澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

えっ? 「沖縄全戦没者追悼式」での平和の詩に「令和時代」?

昨日(6月23日)は、「沖縄・慰霊の日」。本土決戦の時間稼ぎのためとされる旧日本軍の組織的戦闘が終結した日である。これで戦争が終わったわけではない。多くの悲劇がこのあとに起こる。沖縄県民にとっは、新たな形の悲劇の始まりの日でもあった。

あれから74年。糸満市摩文仁の平和祈念公園で、恒例の「沖縄全戦没者追悼式」(主催は沖縄県)が挙行された。敵味方なく、軍民の隔てなく、すべての戦争犠牲者を追悼するという次元の高いコンセプト。未来の平和を指向するものでもあり、国民感情にピッタリでもあろう。この点、「皇軍の戦没者だけを、天皇への貢献故に神として祀る」という、偏狭な軍国神社靖国の思想と対極にある。

全戦没者名を刻する「平和の礎」には、新たに韓国籍2人を含む42人の名前が刻銘された。二重刻銘による削除者も1人いて、総刻銘数は24万1566人となったという。24万1566人の一人ひとりに、それぞれの悲劇があり、その家族や友人の悲劇があったのだ。

玉城デニー知事の「平和宣言」は、うちなーぐちと英語を交えてのスピーチ。辺野古新基地建設を強行する政府を強く批判し、「県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は民意を尊重せず、地方自治をもないがしろにするものだ」とまで言っている。

そして、今年も「平和の詩」の朗読があった。糸満市兼城小6年山内玲奈さんの「本当の幸せ」と題するもの。次いで、これまた恒例の安倍晋三の首相としての官僚作文の朗読である。

安倍晋三の参列と式辞は、明らかにこの式典のトーンと異なるもので、違和感に包まれていた。案の定、首相挨拶の途中、会場から野次というレベルではない怒声が飛んだ。
「安倍は帰れ!」
「安倍はやめろ!」
「(近年の沖縄の発展は)あんたがやったわけじゃないよ」
「(基地負担軽減は〕辺野古を止めてから言え」
「戦争屋!」

式辞の朗読が進むとともに、ヤジは大きくなり、安倍首相が「私が先頭に立って、沖縄の進行をしっかり前へ進めたいと思います」と述べた途端に、やめてくれー」と大声が上がり、会場がどよめいたという。チヤホヤされるのが大好きで、忖度文化の頂点に立つ居心地を満喫している彼には、不愉快な体験だったろう。

日本は民主主義国家だという。民主的な手続で選任された日本のトップが首相であって、今その地位に安倍晋三がいる。しかし、日本の首相とは不思議な存在だ。国民を代表する立場で重要な式典に臨んで、来るな」「帰れ」と猛然と野次られ罵られる。警察が式場を取り巻いて威圧し監視する中でのことだ。ウソとごまかしにまみれ、国政私物化の疑念を払拭できない人物が、長期政権を継続している。この「来るな」「帰れ」と野次られるトップを国民自身が選んでいることになっている。日本の民主主義が正常に作動していないのだ。

6月23日、8月6日、8月9日は、いずれも国民が記憶すべき日として、式典が行われる。晴れやかな日でも、勇ましい想い出の日でもない。民族や国家が、独立した日でも戦勝の日でもない。自ら起こした侵略戦争に破れて、多くの国民が犠牲になったことを改めて肝に銘記すべき日である。

安倍晋三個人としては、そんなところに出たくはない。しかし、いやいやながらも出席せざるを得ない。その席で、辺野古新基地建設強行を語ることもできず、悪役ぶりを披露し、じっと野次に耐えるしかない。「安倍は帰れ!」と野次られても、帰るわけにはいかないのは、あたかも安倍とその取り巻きが日本国憲法大嫌いでありながらもこれに従わざるを得ないごとくである。安倍は6・23、8・6、8・9の各式典に、「帰れ!」と野次られつつも、出席を続けなくてはならない。そう、「悔い改めて、方針を転換します。新基地建設強行は撤回しました」と報告できるその日まで。

さて、いつも話題の平和の詩の朗読。今年も素晴らしいものではあった。引用しておきたい。

本当の幸せ (沖縄県糸満市立兼城小学校6年 山内玲奈)

青くきれいな海
この海は
どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ちこまれ
ほのおで包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか

緑あふれる大地
この大地は
どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音
泣き叫ぶ幼子
兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか

青く澄みわたる空
この空は
どんなことを思ったのだろうか
緑が消え町が消え希望の光を失った島
体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が奪われたことを知り
そんな沖縄に涙したのだろうか

平成時代
私はこの世に生まれた
青くきれいな海
緑あふれる大地
青く澄みわたる空しか知らない私

海や大地や空が七十四年前
何を見て
何を聞き
何を思ったのか
知らない世代が増えている
体験したことはなくとも
戦争の悲さんさを
決して繰り返してはいけないことを
伝え継いでいくことは
今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために
この島がこの国がこの世界が
幸せであるように

お金持ちになることや
有名になることが
幸せではない
家族と友達と笑い合える毎日こそが
本当の幸せだ
未来に夢を持つことこそが
最高の幸せだ
「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある

令和時代
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも

 素晴らしい詩だとは思う。しかし、引っかかるところがある。平成時代」「令和時代」というフレーズである。沖縄の小学生が、こんなにもあたりまえのように、無抵抗に元号を使わされているのだ。

昨年(2018年)12月13日の毎日新聞に、沖縄と元号」という興味深い記事が掲載されていた。「代替わりへ」という連載の第1回。1960……昭和35年!4月1日!」 という表題。米占領下、センバツ出場 宣誓、西暦で言いかけ」という副見出しがついている。

 兵庫県の甲子園球場で1960年4月1日にあった第32回選抜高校野球大会の開会式。戦後初めてセンバツに沖縄勢として出た那覇高主将の牧志清順(まきしせいじゅん)さんは、選手宣誓で日付を西暦で言いかけ、すぐに元号で言い直した。当時、米国統治下の沖縄の住民の多くは西暦で年代を考えていた。

 本土復帰(72年)後の80年に膵臓(すいぞう)がんのため37歳で亡くなった牧志さん。大会直後の手記に、本田親男・大会会長(毎日新聞社会長)の「いまだ占領下にある沖縄から参加した諸君たちに絶大な拍手を送ろうではないか」とのあいさつを聞き、「感激の涙がとめどもなく流れた」と記していた。その日の毎日新聞夕刊は「七万の観衆の万雷の拍手。那覇ナインはひとしお深い感激にひたっているようだった」と描写している。

 牧志さんの妻愛子さん(70)は「このあいさつの後の宣誓でしょ。いろんな感情がこみ上げて、緊張と感動で素に戻っていつもの西暦がスッと出てきたんじゃないの?」と推測する。愛子さんが大切に保存するアルバムには牧志さんの自筆コメントが残る。出場校の整列写真には「チョット恐ろしかった」との感想も。数カ所ある開会式の日付は「1960……!!昭和35年」と記され、言い直しを意識していたようだ。

 当時、アルプススタンドで応援した同級生の伊藤須美子さん(76)は「友達と『そもそも、なんで昭和と言わなきゃいけないの』と話していた。言い直しを聞き、沖縄と本土は違うと実感した」と語る。法政大の上里隆史・沖縄文化研究所研究員(42)は「元号は、その土地が元号を定めた主体に支配されているという目印」と指摘する。西暦か元号か。米国か日本か。牧志さんの宣誓は、当時の沖縄の状況を浮き彫りにしていた。

なるほど、復帰前の沖縄にとっては、「西暦か元号か」は、「米国か日本か」であったろう。しかし、復帰を実現してから47年の今、事情は異なる。「西暦か元号か」は、象徴天皇制の本土体制を容認するか否かではないか。

「『戦争終わったよ』投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺」という記事が、6月22日の琉球新報(デジタル)に掲載されている。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190622-00000006-ryu-oki

 沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。
  当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。
 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

「一番怖かったのは日本兵だった」という述懐が、印象に残る。沖縄を本土防衛の捨て石とし、県民の4人に一人を殺した戦争を唱導したのが皇国日本だった。独立後も沖縄の占領を続けるようアメリカに提案したのが、天皇(裕仁)だった。そして今、本土復帰後も続く保守政治の中で、沖縄の人権も平和も蹂躙され続けている。その本土の保守政権は、象徴天皇制と積極的に結び付き、これを積極的に利用しようとしている。客観的に見て、天皇制は沖縄民衆の敵というべきであろう。しかも沖縄は、一度は元号離れの経験をしているのだ。

国民生活のレベルへの象徴天皇制の浸透が元号である。元号の使用は象徴天皇制の日常化と言ってよい。「平成の時代」「令和の時代」という言葉が、小学生の詩の中に出てきて、これが平和の式典に採用されるこの状況を深刻なものと受けとめなければならない。
(2019年6月24日)

