昨日(1月14日)の「浜の一揆訴訟」の第1回口頭弁論には、三陸沿岸に散らばっている原告100人のうち約40人が参加した。法廷の前と後に集会が行われたが、その要求の切実さ、真剣さにはたじろがざるを得ない。岩手県の水産行政は、この人々の真剣さをどれだけ受け止めているだろうか。
法廷では、原告を代表して瀧澤英喜さんが、以下のとおりの堂々の陳述をした。
「大船渡市三陸町越喜来の瀧澤英喜です。
私たち、岩手県沿岸全域の小型漁船漁業者は、東日本大震災の津波で船・漁具・住まいなど大きな被害を受けました。生活の再建と漁業の再開、地域の復興のために、日々努力しています。
私の自宅は海抜50mのところにあるので、震災で家屋敷は無事でした。しかし、船3艘と倉庫・養殖施設・資材が全部被害を受けました。
このような中でも船をつくり、漁具を入手して、漁を再開しています。今はホタテ養殖を通年、そして季節ごとのカゴ漁をやっています。私たちの仲間は、同じようにカゴ漁や刺し網などをやっています。春先はイサダ、5月はシラス、夏場はタコ、1月はタラ刺網など、季節ごとにとれるものが違います。
毎年苦労するのは9月から11月です。獲れる魚が激減する時期です。唯一たよりになるのがサケです。サケのように、値段がしっかりしていて、量もとれるものをやれれば、漁業者の意欲につながります。
ところが、岩手県では「定置網漁」「延縄漁」以外でサケをとることが許可されていません。
禁止される前は、県内でも多くの小型漁船漁業者がサケを刺網でとっていました。今でも、青森県・宮城県ではとっています。私も、すぐ近くが宮城県のため、宮城の漁師たちがサケを獲っているのをいつも目にしてきています。
刺網でのサケ漁が禁止になって4?5年は、延縄でサケをとる漁師がたくさんいました。当初はある程度の漁があったのですが、だんだん、とれる量が少なくなってしまいました。燃料代や労力を考えると、延縄でサケをとるのでは、経営的にあいません。現在は、県内では延縄でのサケ漁はほとんどありません。「刺し網でサケを獲れれば」という声は小型漁船漁業者にとって長年の悲願でした。
うっかり刺網でサケを捕獲すると「密漁」となり、県条例で「6ヶ月以下の懲役、若しくは10万円以下の罰金」に処せられます。漁業許可の取り消しから漁船・漁具の没収まで及ぶ制裁も用意されています。ですから、網にサケがかかれば、もったいなくても海に捨てなければなりません。捨てれば不法投棄となります。実質的に、ほかの魚種をねらった刺網漁もできません。宮城ではサケがとれれば大漁旗をたてて喜ぶのですが、岩手では、サケがとれれば泣く。こんな状況です。
特に東日本大震災以降、小型漁船漁業者にとって「船はできたが魚をとれない」という切実な問題となっています。
震災のあと、海の状況が変わってしまい、以前ほど魚がとれなくなっています。現状では、「赤字」か、「ギリギリ赤字にならない程度」の経営内容がほとんどです。それ以上の新しいことをやる資金がまったくありません。もしサケ刺網漁をやれれば、一定の収入が期待できます。その収入をもとに、別の魚種・漁法に手をつけることができます。
サケをとれれば、後継者が続けて行く展望も持てます。数少ない若手ががんばってやっていますが、このままでは、とても家族を養っていけません。後継者がいる家でも、家に置いて良かったのか、悩みながらやっているのが実際です。
沿岸の地域・経済を支えてきたのは漁業です。とりわけ小型漁船漁業者がいるからこそ、浜の環境・資源が守られます。被災地の復興は、小型漁船漁業の再生にかかっています。浜のことですから、大漁・不漁があるのは漁師も覚悟のうえです。しかし、漁をできないというのはあまりにもひどい。こんなのは岩手県だけです。県は「希望郷いわて」を掲げていますが、いまの岩手の浜には希望がありません。
豊かな漁業の再生と、希望ある未来のために、サケ刺網漁の許可を心から求めます。」
報告集会ではいくつもの印象的な発言があった。
「サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。」「昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。」「いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか」「大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。」「定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う」
私も、ときどきはものを考える。帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。
岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。
私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。「今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する」「これまで漁民でサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ることまかりならぬ」「密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり」
これに対する漁民の抵抗だから、「浜の一揆」なのだ。
しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」が考えられる。
漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。サケ漁獲の利益が直接には漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」である。
天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。滅私奉公が美徳とされ、「君のため国のため」「お国のため」に個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。
また、現況こそがあるべき秩序だという「理」があろう。「存在するものは合理的である」とは、常に聞かされてきたフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。
藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にありうる。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。
また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックもなされている。その行政が決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられているに違いない。
(2016年1月15日)
審理の冒頭に、原告ら100名の訴訟代理人として、訴状の要旨を陳述し、若干の意見と要望を申し上げます。
1 本件は、三陸沿岸の漁民らが原告となって被告岩手県知事に対して、サケ採捕の許可を求める訴えです。
決して無制限にサケを採らせろと要求しているのではなく、それぞれの小型漁船一隻について年間10トンの漁獲量を上限と設定した許可を求め、これに対する不許可処分を不服としてその処分の取り消しと許可の義務付けとを求めているものです。
