長を通じて東京都教育委員会に対して、各要請事項に通底している問題点として特に3点を申しあげたい。
第1点は、都教委が数多く抱えている裁判について、その判決の重みを十分にご認識いただきたいということ。既に、65件55人の処分取消の判決が確定しています。都教委は、10・23通達関連訴訟でこれだけの敗訴判決を受けているのです。負け続け判決のその深刻さについて認識が足りないと言わざるを得ません。三権分立を建前とする我が国の法制度において、行政が、司法から「その処分は違法だ」「行政の行為が人権を侵害している」と1件なりとも指摘されることの重大性を自覚してもなわねばなりません。それが、65件も重なっているとなれば、事態を重く受け止めて、どこに原因があったか、誰の責任か、さらにどうしたら同じ過ちを繰り返さないようにすることができるか、真剣に考えなければなりません。もちろん、違法な行為によって被害を受けた教員には、心からの謝罪と、誠実な被害回復措置が必要です。傲慢な態度をとり続けることは、決して許されないと知るべきです。
都教委から見ての勝訴判決についても、その内容をよく吟味していただきたい。裁判所は行政に甘い。行政裁量の範囲をとてつもなく広く認めています。だから、ぎりぎりセーフで、「違憲・違法とまではいえない」という判決をもらって喜んでいてはいけません。勝訴判決だからよしとするのではなく、教育を担当する行政機関として、これでよかったのか十分に判決の意とするところを汲んでいただきたい。最高裁判決は、「日の丸・君が代の強制は、間接的には思想良心の侵害に当たる」と言っています。間接的にもせよ、思想良心の侵害となるような強制を続けておいてよいのでしょうか。また、違憲・違法とはいえないけれど、当不当は別問題とまで、わざわざ書き込んでいる最高裁判決もあります。これらのメッセージをしっかりと受け止めて、教育をつかさどる行政が、この違憲違法すれすれのレベルでよいのか、ぜひ反省していただきたい。
第2点は、都教委という行政機関が、法が想定した組織のあり方から大きく逸脱していることを指摘しなければなりません。東京都における教育行政の主体は、飽くまで行政委員会としての教育委員会です。行政機関としての意思形成における判断主体は6名の教育委員による合議体のはず。そして、東京都の教育庁は、教育委員会の事務局として、教育委員会と各教育委員をサポートするための組織でしかないのです。教育というものの重要性に鑑みて、教育行政の主体を行政からは独立した合議制の教育委員会としたことの意味をもう一度、認識していただかなければなりません。
私たちは、これまで何度も本日のような場を持ち、申入れ・陳情・要請を繰り返してきました。しかし、私たちの要請書が教育委員の手に渡ることはないという。教育委員は、事務方の情報コントロールの結果、判断能力の無いお飾りになりさがっています。これは、下克上による逆転現象というべきか、あるいは事務方の委員会権限乗っ取りと言わざるを得ません。
おそらくいま都教委が抱えている最大の問題が、この「日の丸・君が代」強制問題です。その問題に関して、私たちが提出した教育委員会宛の要請が教育委員に届かないとはどういうことか。「要望を吟味し検討したが、ご期待には添いかねる結果となった」というのならまだしも。要望が事務方の段階で握りつぶされ、教育委員には届かないということにはとうてい我慢がならない。請願は憲法上の権利でもある。ぜひとも、われわれの要請を教育委員に正確にお伝えいただき、会議の議題としていただきたい。
おそらく、お飾りとされていることは、各教育委員にとっても本意ではないはず。みなさん、給料にふさわしい実質を伴った仕事をしたいと望んでいるのではないでしょうか。
第3点。10・23通達、そしてそれに基づく「起立・斉唱」を命じる職務命令、そして懲戒処分。こういう繰りかえしはそろそろ終わりにしていただきたい。
2003年の10・23通達は、異常な環境において生じたものです。何よりも、トンデモナイ知事が君臨していた時代のこと。憲法に敵意を剥き出しにした恐るべき石原慎太郎知事、その知事のお友だちとして提灯持ちを務めた米長邦雄、鳥海厳などの右翼教育委員、そして突出した数名の都議会内右派議員。この人たちがつくり出した異常な産物と言わざるを得ません。
もう、知事は代わり、教育委員も全員が入れ替わっています。10・23通達は見直されて当然でありませんか。卒業式・入学式のたびに、「日の丸・君が代」を処分の恫喝で強制することは、なんの益するところもありません。このことも、分かってきたではありませんか。さらに、判決は負けつづけ。明らかに、事情が変わってきています。ぜひとも、「日の丸・君が代」強制という方針を見直していただく時期に来ていると思います。
ぜひとも、教育委員の皆さんでご検討いただくようお願いいたします。
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要 請 書
2016年1月26日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 A B
東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿
<要請の趣旨>
1.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、2015年4月までに懲戒処分を受けた教職員は延べ474名にのぼります。この通達発出以降、東京の学校現場では命令と服従が横行し、自由で創造的な教育が失われています。
2.一連の最高裁判決(2011年5月?7月)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、処分取消訴訟の最高裁判決(2012年1月、2013年9月)では、「間接的制約」に加え、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消しました。最高裁が、都教委による累積加重処分に歯止めをかけたのです。
これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めています。
また、2015年12月4日、東京高等裁判所(第21民事部中西茂裁判長)は、東京「君が代」裁判第三次訴訟において、最高裁判決及び一審東京地裁判決(2015年1月)を踏襲し、東京都の控訴を棄却し、8件・5名の減給・停職処分を取り消しました。都教委は最高裁への上告を断念し、自ら敗訴を認めました。
更に、2015年12月10日、東京高裁(第2民事部柴田寛之裁判長)は、卒業式等における「君が代」不起立・不斉唱による懲戒処分を理由とする定年退職後の再雇用拒否を「違法」として、東京都の控訴を棄却し、原告22名に総額約5370万円の損害賠償を命じました。
3.最高裁、東京高裁、東京地裁で確定した処分取消の総数は、65件・55名に上ります(別紙参照)。東京都教育委員会が、最高裁・東京地裁に・東京高裁で「違法」とされた処分を行ったことは、教育行政として重大な責任が問われる行為です。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を都民に明らかにし、再発防止策を講じるべきです。その上で、10・23通達などの「日の丸・君が代」強制に係わる従来の都教委の施策を抜本的に見直すべきです。
4.しかるに、都教委は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の「議決」を根拠に、従来の姿勢を改めることなく最高裁判決にも反した減給を含む懲戒処分を出し続け、更には「服務事故再発防止研修」を質量共に強化しています。現在の研修は、明らかに内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与えるものであり、東京地裁決定(2004年 民事19部、須藤典明裁判長)に反しています。
また、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月及び2015年3月?4月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計16名に新たに戒告処分を科し再処分を行うという暴挙を行いました。
これらは最高裁などの判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできません。猛省を迫るものです。
5.「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」は、一連の最高裁判決で校長の職務命令が、思想・良心の自由の「間接的制約」であること、「減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」だとして減給・停職処分が取り消されたこと、反対意見、補足意見が多数出されていること等をことさら無視して、都教委に都合の良い部分だけを取り出して「日の丸・君が代」強制を合理化しています。
