澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

終戦の日の各紙社説を読む

本日は8月15日。戦争が日常であった時代が終わって、平和が訪れた日。軍国日本が滅びて平和国家としての日本が再生した日。今日こそ、各紙が平和について、また、平和を支える民主々義と人権について、渾身の社説を書かねばならない。でなくして、社会の木鐸としての存在意義はない。

そんな思いで、各紙に目を通した。普段は一顧だにすることもない産経にまで。その結果、残念ながら、期待は裏切られた。この憲法の危機のときに、各紙の平和や民主々義への危機意識がまるで伝わってこない。戦争の禍根と平和の希求を語る気迫に欠けていると言わざるを得ない。

まず、日経。「戦争と平和を考え続ける覚悟を持とう」という標題の社説を一応は書いている。しかし、文字通り、「一応は書いてみた」のレベル。この社説には、何の「覚悟」もない。「通り一遍のおざなり社説」と評するほかはない。いやしくも日本「経済新聞」ではないか。経済合理主義にもとづいた憲法論、平和論の展開が期待されるところ。今日こそ、憲法の平和主義と民需中心の経済の関係を語るべきではないか。戦後68年の平和あるが故の経済発展の歴史を書くべきではないか。石原慎太郎の尖閣都有化という愚行に端を発した日中の政治緊張が、いかに日本の経済に悪影響を及ぼしているか、さらには、今後の日本経済の発展は近隣諸国との平和なくしてあり得ないことを、堂々と書いてみてはどうか。それなくして、感想文程度のおざなり社説で紙幅を埋めて新聞を売るのは、商品価値と代金額との等価性を大きく損なうことになる。これは消費者問題だ。

続いて読売。標題は「中韓の『反日』傾斜を憂えるー歴史認識問題を政治に絡めるな」というもの。内容を読む必要なく、タイトルだけで何を言わんとしているのかがよく分かってしまう。ところが、真面目に内容を読み込むと、何を言っているのか分からなくなる。おそらく、読売論説子は、まともに社説を読む新聞購読者を想定していない。大学入試の小論文なら、「論旨不明確」「論旨に一貫性なし」として不合格になること間違いない。この社説は、読み手に焦躁感を与えることにおいて、日経よりも罪が深い。日経は「紙代を返せ」のレベルだが、読売には「慰謝料も支払え」と言わねばならない。

その点、毎日の「8・15を考えるー積み重ねた歴史の重さ」は、さすがに読売よりは数段マシ。書き出しなどは手練れの文章として洗練もされている。しかし、これも結論として何を言いたいのかは良く分からないで終わってしまう。
長く政権にあった穏健保守の一貫した「中国への侵略」という認識にゆらぎが生じ、現政権によって変更されようとしていることを憂慮してはいる。村山談話を外交資産とすべきであって、新たな談話を出すよりも、過去の談話を変えないことが大切と言っている。靖国や、領土問題を論じるときに、「内向きの論理」ではなく、「世界史的、客観的な視点」で判断する必要がある、とも言う。ところが、唐突に「韓国で日韓合意に反する賠償判決が相次いだ。中国は尖閣付近の領海侵犯を繰り返す。歴史と外交をからめ、過去の積み重ねを一方的に変えようとする動きだ」と、読売まがいの「一方的に相手が悪い」トーンに転じる。そのあとは歯切れが悪く、まとめがまとめになっていない。結局、人をうなずかせるものがなく、心に響くものとなっていない。起・承・転・結を別々の人が書いて無理につなげたような印象さえのこる。

