澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

軍隊とは、本質的に民主主義の敵対物である。

(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。

歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。

「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。

「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」

「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」

北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。

軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。

軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。

かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。

今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。

そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。

世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。

幸田露伴「渋沢栄一伝」異聞

(2021年2月15日)
したたかなはずの資本主義だが、誰の目にもその行き詰まりが見えてきている。環境問題、エネルギー問題、貧困・格差…。とりわけ、新自由主義という資本主義の原初形態の矛盾が明らかとなり、グローバル化が事態の混乱を拡大している。

その反映だろうか、ノスタルジックに「日本資本主義の父」が持ち上げられている。この「父」は、福沢諭吉に代わって間もなく1万円札の図柄になるという。そして、昨日(2月14日)が第1回だったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率も上々の滑り出しだという。

何ともバカバカしい限りではないか。「資本主義の父」とは、搾取と収奪の生みの親であり育ての親であるということなのだ。この「父」は、カネが支配する世の中を作りあげて自らも富を蓄積することに成功した。多くの人を搾取し収奪しての富の蓄積である。搾取され収奪された側が、「資本主義の父」の成功談に喝采を送っているのだ。

資本主義社会は、天皇親政の時代や、封建的身分制社会よりはずっとマシではある。だが、社会の一方に少数の富める者を作り、他方に多数の貧困者を作る宿命をもっている。「資本主義の父」とは本来唾棄すべき存在で、尊敬や敬愛の対象たり得ない。

仮に渋沢栄一に尊敬に値する事蹟があるとすれば、「資本主義の父」としてではなく、「資本抑制主義の父」「資本主義万能論を掣肘した論者」「野放図な資本主義否定論者の嚆矢」「資本主義原則の修正実践者」としてでしかない。彼が、そう言われるにふさわしいかは別として。

この点を意識してか、NHKは、渋沢について「資本主義の父」と呼ぶことを慎重に避けているようだ。番組の公式サイトではこう言っている。

幕末から明治を駆け抜けた実業家・渋沢栄一。豪農に生まれた栄一は、幕末の動乱期に尊王攘夷思想に傾倒する。しかし、最後の将軍・徳川慶喜との出会いで人生が転換。やがて日本の近代化に向けて奔走していく…。

「実業家」「日本の近代化」という用語の選択は無難なところ。

幸田露伴の筆になる「渋沢栄一伝」(岩波文庫)に目を通した。下記のとおり、岩波の帯の文句がこの上なく大仰であることに白ける。

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の伝記を、文豪が手掛けた。士は士を知る。本書は,類書中,出色独自の評伝。激動の幕末・近代を一心不乱に生きた一人の青年は、「その人即ち時代その者」であった。枯淡洗練された名文は,含蓄味豊かな解釈を織り込んで、人間・渋沢栄一を活写する。露伴史伝文学の名品(解説=山田俊治)

渋沢の死が1931年で、その後に執筆依頼があり露伴の脱稿は1939年となった。渋沢の顕彰会からの依頼で引き受けた伝記である。稿料の額についての記載はないが、文豪・幸田露伴たるもの、こんな伝記を書くべきではなかった。今ころは、泉下で後悔しているに違いない。

執筆の動機からも、対象を客観視しての叙述ではない。ヨイショの資料を集めてもう一段のヨイショを重ねた決定版。執筆の時期が日中戦争のさなか、太平洋戦争開戦も間近のころ。ヨイショの方向は、尊皇の一点。資本主義の権化に徹した渋沢像がまだマシだったのではないか。下記の記述が、資本主義の権化ではないとする渋沢像の描出である。

商人は古より存在した。しかしそれは単に有無を貿遷し、輜銖(ししゅ・物事の微細なこと)を計較して、財を生じ富を成すを念とせるもののみであって、栄一の如くに国家民庶の福利を増進せんことを念として、商業界に立ったものは栄一以前にはほとんど無い。金融業者も古より存在した。しかしそれも単に母を以て子を招び、資を放って利を収むるを主となせるもののみであって、栄一の如く一般社会の栄衛を豊かに健やかならしめんことを願とせるものは栄一以前にはほとんど無い。各種の工業に従事したり事功を立てたりしたものも古より存在した。しかしこれまた多くは自家一個の為に業を為し功を挙ぐるを念として、栄一の以前には其業の普及、その功の広被を念としたものは少い。

栄一以前の世界は封建の世界であった。時代は封建時代であった。従って社会の制度も経済も工業も、社会事象の全般もまた封建的であった。従って人間の精神もまた封建的であった。大処高処より観れば封建的にはおのずから封建的の美が有り利かあって、何も封建的のものが尽く皆宜しくないということは無いが、しかし日月運行、四時遷移の道理で、長い間封建的であった我邦は封建的で有り得ない時勢に到達した。世界諸国は我邦よりも少し早く非封建的になった。我邦における封建の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って非封建的の波は外国より封建的の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは尊皇攘夷の運動であった。尊皇は勿論我が国体の明顕に本づき、攘夷は勿論我が国民の忠勇に発したのであった。あるいは不純なる動機を交えたものも有る疑も無きにあらずといえども、それは些細のことで、大体において尊皇攘夷の運動は誠心実意に出で、その勢は一世に澎湃するに至って、遂に武家政治は滅び、王政維新の世は現わるるに及んだ。

上記は、切れ目のない文章を二段に分けてみたもの。前段は、私利を貪らぬ実業家としての渋沢に対するヨイショ。後段は、尊皇攘夷運動によって王政維新の世が到来したことの積極評価。露伴の頭の中では、この二つが結びついていたのであろう。

露伴は、戦後まで永らえて、47年に没している。もしかしたら、価値観の転換後は下記のように改作したいと思ったのではないだろうか。

世界諸国は我邦よりも少し早く民主主義的になった。我邦における天皇制の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って民主主義の波は外国より天皇制の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは人民の民主主義を実現せんとする一大運動であった。天皇は勿論我が守旧勢力の傀儡にして、国体は勿論我が一億国民に対する思想統制の手段であり、全ては国民欺罔と抑圧の意図に発したのものであった。敗戦を機とした、民主主義を求むる人民の運動の勢は一世に澎湃するに至って、遂に天皇制は瓦解し、人権尊重と民主主義の「日本国憲法」の世は現わるるに及んだ。