6.貴教育委員会が、一連の司法の判断を重く受け止め、責任ある教育行政としての立場を自覚するとともに、問題解決のため下記申し入れを誠実に検討し、回答することを強く要求します。
<要請事項>
1 東京都教育委員会が2003年10月23日に発出したいわゆる「10・23通達」を撤回すること。
2 同通達に基づく一切の懲戒処分・厳重注意等を取り消すこと。
3 最高裁判決(2012年1月、2013年9月)及び東京高裁判決(2015年12月4日)に従い、10・23通達に基づく全ての減給・停職処分を即時取り消すこと。
4 2013年12月及び2015年3月?4月の現職教職員16名に対する戒告という再処分を撤回し、該当者に謝罪すること。
5 同通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。
6 卒業式、入学式で同通達に基づく新たな懲戒処分を行わないこと。
7 同通達に係わり懲戒処分を受けた教職員に対する「服務事故再発防止研修」を行わないこと。
8 卒・入学式等での「君が代」斉唱時に生徒の起立を強制し、内心の自由を侵害する「3・13通達」(2006年)を撤回すること。卒業式、入学式での生徒への内心の自由を告知などの各学校の創意工夫に介入しないこと。
9 「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」を撤回すること。
10 最高裁判決に従い、「紛争を解決する」ための具体的改善策を策定すること。
11 都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。
12 本要請書を教育委員会で配付し、慎重に検討し、議論し、回答すること。
<回答期限> 2016年2月9日(水)。
「労働運動は場末のパブから始まった」とは社会史が語るところ。「労働組合は、安酒の麗しき結晶である」とは、私ひとりの語るところ。資本主義の勃興期に、法の保護なく過酷な搾取に喘いだ工場労働者たちがパブで不満を語り合う。これが労働運動と労働組合の起源なのだ。
だから、私が弁護士になった当時、労働運動に寄与したいと志す若手の弁護士には、「労働者と酒を飲め」「団結も信頼も、アルコールから生まれる」などと教えられ、実際によく飲んだ。私の付き合いの範囲では、組合費で幹部が酒を飲むことはなかった。もちろん接待もない。すべて自腹の割り勘の「団結と連帯の酒」だった。
酒食をともにし語り合うことで信頼関係が生まれる。同じ席で同じものを飲みかつ喰うことが、仲間と認めあう儀礼となっているのだ。「同じ釜の飯を喰う」「一宿一飯の恩義」などの言葉のニュアンスがよく分かる。「俺の酒が飲めないっていうのか」という酔漢の気持ちも、だ。
多くの「一流」マスコミ人が、安倍ら「二流」政治家と酒食をともにしているという。こちらは場末の安酒ではない。豪勢な料亭や寿司屋、あるいは一流のレストランでの話し。アベ友、スシ友、フグ友、飲み友の会席。この席で、政権とメディアとの「団結と信頼」「個人的な友情」あるいは「醜い癒着」の関係が育まれているのだ。勘定は誰が持っているのか、などと問題にするのは「ゲスの勘繰り」の類。
その効果は着実に現れている。NHKや産経・読売だけにではない。私の愛読する「毎日新聞」にもである。
本日の毎日新聞朝刊2面の「風知草」。このコラムは毎週月曜日に掲載されるが、この空間には他の記事とは違う風が流れている。「アベ風」の匂いである。本日のタイトルは、「ゲスの極み」。二流政治家と酒食をともにする「一流記者」山田孝男の筆になるもの。
「風知草」とは、風のまにまになびく草。疾風の中の勁草の対極である。もっとも、風向きを知る草に罪があるわけではない。風はいろんな方向から吹く。権力から吹く風もあれば、民衆が起こす風もある。そよ風も、突風も、爆風もある。いったい「風知草」はどこからの風を読もうとしているのか。風の向きを知って、覚悟を決めてこの風に抗おうというのか、それとも風に流されようというのか。
本日の「ゲスの極み」は、政権からの風を知って、暖かい迎合の風を返しているようだ。「一飯の恩義」を感じて、「スシ友へのエール」として書いた記事。
甘利明事務所に「1200万円のワイロが流れたという『週刊文春』特報」に関して、「違法な金銭授受は間違いなさそうだが、その意味と背景について、正確に見定める必要がある」という趣旨。こんな記事は、サンケイか夕刊フジに任せておけばよい。毎日新聞の紙面に、どうしてこんな「アベへのヨイショ」が躍るのか。
暴かれた「甘利スキャンダル」の威力は、アベ政権直撃のメガトン級。いまやその影響は激震となっている。アベの取り巻き連中が、この衝撃を緩和し、過小評価しようとして躍起になっている。
その典型が山東昭子の「ゲスの極み」発言であり、高村正彦の「わなにはめられた」論である。山東の発言はとりわけ悪質である。「ゲスの極みというような感じで、まさに、両成敗でただしていかなければならない気がする」。これは、告発者に対する「おまえも無傷では済まないぞ」という威嚇である。この威嚇は、今回の告発者に限られたものではなく、今後同様の例を抑止しようという効果を狙ったものである。
覚悟の告発を「ゲスの極み」とする山東に、「政権の疑惑を隠す暴言」などと批判が集中しているのは当然のことだが、アベと酒食をともにする「スシ友・山田孝男」は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という。山田は、「ワイロは、もらう側も渡す側も、どだいゲス(下種(げす)=心卑しき者)の極み。だから両成敗……。いかにも芸能界出身の山東らしい機知だ。」と、山東の言わぬことまで付け加えて山東を持ち上げている。
それはおかしい。山田孝男の言の意味と背景を吟味すれば、政権擁護の弁でしかない。
山田は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という理由を「なぜなら、一見、捨て身と見える告発者の所属企業は実態不明、あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである。」という。これは、高村の「わなにはめられた」論とまったく同じである。
「告発側も疑え」? いったい何をどう疑えというのだ。「政敵の陰謀にはめられた」とでも言いたいのだろうか。あちらこちらでの陰謀説には食傷だが、仮に陰謀であつたとしても、甘利の罪責が軽減されることにはならない。陰謀であろうとなかろうと、現金700万円を収受しているのは犯罪である。甘利は、50万円の現金を2回にわたって、自らのポケットに入れたと具体的に告発されて、これを否定できないのだ。
もしかしたら、今回の件は陰謀であれはこそ、表に出てきたのかも知れない。甘利に限らず、多くの政治家が、口利き料をポケットに入れて、「陰謀でないから裏に隠れたままになっている」のかも知れない。それなら、陰謀バンザイだ。
賄賂罪は、「公務員の職務の公正」と「公務員の職務の公正に対する国民の信頼」を保護法益とするものとして、贈賄も収賄もともに犯罪とされている。この犯罪は表に現れにくい。「アンダー・ザ・テーブル」といわれるように、賄賂の収受は隠密裡に行われるからである。疑惑ありとの指摘に対しては、贈賄側も収賄側も、団結固く口裏を合わせて否認することが通例で、立件は難しい。摘発には、リニエーションの制度導入が効果的だ。これは裏切りの奨励である。どちらか、先に犯罪を申告した方の立件を免除する制度である。賄賂罪摘発を容易にすることで、賄賂の収受をなくそうという発想である。
あっせん利得罪は、「賄賂罪」ではない。が、口利きをしてその報酬として利得を収受する政治家(甘利)だけでなく、政治家に口利きを依頼して利得を供与する者(S社)の行為も犯罪になる。S社は、このことをよく知りながら、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切っている。山田の「あざとい印象」よりも、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切ったことでの政治家の犯罪暴露を積極評価すべきが当然ではないか。
また、「告発者の所属企業は実態不明」はなかろう。政治資金収支報告書から社名も所在地も直ぐに分かる。新聞記者が可能な調査を手抜きして「実態不明」と「印象」を語るのは怠慢の誹りを免れまい。「あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである」とは驚いた。海千山千の政治家を相手に、このくらいのことをしても少しの不思議もない。この程度の「印象」で、山東を弁護し、甘利の罪責を薄めて政権を擁護しようというのだ。
