「法と民主主義」1月号をご紹介する。時宜に適ったタイムリーな企画となっている。「理論と運動を架橋する法律誌」の名に恥じないと思う。編集委員の一人として、多くの人にお読みいただきたいと思う。
目次は以下のとおり。
特集★戦争法廃止に向けて──課題と展望
◆特集にあたって………編集委員会・丸山重威
◆戦争法は廃止しなければならない──日本社会の岐路と新たな選択………広渡清吾
◆「国際平和協力」を理由とした武力行使への突破口………三輪隆
◆「戦争法」は世界と紛争地における日本の役割をどう変容させるのか──国際人権・国際協力NGOは戦争加担に反対する………伊藤和子
◆「落選運動」の意味と展望………上脇博之
◆戦争法廃止運動と自衛隊裁判の位置付け──砂川・恵庭・長沼・百里・イラクの経験をふまえて………内藤功
◆「戦争法」違憲訴訟の目標と課題………伊藤真
◆戦争法反対にむけたロースクールでの運動………本間耕三
◆国会周辺の抗議活動に関する「官邸前見守り弁護団」の活動………神原元
・司法をめぐる動き・人権救済の使命を回避した司法──「夫婦同姓の民法規定を合憲」とした最高裁大法廷判決………折井純
・司法をめぐる動き・12月の動き………司法制度委員会
・トピックス☆日本軍「慰安婦」問題に関する日韓外相会談の合意について………川上詩朗
・メディアウオッチ2016☆新年のニュース 参院選の焦点に「改憲」「ニュース操作」に警戒感を………丸山重威
・あなたとランチを〈№15〉 ………ランチメイト・長谷川弥生先生×佐藤むつみ
・連続企画☆憲法9条実現のために〈3〉フランスにおける人権と社会統合………村田尚紀
・時評☆国民対話カルテットのノーベル平和賞受賞…………鈴木亜英
・ひろば☆2016年 安倍政権による改憲策動を打ち砕く年に………澤藤統一郎
下記のURLで、丸山重威さんの「特集にあたって」、鈴木亜英さん(弁護士・国民救援会会長)の時評「国民対話カルテットのノーベル平和賞受賞」、そして私の「ひろば」の記事が読める。その余の記事は購読していただけたらありがたい。
http://www.jdla.jp/houmin/index.html
広渡清吾さんの巻頭論文に続く、著名執筆者の特集記事は読み応え十分。
以下は、敢えて特集ではない論文「フランスにおける人権と社会統合」(村田尚紀関西大学教授・憲法)をご紹介したい。目からウロコのインパクトなのだ。
シャルリーエブド事件やパリ同時多発テロなど、フランス社会が話題となっている。イスラム社会との軋轢の厳しさにおいてである。多くの日本人の印象としては、「先進的な自由主義社会が蒙昧な勢力から攻撃を受け防衛せざるを得ない立場にある」というくらいのものではないだろうか。しかし、フランスの法制や社会事情をよくしらないことが理解を妨げている。とりわけ、イスラム社会との接触におけるキーワードになっているフランス特有の「ライシテ」という概念が呑みこめない。フランス流政教分離がどうして、イスラムとの軋轢を生じることになるのか。こんな疑問を村田論文が氷解してくれる。
村田論文の教えるところは、「フランスにおけるきわめて深刻なムスリムの人権状況」である。「今日のフランスの移民問題は、移民=ムスリムが引き起こす社会統合の機能不全ではなく、イスラモフォビー(イスラム嫌い・対イスラム偏見)というイデオロギーが作り出す人種差別である」という。問題はけっしてライシテにあるのではない。そして、イスラモフォビーはパワーエリートとメディアによって意識的に捏造され拡散されたイデオロギー(虚偽意識)だという。
その例証として、公共空間からのムスリム排除を象徴する二つの法律が詳しく語られる。私はこの二つの法律の区別を知らなかった。ニュースでは接していたが、ほとんど何も分からなかった。
二つの法律の前段階の時代がある。1989年にパリ郊外クレイユのコレージュ(中学校)校長が授業中にスカーフをはずすことを拒否した3人のムスリム女子学生に対して教室への入室を禁じるという事件が起きた。
このイスラム=スカーフ事件は、メディアによって大きく報道され、国論を二分する論争に発展した。憲法上の中心的な争点は、「スカーフを着用して登校することが信教の自由によって保障される」のか、それとも「ライシテ(政教分離)原則に反して許されないのか」というものであった。
国民教育相から諮問を受けたコンセイユ=デタ(最高行政裁判所)は、1989年11月27日答申において、「ライシテ原則は、必然的にあらゆる信条の尊重を意味する」と述べて、宗教に対するいかなる優遇も拒否しつつ他者を害しないかぎり宗教的信条の表明を許す白由主義的ないわば「寛容なライシテ」の立場をとることを明らかにした。その後のコンセイユ=デタの判決は、このような立場を堅持し、学校内における宗教的シンボルの着用の制限を慎重に判断した。たとえば、1996年のある判決は、学校が、スカーフ着用を性質上ライシテ原則と両立しないとして、スカーフをはずさなければ授業に出席することを許さないとした処分を違法とした。
この「寛容なライシテ」の立場が見直された。「2004年3月15日ヴェール法」である。リヨン郊外のリセにおいて、ムスリムの女子学生がバンダナをはずすことを拒否して、教師が抗議行動を起こしたことがきっかけだという。
この法は、正式には「ライシテの原則を適用して、公立の学校およびコレージュおよびリセにおいて宗教的帰属を明らかにする徴表または衣服を着用することを規制する法律」という名称で、ライシテ原則を根拠に「これみよがしな宗教的シンボルや衣服の着用」を禁止する教育法典条項を創設するものであった。
この法の通達は、呼称の如何を問わずイスラムのヴェールや明らかに大きすぎる十字架を許されない例として明示している。これはイスラム=スカーフが「これみよがし」に該当しないとしたコンセイユ=デタの判例を覆すものであった。
著者はこの法を次のように評している。この評は示唆に富むものと思う。
「教会と国家の分離に関する1905年12月9日法によって確立するライシテ原則は、『社会の宗教的多様性』を可能とし、公序を侵害しないかぎり『さまざまな宗教的傾向が公共空間に共存する可能性』を保障する自由主義的な原則である。2004年ヴェール法は、この寛容なライシテを排除して、宗教も文化的独自性も特別扱いしない共通価値を学校が継承することを前面に押し出すいわば『戦闘的ライシテ』を採り、さらにライシテを公立学校という公共空間を支配する原則とすることによって、国家を拘束する原則からその場にいる私人をも拘束する原則に転換したのである。」
問題はさらに深刻になった。通称「ブルカ禁止法」によってである。
強硬な移民排斥路線を打ち出したサルコジ大統領の政権下で成立したこの法律の正式名称は、「公共空間において顔を隠すことを禁止する2010年10月11日法律」という。これは、宗教的シンボルの着用を禁じるものではなく、もはやライシテ原則に拠るものではない。イスラモフォビーに発した、公共の安全のための治安政策なのだ。
筆者はこう批判している。
「そもそも奇妙なことに、2010年10月11日法には目的規定がない。1789年人権宣言5条は、『法律は、社会に害をなす行為にかぎりこれを禁止することができる』と定める。公共空間で顔を隠すことがライシテ原則を侵害するとはいえないとすると、何を侵害するのか? 同法に賛成した多数派の主流は、公共の安全を害すると同時に社会生活上の最小限の義務に反するという驚くべき主張をした。社会生活上の最小限の義務とは、人前では顔を見せるものだというフランス共和国のマナーなるもののことである。2010年10月11日法によってフランスの公共空間は道徳化するのであるが、現実にこの道徳によって公共空間から排除されるのは、ブルカやニカブを着用するムスリムの女性である。実質的に一部のムスリム女性だけが同法のターゲットになっているといえるのである。それゆえ、この法律をブルカ禁止法と呼ぶことには充分理由がある。」
筆者は結語として次のように言う。
フランス共和国の標語は《自由、平等、友愛》である。しかし、このうちの「友愛」は相次ぐテロ対策によって「安全」に取って代られてきている。それとともに、以上のようなイスラモフォビーの法的表現というべき立法によって、「自由」・「平等」も変質しつつある。フランス共和国は、いわば戦う原理主義的な共和国と化している。
フランスの現実はなんとも暗く重い。この論文は、「憲法9条実現のために」とするシリーズとして執筆されたものである。格差・差別や貧困が、憎悪と対立を生んで、平和や安全を脅かす。格差と貧困を解消し、差別のない寛容な社会こそが平和をつくり出す。まことに示唆的で教えられるところが多い。
(2016年2月3日)
明文改憲を呼号する安倍晋三の反憲法的性格は、戦争法だけのものではない。教育基本法・地教行法の改悪、特定秘密保護法の制定や武器輸出3原則の清算、NHKの人事統制等々多岐にわたる。靖國神社公式参拝も顕著な反憲法的姿勢の表れである。
2013年12月26日、安倍晋三は内閣総理大臣の公的資格をもって靖國神社参拝を強行した。国内外からの強い反対論、明白な憲法違反の指摘を押し切ってのことである。安倍は、公用車で靖國神社に向かい「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳したうえ正式に祓いを受けて昇殿参拝した。政教分離を規定した憲法第20条3項に違反することは自明といわねばならない。
最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は、愛媛県知事の靖國神社への玉串料奉納を違憲と断じている。多数意見13人対反対意見2人の大差であった。この孤立した反対意見者のひとりが当時最高裁長官だった三好達、現日本会議議長である。
県知事の玉串料奉納ですら違憲なのだ。ましてや内閣総理大臣の靖國神社公式参拝が違憲であることに疑問の余地はない。なお、最高裁判決で首相の靖國参拝の合違憲に触れた判決はまだないが、仙台高裁(仙台高判1991年1月10日)が岩手靖國違憲訴訟で明確に違憲判断をして以来、高裁・地裁での違憲判断はいくつかある。もちろん、合憲判断は皆無である。
この安倍晋三の違憲行為に司法の場で制裁を加えようとの果敢な試みが、「安倍靖國参拝違憲訴訟」として東京と大阪の両地裁で行われ、大阪訴訟の審理が先行して、2015年10月23日結審、本年1月28日(木)午前10時に判決言い渡しとなった。注目の判決だったが、はからずもDHCスラップ訴訟控訴審判決日と重なり、内容紹介のブログ掲載が遅れた。
ご存じのとおり、判決主文では敗訴であった。が、判決を一読した印象において、さしたる敗北感がない。判決は憲法判断を回避したが、無理をしてでも憲法判断はしたくない、という姿勢が見え見えなのだ。
「原告団一同」の名による判決への抗議声明が出されている。その冒頭の一節をご紹介する。
「本日大阪地裁は、安倍靖国参拝違憲訴訟に対して極めて不当な判決を出した。判決は、小泉首相靖国参拝違憲訴訟の2006年最高裁判決にいう、「人が神社に参拝をしても他人の権利を侵害することはない。これは内閣総理大臣が靖国神社を参拝したとしても変わりがない」をなぞるだけのものであった。
しかし、ここにいう「人」は、違憲の戦争法をごり押しし、憲法そのものにも敵対しこれを破壊する意図を明確にしている内閣総理大臣の安倍晋三である。「神社」は、殺し合いを強いられた人を天皇に忠義を尽くした人として顕彰し未来の戦死を誘導する靖国神社である。このことを踏まえれば、これを「人が神社に参拝する行為」と一般化同列化することができないことはだれが見ても明らかなことである。
安倍靖国参拝はそれが単に政教分離規定に反する違憲行為として内心の自由等の権利を侵害するのみならず、いわば戦争準備行為なのであり、平和的生存権も侵害する行為である。」
ここに怒りはあっても、敗北感はない。原告らの抗議の声は「安倍靖國参拝は戦争準備行為であり、平和的生存権を侵害する」となっている。安倍晋三の9条改憲の野望と軌を一にするものとして、靖國神社参拝が位置づけられている。これまでの靖國違憲訴訟にはなかったトーンである。
言うまでもなく、靖國神社は、国家神道における軍事的施設であり、軍国主義における宗教的施設である。軍国主義からの訣別を宣した日本国憲法の政教分離とは、時の政権と靖國との癒着を禁じたものと読むべきなのだ。いま、安倍政権の戦争推進政策の中で、新たな危険な意味合いをもった政教の癒着として靖國神社公式参拝が強行されているのだ。
この訴訟と判決が注目されたのは、政教分離問題としてだけでなく、戦争法違憲国賠訴訟、あるいは自衛隊派兵差止訴訟提起の試みに関連してのものである。国民ひとりひとりが持つ平和的生存権を根拠として訴訟の提起が可能か否か。