2 訴状をご覧いただければお分かりのとおり、本件の請求原因はきわめてシンプルなもので、第1から第4の4節で成り立っています。
そのうちの請求原因「第1 本件許可申請と不許可処分」は、提訴にいたる手続の経緯と、取消を求める対象の処分を特定する記載です。原告ら漁民がサケ採捕許可の申請をして申請が不許可となったこと。その不許可の理由が、「平成14年に本県が定めた固定式刺し網漁業の許可等の取扱方針」に該当しないからだというだけのことであること。そして、原告らは本件各処分に付記された不服申立方法の教示にしたがって農林水産大臣に対する審査請求をし、審査請求があった日の翌日から起算して3か月を経過して裁決がなかったこと。以上の各事実を主張し、これについて被告の争うところはありません。
3 請求原因「第2 原告らの本件各許可申請の正当性と切実性」は事情です。原告らの要求の正当性と切実性を知っていただくための叙述ですが、主要事実ではありません。
4 請求原因「第3 本件各処分の違法事由」で、本件各処分を違法とする根拠を述べています。違法事由には、手続的違法と実体的な違法との両者があります。
手続的違法とは、付記すべき理由記載の不備です。本件各処分に付記された不許可の理由は、まったく形式的なもので、しかも単なる根拠法規の摘記に過ぎません。これでは理由を付記したことになり得ません。
いったい何のために理由の付記が求められるのか。この点について、訴状で引用した2011年6月7日最高裁判決において、田原睦夫裁判官の詳細な補足意見が参考になります。同裁判官は通説的見解を次のように整理しています。
「? 不利益処分に理由付記を要するのは,処分庁の判断の慎重,合理性を担保して,その恣意を抑制するとともに,処分の理由を相手方に知らせることにより,相手方の不服申立てに便宜を与えることにある。その理由の記載を欠く場合には,実体法上その処分の適法性が肯定されると否とにかかわらず,当該処分自体が違法となり,原則としてその取消事由となる
? 理由付記の程度は,処分の性質,理由付記を命じた法律の趣旨・目的に照らして決せられる。
? 処分理由は,その記載自体から明らかでなければならず,単なる根拠法規の摘記は,理由記載に当たらない。
? 理由付記は,相手方に処分の理由を示すことにとどまらず,処分の公正さを担保するものであるから,相手方がその理由を推知できるか否かにかかわらず,第三者においてもその記載自体からその処分理由が明らかとなるものでなければならない。」
一見して明らかなとおり、本件各処分通知書(甲1・甲2)は、不許可の実質的理由を提示していません。要するに、「自分たちで許可しないことと決めたのだ」という形式的理由だけがあって、なぜそのように決めたのかという求められている理由については、まったく触れるところがないのです。
これでは、「処分庁の判断の慎重,合理性を担保して,その恣意を抑制する」ことにも、「処分の理由を相手方に知らせることにより,相手方の不服申立てに便宜を与えること」にも、「処分の公正さを担保する」ことにもならないではありませんか。また、「単なる根拠法規の摘記は,理由記載に当たらない。」という指摘を噛みしめなければなりません。被告答弁書の弁明にもかかわらず、理由付記不備の違法は明らかだと考えます。
5 さらに、実体的違法事由があります。
ここで指摘しておきたいのは、挙証責任の問題です。原告らは、岩手県漁業調整規則にもとづく県知事の許可申請をしています。この場合知事の許可の可否に関する規定は、同規則第23条1項です。
ここには、「知事は、次の各号のいずれかに該当する場合は、漁業の許可をしない」との文言になっています。このことは、「知事は、次の各号のいずれかに該当する場合以外には、漁業の許可をしなければならない」ことを意味します。限定列挙された不許可事由のない限り、許可決定が原則なのです。もとより「許可」は行政裁量には馴染まないのです。
限定列挙された不許可事由の中で、問題となり得るのは、第1項第3号「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合」のみです。
つまりは、「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要がある」場合についてだけ知事は適法な不許可処分ができることになります。「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要がある」ことは、飽くまで被告知事の側で主張挙証の責めを負うことになります。その立証に成功しなければ、被告の敗訴は免れないところなのです。
ですから、この訴訟において被告知事は、自らが行っている水産行政の妥当性、合理性、合法性を堂々と主張しなければなりません。なぜ、原告ら漁民に固定式刺し網漁でのサケの採捕を禁じているのか。限りあるサケ資源を大規模な定置網漁の事業者だけに独占させて、零細漁民には配分しようとはしないのか。そのことについての行政としての説明責任を果たさなければなりません。答弁書を見る限り、そのような姿勢がまったくみられないことを残念というほかはありません。
6 原告に挙証責任のあることではありませんが、本件において「漁業調整の必要」が許可障害事由になるとは到底考えられないところです。
有限な水産資源利用における漁業者間の利益配分の合理的な調整とは、「漁業の民主化を図ることを目的とする」という漁業法第1条の目的規定に則って理解されなければなりません。大規模定置網事業者の利益を擁護するために零細な一般漁民のサケ漁を禁止することが、法が想定する「漁業調整」に該当するはずはないのです。
また、「水産資源の保護培養」の必要も許可障害事由とはなりえません。本件申請を許可することが、サケ資源の枯渇を生じたり、サケの保護培養に支障をきたすことはおよそ考えられないのです。原告らは自主的に自らの漁獲量の上限を設定しての許可を求めています。後継者を確保し漁業の持続性を最も切実に望んでいるのが、ほかならぬ原告らであることをお考えください。
7 そして、請求原因「第4 処分を義務づける理由」は、処分取消の請求原因として主張したことがそのまま、許可義務づけの根拠となるものです。むしろ、本件申請を許可することが積極的に漁業法ならびに岩手県漁業調整規則の理念に合致するものというべきだと確信するものです。
貴裁判所には、以上の理念と法の枠組みに留意のうえ、本件の審理を進行していただくようお願いいたします。
(2016年1月14日)
この正月、あなたは初詣に出かけただろうか。そして、神社にお賽銭を上げてはいないか。本来賽銭とは「祈願成就の際にお礼の意をもって神に奉る金銭のうち少額のもの」(「神道の基礎知識と基礎問題」小野祖教)なのだそうだ。つまりは、神と参拝者との間の「祈願契約」関係においては、神の側に祈願成就の先履行義務があり、賽銭奉納はあと払いという考え方。しかし、今日の善男善女はそうは考えていない。祈願成就には、先払いでお賽銭の奉納が必要というのが常識的感覚だろう。
だからあなたは神社に詣でて、家内安全・無病息災・就活成功・リストラ回避・国際平和・野党協力・アベ政権打倒・改憲阻止等々を祈願して、願いごとの成就を待たずにその場で、先払いのお賽銭を神に捧げたのだと思う。ところが、あなたは神に捧げたつもりでも、神に金銭を受領する能力はない。もちろん、その金銭を使う能力もない。では、あなたの捧げたお賽銭は、誰がどのように使うことになるのか。外からは見えないが、そのうちの幾分かは確実に憲法改正運動の資金にまわったと推察される。アベ・ビリケン(非立憲)政治の存続につながる運動の支援に使われるのだ。決して、改憲阻止のための資金にはまわらないことを心得ねばならない。