天皇制に奉仕する「家学」は、「学問」ではありえない。

(2021年2月4日)
できるだけ、元号に関する書物は読んでおきたい。最近、「元号戦記」(野口武則・角川新書)に目を通した。「近代日本、改元の深層」という副題に若干の違和感を覚えたが、決して元号礼賛本ではない。とは言え、元号批判の論陣を張っているわけでもない。

当然のことながら地の文章は全て西暦表示で統一されており、奥付の発行年月日は「2020年10月10日」とスッキリしている。あとがきだけが「2020(令和2)年8月」となっていて、「令和」が顔を出し画竜点睛を欠いている。その微温的なところが社会の現状の反映でもあろうか。

著者は毎日新聞の「元号問題担当」記者。7年余に渡る新元号探求の「奮闘」ぶりが描かれている。客観的に見れば、つまらぬことにご苦労様というしかないのだが、この奮闘の中でいろんなことが見えてくる。そのことはそれなりに興味深く、やや大仰ではあるもののこの書物の惹句は的はずれではない。

密室政治の極致、元号選定。繰り広げられるマスコミのスクープ合戦に、政治利用をたくらむ政治家、そして熱狂する国民。
しかし、実は昭和も平成も令和も、たった一人の人間と一つの家が支えていた!
そもそも、誰が考え、誰が頼み、誰が決めていて、そもそも制度は誰が創り上げ、そして担ってきたのか?
安倍改元の真相はもとより、元号制度の黒衣を追った衝撃スクープ!!

実は、現在の元号は明治以降のわずかな歴史で創られた「新しい伝統」に過ぎない。
大日本帝国時代の遺制である元号は、いかにして、民主主義国家・日本の戦後にも埋め込まれてきたのか。
令和改元ブームの狂騒の裏で、制度を下支えてきた真の黒衣に初めて迫る。

元号制度の根幹は、砂上の楼閣と化していた――。
知られざる実態を、7年半に及ぶ取材によって新聞記者が白日のもとにさらす。渾身のルポ!

 個人的には、東大駒場の中国語クラス(Eクラス)に連なる懐かしい名前がいくつも出てくる。工藤篁・戸川芳郎・石川忠久・田仲一成・伏屋和彦…。が、多くの読者に興味はなかろう。

明治に一世一元となって以来、大正・昭和・平成・令和の改元において新元号策定を支えてきたのは、東大文学部中国哲学科と宇野哲人・宇野精一・宇野茂彦という三代にわたる学者の家系であったという。

宇野家は、「漢学の家元」みたいなもので、初代の哲人が明治天皇から恩賜の銀時計を「拝領」して以来の皇室との関係だという。東京帝大時代の中国哲学科の教授で、「昭和前期は国策だった中国研究のトップ」に位置していた人物。現天皇(徳仁)の命名者でもあるという。

戦後は宇野精一(1910年-2008年)がキーマンとなった。彼は、東大文学部中国哲学科の教授で、退官後には「英霊にこたえる会」「日本を守る国民会議」などの設立に関わり元号法制化運動を推進した。晩年には、日本会議の顧問も務めている。その彼がこう言っている。

 「元号の問題は、政治思想、社会思想、民族思想、文化等の見地から総合的に考へるべきもので、法律だけの問題ではありません。又、年代表記の問題ですから、過去の先祖、現在生きてゐる我々、これから生れてくる子孫とのつながりにおいて見るべきものであります。まさしく歴史と伝統を如何に認識するかに拘る大問題であります」「元号は、…めでたい文字を用ゐ、理想を掲げてその実現に祈りをこめたものであります。が、最も卒直明快に申せば、天皇陛下を仰ぐか否か、といふことであります」「元号は、国民の日常生活に一番関係が深いものであります。」「王に對する忠誠の念を王の立てた暦を使ふことで明示する象微行為「つまり、領土の版図を確定することと、王の名を直接に口にしないといふ習慣、この二つが重なり色々に考へられた末に生れた天子の治世を示す名称、それが元号ではないかと私は考へてゐる」

こんなことを聞かされて、あなたは、なお元号を使用することができるだろうか。

一方、宇野家三代に対置されるのが、戸川芳郎(東大文学部中国哲学科教授・文学部長)である。
彼は元号を批判し続けている。元号とは「そもそも近代天皇制と密着し帝王の時空統治擢を象徴する」ものであり、「君主の御代でもない本邦において、…主権在民の憲法を得たのちのちまでもこれを使用する」のは不合理。「精紳的鎖國政策には、私も従おうとは思わない」と元号不使用まで宣言している。

1989年の平成改元当時、戸川は東大文学部長だった。新元号発表翌日の1月8日の朝日新聞には、「『なごやか元年』とか『しあわせ元年』などひらがなでいいのではないか」という戸川のコメントが掲載されている。元号廃止論者としての皮肉を込めてのもの。

私(野口)は疑問をぶつけたが、戸川の答えは元号廃止論者として明快だった。
「東京大の中国哲学が元号を考えるのではないのですか」「常識として知らなければいけないが、王朝体制の元号について研究はやらない」

宇野家系の学者は、戸川の後任となった東大名誉教授を「左翼」と呼んでいるという。戸川のように戦後の共産党活動に加わったわけではないが、皇室を尊崇する保守ではないとの趣旨だという。一方、戸川も宇野家のことを「あれは学問ですか? 家学でしょ」と批判したのを、戸川を知る中国史学者は聞いたことがあるという。

天皇制を支えるイデオロギーの祖述が学問であろうはずもない。明快な戸川芳郎の喝破に拍手を送りたい。

上野戦争での彰義隊、彼らは何のために死を賭して闘ったのか。

(2021年1月18日)
図書館とはありがたいもの。思いがけなくも、目についた「新彰義隊戦史」(勉誠社・大藏八郎編著)という新刊書を借り出した。大判600頁の大著、「彰義隊・百科事典」の趣である。ずっしりと重い。定価は7700円、とうてい自費で買う気にはならない。典型的な図書館本である。

私の散歩のコースは、不忍池どまりのこともあり、ここから石段を昇って上野の山に至ることもある。上野の山全体が、「上野戦争」の舞台であり彰義隊の遺跡でもある。彰義隊員の墓碑もあり、顕彰碑もある。

江戸期、この辺り一帯は広大な「東叡山寛永寺」の境内であった。京の「比叡山延暦寺」に見立ててのこと。不忍池は琵琶湖に見立てられ、当時は舟で渡るしかなかった池中の小島が竹生島に見立てられて弁天堂が建立されたという。