これまで、靖國公式参拝を政教分離に反するとする訴訟は、主として国賠請求事件として争われてきた。その場合の請求の根拠とされたものは宗教的人格権の侵害である。先に引用した抗議声明の文中にある「2006年最高裁判決」とは、2006年6月23日第2小法廷判決。その理由中に、「人が神社に参拝する行為自体は,他人の信仰生活等に対して圧迫,干渉を加えるような性質のものではないから,他人が特定の神社に参拝することによって,自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし,不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」「このことは,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから,本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。」という一文がある。この論理を克服しなければならないのだ。
安倍靖国神社参拝違憲訴訟・関西の原告は765名。
被告は、安倍晋三・靖國神社・国の3名。
「請求の趣旨」は以下のとおり、3個の請求からなる。
1 (差止請求) 被告安倍晋三は内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
2 (差止請求) 被告靖國神社は、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
3 (賠償請求) 被告(安倍・靖國・国)らは、各自連帯して、原告それぞれに対し、金1万円及びごれに対する2013年12月26日から支払済みまで年5バーセントの割合による金員を支払え。
分離を求められている政(権力)と教(宗教)とは、公式参拝をめぐっては安倍晋三と靖國ということになる。その安倍には、「靖國神社に参拝してはならない」とし、靖國には「安倍晋三の参拝を受け入れてはならない」とする。この形で、両者の癒着の禁止を命じる判決を求めるのが、第1項と第2項の請求。
そして、安倍と、安倍が代表する国と、靖國との3者に対して、違憲違法な行為によって原告らにもたらされた精神的損害の賠償を求めるのが第3項の請求。
以上の3個の請求を認容するためには、いくつかのハードルを越えねばならない。
担当裁判所は、そのハードルを8個として、次のとおりに整理した。これが各「争点」である。
(1) 本件参拝は公務員が職務を行うについてされた行為といえるか。
(2) 本件参拝は政教分離原則に違反し違法か。
(3) 本件参拝により損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(4) 本件参拝受入れにより損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(5) 原告らの損害
(6) 被告安倍の個人責任の成否
(7) 本件参拝差止請求の必要性
(8) 本件参拝受入差止請求の適法性及び必要性
このハードルを全部越えることができれば、前記の3個の請求が全部認容されることになる。原告にとって、最大の関心事は、憲法問題としての「(2)本件参拝は政教分離原則に違反し違法か」という点である。他と切り離して、これだけでも真っ先に判断してもらいたいところ。ところが、この8個のハードルの並べ方、つまり判断の順番は裁判所の裁量に任されている。どのような順番でもよいのだ。
だから、憲法判断を真っ先にして違憲であることを確認し、しかるのちに「その他の損害賠償の要件が認められない」「安倍参拝は違憲ではあるが、差し止めの要件が調っているとは言えない」などとして、請求を棄却する判決はあり得る。もちろん、多くの実例もある。
しかし、本件ではそうはならなかった。重い、違憲判断は避けられた。整理された争点の(1)と(2)の判断に裁判所が触れるところはまったくなかった。もちろん、安倍参拝を合憲とは言わない。裁判所は憲法判断を回避した。敢えて言えば逃げたのだ。
裁判所の判断は、もっぱら、(3)と(4)「安倍の本件参拝、ならびに靖國の参拝受け入れにより、原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか」に集中することになる。
前述のとおり安倍晋三の靖國参拝が違憲であることは明々白々であるが、問題はそのことを裁判で争うことが出来るかどうか、である。裁判とは、原告の権利が侵害されたときにその回復を求めてするもの。自分の権利侵害ないのに抽象的な法令違反を糺すための制度とはなっていない。だから、安倍の参拝によって法的な意味で各原告らの権利、または法的保護に値する利益の侵害がなければならない。それあると言えなければ、訴訟として成立し得ないことになる。このハードルをクリアーするためのキーワードが、宗教的人格権であり、平和的生存権である。各原告がそれぞれに持っているこの権利(あるいは権利と言えないまでも、法的な保護に値する利益)が侵害されたとの認定がなければ、憲法判断に到達できない公算が高くなる。
したがって、関心はもっぱら被侵害利益の有無に集中する。原告らの主張は、概要以下のようなものだった。
(1) 宗教的人格権の侵害
原告らは、被告安倍の本件参拝及び被告靖國神社の参拝受入れによって、内心の自由形成の権利、信教の自由確保の権利、身近な死者を回顧し祭祀することについての自己決定権を侵害された。
>(2) 平和的生存権侵害
本件参拝等によって、原告らの平和のうちに生きる権利が侵害された。現代社会においては、平和なしにはいかなる個人の権利も実現することができない。平和的生存権に対ずる侵害によって生ずる損害は、人格的生存の根幹に関わるものである。
靖國神社の歴史的経緯等に加え,被告安倍が憲法9条の改正を政治家としての目標に掲げていることからすれば,本件参拝は靖國神社という戦前の軍国主義・全体主義を承認するばかりか、称揚鼓舞する行為である。さらに,被告安倍が,これまでの内閣法制局の見解を無視し集団的自衛権の行使について憲法に反しないと主張している事実、訪米時に「私を右翼の軍国主義青と呼びたければそう呼んでいただきたい」と発言した事実等に鑑みれば,本件参拝は、靖國神社の有していた戦前の軍国主義の精神的支柱としての役割を現在において積極的に活用しようという意図のもと行われた、「戦争の準備行為」にほかならない。
しかし、判決は、安倍の靖國神社参拝によって、原告らに法的保護に値する利益の侵害があったとは認められないとした。
まず、宗教的人格権について。
「原告らは、人が神社に参拝する行為と、内閣総理大臣が靖國神社に参拝する行為は異なるとして、被告安倍が内閣総理大臣として憲法9条の改正等を目標としていることや靖國神社の歴史的経緯等に照らせば、本件参拝及び本件参拝受入れは,大々的に喧伝されることによって,国又はその機関が靖國神社を特別視し, あるいは他の宗教団体に比べて優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ,原告らを含む個人の内心の自由形成、信教の自由確保,回顧・祭祀に関する自己決定に対し,重大な圧迫,干渉を加え,原告らの内心の自由形成の権利,信教の自由確保の権利,及び遺族原告らの回顧・祭祀に関する自己決定権を侵害するものであると主張する。
確かに,靖國神社は,その歴史的経緯からして一般の神社とは異なる地位にあることは認められ、また、行政権を有する内閣の首長である内閣総理大臣の被告安倍が本件参拝をすることが社会的関心を喚起したり,国際的にも報道されるなど影響力が強いことは認めることができる。しかしながら、被告安倍が参拝するという行為は、それが参拝にとどまる限度において,原告らの特定の個人の信仰生活等に対して、信仰することを妨げたり,事実上信仰することを不可能とするような圧迫,干渉を加えるような性質のものでないと解される。
そうであれば,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても,原告らが、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」
また、平和的生存権については、次のように言及されている。
「平和に生存する権利の具体的な内容は曖昧不明確であり,認定事実を前提としても、憲法第3章に規定する基本的人権として保障される権利自由とは別に平和的生存権として保障すべき権利,自由が現時点で具体的権利性を帯びるものとなっているかは疑問であり,裁判所に対して損害賠償や差止めを求めることができるとまで解することはできない。
したがって、原告らの主張する平和的生存権を根拠として, 裁判所に対し,損害賠償や差止めを求めることはできないというべきであり,本件参拝及び本件参拝受入れによって, 原告らの平和的生存権が侵害されたとの主張は理由がない。」
超えられなかったハードルは相当に高い。そのことは率直に認めざるを得ないだろう。しかし、原告や弁護団にとっては、想定の範囲のものといってよい。むしろ、裁判所の判断はけっして説得力を持ったものとなってはいない。既にある結論ののための理屈づけにしても、けっして成功していない。今回は実を結ばなかったにせよ、ハードルを超えるための工夫も積み重ねられている。
原告団は控訴の意向である。そして、東京地裁の判決も今秋には出ることになろう。敗訴判決にめげていない、原告団と弁護団の努力に声援を送りたい。
(2016年2月2日)
1月が行って、今日から2月。今年もまた弁護士会役員選挙の季節となった。2月5日(金)が日弁連と単位会の投票日。今日から期日前投票が始まっている。
私は、弁護士会の人事はけっして私事ではないと思っている。弁護士会の役員選挙は、社会の関心事でなければならない。どんなグループがどんな理念をもって選挙に打って出ているのか、何が対立する論争のテーマなのか。出来るだけ正確に市民に知ってもらうことが望ましい。だから、各陣営や有権者の選挙運動は開かれたものとして市民の目に触れるものとすべきであろう。
今年の日弁連会長選挙は、もっぱら「稲田朋美騒動」の様相。「稲田朋美に政治献金をするような候補者は日弁連のトップにふさわしくない」のか、「稲田がいかに唾棄すべき輩であるとしても、それだけを候補者選定の基準にするのは了見が狭すぎる」のか。私は、ほかの政治家はともかく、稲田だけはアウトだろうという立場。そのことは下記のブログに書いた。
野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(1月29日)
https://article9.jp/wordpress/?p=6309
ところで、東京弁護士会は会長立候補者がひとりだけ。これは淋しい。が、選挙公報で語られている「立候補補に当たっての基本姿勢」は、至極真っ当である。その冒頭の文章は、次のとおり。
「私たちの先達は、戦前の官憲による人権弾圧の経験から、戦後、議員立法である弁護士法により弁護士自治を獲得しました。それにより、弁護士は基本的人権の擁護と社会正義の実現を自らの使命として高らかに謳い、戦後の民主主義と人権の担い手となりました…。」
憲法問題については、「安保法制と憲法改正」という項を起こして、「2014年7月1日閣議決定を踏まえた安全保障関連法案は、昨年9月19日に成立しました。 憲法解釈の限界を超え、立憲主義に違反すると言わざるを得ません」「恒久平和主義を根底から覆すような憲法改正には反対です」と明記されている。
そして、「司法アクセスへの充実」「人権課題への取り組み」「法曹養成のあり方」などが、バランス感覚よく語られている。安心できるという印象。
さて、問題は副会長選挙である。定員6名のところに7名が立候補した選挙戦となっている。
本日昼ころ、法律事務所には場違いのファクスが舞い込んできた。
「てか、弁護士会職員の人件費 高くね? そう思った方はもう少し読んでください。」
そういえば、先週には、こんなのもきていた。
「てか、若手弁護士会費負担 減らせね? そう思った方はもう少し読んでください。」
中学校や高校の児童会・生徒会でも、こんな品位に欠けた乱暴なチラシは作らないのではないか。弁護士会選挙にふさわしくないなどと言うのではない。とても、大人が真面目に書いた文章とは思えない。
今日のファクスの内容は、「私は、無駄な委員会活動、そしてそれに伴う人件費を徹底的に削減します」というもの。このファクスの送信者は、「ごめんなさい。熱くなりすぎてしまって…(笑)皆さんおなじみの赤・瀬・康・明(あかせやすあき)です!!」となっている。
昨年に引き続いての問題候補赤瀬康明の立候補である。私は昨年当ブログで2回この候補者を取り上げて、「立候補の理念を欠く」と叱責した。
弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4313
東京弁護士会役員選挙結果紹介 ? 理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4409
今年も同じことを繰り返さなければならない。そして、もう一つ、その訴え方の不まじめさの指摘を付け加えねばならない。
東京弁護士会選挙公報から同候補の「立候補の弁」の一部を抜粋してみる。
昨年度の副会長選挙では私が掲げたマニフェスト以前に、私の立候補には「理念がない」とのお声をいただきました。
その声がいう「理念」とはなんでしょうか?