神社新報の年頭論説を同紙のホームページで読むことができる。
http://www.jinja.co.jp/news/news_008544.html
これをお読みいただけば、多くの人の神社や神社本庁、そして神職神官に対するイメージが大きく変容することと思う。もしかしたら、神や神道そのものに対しても見方が変わるかも知れない。神社とは、宗教団体であるよりは政治団体なのだ。少なくとも、偏頗なイデオロギー集団である。こんなところに、初詣だの七五三だの、お参りはよしたがよい。お賽銭など決してくれてやってはならないと思う。
神社新報は、もともとが神社本庁の機関紙として発足したもの。そのホームページでは、「本紙が、神社本庁の機関紙でありながら、別の組織として存在することの意義について、…全国の神社関係者は改めて本庁設立当時に立ち返り、思ひを致すべきであらう。」という。「日本の神社人神道人たるの自覚」を訴えるその意義は、部外者にはよく分からないが、神社新報が神社本庁の機関紙ないし広報紙であることだけはよく分かる。
その神社新報年頭論説(2016年1月11日付)には、神社本庁の「国際情勢認識」と「国内政治状況認識」そして、「政治方針」が述べられている。原文に小見出しはないが、私が小見出しを付けて抜粋してみる。
「国際情勢認識ー世界は物騒で不安定だ」
広く世界に目を向ければ、これまでの既存の国際秩序を覆し、新たな勢力配分を要求して世界の平和と安定を脅かす国や出来事が後を絶たない。このやうな物騒で不安定な国際状況の下では、いづれの国も身構へざるを得なくなる。
ロシアは一昨年、ウクライナのクリミアを強引に併合した。EU諸国とは人と経済の面で制裁戦が続いてをり、日本もこれに関はってゐる。また共産党支配の中国の勢力拡大は、アジア共通の脅威だ。有無を言はさず南沙諸島を自国のものとして軍事拠点化し、その勢ひは東シナ海にも及び、わが国の海上輸送路を脅かしつつある。
中東では、過激派組織ISがイラクとシリアにまたがる地域を支配し、仏露英米などと戦争状態が継続。世界各地で無差別テロを引き起こし、日本もその標的とされてゐる。
そのシリアでは百万人を超える難民が発生してをり、受け入れが大きな問題となってゐる。かうした世界の変動と不安定化は、軍事超大国の米国が「世界の警察官」としての役割否定を宣言したことから始まってゐるのである。
「国内政治状況認識ーまともな安倍内閣、非常識な民主党・共産党」
国際社会では、力の強弱のバランスが崩れたとき、平和も崩れるといふのが常識だ。昨年、安倍内閣が一連の平和安全法制を構築し、日米安保の協力深化によってわが国の生存と安全をより確かなものにしようとしたのも、かういった国際情勢を見据ゑてのことだ。「戦争法」反対などと叫び、いまだに憲法違反を口実に廃棄を目指すなどと主張してゐる民主党や共産党は、もっとまともな国際常識に基づき変動する世界の厳しい現実を直視すべきではないか。
「政治方針ー悲願の憲法改正実現のために安倍自民党の大躍進を」
今夏の参院選がこれからのわが国の進路を決定づける極めて大事なものとなる。それは我々の目指す憲法改正の条項や内容が、どの程度まで実現可能となるのかにも繋がってくるからである。憲法改正の早期実現のためには、何としても安倍首相の自民党に大躍進を果たしてもらひ、他の改憲指向政党とあはせて三分の二の議席に少しでも近づける努力をしてもらはねばならない。
また次の参院選からは、改憲に際しての国民投票と同様に、十八歳からの若い人たちが投票に参加する。この若者たちに政治に関心を向けさせ、憲法改正の必要性と大事さを分かり易く説いて導く工夫も重要だ。我々は昨年十一月の武道館での一万人大会の成功で弾みをつけた憲法改正の国民運動を引き続き強化拡大し、所期の目標達成に全力を注がねばならない。
これはまともな宗教団体の年頭の辞ではない。極右政党か右翼団体、あるいはアベ自民党下部組織の言ではないか。私は、国家神道とは、天皇制と神道との人為的結合システムだと理解してきた。明治政府によって、神道が利用されたという図式を考えていたのだ。だから、天皇制との関係を遮断すれば、神道は純粋な宗教に戻るのではないかと考えてきた。
だが、どうやらそれは間違っているようだ。神社本庁に参集する8万と言われる全国の神社と神職たちは、根っからの国粋主義者の如くである。アベ政治とまことにウマが合うようなのだ。やや大人げない気もするが、こんな神社への参拝はやめよう、縁起物を買ったり、賽銭を上げるなど金輪際すべきではない。憲法を大切に思う立場からは。
(2016年1月13日)
刈部直の「丸山眞男?リベラリストの肖像」(岩波新書)は丸山眞男が論じたところをコンパクトに紹介している。多くの人にとって、直接に丸山の著作の一部を読むよりは、刈部の新書を読む方が、丸山をはるかによく理解できるのではないだろうか。その丸山眞男論は多様な問題点を投げかけているが、そのなかの一つとして、「個人を根本から支え勇気の源泉となる思想」という問題提起がある。
「ノンポリ」学生だった丸山眞男だが、治安維持法違反容疑で特高警察に捉えられ、元富士署で尋問を受けた経験をもつ。1933年4月旧制高校3年生の時のこと。1か月前に多喜二が虐殺されている、その時代のことだ。丸山だけでなく、クラス40人のうち8人が在学中の逮捕を経験しているという。
丸山は、このとき「俺はだらしない人間だ。いざとなると、平常、読書力などを誇っていたのが、ちっとも自分の支えになっていない」と、大きな挫折感を覚えたことを回想している。大した考えもなく講演会に足を運び、うかつにも逮捕されてしまうことで、国家権力の発する暴力を、突然に体感することになった。留置場で涙を流してしまったことは、そうしたこれまでの自分が、実は浮薄きわまりない、たしかな核を欠いた人間であることを、重く自覚させたのである。その思いは、「本物」の思想犯でありながら、むしろそうであるがゆえ同じ房内で毅然としていた戸谷敏之(一中・一高で一級上の学生、放校となる)に涙を見られた、恥の感覚とも重なっていた。権力による弾圧という運命に屈し、不安に怯えてしまう自分が、ここにいる。これに対して、外からどのような苦難にさらされようとも、誇りを保ち平然としていられる主体性を、どうすれば心の内に確立できるのか。これを意識しはじめたのが、十九歳の青年丸山における、自我の目ざめと言ってもよいだろう。
この点で丸山に手本となる感銘を与えたのが、マルクス主義者ではなく、自由主義者・河合栄治郎と、ドイツ社会民主党のオットー・ウェルスであったというのが興味深い。
丸山は(旧制)大学一、二年と河合栄治郎の講義を聴き、経済学部の親睦組織「経友会」が開いた「自由主義批判講演会」での討論で、河合が左右からのリベラリズム批判の論客に対して、毅然と応戦する姿を目にしている。そして、総合雑誌にファシズム批判を書き続け、二・二六事件に際しても、『帝国大学新聞』と『中央公論』に論説をよせ、「ファッシスト青年将校」たちを放置してきた軍部当局の責任をきびしく追及した河合について、その評価を百八十度変えることになった。丸山は、西欧近代のリベラリズムが唱えてきた、自由や人権の理念への強い帰依が、個人を根本から支え、どんな圧力にも屈しない勇気を与える例に接し、深い感銘をうけていたのである。
一九三三年三月、ドイツの帝国議会で、首相アドルフ・ヒトラーに立法の大権を譲りわたす全権委任法が審議されていた。これに対して、議事堂の外も傍聴席も、ナチ党員がとりまき、罵声がとびかう中で、社会民主党の議員、オットー・ウェルスが、青ざめながら敢然と異を唱えたのである。その演説を、丸山は大学時代にドイツ語の原文で読み、のちまでその言葉を記億に刻みつけることになる。