言うまでもなく、寛永寺は幕府の権力に奉仕する宗教施設であったが、幕府崩壊の際に、次ぎに勃興した権力に焼かれている。1968年5月15日の「上野戦争」である。ここに立て籠もったのが彰義隊。隊長天野八郎以下の隊員3000人という規模だが、戦闘参加者は2000人未満とされる。注目すべきは、江戸庶民の戦闘参加はまったくなかったこと。

上野に立て籠もった彰義隊を掃討した、薩・長・肥を中心とする官軍側は2万8000の大軍勢だったという。戦闘員の多寡だけでなく武器の差も大きかった。勝敗は一日で決した。寛永寺36坊はことごとく焼失し、彰義隊側死者数は200人余。負傷者はその数倍に上る。官軍はその屍体の埋葬を禁じて野に晒したという。

私の関心は、彰義隊の「義」とは何であったかということ。人が集団で行動を起こすときには、共通の大義が必要となる。この時代、反薩長の下級武士を結集し、彼らを鼓舞したイデオロギーが「義」であった。その「義」という曖昧で多義的な価値の内実は何だつたのだろうか。

この書の中で、「佐幕派や、彰義隊の『義』」の具体的な内容が、次のようにまとめられている。
(1) 佐幕は勤王のためであり、勤王と佐幕は一つであって、徳川幕府に国家統治の正統性があり彰義隊はそれに従った。
(2) 徳川家の君恩には一死を以て報いるのが幕臣たる彰義隊の節義である。
(3) 戊辰戦争は薩長土の政権奪取の野心から起こったもので幕府を倒し自ら代わることを企図したものに過ぎず、これを幕臣たる彰義隊は傍観できなかった。
(4) たとえ慶喜公が恭順したとしても、幕臣として、徳川家と徳川幕府の社稜を守ることが正しい道である。
(5) 幕府に弓を引く反乱軍に一矢も報いず降伏するのは武門の恥であり、彰義隊士が一命をかけて戦ったのは当然である(正月の鳥羽伏見で1度敗けただけでその後戦らしい戦もせず、お城を無血開城するのは武門の沽券にかかわる)。

また、「義」とは、武士道の徳目の筆頭、中核に位置付けられているもので、「条理に基づき、死すべきときは躊躇なく死し、討つべきときは討つという行動における決断力」であるともいう。どうやら「義」とは、先鋭化された、極端な「主君に対する忠義」であったようである。

今にして思えば、こんなイデオロギーに命を捨てるとはなんたる愚行と言わざるを得ない。皇国史観も、特攻の精神も同様である。大義のために命を懸けよ、という煽動に惑わされてはならない。

日本政府は慰安婦訴訟判決控訴審を受けて立ち、被害者と事件に向き合うべきである。

(2021年1月10日)
衝撃的な一昨日(1月8日)のソウル中央地裁慰安婦訴訟判決。その判決文の全訳が読みたいものと思っているが、まだ入手できていない。同地裁は、判決言い渡しと同時に判決の要旨を記載した「報道資料」(4頁)をメディアに配布している。各紙は、これをもとに報道したようだが、その信頼に足りる全訳を昨日(1月9日)読売が配信した。これを引用させていただく。読売の判決評価の姿勢はともかく、この判決要約の全訳配信はジャーナリズムとして立派なものだ。

これを一読、さすがに良くできた判決理由である。焦点は「主権免除」適用の是非だが、例外的に適用はないとした理由について説得力は十分だと思う。「日本の国家が非道徳的な加害行為を組織的に行った」と一国の裁判所が認定して、仮に、このような場合にまで主権免除を認めれば、「(日本に)人権を蹂躙された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない」と、指摘して被害者救済の判決を言い渡したのだ。

その理由(要旨)の中で、こうまで述べられている。

 「被告となった国家が、国際共同体の普遍的価値を破壊し、反人権的な行為によって被害者に甚大な被害を与えた場合にまで、最終的手段として選択された民事訴訟で裁判権が免除されると解することは、不合理で不当な結果を生むことになる。すなわち、ある国家がほかの国家の国民に対して人道に反する重犯罪を犯せないようにした各種国際協約に違反するにもかかわらず、これを制裁することができなくなり、これにより、人権を蹂躙された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない。

 主権免除の理論は、主権国家を尊重し、むやみに他国の裁判権に服さないようにするという意味を持つものであって、絶対規範(国際強行規範)に違反し、他国の個人に対して大きな損害を与えた国家が、主権免除理論の陰に隠れて賠償と補償を回避できる機会を与えるために形成されたものではない。」

この指摘に対して逃げているだけでは解決しない。日本国政府は、控訴審を受けて立つべきだろう。主張は、そこで尽くせばよい。そして、重ねて言いたい。65年日韓請求権協定も、2015年慰安婦問題日韓合意も、その文言如何にかかわらず、対日個人請求権消滅の理由にはなりようがないのだ。それは、被害者個人を抜きにした国家間合意の限界と知るべきなのだ。日本政府は、旧天皇制日本帝国が犯した犯罪の被害者個人に直接謝罪し賠償しなければならない。国家無答責や主権免除で問題をはぐらかそうという姿勢が、真の解決を妨げているのだ。この訴訟の控訴審は、日本政府が被害者と向き合う、絶好の機会ではないか。

なお、「主権免除」については、朝日がこう報道している。朝日らしく客観的で分かり易い。

 日本政府は訴状を受け取らないなど一貫して裁判への参加を拒否する一方で、外交当局間では韓国側に対し、主権免除を理由に訴訟の不当性を訴えてきた。裁判で焦点になったのも主権免除の適否だった。

 戦争や統治で生じた被害への賠償と主権免除をめぐり、地裁が注目したのは、イタリアの判例だった。第2次大戦末期にナチスドイツに捕らえられ、ドイツで強制労働を強いられたとするイタリア人男性がドイツに賠償を求めた訴訟だ。

 04年にイタリア最高裁は「訴えられた行為が国際犯罪であれば主権免除は適用されない」とドイツに賠償を命じた。ドイツの提訴を受けた国際司法裁判所(ICJ)は12年、「当時のナチスドイツの行為は国際法上の犯罪だが、主権免除は剝奪(はくだつ)されない」とした。