「理念」という言葉をひとり歩きさせ、何も動かないことでしょうか?
その声がいう「理念」が、東京弁護士会の会員の方を満足させたのでしょうか?
私に「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「実際に決断・実行し、東京弁護士会の会員にとって東京弁護士会をより魅力的な会にすること」です。
東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか?
誰のお金によって運営できているのでしょうか?
いうまでもなく、東京弁護士会に所属する会員こそが「お客様」であるはずです。
他の誰でもなく、会員の方こそが会費を支払っているのです。
もう一度、皆様にお尋ねします。
今の弁護士会のあり方や活動に本当に満足していますか?
今の弁護士会の活動はあなたの意志を本当に反映していますか?
疑問形になっているから、答えよう。私が、キミの理念の欠如を指摘したひとりだ。私がいう「弁護士になくてはならない理念」とは、弁護士法にいう「基本的人権の擁護と社会正義の実現」のことだ。このような理念をもっていればこその弁護士であり、この理念を失えばバッジをつけていても弁護士ではない。その点で、キミはどうやら失格ではないか。
もちろん、「理念」がひとり歩きすることはない。理念の実現のためには、弁護士と弁護士会が汗をかいて動かねばならない。課題は数え切れないほどにある。冤罪の訴えある者を支援し、ヘイトスピーチの被害に泣く者を救済し、外国人難民の在留に手を貸し、震災被害者の救援もし、公害・薬害・消費者被害に苦しむ者を援助し、さらには司法制度の円滑な運用や、憲法上の人権・民主主義・平和を守ることまで、弁護士会はその使命として目配りをしなければならない。
キミに「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「基本的人権の擁護と社会正義の実現などという陳腐な呪縛は捨ててしまえ」という姿勢のみだ。人権擁護活動などは、弁護士個人が勝手にやるべきことで、東京弁護士会としては何もしないと決断すべきだというのだ。そうして会費を節減することこそが、会員のホンネにおける魅力的な会のあり方、と言っているのだ。キミは、東弁の会員弁護士や、とりわけ若手を見くびっているのではないか。
キミは、「東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか? 誰のお金によって運営できているのでしょうか?」と問う。そのとき、キミの視野には市民が入っていない。本当の「お客様」は市民ではないか。弁護士の「お金」も市民からのものだということが忘れられていないか。市民の役に立ち、社会に支えられていればこその弁護士であり、弁護士会ではないか。市民からの支援あれば司法修習の給費制を実現出来る。弁護士・弁護士会の人権活動や公益活動なくして給付制の実現はない。実は弁護士活動のすべてについて言えることなのだ。市民から見捨てられるような、弁護士会のあり方の政策提起は、とうてい是認し得ない。
去年のブログの一節をもう一度繰り返す。
弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているという。志のない弁護士たち、漫然と法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら報酬を求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。
歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。
昨年の暗澹たる思いは、赤瀬候補の落選で多少は救われた気持になっている。まさか今年が、嘆きの年になるまいとは思うのだが。
(2016年2月1日)
季刊『Fraternity フラタニティ』が創刊され、明日(2月1日)が発行日となる。
フラタニティとは友愛のこと。フランス革命のスローガンとして知られている「自由・平等・友愛」の内、「自由・平等」は普遍的原理として世界に定着したものの、友愛が不当に軽視されている。日本国憲法の理念として友愛を根付かせることによって、憲法をよりよく活かそう、というコンセプト(だと思う)。雑誌のモットーが副題として「友愛を基軸に活憲を!」となっている。私も賛同して、編集委員のひとりとなった。編集長が村岡到、編集委員に西川伸一、吉田万三などの名がある。
資本主義社会の「競争」に対峙する原理としての「協同」の奥あるいは基礎に「友愛」がある。私は個人的にそう理解している。「友愛」を理念とする市民が、「競争」を行動原理とする企業をコントロールすることが、夢想ではなく可能ではないか。その基本は民主主義による企業統制だが、それ以外にも現実にいくつかの手法が成功しているように思う。
創刊号が刷り上がっているが、なかなかの出来だと思う。読ませるこの内容で、一冊600円は割安感がある。
ぜひ、下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
http://logos-ui.org/fraternity.html
創刊号の特集が「自衛隊とどう向き合うか」で、次の3本の記事がメインとなっている。
村岡 到 「非武装」と「自衛隊活用」を深考する
松竹伸幸 護憲派の軍事戦略をめぐって
泥 憲和 安保法制批判側が国民の支持を得られない理由
そのほかに、
編集長インタビュー 孫崎 享 東アジア共同体が活路
TPPを何としても止めよう! 山田正彦
沖縄は今
脱原発へ
高野 孟 ジャーナリストの眼?
地域から活憲を? ねりま9条の会
ロシアの政治経済思潮 ?
友愛を受け継ぐ人たち? 友愛労働歴史館
わが街の記念館? 賢治とモリスの館 等々
創刊号の裏表紙に、編集長の「季刊『フラタニティ』創刊アピール」が掲載されている。「季刊『フラタニティ』は、「友愛を基軸に活憲を!」をモットーに刊行されます。」ではじまる創刊の辞は、かなりの長文で意気込みに溢れたもの。最後が「ともに〈活憲〉の時代を切り開いていきましょう」に収斂する。しかし、何よりもこの雑誌の性格をよく物語っているのは、欄外に小さな活字で書かれた編集長自身の次の文章である。
「〈付〉上記のアピールは小さな編集委員会でもいろいろ異論があります。一つの方向として、深く考える素材として発せられたものです。」
こういう、まとまりのなさを率直に明示しているところがこの雑誌の魅力である。多様な書き手のそれぞれの個性が、まとめられたり整理されたりすることなく、素のまま表れているのだ。
私も連載を引き受けた。「私がかかわった裁判闘争」というタイトル。5頁というスペースをもらっている。執筆を引き受けて、自分のこれまでの弁護士生活を振り返るよい機会だと思っている。編集長からの注文があって、その第1回で「岩手沿岸の『浜の一揆』訴訟」を取り上げた。自分で読み直してみて、結構面白いと思う。
その連載第1回の冒頭に、「私はいかにして弁護士となったか。」を書いた。
フラタニティ創刊号の予告編として、その一部を抜粋して引用しておきたい。抜粋でなく全文に興味が湧けば、ぜひ雑誌の購読をお願いしたい、という魂胆。
実は、私こそが法が求める弁護士であると自負している。密かに自負していれば穏当なのだが、執拗に広言してやまない。
「資格を持っているだけの弁護士」と「法が想定する弁護士」とは一致しない。「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は、在野・反権力に徹し、かつ資本の支配に抗することによって初めて可能となる。それだけではない。この社会においては、権力は社会の多数派によって担われる。だから、社会の多数派が形づくる常識が、権力のイデオロギーとなる。毅然として権力と対峙するには、社会の常識に絡めとられてはならない。私は、意識的にこの社会の常識を排する。「和の精神」も、愛国心や国旗・国歌も大嫌い。民族の歴史・伝統・文化には馴染めない。その中核をなす國體思想には生理的嫌悪を禁じ得ない。
そのような私だからこそ、最も弁護士らしい弁護士なのだ。現行法制度は人権擁護のために「弁護士という国家権力から独立した法技術者の職能集団」をつくった。その法の趣旨にもっとも適合的な弁護士像が、在野に徹し、資本に抗い、天皇制批判に躊躇しない私だと思っているのだ。
啄木の「一握の砂」に、「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く」という一首がある。啄木が詠んだから「歌」になっているが、散文にすれば唯物論の基本に過ぎない。「この社会において人が抱く思想は、すべて金なきに因する」か、あるいは「金あるに因する」かのどちらか。私が抱いた思想も、基本的に「金なきに因する」ものだった。
「苦学生」とは今は死語になっているのだろうか。私はまさしく古典的な苦学生だった。高校卒業後はいっさいの仕送りなしの生活。奨学金とアルバイトだけでの自活だった。
今はなき東大駒場寮に居住していた当時、寮生の自治運営だった寮食堂は格安だったが、その安い食費の捻出ができない寮生も多かった。そのような寮生に、「残食」という制度があった。夜8時頃だったろうか。ダンピングの「残食」にありつこうという寮生が列をなすのだ。経済的下層の学生が、「残食」グループを形成する。ところが、下には下がある。私ほか数名は、その列を尻目に、自由に掬える汁類をごっそりと漁るのだ。こちらは一汁だけだがタダの夕食。これを咎められた覚えがない。誰もが暖かく見守ってくれていたはずはないが、大目には見てくれていた。
そんな学生だった私には、自分が企業への就職活動をするなどとイメージできなかった。公務員になることも考えられなかった。「資本の走狗にも、権力の尖兵にもならない」などと言えば格好は良いのだが、務まりそうはないというのがホンネのところ。芸術や文筆の才能あれば、その道で生きていきたいところだが、所詮は夢のまた夢。アルバイトで明け暮れた大学生活4年間が過ぎるころに、弁護士になろうと腹を決めた。
志望の動機の最大のものは消去法である。他人に使われての勤めは自分には無理だ、と思い込んでいた。その自分にも、弁護士という自由業なら務まるのではないか。憧れたのは、飽くまで自由な生き方。誰にも束縛されず、他人におもねることなく生きる自由である。
1969年3月に6年間在学した大学を中退し、4月に最高裁管轄下の司法研修所に入所して司法修習生、つまりは法曹の卵になった。当時の司法研修所は牧歌的で、少なからず学生生活の延長の雰囲気があった。私は、正規のカリキュラムよりは、課外の自主活動で有益な研修をした。その過程で、世の中の紛争はさまざまであり、弁護士も誰の利益を代弁するか、実にさまざまであることを知った。
こうして、いくつかの「別の道」の選択もあったのだが、結局「金なきに因するわが抱く思想」に忠実であろうと心に決めて弁護士実務に就くことになった。権力の側、資本の側には就かない。強い側、多数派には与しない。こう心に決めての職業人生の出発だったが、しばらくして気が付いた。権力も資本も、私に事件の依頼などして来ない。だから、格別改めての決意など不要で初心を忘れずにいられる。こうして45年が過ぎ、いつの間にか、過去を語る齢になった。