丸山の座談会における回想が紹介されている。
「『この歴史的瞬間において、私は自由と平和と正義の理念への帰依を告白する』。『いかなる授権法もこの永遠にして不壊なる理念を破壊することはできない……』。そのあとに、『全国で迫害されている勇敢な同志に挨拶を送る』云々とつづくんです。』ここで彼(ウェルス)はいかなる歴史的現実も永遠不壊の理念を破壊しえない、という信仰告白をしている。この瞬間での自由と社会主義への帰依は、歴史的現実へのもたれかかりからは絶対に出てこないし、学問的結論でもない。ギリギリのところでは「原理」というのはそういうものでしょう。」
国家権力が極大化し、抵抗者が暴力によって抹殺されてゆく危機にあって、あえてその理念が「永遠にして不壊」であることを強調し、それに対する帰依を宣言しながら、世の大勢に抗したのである。この演説を読んでいらい、「歴史をこえた何ものかへの帰依なしに、個人が「周囲」の動向に抗して立ちつづけられるだろうか」という問題が、頭を離れなくなったという。この回想の言葉は、丸山自身の信仰告白でもあろう。
時代の変化はあるにしても、人聞が人間として、社会を営もうとするかぎり、決して失なってはならない原理。そうした理念への帰依こそが、個人が「歴史的現実」に対して、一人で抗してゆく強靭さをもたらすのである。…そうした問題関心はむしろ、ウェルスの演説にふれることで、はっきりと抱かれるようになったのではないか。
河合栄治郎に関して、「自由や人権の理念への強い帰依が、個人を根本から支え、どんな圧力にも屈しない勇気を与える例」とし、ウェルスについては、「自由と平和と正義」を「永遠不壊の理念」あるいは「決して失なってはならない原理」として、それへの帰依が語られている。
おそらく日本国憲法は、そのような「永遠不壊の理念」を内包しているものと読み取るべきであろう。日本国憲法を学ぶとは、そのような「永遠不壊の理念」を血肉化することなのだ。
(2016年1月12日)
昨日(1月10日)の毎日新聞に、「ヘイト集会拒否できる」「東京弁護士会がパンフ 自治体向け」の記事が掲載されている。ヘイトスピーチの集会に公共施設が利用される事態を防ごうと、東京弁護士会が利用申請を拒否する法的根拠をまとめたパンフレット「地方公共団体とヘイトスピーチ」を作製し自治体向けに配布している、との内容。
このパンフの内容となっている「地方公共団体に対して人種差別を目的とする公共施設の利用許可申請に対する適切な措置を講ずることを求める意見書」の発表は、昨年(2015年)9月7日のこと。以来4か月、東京弁護士会は、東京都内の全自治体や議会事務局、全国の弁護士会に配布してきたという。東京以外からも「参考にしたい」との問い合わせが相次ぎ、これまでに全国の25団体に送付。具体的な取り組みについて、東京弁護士会の担当弁護士と話し合いを始めた自治体もあるとのこと。
パンフの内容となっている意見書の全文は、東京弁護士会の下記URLで読むことができる。表現は慎重で穏やかだが、ヘイトスピーチの撲滅が国際条約上の国の義務となっているにもかかわらず政府は無為無策、これを放置している人権後進国日本の現状がよく分かる。
http://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-412.html
国がなんの施策も行おうとしない現状で、自治体がヘイト集会への会館使用を拒否することは、ヘイト対策として実効性のある手段の提供としてその着眼がすばらしい。しかも、このパンフは、実によくできている。表現の自由にも慎重な目配りをしたうえでの具体的な提言である。説得力がある。今後の課題は、これを全国の自治体に普及して啓発し、遵守してもらうよう粘り強く働きかけること、さらにはその実現のための実効的措置を追求すること、だと思う。
東京弁護士会は、日本が締結し批准もしている人種差別撤廃条約を根拠に、「自治体は差別行為に関与しない義務を負って」おり、「公共施設が人種差別に利用されると判断される場合には会館等の利用を拒否できる」だけではなく、「会館等の利用を拒否しなければならない」と指摘している。
もちろん、要件は厳格でなければならないが、昨今問題となっているヘイトスピーチの集会に、会館等使用を許可すれば違法となり、当該自治体の住民の誰もが、自治体の財産管理における違法を主張して、住民監査請求から住民訴訟を提起することができることになる。
また、この東京弁護士会の「反ヘイト・バンフ」が普及してくれば、自治体の首長や責任者がヘイト集会に会館使用を許可したことは、違法というだけでなく、過失の認定も容易になる。集会と、それに引き続くデモなどで精神的被害を受けたという被害者にとって国家賠償請求が容易になると考えられる。このような事後的な法的支援についても、具体的な方策が考えられてしかるべきではないか。
東京弁護士会意見書の意見の趣旨は以下のとおりである。読み易いように、カギ括弧などを入れてみた。
地方公共団体は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約」及び「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」に基づき,人種差別を撤廃するために,人種的憎悪や人種差別を扇動又は助長する言動など,人種差別行為を行うことを目的とする公共施設の利用申請に対して,「条件付許可」,「利用不許可」等の〈利用制限その他の適切な措置〉を講ずるべきである。」
この意見書の下記の言及は、襟を正して読まねばならない。
ヘイトスピーチなどの人種差別行為の放置は,社会に深刻な悪影響を与える。差別や憎悪を社会に増大させ,暴力や脅迫等を拡大させる。国連人種差別撤廃委員会が2013年の一般的勧告「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」で強調しているように,それらの放置は,「その後の大規模人権侵害およびジェノサイドにつながっていく」。ナチスによるホロコーストやルワンダにおける民族大虐殺等だけでなく,日本においても,1923年に発生した関東大震災で,朝鮮人が暴動を起こしているとの流言飛語が広まり,日本軍や,民間の自警団によって少なくとも数千人の朝鮮人が虐殺された。これは,1910年に朝鮮半島を植民地とした後,被支配民族としての朝鮮人に対する蔑視と,植民地化に対する朝鮮人の抵抗運動に対する恐れから,日本国内で朝鮮人に対するヘイトスピーチが蔓延した結果であった。日本にもこのような過去があることが想起されなければならない(2003年8月25日付け日弁連「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件」勧告書参照)。
人種や民族間の差別意識は、人為的に創られ煽られて生じる。植民地支配や戦争の準備と重なる。アベ政権の好戦的な憲法改正の策動と切り離せない問題といわざるを得ない。
ナチスはユダヤ人をホロコーストの対象とした。その数、500万人を超す。一般のドイツ人がそのことを知らなかったわけではない。ある日ユダヤ人が消える。その財産は、ドイツ人に分け与えられる。あるいは消えたユダヤ人が占めていた地位をドイツ人が襲うことになる。こうして、ホロコーストは、ドイツ人に現実的な利益をもたらしたのだ。
社会の中の特定の集団を敵として、多数派が寄ってたかっていじめるとはそういう実利に結びつくことなのだ。恥ずべき泥棒根性といわざるを得ない。いま、ヨーロッパでもアメリカでも、そしてもちろん日本でも、弱い立場の人種や民族に対しての非寛容な空気の醸成がおぞましい。ヘイトスピーチの抑制は、平和に通じるのだ。東京弁護士会の試みを、成功を念じつつ見守りたい。