映画「主戦場」の異例のヒットを喜ぶ

私は未見なのだが、映画「主戦場」が大きな話題となっている。2019年4月20日公開で、その2か月後の興行成績を朝日新聞は、「東京の映画館では満席や立ち見状態になり、上映後には拍手が起きる『異例のヒット』」と報じている。全国各地に上映館が拡大している。この種の映画としては、紛れもない「最大級の異例のヒット」。世論への影響も小さくない。

テーマは慰安婦問題。劇映画ではなく、多数者へのインタビューを重ねた地味なドキュメンタリー。これがなぜ異例のヒットとなったか。何よりも、異例の宣伝が功を奏したからだ。出演者自らが勤勉な宣伝マンとなって話題作りに励み、この映画の題名や内容や評判を世に知らしめ、多くの人の鑑賞意欲を掻き立てたのだ。制作者の立場からは、こんなにありがたいことはなかろう。

5月30日、この映画の出演者の内の7人が、共同で上映中止を求める抗議声明を発表した。そのうち、3人が共同記者会見をしている。これが、この映画の存在と性格を世に知らしめる発端になった。言わば、これが話題作りパフォーマンスの発端。多くの人は、この記者会見で、こんな映画があり、こんな問題が生じていることを初めて知ることとなった。

「主戦場」を異例のヒットに導いた7人の宣伝マンの名を明記しておかなくてはならない。多くは、おなじみの名だ。ほかならぬこの7名が、映画の出演者として自らが出演した映画の上映中止を求めている。それだけで、映画の宣伝としての話題性は十分。この声明と記者会見で、この映画を観るに値すると考え、映画館に足を運ぼうと思いたった数多くの人がいたはずである。

    櫻井よしこ(ジャーナリスト)
    ケント・ギルバート(タレント)
    トニー・マラーノ(テキサス親父)
    加瀬英明(日本会議)
    山本優美子(なでしこアクション)
    藤岡信勝(新しい教科書をつくる会)
    藤木俊一(テキサス親父のマネージャー)

「共同声明」は、彼らが映画の上映中止を求める理由を7項目にわたって書いている。その7項目のタイトルが下記のとおり。
1、商業映画への「出演」は承諾していない
2、「大学に提出する学術研究」だから協力した
3、合意書の義務を履行せず
4、本質はグロテスクなプロパガンダ映画
5、ディベートの原則を完全に逸脱
6、目的は保守系論者の人格攻撃
7、出崎(監督のデザキ)と関係者の責任を問う

上映や出版の中止を求める場合、普通は「事実が歪曲されている」「事実無根の内容によって名誉と信用を毀損された」とする。表現の自由も、「事実を歪曲する自由」を含まないからだ。しかし、この7項目に、そのような主張は含まれていない。具体的に、真実と異なる表現を指摘できないと理解せざるを得ない。

毎日「夕刊ワイド」が詳細に報じているとおり、「『主戦場』は、出演者の発言と表情を克明に追う。抗議声明に名前を連ねているケント・ギルバート氏は3月の試写会鑑賞後、毎日新聞の取材に対し『取り上げる意味のない人物の発言を紹介している』と批判を加えた一方で、自身の発言部分については『まともに取り上げてくれています。それは大丈夫です』と話している。」というのだ。

藤岡信勝は「学術研究とは縁もゆかりもない、グロテスクなまでに一方的なプロパガンダ映画だった」と強調したというが、本来プロパガンダ映画作りも、表現の自由に属する。

その上、「商業映画への出演は承諾していない」「大学に提出する学術研究だから協力した」「合意書の義務を履行せず」の主張は、彼らにとって旗色が悪い。

一方、デザキ氏と『主戦場』配給会社の東風は6月3日、東京都内で記者会見した。デザキ氏は、出演者が「撮影、収録した映像、写真、音声などを私が自由に編集して利用することに合意する合意書、承諾書に署名した」と指摘した。藤岡氏ら2人については、公開前の確認を求めたため、昨年5月と9月に本人の発言部分の映像を送ったという。その後、連絡がなかったため大丈夫だと考えたという。デザキ氏は、出演者には「試写会」という形で一般公開される前に全編を見てもらう機会を与えたとも強調した。(週刊金曜日)