これまで私が携わってきた分野は比較的広い。それだけ、専門性は低いとも言える。労働・労災職業病・消費者・医療過誤・薬害・差別・政教分離・選挙運動の自由・教育・平和訴訟・「日の丸君が代」強制反対等々。なんとなく、「思想・良心の自由」のフィールドがライフワークとなっている感がある。その中から、今後いくつかの事件を拾って報告の連載をしてみたい。第一回は、私の故郷岩手で、始まったばかりの「浜の一揆」訴訟である。
(2016年1月31日)
多くの方から、一昨日(1月28日)の「DHCスラップ訴訟控訴審勝訴判決」に、祝意のご挨拶をいただいた。あらためて御礼を申し上げます。
ほとんどの方が、「当然の勝訴とは思いますが、よかったですね」「当たり前の判決ですが、おめでとう」というもの。そして、「DHCや吉田嘉明は、こんなスラップを提起した責任をどうとるつもりなのでしょうか」というご意見も。
なかに、「判決主文には訴訟費用はDHC・吉田の負担とされている。具体的には、どのくらいの金額を支払わせることが出来るのか」というありがたい問合せもあった。残念ながら、これはDHC・吉田が訴状と控訴状に貼った印紙の代金について、「澤藤からはとれません」というだけのもの。私(澤藤)には1円もはいってこないのだ。これが、スラップのスラップたる所以。スラップの標的とされたものが、その訴訟に勝訴しただけではなんの見返りもない。弁護士費用も、応訴の時間消費も、その間の減収の補償もない。そこが、スラップを起こす者の付け目でもある。
もっとも、「こんなことをする、DHCの製品は決して購入しません」という声もあった。これは嬉しいことだし、本質を衝いた問題提起でもあると思う。
弁護士は別として、DHC・吉田の私に対する訴訟によって、「スラップ」「スラップ訴訟」という言葉を初めて知ったという方が、ほとんどのようだ。「スラップ」の陰湿でダーティーなイメージと、こんな提訴をする企業や経営者への社会的評価の低下は避けがたい。大きな規模でDHCの化粧品やサプリメントの商品イメージの低下にまでつながれば、再度のスラップの抑止効果を期待出来るところ。
「スラップに成功体験をさせてはならない」だけではなく、スラップ提起者への法的、社会的な制裁が必要である。そのために、まずは「スラップ」「スラップ訴訟」の実態と、社会的被害を世に知らしめなければならない。
そのような試みは、着実に始まっている。たとえば、本日発売の『消費者法ニュース』が「スラップ訴訟(恫喝訴訟・いやがらせ訴訟)」の特集を組んでいる。
『消費者法ニュース』は季刊誌である。消費者問題に携わる研究者・弁護士・司法書士・消費生活相談員・消費生活コンサルタント・市民活動家・消費者被害者らが寄稿して支えている。
2015年10月発行の前号(105号)の概要をご覧いただけば、その充実振りがご理解いただけよう。
特集1:不招請勧誘規制(Do Not Call制度、Do Not Knock制度)
特集2:公益通報者保護法の改正
シリーズ1:消費者庁・消費者委員会・国民生活センター・地方消費者行政、以下15の各テーマについてのシリーズが連載されている。続いて、学者の目、相談員の目、Q&A、判例・和解速報、国民生活センター情報、政府・政党・国会議員の声、消費者運動の歴史、判決全文紹介…とならぶ。
さて、本日(1月30日)発売の106号は、スラップ訴訟について30頁を超す盛りだくさんの特集。下記9本の論稿が並んでいる。もちろん、私も執筆者のひとり。
1 「スラップ概論」 弁護士(福岡)青木歳男
2 「伊那太陽光発電スラップ訴訟」 弁護士(長野)木嶋日出夫
3 「スラップに成功体験をさせてはならない─DHCスラップ訴訟の当事者として─」 弁護士(東京)澤藤統一郎
4 「ホームオブハート事件─ 消費者被害者に対する加害者側によるSLAPP事例─」MASAYA・MARTHこと倉渕グループ問題を考える会代表・山本ゆかり
5 「第一商品株式会社からの不当訴訟について」 弁護士(東京)荒井哲朗
6 「スラップ訴訟と名誉毀損の法理について」 弁護士(東京)飯田正剛
7 「カルト問題とスラップ」 やや日刊カルト新聞主筆・鈴木エイト
8 「スラップとメディア」 フリージャーナリスト・藤倉善郎
9 「アメリカにおける『戦略に基づく公的参加封じ込め訴訟』(SLAPP)」 創価大学法科大学院教授・藤田尚則
スラップに深く関心を持っている、当事者・弁護士・ジャーナリスト、そして研究者の深刻な問題提起と貴重な提言が持ち寄られている。消費者問題の切り口を主とする特集で、必ずしもスラップ全体をカバーするものではないが、これからスラップを語る出発点としての貴重な基本文献となっている。ようやくにして、スラップは人々の口の端に上るようになり、スラップの提起は唾棄すべき愚行であるとの社会通念が着実に形成されつつあると実感する。
スラップはさまざまに定義されているが、私は、「強者の側からの民事訴訟の濫訴を手段とした、表現の自由や市民活動の自由に対する侵害の試み」と考えている。弁護士費用・訴訟費用の負担を厭わない公権力や経済的強者の側の武器として、極めて有効なのだ。表現の自由・市民活動の自由に、重大な脅威をもたらし、我が国の民主主義を変容させかねない。
司法本来の主たる役割は、法がなければ守られない社会的弱者の権利救済にある。しかし、スラップは、その正反対の望ましからぬ役割に利用された提訴である。しかも、強者が弱者を提訴するそのことだけで、大半の目的を達する。被告とされた本人だけではなく、被告以外の多くの者、つまりは社会に対する表現や行動の萎縮効果をもたらすからである。スラップを默過し放置することは、司法の悪用を認めることにほかならない。
巻頭論文となった、青木歳男「スラップ概論」の中に「便利でお得なスラップ」という一節がある。これが、「スラップの社会学」であり、「スラップの費用対効果」である。だから、スラップがはびこり、スラップが根絶されないのだ。
(1)組織力と財力に優れた大規模な組織から訴訟を提起されるという事態は、一個人からすれば経済的・心理的に大きな負担であり、確実に被告への過大な負担を与えることが可能となる。
(2)被告の周囲の者に対しても、提訴の可能性を示唆することができ、被告への協力を躊躇させることができ、反対運動のような場合であれば反対運動自体を抑制することが出来る。
(3)加えて、他の言論機関に対しても名誉毀損訴訟の可能性を示唆することができ、メディア全般への牽制にもなる。
(4)スラップを防ぐ手立てがなく、一度被告とされると、原告が納得するまで訴訟に付き合わなければならない(米国の反スラップ法では予備審にて却下という救済制度があることと対照的である)。
(5)提訴は合法な行為であり、表面上それ自体非難されるものでない。反訴により違法性を認定されなければ不当性を指摘されることは少ない。
(6)特に名誉毀損訴訟での提訴の場合、日本の判断基準は曖昧であるから、不当であるかどうか名誉毀損が成立するかどうか(考え方としては名誉毀損が成立してもスラップと考える場合もあるが)ハッキリしないので、不当だと批判されにくい。
(7)多くの被告は訴訟の長期化を避けるため(負担が増えるため)反訴提起は起こりにくいし、反訴において不当訴訟として認定されるための要件は大変厳格である。
(8)スラップを提起したことが広く社会に知られた場合、原告が社会的非難を受ける危険性はあるが、スラップが報道される例は多くない。
(9)原告は、社会的評価を低下させる表現を見つけて訴訟を弁護士に委任すればよく、その費用は大規模組織のメディア対策費とすれば極めて低廉である。不当訴訟と認容を受けても賠償額は弁護士1名分程度の費用が上積みされたに過ぎない(幸福の科学事件判決の認容額は100万円、武富士事件の認容額は120万円、伊那太陽光発電スラップ訴訟は50万円)。
(10)現実に言論の萎縮が生じており、大変効果的な手段であると考えられる。
オウム真理教は江川昭子さんを訴え、幸福の科学は山口廣さんを訴え、DHC・吉田は係争中の労組員や私を含む批判者多数を訴えた。提訴側は、スラップに敗訴したところで何の失うものもない。負けてもともと、やり得なのだ。負けても得るものがある。スラップ常連者は、自らを厄介な存在と社会に認識させることで、自らに対する社会からの批判の言論をブロックできるのだ。
スラップ提起によるイメージの悪化が、客離れや自然発生的なボイコットあるいは不買運動などによって、スラップ提起者に経済的な打撃が生じる状況が生じれば、抑止的な効果を期待することが出来る。しかし、そのことは常に期待できることではないし、スラップの主体が、顧客を抱えているとも限らない。何らかの法的あるいは制度的な制裁の仕組みが必要である。
この点については、カリフォルニア州の「反スラップ法」が典型として参考になる。「消費者法ニュース」の藤田尚則論文は、大要次のように紹介している。
「同法は、SLAPPの標的(被告)を訴訟から早期に解放するための手続を定め、『裁判所が、原告は請求において勝訴する蓋然性があることを立証したものと決定しない限り、特別の削除申立てに服さなければならない。』と規定し、特別の削除申立ては『原告の訴状の送達から60日以内に提起することができるものとし、又は裁判所の裁量で当該裁判所が適切と決定するその後の適切な時期に提起することができるものとする。申立ては、裁判所書記官によって申立ての送達後30日以内に裁判所の未決訴訟事件表の状況が後の審尋を要求しない限り審尋に付されるよう訴訟日程表に登載されなければならない。』と規定している。更に同法は、ディスカバリー(日本法にはない証拠開示手続)による負担から被告を保護するため、訴訟における全てのディスカバリー手続は…申立ての通知の提出まで停止される。…そのうえ被告の経済的負担軽減のために『特別の削除申立てに勝訴した被告は、彼又は彼女の弁護士費用及び訴訟費用を回収する権利を付与される。』と規定している。」
さらに、「ワシントン州反SLAPP法」がスラップ被害者の救済を強化したものとして、次のように紹介されている。
「原告が明白且つ確信を抱かせるに足る証拠に基づいて申立てに成功し得る蓋然性を立証できなかった場合、裁判所は『訴訟費用及び相当の弁護士費用を含まない10,000ドル』の支払いを原告に命じ、『裁判所が応答当事者〔原告〕の行為及び同様の立場に置かれた他者によるそれに匹敵した行為の反復を抑止するに必要と決定した、応答当事者及び当該当事者の弁護士又は法律事務所に対する制裁を含む付加的救済』を命ずると規定している」
このような立法例を参考にして、我が国の「反スラップ法」「民事訴訟におけるスラップ抑制制度」を創設したいものと思う。
「消費者法ニュース」の購読申込みは下記URLで。
http://www.clnn.net/form/order.html
(2016年1月30日)
昨日の私のDHCスラップ訴訟控訴審判決法廷に、徳岡宏一朗さんが私の代理人のひとりとして出廷してくれた。記者会見にも出席して、著名ブロガーとしての自らの体験から、ブロガーの表現の自由の大切さを語った。
徳岡さんは、私の「万国のブロガー団結せよ」という呼びかけに呼応して、「リベラルブロガーの団結」の機会を作ろうと具体的プランを練っている。その彼が、記者会見の席で、ブロガーの表現の自由を守り通すことの困難な状況をも語った。
その困難な状況のエピソードのひとつとして、日弁連会長選挙に関連した彼のブログ記事が、「選挙管理委員会から削除を要請された」と報告された。その理由は、「候補者以外の会員による選挙活動は禁止されている」からだという。徳岡さん自身は、会見の場では選挙管理委員会の措置を不当とも不満とも言わなかったが、これは看過できない問題ではないか。