なお、紹介されている具体例を挙げておく。
公共施設の利用拒否が可能になり得る具体的な例。
・人種差別集会を繰り返している団体や個人から申請があった
・施設の利用申請書に特定の民族を侮辱する表現が含まれていた
・集会の案内状に人種差別をあおる内容が書かれていた
施設の利用拒否が可能な人種差別行為の具体例
・「○○人は犯罪者の子孫」などの発言を繰り返す
・「○○人を殺せ」などのプラカードを掲げる
・「○○人のゆすり・たかりを粉砕せよ」などと告知して集会を開く
ここを出発点に、ヘイトスピーチ撲滅の動きを作り出せそうな気がする。
(2016年1月11日)
水島朝穂さんのメルマガ「直言」は、胸のすくような鋭い切れ味に貴重な情報が満載。教えられることが多い。
http://www.asaho.com/jpn/index.html
その最近号は、明日(2016年1月11日)付の「メディア腐食の構造―首相と飯食う人々」というタイトル。ジャーナリストたる者が、「首相と飯食う」ことを恥ずべきことと思わず、むしろ、ステイタスと思っている節さえあるのだ。この人たちに、アベとともに喰った飯の「毒」が確実にまわっているという指摘である。その指摘が実に具体的であるところが切れ味であり、胸のすく所以である。
かなりの長文なので、私なりに抜粋して要点をご紹介する。ぜひ下記の原文もお読みいただきたい。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0111.html
水島さんは、「10年でメディアの批判力はここまで落ちたのか。劣化度は特にNHKに著しい」と嘆く。アベ政権は、「政府が右と言うときに、左とはいえない」という会長人事や、経営委員会に百田・長谷川のような右翼を送り込むだけでなく、論説委員や記者への接触によって籠絡していることを具体的に語っている。
批判力の劣化を嘆かざるを得ないNHK政治部記者3人の名が出て来る。まずは、ご存じ岩田明子(解説委員・政治部)。
この人は、安倍首相の「想い」を懇切丁寧に読み解いて、「安倍総理大臣は、日本が再び戦争をする国になったといった誤解があるが、そんなことは断じてありえないなどと強調しました。安倍総理大臣は行使を容認する場合でも限定的なものにとどめる意向で、こうした姿勢をにじませ、国民の不安や疑念を払拭すると同時に、日本の平和と安全を守るための法整備の必要性、重要性を伝えたかったのだと思います」と言っている。客観報道ではなく、「忖度報道記者」なのだ。
ついで、田中泰臣(記者・政治部)。
「その『解説』はひどかった。例えば、採決を強行した安倍首相を次のように『弁護』していた。
『安倍総理大臣とすれば、安全保障環境が厳しさを増しているなか日米同盟をより強固なものにすることは不可欠であり、そのために必要な法案なので、いずれ分かってもらえるはずだという思いがあるものとみられる。また集団的自衛権の行使容認は、安倍総理大臣が、第1次安倍内閣の時から取り組んできた課題でもあり、みずからの手で成し遂げたいという信念もあるのだと思う。』」これも典型的な忖度記者。
そして3人目が、島田敏男(NHK解説副委員長)。この人の名は、まずはアベの「寿司友」の一人として出て来る。もっぱら、西新橋「しまだ鮨」での会食なのだそうだ。
「メディア関係者との会食も、歴代政権ではかつてなかった規模と頻度になっている。このことを正面から明らかにしたのは、昨年の『週刊ポスト』5月815日号である。それによると、安倍首相は2013年1月7日から15年4月6日まで、計50回、高級飲食店で会食している。記事の根拠は、新聞の「首相動静」欄である。首相と会食するメンバーは、田崎史郎(時事通信解説委員)、島田敏男(NHK解説副委員長)、岩田明子(同解説委員)、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読賣新聞論説主幹)、石川一郎(日本経済新聞常務)、粕谷賢之(日本テレビメディア戦略局長)、阿比留瑠比(産経新聞編集委員)、末延吉正(元テレビ朝日政治部長)などである。
首相とメディア幹部がかくも頻繁に会食するという「腐食の構造」は、それまでの政権には見られなかったことである。「毒素」は、メディアのなかにじわじわと浸透していった。」
島田敏男への「毒素」のまわり具合については、水島さん自身の体験が語られている。
「NHKの『日曜討論』に呼ばれたのは、安保法案が衆議院で採決される4日前という重要局面だった。『賛成反対 激突 安保法案 専門家が討論』。控室での打ち合わせの際、司会の解説委員(島田敏男・澤藤註)は、『一つお願いがあります。維新の党の修正案には触れないでください』と唐突に言った。参加した6人の顔ぶれからして、私に向けられた注文であることは明らかだった。自由な討論のはずなのに、発言内容に規制を加えられたと感じた。実際の討論でも、私が発言しようとすると執拗に介入して、憲法違反という論点の扱いを小さく見せようとした節がある。結局、『法案が成立したら自衛隊は国際社会で具体的にどう活動していくか』という方向で議論は終わった。採決を目前にして、『違憲の安保法案』というイメージを回避しようとしたのではないか。それを確信したのは、帰り際、送りのハイヤーに乗り込んだ私に対して、その解説委員がドア越しに、『維新の修正案は円滑審議にとてもいいのですよ』と言ってにっこり微笑んだからである。車内でその言葉の意味に気づくのにしばらく時間がかかった。」
こうして、水島さんは「『日曜討論』は私の『島』だという顔をしている島田解説副委員長」について、「これ以上、『日曜討論』の司会を彼に続けさせてはならない。」ときっぱり言っている。はっきりものを言うことのリスクを承知の上での発言である。
さらに、水島さんは、浅野健一著『安倍政権言論弾圧の犯罪』(社会評論社、2015年)を高く評価して、その一読を勧める書評の中で、こう書いている。
「本書は著者(浅野)の最新刊。『戦後史上最悪の政権』が繰り出す巧妙かつ露骨なメディア対策の数々を鋭く抉りながら、他方、メディア側の忖度と迎合の実態にも厳しい批判を速射する。特に、一部週刊誌が暴露した安倍首相とメディア関係者のおぞましい癒着の実態を、本書はさらに突っ込んで剔抉する。」
「本書によれば、安倍首相は第2次内閣発足後、親しいメディア関係者と30数回も会食している」「時事通信解説委員(田崎)が最も多く首相と会食しているが、彼はTBSの番組で、『政治家に胡蝶蘭を贈るのは迷惑。30ももらって置くところがない。もらってくれと 言われ、もらった。家で長くもった』と言い放ったという。こんなジャーナリストは米国では永久追放になる、と著者は厳しく批判する。政権とメディアの関係を正すためにも、本書の一読をおすすめしたい。」
「米国では永久追放になる」という「こんなジャーナリスト」には、NHKの3記者も含まれることになるのだろう。
ジャーナリズムは、社会の木鐸っていうじゃないか。権力を叩いて警世の音を響かせるのが役目だろう。政権の監視と批判が真骨頂さ。権力と癒着しちゃあおしまいよ。安倍晋三なんぞと親しく飯喰って、それでズバリと物が言えるのかい。自分じゃどう思っているか知らないが、世間はそんな記者も、そんな記者を抱えているメディアも、決して信頼できないね。