次いで、東京新聞。標題は「哀悼の誠尽くされたかー68回目の終戦記念日」というもので、終始、靖国問題を論じている。論旨に破綻はない。社の立ち場を明快に述べている。それだけに、内容は心底がっかりさせられる。予想とのギャップという点では、この社説が一番。戦後68年経ってなお、昭和天皇の立ち場からの靖国論なのだ。「A級戦犯合祀への昭和天皇の不快感やその後の不参拝が私憤であるはずがありません。戦死者と死を命じた戦争指導者を同じ神として祀ることへの国民の反発や違和感へ配慮したかもしれませんが、それにもまして合祀が問う戦後日本のあり方の是非への根源の認識があったと思われるのです」には驚く。ここには、靖国問題をA級戦犯合祀問題に矮小したうえで、天皇のA級戦犯合祀への不快感を深慮に基づくものと肯定して見せている。恥ずかしいほどに、天皇の戦争責任を追求する姿勢に欠ける。また、「A級戦犯合祀さえなければ、天皇にも参拝していただけるのに」というニュアンスさえ窺える。天皇への責任追及を避けようと健気な努力をしながら、死刑になった後にまでこれだけ天皇から裏切られたA級戦犯に、同情の一つもしたくなる。

朝日「戦後68年と近隣外交ー内向き思考を抜け出そう」は、さすがにすぐれた社説。読ませるし、品よく穏やかで、鋭い内容となっている。
「戦前戦中の日本の責任を問う声がアジアから湧き起こるまでには時間がかかった。70年代までに終えた近隣との国交正常化は、冷戦構造の産物でもある。日本への賠償請求権は消えたとされたが、当時の近隣諸国では外交に民意が反映される状況ではなかった。やがて冷戦は終わる。グローバル経済の時代、韓国は先進国へ、中国は大国へと成長した。日本と国力の差がなくなるにつれ、歴史問題に由来する大衆感情が噴き出している。日本はもはや軍国主義は遠い遺物と思っても、隣の民衆にとっては戦争を問う時が今やってきた。そこには歴史観の時差ともいえる認識のズレがある」。やや長い引用だが、重要な指摘だと思う。加害者側には責任を忘れるに十分な時間が経過したときに、ようやく被害者が責任追及の声をあげることのできる条件が整ったというのだ。だから、「今の時代こそ、じっくり考えよう。お隣は今なおなぜ、怒り続けているのか、と」が締めくくりの文章となる。
さらに、「中韓首脳にとって、歴史は、貧富の格差など国内問題から国民の目をそらす手段にもなる。だとしても、そんな思惑に対抗するかのように日本もナショナリズムの大衆迎合に走ってしまえば悪循環は止まらない」というのは、良識に満ちた姿勢である。ナショナリズムを煽動して部数と売上げを伸ばそうというさもしさはなく、このような冷静な良識を、国内他紙にも、中・韓のメディアにも期待したい。
さはさりながら、すぐれた社説と認めつつも、今ひとつ物足りなさを禁じ得ない。格調高さの反面現実の課題への切り込みがないからだ。総論的に歴史認識・外交問題を論じるにとどまって、明文改憲問題、立法改憲・解釈改憲、軍事大国化、靖国問題等々への泥臭い、焦眉の急につながる問題提起となっていないことの物足りなさである。これが、「朝日らしさ」なのであろうか。

最後は産経。私はこの新聞をジャーナリズムとして認めていない。街宣右翼と自民党右派の宣伝紙に過ぎないと思っている。だから、無視してもよいのだが、せっかく年に1度のこととして産経紙を購入した以上は、これへの批判をしておきたい。また、歴史修正主義者や靖国参拝推進勢力の真意がどこにあるかを考える材料ともしたい。

産経「主張」のタイトルは、「終戦の日 憲法改正で「靖国」決着を 参拝反対論は根拠を失った」というもの。自信ありげに「参拝反対論は根拠を失った」と断定しているので一瞬戸惑うが、「産経新聞が今春発表した『国民の憲法』要綱」という、ほとんど誰にも相手にされることのない改憲案に基づく憲法改正が実現すれば、ということのようだ。なるほど、タイトルの付け方からしていかにも産経らしい。