 地裁はICJ判決を検討しつつも、慰安婦制度について、
①逸脱が許されない国際法の強行規範に違反する反人道的な犯罪
②現場は日本が不法占領する朝鮮半島だった、
などの理由を挙げて例外的に韓国が裁判権を行使できると判断した。

 その上で、「主権免除は主権国家を尊重し、みだりに他国の裁判権に服従しないようにするためのもので、強行規範に違反して他国の個人に大きな損害を与えた国に賠償逃れの機会を与えるためのものではない」として、日本政府に主権免除を認めなかった。また、主権免除の考え方は「恒久的ではなく、国際秩序の変動に応じて修正される」とも言及した。

 国際法に詳しい名古屋大大学院の水島朋則教授によると、主権免除の原則は、戦時行為などにおける賠償の問題は政府間で解決すべきだとの考えから、国際法として広まった。主権免除を認めなかったのはイタリアの判例など数例で、一般的ではないという。ただ、主権免除は不変の原則とも言えず、新しい判例が重なると、変化していく可能性もあるという。

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「報道資料」読売新聞訳

■主文
原告の請求をすべて認め、被告・日本国に対し、原告に1億ウォンずつを支払えとの判決を宣告する。

■主権免除の是非
主権免除は、国内の裁判所は外国国家に対する訴訟について裁判権を持たない、とする国際慣習法だ。19世紀後半からは、例外事由を認める相対的主権免除の理論が台頭した。

我が国の大法院(最高裁)の判決によっても、外国の私法的行為については、裁判権の行使が外国の主権的活動への不当な干渉となる懸念があるなど特別な事情がない限り、当該国家を被告として我が国の裁判所が裁判権を行使することができる。しかし、本事件の行為は、私法的行為ではなく主権的行為だ。

国際司法裁判所は2012年2月3日、ドイツとイタリアの事件で、「主権免除に関する国際慣習法は、武力衝突の状況における国家の武装兵力及び関連機関による個人の生命、健康、財産の侵害に関する民事訴訟手続きにも適用される」との趣旨の判決を宣告したことがある。

しかし、本事件の行為は、日本帝国による計画的・組織的で広範囲な反人道的犯罪行為として、国際強行規範に違反するものであり、当時日本帝国によって不法占領中だった朝鮮半島内で、我が国民である原告に対して行われたものとして、たとえ本事件の行為が国家の主権的行為だとしても、主権免除を適用することはできず、例外的に大韓民国の裁判所に被告に対する裁判権がある。

その根拠として、韓国憲法、国連の世界人権宣言でも、裁判を受ける権利をうたっている。権利救済の実効性が保障されなければ、憲法上の裁判請求権を空文化させることになる。裁判を受ける権利は、ほかの実体的な基本権とともに十分に保護・保障されるべき基本権だ。

主権免除は、手続き的要件に関するものではあるが、手続き法が不十分なことによって実体法上の権利や秩序が形骸化したり歪(ゆが)められたりしてはならない。

主権免除の理論は、恒久的で固定的な価値ではなく、国際秩序の変動によって修正され続けている。

1969年に締結された条約法条約53条によると、国際法規にも上位規範たる「絶対規範」と下位規範との間に区別があり、下位規範は絶対規範を外れてはならないと言える。この絶対規範の例として、国連国際法委員会の2001年の「国際違法行為に関する国家責任協約草案」の解説で挙げられた奴隷制及び奴隷貿易禁止などを挙げることができる。

被告となった国家が、国際共同体の普遍的価値を破壊し、反人権的な行為によって被害者に甚大な被害を与えた場合にまで、最終的手段として選択された民事訴訟で裁判権が免除されると解することは、不合理で不当な結果を生むことになる。すなわち、ある国家がほかの国家の国民に対して人道に反する重犯罪を犯せないようにした各種国際協約に違反するにもかかわらず、これを制裁することができなくなり、これにより、人権を蹂躙(じゅうりん)された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪(はくだつ)され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない。「慰安婦」被害者たちは日本、米国などの裁判所に何度も民事訴訟を提起したが、すべて棄却・却下された。(日韓)請求権協定と2015年の慰安婦合意もまた、被害を受けた個人に対する賠償を含むことはできなかった。交渉力、政治的な権力を持ち得ない個人に過ぎない原告としては、本事件の訴訟以外に具体的な損害賠償を受ける方法がない。

主権免除の理論は、主権国家を尊重し、むやみに他国の裁判権に服さないようにするという意味を持つものであって、絶対規範(国際強行規範)に違反し、他国の個人に対して大きな損害を与えた国家が、主権免除理論の陰に隠れて賠償と補償を回避できる機会を与えるために形成されたものではない。

■国際裁判管轄権の有無
不法行為の一部が朝鮮半島内で行われ、原告が大韓民国の国民として現在韓国に居住している点、物的証拠は大部分が消失し、基礎的な証拠資料は大部分が収集されており、日本での現地調査が必ずしも必要ではない点、国際裁判管轄権は排他的なものではなく併存可能である点などに照らすと、大韓民国は本事件の当事者及び紛争となった事案と実質的な関連性があると言え、大韓民国の裁判所は本事件について国際裁判管轄権を有する。

■損害賠償責任の発生
日本帝国は、侵略戦争の遂行過程で軍人の士気高揚や効率的な統率のため、いわゆる「慰安婦」を管理する方法を考案し、これを制度化して法令を整備し、軍と国家機関が組織的に計画を立て、人員を動員・確保し、歴史上前例を見いだしがたい「慰安所」を運営した。10代から20代の、未成年または成年になったばかりの原告らは、「慰安婦」として動員された後、日本帝国の組織的で直接・間接的な統制の下、強制的に、1日何十回も、日本の軍人たちの性的行為の対象となった。原告らは、過酷な性行為による傷害、性病、望まぬ妊娠などを甘受しなければならず、常時、暴力にさらされ、まともに衣食住を保障されなかった。原告らは最小限の自由も制圧され、監視下で生活した。終戦後も、「慰安婦」だったという前歴は被害を受けた当事者にとって不名誉な記憶として残り、精神的に大きな傷となり、これによって原告らは社会に適応するのに困難を抱えた。

これは、当時日本帝国が批准した条約および国際法規に違反するだけでなく、第2次世界大戦後、東京裁判で処罰することとした「人道に対する罪」に該当する。

従って、本事件の行為は、反人道的な不法行為に該当し、被告は、これにより原告が負った精神的な苦痛に対して賠償する義務がある。被告が支給しなければならない慰謝料は少なくとも1億ウォン以上とみるのが妥当である。ただし、原告が1人あたり1億ウォンを請求しているため、それを超える部分については判断しない。