山田のコラムに漂っているものは、政権中枢に位置する者に対する「捨て身の告発」への不快感である。そして、極端な言を避けつつ、告発者を誹ることで、被告発者を相対的に弁護し、告発の影響をできるだけ小さくしようとの政権への配慮が見える。この不快感は、アベ政権の不快感を毎日新聞の紙上に映したものといわざるを得ない。
なるほど。一緒に飯を喰うことの効果はあるものだ。信義に厚い。さすがは高級店での「君子の交わり」である。
(2016年1月25日)
今年(2016年)は4年に一度の閏年で、オリンピックイヤーにあたる。8月5日がリオデジャネイロ五輪の開会式。このところ、問題ばかり多くて盛り上がらないオリンピックだが、ビッグイベントであることに疑いはない。巨額のカネが動き、国家の威信がこれ見よがしに喧伝される。騒々しいまでの商業主義とナショナリズムの祝祭である。
寡聞にして知らなかったが、そのリオの五輪にクウェートが出場停止処分を受けているという。そして、インドも危ないという。我が国では大きな話題になっていないが、興味をそそられる。
1月14日「ロイター・時事」が次の記事を配信している。
「クウェート政府は、今夏開催されるリオデジャネイロ五輪の参加を国際オリンピック委員会(IOC)から差し止められた問題で、クウェート・オリンピック委員会を相手に巨額の賠償を求める訴訟を起こした。IOCは、同国政府のスポーツ界への干渉が五輪運動の妨げになることを理由に、昨年10月に資格停止処分を決めた。」
この報道だけでは何のことだか分からない。とりわけ、なぜ政府が国内オリンピック委員会を訴えているのか見当もつかない。しかし、「IOCが昨年10月にクウェートの五輪参加資格停止処分を決めた」ことだけは、間違いなさそうだ。
本日(1月24日)の「朝鮮日報日本語版」寄稿記事が、その理由に触れている。そして、インドも危ない。韓国も気をつけねばならないと警告を発している。各国政府のオリンピック憲章違反への警告である。これを読むと、日本だって大いに危ういのではないだろうか。
その寄稿のタイトルは、「韓国もリオ五輪から追放されかねない」というもの。寄稿者は「イ・ダルスン」なる人物。「ハロースポーツ発行人(元KOC常任委員)」の肩書が付されている。知らない人だが、「朝鮮日報」掲載記事なのだから信頼に足りるのだろう。
これによると、IOCの対クウェート処分は、「国際サッカー連盟(FIFA)が昨年10月『クウェートが法律改正を通じ、政府がスポーツ行政に介入できるようにした』として、資格停止処分を下した」ことがきっかけだという。
なお、「クウェートは2010年にも、政府が自国の五輪委員会委員長などを直接選任したことが問題になり、国際オリンピック委員会(IOC)から懲戒処分を受けている」という。
要するに、政府のオリンピックへの介入が、今回の出場停止の理由なのだ。政府が各国オリンピック委員会(NOC)委員長を直接選任するなどは、不当な介入の典型行為というわけだ。クウェートが今年のリオデジャネイロ五輪に出場できないだけでなく、「さらにインドもクウェートの二の舞になる可能性が出てきている」という。
「このようにIOCは、サッカー・ワールドカップ(W杯)やアジア大会に至るまで、オリンピック憲章やIOCの指針に反するスポーツ行政に対し、強大な権威をもって容赦ない懲戒処分を下している。」
オリンピック憲章は「政府は支援はしても、干渉はしない」としており、国際スポーツの潮流は「スポーツ団体の主体は、非政府の純粋な民間による自主・自立団体でなければならない」というもの。そのように、寄稿は力説している。
ところが、韓国で新たに制定された「統合体育会定款」なる規定が、文化体育観光部(日本の文科省に当たるもの)長官が承認する項目が24もあることを問題視している。これは憲章違反になりかねないという。「韓国にも今年のリオ五輪に出場できなくなる危機が迫ってこないという保障がないわけではない。この事態の深刻さを、政府やスポーツ指導者たちは見過ごしている」と警告されている。
私は、IOCにこんなに厳格に憲章を守ろうという姿勢があろうとは思ってもみなかった。「国際サッカー連盟(FIFA)の幹部連中はカネまみれだった。IOCだって同じ穴のムジナだろう」というのが私の認識。IOCは多面的な顔を持っているということなのだろう。
国民は選手団のメダルの色と数には関心をもつが、五輪の理念にも憲章にも、組織原則には関心を持たない。報道もなく、ほとんど無知である。今回の競技場建設とエンブレム問題で、巨額のカネが動くことに唖然としているだけの状態ではないか。
寄稿者は、こう言っている。
「韓国の統合体育会の定款は、あたかも体育会が政府傘下の公営企業のような錯覚を覚える。統合体育会の結成を推進した政府や国会、スポーツ指導者たちは、国際スポーツの潮流を全く知らないでいる。推進委員たちはできるだけ早く、このような事実からまず確認し、国際スポーツ界からつまはじきにされることのないよう、対策を急がなければならない。」
日本とて、事情はまったく同様ではないか。官民一体というよりは、政府が主導する東京五輪には、落とし穴が待ち受けてはいないか。
オリンピックは、既にぎらつく商業主義に汚れている。それだけでなく、国威発揚の舞台となり、ナショナリズム高揚の機会とされている。どこにでも国旗が掲げられ、幾たびも国歌を聞かされることになるだろう。しかし、実は政府介入は五輪憲章違反ということなのだ。
オリンピック憲章が「政府は支援はしても、干渉はしない」としていることは、政府と教育の関係によく似ている。政府(自治体)は、教育条件整備の義務を負うが、教育の内容に介入してはならない。権力とは、そのような自制を求められるのだ。
アベ晋三の「福島原発の汚染水は、完全にブロックされ、コントロールされている」という大ウソから始まった東京オリンピック。攻めて静かにやってくれ。うっとうしく押しつけがましいことはやめていただきたい。国威の発揚やナショナリズム涵養への利用は御免こうむる。それが遵守できないなら、むしろ日本の出場停止処分を期待したい。
(2016年1月24日)
「週刊新潮」2014年4月3日号が、「8億円裏金疑惑」を暴露するDHC吉田嘉明の手記を載せた。そして今回「週刊文春」16年1月28日号が、「甘利大臣1200万円賄賂疑惑」の記事である。
私は、「8億円裏金疑惑」事件の、吉田嘉明と渡辺喜美の関係を「大旦那と幇間 その蜜月と破綻」と喩えた。いまにして、まことに適切な比喩だったと思う。政治資金としての8億円は巨額である。そのカネを、小なりとはいえ政党の党首に渡して政治を動かそうとしたスポンサーの側と、頭を下げてこのカネを所望した政治家の関係は、「大旦那と太鼓持ち」でピタリだろう。幇間は所詮幇間、旦那の機嫌を損じてしくじったのだ。蜜月は破綻し、旦那が裏金を暴露して一騒動となった。
さて、この度の政治家甘利と千葉のS社との関係はどうだろう。立場の強さは、甘利の方がはるかに上だ。Sの側が頭を下げ菓子折をもって、甘利に口利きをお願いしている。とうてい、大旦那と太鼓持ちの関係ではない。
定めし、甘利は悪代官の役どころ。そして、とらやの羊羹に添えて50万円を持参したSは、エチゴヤの役回りだろうか。強勢な政商としての越後屋ではなく、政治家に小金を渡して、その上手な利用をたくらむ、小ずるい小悪党としてのエチゴヤ。大悪党対小悪党の、持ちつ持たれつの図である。
週刊文春の記事を読んで、保守の政治家とは、このような小ずるい小悪党との付き合いを常態としているのであろうとの印象をもたざるを得ない。そして、政治家のポケットに収まる現金の額は、50万円が相場なのだろう。もらい慣れているカネの収受であればこそ、「印象にない」「記憶を整理してみる必要がある」と言うことではないか。こぞって、甘利をかばおうとしている面々の対応を見て、ますますそうした印象を強くしている。
「DHC・渡辺事件」も、「甘利・S社」事件も、問題は光の届かない陰の世界でカネが動くということである。政治や行政が、見えない裏のカネで動かされてはならない。裏のカネで動かされているという疑惑で、政治や行政の公正の信頼を傷つけてはならない。
DHC吉田嘉明から渡辺喜美に渡った8億円の授受の趣旨は、明らかに政治資金としてのものであったにかかわらず、政治資金収支報告書への記載がない。にもかかわらず、その不記載が処罰されないのは「政治献金」ではなく「政治貸金」だったからということ。献金ではなく貸借なら、巨額のカネが動いても、これを裏のカネとしておいてお咎めなしなのだ。これこそ、政治資金規正法をザル法とする不備の最たるものではないか。
しかし、「甘利・S社」事件では、授受あったカネはすべて報告書に記載しなければならない。文春記事には、政治資金規正法違反を意識した次の一文がある。