私は、これまで刑事弁護活動に際して公職選挙法に目を通す機会は多く、「べからず選挙」となっている選挙活動の制約過剰を批判し続けてきた。かなり以前のことだが、「戸別訪問禁止は憲法(21条)違反」という判決を勝ち取ったこともある。(もっとも、無罪は一審段階限りで、検事控訴によって覆り最高裁でも上告棄却で終わったが)
日弁連会長選挙が、公職選挙法に類する「べからず」選挙とは知らなかった。今回、初めて会長選挙規定を一読して、首を傾げた。なるほど、これはおかしい。社会正義と人権の擁護者としての弁護士の組織が行う選挙である。選挙における民主主義や人権は、国の法律よりも抜きん出て重んじられなければならない。にもかかわらず、なんと古色蒼然たる理念に基づく規定であろうか。
関連規定は、以下のとおり(読み易く一部省略)である。
第56条の2(ウェブサイトによる選挙運動)
1項 候補者は、ウェブサイトを利用する方法により、選挙運動をすることができる。
2項 選挙運動のために利用するウェブサイトは、選挙運動の期間中に限り開設される選挙運動専用のものでなければならない。
第58条(禁止事項)
候補者及びその他の会員は、選挙運動として次に掲げる行為をし、又は会員以外の者にこれをさせてはならない。
第4号 第56条の2の規定に違反してウェブサイトを利用する方法による選挙運動をすること。
要するに、ウェブサイトを利用する選挙運動は、候補者だけに可能とされ、一般会員有権者には禁止されているのだ。規定がこうなっている以上、任務に忠実を心掛ける謹厳な選管委員氏が、徳岡さんのブログを看過できないとしたわけだ。だが制裁措置は予定されていない訓示規定。どう運営するかは選管次第。看過したところでなんということもないのだ。むしろ、規定の方に大いに問題があり、異議ありなのだ。
この会長選挙規定をおかしいという根拠の一つは、選挙運動主体についての理念を古色蒼然で戦前型といわねばならないことにある。私は、民主主義社会の選挙運動の主体は候補者でもその取り巻きでもなく、主権者国民であることを疑わない。かつて、普通選挙法(1925年改正衆議院議員選挙法)成立後敗戦までの間は、「演説又は推薦状による場合を除き、候補者、選挙事務長、選挙委員又は選挙事務員でない第三者は選挙運動をすることができない(第96条)」と規定された。この「第三者」とは有権者国民のことである。選挙運動の主体は、候補者と、登録された運動員に限られ、「第三者」たる一般国民には選挙運動が禁止されていた。国民は選挙運動の主体ではなく、もっぱら選挙運動の受け手に留め置かれたのだ。可能な限り臣民に民々主義的な政治感覚を育てたくないとする天皇制政府の(悪)知恵の所産である。日弁連の会長選挙規定がこの思想を受継しているかにみえることに一驚せざるを得ない。
選挙とは、本来的に有権者相互間の言論戦である。選挙運動としての言論の規制を合理的だというためには、カネがかかりすぎるか、虚偽や詐術の場合以外には考えがたい。しかし、ブログこそは最も金のかからない言論手段ではないか。また、虚偽や詐術には反論を第一とすべきであろう。後見的に選管が注意や勧告をするのはよくよくのことがなくてはならない。
徳岡さんのケースを具体的に見る必要があるだろう。彼の1月25日付ブログに次の記事がある。
「さっき、日本弁護士連合会選挙管理委員会の副委員長さんから、わざわざお電話をいただきました。わたくし、なんかの選挙にも出た覚えがないので、ビックリしたのですが、なんと私のブログ記事が日弁連の選挙管理規定に違反するので、削除して欲しいと言うのです。」
問題となったのは以下の記事。2016年1月17日付け記事で、
「【悲報】日本弁護士連合会の執行部側○○○○候補が、稲田朋美自民党政調会長に何度も献金していた。」というもの。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/91b8d2267e07171d450b4c1dd6ab2c65
選管は、同候補が稲田朋美に献金をしていたことが事実かどうかを問題にするのではなく、形式的に「日弁連の選挙管理規定違反」だけを削除要求の理由に挙げたようだ。
私は、今回の候補者のひとりが稲田朋美という極右の政治家に政治献金をしていたという事実を知らなかった。徳岡ブログによって、貴重な私自身の投票行動の判断基準となるべき重要事実を知ることとなった。明らかに、候補者以外の会員が発するブログ記事は有益である。
もっとも、今回は、選管が動いたということが大きな話題となって、末端会員である私も、某候補者と極右稲田との関係を知るところとなった。選管の徳岡ブログ削除要求は話題作りの高等戦術なのか、あるいは単なるオウンゴールなのかは判然としない。
稲田朋美が何者であるか、いったんは私も情報を整理しようとしてみたが、その必要はない。徳岡さんが、これ以上はないという綿密さで、見事なプロファイリングをしてくれた。これを読めば、稲田が政治家としても、弁護士としても、いや市井のひとりしても、人間性を疑問視されるべきトンデモナイ人物であることが一目瞭然である。これも、選管介入の賜物であろうか。ぜひとも多くの人に読んでいただきたい。大いに拡散したいものである。
「日本弁護士連合会会長候補が献金していた稲田朋美政調会長とは、こんな極右政治家。」
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/db48f4b75b6bf719015cffa4eb8f2d57
公正を期すために、稲田との関係を指摘された候補者の釈明(抜粋)を記載しておきたい。
「年数万円の政治献金だけが事実で、あとはみなでたらめです。しかも、私が献金しているのは、稲田議員だけではありません。
稲田議員は、私と同じ大阪弁護士会に所属しており、旧知の間柄であるだけではなく、給費制やTPPの弁護士に関する条項の問題では、弁護士会と同じ立場に立って活動しています。法曹人口問題や法曹養成問題、給費制など、弁護士をめぐる様々な問題は、政治問題でもありますので、政治家への働きかけは欠かせません。私はこう考え、弁護士議員を中心に、与野党を問わず、幅広い議員に政治献金をしています。ここで個人名を挙げるのは控えますが、憲法問題でおよそ稲田議員と対極の立場にある野党議員にも献金しています。それを言わないで、稲田議員のみを取り上げるのは、ためにする議論としかいえません。」「弁護士の立場を守る議員は与野党を問わず応援するが、個別の政見については是々非々で対応する。これが私の立場です。もっとも、今までは一人の弁護士として献金してきましたが、公的な立場である日弁連会長となった暁には、全議員に対して献金を控えることといたします。」
稲田への「年数万円の政治献金だけが事実」と認めた上で、堂々とその理由を述べている。これはこれで見識と言えよう。「極右稲田もいまや有力な与党政治家なのだから、これと上手に付き合う必要がある」「弁護士会の利益のために、清濁併せ呑むべきは当然」「良い人とだけつきあっていたら選挙落ちちゃうんですね」「濁の濁たる稲田とでも付き合わなくては」との考え方である。他方「こんな輩とエールを交換することは断じてあってはならない」とする潔癖な批判は当然にある。考え方は、いろいろあってよい。が、「某候補者に対稲田献金あり」との事実摘示のブログを削除せよとする選管のやり方は穏やかではない。
必要にして十分な情報の交換とともに、批判と反批判の応酬の場を保障して、判断は有権者に任せればよいだけのことではないか。いずれ、この首を傾げざるを得ない日弁連会長選挙規定は変わらざるをえない。それまでの間、この点についての四角四面の厳格運用は野暮ではないか。野暮とは、法形式のみにとらわれて、民主主義の本質についての理解に欠けるという程度の意味合いである。
(2016年1月29日)
DHCと吉田嘉明が私を被告として提起したDHCスラップ訴訟、本日その控訴審判決が言い渡された。当然のことながら、「控訴棄却」。私の全面勝訴である。
「スラップに成功体験をさせてはならない」。これが何よりの重要事。私にスラップを仕掛けたDHC・吉田の成功体験を阻止し得たことは、私個人にとっても、また、表現の自由という基本権擁護の立場からも、まずは良い結果となったことが喜ばしい。政治的民主主義や、規制緩和問題、消費者問題、健康食品・サプリメントの安全性の問題など、さまざまな視点から訴訟を支援していただいた方々に厚く御礼を申し上げます。
勝訴判決は当然のこと、当然勝訴とは思いつつも、判決言い渡しあるまでは、一抹の不安を禁じ得なかった。この被告に対する心理的な圧迫感や負担感が、スラップ訴訟特有の効果でもあろう。
弁護士の私においてさえ、スラップを起こされたことの不快感と圧迫感は否定し得ない。6000万円という金額を「バカみたい」と笑えるのは、第三者の立場にあればこそ。当事者とされた身には、高額請求という手法の効果と、それ故のやり口のあくどさを実感してきた。訴訟の世界に縁の薄い方が、スラップの標的となった場合の驚愕と焦慮は察するにあまりある。この裁判が確定すれば、攻勢に転じて、スラップ防止の具体的な策を講じなければならない。
本日の判決は、一審判決の結論を維持したが、DHC・吉田の請求を棄却する理由について、一審判決より、やや踏み込んだ判断をしている。この点において、判例としての価値のあるものと考えられる。
訴訟における最大の争点は、最高裁が採用している判断枠組みを前提として、名誉を毀損するとされている表現が「事実摘示」か、あるいは「意見・論評」かの分類判断基準についてである。前者であれば、摘示事実の真実性について証明責任が被告に負わされることになる。後者であれば、そもそも真実性の問題が生じない。
DHCと吉田は、私のブログのなかの16個所(???)が名誉を毀損するものと主張した。これに対して、原判決は1個所だけを除いた15個所につき、その表現が原告らの名誉を毀損することを認めた。しかし、その15個所の全部について、これは「事実摘示ではなく、論評である」として、違法性を欠くという判断をした。この枠組みは、本日の控訴審判決も是認した。
DHC・吉田は、その判断が最高裁判決(いずれもロス疑惑についての「夕刊フジ事件」「朝日新聞事件」)を根拠として、???はいずれも事実摘示だとする控訴理由を主張した。これに、判決は丁寧に応えている。
たとえば、次のようにである。
イ 本件記述?及び?について
控訴人らは,「吉田嘉明なる男は(中略)自分の儲けのために,尻尾を振ってくれる衿持のない政治家を金で買った」(本件記述?),「大金持がさらなる利潤を追求するために,行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す」(本件記述?)との記載が,8億円の貸付けに係る控訴人吉田の動機という事実を摘示するものであると主張する。