「国に命を捧げた人々の霊は静かに追悼したい」
この一文から引っかかる。戦没者のすべてが「国に命を捧げた人々」なのか。実は、心ならずも戦争に狩り出されて「国に命を奪われた人々」ではないのか。国に命を捧げることなく亡くなった人には追悼したくないというのか。上官抗命や敵前逃亡で処刑された人についてはどうなのだ。軍人・軍属ではない民間戦死者をどう思っているのだ。「静かに追悼したい」のであれば自宅で毎日すればよいではないか。クリスチャンの戦死者になぜ神社なのだ。仏教徒になぜ靖国なのだ。なぜ、なぜ…。
ここでのキーワードは、「国」である。「霊」ではなく、ましてや「人々」でもない。国の、国による、国のための戦没者慰霊独占システム。それが靖国なのだ。憲法20条3項の政教分離は、まさしく天皇や閣僚の靖国参拝を禁止するための規定である。
念のため申し添えれば、憲法が戦没者に対する追悼に干渉するところはない。宗教法人靖国神社の存在も教義にも容喙するところはない。ただ、公的立場にある者の参拝や宗教的意味合いをもつ金銭の奉納という形での関わりを禁じているに過ぎない。

「後世の指導者がぬかずくことを憲法違反とする議論は、国民感情と乖離している。」
これは憲法の何たるかを理解しない者の妄言に過ぎない。憲法とは、主権者国民から「後世の指導者」に対する作為・不作為の命令である。その命令は、「国民感情」というものを徹底して無視せよという内容を含むものなのだ。なぜなら、憲法とは究極のところ、少数者の人権を擁護することが目的だからである。「国民感情」という多数派の意見は、人権擁護のためにことさらに排除されなければならない。もっとも、内容において曖昧模糊で、あるのかないのか、多数のものであるか否かする不明の「国民感情」などが憲法解釈に介在する余地はない。

「戦後68年も経て、なお続く論争の決着を急がなければならない。産経新聞が今春発表した『国民の憲法』要綱がその解決への道筋になることを期待したい」
政治・外交論としての論争については、その性格上決着はつけがたい。しかし、憲法論としては決着は当初からついている。敗北を認めているからこそ、それを不都合として、自民党の改憲草案が出てきたり、産経案が出てきたりしているのだ。

「違憲論はそもそも、国は『いかなる宗教的活動もしてはならない』という日本国憲法第20条3項を根拠としている。条文を厳格に解釈し、参拝はそれに抵触するとみる原理主義的な考え方だ」
この主張の本気度を疑う。憲法の条文を厳格に解釈しなければならないことは当然のこと。ユルユルの解釈で結構というのは、立憲主義を理解しようとしない反憲法的立場。とりわけ、政教分離条項は、戦前の国家神道跳梁の苦い経験と、靖国神社という軍国主義跋扈の歴史体験に鑑みて、その解釈に格別の厳格性を要する。産経主張は、憲法に敵意むき出しの反立憲主義であり、憲法敵視原理主義にほかならない。

「産経新聞の『国民の憲法』要綱第26条3項は、『国および地方自治体は、特定宗教の布教、宣伝のための宗教的活動および財政的支援を行ってはならない』と規定し、曖昧さを排した。これに照らせば、「布教」などの意図がないことが明らかな首相参拝は合憲、儀礼的な玉串料の公金からの支出も可能になる」「憲法改正が実現し、この規定が生命を得るなら、長年の議論は一夜にして解決をみるだろう」

恐るべき、政教分離破壊への改悪案である。おそらく、産経は政教分離の理念についてほんの少しも考えたことがない。「解釈の曖昧さを排する」ことが唯一の憲法的価値であるなら、政教分離そのものをなくしてしまうことが最善の方策ではないか。産経案は、96条改正限界を超えるものとして許容しがたいが、現実性がないので、これ以上取りあう必要は無い。ただ、仮に産経案の憲法改正が実現しこの規定が生命を得るなら、憲法は死文化し、戦前の復活という事態を招くことになるだろう。産経がそのような提案をしているという事実だけは押さえておかねばならない。

「最高裁で参拝自体への憲法判断が示されたことはない重い事実を指摘しておきたい」
最高裁でも高裁判決でも、参拝の合憲判断が示唆されたことすらない。高裁判決として重要なのが、私も関わった岩手靖国訴訟の仙台高裁判決。曖昧さを残さずに、天皇と首相の公的資格による参拝を、違憲と断じている。

