(安原みどり著)「花巻が育んだ救世軍の母 山室機恵子の生涯 宮沢賢治に通底する生き方」紹介ー機恵子、賢治、そしてみどりさん。
私の手許に一冊の書物がある。これは、私にとっての特別のものだ。
表題は、「花巻が育んだ救世軍の母 山室機恵子の生涯」。「宮沢賢治に通底する生き方」と副題が付いている。社会事業者であり、キリスト者であった山室機恵子の400頁におよぶ本格的な評伝。著者は、知人の安原みどりさん。
鎌倉市雪ノ下の「銀の鈴社」からの出版で、発行日が2015年9月25日とされているが、そのとき著者は既に亡くなっている。この著の「あとがき」のあとに、異例の「お礼の言葉」という1頁が添えられている。
お礼の言葉は、「『山室機恵子の生涯』を出版することができ、望外の幸せを感じております」と始まっている。多方面の著作への協力者に対して、「皆さまには、言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。心よりお礼申しあげます」と結ばれている。「2015年8月」とだけあって、日の特定はない。みどりさんは、8月28日に逝去されている。癌での覚悟の死であったという。毛すじほども取り乱すところのない、「お礼の言葉」を書いたのはいったい何日だったのだろうか。
9月3日の告別式での夫君・安原幸彦さんのご挨拶で、みどりさんがこの著書の最後の校正稿を脱稿したのは逝去の2日前、8月26日であったと知らされた。この評伝の著作に取りかかったのが、死を宣告され覚悟して後のことだという。自分の生きた証しとして、最期に一冊の著書を書き上げた、その壮絶にしてみごとな生き方に感服するしかない。
この著作は評伝であるから、著者は、41歳の若さで帰天した山室機恵子の臨終の場面に触れざるを得ない。その描写はかなりの長文にわたるものであるが、夫・山室軍平(牧師)は後に「私は、今日までいまだかつてあれ程、生死を超越した高貴なる最期をみたことがない」と感嘆していた事実を紹介し、「聖職者として多くの人の最期を看取った軍平に、かく言わしめた機恵子の精神性の高さ」を称賛している。おそらくは、自らの最期もかくあれかしと意識しての執筆であったろうし、それを現実のものとされたのであろう。
安原みどりさんは、私と同郷岩手県の生まれ。賢治の母校である盛岡一高(旧制盛岡中学)を卒業後、賢治の妹・宮沢トシの母校である日本女子大学を卒業している。機恵子を、自己を犠牲にして生涯を弱き者のために捧げ尽くした宗教者として、賢治の生き方に通底するものを見て、世に紹介したいと思い立ったのであろう。実は、賢治と機恵子とは、ともに生家は花巻市豊沢町。宮澤家と、機恵子の実家佐藤家とは、わずか数軒をへだつだけの近所で、親しい間柄だったという。
この書の最後に、5頁余におよぶ参考文献リストが並んでいる。この厖大な資料を渉猟しての労作を簡単には紹介できない。前書きに当たる「はじめに」が、著者自身の要約とも読める内容となっている。ここから抜粋して、この著の紹介としたい。
日本救世軍の歩みは、そのまま日本の社会福祉の歩みであるといわれる。その「日本救世軍の母」と呼ばれる山室機恵子は、1874(明治7)年12月5日に花巻で生まれた。機恵子の生家のすぐ近所に宮沢賢治の実家がある。機恵子の先祖は南部藩の家老で、機恵子は武士道の精神で育てられ、生家の家風は「世のため身を捨てて尽くす」であった。機恵子はこの使命感を持って明治女学校に進み、桂村正久から洗礼を受けキリスト者になった。
機恵子が明治女学校を卒業した1895(明治28)年は、くしくもイギリスの救世軍が日本に進出し、山室軍平が救世軍に挺身した年でもある。救世軍は1865年にロンドンのスラム街でウィリアム・ブース夫妻によって創設され、貧民救済の社会事業と、救霊事業(キリスト教伝道)を世界に広めていた。当時の救世軍は「西洋法華」と嘲笑され、迫害を受け、山室軍平はその真価もまだ世に知られない、無名の青年にすぎなかった。
機恵子は明治女学校出の才媛にふさわしい良縁には目もくれず、「山室となら世のために尽くすという信念を実現できる」と決心し、山室軍平と結婚した。機恵子は花嫁道具を揃える両親に「50歳まで着られる地味な着物を作って下さい。救世軍で着物をこさえるつもりはありませんから」と言い、軍平の収入が7円、家賃3円50銭、11畳半だけの広さしかない伝道所兼自宅の長屋生活に突入した。いわばシンデレラ・ストーリーとは逆の人生を果敢にも選択したのである。
機恵子は8人の子を生み育てながら、貧民救済・廃娼運動・東北凶作地子女救済・結核療養所設立などの先駆的社会事業のため東奔西走したが、病に倒れ41歳で逝去した。
機恵子は「私が救世軍に投じた精神は、武士道をもってキリスト教を受け入れ、これをもって世に尽くすことにありました。お金や地位を求める生活を送らなかったことを満足に思っています」「幸福はただ十字架の傍にあります」と遺言して帰天した。
機恵子の生き方は質素な生活をし、自分を勘定に入れずに、東奔西走し困窮した人のため自分を犠牲にして尽くすもので、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を彷彿とさせる。賢治が「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として羅須地人協会を設立し農民と共に生きた精神も、宗教は異なるが機恵子と通底するものがある。
賢治の実弟、宮沢清六は著書『兄のトランク』の中で「若い頃の賢治の思想に強い影響を与えたものに基督教の精神があった。私共のすぐ後には日本救世軍の母とよばれた山室軍平夫人、機恵子が居られた。私の祖父と父が『佐藤庄五郎(機恵子の実父)さんと長女のおきえさんの精神は実に見上げたものだ』と口癖のように言っていたから、若い賢治がこの立派な基督教の実践者たちの思想と行動に影響されない筈はなかったと思われる。そしてその精神が、後年の賢治の作品の奥底に流れていることが首肯されるのである」と書いている。
宮沢賢治を知らない人はいないが、機恵子没後百年になる現代では、機恵子を知る人はほとんどおらず、故郷岩手ですら知られていない。機恵子は「よいことをする時は、なるべく目立たないようにするのですよ」とこどもに教え、右手の善行を左手にも知らせず天に財を積んだ。
津田梅子、羽仁もと子、矢島揖子、新渡戸稲造、内村鑑三など、多くの著名人が軍平、機恵子を支援したが、善行を当然の事として黙すキリスト者に代って、関係性を詳らかにするのも意義があることだろう。家庭を持ち働く女性の元祖でもあった機恵子の生涯を顕彰してみたいと思う。
安原みどりさんが、機恵子の生き方のどこに感銘を受け共感し、この書を執筆しようと思い立ったのか、痛いほど伝わってくる。この著作を完成させたみどりさんの感受性と生き方にも学びたいと思う。
また、機恵子が伴侶として山室軍平を選んだことを、自分が安原幸彦さんを選んだことと重ね合わせてもいたのだろう。機恵子も、みどりさんも、自らの意思で幸せな人生を送ったのだと思う。
合掌。
(2015年10月5日・連続第918回)