8月15日は、「平和の日」。
8月15日である。この日を何と命名すればよいのだろう。連合国側や被侵略国側にとっては大いに意気上がる国民的な祝祭の日である。この日(あるいは降伏文書調印の9月2日)を「戦勝記念日」とし、「解放記念日」、「光復節」などとするのは分かり易いく、必然的な命名。我が国は、この日の意義をどう捉えて、どう呼称すればよいだろうか。
「終戦の日」ではごまかしのニュアンスがありインパクトが弱い。「敗戦の日」も直接に理念を語っていない。やや悔しさが滲んで、「臥薪嘗胆次は戦勝を」という底意も見え隠れしないか。
やはり、まずは「平和の日」であろう。戦争の時代に別れを告げた日。国民が平和な日常を取り戻した日。平和の尊さを確認し、戦争という愚行は繰り返さないと誓いを新たにすべき日。
バリエーションとしては、「恒久平和の日」「世界平和の日」「平和祈念の日」「不再戦誓いの日」「戦争放棄の日」「世界中の人びとと仲良くする日」「憲法9条の日」…。
次いで、「解放記念日」でもよいと思う。奴隷解放と同様に、日本国民が天皇に隷属する臣民の身分から解放された日という意味だ。「臣民解放記念の日」「国民主権確立記念の日」でもよい。悲惨な殺し合いにほかならない戦争の恐怖から解放された記念日にも通じる。
その法的根拠は、日本が受諾したポツダム宣言第10条後段「日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」(外務省訳)というところ。敗戦がもたらした平和であり、国民主権であり、基本的人権なのだ。
その「平和の日」の今日、恒例の政府主催「戦没者追悼式」が行われた。
天皇は、その式辞で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」と述べた。
「過去を顧み、深い反省」の文言は、昨年からのことだという。聞く人の受け取り方次第の曖昧な表現だが、戦没者と遺族に対して、戦争の責任を感じていることのアピールと読めなくもない。言葉を補えば、「侵略戦争と植民地支配の過去の歴史を顧み、誤った国策で国の内外におびただしい犠牲者を出してしまったことに関する深い反省」ということだ。
これに比してアベの式辞には、反省のカケラもない。朝日の報道では、「歴代の首相が踏襲してきたアジア諸国への『加害』と、それに対する『深い反省』や『哀悼の意』については、第2次安倍政権の発足以来、式辞の中で触れていない。安倍首相は昨年に続いて『戦争の惨禍を決して繰り返さない』との表現で不戦の決意を示した。」と解説されている。
アベ式辞が言う「戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。そのことが御霊に報いる途であると信じて疑いません。」は、かなり危うい。
実は、「戦争の惨禍に対する反省のしかた」には、二通りある。ひとつは、戦争をしたこと自体を反省し、いかなる戦争もしないという決意を固めること。これが日本国憲法の立場。もう一つは、「今度はけっして負けない。精強な軍隊をつくって、国民を守る」という、これがアベ流。
年来の危うい言行のアベである。政権に就いてからは、特定秘密保護法や戦争法を成立させ、よりにもよってイナダのごとき人物を防衛相に抜擢するアベの式辞であればこそ、次のように聞こえる。
「戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、近隣諸国から侵略されることのないよう万全の国防に邁進し、万が一にも戦端が開いたときには絶対に敗戦の憂き目を見ることのなきよう、この決然たる誓いを貫き、我が国の誇り高き國体の歴史と謙虚に向き合い、自由世界の平和と繁栄に貢献し、日本国内の万人が固い国防によって心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望と国防の自覚に満ちた国民による国の未来を切り開いてまいります。そのことが皇軍戦没者の御霊に報いる途であると信じて疑いません。」
過去を省み何を反省すべきかを見きわめることなくて、将来を語ることはできない。「戦争の惨禍を決して繰り返さない」だけでは、維新以来戦争を繰り返してきた我が国の歴史を省みてはいない。何を反省するのか、真摯に突きつめる姿勢がない。だから、平和憲法に風穴を開けて、再びの戦争を辞さないということになるのだ。
日本国憲法は、「平和憲法」である。憲法はまさしく戦争の惨禍から平和を希求して生まれた。国が無謀な戦争に突入したのは、国民自身が国の主人公ではなかったからだ。国民が戦争を防げなかったのは国民に知る権利も発言する権利も保障されていなかったからだ。国民が、唯々諾々と天皇が唱導する戦争に動員されたのは、天皇を神とする信仰が強制されたからだ。平和を望む国民性を育てられなかったのは、国家主義・軍国主義を刷り込む国家主導の教育の仕業だ。産業界にも農漁村にも、家庭にも、民主主義が育たなかったからだ。
憲法制定時の国民の関心は、何よりも平和にあった。そのため、恒久の平和を構築するための憲法が構想された。そして、憲法9条と、前文に平和的生存権を明記した日本国憲法が誕生したのだ。
憲法の論理的な構造においては、基本的人権が主柱で、その芯は「個人の尊厳」である。民主主義も平和主義も、言わば手段的理念であって、目的としての理念は人権なのだ。それはそのとおりなのだが、国民の最大関心事として平和を希求した憲法は、9条と前文だけではなく、すべての条項が再びの戦争を繰り返さないための平和実現の体系として構築されていると言ってよい。
そのような平和憲法を生み出す国民の決意形成の出発点となったのが、71年前の8月15日であった。だからやっぱり、今日は「平和の日」なのだ。
(2016年8月15日)