「政治資金収支報告書によれば、S社名義で自民党神奈川県第十三選挙区支部には八月二十日付で百万円、神奈川県大和市第二支部には、九月六日付で百万円の政治献金がなされている。一色氏が(8月20日に)渡した五百万円のうち、少なくとも三百万円は闇に消えたのだ。」
また、本日の赤旗一面トップの「深まる甘利大臣疑惑 裏付け事実が次々・本人説明せず 首相の任命責任は重大」の記事には、「週刊文春」記事を丹念に読み込んで作られた一覧表が掲載され、記事にあらわれた具体的な金銭の授受と収支報告書の照合をしている。
文春記事のタイトルが「賄賂1200万円を渡した」となっており、S者側の発言として「口利きの見返りとして甘利大臣や秘書に渡した金や接待で、確実な証拠が残っているものだけでも1200万円に上ります」とされている。しかし、公表されている政治資金収支報告書と照合の対象となる、記事中の現金の授受として特定されている主なものは、次の4回である。
13年8月20日 公設秘書に 500万円
11月14日 甘利本人に 50万円
14年 2月1日 甘利本人に 50万円
11月20日 公設秘書に 100万円
以上の合計700万のうち収支報告書に記載されたのは、37回で合計394万円に過ぎない。トータルとしてみても300万円余が不記載なのだ。
自民党議員の中には、「こんなことは日常茶飯事。騒ぐほどのこともなかろう」という思いが強いのだろう。おそらくは、この程度の収入の不記載はありふれたこと。政治家の口利きと口利き料の収受もありふれた雑事でしかないと思われる。しかし、口利き料を支払った側が、これだけ肚をくくって証拠を集め、政治家に対する「覚悟の告発」におよぶという事例はきわめて珍しい。その意、その覚悟は壮とするに値する。一寸の虫にも五分の魂ではないか。せっかくの覚悟を実られたいものと思う。そのことが、政治とカネの浄化につながるでもあろうから。
(2016年1月23日)
アベ晋三です。衆参両院本会議で、両院の議員の皆さまに、ややホンネの施政方針を申しあげたいと存じます。
(軍事大国へ挑戦する国会)
改憲か、護憲か。
戦後70年間、日本は、その基本方針すら決められませんでした。終わらない議論、曖昧な結論、そして責任の回避。憲法にこだわって衰退していく国家を見つつ、ワタシは、こう嘆いています。
「一言以て 国を亡ぼすべきもの ありや、
『憲法は不磨の大典、それゆえこれを拳拳服膺すべし』と云う一言、これなり
戦後の国家が衰亡の一途をたどったるは この一言にあり」
国民から富国と強兵の負託を受けた私たち国会議員は、「憲法を変えてはならない」「憲法を守ろう」「憲法99条の憲法順守義務を大切にしよう」などという退嬰的な態度ではいけません。自分たちの手で、強い日本、繁栄する日本、そして一億国民が一体の火の玉となる強固な国民統合をなし遂げるためには、「どうにでもして憲法を破る」努力をしなければならないのです。既に、ワタシが手本を示したとおりにです。
憲法にそぐわない現実を直視し、憲法を現実に服せしむべく解決策を示し、そして実行する。憲法の解釈を変え、さらには憲法自体を変えていく、そのような大きな責任があるのです。「憲法守って国亡ぶ」ような愚かな事態は、絶対に避けなければなりません。
自由の美名による人権の濫用を押さえ、個人尊重に隠れた国家の軽視に警鐘を鳴らし、中国や北朝鮮の脅威に備える武力の整備を万全にし、韓国や台湾にも侮られてはならないのです。
厳しさを増す安全保障環境については、どんなに強調しても足りないと言わざるを得ません。自由も人権も、民主主義も平和も、強固な国家が存続していればこそではありませんか。精強な軍事力、精強な軍隊、精強な武器、そして軍隊や軍人に対する国民の尊敬や協力、さらには可能な限りの軍事予算が、この国を護り国民の安全と安心を守るのです。
報道も、教育も、学問も、産業も、文化も、スポーツも、すべては国家あってのその一分枝に過ぎないことを、国民は以て銘すべきなのです。
いま、この国会に求められていることは、こうした新たな政権の方針を真正面に掲げて「挑戦」することであり、その答えを出すことであります。
口先の批判だけに明け暮れ、対案を示さず、何かと言えば、「日本国憲法にはこう書いてある」「政府は憲法軽視だ」「危険な反立憲主義」などと政権に反対ばかりする、そういう態度は、国家と国民に対して誠に無責任といわねばなりません。
私たち自由民主党と公明党の連立与党は、断固として改憲を掲げて、決してぶれることはありません。「憲法軽視」「反知性主義」という悪罵に怯みません。逃げません。安定した政治基盤の下、そして、この三年間の大きな違憲の政策を積み上げた実績の上に、改憲がいかに困難な課題であるとしても果敢に「挑戦」してまいります。
(新しい成長軌道への挑戦)
いままさに、アベノミクスの化けの皮が剥がれようとしています。世界経済の不透明感が増し、いくら政府資金の投入をしても、金融市場の操作が困難になってきています。その煽りで株価連動内閣が危うくなっているのです。
安倍政権は、これまで3本の矢を的に当てると喧伝して、国民の支持率を確保して参りしたが、結局は格差と貧困をつくり出す結果に終わっています。しかし、こんなときほど、慌ててはなりません。泰然自若を装って知恵を出さねばなりません。「3本の矢」が折れたら、「新3本の矢」を作ればよいのです。これも的を外れたら、「新々3本の矢」さらには、「新々々30本の矢」でもよいではありませんか。要するに、目先を変えて、国民の皆さまの目眩ましが続くところまで頑張ればよいのです。どうせ皆さん、「餅を食ったら去年のことは忘れる」人たちではありませんか。
こうして、イノベーションによって新しい付加価値を生み出し、持続的な成長を確保する。「より安く」ではなく、「より良い」に挑戦する、イノベーション型の経済成長へと転換する、二十一世紀にふさわしい経済ルールを世界へと広げる、などと、私自身もよく分からない無内容なことを「大いなる挑戦」と言っておけばよいのです。
経済になんの関係もありませんが、唐突に「伊勢神宮、美しい入江。日本の長い伝統や文化、豊かな自然を感じられる」と前振りして、伊勢志摩の地で開く五月のサミットを「基本的価値を共有する主要国のリーダーたちと、世界経済の未来を論じ、新しい「挑戦」を始める。そのようなサミットにする決意であります」。多分こんな程度で、国民は十分気分をよくするのだと思います。
(TPPは大きなチャンス)
「TPPによって農業を続けることができなくなるのではないか」。多くの農家の皆さんが不安を抱いておられます。これはもっともなことです。建前としては、「米や麦、砂糖・でん粉、牛肉・豚肉、そして乳製品。日本の農業を長らく支えてきた重要品目については、関税撤廃の例外を確保いたしました。2年半にわたる粘り強い交渉によって、国益にかなう最善の結果を得ることができました。」と言っておきましょう。もちろん、誰も信じてはくれません。私自身も、信じてはいません。
「生産者の皆さんが安心して再生産に取り組むことができるよう、農業の体質強化と経営安定化のための万全の対策を講じます」とは一応申し上げますが、これは農家の皆さまの自助努力なしにできることではありません。「美しい田園風景、伝統ある故郷、助け合いの農村文化。日本が誇るこうした国柄をしっかりと守っていく」これは、ひとえに皆様のの努力にかかっています。努力が実らない場合はやむを得ません。今の農家の皆さまには総退場していただくしかありません。
農業に参入して、生産性の高い農業経営をしたいという、新規参入希望者は国の内外にたくさんいるのです。結局その方々に、農業をお任せいただくのが、国家全体の利益になるものと考えざるをえません。実は、TPPはこのような新規参入希望者へのチャンスなのです。この辺のところをよくお考えください。
TPP交渉は担当の甘利大臣が、よくやってくれました。週刊誌では、政治力を利用しての口利きで1200万円をもらったことが、何か悪いことをしたように書かれています。しかし、彼ほどの政治家が1200万円程度のはした金をもらったことで騒ぐ方がおかしいのです。山東昭子議員がいみじくも言ったとおり、「ゲスの極み」のしわざで、有能な政治家を失脚させてはなりません。
(希望の同盟)
我が国の外交の基軸は、日米同盟にあります。
目下の同盟国である我が国は、強大な米国の核の傘を借りる身として分を弁え、その意に従わざるを得ないのです。アメリカ様が、普天間基地を返してくださるというのですから、ありがたく返していただけばよろしいのです。代わりに、辺野古に新基地を作れと言われれば、その指示に従わざるを得ないのです。思いやり予算にしても同じこと。オスプレイの配備も、オスプレイの購入も、アメリカ様の言いなりにならざるを得ないのです。