■損害賠償請求権の消滅の是非
原告の損害賠償請求権は、(日韓)請求権協定や、2015年の慰安婦合意の適用対象に含まれておらず、請求権が消滅したと言うことはできない。

ソウル中央地裁慰安婦判決 ー 被害者と向き合う好機にせよ

(2021年1月8日)
「韓国裁判所が慰安婦被害者勝訴判決…『計画的、組織的…国際強行規範を違反』」こういうタイトルで、韓国メディア・中央日報(日本語版)が、以下のとおり伝えている。

旧日本軍慰安婦被害者が日本政府を相手に損害賠償訴訟を提起し、1審で勝訴した。日本側の慰謝料支払い拒否で2016年にこの事件が法廷に持ち込まれてから5年ぶりに出てきた裁判所の判断だ。

ソウル中央地裁は8日、故ペ・チュンヒさんら慰安婦被害者12人が日本政府を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、原告1人あたり1億ウォン(約948万円)の支払いを命じる原告勝訴の判決を出した。

裁判所は「この事件の行為は合法的と見なしがたく、計画的、組織的に行われた反人道的行為で、国際強行規範に違反した」とし「特別な制限がない限り『国家免除』は適用されない」と明らかにした。

また「各種資料と弁論の趣旨を総合すると、被告の不法行為が認められ、原告は想像しがたい深刻な精神的、肉体的苦痛に苦しんだとみられる」とし「被告から国際的な謝罪を受けられず、慰謝料は原告が請求した1億ウォン以上と見るのが妥当」とした。

さらに「この事件で被告は直接主張していないが、1965年の韓日請求権協定や2015年の(韓日慰安婦)合意をみると、この事件の損害賠償請求権が含まれているとは見なしがたい」とし「請求権の消滅はないとみる」と判断した。

この判決の影響は大きい。被告は日本企業ではなく、日本という国家である。日本は、国際慣習法上の「主権免除」を理由に一切訴訟にかかわらなかった。いまさら、日本がこの判決の送達を受領して、適法な控訴をするとは考え難い。とすれば、この地裁判決は公示送達(韓国では、裁判所が書類を一定期間ホームページに掲示することで送達完了とみなすという)手続後の控訴期間徒過によって確定する公算が高い。またまた、韓国内の日本の国有財産差押えの問題が生じてくる。

菅首相がさっそく反応した。政府は、1965年の日韓請求権協定で解決済みだとする立場で、「断じて受け入れられない。訴訟は却下されるべきだ」と記者団に語っている。加藤官房長官も、「極めて遺憾で、断じて受け入れることはできない」と述べ、日本政府として強く抗議したことを明らかにしている。

あ~あ、このようにしか言いようはないのだろうか。原告となった女性に対する、いたわりやつぐないの心根はまったく窺うことができない。せめて、「原告となられた方々の御苦労はお察ししますし、我が国がご迷惑をおかけしたことには忸怩たる思いはありますが、当方としては、こういう立場です…」くらいのことが言えないのだろうか。そうすれば、韓国国民の気持ちを逆撫ですることもあるまいに。

韓国外務省の報道官は、8日の判決を受けて「裁判所の判断を尊重し、慰安婦被害者たちの名誉と尊厳を回復するために努力を尽くしていく」と論評したという。両国政府の落差は大きい。

この訴訟の原告は12人。日本政府の「反人道的な犯罪行為で精神的な苦痛を受けた」として、日本国を被告とする慰謝料の賠償請求訴訟だが、5年に及ぶ訴訟の期間に、半数の6人が亡くなったという。

「1965年日韓請求権協定で解決済み」が私的な請求権については通らない理屈であることは、実は日本政府もよく分かっている。徴用工訴訟判決で明確になってもいるし、日本の最高裁の立場も私的な請求権までが全て解決済みとは言っていない。

この訴訟の論点は、もっぱら『主権免除』適用の有無にあった。日本政府の立場は、「主権国家は他国の裁判権に服さない。これが国際法上確立した『主権免除の原則』であって、訴えは当然に却下されるべきだ」というもので、まったく出廷していない。訴状の送達も受け付けないし、当初は調停として申し立てられたこの事件に応じようともしなかった。

しかし、ソウル中央地方裁判所は本日の判決で、原告側の主張を容れて、主権免除の原則について「計画的かつ組織的に行われた反人道的な犯罪行為」には適用外とし、今回の裁判には適用されないとする判断を示した。

また、原告の損害賠償請求権は、1965年「日韓請求権協定」や、2015年の「慰安婦問題をめぐる日韓合意」の適用対象に含まれず、消滅したとは言えないとも判示しているという。

来週の13日(水)には、元慰安婦ら20人が計約30億ウォンの賠償を求めている事件での判決が言い渡される。おそらくは、本日と同様に請求認容の判決となるだろう。

これに自民党内からは韓国に対し、激しい怒りの声が上がっているという。佐藤正久外交部会長は「国家間紛争に発展する可能性がある」とツイートしたという。これは穏やかではないし、危険で愚かな対応でもある。

戦後補償問題においては、加害国・加害企業・加害者が、被害者本人と向き合わなければ、いつまでも真の解決にはならない。日本国対戦時性暴力被害者が、直接に向き合う恰好の舞台が設定されているのだ。日本政府は、これを好機として被害者と直接に向き合い真の解決を試みるべきではないか。

「古事記及び日本書紀の研究」(津田左右吉)拾い読み

(2021年1月6日)
例年、暮れから正月の休みには、まとまったものを読みたいと何冊かの本を取りそろえる。が、結局は時間がとれない。今年も、年の瀬に飛び込んできた解雇事件もあり、ヤマ場の医療過誤事件の起案もあった。「日の丸・君が代」処分撤回の第5次提訴も近づいている。やり残した仕事がはかどらぬ間に、正月休みが終わった。結局は例年のとおりの、何もなしえぬ繰り返しである。

取りそろえた一冊に、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究[完全版]」(毎日ワンズ)がある。刊行の日が2020年11月3日。菅新政権がその正体を露わにした、学術会議会員任命拒否事件の直後のこと。多くの人が、学問の自由を弾圧した戦前の歴史を意識して、この書を手に取った。私もその一人だ。