しかしながら,本件記述?及び?は,控訴人吉田が様々な規制を行う官僚機構の打破を求め,特に,控訴人会社の主務官庁である厚生労働省の規制について煩わしいと考えていた事実,控訴人吉田が渡辺議員に合計8億円を貸し付けた事実,控訴人吉田が雑誌に本件手記を掲載し,渡辺議員との関係を絶った事実を前提にするものであるが,これらの事実は,いずれも平成26年4月3日号の週刊新潮に掲載された控訴人吉田の手記(本件手記)に記載されている事実であり,それ以外に,例えば被控訴人が独自に入手した情報など,本件手記の記載以外の情報を付加して推論を行ったものではなく,このことは,ブログの記事の記載から理解可能である。そして,このような場合には,読み手としては,本件記述?及び?に記載された本件貸付けの動機は,前提事実を元にした推論であると理解するものと考えられる。また,ブログの記事によって取り上げられた本件貸付けは,政治の過程における政治と金銭の問題に関係するものであり,国民の立場から重大な関心事になり得ることからすれば,控訴人吉田が本件貸付けに当たり真実どのような動機を有していたかという事実の問題とは別に,前提事実の組合せに対する社会的な評価や推論・解釈ないしこれに基づく議論が存在し得るものであって,本件記述?及び?はそのような性質のものと理解することも可能である。これらからすれば,本件記述?及び?は被控訴人の意見ないし論評であるとの評価に結び付きやすいといえる。
また,控訴人らは,本件手記や控訴人会社のウェブサイトに控訴人吉田が8億円を貸し付けた動機が記載されており,その真否は控訴人吉田の供述の信用性判断により確定できるから「証拠等をもってその存否を決することが可能な事項」であるとも主張するが,ここで問題とされている本件貸付けの動機は,飽くまで人の内心に係る一般的な行為の動機であり,本件手記等に控訴人吉田の動機に関する記載があるからといって容易にその真否を判定できるものではないというべきである。控訴人らが指摘する前掲最高裁平成10年1月30日第二小法廷判決は,犯罪の嫌疑を受け公訴提起された者について,被告事件(犯罪)を犯したとして犯行動機を推論する新聞記事が事実を摘示するものであるとされた事案であり,本件は,刑事手続において犯罪行為の動機が犯罪事実そのものと共に証拠等をもって認定され,その存否を決することができるとされるものとは異なるものである。
このようにしてみると,本件記述?及び?の記載は,一般の読者の普通の注意と読み方をもってすれば,証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張するものと理解することはできず,控訴人吉田の本件貸付けの動機についての事実の摘示を含むものと解することはできないというべきである。
また、控訴人が「目的の公益性の欠如を主張する点について」の判決の次の指摘も重要である。
控訴人らは,?披控訴人のブログ記事において,攻撃的な表現,控訴人らを嘲笑し馬鹿にする記述,控訴人らに対する敵意ないしは反感に満ちた表現があること,?ブログ記事の掲載に当たり事実関係の調査がされなかったこと,?披控訴人が控訴人会社について「元祖ブラック企業」と記載したチラシを配布していたこと,?経済的強者=悪という個人的な信念ないしは偏見のもと,大企業である控訴人会社及びその代表取締役会長である控訴人吉田を悪人に仕立て上げたいというのが披控訴人のブログ記事掲載の隠れた動機であること,?披控訴人が,本件に便乗して控訴人会社の商品の安全性に対する一般消費者の不安を煽り,その信用をおとしめることも隠れた動機として有していたことから,その執筆態度に真摯性がなく,公益性の否定につながる隠れた目的も存したのであるから,本件各記述について,専ら公益を図る目的に出たものとは認められないと主張する。
しかしながら,本件各記述については,確かに,上記?の指摘のように受け取られる部分があることは否定できないが,原判決の説示のとおり,その内容が,政治家への資金提供の透明性を確保し,民主主義の健全な発展のためには,金員の提供を受ける政治家だけでなく,金員を提供する私人についても監視,批判が必要であるということを訴えるもの,サプリメントの販売については,規制緩和の要請があることや,機能性評価が不十分であること,さらに,有害物質の含有や健康被害の例など安全性の問題等があることを指摘するもの,本件訴訟の提起について,経済的強者等が自らの意に沿わない意見について,訴訟により相手方に精神的,経済的負担を負わせ,当惑させ,論評を封じ込める目的で訴訟を提起するという訴権の濫用及び言論の自由に関する主張を行うものであり,いずれも,その内容に照らし,専ら公益を図る目的に出たものと認められるものである。
控訴人らのこの点の主張は採用できない。
私のブログでの表現は、吉田嘉明の人身攻撃にわたるものではなく、彼自身が手記で語った行為に対する批判である。私の表現は、典型的な「公共に関わる事項に関して、もっぱら公益を目的とする」言論であり、前提とする事実の真実性にいささかの疑問もない。
ところが、DHC・吉田は、私がブログを書いた意図をこう邪推する。
「経済的強者=悪という被控訴人(澤藤)独自の価値判断に基づき,従前から悪の権化と考えてきた控訴人会社(DHC)の代表取締役会長である控訴人吉田をおとしめて懲らしめるという隠れた目的のもとにされたものであり,控訴人吉田の行為等への批判ではなく,個人本人に向けられた人格攻撃であって,控訴人吉田の名誉感情を不当に侵害し,侮辱するものである」
これに対する判決の判断は、「その主張に係る被控訴人の目的を認めるに足りる証拠はないことに加え,上記各記述は,原判決の説示するとおり,控訴人吉田の行為や言動に向けられたものであり,社会通念上許される範囲を超えて人格的価値を否定するものとまでは認められないというべきである。したがって,控訴人らのこの点の主張も採用できない。」というもの。
当然の判断ではあるが、表現の自由にとって重要な判断である。私のブログによって、いかに吉田嘉明とDHCの名誉が傷つけられようと、私のブログは、決して吉田嘉明個人の人格攻撃を目的としたものではなく、その行為に対する批判として「表現の自由」の旗に守られているのだ。吉田とDHCは「身から出たサビ」として、名誉の侵害を甘受しなければならない。
昨日のブログにも、こう書いた。
表現の自由とは、人畜無害の表現を保障するだけのものであるだけなら、憲法にわざわざ規定するだけの意味に乏しい。一審判決はこのことを認めた。その一審判決の認定が覆ることは、万に一つもあり得ない。
実際に控訴審判決は、この立場を踏襲しただけでなく、さらに明確にしたといえよう。
本日の記者会見は、山本さんの司会で進行した。冒頭私から、判決の概要とスラップ被害の深刻さを説明し、阪口さんが「政治とカネの癒着を批判する言論の重要性」を、徳岡さんが「ブロガーの言論の自由の重要性」を、塚田さんが「規制緩和が及ぼす消費者被害を告発する言論の重要性」を、最後に中川さんから「サプリメントにおける安全性についての警告の重要性」について、それぞれの発言があった。
上告ないし上告受理申立の考慮期間は2週間。「印紙代も弁護士費用も無駄だよ」と言ってみても、聞く耳はないだろうな。私が確定的に被告の座から離れることができるのは、もう少し先のことになりそうだ。
(2016年1月28日)
明日(1月28日)が、私自身が訴えられているDHCスラップ訴訟の控訴審判決。
係属裁判所は、東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)。
時刻は、午後3時。
法廷は、東京高裁822号法廷(庁舎8階)。
司法記者クラブで、5時からの記者会見が予定されている。
私のブログでの表現は、吉田嘉明の人身攻撃にわたるものではなく、彼自身が手記で語った行為に対する批判である。私の表現は、典型的な「公共に関わる事項に関して、もっぱら公益を目的とする」言論であり、前提とする事実の真実性にいささかの疑問もない。だから、私のブログによって、いかに吉田嘉明とDHCの名誉が傷つけられようと、私のブログは、「表現の自由」の旗に守られているのだ。吉田とDHCは「身から出たサビ」として、名誉の侵害を甘受せざるを得ない。表現の自由とは、人畜無害の表現を保障するだけのものであるだけなら、憲法にわざわざ規定するだけの意味に乏しい。一審判決はこのことを認めた。その一審判決の認定が覆ることは、万に一つもあり得ない。
注目すべきは、私の控訴審判決が、実にタイムリーな時期に巡り合わせたということである。この事件は、憲法上の表現の自由をめぐる裁判であるが、問題とされている私の表現の内容は、「政治とカネ」「規制緩和」「消費者」「サプリメント」そして、「スラップ」に関わる問題提起である。各テーマが、今つぎつぎと話題になっているではないか。
まずは、「政治とカネ」である。甘利明の「1200万円賄賂収受疑惑問題」が沸騰した時点での判決。「吉田・渡辺8億円授受」と、「甘利・S興業1200万円授受」事件、その薄汚さにおいて、それぞれが兄たりがたく弟たりがたし、である。もう一度、「吉田嘉明・渡辺喜美8億円授受事件」の記憶を整理して思い出してもらうのに絶好のタイミング。私は、「吉田が資金規正法を僣脱する巨額の『裏金』を政治家に提供して『カネの力で政治を買おうとした』ことを批判した。このような批判が封じられてよかろうはずがない。
それだけでない。吉田嘉明は週刊新潮に寄せた自らの手記に、経営者の立場でありながら自らの事業に対する主務官庁(厚労省)の規制を「煩わしい」と無邪気に広言している。通常の国語解読能力を持つ読者が、普通の感覚でこれを読めば、吉田嘉明は行政規制の緩和ないし撤廃を求めて8億円の「裏金」を提供した動機を語っていると理解できる。経営者が、行政規制からの経営の自由を求めて政治に介入したことを、私は批判した。
15人が亡くなった、傷ましい長野県での夜行バス事故は、行政規制遵守に徹しようとしない業者の姿勢から生じた。「廃棄カツ横流し」に端を発した「“ごみ”が“食べ物”に逆戻り」の事態も、コンプライアンス軽視の姿勢が批判されている。吉田嘉明は、コンプライアンス対象の規制自体を緩和ないし撤廃しようと広言しているのだ。誰の目にも、私の批判の真っ当さが明らかではないか。
さらに、吉田嘉明の規制緩和要求は、口に入れるサプリメントと肌に塗る化粧品を製造販売する事業者の言として、とうてい看過できない。行政規制を煩わしいとする行動原理を持つ経営者は消費者にとってとてつもなく危なっかしい。その姿勢は、消費者被害に直結するものとして批判されて当然ではないか。
これについても、「サプリメントカフェイン過剰摂取死亡事故」が現実に生じ、内閣府食品安全委員会が「『健康食品』の検討に関する報告書」を発表したばかりのタイミングである。機能性表示食品制度など、健康食品・サプリメントの規制緩和が健康被害に及ぼす具体的警告のインパクトは大きいが、その内容は、私の吉田への批判そのものと重なる。
そして、「スラップ訴訟」問題である。DHC吉田の貢献もあって、スラップ訴訟という用語とイメージが、ようやく人口に膾炙し、社会に浸透してきた。いま、スラップ訴訟は社会に蔓延しその弊害が話題となっている。私が取材される機会も増えてきた。ドールフーズからスラップ訴訟を仕掛けられた顛末をドキュメントとしたスウェーデン映画『バナナの逆襲』もこれから封切られる。
この絶好のタイミングで、DHCスラップ訴訟は、明日(1月28日)控訴審判決言い渡しとなる。乞うご期待、である。
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明日(1月28日)の「DHCスラップ訴訟」控訴審判決。私自身が被告とされ、いまは被控訴人となっている名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決です。
関心のある方は、ぜひ傍聴にお越しください。