民俗学では共同飲食は祭祀に起源をもって世俗的なものに進化したというようだ。「一宿一飯」「同じ釜の飯」という観念は世俗社会に共有されている。酒食を共にすることは、その参加者の共同意識や連帯感を確認する社会心理的な意味を持つ行為である。親しく同じ飯を喰い、酒を酌み交わしては、批判の矛先が鈍るのは当然ではないか。ジャーナリストが、権力を担う者と「親しく同じ席の飯を喰う」関係になってはいけない。
産経のように、ジャーナリズムの理念を放擲し政権の広報紙として生き抜く道を定めた「企業」の従業員が、喜々として首相と飯を喰うのなら、話は別だ。しかし、仮にもジャーナリズムの一角に位置を占めたいとするメディア人の、「腐食の構造」への組み込まれは到底いただけない。とりわけ「公正」であるべきNHKのアベ政権との癒着振りは批判されなけばならない。
アベ政権だけにではなく、アベと癒着したメディアに対しても、冷静な批判の眼を持ち続けよう。
(2016年1月10日)
年末には「本郷・湯島9条の会」紙へ原稿を届けたが、年始に「文京9条の会」の機関紙「坂のまちだより」から「年頭の辞」の執筆依頼をいただいた。
「2016年の年頭にあたって、思われることなどありましたら、なんでも結構です。内容はお任せしますので宜しくお願いいたします。」とのこと。近々、根津憲法学習会でも今年の憲法情勢に関して報告しなければならない。さて、「憲法」とりわけ「9条」に関して、年頭に何を語り、何を書くべきだろうか。
日本国憲法とりわけ9条にとって、2015年は重大な試練の年となった。安倍政権と自公両党による解釈改憲の動きの進展は、前代未聞の95日の会期延長の末、違憲の戦争法を成立せしめた。その強引な立法手続によって、憲法9条は大きく傷ついた。残念でならない。しかしその反面、この違憲立法に反対する国民運動が大きな盛り上がりを見せた。そして、「アベ政治を許さない」「野党は共闘」の声が、議事堂を揺るがせた。「立憲主義の危機」「立憲主義の回復」が広く自覚的な国民の共通認識となり、共通のスローガンとなった。これは憲法と平和への光明である。
2016年は、憲法への試練と光明の両側面がさらに厳しくせめぎ合うことになりそうだ。安倍政権は、けっして解釈改憲では満足しない。違憲立法の成功に味をしめ、さらなる軍事大国化と戦後レジームからの脱却を目指した明文改憲が目論まれることになるだろう。国会に改憲派の議席多数のいまこそ明文改憲のまたとないチャンスだと虎視眈々なのだ。
安部晋三は官邸での年頭の記者会見で、「憲法改正については、これまで同様、参議院選挙でしっかりと訴えていくことになります。同時に、そうした訴えを通じて国民的な議論を深めていきたいと考えています」と明言している。そのために、衆参両院の憲法審査会がフル稼働することになるだろうし、そこでの喫緊の焦点は緊急事態条項の新設ということになりそうだ。
他方、立憲主義を取り戻そうとする自覚した国民の側の運動も大きくなりそうだ。「戦争法の廃止を求める2000万人署名」の活動を軸に、多くの市民運動の大同団結が昨年に引き続いて発展している。その運動が背中を押す形で、戦争法廃止・立憲主義の回復・明文改憲阻止のための野党の共闘は、少しずつ形ができようとしている。安全保障をめぐっては、沖縄県民がオール沖縄の団結で安倍政権と激しく対峙している。全国からの支援が沖縄に集中し、全国が沖縄に学ぼうとしている。
昨年に引き続く試練と光明、そのボルテージの高いせめぎ合いが今年7月の参院選で激突する。3分の1の壁をめぐっての攻防である。その結果が今後の憲法状況を占うことになる。アベ政権の改憲野望を挫くか。改憲路線を勢いづかせるか。3月施行となる戦争法の具体的な運用や、自衛隊海外派遣の規模や態様にも大きな影響をもたらすことになる。そして、その前哨戦が1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙。そして4月の衆院北海道5区補欠選挙。
2015年選挙のない年に、国民は政治を動かす主人公は自分自身なのだということを学んだ。そして、16年には選挙で直接に国政を動かすことができる。仮に7月参院選が総選挙とのダブル選挙となれば、まさしく直接にこの国の方向を決めることになる。
せめぎ合う主要なテーマは、昨年に続いて立憲主義・民主主義・平和主義である。明文改憲でその総体が問われることになる。その明文改憲の突破口が緊急事態条項。来たるべき参院選はまことに重大な位置を占めることになる。7月参院選の闘いは既に始まっている。遠慮せず、臆せず、言論の発信を続けよう。違憲の戦争法を強行したアベの手口を思い起こすだけでなく、口にしよう。黙っていては人を説得出来ない、状況を変えることもできない。憲法擁護を言葉に発しよう。平和の尊さを、民主主義の大切さを語ろう、そして文章に綴ろう。ハガキでも、封書でも、メールでも、ツイッターでも。言論の自由を最大限有効に活用して、ビリケン(非立憲)アベ政権による改憲の野望を打ち砕こう。
こんな骨子を与えられた字数にまとめることにしよう。
(2016年1月9日)
本日の東京新聞「平和の俳句」欄に
冬北斗心を殺すことなかれ(田中亜紀子・津市)
これを、ふたりの選者それぞれに、金子兜太は「いまこころに決している平和への意思を貫くぞ」と読み、いとうせいこうは「生きて揺らぐなかれ」の意と解する。
北斗は揺るぎのない生き方が目指すかなたにある。誰しも、自分の心のなかに北斗を持ち、北斗を目指す生き方を貫きたいと願う。しかし、それは決して容易なことではない。
北斗は理想の象徴である。冬の夜、凍てつく寒さの中に北斗は高く輝いて動かない。その輝く北斗を見上げては、自らのこころに語りかけ言い聞かせるのだ。いつまでも、この星を目指す心を大切にしよう。理想を曲げ妥協をすること、怯むことは、自分の心を殺すことなのだ、と。
その東京新聞の今日の社説が小気味よい。「安倍首相答弁 憲法軽視の反省見えぬ」というタイトル。ジャーナリズムにとっての北斗は、怯まず臆せず権力への監視と批判に揺るがぬことである。必ずしも容易ではないその姿勢がこの社説には見えて快い。いささかも心を殺すところがないのだ。
「衆参両院での各党代表質問が終わった。野党側は安全保障関連法の成立強行や臨時国会見送りなど、憲法を軽視する安倍晋三首相の政治姿勢をただしたが、首相の答弁には反省が見えなかった」とリードがついている。そうだ、憲法を軽視する安倍晋三には反省が必要なのだ。ところが、反省するどころが、居直り開き直って恥じない。立憲主義を忘れたこの安倍政権の姿勢を徹底して批判しなければならない。
「野党がただしたのは首相の政治姿勢である。安倍政権は昨年9月、多くの憲法学者らが憲法違反と指摘する安保関連法の成立を強行。野党が憲法53条に基づいて臨時国会を開くよう要求しても拒否し続けた。
安保法について、野党側は「憲法違反の法律を絶対に認めない」(岡田克也民主党代表)「安倍内閣には憲法を守る意思がない」(松野頼久維新の党代表)「戦争法廃止、立憲主義回復を求める声が聞こえているか」(穀田恵二共産党国対委員長)などと追及した。
これに対し、首相は「世界の多くの国々から強い支持と高い評価が寄せられている。決して戦争法ではなく、戦争を抑止し、世界の平和と繁栄に貢献する法律だ」などと成立強行を正当化した。臨時国会見送りについても『新年早々に通常国会を召集し、迅速かつ適切に対応している』などと突っぱねた。憲法の規定など、なきがごときである。」
そうだ。忘れるな。ビリケン(非立憲)安倍の憲法無視を。餅を食っても門松がとれても、梅が咲いても桜が散っても、今年の夏の参院選までは、安倍の所業を忘れてはならない。
「首相の答弁からは、憲法と向き合う真摯な姿勢は感じられない。」「自分たちが変えたいと考える現行憲法は軽視する一方、新しい憲法をつくろうというのでは、あまりにもご都合主義だ。」