にもかかわらず、6月19日、この7人のうちの5人(ギルバート、マラーノ、山本、藤岡、藤木)が原告となって映画の上映差し止めと計1300万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。どういうわけか、櫻井よしこ、加瀬英明の二人は、提訴をしていない。

いずれにせよ、勝ち目を度外視したにぎやかな提訴がまたまた話題を呼び、この映画の社会的関心を盛り上げることに成功している。有能な宣伝マンたちの、献身的な行為と賞讃せざるを得ない。

なお、朝日の報道に、原告らは「映画で『歴史修正主義者』『性差別主義者』などのレッテルを貼られ、名誉を毀損(きそん)された」とある。

フーン。彼らにも、歴史修正主義者』『性差別主義者』などは、名誉を毀損する悪口だという認識があるのだ。

「歴史修正主義」とは、歴史的事実をありのままに見ようとせず、自らのイデオロギーに適うように歴史を歪めて見る立場をいう。イデオロギーに、事実を当てはめようという倒錯である。典型的には、「天皇の率いる日本軍が非人道的な行為をするはずがない」という信念から、「従軍慰安婦などはなかった」とする立場。あるいは、日本という国を美しいものでなくてはならないとする考え方から、日本の過去の行為はすべて美しいものであったという歴史観。原告ら5人は、この映画制作進行の過程で、こう指摘される結論に至ったのだ。その過程が示されていれば、名誉毀損にも侮辱にも当たらない。

また、「性差別主義者」についてである。「例えば、上映中止を求めている一人の藤木俊一氏。『フェミニズムを始めたのは不細工な人たち。誰にも相手にされないような女性。心も汚い、見た目も汚い』との内容を語る様子がスクリーンに映し出される。だが、記者会見でこの発言について確認を求められた藤木氏は『訂正の必要はない』と述べている。」(毎日・夕刊ワイド)

『主戦場』という映画のタイトルは、いまや日本でも韓国でもなく、当事国ではないアメリカこそが、この論争の主戦場になっているという、映画の中での右派の言葉からとったものだという。

あるいは、これまでの論争を総括し集約して、このスクリーンこそが従軍慰安婦問題の主戦場である、という主張なのかも知れない。いや、スクリーンにではなく現実の社会の論争喚起にこそ主戦場がある、との含意かも知れない。何しろ、安倍晋三を首相にしているこの日本の歴史認識状況なのだから。

この映画と映画をめぐる諸事件が、従軍慰安婦問題論争に火をつけ、活発なメディアの発言が続いていることを、歴史修正主義派を糾弾する立場から歓迎したい。
(2019年6月21日)

益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)で聴き入る石川逸子の詩

本日(6月16日)初めて、益子に「朝露館」を訪ねた。13名の小さなグループの一員として。そこで、関谷興仁・石川逸子ご夫妻に、展示内容の説明を受けた。

関谷興仁とは何者か、彼の陶板彫刻美術とは何か。丸木美術館のホームページの中に、当時同美術館館長だった針生一郎が、関谷興仁陶板作品私観」として語っている。2003年7月のこと。一部を抜粋して引用する。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2003/sekiya.htm

関谷興仁は1965年ごろまで組合活動に熱心な教師だったが、定年前にやめてクリーニング屋を経営しながら、新左翼の救援活動にたずさわるうち、80年代はじめから「何も考えずに」陶器づくりに集中しようと、益子の窯元に弟子入りした。
だが、土をこねると造形する暇もなくうかびあがるのは、大戦中のホロコースト、日本軍の殺戮、本土空襲や沖縄戦、特攻隊や原爆の無数の戦没者と、戦後の解放闘争や水俣のような公害の犠牲者たちの顔、顔だったという。

「僕には、こうして悼むしか、今に対する対し方はない。それは僕自身を悼むことである」という制作メモの一節が、わたしには切実に響く。

作品の構成をみると、主題別に厳選されたというより、これしかないと記憶からうかびあがった詩(詞)を彫りこんで焼成した陶板を組みあわせ、あるいはインスタレーション風に配置している。

金明植の叙事詩『漢拏(ハルラ)山』、石川逸子の90年代の長詩『千鳥ヶ淵へ行きましたか』、正田篠枝、深川宗俊の短歌、大原三八雄の英詩、石川逸子の詩集『ヒロシマ連祷』から成るヒロシマ・シリーズ。
とりわけ妻である石川逸子の詩は、さすがに詩的ヴィジョンの深まりを身近に受けとめてきた人生の同行者らしく、丸木位里と俊の『原爆の図』とそれ以後の共同制作に似た味わいがある。