ただし、これまで毎回欠かさず行ってきた報告集会は省略いたします。1回結審(12月24日)で、判決日が1月28日。この間の日程があまりに短く、集会参加が困難なことと、場所の確保ができません。しかも、当日は在京の三会とも弁護士会の役員選挙期間中とあって、会議室は全部選挙事務のために塞がっています。ご了解ください。
報告集会に代えて、近くの待合室で簡単なご報告を申しあげ、希望者には直ちに判決書きをご送付いたしますので、メールアドレスかファクス番号を登録してください。
なお、少し日をおいて、十分な準備のもとに、スラップ訴訟撲滅を目指すシンポジウムを開きたいと思います。ご期待ください。
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なお、これまでの経過の概略は以下のとおりです。
《DHCスラップ訴訟経過の概略》
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12
2014年3月31日 違法とされたブログ(1)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
同年4月16日 原告ら提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
以下本日(1月27日)の第68弾まで
8月20日 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月 1日 第8回(実質第7回)弁論 結審(阪本勝裁判長)
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
9月15日 DHC・吉田控訴状提出
11月 2日 控訴理由書提出
12月17日 控訴答弁書提出
12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年1月28日 控訴審判決言い渡し(予定)
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訴訟の概要は以下のとおりです。
株式会社DHCと吉田嘉明(DHC会長)の両名が、当ブログでの私の吉田嘉明批判の記事を気に入らぬとして、私を被告として6000万円の損害賠償請求の裁判を起こした。正確に言えば、当初の提訴における請求額は2000万円だった。不当な提訴に怒った私が、この提訴を許されざる「スラップ訴訟」として、提訴自体が違法・不当と弾劾を開始した。要するに、「黙れ」と言われた私が「黙るものか」と反撃したのだ。そしたら、2000万円の請求額が、3倍の6000万円に増額された。「『黙るものか』とは怪しからん」というわけだ。なんという無茶苦茶な輩。なんという無茶苦茶な提訴。
一審判決は、「(澤藤の)本件各記述は,いずれも意見ないし論評の表明であり,公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」。だから、DHC・吉田の名誉を毀損しても違法性を欠く、として不法行為の成立を否定した。
おそらくは、控訴審判決も同じ判断になるだろう。
スラップの訳語は定着していないが、「恫喝訴訟」「いやがらせ裁判」「萎縮効果期待提訴」「トンデモ裁判」「無理筋裁判」…。裁判には印紙代も弁護士費用もかかる。普通は、この費用負担が濫訴の歯止めとなるのだが、金に糸目をつけないという連中には、濫訴の歯止めがきかない。スラップ防止には、何らかの制裁措置にもとづく、別の歯止めが必要だ。たとえば、高額の相手方弁護士費用の負担をさせるとか、スラップ常連弁護士の懲戒などを考えなければならない。この判決が確定したあとに、私はこの件について徹底してDHC吉田の責任を追及し、そのことを通じて社会的な強者によるスラップの撲滅のために、問題提起を続けていこうと思う。
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《仮にもし、一審判決が私の敗訴だったら…》
私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
何度でも繰り返さなければなりません。
「スラップに成功体験をさせてはならない」と。
(2016年1月27日)
本日の要請行動は、これからの卒業式・入学式のシーズンを前にして、「日の丸・君が代」強制の職務命令を発令しないように要請するものです。具体的な要請内容とその理由については、要請書に記載されたとおりであり、いま「被処分者の会」や「五者卒業式・入学式対策本部」の責任者から補充して説明があったとおりです。
私は、要請者の代理人弁護士としての立場で、教育情報課長を通じて東京都教育委員会に対して、各要請事項に通底している問題点として特に3点を申しあげたい。
第1点は、都教委が数多く抱えている裁判について、その判決の重みを十分にご認識いただきたいということ。既に、65件55人の処分取消の判決が確定しています。都教委は、10・23通達関連訴訟でこれだけの敗訴判決を受けているのです。負け続け判決のその深刻さについて認識が足りないと言わざるを得ません。三権分立を建前とする我が国の法制度において、行政が、司法から「その処分は違法だ」「行政の行為が人権を侵害している」と1件なりとも指摘されることの重大性を自覚してもなわねばなりません。それが、65件も重なっているとなれば、事態を重く受け止めて、どこに原因があったか、誰の責任か、さらにどうしたら同じ過ちを繰り返さないようにすることができるか、真剣に考えなければなりません。もちろん、違法な行為によって被害を受けた教員には、心からの謝罪と、誠実な被害回復措置が必要です。傲慢な態度をとり続けることは、決して許されないと知るべきです。
都教委から見ての勝訴判決についても、その内容をよく吟味していただきたい。裁判所は行政に甘い。行政裁量の範囲をとてつもなく広く認めています。だから、ぎりぎりセーフで、「違憲・違法とまではいえない」という判決をもらって喜んでいてはいけません。勝訴判決だからよしとするのではなく、教育を担当する行政機関として、これでよかったのか十分に判決の意とするところを汲んでいただきたい。最高裁判決は、「日の丸・君が代の強制は、間接的には思想良心の侵害に当たる」と言っています。間接的にもせよ、思想良心の侵害となるような強制を続けておいてよいのでしょうか。また、違憲・違法とはいえないけれど、当不当は別問題とまで、わざわざ書き込んでいる最高裁判決もあります。これらのメッセージをしっかりと受け止めて、教育をつかさどる行政が、この違憲違法すれすれのレベルでよいのか、ぜひ反省していただきたい。
第2点は、都教委という行政機関が、法が想定した組織のあり方から大きく逸脱していることを指摘しなければなりません。東京都における教育行政の主体は、飽くまで行政委員会としての教育委員会です。行政機関としての意思形成における判断主体は6名の教育委員による合議体のはず。そして、東京都の教育庁は、教育委員会の事務局として、教育委員会と各教育委員をサポートするための組織でしかないのです。教育というものの重要性に鑑みて、教育行政の主体を行政からは独立した合議制の教育委員会としたことの意味をもう一度、認識していただかなければなりません。
私たちは、これまで何度も本日のような場を持ち、申入れ・陳情・要請を繰り返してきました。しかし、私たちの要請書が教育委員の手に渡ることはないという。教育委員は、事務方の情報コントロールの結果、判断能力の無いお飾りになりさがっています。これは、下克上による逆転現象というべきか、あるいは事務方の委員会権限乗っ取りと言わざるを得ません。
おそらくいま都教委が抱えている最大の問題が、この「日の丸・君が代」強制問題です。その問題に関して、私たちが提出した教育委員会宛の要請が教育委員に届かないとはどういうことか。「要望を吟味し検討したが、ご期待には添いかねる結果となった」というのならまだしも。要望が事務方の段階で握りつぶされ、教育委員には届かないということにはとうてい我慢がならない。請願は憲法上の権利でもある。ぜひとも、われわれの要請を教育委員に正確にお伝えいただき、会議の議題としていただきたい。
おそらく、お飾りとされていることは、各教育委員にとっても本意ではないはず。みなさん、給料にふさわしい実質を伴った仕事をしたいと望んでいるのではないでしょうか。
第3点。10・23通達、そしてそれに基づく「起立・斉唱」を命じる職務命令、そして懲戒処分。こういう繰りかえしはそろそろ終わりにしていただきたい。
2003年の10・23通達は、異常な環境において生じたものです。何よりも、トンデモナイ知事が君臨していた時代のこと。憲法に敵意を剥き出しにした恐るべき石原慎太郎知事、その知事のお友だちとして提灯持ちを務めた米長邦雄、鳥海厳などの右翼教育委員、そして突出した数名の都議会内右派議員。この人たちがつくり出した異常な産物と言わざるを得ません。
もう、知事は代わり、教育委員も全員が入れ替わっています。10・23通達は見直されて当然でありませんか。卒業式・入学式のたびに、「日の丸・君が代」を処分の恫喝で強制することは、なんの益するところもありません。このことも、分かってきたではありませんか。さらに、判決は負けつづけ。明らかに、事情が変わってきています。ぜひとも、「日の丸・君が代」強制という方針を見直していただく時期に来ていると思います。
ぜひとも、教育委員の皆さんでご検討いただくようお願いいたします。
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要 請 書
2016年1月26日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 A B
東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿
<要請の趣旨>
1.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、2015年4月までに懲戒処分を受けた教職員は延べ474名にのぼります。この通達発出以降、東京の学校現場では命令と服従が横行し、自由で創造的な教育が失われています。
2.一連の最高裁判決(2011年5月?7月)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、処分取消訴訟の最高裁判決(2012年1月、2013年9月)では、「間接的制約」に加え、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消しました。最高裁が、都教委による累積加重処分に歯止めをかけたのです。
これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めています。
また、2015年12月4日、東京高等裁判所(第21民事部中西茂裁判長)は、東京「君が代」裁判第三次訴訟において、最高裁判決及び一審東京地裁判決(2015年1月)を踏襲し、東京都の控訴を棄却し、8件・5名の減給・停職処分を取り消しました。都教委は最高裁への上告を断念し、自ら敗訴を認めました。
更に、2015年12月10日、東京高裁(第2民事部柴田寛之裁判長)は、卒業式等における「君が代」不起立・不斉唱による懲戒処分を理由とする定年退職後の再雇用拒否を「違法」として、東京都の控訴を棄却し、原告22名に総額約5370万円の損害賠償を命じました。
