舛添さん、ここはよくお考えを。
このところの舛添要一さんの言動。石原トンデモ知事とは大違いだ。常識人としての発言内容に好感がもてる。昨日(27日)記者会見での下記の発言も、石原知事とはずいぶんの違いである。そう認めつつも、やっぱりおかしい。どうしても違和感を拭えない。私の言うことにも耳を傾けて、よくお考えいただきたい。
【記者】都立高校の元教員の方が、卒業式などの君が代の斉唱時に起立しなかったことを理由に再雇用を拒否されたのは違法だということで裁判訴訟を起こして、東京地裁が、昨日都に5300万支払いを命じる判決を言い渡しました。これについて、知事の見解を伺えますか。
【知事】これは今、しっかりと都の方で、判決内容を精査して、どういう対応をとるかということであります。国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして、やはり世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のことなので、その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思いますので、今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたいと思っています。
舛添さん、それはない。それはおかしいよ。
※「国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして」と持ち出していることがまずおかしい。国旗国歌法とは、国民に対して国旗国歌に敬意を払うべしとの趣旨で作られた法律ではない。もちろん、この法律に基づく「国旗国歌敬意表明義務」などあるわけがない。「国旗起立義務」も「国歌斉唱義務」もない。むしろ、国会審議の過程では「そんな義務をさだめるものではありません」と強調することによって、法の制定にこぎ着けている。
国旗国歌法を根拠に、国民の国旗国歌への敬意表明の必要を論じることは、学者知事である舛添さんの名誉にもかかわる。やめた方がよい。
※「世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のこと」もおかしい。
今論じられている問題は、「国旗や国歌に敬意を払うこと」の是非ではない。国家象徴への敬意表明強制の是非であり、歴史的な負の遺産を背負っている「日の丸・君が代」尊重姿勢強制の可否なのだ。自発的な敬意の表明とその強制との間には、天と地ほどの違いがある。
訴訟の原告となっている教員の中には、「自分はこれまで率先して起立し斉唱してきたが、職務命令として強制されれば、個人の信条としても教員の良心からも絶対に立てない歌えない」と処分を受け、再雇用を拒否された人もいるのだ。
※「世界中どこ見ても卒業式で自国の国旗や国歌に敬意を払うことを強制すること、従わなければ懲戒処分をすること」は決して当たり前ではない。
どうやら、北朝鮮と中国はそのような国であるらしい。しかし、人権後進国あるいは民主主義未成熟国家ならではのこと。ヨーロッパ諸国では、そもそも卒業式に国旗国歌というものの出番がない。これが国家を相対化した成熟国家の常識。アメリカは建国の事情から国旗国歌に対する思い入れが過剰なな国だが、少なくともバーネット判決以来強制はない。司法が強制には歯止めをかけているのだ。かつて永井愛さんが、「日の丸・君が代」強制をテーマとした「歌わせたい男たち」の演劇をイギリスに紹介しようとしたら、彼の国の人にはこの強制の事態があり得ざることとして飲み込めなかったという。あまりにばかばかしい事件として喜劇としても受け容れられない、という結論になったという。石原知事の意を受けて都教委がやってきたことは、決して、グローバルでもユニバーサルでもない。北朝鮮・中国レベルの話なのだ。
※中国の名誉のために一言しておきたい。「五星紅旗」も「起来人民」も、国民的合意がある理念を象徴している。しかし、「日の丸・君が代」は、そうではない。旧天皇制国家とあまりに深く結びついた負の刻印を背負っている。我が日本国憲法が、意識的に排斥した軍国主義や植民地主義あるいは排外主義や国家神道理念の象徴でもある。欧米人には、「ハーケンクロイツに拝跪を強制するに等しい」と言えばわかりやすいだろう。そのような偏頗な理念的象徴に対する敬意表明の強制は、どうしても踏み絵と同じく思想信条をあぶり出し、思想弾圧をもたざるを得ないのだ。
※「その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思います」という俗論が一番おかしい。保守ではあっても、リベラルな「政治学者舛添」さんの本心とはとても思えない。「政治家舛添」さんはこう語らねばならないのだろうか。
子供たちは無限の発達可能態だ。あらゆることを学ぶ権利がある。国家や社会が一色の価値観に染まり、国家が提供する価値観が正しいと思い込ませることは、子供の学ぶ権利を侵害することといわねばならない。公立学校とは、検証された真理を教えるところで、特定の価値観を教え込むところではない。とりわけ、国家という怪物との向かい合い方について、一方的に肯定的な価値観だけを刷り込むようなことがあってはならない。
なお、決して「国歌斉唱時には起立して歌うというのは当たり前」ではない。1989年学習指導要綱の国旗国歌条項改定まで、都立高で卒業式に君が代の式次第をもっているのは3%に過ぎなかった。その後、このパーセンテージはかたちのうえではアップするが、ほとんどの教員は起立も斉唱もしなかった。この時代の生徒たちは、権力の提供する価値観が絶対のものではないことを学んだ。愛国心や国旗国歌尊重を教え込むことは、戦前教育への回帰の一歩として、罪の深いことというべきであろう。
※舛添さんは、「自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前」という思い入れが強すぎるのでないか。オリンピックでは盛大に日の丸をはためかせ、君が代を歌ってほしい、とでも思っているのだろう。愛国と排外とは紙一重である。挙国一致とか、一億一心とかが叫ばれるときには碌なことがない。国民の多数が「当たり前」と思い込んでいるのだから、子供にもそのとおり教えろ。これは、多数派主義・国家至上主義ではあっても民主主義ではない。もちろん憲法の基底にある個人尊重主義でも自由主義でも、人権尊重主義でもない。あまりに安易に、教育の場における、強制が可能と考えてはいないか。
※「今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたい」というのも一理あるようでやっぱりおかしい。法の支配が貫徹しているはずの日本である。下級審とはいえ、東京地裁の合議体裁判所が、東京都の行政行為を違法とし人権侵害行為があったと認定したのである。由々しき事態との認識があまりにも希薄ではないか。もっと、恐縮の体があってしかるべきではないか。石原知事の時代の教育行政の失態であることは誰もが知っていること。舛添さん個人には責任がないのだから、ここは控訴断念して、新教育長とともに都立校の教育現場の正常化にイニシャチブを発揮すべき好機としていただきたい。
石原慎太郎都知事が就任して、都教委が「10・23通達」を発出するまで4年半かかっている。この間に、教育委員・教育長人事を「お友達」で固めたのだ。しかし、当時の教育委員は、内館牧子を最後にもう一人も残っていない。10・23通達体制を元に戻すのにはさほどの時間の必要はない。舛添要一さん、地裁判決への控訴の可否はあなたの決断次第だ。あなたへの期待は大きい。
(2015年5月27日)