が、なんとも締まらない書物である。巻頭に、南原繁の「津田左右吉博士のこと」と題する一文がある。これがいけない。これを一読して、本文を読む気が失せる。

南原繁とは、戦後の新生東大の総長だった人物。政治学者である。吉田茂政権の「片面講和」方針を批判して、吉田から「曲学阿世の徒」と非難されても屈しなかった硬骨漢との印象もあるが、この巻頭言ではこう言っている。

「津田左右吉博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。」

これだけで筆を止めておけばよいものを、南原はこう続けている。

「右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。」

 また南原は、同じ文書で戦後の津田左右吉について、こうも言っている。

「博士は、われわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」

 津田の「皇室を敬愛する情に満ち」「終始一貫、皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価した」姿勢を、「学者として」立派な態度と、褒むべきニュアンスで語っている。このことは、南原自身の地金をよく表しているというべきだろう。これが、政治学者であり、東大総長なのだ。

また、この書は読者に頗る不親切な書である。いったいこの書物のどこがどのように、右翼から、また検事から攻撃され、当時の「天皇の裁判所」がどう裁いたか。この書を読もうとする人に、語るところがない。今の読者の関心は、記紀の内容や解釈にあるのではなく、戦前天皇制下の表現の自由や学問の自由、さらには司法の独立の如何を知りたいのだ。

南原の巻頭の一文を除けば、この300余頁の書は、最後の下記3行を読めば足りる。

 『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。

 確かに、この書は真っ向から天皇制を批判し、その虚構を暴こうという姿勢とは無縁である。後年に至って「皇室を敬愛する情に満ち」「皇室の尊厳を説く」と、評されるこの程度の表現や「学問」が、何故に、どのように、当時の天皇制から弾圧されたか。そのことをしっかりと把握しておくことは、今の世の、表現の自由、学問の自由の危うさを再確認することでもある。

戦前の野蛮な天皇制政府による学問の自由への弾圧は、1933年京都帝大滝川幸辰事件に始まり、1935年東京帝大天皇機関説事件で決定的な転換点を経て、1940年津田左右吉事件でトドメを刺すことになる。

太平洋戦争開戦の前年である1940年は、天皇制にとっては皇紀2600年の祝賀の年であった。その年の紀元節(2月10日)の日に、津田左右吉の4著作(『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』、いずれも岩波書店出版)が発売禁止処分となった。当時の出版法第19条を根拠とするものである。

そして、同年3月8日、津田左右吉と岩波茂雄の2人が起訴された。罰条は、不敬罪でも治安維持法でもなく、「皇室の尊厳を冒涜した」とする出版法第26条違反であった。南原の巻頭言に「20回あまり尋問が傍聴禁止のまま行なわれた」とこの裁判の様子が描かれている。天皇の権威にかかわる問題が、公開の法廷で論議されてはならないのだ。

翌1937年5月21日、東京地裁は有罪判決を言い渡す。津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、いずれも執行猶予2年の量刑であった。公訴事実は5件あったが、その4件は無罪で1件だけが有罪となった。結果として、起訴対象となった4点の内、『古事記及び日本書紀の研究』の内容のみが有罪とされた。

何が有罪とされたのか。これがひどい。「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」という同書の記述が、「皇室の尊厳を冒涜するもの」と認定された。これでは、歴史は語れない。これでは学問は成り立たない。恐るべし、天皇制司法である。

なお、判決には、検事からも被告人からも控訴があったが、「裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われる」と、南原は記している。

古事記・日本書紀は、天皇の神聖性の根源となる虚妄の「神話」である。神代と上古の記述を誰も史実だとは思わない。しかし、これを作り話と広言することは、「皇室の尊厳を冒漬すること」にならざるを得ないのだ。それが、天皇制という、一億総マインドコントロール下の時代相であり、天皇の裁判所もその呪縛の中にあった。

あらためて、学問の自由というものの重大さ、貴重さを思う。

12月8日、あらためて戦争を繰り返させない教訓を噛みしめる。

(2020年12月8日)
本日は定例の「本郷・湯島9条の会」の街宣活動の日。これが、文京母親会議の「12月8日行動」と重なった。本郷三丁目交差点では、いつにないにぎやかさ。マスク姿の22名が、マイクを持ち、プラスターを掲げ、「赤紙」を配った。平和を願う市民の運動おとろえず、である。

私にまでマイクはわたってこなかった。だから、下記は漠然と考えていた発言予定の内容。

12月8日です。1941年の本日未明、帝国海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島のパールハーバーを攻撃しました。太平洋戦争の開戦です。現地時間では、12月7日・日曜日の早朝を狙った奇襲は、宣戦布告なく、交渉打ち切りの最後通告もない、日本のだまし討ちでした。

当時、日本は中国との間に10年も戦争を続けていました。中国との戦争の泥沼にはまった日本が、さらに強大な国を相手に始めた展望のない戦争。しかし、79年前のこの日、NHKが報じる大本営発表の大戦果に、日本中が沸き返ったといいます。

いくつか今日述べておくべき感想があります。国民は開戦のその日まで、軍の動きも内閣の動きも、まったく知りませんでした。知らされてもいなければ、知る術もなかったのです。それでも知ろうとすればスパイとして処罰される世の中。そんな時代に逆戻りさせてはなりません。政府のやることの透明性を確保し、説明責任を全うさせなければなりません。国民の表現の自由、政府に反対する行動の自由を大切にしなければならないと、あらためて思います。いまの政権が真っ当なものではないだけに、国民の不断の努力が必要だと思います。

私たちの父母・祖父母の時代の日本人は、大本営発表の戦果に歓呼の声を上げました。勝てそうな戦争なら支持をしたということです。そして、4年後の夏に、国土を焼き払われ、多くの死者を出して敗戦の憂き目を見ることになります。戦争は、決して負けたから悲惨なのではなく、勝者にも甚大な被害をもたらします。全ての人々にこの上ない悲劇、不幸をもたらします。二度と戦争の惨禍は繰り返させない。その決意を、今日こそ再確認すべきではありませんか。

戦争をたくらむ指導者に欺されてはなりません。鬼畜米英や暴支膺懲などという、スローガンに踊らされてはなりません。他民族に対する敵愾心や優越意識は、極めて危険です。民族差別を許してはならないのです。安倍政権の発足当たりから、差別的な言動が繁くなっています。ネットの空間でも、リアルの世界でも。この動きを批判して、差別を許さない社会の空気を作っていく努力を重ねようではありませんか。

