地方各紙の「良識」と、読売の「不見識」
「法制局長官の首のすげ替えで集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更」という、安倍流解釈改憲の「手口」。これに反対の各紙の社説を集めてみよう、と思っていた。96条問題の先例に倣ってのこと。
この春、96条先行改憲の策動を断念させた大きな要因として、地方紙の主張がある。とりわけ、5月3日憲法記念日の各紙の社説が、こぞって反対姿勢を明確にしたことが大きなインパクトをもった。各紙それぞれの角度から個性豊かに、96条改憲の非道理と危険性に警鐘を鳴らすものであった。
国会図書館で、全国53紙の5月3日社説を調査したのは、ジャーナリストの岩垂弘さん。その結果を、5月13日付ネットマガジン「リベラル21」に発表した。「新聞各紙の8割近くが憲法96条の改定に反対ー憲法記念日の社説を点検する」という標題である。
「全国の新聞各紙の大半は、5月3日の憲法記念日にこの問題を論じたが、その8割近くが『96条改定』に反対であった。とりわけブロック紙・地方紙の間で改定反対が強いことが浮き彫りとなった」「その論調を大まかに分類すると「改定賛成」が6紙、「論議を深めよ」といった、いわば中立的な立場が5紙、「改定反対」が35紙であった。つまり、「改定賛成」13%、「中立」10%、「改定反対」76%という色分けだった。」
注目すべきは、「改定賛成」の少数派6紙のうち、読売・産経・日経と3紙までが中央紙であること。中央各紙と地方紙の歴然たる温度差が報告されている。今や、ジャーナリズムの良識は地方紙の論説にあって、中央紙にはない。産経・読売・日経は、いずれも自民党や経団連の主張と変わるところがない。不見識というほかはない。朝日もこれに近いと言わざるを得ない。
解釈改憲については、各紙の8月15日社説を調べて比較してみよう、などと思っていたところ、本日の赤旗に「地方紙から批判相次ぐー集団的自衛権容認に向けた法制局人事」の記事。残念、先を越された。
見出しに、「法治主義揺らぐ」「あまりに強引」とある。ここら辺りが、現状の世論であろうか。
引用された各地の社説は以下のとおり。
宮崎日日新聞(11日)
沖縄タイムス(10日)
福井新聞(10日)
愛媛新聞(5日)
東京新聞(9日)
京都新聞(9日付)
徳島新聞
山陰中央新報
熊本日日新聞
赤旗に紹介されている主要な論調は以下のとおりである。
「憲法解釈を容易に覆せるのなら、法治主義、議会制民主主義の根幹が揺らいでしまう」(宮崎日日新聞)
「歴代の首相や内閣法制局長官らの答弁を積み重ねて構築した憲法解釈が覆されるようなら法治国家とはいえない」(沖縄タイムス)
「ハードルが高い憲法改正を回避する形での解釈変更は大きな問題をはらむ。…日本はあくまで『平和主義』追求の中心軸であるべきだ」(福井新聞)
「過去に日本が積み上げてきた国際的信頼と平和主義は貴重な財産だ。それを崩し、後世に負の歴史として刻まれる愚を犯してはなるまい」(愛媛新聞)
「なし崩し変更許されぬ」(東京新聞)
「容認できぬ強引な手法」(京都新聞)
「憲法解釈の変更は、対中韓関係を一層悪化させる恐れがある」(徳島新聞など)。
やはり、「良識の地方紙」だ。安倍内閣がこの手口を断念するまで、くり返しの主張を期待したい。
それに引き換え、「不見識紙」の代表格である読売の社説について一言しておきたい。
読売も、以前から今のようだったわけではない。本日配送された、「自由と正義」(日弁連機関誌)8月号に、孫崎享さんの講演録が掲載されている。標題は「日本の生きる道ー平和的手段の模索」。
その講演の冒頭で、1979年5月31日の読売新聞社説の一部が紹介されている。「尖閣問題を紛争のタネにするな」という堂々たる正論。本当にこれが読売の社説かと見まごうばかり。私も、我が目を疑う。
「尖閣諸島の領有権問題は、1972年の国交正常化の時も、昨年夏の日中平和友好条約の調印の際にも問題になったが、いわゆる『触れないでおこう』方式で処理されてきた。つまり、日中双方とも領土主権を主張し、現実に論争が“存在”することを認めながら、この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた。
それは共同声明や条約上の文書にはなっていないが、政府対政府のれっきとした“約束ごと”であることは間違いない。約束した以上は、これを順守するのが筋道である。鄧小平首相は、日中条約の批准書交換のため来日した際にも、尖閣諸島は『後の世代の知恵にゆだねよう』と言った。日本としても、領有権をあくまで主張しながら、時間をかけてじっくり中国の理解と承認を求めて行く姿勢が必要だと思う。」
この社説の全文は、下記のサイトで読むことができる。
www005.upp.so-net.ne.jp/mediawatching/yomiurieditorial19790531.htm?