「憲法は、国民が権力を律するためにある。その原則を忘れ、憲法を蔑ろにする政治家に、改正を発議する資格はそもそもない。」
そうだ。そのとおりだ。国民共通の北斗は立憲主義にある。日本国憲法の理念が、北の空にまばゆいほどに光っているではないか。公権力はその方向に向かなければならない。国民は、権力にその方向を向かせなければならない。
立憲主義をないがしろにする首相を持つ国であればこそ、国民が毅然と北斗を見つめなければならない。メディアは、国民の先頭に立って、方向を踏みはずした政権を厳しく批判し叱咤しなければならない。権力におもねり、あるいは怯むことは、自分の心を殺すことになるのだから。
(2016年1月8日)
私は怒りに震えている。北朝鮮が4度目の核実験をしたという、その報せにである。原爆・水爆・放射能・被曝などという言葉は、私にとって生理的に受け容れがたいもの。
少し気持ちを落ち着けて、北朝鮮政府の声明文を読んでみた。
やや長文だが、以下のくだりに留意せざるを得ない。対決すべき思考の構造が見えている。
「わが共和国が行った水爆実験は、米国をはじめとする敵対勢力の日を追って増大する核脅威と恐喝から国の自主権と民族の生存権を徹底的に守り、朝鮮半島の平和と地域の安全を頼もしく保証するための自衛的措置である。
思想と制度が異なり、自分らの侵略野望に屈従しないとして千秋に許せない前代未聞の政治的孤立と経済的封鎖、軍事的圧迫を加えたあげく、核惨禍まで浴びせようと狂奔する残虐な白昼強盗の群れがまさに、米国である。
米帝侵略軍の原子力空母打撃集団と核戦略飛行隊を含むすべての核打撃手段が絶え間なく投入されている朝鮮半島とその周辺は、世界最大のホットスポット、核戦争の発火点になっている。
米国は、敵対勢力を糾合して各種の対朝鮮経済制裁と謀略的な「人権」騒動に執着してわれわれの強盛国家の建設と人民の生活向上を阻み、「体制崩壊」を実現しようとやっきになって狂奔している。
膨大な各種の核殺人兵器でわが共和国を虎視眈々と狙っている侵略の元凶である米国と立ち向かっているわが共和国が正義の水爆を保有したのは、主権国家の合法的な自衛的権利であり、誰もけなせない正々堂々たる措置となる。
真の平和と安全は、いかなる屈辱的な請託や妥協的な会談のテーブルで成し遂げられない。こんにちの厳しい現実は、自分の運命はもっぱら自力で守らなければならないという鉄の真理を再度明白に実証している。恐ろしく襲いかかるオオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はないであろう。
朝鮮民主主義人民共和国は米国の凶悪な核戦争の企図を粉砕し、朝鮮半島の平和と地域の安全を保障するために努力の限りを尽くしている真の平和愛護国家である。
わが共和国は、責任ある核保有国として侵略的な敵対勢力がわれわれの自主権を侵害しない限り、すでに闡明した通りに先に核兵器を使用しないであろうし、いかなる場合にも関連手段と技術を移転することはないであろう。
米国の極悪非道な対朝鮮敵視政策が根絶されない限り、われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない。」(朝鮮中央通信配信記事からの抜粋)
つまりは、水爆を保有することが「自国と国民の平和と安全を邪悪な敵から防衛するための正義の自衛的措置」だというのだ。その前提として、「自国こそが平和愛好国家であり、他は虎視眈々と自国を脅かす凶悪な敵」との断定がある。抑止論者にこれを嗤う資格はない。北朝鮮こそは、抑止有効の論理が自国の軍事力の際限の無い拡大要求に帰結する見本ではないか。
「我が国に対する中国や北朝鮮の脅威が根絶されない限り、日本の自衛力の質的・量的な拡大を中断することはあり得ない。日米軍事同盟の強化を継続し続ける以外の方策はない。」これが、安倍政権の危険なホンネではないか。
さらに、「日本の平和と安全を確保するための軍事的抑止力は、可及的に質的・量的に強力であることが望ましい。通常兵器を有するだけでなく、核兵器を持つことがより我が国の安全を高める。また、現実に敵の侵略が生じてからの自衛の措置では遅きに失することが明らかなのだから、先制的な自衛の措置が執れるだけの攻撃力を完備する必要がある」となり、究極的には「われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない」に至ることになるのだ。
改めて、憲法9条の理念を思い起こそう。浮き足だって、我が国にも軍事的対抗措置が必要だなどと言う愚論を制しなければならない。問われているのは、「オオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はない」との行動原理と、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」理念に立つかの選択である。愚かな抑止力拡大競争の連鎖を絶対に阻止しなければならない。
そのために、まずは北朝鮮に今回の核実験に踏み切ったことを、大きな間違いだったと悟らせなければならない。国際的威信を確立するどころか、結局は国際的孤立化を深め、経済的な窮乏化を招き、国の存立すら危うくする愚挙であることを思い知らねばならない。
この日の北朝鮮は、1941年12月8日の日本に似ている。あの太平洋戦争開戦の日、日本の指導者もメディアも国民も、これが希望の幕開けだと錯覚させた奇襲の成功に熱狂した。しかし、実はあの日こそ、破局への幕開けの日だったのだ。この教訓を思い起こそう。北朝鮮に、核実験の成功体験をさせてはならない。日本国内の抑止論者を勢いづけさせないためにも、である。
(2016年1月7日)
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なお、3度目の核実験(2013年2月12日)の当時には、私の「憲法日記」はまだ日民協のホームページに間借りしていたが、当日と翌日にブログの記事にした。今読み返して、今の私の気持ちと変わらない。これを再録しておきたい。
朝鮮の核実験に抗議する 2013年02月12日(火)
北朝鮮が3度目の地下核実験を行った。昨日には、米・中両国への事前通告があったとのことだから間違いなかろう。満身の怒りをもって抗議する。
私の抗議は、「北朝鮮の核実験だから」ではない。米・露・英・仏・中の5大国にも、印・パ両国にも、そして核を外交カードに使おうとするイラン・イスラエルにも、改めて抗議する。人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。
かつて、「いかなる国の・論争」があった。私には、そのような論争の存在自体が信じがたく、「いかなる国の核実験にも反対」は自明だと思っていた。その私を、理論派の友人が説得にかかった。
「いかなる国の核実験にも反対という論法は、問題を核兵器と人類との対立という誤った構造に陥らせる」「戦争も核兵器も、人がつくり出す。社会の構造が生み出すものだという社会科学的な視点が必要だ」「戦争や核兵器廃絶のためには、それを生み出す体制の矛盾をこそ見据えなければならない」「世界の情勢を体制間の対抗関係として見れば、問題の本質が核そのものではなく、核の背後にある体制の問題であることが見えてくるはず」「いかなる国の核実験にも反対というのは、そのような問題の根本を見誤らせる間違ったスローガンだ」
理論派ならざる私は上手に反論できなかったが、この「理論」には胡散臭さを感じて、結局説得はされなかった。いまにして私の方が正しかったと思う。どこの国の核であろうとも、米国に対する「自衛的核抑止力」であろうとも、核保有国が増え、核技術が拡散することは絶対に容認し得ない。