「反対論の論拠の一つに、いわゆる「A級戦犯」14人の合祀がある。昭和天皇がそれを機に親拝を中止されたのだから、総理大臣も参拝を控えるべしとの主張だ」
A級戦犯14人の合祀問題も、天皇が合祀に不快感を示していたかどうかも、憲法論のレベルではまったく無関係。政治・外交レベルの問題としては、論者によっては大きな問題だが、「天皇も参拝しないのだから、首相もおやめなさい」という意見があることを私は知らない。あったとしても説得力のないつまらない意見に過ぎない。なお、A級戦犯合祀は靖国神社のなんたるかを象徴するものではあるが、分祀が実現したとしても、合憲にはならないし、外交的にも問題解決にはならない。

「朝日新聞の調査を紹介しよう。同紙が非改選を含む全参院議員に聞いたところ、『首相の靖国参拝』に賛成が48%、反対は33%だった。憲法改正の是非では『賛成』『どちらかといえば賛成』が計75%と改正の発議に必要な3分の2を超えた。憲法改正、公式参拝の道は開けた、とみるべきだろう」
朝日の調査を信用しての引用だがおそらくそのとおりの危機的状況なのだ。参院選の結果、「衆参のネジレ」は解消したが、「民意と、議席とのネジレ」は解消していない。「憲法的良心と議席とのネジレ」はさらに大きい。これから、熾烈な綱引きをしなければならないが、もちろん、その綱引きが続いている限り、つまりは改憲が実現するまでは公式参拝はできない。それが、法治主義の帰結である。

「残るは近隣諸国の干渉だが、その不当性について、今さらあらためて論じる必要はあるまい。」
おやおや、論じないのですか。もっとも、近隣諸国の不当を論じるよりは、近隣諸国の言い分にじっくりと耳を傾けた方が良いと思いますよ。国際的に孤立しているのは、わが国の方なのですから。

産経「主張」の最後は、次のように締めくくられている。
「安倍晋三首相がきょう、予想を裏切って大鳥居の下に現れることを望みたい。さもなければ秋の例大祭は、ぜひ参拝してほしい」

問題は、なぜ、安倍晋三や産経という右翼連中が、かくも靖国参拝にこだわるのかである。せっかく100円支払って購入した8月15日付けの産経。隅々まで目を通してみたが、「靖国公式参拝は違憲ではない」「公式参拝は国内問題だから外国が口を出すのは不当」は書き連ねられているが、積極的に公式参拝が必要な理由はどこにも書いていない。「国に命を捧げた人を国が追悼するのは当然」程度のことなのだろうか。

目に留まったのは、「産経抄」というコラム。ここで宮崎駿の新作アニメ「風立ちぬ」への批評に関して、「ある指摘が気になった。主人公に、戦争に協力することへの葛藤がみられない、というのだ」という。また、「『まど・みちお全詩集』のあとがきを読んだときも、似たような違和感を覚えた。この詩集には、まどさんが「戦争協力詩」と呼ぶ2編も収められている。まどさんは自分を責めてやまない。『懺悔も謝罪も何もかも、あまりに手遅れです。慚愧にたえません、言葉もありません』…何がいけないというのだろう。戦闘機の設計者や詩人だけではない。当時の日本人は、それぞれ自分の持ち場で精いっぱい戦った」「国家の再建に失敗すれば、英霊たちに申し訳が立たない」

ここには、「国民がそれぞれの立場で精いっぱい戦争協力することは賞賛されるべき素晴らしいこと」「国家の再建に失敗すれば英霊たちに申し訳が立たない」という二つの命題が、脈絡不明確なまま語られている。この二つを繋げるように論理を補えば次のようになるだろうか。

 ?国家の隆盛は文句なく価値のあることである
 ?国家がその隆盛のためにする戦争は正しい
 ?正しい戦争に、国民が協力することは賞賛されるべき素晴らしいこと
 ?国民みんなで闘った戦争での犠牲はこの上なく尊い
 ?生き残った国民は犠牲者を英霊として尊崇しなければならない
 ?戦争目的であった国の隆盛を実現せねば英霊に申し訳ない