「『小さな岩』で争うよりも、日中両国が協力する方向に、双方の雰囲気を高めていくことが大事だ」「こんごとも、尖閣諸島問題に対しては慎重に対処し、けっして紛争のタネにしてはならない」と結んでいる。良識があふれた社説ではないか。
それから30年余を経た、2013年8月13日の「日中条約35周年『平和友好』の精神はどこへ」と題する社説の変貌ぶりは正視するに耐えない。
一方的に相手の非を鳴らし、「日本は警戒を怠れない。政府は尖閣諸島を全力で守り抜く姿勢を示し続けねばならない。」という好戦的姿勢。良識のカケラも見えない。戦前もかくやと思わせる大新聞の扇動的な論調に、背筋が寒くなる。
指摘したいのはその「姿勢」や「論調」ではない。79年社説との明らかな「変節」についてである。
「習政権は、途絶えている日中首脳会談開催の前提として、日本側が尖閣諸島を巡る領土問題の存在を認めた上で、双方が棚上げすることを求めている。
だが、尖閣諸島は日本固有の領土であり、棚上げすべき領土問題は存在しない。安倍首相が中国側の要求に応じないのは、当然である。政府は、国際社会に日本の立場を訴え、粘り強く理解を求めていかねばなるまい。
安倍首相は『対話の窓は常に開けている』と中国側に呼びかけている。習政権はいつまで会談の前提条件を掲げ続けるつもりか。」
かつては、「触れないでおこう」方式での処理を、「政府対政府のれっきとした“約束ごと”であることは間違いない。約束した以上は、これを順守するのが筋道である」と言いながら、今になって、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、棚上げすべき領土問題は存在しない。安倍首相が中国側の要求に応じないのは、当然である」というのは、食言ではないのか。
今や、産経とともにナショナリズムを煽る読売。かつては、「『小さな岩』で争うよりも、双方の雰囲気を高めていくことが大事」「尖閣諸島問題に対しては慎重に対処し、けっして紛争のタネにしてはならない」と言ったことを思い起こしていただきたい。そのうえで、地方各紙の良識に倣っていただきたいと切に思う。
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『三光作戦の新証拠』
本日(8月14日)の毎日新聞は、1938年日中戦争初期、上海近郊の村における「抗日ゲリラ」掃討作戦の様子を写した写真46枚が見つかったと報じている。「銭家草」という村を日本軍部隊が急襲し、村民をとらえ、ゲリラとしてその場で40人を処刑する一連の写真だ。撮影助手をしていたとおもわれる兵士が、内地の妻らに宛てて手紙と一緒に送ったもの。
それぞれの写真には、ていねいなキャプションが書き込まれている。「戦地ならではできない放火の光景、面白いでしょう」「静かにして居ろ あばれるとタタッ切るぞ」「自分の這入る穴を一生懸命に掘って居ます」(処刑前の写真)などというおぞましい内容。
日清、日露、第一次大戦は天皇の宣戦の詔書に「国際法規ノ遵守」がうたわれていた。近代文明国家として認められたいため、せいぜい見栄を張っていたのだ。しかし、日中戦争については、宣戦布告を行う戦争ではなく、事変だといいはった。見栄も外聞もかなぐり捨てた戦争だったのだ。陸軍省から派遣軍にあてて「今次事変ニ関スル交戦法規ノ適用ニ関スル件」として「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」という通牒が繰り返し出されている。「戦利品、俘虜等ノ名称」は使うなとも指示された。俘虜収容所は作らなかったので、捕虜の大量虐殺は黙認された。
日本軍はこの通牒に従って、見せしめのために、「燼滅掃討作戦」と称して、「銭家草」のような村をたくさん焼き尽くして無人地帯にした。いわゆる「三光作戦」である。三光とは殺光・焼光・搶光をいい、人を殺し尽くし、家を焼き尽くし、物を奪い尽くすの意である。三光作戦などというのは中国側の宣伝であり、そんなむごいことを皇国の兵士が行ったはずはないと認めようとしない日本人もいる。従軍慰安婦問題を否定した人たちは同じように「三光作戦」の存在も否定する。たとえ本日の毎日新聞に掲載された写真のような揺るぎない証拠を突きつけられようとも。毎日新聞は中国における取材もし、この写真の真実性の検証に3年をかけたそうだ。
この写真と一緒に内地に送られた手紙は「頭目以下を殲滅せしめ我隊には何等の損傷なく凱歌を奏して帰営致し候事は将兵一同痛快を覚え申候」といっている。また、写真に同封の便せんには「内地に持ち帰ることは軍でも許しません。秘密写真として取締がうるさいですからやたらの人には御覧に入れないで下さい。殺すところや穴掘りは絶対にいけないのです」と書いている。
内容のおぞましさにかかわらず、文面からは、この書き手が「通常の社会人」であることがうかがえる。戦地にさえ行かなければ、達者な読み書きの能力で社会生活を送っていただろう人。そんな人が、戦場の狂騒に巻き込まれると、愛する妻にとくとくと、このような想像を絶する凶悪さを誇る手紙を書くようになる。受け取った妻はどう思ったことだろうか。
次なる戦争を画策している安倍首相は妻になんと言うのだろうか。「当時は戦国時代から連綿と続く『野蛮な首狩り』の伝統がまだ生きていたんだ。今度の戦争は家にいてボタンひとつで決着がつく。血の一滴も見ることはないから心配することはない」と、優しく説得するのだろうか。
(2013年8月14日)