96条改憲批判ーその3 「憲法とダイヤモンドは硬いのが値打ち」
人に貴賤上下の別はあり得ないが、法規には厳然たる上下の序列がある。その序列に従い、上位法が順次下位法の制定に権限を与えて法体系が形成されている。あらゆる法規が生みの親には逆らえない。下克上は許されない。
周知のとおり、法律・政令・条例・規則等々の厖大な法体系の最高法規として憲法が位置づけられている。下位法の制定改廃は容易に出来るが、上位法の制定改廃の要件はより厳格となる。憲法41条は、国会に「法律」制定と改廃の権限を与え、その要件を定める。法律より上位の最高法規たる憲法の改廃が、法律と同じ手続で良かろうはずはなく、その手続は自ずからさらに厳格となる。この手続の厳格性ー改正要件のハードルの高さーが「硬性」という言葉で表現される。法律と同じ手続で改廃可能な憲法は、「軟性憲法」である。
この区別は、イギリスのJ・ブライスに始まる説として、どの教科書にも紹介されている。典型的なものとして芦部信喜さんの解説を大胆に要約してみよう。
「軟性憲法とは『通常の法律と同じレベルにある』もので、そういう憲法は、『通常の法律を作る権力と同一の権力から生れ、通常の法律と同じ方法で発布または廃止される』が、硬性憲法は、『それが規制する他の国法よりも上位にある』もの、すなわち、『通常の立法権より高い権力または特別の権力をもった人または団体によって制定され、かつ、それらによってのみ変更することのできる』ものだ」
ここに、「憲法を作る権力」と、「憲法によって作られた権力」との明確な区別がある。前者が主権者である国民の憲法制定権力であり、後者が憲法によって権限の根拠を与えられた国家権力の一作用である。この別を混同してはならない。
憲法改正とは、本来憲法によって根拠を与えられた権力作用ではなく、主権者たる国民の憲法制定権力の行使なのだ。だから、立法作用とは異なる厳格な手続き要件があって当然なのだ。そのことが、憲法の硬さに表れている。憲法改正手続き要件の厳格さこそが、憲法の憲法たる所以である。成文憲法は自ずから硬性憲法であるが、硬い憲法ほどより高次の権力に支えられていることの証拠といってよい。ダイヤモンドと同様、憲法は硬いからこそ価値がある。輝きを放つのだ。
しかも、憲法とは、本来憲法によって権力を授けられた者の手を縛り、その権力の恣意的な発動を抑制するためにあることを思えば、権力を有する者の唱導による安易な改正を許さない硬さをもった憲法こそが意味のある「価値の高い」憲法と言うべきであろう。その権力は選挙における単純過半数の議席で成立することを思えば、発議要件を国会の過半数にまで引き下げることは、憲法の価値を貶めるものというべきである。
「憲法とダイヤモンドは硬いのが値打ち」説はこんなふうに語れるだろう。
*「国会ってさ選挙で選ばれた議員で構成されているんだから、国会の議決は国民の意思と考えて良いだろう。だとすれば、96条が憲法改正の発議の要件として3分の2の特別多数を要求しているのは、厳しすぎるんじゃない?」
☆「国会と国民とを同視してしまうと、『国会の議決だけで憲法を改正してもよい。国民投票は不要だ』となりかねない。とてもとても、国会と国民とを同視することはできないと思うね」
*「一票の格差や小選挙区制の問題があって、国会が正確に民意を反映していないことはよく分かる。そのような選挙制度の不公正を是正してもやっぱり、96条の厳格な手続が必要なのかな」
☆「問題は、憲法を改正するという行為と、法律を作ったり変えたりする行為とは、まったく次元の異なるものだということだ。憲法は、法体系において法律より高次の存在だから、法律と同じ手続で改正できるはずがない」
*「96条と41条。どちらも同じ憲法に並んでいる条文じゃないか」
☆「条文のならびはそうであっても、性格がまったくちがう。主権者である国民が作ったのが憲法、その憲法によって作られ縛られているのが国家権力。立法権は国家権力の一部門だ。通常の立法と同じ手続で憲法をいじることは許されない」
*「すると、憲法改正の手続は、必ず法律制定の手続よりも厳格にできているのかな」
☆「手続的な厳格さを憲法の「硬性」という言葉で表現している。変えにくい、ということだね。硬いからこそ、憲法の格は法律より上なのさ」
*「安倍首相や、維新・みんなは、まずは硬い憲法を軟らかくしようというわけなんだな」
☆「そのとおりだ。憲法に縛られる立ち場の権力者が、都合が悪いから変えようとしても、そんなに都合良くは変えさせませんという役割を硬性憲法が果たしている」
*「憲法は硬いところに価値があるというわけか。ダイヤモンドと同じだ」
☆「ボクは、憲法の硬性は立憲主義に必須のものだと思う。その意味では、憲法もダイヤも、硬いからこそ輝くと思うね」
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『図書館の自由宣言めぐり』
ゴールデンウィークの最後の日、文京区の区立図書館めぐりをしました。「図書館の自由宣言」が本当に掲げられているか気になったから。
疑ってごめんなさい。10館中5館しか巡れなかったけれど、1館を除いて、キチンと掲げてありました。掲げてなかった1館も館長さんらしき方が出てきて、申し訳なさそうに「展示の陰になったので外しています。指摘していただいて良かったです。すぐ、良い場所を選んで展示します。」と対応してくれました。
どこも窓口対応の方は、一瞬頭に浮かばないようでしたが、説明しているうちに思い出したり、そばにいた別の司書の方が「あれです」と指さしてくれました。若い方より年配の方のほうが反応は良いように感じました。とっさには思い出せなかった方も、思い出せば自慢げな素振り。「かっこいい宣言ですね。図書館のような意義のある職場で働けていいですね」と言うと、嬉しそうに「司書になる時必ず教えられます」と答えてくれました。図書館もアウトソーシングで厳しい職場になっていると聞いていますが、皆さん忙しい時間を気持ちよく割いてくれました。
休日最後の日とあって、図書の返却の人がたくさんいて、本離れなんて本当かしらと思われる賑わいぶりでした。「文化の砦がんばれ」と声援したくなりました。
「図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る」
司書の皆さん、よろしくお願いします。私たちも後方支援いたします。(これは映画の原作、有川浩著の「図書館戦争」の主人公笠原郁のノリ)
なお、どこの図書館にも「文京平和宣言」(1979年12月7日)と「文京非核平和宣言」(1983年7月13日)のプレートが有りました。「英知と友愛に基づく世界平和の実現を」「非核三原則の堅持とともに核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え」などという格調高い言葉がしっかり刻まれていました。このような宣言を是とする心が憲法9条の改憲を押しとどめているのだと改めて思いました。
また、そのうち暇を見つけて残りの5館を巡ってきます。