もう一つ、申し上げたい。一国を戦争に導こうとする者は、決して戦争狂の恐ろしい形相をしているわけでも、好戦的で威嚇的な言動をしているわけでもないということです。むしろ、平和を望むポーズをとりつつ、「平和を望む我が国はこんなに隠忍自重してきたのに、好戦的な敵国の振る舞い堪えがたく、自衛のために開戦のやむなきに至った」というのです。これに、欺されてはなりません。

天皇が作った和歌を御製といいます。明治天皇(睦仁)の御製として最も有名なのが、
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」
というものでしょう。

事情を知らずにこの歌だけを読むと、明治天皇(睦仁)は、まるで平和主義者のごとくです。「世界中の人々がみんな兄弟のように仲良くしなければならないと私は思っているのだが、どうしてこんなにも平和を掻き乱す時代の波風がたちさわぐのだろう」というのです。「波風のたちさわぐ」は、あたかも自分の意思とは無関係な平和にたいする障碍のようではありませんか。つまり、「私は平和を願っているのだが、どうしてその平和は実現しないのだろう。嘆かわしいことだ」と言っているのです。

しかしこの歌、実は、日露戦争の開戦直前に、ロシアに対する先制攻撃を決定した当時の作とされています。「たちさわぐ波風」は、これから自分が作り出そうとしている対露開戦を意味するものとして読むと景色はまったく変わってきます。

「世界中の人々がみんな兄弟のように仲良くしなければならないとは私も思っているのだが、どうして戦争を決意せざるをえないことになってしまうのだろう」と言うことになります。「本当は平和を望んでいるのだけど、マ、しょうがない。戦争の仕掛けもやむを得ないね」ともとれます。

明治維新以後、日本は侵略戦争を続けてきました。しかし、表向きは「平和を望む」と言い続けたのです。「平和を望みなが、戦争もやむを得ない」として、積極的に侵略戦争を重ねてきました。この歌は、その文脈の中にあります。

そして、この歌は太平洋戦争開戦を決定した「1941年9月6日御前会議」の席で昭和天皇(裕仁)が読み上げたことで知られています。読みようによっては、「自分も祖父同様、平和を願いつつも不本意な開戦を決意せざるを得ない」と責任逃れのカムフラージュをしたようでもあり、「今や平和は空論に過ぎず、ここに開戦を決意する」と意思表明したようにも読めます。

いずれにせよ、「よもの海みなはらからと思ふ世に」(世界の平和を望む)は、枕詞のごとくに必ず謳われるのです。自分は平和主義者だ。しかし、敵は、平和を望まない。だからやむなく戦争を始める。戦争するとなれば、こちらから先制攻撃することに躊躇してはおられない。

睦仁も裕仁も、こうして大戦争を始めました。戦争指導者とは、「平和を望むポーズで、戦争を決意する」ものと知るべきだとおもうのです。それが、今につながる教訓ではないでしょうか。

憲法23条は「専門領域の自律性」「公的学術機関による人選の自律」を保障するために置かれた。― 「加藤陽子の近代史の扉」

(2020年11月22日)
昨日(11月21日)の毎日新聞朝刊に、「加藤陽子の近代史の扉」が掲載されている。月に一度、第3土曜日に連載の「学術コラム」だが、平易な表現で読み易い。

日本学術会議正会員になるはずが菅政権から任命を拒否された、あの10月1日以来2度目のコラムである。前回、10月17日の記事は、「学術会議『6人除外』『人文・社会』統制へ触手」というものだった。そして、今回は、より踏み込んだ「学術会議の自律性保障 『日本側が磨いた学問の自由』」というタイトル。はからずも任命拒否の対象となり、自らが権力と対峙する近代史のアクターとなったことを自覚しての重い内容となっている。覚悟を決めたという印象が強い。

書き出しを引用させていただく。

 敗戦からほどない1949年に日本学術会議は設立された。第1回総会において、科学者の戦争協力を反省し、科学こそ文化国家・平和国家の基礎となるとの決意表明がなされたことについては、昨今の報道などにより、かなり世に知られるようになってきた。
 ただ、戦争協力のくだりを読むと、わずかだが胸のうずきを覚える。母国が戦争を遂行したのであれば、科学者たる者、協力すること以外に選択肢はあったかとの問いが生ずるからだ。国防への貢献を要請される重責と、自らの基礎研究への情熱と。この葛藤に全く苦しまなかった科学者の姿は想像しにくい。よって、この苦悩と葛藤を二度と招来しないとの決意から、軍事研究を行わないと選択したのは自然なことだったろう。

このコラムで加藤は、「学術会議誕生の背景を考えていると、日本国憲法そのものもまた戦争の結果誕生したと改めて腑(ふ)に落ちる。」とした上で、「『学問の自由は、これを保障する』と規定した憲法23条は、いかにして生まれたのか。」を問うて、次のように述べている。

 実のところ、本条(23条)は日本側の熱意によって磨かれた条文だった。総司令部の原案は「学問の自由および職業の選択は、保障される」であり、いささか雑な出来だった。…日本国憲法の審議過程で、議会答弁を一手に担当したのは金森徳次郎国務大臣だった。金森は美濃部達吉の天皇機関説事件の折、同じく機関説論者だとして法制局長官の地位を追われていた。金森以上に憲法23条を語るにふさわしい人物はいなかった。高らかに金森はうたう。「この憲法の狙い所の一つは、この人間の完成と云(い)う所に狙いを持って居(お)ります。学問を止めて人類の完成と云うものがどうして出来るであろうか」と

そして、このコラムの最後はこう結ばれている。

 金森の説明に加え、判例を踏まえた憲法解釈をまとめておきたい。23条は生まれながらの人一般の学ぶ権利を保障したものではない。それは思想・良心の自由(19条)、表現の自由(21条)で保障されうるからだ。23条は専門領域の自律性、公的学術機関による人選の自律を保障するために置かれた。学術会議問題の根幹には、確かに学問の自由の問題があるのだ。

加藤が語るところは、日本国憲法と日本学術会議とが、出自を同じくしているということである。日本国憲法が国民的な不戦の誓いの結実であるごとく、日本の科学者は、軍事研究を強いられた苦悩と葛藤を二度と招来しないとの決意から、非軍事の道を選んで日本学術会議を設立した。憲法23条は、その両者を結ぶ結節点にある。