産経抄は、?と?を語り、公式参拝は?と?に関わる。その前提として、?と?がある。
「戦没者の尊崇」や「戦死者の遺志」を口実に、生者が戦争を美化し聖化して次の戦争を画策し、あるいは国の隆盛に国民意識を動員するため装置が靖国神社であり、その靖国神社と国家との結びつきを国民にアピールするための演出として閣僚の参拝があるのだ。

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  『かわいそうなぞう』(土家由岐雄著)と
  『ぞうれっしゃがやってきた』(小出隆司著)

上野動物園で3頭の象が死んだ。象は利口で、毒も注射も受け付けず、最後に餓死させるしか殺す方法がなかった。餌をもらおうとして、飼育員に懸命に芸をしてみせるやせ衰えた象たちの話は、子どもたちだけでなく、親も涙なしには読みすすむことができない。

これは太平洋戦争たけなわの70年前のちょうど今頃の夏の話。戦況悪化著しいシンガポールの軍政官から東京都長官に転任した大達茂雄は、全猛獣の1カ月以内の殺処分を上野動物園に厳命した。空襲による猛獣の市街地逃走を恐れてのことである。それ以前から、園側は懸命に動物を地方に疎開させようとしていたが、努力は報われず、結局、ライオン、ヒョウ、ニシキヘビなど14種27頭の貴重な動物たちが殺された。象は「かわいそうなぞう」の話のとおり、30日間の絶食の後に、ガリガリにやせて死んでいった。

これを「戦時猛獣処分」という。上野動物園を皮切りに全国の動物園で同じ事が行われた。わざわざ殺さなくても、燃料不足のために暖房が切れて、熱帯地方の動物は死んだ。飼料不足で、草食動物も死んだ。無論、肉食動物に与える肉などあろうはずもなく、食糧不足でたくさんの動物が死んでいった。街路樹の枝葉集め、畑の草刈り、空き地での芋作りなど飼育員の餌づくりの努力と工夫は焼け石に水だった。
これらの動物は「時局捨身動物」と称されて慰霊されたが、言葉が話せるなら「納得できない、恨めしい」といっているに違いない。

そんな時局のなか、すべての動物が処分されたわけではない。名古屋東山動物園では、北王英一園長の努力と懇願が通じて、2頭の象が戦争を生き抜いた。当時東山動物園は軍の兵糧庫とされていたが、飼育員が兵糧の中から象の餌を盗んでいたのを、わざと見逃してくれた獣医大尉がいたお陰でもあった。戦後、そのうちの1頭を東京の子どもたちのために上野動物園に送ろうとしたが、泣き叫ぶ仲良しの2頭を引き裂くことができなかった。
日本中でたった1カ所象のいる、名古屋東山動物園へ「ぞう列車」で全国の子どもたちがやってきた。木下サーカスで育ったマカニーとエルドは人なつこく、子どもたちに触られたり、乗せたり大サービスをした。子どもたちは無論のこと、苦しい戦争を生き延びた2頭の象の喜びはいかばかりだったろう。飼育員たちの得意さやうれしさが伝わってくる話である。アメリカ軍占領下の当時、国鉄、私鉄関係者の並々ならぬ努力によって仕立てられた「特別専用ぞう列車」は6万人もの子どもたちを東山動物園に運んだ。

そのことを教訓に、1950年の朝鮮戦争激化にあたって、上野動物園は「非常事態計画」を策定した。「戦時猛獣処分」の再現や空襲による動物の死を避けるため、伊豆大島への疎開を計画したのだ。しかし、本当に動物園関係者は、再び日本が戦争に巻き込まれることを考えたのだろうか。

動物園の動物の命と子どもたちの笑顔や喜びを踏みにじってまで、起こして価値のある戦争などありはしない。憲法第9条を変えさせてはならないと改めて思う、8月15日である。
(2013年8月15日)

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Published in 木曜日, 8月 15th, 2013, at 23:47, and filed under 未分類.

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