戦争と戦後の無限の怨念をいだく死者の沈黙に迫ろうとする彼の仕事は、もしかしたら現代陶芸に新しいジャンルをきりひらくかもしれない。
(針生一郎 美術評論家・丸木美術館館長)

朝露館は、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致す場である。本日、ここで石川逸子さんが、2編の自作の詩を朗読され、一同が聴き入った。

一編は、「千鳥ヶ淵に行きましたか」という長編詩の一節。そして、「もっと生きていたかった-子どもたちの伝言」と表題する詩集の一編「一枚の地図」。マレーシアにおける皇軍の蛮行をテーマにした、以下の詩。

一枚の地図

ここに
一枚の地図があります

市販の地図でいくら探しても
地図のなかの村は 見つからない
五十四年前
跡形なく消えてしまった村
マレーシア・ネグリセンビラン州ジュルブ県
イロンロン村

その地図を描いたのは
村が廃墟となったとき
十四歳の少女だった蕭月嬌
幻となった村の風景を
長く 胸にあたため
憤怒と悲哀のなかで 描きました

イロンロン村をゆったりと蛇行して
川はながれています
右手は鬱蒼とした山地
村の中央 川と道路の間には
大きな錫の精錬工場
蕭月嬌の家の裏手には学校

道路に面していくつかの店
小さな古い飛行場に
旗が二本 なびいています

村に入る道
また広い道路に沿って
あるいは川に沿って
家々が建ち並び
その一軒一軒に
住んでいた人の名が 丁寧に記されています
蕭来源
駱発
鐘月雲
張生
という具合に

まわりを山に囲まれ
空気はあくまで清らかに
作物は実り豊かに
戦いの日にも桃源郷のように
穏やかだった 村
つつましく 堅実に
助け合って働いていた村人たち

蕭月嬌は
母と姉 弟との 四人家族
畑で せっせと働きながら
日々 ただ楽しかったのです
一九四二年三月十八日
日本軍が不意にあらわれる
その日まで

その日
十四歳の蕭月嬌は
母を 弟を 失いました

ちょうど昼休み 十九歳の姉と家の食堂にいて
自転車に乗って村に入ってくる 日本軍人らに気づき
あわてて姉と裏門から抜けだし
這ってパイナップル畑に隠れたため
二人だけ助かったのです
まさか村中殺されるとは思わず
「日本軍はクーニヤンを見ると犯す」
という噂に逃れたのでした

夜になって
さらに隣村まで逃れ
バナナ園の溝に隠れて
はるか燃え上がるイロンロン村を見ていました

姉と抱き合い
そんな遠くまで聞こえてくる
村人たちの絶叫を 震えながら 聞いていました

翌朝帰っていった村は
いっぱいの死体
母も 弟も
生きてはいなかった
幼い弟はさんざん斬られてすぐ死ねず
道に這い出したのでしょう
もがき苦しんだ姿で息絶えていました

「おう どうしてこんな目めに会わなくてはならないのか!」
一九八六年夏
日本にやってきて
むせび泣きながら
証言された蕭月嬌さん
四十四年の月日が経っていました

姉は日本軍に連行されるのを恐れて
すぐ婚約者と結婚し
孤児となって過ごした解放までの
三年八ケ月
飢え
野の草 タニシを取って
空腹をごまかし
栄養失調で目は黒ずみ
死に近い日々だった

「おうどうしてこんな目に会わなくてはならないのか!
この世から
戦争を消滅させたい
それが願いです」
ハンカチで日を押さえ 言われました

イロンロン村
今は
一面に 生い茂る草草
ところどころぽうぽうとひょろ高い樹が生え
風にしなう 荒れはてた土地

そこに
かつて美しい村があり
人々が行きかい
つつましく働き
夢を語っていたことを
一枚の地図だけが 示しています

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益子に行ったら、朝露館を訪ねてみてください。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られています。
春期(4月~6月) 秋期(9月~11月)
開館日:金曜・土曜・日曜
開館時間:12:00~16:00まで
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00~16:00)

なお、ホームページが充実しています。
http://chorogan.org/http://chorogan.org/access.html案内のユーチューブもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
ぜひ、私のブログもどうぞ。
益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)ご案内
http://article9.jp/wordpress/?p=12202

(2019年6月16日)

