歌壇に見る非戦の訴え
(2022年5月30日)
ロシアのウクライナ侵攻以来、各紙の歌壇に戦争を詠う歌が取りあげられている。戦争の悲惨さや理不尽を、我が国の戦争を思い起こす形で詠うものが多い。いかなる戦争も他人事ではないのだ。昨日(5月29日)の「朝日歌壇」。永田和宏選の冒頭3首が、そのような歌として胸に響く。
軍隊は軍隊をしか守らない交戦国のどちら側でも
(東京都)十亀弘史
軍隊は何を守ために存在するのか。国民を守ることがタテマエだが、実はそうではない。いざというときには、住民を見捨てる。のみならず、住民を殺害さえする。誰のために? 結局は軍隊を守るために。そして、「大の虫を生かすためには、小の虫を殺すのもやむを得ない」とうそぶくのだ。我々は、これを沖縄戦での32軍の蛮行として、また終戦時の関東軍の卑劣な逃避行として記憶してきた。あたかも、皇軍だけの特殊事情のごとくに。しかし、この歌は「交戦国のどちら側でも」と、戦争と軍隊の本質を言い当てている。
ウクライナへの侵略戦争で、負傷して歩けないと口にしたロシア兵が、足手まといとして上官から射殺されたという。「軍隊は軍隊をしか守らない」とは、闘う能力を喪失した味方の兵士をも守らないのだ。この非情さが戦争の本質なのだ。戦争をしてはならない。軍隊を肥大化させてはならない。
戦争で兵の生死は数値だけ戦死になるか戦果になるか
(筑紫野市)二宮正博
あらためて言うまでもなく、兵とてかけがえのない「人」である。その人の生死が数だけに置き換えられる。そして、その数は「戦死になるか戦果になるか」なのだ。自軍には「戦死者数」として報告されるが、相手国では「戦果」とされてその死が喜ばれる。決して悼まれることはない。
殺人は忌むべき人非人の行為である。通常殺人者は唾棄すべき人物として糾弾される。殺人の被害者は、その非業の死を悼まれる。ところが、戦争ではそうではない。相手国の戦死は「戦果」となり、「戦果」を挙げた自国の殺人者は殊勲者となる。こんな人倫に反する戦争をしてはならない。軍隊を肥大化させてはならない。
顔も無く名も無くきょうの数となるコロナ禍の死者ウクライナの死者
(所沢市)風谷螢
コロナ禍の死者については措く。「ウクライナの死者」についての無意味さと、それ故の哀惜の情が伝わってくる。戦争では、兵士も民間人も「顔も無く名も無」いままに死者となる。その多様であつた生は切り捨てられ、与えられた無機質な死が数として数えられるのみ。戦争の大義も兵や市民の勇敢も語られず、敵と味方の区別さえない「数となった死」のむなしさ。こんな悲劇をもたらす戦争をしてはならない。軍隊を肥大化させてはならない。
馬場あき子選の歌5首は以下のとおり。
はなっから話し合う気は無いみたいプーチンの卓あのディスタンス
(岡山市)曽根ゆうこ
追放の大使館員ら発ちて行く一人一人に罪は無けれど
(一宮市)園部洋子
ハエ一匹通さぬやうに封鎖せよと地下には母子あまた集ふを
(小松市)沢野唯志
ロシアとの漁業協定成りし夕銀鮭ふた切れこんがり焼ける
(久慈市)三船武子
朝日歌壇に反戦詠みし女性たち皆「子」が付く名戦争を知る子
(春日部市)酒井紀久子
佐々木幸綱選3首。
「高齢者、地方在住、低所得」プーチン支持層嗤えぬ私
(中津市)瀬口美子
軍隊は軍隊をしか守らない交戦国のどちら側でも
(東京都)十亀弘史
荒廃の街に天指す教会の十字架かなし戦車横切る
(春日井市)吉田恵津子
高野公彦選4首。
ゼレンスキー大統領がネクタイを締める日の来よ 良きことのあれ
(鳥取県)表いさお
地下鉄のエスカレーターくだりつつ深さ確かむシェルターとして
(名古屋市)植田和子
青と黄に塗り替えられた琴電が讃岐平野の麦畑行く
(高松市)伊藤実優
パーキンソンに悩むプーチンか振顫をかくさむとして机をつかむ
(西之表市)島田紘一
なるほど、歌には言霊が宿っている。人の心に訴える力をもっている。