それをこともあろうに、「沖縄の民意は基地のたらい回しを許さない」などと、身の程知らずの沖縄現地は、親の心子知らず、と言うほかはありません。どんな手を使ってでも、徹底して押さえつける覚悟を申し述べておきます。
(積極的平和主義)
自衛隊は、積極的平和主義の旗の下、国際平和に力を尽くすという名目で、これから世界に展開いたします。これを可能にした戦争法は、「平和安全法制」と呼ぶべきなのです。軍事力を世界に展開するということは、当然に敵である武力を向ける相手が、世界に存在するからであります。我が国と利害を共通にする同盟国からは歓迎されますが、それ以外の多くの国からは疎ましいと思われることでしょう。
でも、軍隊は平和のためにあるのです。戦争は平和のためにするのです。軍隊を大きくすればするほど、世界に展開する武力の規模が大きくなればなるほど、それは平和を意味するのです。日本の不景気も、軍需産業の復興で息を吹き返すことができるでしょう。
先般、北朝鮮が核実験を強行したことは、アベ政権の僥倖です。よくぞやってくれた。これで、改憲の世論も大きくなり、内閣の支持率も上がることが確実です。天敵同士が実は共存関係にあることはよく知られたこと。アベ政権としては、瀬戸際政策をとり続ける北朝鮮の現政権がいつまでも存続することを願わざるを得ません。同様の意味合いで、テロも大歓迎なのです。
(おわりに)
継続こそ力。改憲策動も三年間を経過し、今後もぶれることなく、この道をまっすぐに進んで行きます。明文改憲のための、両院の3分2、国民の過半数という、困難な課題にも真正面から「挑戦」し、結果を出してまいります。
戦後初めて、内閣法制局長官のクビをすげ替えてまでして閣議で解釈改憲をし、戦争法を強行成立させたワタシは、これからは明文改憲の「挑戦」に、その一身を捧げます。いかなる困難に直面しても、決して諦めず、不退転の強い信念で、明文改憲への「執念」と「挑戦」を続けます。
「為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必らず成らん」
アベ内閣は、諦めません。明文改憲による「戦後レジームからの脱却」の目標に向かって、諦めずに進んでいきます。
皆さん、共に改憲に「挑戦」しようではありませんか。そして、改憲の「結果」を出していこうではありませんか。それが、私たち国会議員に課せられた使命であります。
御清聴ありがとうございました。
(2016年1月22日)
普段は絶対に読まない「週刊文春」を今日だけは買って読んだ。
もちろん、このタイトルに惹かれてのことだ。「甘利明大臣(事務所)に賄賂1200万円を渡した(実名告発)」「口利きの見返りに大臣室で現金授受。現場写真・音声 公開!」。なるほど、確かに「衝撃告発」であり、「政界激震スクープ」だ。
何より驚いたのは、グラビアの「現金授受現場写真」。昨年(2015年)10月19日、大和市内の喫茶店で、「甘利事務所所長が現金に思わずニンマリ」の写真が表情豊かに大きく紙面を飾っている。ニンマリの主は、甘利大臣の清島健一(公設)秘書だという。そして、「私はこのお金を甘利大臣に渡しました」という、「私」と甘利大臣のツーショット写真。その際、大臣に手渡されたという「このお金」50万円の「ピン札」写真が添えられている。後々のためとして、ナンバーが分かるようにコピーされたものだ。文春編集部としては、周到な取材で、満を持して記事にしたことがよく分かる。
役者がすばらしい。被告発者は「経済再生兼TPP担当大臣」である。第一次安倍内閣以来の首相の僚友。閣内でも別格の重みをもつ人物。安倍政権への政治的衝撃は大きい。そのタイミングがすばらしい。TPP大筋合意ができたとされて調印式が目前のこの時期。辞めるに辞められない。さりとて辞めずに居座れば政権を破壊しかねない。さらに、告発者がすばらしい。これだけの用意周到な証拠の集積を以て、肚を決めての「実名告発」。
山東昭子が、この件に関連して「政治家自身も身をたださなければならないが、(週刊文春に)告発した事業者のあり方も『ゲスの極み』。まさに『両成敗』という感じでたださなければならない」と述べた、と報じられている。発言者である山東本人のゲスの本性を露呈しているだけではなく、自民党としての周章狼狽振りをよく表しているものではないか。
この「政界激震スクープ」記事。事実関係の叙述はきわめて詳細で具体的、リアリティに富んでいる。また、裏付けの取材も怠りない。何よりも、甘利自身が否定し切れていない。常識的に、この告発は本物といえよう。
甘利が事実を否定できないのは、告発者が周到に集積し保管してきたという「証拠」の内容をはかりかねているからであろう。軽々に事実を否認した場合に、証拠を突きつけられて、さらに深く傷がつくことを考慮せざるを得ないのだ。
結局、本日の段階でなし得ることとしては時間稼ぎが精一杯。「今後調査をした上で国民の皆さんに疑惑を持たれることないように説明責任を果たしていく」と答えたそうだ。「今後調査」とは、いったい誰について何を調査しようというのだろう。
まずは、甘利大臣自身の疑惑が具体的に問われている。たとえば、2013年11月14日のこと。「うちの社長が、桐の箱に入ったとらやの羊羹と一緒に紙袋の中に、封筒に入れた現金五十万円を添えて、『これはお礼です』と言って甘利大臣に手渡しました。紙袋を受け取ると、清島所長が大臣に何か耳打ちしていました。すると、甘利氏は『あぁ』と言って五十万円の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットにしまったのです。」とされているのだ。自分の調査は簡単だろう。
次は、ふたりの秘書の調査。一晩かかるほどのことはなかろう。「すべては秘書の所為」として逃げ切る算段をどうつけるかの相談とて、さほどの時間を要するはずはない。むしろ、潔く事実を認めたうえで、「自首」をお勧めする。今の段階なら「自首」成立の公算が高い。時を失して、捜査機関が疑惑の心証を固めると自首は成立しなくなる。
犯罪成立の疑惑は、政治資金規正法違反とあっせん利得処罰法違反である。甘利やその秘書の行為は刑法上の収賄行為に当たるとするにはハードルが高いが、政治家と秘書の「口利き行為」は、あっせん利得処罰法上の犯罪となり得る。同法は、第1条で政治家(国会議員)の、第2条で政治家秘書の、あっせん行為に関して財産上の利益を収受することを犯罪としている。
同法第1条(公職者あっせん利得)の構成要件は以下のとおりである。
(犯罪主体) 衆議院議員、参議院議員又は地方公共団体の議会の議員若しくは長(以下「公職にある者」という。)が、
(犯罪行為) 国若しくは地方公共団体が締結する売買、貸借、請負その他の契約又は特定の者に対する行政庁の処分に関し、
請託を受けて、
その権限に基づく影響力を行使して公務員にその職務上の行為をさせるように、又はさせないようにあっせんをすること又はしたことにつき、
その報酬として財産上の利益を収受したときは、
(刑罰)三年以下の懲役に処する。
また、同条2項は、「公職にある者が、国又は地方公共団体が資本金の二分の一以上を出資している法人が締結する売買、貸借、請負その他の契約に関し、請託を受けて、その権限に基づく影響力を行使して当該法人の役員又は職員にその職務上の行為をさせるように、又はさせないようにあっせんをすること又はしたことにつき、その報酬として財産上の利益を収受したときも、前項と同様とする。」と定めている。
要件の該当性は、よく吟味しなければならないが、疑惑としては十分であり、政治的道義にもとる汚い行為であることは争いようもない。もし、口利きの報酬として金を交付させ、実際には何もしていなかったとしたら、場合によっては詐欺の疑惑にまで発展しかねない。
山東昭子のゲスの極み発言に関連して思う。独禁法には、法違反の制裁に関してリニエンシーという制度がある。談合、カルテルなどの不正に関わった企業であっても、公正取引委員会の調査開始前(場合によっては後にでも)に不正を自己申告すれば、課徴金の減免あるいは刑事告発の免除がなされるというもの。もちろん、闇に隠れた談合行為の摘発を直接の目的とし、ひいては談合をしにくくするという目的による。
贈収賄についても、このような制度が考えられないだろうか。贈賄者と収賄者とは対抗犯の関係に立ち、一蓮托生の運命共同体となる。お互いに沈黙しかばい合うことの利益を共通にする。しかし、当事者どちらかの覚悟を決めた事実暴露による立件は、政治の浄化、公務に対する国民の信頼を高めることになる。今回の「告発」も、政界に深く沈殿している澱の浄化に寄与するものとして、告発者側の処罰には慎重でよいのではないか。十分に情状を酌量してしかるべきだと思う。
ところで、週刊文春の記事の中に、甘利が告発者側に送ったという色紙の写真が掲載されている。「『得意淡然 失意泰然』経済再生大臣甘利明」というもの。今回ばかりは、失意にして茫然となってもらわねばならない。でなければ、いつまでも、政治とカネにまつわる不祥事を払拭することはできない。