金時鐘「朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ (岩波新書)」を読む

巻を措く能わずという形容のとおり、読み始めたらやめることができず、一気に読み通した。もう4年前に出た本。その前には、岩波の『図書』に連載されていたものというから、もっと早くに読めたのにようやく今ごろ…。もっと早く、読んでおくべきだった。

一人の誠実な活動家の生き方の記録としてだけでも読むに値するが、歴史の証言としての内容は、幾重にも衝撃的である。とりわけ、「4・3事件」を生き延びた当事者としての生々しい描写に息を呑む。若い彼は、犠牲者総数3万人を超えるとも言われている事件の全体像を語る立場にはないが、弾圧された側の運動を支えた精神を最も鮮明に語りうる活動家の一人ではあった。

結局蜂起は失敗に終わり、無惨な報復的虐殺の嵐が荒れ狂うことになる。なぜ、チェジュ島でこれほどの暴虐が恣にされたのか。十分には理解しえないもどかしさは残るが、どうしても若い彼の行動と気持に感情移入して、はらはら、ドキドキせざるを得ない。敗北の苦い経験だが、傍観者の事後的評価は慎むべきだろう。「4・3蜂起」といわれる彼らの決起行動を「未熟な冒険主義」などと、傲慢に非難する気持にはなれない。

「賽は投げられる寸前でした。座して死を待つか。立って戦うか。祖国分断への単独選挙が目前に迫るなかで、ぎりぎりの選択が党員(「南労党」)全員にかかってきました。」という、回想が胸に迫る。

彼は、「4・3事件」に決起していったん逮捕され釈放の後、再度の任務を遂行して今度こそ進退窮まる。このときに、普段は飄々としている父親が奔走して、日本への密航船を手配する。父親は別れの時に、こう言ったという。
「これは最後の、最後の頼みでもある。たとえ死んでも、ワシの目の届くところだけでは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」

こうして、彼は、母がつくった炒り豆の弁当と、日本の50銭紙幣の束と、イザというときのための青酸カリをしのばせて、粗末な密航船に乗り込んだ。上陸は瀬戸内の舞子の浜あたりだったという。こうして、その後の人生を在日として生きることになった。

彼は、日本統治下の済州島で、皇民化政策の申し子として育つ。心底からの、天皇崇拝の皇国少年だったと回想している。1945年の「解放」時は、数えで17才。努力して朝鮮人としての自覚を獲得する。ハングルも解放後に学んだという。

彼は、日本へ脱出の後も、アメリカとその傀儡である李承晩政権が圧政を敷く南朝鮮に深く失望し、北に強い憧憬の念を抱く。しかし、次第に北朝鮮の実情を知るに至ってこちらにも失望する。そして、終章の最後をこう締めくくっている。

「新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました。30年にわたって民衆が闘い続けた民主化要求が実って、民主主義政治が実現した大韓民国の国民のひとりにこの私がなれたことを、心から手を合わせて感謝しています」

2003年のこのとき著者は74才になっている。なお、これに「あとがき」が続き、次のような胸に刺さる一節がある。

「この連載を機に、…今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名をなし、その下で成長を遂げた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」

金時鐘氏、1929年の生まれ。在日の詩人。今年90才になる。まぎれもなく、貴重な歴史の生き証人である。
(2019年5月13日)

「法と民主主義」4月号特集『日韓関係をめぐる諸問題を検証する』ご案内

日本民主法律家協会の機関誌・「法と民主主義」4月号【通算537号】は、来週中に発刊となる。特集の総合タイトルが、「日韓関係をめぐる諸問題を検証する」というもの。発刊に先だって、そのリードをご紹介する。