「23条は専門領域の自律性、公的学術機関による人選の自律を保障するために置かれた。」と言いきる、加藤の言葉は重い。「権力からの自律性の保障」こそが、問題の根幹に位置するキーワードなのだ。

「学術会議問題の根幹には、確かに学問の自由の問題があるのだ。」とは、任命を拒否された当事者の言として、居住まいを正して耳を傾けるべきであろう。

憲法公布記念日に、「学問の自由」条項を噛みしめる。

(2020年11月3日)
11月3日、憲法公布記念日。1946年11月3日に日本国憲法は公布され、6か月を経た翌47年5月3日が憲法施行の記念日となった。74年目の記念日に、思いがけなくも学問の自由を保障した憲法23条が注目されている。

私の手許に、「はじめて学ぶ日本国憲法」(2005年3月1日)がある。スガ政権によって、学術会議会員に推薦を受けながら任命を拒否された小澤隆一さん(慈恵医科大学教授)の著作。題名ほどには読み易い書物ではない。憲法条文の解説書ではなく、「憲法を学ぶことを、社会科学を学ぶことのなかに自覚的に位置づけようという」試みとしての体系書なのだ。なるほど、政権におもねる姿勢はいささかもない。忖度期待の輩には、耳が痛い内容。

その第2章「日本・日本人と憲法ー明治憲法を通じて考える」「5. 明治憲法体制の崩壊」という項がある。その一部を紹介させていただく。

(1)天皇制のファシズム化と天皇機関説事件
……1932年5月15日、犬養毅(1855-1932年)首相が海軍の青年将校らに暗殺され(5・15事件)、いわゆる政党内閣の時代が幕を閉じます。その前年には、満州事変が始まり、日本は急速に軍事体制を固めていきました。すなわち、対外的には侵略体制を強めると同時に、国内では、強権的な戦時動員体制が、思想や言論統制、弾圧もまじえながら構築されていきました。…

 1930年代から敗戦にいたる日本の政治体制を、「天皇制ファシズム」と呼ぶことがあります。…こうした「天皇制フアシズム」の特徴を象徴的に示す事件として、1935年の天皇機関説事件があります。この事件は、それ以前の時代に支配的な憲法学説であった美濃部達吉の天皇機関説が、議会での糾弾と「国体明徴決議」、在郷軍人会などが主体となった「国体明徴運動」、政府による「国体明徴声明」などを通じて排撃され、美濃部は、最終的に大学で機関説の講義ができず、著書を絶版にするところまで追い込まれます。
 1937年に文部省が編纂し、全国の学校に配布したパンフレツト「国体の本義」では、明治憲法によれば、「天皇は統治権の主体である」こと、その根本原則は「天皇の御親政である」こと、三権の分立は「統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎ」ないことなどをうたっており、天皇機関説は、「西洋国家学説の無批判(な)踏襲」として完全に否定されました。

(2) 総動員体制と敗戦
 日本の戦争は、中国大陸への侵略から、アメリカ・イギリスなどとの東南アジア・太平洋を舞台としたものへと展開していきます。そうしたなかで、政治、経済、社会、文化のすべてを戦争に動員する「総力戦体制」がしかれ、憲法にもとづく統治は、いっそう破壊されていきます。1938年には、「国家総動員法」が制定され、国民の経済、生活が政府の一元的統制の下に置かれ、統制に関する権限は政府に白紙委任されます。1940年には、当時の議会内政党が解散し大政翼賛会に合流します。また翌年に、治安維持法が改正され(処罰対象の拡大、予防拘禁制度の新設など)、政治弾圧法規としての機能が強化されました。
 このようにして、日本が、1941年にアメリカやイギリスなどとの戦争を開始する頃には、明治憲法体制は、その立憲主義的要素はほとんど残さないような状態にまでなっていました。明治憲法の体制が最終的に崩壊するのは、敗戦を待つことになりますが、「政治を規律する法」という憲法本来の役割を、明治憲法は、すでに敗戦以前に失っていたといえるでしょう。

 戦前の天皇制政府による学問の自由弾圧が戦争準備と一体であったことを簡潔に解説したものである。天皇機関説事件に代表される歴史的体験が、戦後の制憲国会において憲法23条「学問の自由は、これを保障する」に結実した。この著作を上梓した当時、小澤さんご自身が美濃部と同じ立場に立つことになるとは夢にも思わなかったに違いない。その意味では、今、非常に危険な時代を迎えていることを、74年後の憲法公布記念日に噛みしめなければならない。

しかし、学者もいろいろだ。『御用』と冠を付けた「学者」も、一人前に発言の場が与えられている。NHK(デジタル)が「【学術会議】憲法専門の百地氏『首相の任命権 自由裁量ある』」と掲載している(10月29日 21時08分)。

「日本学術会議」の会員候補6人が任命されなかったことについて、憲法が専門の百地章国士舘大学特任教授は、「総理大臣の任命権は、ある程度の自由裁量はある」などと述べ、政府の対応に理解を示しました。

この中で、百地特任教授は、「私は結論的には任命拒否はあり得ると考えている。菅総理大臣はいろいろなバランスとか総合的に考えたと言っており、総理大臣の任命権は、学術会議の推薦に拘束されるものではなく、ある程度の自由裁量はある。法律の解釈は変わらない。運用で少し変化が出たと私は理解している」と述べ、政府の対応に理解を示しました。

その上で百地氏は、「学術会議そのものにも問題があるようだと考える人たちも増えている。本来のあり方に持っていこうということで、改革の動きが出てきているのは当然ではないか」と述べました。

また、百地氏は、「学問の自由を侵し、萎縮を招く」といった批判が野党などから出ていることについて、「私から言わせるとナンセンスだ。学術会議の会員になれなかったからと言って、学問の自由は侵害されないのではないか」と述べました。

以上の叙述に強烈な違和感を禁じえないが、とりわけ、「『学問の自由を侵し、萎縮を招く』といった批判が野党などから出ていることについて、『私から言わせるとナンセンス』」は、法を学んだ人の言ではない。少なくも、法の神髄を知らず、法を社会科学として把握する姿勢に欠け、法の歴史も法の機能も法常識の弁えもなく、ひたすらに権力へのへつらいに徹した人の言でしかない。

NHKは、いったいどんな思惑あって、こんなコメンテーターを取りあげたのだろうか。社会は、74年前に公布された憲法が想定しているようには動いていない。時代は危ういといわなければならない。

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