(2016年1月21日)
私が当ブログでDHCの吉田嘉明を批判したポイントは、次の4点にある。なお、この4点は、当ブログの記載が吉田とDHCの名誉を毀損したという表現のポイントでもある。
(1)「政治とカネの問題」ー吉田が資金規正法を僣脱する巨額の「裏金」を政治家に提供して「カネの力で政治を買おうとした」こと。
(2)「規制緩和問題」ー経営者の立場でありながら自らの事業に対する主務官庁の規制を「煩わしい」と広言し、行政規制からの経営の自由を求めて政治に介入したこと。
(3)「消費者問題」ー口に入れるサプリメントと肌に塗る化粧品を製造販売する事業者が、行政規制を煩わしいとする行動原理を持っていれば、消費者被害を起こさざるを得ない。
(4)「スラップ訴訟の提起」ー自分への批判を嫌忌して、批判の言論を封殺するための高額損害賠償請求訴訟の提起は民事訴訟存在の趣旨を逸脱するものとして許せない。
以上の(1)は民主主義政治過程の根幹をなす問題、(2)は政治や行政とは何かという本質を問う問題、(3)は国民の生存権の基盤に関わる問題だが、この3テーマは一連の問題となっている。吉田は、行政規制を嫌って規制緩和を求め、その手段として「カネで政治を買おうとした」。そのことによる被害者は、行政規制で健康被害から守られている消費者である。そして、(4)が独立した、司法の役割を問う問題として、いずれも重要な問題提起なのだ。
「週刊新潮」2014年4月3日号に掲載された吉田嘉明の「独占手記」では、DHCが「サプリは業界1位の売り上げを誇る」という編集者のコメントに続く部分で、吉田自身がこう言っている。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます。天下りを一人も受け入れていない弊社のような会社には特別厳しいのかと勘ぐったりするくらいです。いずれにせよ、50年近くリアルな経営に従事してきた私から見れば、厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。つまり、霞ヶ関、官僚機構の打破こそが、今の日本に求められる改革であり、それを託せる人こそが、私の求める政治家でした」
「サプリは業界1位の売り上げを誇る」経営者が、自らの事業に対する主務官庁の規制を「煩わしい」と広言しているのである。これは、驚くべきことというよりは、恐るべきことと言わねばならない。彼の行動原理の原点、彼の政治への介入の目的は、主務官庁の「煩わしい規制」の緩和を求めてのこととの独白なのだから。
事業者が、主務官庁からの規制を「煩わしい」として、この規制から逃れようとすれば、何が起こるか。昨日(1月19日)の二つの社説が、説得的に解説している。
まずは、「廃棄カツ横流し 信頼の土台が揺らぐ」とする東京新聞社説。
「“ごみ”が“食べ物”に逆戻り?。こんな手品が、なぜまかり通るのか。安いのはうれしい、でもいつも正しいとは限らない。私たちは、大切な日々の命の糧を、正しく選んでいるのだろうか。
『消費者をばかにするにもほどがある』。街角のこの一言が、すべてを語っているようだ。食品の偽装は後を絶たない。高級料亭(廃業)が、客の食べ残しを調理し直して別の客に供していたことがある。有名和菓子店が、余った商品を冷解凍し、“まき直し”と称する新たな包装を施し、製造年月日を偽って売っていたのにも驚いた。
しかし今度は、よりによってごみである。異物が混入し、捨てざるを得ない大量の残さ、つまり危険なごみが、ごみ処理業者を通じて「食品」として横流しされていた。“ごみ”を買わされ、食べさせられた買い手の怒りは、察するにあまりある。
「CoCo壱番屋」の冷凍カツ以外にも、本来廃棄されるべき多くの食材が「商品」として流されていた形跡があるという。食品流通の安全や食の信頼そのものの土台が揺らぐ事件である。」
「消費者としては、表示を信用するしかない。だが、“激安”には“激安”になるわけがあるというのも、もう一つの教訓だ。不正に振り回されることがないように、食べ物という特別な商品の選択の仕方を少し考えたい。」
「食べ物という特別な商品」には、生産・流通・消費の過程を市場原理に任せておけばよいとはならない。食の安全と、安全な食の安定供給は、政治と行政の責任であり、多くの取締法規が消費者の健康を守っている。決して、「厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっている」とは言えず、「霞ヶ関、官僚機構の打破による規制緩和こそが、今の日本に求められる改革」とは事業者のホンネではあろうが、消費者の立場とは相容れない。
「冷凍カツ」についても「サプリメント」についても、消費者は口に入れるモノとしてのその安全を知ることができない。消費者は、安全の保障を行政規制に求め、事業者が誠実に行政規制を尊重することを期待しているのだ。ところが、このような規制を「煩わしい」と言ってのける事業者は、徹底して糾弾しなければならない。
もう一つは、朝日の社説「夜行バス事故 生かされなかった教訓」というもの。
「ここまで法令違反が積み重なっていたことにあぜんとする。15人が亡くなった長野県での夜行バス事故である。バス会社の運行管理のずさんさが次々と明らかになってきた。過去の事故の教訓はなぜ生かされなかったのか。人命第一という当然の大原則を、業界全体が肝に銘じるべきだ。」
「運転手の体調を出発前に確認しない▽にもかかわらず、書類に体調管理の済み印を押した▽運転手に健康診断を受けさせない▽休憩のタイミングなどを運行指示書に記さない――。こんな違反がなかば常態化していた。命を預かっているという自覚が欠けているというほかない。国交省や警察は、厳しく対応すべきだ。」
「4年前に起きた関越道での夜行バスによる46人死傷事故を機に、国交省はバス会社が満たすべき安全基準を厳しくした。同時に、安値を求める消費者心理に一定のブレーキをかけるために運賃の下限額も定めた。安全のためには相応のカネがかかるという前提だった。しかし今回の事故は、この仕組みが「ザル化」している実態を浮き彫りにした。」
「規制緩和で、貸し切りバス事業者はこの十数年で1・5倍の約4500社に増えた。運賃が下限割れしていても、バスを遊ばせているよりはましといった感覚もあるという。そうした問題を防ぐはずの国交省の監査は、手が回りきっていない。予算や人員規模に限界があるとしても、チェック機能がゆるい問題は明らかだ。」
「ずさんなバス運行を野放しにしない。官民、ユーザーをあげた真剣な方策が必要である。」
この社説には、「行政規制の徹底が乗員の安全を守っていること」「規制緩和が、行政のチェック機能を低下させて、消費者の生命の危険をももたらしていること」の問題意識が露わになっている。
もう一度、吉田の手記の一文を思い起こそう。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます。」「厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。」「霞ヶ関、官僚機構の打破こそが、今の日本に求められる改革であり、それを託せる人こそが、私の求める政治家でした」
こういう事業者の見解は、消費者の側からは「恐るべき独白」として批判されて当然なのだ。批判を封じようとしてのスラップ訴訟などは、逆ギレも甚だしいというほかはない。
(2016年1月20日)
1月28日の「DHCスラップ訴訟」控訴審判決が近づきました。私自身が被告とされ、いまは被控訴人となっている名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決です。
この日、東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)が、判決を言い渡します。
時刻は、午後3時。
法廷は、東京高裁822号法廷(庁舎8階)。
司法記者クラブで、5時からの記者会見が予定されています。
関心のある方は、ぜひ傍聴にお越しください。
ただし、これまで毎回欠かさず行ってきた報告集会は省略いたします。これに代えて、近くの待合室で簡単なご報告を申しあげ、希望者には直ちに判決書きを送付いたしますので、メールアドレスかファクス番号を登録してください。
報告集会を行わないことの原因は判決日の指定が早過ぎたことにあります。裁判所は、判決期日の指定に当事者の都合を聞きません。出廷の必要がないとされているからです。こんなに急な日程では、場所の確保ができません。しかも、当日は在京の三会とも弁護士会の役員選挙期間中とあって、会議室は全部選挙事務のために塞がっています。日比谷公園内の日比谷文化図書館の会議室もとっくに満室。それに、こんなに近い期日指定ですと、弁護団に所属する弁護士の日程確保もなかなかにままなりません。私も、3時半から別の裁判の予定がはいっています。ご了解ください。