 時あたかも「3・1独立運動」から100周年といういま、日韓関係が過去最悪の事態と言われる。保守層の一部では、あろうことか、「日韓断交」の言葉さえ飛びかっているという。
 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金の上告を棄却して、元徴用工の賠償請求を認容した原判決を確定させた。この大法院判決は、韓国における三権分立が正常に作用していることを示すものである。しかし、それ以来の急激な日韓関係の軋みである。
 同年11月21日には、日韓「慰安婦」合意(2015年12月28日)によって設立された「和解・癒し財団」の解散が発表されて、同合意は事実上崩壊した。同月29日には、三菱重工に対しても、新日鉄住金と同内容の徴用工事件判決の言い渡しがあった。さらに、同年12月20日には、韓国海軍の広開土国王艦から自衛隊機に対する「レーダー照射」問題が生じ、これが外交問題となって日韓関係の悪化に拍車がかかった。
 その上、今年の2月7日には、韓国議会(一審制)の文喜相議長が、天皇に対する元慰安婦への謝罪要求発言があったとして物議を醸すに至っている。
 保守の朴槿恵大統領時代には、比較的「円満・良好」だった安倍政権との関係が、市民の「キャンドル革命」によって樹立された文在寅政権とは基本的に反りが合わないというべきか、軋轢が噴出している。
 その軋轢が、日本国民のナショナリズムの古層を刺激し、韓国に対する排外・差別感情を醸成している点で、看過しがたい。冷静に、問題を歴史の根本から見つめなければならない。
 問題の根源は、旧天皇制日本による朝鮮植民地化の歴史にある。そして、韓国の軍事独裁政権と日本の保守政権とで合意された、日韓の戦後処理の杜撰さにも大きな問題がある。また、現在進行しつつある、南北関係や米朝関係の大きな変化の反映という側面も見なければならない。
 現在の日本国内の事態は、政府に煽られた形で、メディアや世論が韓国批判の論調一色に染められていると言って過言でない。対韓世論悪化の元凶は、明らかに日本政府である。
 本特集は、法律家の任務として、かつて日本の植民地支配時代に侵害され蹂躙された朝鮮・韓国の人権回復の法理を再確認するとともに、これまでの日中・日韓の各戦後補償訴訟の到達点を踏まえて、政権のデマゴギーを許さない運動に役立てようとするものである。
 本特集の構成は以下のとおりである。

◆巻頭論文として、和田春樹氏の「日・韓・朝 関係の戦後史」(仮題)を掲載する。植民地支配を脱した韓国朝鮮が、東西対立の最前線として、朝鮮戦争を余儀なくされたところからの現代史を通覧して、軋んだ現状の原因となった日韓、日朝の戦後補償問題の経過と、米国を含む現状の国際関係までを把握するためである。
◆次に、植民支配の残滓を清算すべきでありながら不十分に終わった、「日韓の戦後処理の全体像と問題点」を、この点に精通している山本晴太弁護士の寄稿が明らかにする。
◆日韓の請求権問題は、中国の戦後補償訴訟との共通点をもつ。その訴訟実務を担当した森田大三弁護士が、「中国人強制連行・強制労働事件の解決事例」を踏まえて、韓国徴用工問題解決への展望を語っている。
◆また、「韓国徴用工裁判の経緯、判決の概要と今後の取り組みについて」は、専門実務家の立場から、川上詩朗弁護士が全体像を明確にしている。
梓澤和幸弁護士の「徴用工判決と金景錫事件」は、訴訟において和解による被害救済を実現した、貴重な実例の報告である。                 
大森典子弁護士「日韓合意の破綻──『慰安婦』問題と日韓関係」は、日本の朝鮮植民地支配時代の人権侵害を象徴する「慰安婦」問題における、2015年合意の脆弱な弱点を指摘するものである。
◆最後に、韓国側の事情を中心に、「文政権と南北宥和 ― その対日政策への影響」について、東京都市大学・李洪千准教授に解説をお願いした。

 以上のとおり、求めるところは人権尊重の原理が国境を越えた普遍性を有していることの再確認であり、日韓市民間の友誼と連帯を通じての北東アジアの平和の構築である。本特集が、その理解と運動に寄与することを強く願う。
                  (担当編集委員 弁護士 澤藤統一郎)

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「法と民主主義」は、毎月編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。

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(2019年4月21日)

本日、東京大空襲の日。10万の犠牲者の無念に合掌。

3月10日。胸が痛む日。74年前の今日、東京大空襲で一夜のうちに10万人の命が失われた。その一人ひとりに、個人史があり、思い出があり、夢があり、親しい人愛する人がいた。自然災害による被災ではない。B-29の大編隊が、東京下町の人口密集遅滞に焼夷弾の雨を降らせてのことだ。東京は火の海となって焼失し、都市住民が焼き殺された。

広島・長崎に投下された原爆も、沖縄地上戦も、この世の地獄に喩えられる惨状であったが、日本各地での都市空襲被害も同様であった。その中の最大規模の被害が東京大空襲である。

1945年3月10日早暁、325機のB-29爆撃機が超低空を飛行して東京を襲った。各機が6トンのM69ナパーム焼夷弾を積んでいたという。米軍が計算したとおり、折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。逃げれば助かった多くの人が、防空法と隣組制度で消火を強制されたために逃げ遅れて、命を失った。