アメリカとの間にオスプレイ問題があり、中国とは尖閣問題、韓国とは竹島、ロシアとは北方4島、そして北朝鮮とは拉致問題に核実験。日本は、周囲の各国と軋んだ関係を余儀なくされている。このようなときこそ、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。冷静で賢い対応が求められている。武力による威嚇のエスカレートを許してはならない。
いかなる口実をつけようとも、北朝鮮の核実験も、それへの対抗措置としての我が国の軍備の増強も、「ならぬことはならぬもの」なのだ。
北朝鮮の核実験に、再度抗議する。2013年02月13日(水)
私は、1945年8月6日午前8時15分をもって、人類史を2分する。人類が自死の能力を明確に自覚する以前と以後とにである。そう考えさせる事件後の爆心地近くで、私は小学校に入校した。広島市立幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。
1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」に戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器に対しても、被曝についても、徹底したアレルギー体質となっている。
もっとも、広島の原爆投下が核爆発の第1号ではない。悪名高いマンハッタン計画の「成果」として、人類最初の核実験(プルトニウム型)が1945年7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州アラモゴードで秘密裡に行なわれている。「核の時代」の幕開けはこのトリニティ実験をもって始まる。
以来、昨日の北朝鮮地下核実験は2054回目の核爆発だという。
これまで、アメリカは1030回、旧ソ連が715回、フランス210回、イギリス45回、中国45回、インド4回、パキスタン2回、そして北朝鮮3回の核実験が大気圏で、地下で行われてきた(外務省データによる。イスラエルの実験は未確認として含まれていない)。
その間、原爆は水爆となり、爆発力を示すキロトン(TNT火薬換算)はメガトンの単位となった。なによりも運搬手段の発達がその脅威を増強している。
制憲国会で、幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」
改めて、北朝鮮に抗議し要請する。いかなる理由に基づくものであろうとも、核兵器を廃棄していただきたい。文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。
春はあけぼの。冬はつとめて。そして、初春は伊勢神宮だよ。ねえキミ、日本人ならそうだろう。閣僚の仕事始めが伊勢神宮詣で悪かろうはずはない。つべこべ文句を言う奴は、定めし非国民というところだな。
靖国参拝には何かとうるさいメディアだが、閣僚の伊勢詣には何にも言わなくなったから清々しい気分じゃないか。中国も韓国も問題にしていないようだし、ニッキョウソも、ゼンキョウも黙りこくっている。すっかり定着だな。各党の党首も初詣に伊勢まで来りゃあいい。まずは与党の公明党から…、あっ、こりゃ口がすべったかな。
ここはなんたって天つ神の本宗だ。皇室の祖先神。そんじょそこらの神社とは格が違う。権力の頂点にいる私が、神道の総元締めに参拝するのだから、政教分離の問題が起こらないはずはない。しかも首相が、外相やら防衛相ら9閣僚を引き連れての参拝なのだから、これが公式参拝でなかろうはずもない。しかし、それがどうしたってことだ。
三木内閣の時に、私的参拝であるための4原則の基準が打ち出されたね。
まずは、肩書記帳だ。内閣総理大臣の肩書きを用いないこと。
次いで、公務の随行者を伴わないこと。
さらに、交通手段として公用車を用いないこと。
最後に、玉ぐし料は公費から出費しないこと。
あの三木さんのことだ。律儀に、この4基準を厳守したんだろうな。でも、私はそんなことに頓着しない。昨年、あれだけの反対のあった9条の解釈改憲をやってのけた私だ。20条違反など、ものの数ではない。肩書は堂々と「内閣総理大臣」と記帳した。それで何か? 公務の随行者なくして伊勢詣などできるはずもなかろう。新幹線と近鉄線以外は公用車だよ。玉串料はどこから出したかって? そりゃノーコメントに決まっている。これで何か差し支えがあるのかね。
いまだに、新年の閣僚伊勢神宮参拝は政教分離を定めた憲法20条に違反する、などと執拗に言い続けている連中がいる。最高裁判例では、参拝の目的と効果を吟味することで、政教分離に違反するかしないかを判断するようだ。愛媛玉串料訴訟大法廷判決などではかなり厳格な基準として使われているそうで、判決が合違憲判断にまでいけば違憲となるだろうというアドバイスも受けている。でも、総理大臣の違憲行為は、訴訟では争いにくいそうじゃないか。裁判にもちこむこと自体が難しく、メディアが黙り、政党も騒がないんだから、八方丸く収まっているってことじゃないの。
伊勢神宮参拝で、何を祈願したかって。そりゃ、何よりも皇室の弥栄。そして、世界の平和と、国民の福利。もう一つ特別なのが、6月の伊勢志摩サミットの成功。このあたりが公式見解だね。
でも、ここだけの話だが、ホンネは少し別だ。私は、総理総裁のイスに少しでも長く坐り続けたいのだ。そして、念願の憲法改正をやり遂げたい。なかんずく、自衛隊を堂々の国防軍とする9条改憲を実現することこそが、私がこの世に生を受けた意味なのだ。
そのために私は神宮の祭神に祈願した。「アマテラスよ。日本の守護神よ。なにとぞ今年7月の参院選に我が党を勝利に導きたまえ。思いのとおりの憲法改正発議ができるだけの議席を与えたまえ」。これがメインの願い。
しかし、祈願はそれだけではない。アマテラスは、おそらく選挙情勢に明るくない。だから、もっと具体的なサブ祈願事項が必要だと考えて、次のようにも付け加えた。
「昨年の安保関連法案反対の国民運動が今年は終息しますように」
「あの運動の高揚感を餅を食ったら忘れますように。」「遅くとも、梅が咲く頃には忘れますように」「残った人も、桜の咲くことにはすべて忘れてしまいますように」
「野党が分裂状態を続けて、選挙共闘が成立しませんように。」
「18歳選挙権がわれわれの利益につながりますように。」
「神様、アベノミクスとは結局のところは株価のことなのです。選挙が終われば『あとは野となれ山となれ』で結構ですから、選挙までは東証の株価を維持してください。」
「そして、前哨戦としての選挙が重要です。まずは1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙です。そして4月の北海道5区補欠選挙。この二つの選挙に勝って弾みをつけさせてください。」
「けっして、我が党の政策が国民の支持を得ることまでは望みません。ともかく、議席が欲しいのです。」
「私は、神道政治連盟に加盟し、神道政治連盟国会議員懇談会でも真面目に活動しています。『国政の基礎に神道を置く』ことを目標に、日々政教分離を掘り崩し、20条改憲の実現を目指す活動に邁進しています。」
「ですから神様。私を嘉して、ご褒美をください。この私の願いを叶えてください。」
なに? 一国の首相としては次元の低過ぎる祈願だと? どうせ私は右翼の軍国主義者、しかも反知性主義で名を売った政治家だ。でもネ、よく言うだろう。国民はそれにふさわしい政府しか持てないってネ。だから、私はキミたちにふさわしい。今のキミたち国民は、私程度の首相しか持てないのさ。
(2016年1月6日)