なお、少し日をおいて、十分な準備のもとに、スラップ訴訟撲滅を目指すシンポジウムを開きたいと思います。ご期待ください。
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株式会社DHCと吉田嘉明(DHC会長)の両名が、当ブログでの私の吉田嘉明批判の記事を気に入らぬとして、私を被告として6000万円の損害賠償請求の裁判を起こした。正確に言えば、当初の提訴における請求額は2000万円だった。怒った私が、これを許されざる「スラップ訴訟」として、提訴自体を違法・不当と弾劾を開始した。要するに、「黙れ」と言われた私が「黙るものか」と反撃したのだ。そしたら、2000万円の請求額が、3倍の6000万円に増額された。「『黙るものか』とは怪しからん」というわけだ。なんという無茶苦茶な輩。なんという無茶苦茶な提訴。
スラップの訳語は定着していないが、「恫喝訴訟」「いやがらせ裁判」「萎縮効果期待提訴」「トンデモ裁判」「無理筋裁判」…。裁判には印紙代も弁護士費用もかかる。普通は、この費用負担が濫訴の歯止めとなるのだが、金に糸目をつけないという連中には、濫訴の歯止めがきかない。スラップ防止には、何らかの制裁措置にもとづく、別の歯止めが必要だ。たとえば、高額の相手方弁護士費用の負担をさせるとか、スラップ常連弁護士の懲戒などを考えなければならない。この判決が確定したあとに、私はこの件について具体的な問題提起をしていこうと思う。
昨年(2015年)9月2日に東京地裁民事第24部(阪本勝裁判長)で、一審判決が言い渡された。当然ののことながら、私の全面勝訴。全面敗訴となったDHC・吉田は、これを不服として控訴し、その控訴審判決の言い渡し日が1月28日なのだ。
一審判決後の経過は以下のとおりである。
2015年 9月 2日 一審判決言渡し(原告全面敗訴)
9月15日 控訴状提出
11月 2日 控訴理由書提出
11月11日 被控訴人に理由書送達
12月17日 控訴答弁書提出
12月24日 控訴審第1回口頭弁論・結審
2016年 1月28日 控訴審判決言い渡し(予定)
1回結審のうえ、年末年始をはさんで1か月後の判決言い渡し期日の指定。常識的には、一審判決の事実整理や判断をそのまま認めての控訴棄却判決が予想されるところ。自分が訴訟代理人として受任した事件であれば、依頼者に「この経過なら、再度の勝訴間違いなしです。ゆっくりと、よいお正月を」と説明するところだ。しかし、当事者の心情としては、現実に勝訴の判決を手に入れるまでは心穏やかではいられない。
なお、原判決は、DHC・吉田が不服とした私のブログの記述は、いずれも原告らの社会的評価を低下させるものとして名誉毀損に当たるとした。その上で、いずれの言論にも違法性はないことを明確に認めて全部の請求を棄却したのだ。
言論の自由とは、「誰の名誉も毀損しない当たり障りのない言論」についてのものではない。誰をも不愉快にしない言論の表現が自由なのは当たり前、こんなものは権利の名に値しない。DHC・吉田が名誉を毀損されて苦々しく思うことを前提としてなお、この両者を批判する言論の権利が私にあり、DHC・吉田は私の批判を甘受しなければならないのだ。原判決は、この理を明快に認めたのだ。
原判決は、「(澤藤の)本件各記述は,いずれも意見ないし論評の表明であり,公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」。だから、DHC・吉田の名誉を毀損しても違法性を欠く、として不法行為の成立を否定した。
おそらくは、控訴審判決も同じ判断になるだろう。
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ところで、控訴審以来、被控訴人(私)の弁護団に加入いただいた徳岡宏一朗さんが、ご自分のブログで、私の訴訟とブログとに、エールを送ってくれた。「万国のブロガー団結せよ」への呼応である。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/108c767ee6becadef779a59b8e2ac5f5
徳岡さんのブログは、ビジュアルなセンスに溢れている。多くの読者に読んでもらおうというサービス精神が、多くの読者層に支持されて、著名ブログに成長している。そのブログからの応援メッセージが、なんとも心強い限り。
ありがとう、徳岡さん。そして、一審以来一貫して支援していただいた弁護団の皆さま、多数の傍聴支援の皆さま。あらためて、感謝申し上げます。
(2016年1月19日)
宜野湾市長選が昨日(1月17日)告示。2016年の政治の帰趨を占う政治戦が始まった。選挙期間は僅かに一週間の短期決戦。「官邸勢力」と「オール沖縄」との対決。オール沖縄側に勢いがあるものの、決して楽な闘いではない。
いうまでもなく、争点は「普天間・辺野古」問題である。「官邸」を背景とする現職は「普天間返還の早期実現」というシンプルな訴え。これに対する「翁長県政」側の「市政奪還」を目指す側は、「新基地建設なき返還」「基地のたらい回しは許さない」というもの。はるかに次元の高い政治性と倫理性を訴えているのだ。
普天間基地の早期撤去は、宜野湾市民の共通の願いである。この「世界一危険な米軍基地」は、市民に騒音被害と治安の悪化と経済発展の阻害をもたらしている。しかも、最近持ち込まれた「ウィドウメーカー」の異名を持つオスプレイ群の一刻も早い撤退は誰もが望むところ。
しかし、「この危険と騒音と治安の悪化と、さらには自然破壊とを名護市に押しつけてよいのか」「さらに沖縄の危険を増すことになる辺野古新基地建設を許してよいのか」という問題に直面せざるを得ない。また、「政府に協力することで、本当に普天間の早期実現が可能となるのか」「オール沖縄の分断策に政府や米軍から付け込まれることになりはしないか」という問題もある。
昨日の志村恵一郎陣営の出陣式には、翁長知事を先頭に、城間幹子那覇市長や西原、北谷、読谷、中城、北中城の近隣5町村の首長らも勢ぞろいしたという。文字どおり、「オール沖縄・翁長県政」対「政府・与党代理勢力」の対決構図。それ故の全国的な注目政治戦となっている。
ところで、現職市長の佐喜真淳なる人物については、よく知らない。
この人の人物像については、1月14日付「日刊ゲンダイ」が、「園児が教育勅語を唱和…宜野湾市長が出席した大会の異様」という記事を書いて話題となっている。短い記事なので、全文を引用する。
「今月24日に投開票される沖縄県宜野湾市長選。現職で与党推薦の佐喜真淳氏(51)の再選を阻めば辺野古移設の歯止めになることから、全国的な注目度も高い。もっとも、それ以前にこんな人物を再選したら、宜野湾市民は常識を疑われることになりそうだ。
2年前に宜野湾市民会館で開催された『沖縄県祖国復帰42周年記念大会』の動画がネット上で流れており、これに佐喜真市長も出席しているのだが、『まるで北朝鮮みたい』と突っ込まれるほどヒドイ内容なのだ。
オープニングでは地元保育園の園児が日の丸のワッペンをつけた体操着姿で登場。猿回しの猿というか、北のマスゲームように『逆立ち歩き』『跳び箱』をさせられ、それが終わると、全員で〈立派な日本人となるように、心から念願するものであります!〉と『教育勅語』を一斉唱和させられるのだ。
それが終わると日本最大の右翼組織「日本会議」の中地昌平・沖縄県本部会長が開会宣言し、宮崎政久衆院議員といった面々が『日本人の誇り』について熱弁を奮う。この異様な大会の“トリ”を務めたのが佐喜真市長であり、やはり『日本人としての誇りを多くの人に伝えていきたい』と締めくくった。
佐喜真市長が日本会議のメンバーかどうかは知らないが、善悪の判断がつかない園児に教育勅語を暗唱させ、一斉唱和させるなんて戦前そのものではないか。」
「日本会議」のホームページで、「体操演技と教育勅語奉唱(わかめ保育園の園児26名)」と紹介された子どもたちの、「口語版・教育勅語」奉読の場面を見ることができる。この動画を見て戦慄せざるを得ない。「わかめ保育園の園児」たちが、回らぬ舌で、「朕」を「ワタシ」と読み替え、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ天壌無窮の皇運を扶翼すべし」を、「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」と、口を揃えて言わされている様子が傷ましい。これは、「戦時や緊急事態における国民の心得」ではないか。こんなことを、沖縄戦の悲惨な記憶生々しい沖縄でまわりの大人たちがやらせている。その大人の中に、現地の現職市長が参加しているのだ。確かに、戦前の日本や北朝鮮の教育を思い起こさせる、恐るべき図である。
https://www.nipponkaigi.org/activity/archives/6683