3.最高裁、東京高裁、東京地裁で確定した処分取消の総数は、65件・55名に上ります(別紙参照)。東京都教育委員会が、最高裁・東京地裁に・東京高裁で「違法」とされた処分を行ったことは、教育行政として重大な責任が問われる行為です。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を都民に明らかにし、再発防止策を講じるべきです。その上で、10・23通達などの「日の丸・君が代」強制に係わる従来の都教委の施策を抜本的に見直すべきです。
4.しかるに、都教委は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の「議決」を根拠に、従来の姿勢を改めることなく最高裁判決にも反した減給を含む懲戒処分を出し続け、更には「服務事故再発防止研修」を質量共に強化しています。現在の研修は、明らかに内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与えるものであり、東京地裁決定(2004年 民事19部、須藤典明裁判長)に反しています。
また、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月及び2015年3月?4月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計16名に新たに戒告処分を科し再処分を行うという暴挙を行いました。
これらは最高裁などの判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできません。猛省を迫るものです。
5.「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」は、一連の最高裁判決で校長の職務命令が、思想・良心の自由の「間接的制約」であること、「減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」だとして減給・停職処分が取り消されたこと、反対意見、補足意見が多数出されていること等をことさら無視して、都教委に都合の良い部分だけを取り出して「日の丸・君が代」強制を合理化しています。
6.貴教育委員会が、一連の司法の判断を重く受け止め、責任ある教育行政としての立場を自覚するとともに、問題解決のため下記申し入れを誠実に検討し、回答することを強く要求します。
<要請事項>
1 東京都教育委員会が2003年10月23日に発出したいわゆる「10・23通達」を撤回すること。
2 同通達に基づく一切の懲戒処分・厳重注意等を取り消すこと。
3 最高裁判決(2012年1月、2013年9月)及び東京高裁判決(2015年12月4日)に従い、10・23通達に基づく全ての減給・停職処分を即時取り消すこと。
4 2013年12月及び2015年3月?4月の現職教職員16名に対する戒告という再処分を撤回し、該当者に謝罪すること。
5 同通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。
6 卒業式、入学式で同通達に基づく新たな懲戒処分を行わないこと。
7 同通達に係わり懲戒処分を受けた教職員に対する「服務事故再発防止研修」を行わないこと。
8 卒・入学式等での「君が代」斉唱時に生徒の起立を強制し、内心の自由を侵害する「3・13通達」(2006年)を撤回すること。卒業式、入学式での生徒への内心の自由を告知などの各学校の創意工夫に介入しないこと。
9 「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」を撤回すること。
10 最高裁判決に従い、「紛争を解決する」ための具体的改善策を策定すること。
11 都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。
12 本要請書を教育委員会で配付し、慎重に検討し、議論し、回答すること。
<回答期限> 2016年2月9日(水)。
「労働運動は場末のパブから始まった」とは社会史が語るところ。「労働組合は、安酒の麗しき結晶である」とは、私ひとりの語るところ。資本主義の勃興期に、法の保護なく過酷な搾取に喘いだ工場労働者たちがパブで不満を語り合う。これが労働運動と労働組合の起源なのだ。
だから、私が弁護士になった当時、労働運動に寄与したいと志す若手の弁護士には、「労働者と酒を飲め」「団結も信頼も、アルコールから生まれる」などと教えられ、実際によく飲んだ。私の付き合いの範囲では、組合費で幹部が酒を飲むことはなかった。もちろん接待もない。すべて自腹の割り勘の「団結と連帯の酒」だった。
酒食をともにし語り合うことで信頼関係が生まれる。同じ席で同じものを飲みかつ喰うことが、仲間と認めあう儀礼となっているのだ。「同じ釜の飯を喰う」「一宿一飯の恩義」などの言葉のニュアンスがよく分かる。「俺の酒が飲めないっていうのか」という酔漢の気持ちも、だ。
多くの「一流」マスコミ人が、安倍ら「二流」政治家と酒食をともにしているという。こちらは場末の安酒ではない。豪勢な料亭や寿司屋、あるいは一流のレストランでの話し。アベ友、スシ友、フグ友、飲み友の会席。この席で、政権とメディアとの「団結と信頼」「個人的な友情」あるいは「醜い癒着」の関係が育まれているのだ。勘定は誰が持っているのか、などと問題にするのは「ゲスの勘繰り」の類。
その効果は着実に現れている。NHKや産経・読売だけにではない。私の愛読する「毎日新聞」にもである。
本日の毎日新聞朝刊2面の「風知草」。このコラムは毎週月曜日に掲載されるが、この空間には他の記事とは違う風が流れている。「アベ風」の匂いである。本日のタイトルは、「ゲスの極み」。二流政治家と酒食をともにする「一流記者」山田孝男の筆になるもの。
「風知草」とは、風のまにまになびく草。疾風の中の勁草の対極である。もっとも、風向きを知る草に罪があるわけではない。風はいろんな方向から吹く。権力から吹く風もあれば、民衆が起こす風もある。そよ風も、突風も、爆風もある。いったい「風知草」はどこからの風を読もうとしているのか。風の向きを知って、覚悟を決めてこの風に抗おうというのか、それとも風に流されようというのか。
本日の「ゲスの極み」は、政権からの風を知って、暖かい迎合の風を返しているようだ。「一飯の恩義」を感じて、「スシ友へのエール」として書いた記事。
甘利明事務所に「1200万円のワイロが流れたという『週刊文春』特報」に関して、「違法な金銭授受は間違いなさそうだが、その意味と背景について、正確に見定める必要がある」という趣旨。こんな記事は、サンケイか夕刊フジに任せておけばよい。毎日新聞の紙面に、どうしてこんな「アベへのヨイショ」が躍るのか。
暴かれた「甘利スキャンダル」の威力は、アベ政権直撃のメガトン級。いまやその影響は激震となっている。アベの取り巻き連中が、この衝撃を緩和し、過小評価しようとして躍起になっている。
その典型が山東昭子の「ゲスの極み」発言であり、高村正彦の「わなにはめられた」論である。山東の発言はとりわけ悪質である。「ゲスの極みというような感じで、まさに、両成敗でただしていかなければならない気がする」。これは、告発者に対する「おまえも無傷では済まないぞ」という威嚇である。この威嚇は、今回の告発者に限られたものではなく、今後同様の例を抑止しようという効果を狙ったものである。
覚悟の告発を「ゲスの極み」とする山東に、「政権の疑惑を隠す暴言」などと批判が集中しているのは当然のことだが、アベと酒食をともにする「スシ友・山田孝男」は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という。山田は、「ワイロは、もらう側も渡す側も、どだいゲス(下種(げす)=心卑しき者)の極み。だから両成敗……。いかにも芸能界出身の山東らしい機知だ。」と、山東の言わぬことまで付け加えて山東を持ち上げている。
それはおかしい。山田孝男の言の意味と背景を吟味すれば、政権擁護の弁でしかない。
山田は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という理由を「なぜなら、一見、捨て身と見える告発者の所属企業は実態不明、あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである。」という。これは、高村の「わなにはめられた」論とまったく同じである。
「告発側も疑え」? いったい何をどう疑えというのだ。「政敵の陰謀にはめられた」とでも言いたいのだろうか。あちらこちらでの陰謀説には食傷だが、仮に陰謀であつたとしても、甘利の罪責が軽減されることにはならない。陰謀であろうとなかろうと、現金700万円を収受しているのは犯罪である。甘利は、50万円の現金を2回にわたって、自らのポケットに入れたと具体的に告発されて、これを否定できないのだ。
もしかしたら、今回の件は陰謀であれはこそ、表に出てきたのかも知れない。甘利に限らず、多くの政治家が、口利き料をポケットに入れて、「陰謀でないから裏に隠れたままになっている」のかも知れない。それなら、陰謀バンザイだ。
賄賂罪は、「公務員の職務の公正」と「公務員の職務の公正に対する国民の信頼」を保護法益とするものとして、贈賄も収賄もともに犯罪とされている。この犯罪は表に現れにくい。「アンダー・ザ・テーブル」といわれるように、賄賂の収受は隠密裡に行われるからである。疑惑ありとの指摘に対しては、贈賄側も収賄側も、団結固く口裏を合わせて否認することが通例で、立件は難しい。摘発には、リニエーションの制度導入が効果的だ。これは裏切りの奨励である。どちらか、先に犯罪を申告した方の立件を免除する制度である。賄賂罪摘発を容易にすることで、賄賂の収受をなくそうという発想である。
あっせん利得罪は、「賄賂罪」ではない。が、口利きをしてその報酬として利得を収受する政治家(甘利)だけでなく、政治家に口利きを依頼して利得を供与する者(S社)の行為も犯罪になる。S社は、このことをよく知りながら、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切っている。山田の「あざとい印象」よりも、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切ったことでの政治家の犯罪暴露を積極評価すべきが当然ではないか。
また、「告発者の所属企業は実態不明」はなかろう。政治資金収支報告書から社名も所在地も直ぐに分かる。新聞記者が可能な調査を手抜きして「実態不明」と「印象」を語るのは怠慢の誹りを免れまい。「あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである」とは驚いた。海千山千の政治家を相手に、このくらいのことをしても少しの不思議もない。この程度の「印象」で、山東を弁護し、甘利の罪責を薄めて政権を擁護しようというのだ。
山田のコラムに漂っているものは、政権中枢に位置する者に対する「捨て身の告発」への不快感である。そして、極端な言を避けつつ、告発者を誹ることで、被告発者を相対的に弁護し、告発の影響をできるだけ小さくしようとの政権への配慮が見える。この不快感は、アベ政権の不快感を毎日新聞の紙上に映したものといわざるを得ない。
なるほど。一緒に飯を喰うことの効果はあるものだ。信義に厚い。さすがは高級店での「君子の交わり」である。
(2016年1月25日)