澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「伊勢」と「出雲」 勝者と敗者の歴史的因縁

三笠宮の長男故高円宮次女と、出雲大社宮司長男との婚約が発表された。皇室と出雲国造家の結婚。これが、「両性の合意のみ」で成立したとすれば、ご同慶の至りである。

皇室の祖先神と出雲大社の祭神とは、「天つ神・国つ神」の関係にある。征服者である天皇の祖先神が高天原なる「天つ神」。その神を祀っているのが伊勢神宮。被征服者として、天つ神に地上の国を譲ったのが「国つ神」たる出雲の神。世俗的な理解では、善神としての「天つ神」と、抵抗勢力としての「国つ神」。出雲なる国つ神の「国」は、譲られたものであろうか、それとも略奪されたものであろうか。いずれにしても記紀神話の成立は、出雲に対する伊勢の勝利を物語っている。

しかし、出雲は滅びたわけではない。出雲大社の祭神としての須佐之男・大国主の信仰は、大社とともに生き延び、本居宣長の「顕幽」説に至る。顕界(うつし世)の王が天皇であり、幽冥界(かくれ世)の王が大国主だというもの。さらに、平田篤胤は、大国主を善神とし、死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課す神としている。この大国主命の幽冥界主宰神説が、復古神道の基本的な教義だとされる。

明治維新は、神々の争いでもあった。神道と仏教が争い、神道各派も正統を巡って争った。かつて、地上の勢力間の争いが神々の争いとして神話に仮託され語り継がれた如くにである。出雲は官弊大社への列格を不服とし、伊勢と同等の格式を当然として、官社のうえに列すべく要求した。その運動の旗手は、復古神道の教義を携えた、第80代出雲国造千家尊福である。

原武史の「出雲という思想」(原武史・講談社学術選書)は私の愛読書。読み応えがあるだけでなく、読みやすくすこぶるおもしろい。原の現代語訳では、尊福は教部省宛て請願書でこう言っている。
「オホクニヌシが幽冥の大権を握り、この国土に祭っている霊魂や、幽冥界に帰ってきた人の霊魂を統括なさるのは、天皇が顕界の政治を行って万民を統治なさるのと違わない」「このようにオホクニヌシが幽冥の大権をお取りになるからには、神の霊魂も人の霊魂も、みなオホクニヌシが統治なさるわけであるから、すべての神社を統括するのもまた出雲大社であるべきなのは、議論するまでもないことである。」

さらに尊福の筆は激しくなり、密かに書かれたという「神道要章」には、次の文章があるという。
「大地の支配者であられるオホクニヌシのおかげによらなければ、天つ神の高い徳を受けることができないゆえんを明らかにして、天つ神を崇敬するにしても、まず大地の恩が大切であることを謹んで感謝しなければならない」

原は「このようにして尊福は、わかかりやすい言葉で、信徒に対してアマテラスよりもオホクニヌシをまず第一に尊敬しなければならないことを主張した」と解説している。

尊福の言は、表向き「顕幽」同格のごとくではあるが、幽冥界の王こそが真の王であり、顕界の天皇を凌ぐものとの気概を感じさせる。伊勢派は、尊福の説を危険思想として、「皇位を軽んずるもの」「わが国体を乱るもの」「国体上に大関係ありて、民権家の説に類似す」と攻撃した。「出雲の神は、かつて天孫系のため圧迫されて譲国したので、その数千年来の宿怨を霽らすために、今度出雲が立ったのである。それならばこそ出雲系の直系が、皇室を凌ぐような議論も出て、その点で千家を暗殺せんとする騒ぎもあった」と当時の雰囲気を知る人の回顧録も残されているという。

尊福の説は大いに振るって伊勢派を追い詰めたが、時あたかも自由民権運動の勃興期。天皇制の拠って立つ教説の正統性批判の強大化を恐れた中央政府は、1881(明治14)年に、勅裁によって「祭神論争」の決着をつける。ここに、出雲は伊勢に2度目の敗北を喫した。原の言葉を借りれば、「『伊勢』による『出雲』の抹殺」である。

さらに、原の理解によれば、大国主信仰は大本に受け継がれ出口王仁三郎によって民衆信仰として復活する。しかし、2度にわたる天皇制政府の大本弾圧によって、この教義も息の根が止められることになる。出雲の3度目の敗北である。原は、この事態を「『伊勢』による『出雲』の2度目の抹殺」とする。

このたびの「伊勢」と「出雲」との婚約は、一見有史以来の「数千年来の宿怨」を抱えた因縁を乗り越えたもの如くであるが、実はそうではない。今、両家はモンタギューとキャピュレットの関係になく、婚約者どおしはロミオとジュリエットの悲劇性とは無縁である。その遠因は、「祭神論争」のあとの千家尊福の「転向」にある。彼は、かつての「顕幽」論の内容を変えて国体の尊厳を説くに至り、明治政府に忠誠を誓って政治家へと転身した。伊藤博文の推挙によって「元老院」の議官となり、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、そして東京府知事にもなり、司法大臣まで経験している。この尊福の時代に、「伊勢」と「出雲」との蜜月の関係が形成された。

祭神論争は、国家神道・国体思想の形成史において重要な意味をもっているとされる。このとき、明治政府は、天皇の権威を相対化するすべての神々を一掃する姿勢を明瞭にしたのだ。「出雲の抹殺」は、その象徴的なできごとであった。

「国体論議の主な源泉としては、二つあります。一つが平田派国学ですが、もう一つは後期水戸学です。この二つが合流して近代日本の国体概念の歴史的背景になったと見ていいと思います」(原が引用する丸山眞男)と言われる。しかし、平田派の流れを汲む千家尊福の教説も、天皇制を支える教説の純化のために切り捨てられたのだ。

今回の婚約発表は、祭神論争勅裁から130年を経てのもの。既に、両家因縁の歴史は風化していると言うべきなのだろうか。
(2014年6月1日)

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Published in 日曜日, 6月 1st, 2014, at 23:42, and filed under 未分類.

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