日刊ゲンダイが、「ヒドイ内容」で、「こんな人物を再選したら、宜野湾市民は常識を疑われることになりそうだ」というとおり。いやはや、こんな人物を市長にしてはならない。宜野湾市であろうとなかろうと、である。
口語版・教育勅語はいくつかある。わかめ保育園の元ネタは「国民道徳協会訳」のバージョン。明治神宮のホームページなどで読むことができる。意訳に過ぎ、天皇への忠誠心強調が薄れているようにも思われる。しかし、口語訳になると、教育勅語は俄然生々しい。とりわけ、幼児の口から発せられると、背筋が寒くなる。これが、かつて一億総洗脳教育の教材とされたものだ。参考のために、26人の園児が暗記した全文を掲載しておきたい。
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(2016年1月18日)
本日の赤旗・社会面の以下の記事に目が留まった。
「共産党2氏質問 一転掲載」「特別委の委員長謝罪」「『政権批判』と拒否 市民が批判 北海道 釧路議会広報」の見出し。
記事の内容は以下のとおり。
「北海道釧路市議会は15日、会派代表者会議と議会広報特別委員会を相次いで開き、日本共産党の松永俊雄、梅津則行両氏の質問を『不適切だ』などとして議会広報に掲載しないとしてきた態度を改め、掲載することを決定し、金安潤子広報特別委員長は2人の議員に公式に謝罪しました。
掲載が決まった両氏の質問は、昨年12月議会で行われたもので、松永氏は、蝦名大也市長の政治資金の報告漏れを指摘。梅津氏は、政権批判を口実にした道教委による組合活動への不当な介入問題について、市教委の見解をただしていました。
広報特別委員会は、梅津氏が質問で触れた『アベ政治を許さない』の文言が『政権批判であり、議会広報になじまない』として、松永氏の質問とともに掲載を拒否。市民から『検閲だ』『政治に対してモノを言えなくなる』など強い批判があがっていました。
日本共産党釧根地区委員会の村上和繁委員長(釧路市議)は『議会多数派が多数を力に強行しようとした暴挙が、市民世論と運動、日本共産党の反撃で完全敗北した。勝利した最大の力は、市民の反対の声、マスコミや識者からの厳しい批判だ』とコメント。引き続き市議会で奮闘する決意を表明しました。」
赤旗以外に記事はないものかとネットを探したら、毎日新聞・北海道版の本日(1月17日)朝刊にも、ほぼ同内容の次の記事が掲載されたという。
「北海道・釧路市議会広報 共産市議の質問 一転掲載へ」「市民から批判意見 多数寄せられ」
「北海道釧路市議会の共産党市議2人の質問が『特定政党への批判にあたる』などとして議会広報への掲載が拒否された問題で、同市議会は15日、一転して掲載を認めることを決めた。
この問題を巡っては、議会の不掲載決定を受け、共産市議らが抗議の意味を込めて広報の持ちスペースを空欄にすると主張。市民からも議会の対応を批判する意見が多数寄せられたことから、各会派代表者会議が決断した。不掲載を主導した議会広報特別委員会の金安潤子委員長は『混乱を招き責任を感じている。2人におわびする』と述べた。
掲載を拒否されていたのは、道高校教職員組合が組合員に配布した『アベ政治を許さない』と書かれたクリアファイルに関する市教育委員会の対応をただした質問と、蝦名大也市長の資産公開での記載漏れを指摘した質問。昨年12月の議会で質問した後、今月29日に発行される広報2月号への掲載を求めていたが、広報特別委が不掲載を決めた。
市議会には13日までに不掲載を批判する意見がファクスやメールで37件寄せられた。賛成意見は1件もなかったという。共産市議の質問欄が空白のまま広報が発行された場合、さらに批判が高まることが予想されていた。
不掲載決定が撤回されたことについて、共産党市議団の松永俊雄団長は『自由であるべき質問を多数決で抑えつけるのは許されることではない。市議会が本来の姿を取り戻した』と評価した。」
これはよいニュースだ。
アベ政権が醸しだす時代の雰囲気に迎合する、「忖度」と「萎縮」の蔓延が目に余る。釧路市議会も、アベ政権や自公与党だけでなく、アベ一強への擦り寄りを世論が許すとの読み違いがあったのだ。不掲載を主導した議会広報特別委員会の金安潤子委員長の所属会派は自民党。定数28のうち、自民党の議席が7、公明が4である。共産の議席は4。多勢に無勢は否めない。しかし、正論が、傲慢アベ政権の釧路版を許さなかった。痛快事というべきではないか。
昨年の12月17日付で、日本共産党釧路市議会議員団(松永俊雄団長)が、釧路市議会議長(月田光明)に宛てて次の申し入れをしている。
「議会だより」のルールを尊重した公正・公平な編集を求める申入書
市議会のようすをつたえる「議会だより」2月号編集にあたり、わが党の梅津則行議員の「アベ政治を許さない」と書かれたクリアファイル問題と、松永俊雄議員の市長の政治資金借入、資産公開訂正の問題の本会議質問をともに不掲載とする方針を示していることは、これまでの釧路市議会のルールを踏みにじるものであり、とうてい容認できるものではありません。
「アベ政治を許さない」は、流行語大賞にもノミネートされ安保関連法案をめぐる運動のなかでひろく知られた表現であり、それのどこが「議会だより」になじまないのか、理解に苦しむものです。
一方、市長の政治資金借入は市長が市議会で陳謝、資産公開を訂正すると明言し新聞などでも報道されました。いずれも、市議会としては当然の議論であり、これまでのルールを踏みにじり当人の意志を無視して不掲載とすることなど許されません。
議会は「言論の府」であり、自由な議論を制限することなどあってはなりません。これは誰もが認める道理であり、何人も否定できない原則です。議会広報委員長、議長が提起している不掲載との方針はこの原則を投げ捨てるばかりでなく、まるで「検閲」のような理不尽極まりないものといわなければなりません。
よって議長におかれては、「議会だより」編集にあたって2つの本会議質問を不掲載とする方針をあらため、これまでのルール通り両議員の質問を掲載するよう公平に取り扱うことを強く求めます。
この正論にはいかんとも反論しがたいものがある。にもかかわらず、議会内「忖度派」がもっともこだわったのが、「アベ政治を許さない」のクリアファイル。そしてもう一つが「市長の政治資金借入、資産公開訂正の問題」。政権トップと、市政のトップに対する批判を封じようというトンデモナイ振る舞い。こんなことが、可能だと思っている人物が議員になり、委員長にもなり、議会がそれを許しているのだ。
共産党が果敢に抗議をしたことは当然として、決め手になったのは、「不掲載を批判する意見がファクスやメールで37件寄せられた。賛成意見は1件もなかった」(毎日)という市民の批判であったようだ。「多数決がなんでもできるわけではない」「議会内での多数も、実は市民世論の中での少数」という教訓の実例として意義のある、明るいニュース。
昨日の毎日新聞報道「岸井成格氏 『スペシャルコメンテーター』就任へ TBS」も明るいニュースと言ってよいのだろう。
「TBSは15日、報道番組『NEWS23』や『サンデーモーニング』に出演している岸井成格氏(71)=毎日新聞特別編集委員=が、『スペシャルコメンテーター』に就任すると発表した。4月1日付。
TBSによると、スペシャルコメンテーターは同局との専属契約で、番組の垣根を越えてさまざまな報道・情報番組に出演し、ニュースについて解説や論評をする。就任は岸井氏が初めて。『サンデーモーニング』などの報道番組に引き続き出演し、選挙特番などにも幅広く出演する。4月にリニューアルするNEWS23には、コメンテーターとして随時登場するという。
岸井氏は、毎日新聞で政治部長、論説委員長、主筆などを歴任。スペシャルコメンテーター就任について「報道の第一線で発信を続けていくことになった。その責任・使命の重さを自覚し、決意を新たにしていく」とコメントした。」
「市民団体が11月中旬の読売新聞と産経新聞に、9月16日放送の『NEWS23』で『(安保関連法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ』とした岸井氏発言を、「(放送法の)重大な違反行為」とする意見広告を出した。TBSは、岸井氏が番組内で見解を示すことについて『これまでも多くの視聴者に受け入れられており定着している』としており、今回の契約については『意見広告の前から話し合ってきた。岸井氏の発言とは全く関係ない』と説明している。」
こちらは、「忖度」や「萎縮」の域を大きく超えた、アベ政治応援団による言論弾圧のお先棒である。ナチスも、天皇制政府も、戦争遂行のために人心を掌握し統制する労苦を厭わなかった。上からの統制に下からの呼応があって、戦時体制を支えるファシズムが形づくられた。アベ政治への擦り寄りや、アベ政治批判の言論への弾圧に、一つ一つの闘いが重要なのだと、改めて思う。
(2016年1月17日)