この空襲被害は避けることができなかったものだろうか。1941年に始まった対米戦争の終戦が早ければ貴重な人命を失うことはなかったのだ。当時既に、情報を把握している当局者には、日本の敗戦は必至の事態であった。

前年(44年)7月9日にはサイパンが陥ちている。続いて、8月1日にはテニアン、8月10日にグアム。こうして、B-29爆撃機の攻撃圏内に日本本土のほぼ全域が入ることになった。これらの諸島を基地としたB-29の本土襲来があることは当然に予想されており、東条内閣はサイパン陥落の責任をとる形で7月18日に総辞職している。

東条内閣の成立は、太平洋戦争に突入の直前。その前に首相の座にあったのが近衞文麿である。この人が、45年2月14日、東京大空襲の1か月ほど以前に、天皇(裕仁)に面会して、近衛上奏文と言われる文書を提出している。「敗戦は必至だ。早急に戦争終結の手を打つ必要がある」という内容。

やや長文のうえ候文の文体が読みにくいが、要所を摘記してみる。

敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん-傷)たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革(天皇制の廃絶のこと)とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上

「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと考えます。従って国体護持(天皇制維持)の立場よりすれば、一日も早く戦争終結の方法を実行するべきものと確信しています」というのが、近衛の情勢観。

開戦も終戦も、権限のすべてを握るものが天皇であった。「元首相」の立場では、精一杯のことだったろう。終戦のためには軍の実権を握る勢力(近衛は「此の一味」と言っている)を一掃しなければならず、それはなかなかに困難ではあったろうが、それができるのは天皇だけなのだ。

この日、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」と言い、近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」と述べたとされている。

その後の経過において、天皇が言った「もう一度、戦果を挙げてから」のという機会は一度もなかった。すべては、近衛が「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」と危惧したとおりとなった。

このあと1か月ほどで、3月10日を迎える。首都が壊滅状態となり、10万の人命が失われても本土決戦の絶望的作戦は変更にならない。4月1日には、本土への捨て石としての沖縄地上戦が始まり6月23日に惨憺たる結果で沖縄守備隊の抵抗はやむ。ここで日本側だけで19万人の死者が出ているが、まだ戦争は終わらない。全国の主要都市は、軒並み空襲を受け続ける。そして、ポツダム宣言の受諾が勧告されてなお、天皇は国体の護持にこだわり、広島・長崎の悲劇を迎え、ソ連の対日参戦という事態を迎えてようやく降伏に至る。

すべての戦争犠牲者が、天皇制の犠牲者ではあろうが、敗戦必至になってからの絶望的な戦闘での犠牲者の無念は計り知れない。とりわけ、空襲の犠牲者は、同胞から英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることすらもない。

広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと怒りと、鎮魂の祈りと反省とが、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。

3月10日、今日は10万の死者に代わって、平和の尊さを再確認し、平和憲法擁護の決意を新たにすべき日にしなければならない。
(2019年3月10日)

益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)ご案内

石川逸子さんのお宅を訪問したのが、朝鮮の「独立運動」記念日に当たる3月1日。先週の金曜日のことだった。そのとき、石川さんの夫君(パートナーというべきか)関谷興仁さんともお目にかかった。石川さんへのインタビューの後、関谷さんの運転で小岩駅まで送っていただいた。

そのとき、益子に朝露館という陶芸展示館があり、関谷さんがその主宰者であることを教えられた。ものを知らないということは恐ろしい。私は、朝露館について、まったく無知だった。関谷興仁という陶芸家についても。

お土産に、悼 -集成-」と題する立派な写真集をいただいた。奥付を見ると、発行人関谷興仁、発行所朝露館とされている。一葉社から、2016年11月に発売されたもの。朝露館展示の陶芸作品とそれにまつわる詩が中心だが、並みの陶芸作品記録ではない。

「悼」とは、戦争で、植民地支配で、原爆で、弾圧で…。非業の死をやむなくされた無数の人々への鎮魂の意である。この本の惹句に、「もの言えぬ死者の声を聞き取りながら負の歴史に向かい合った作品を作り続ける関谷興仁の第4弾にして決定版の陶板作品写真集!」とある。『悼ー集成ー』の以前に、『悼』『悼II』『悼III』の出版があって、その集大成の写真集として、『集成』に至ったとのこと。

目次が下記のとおりだ。
 ハルラ山
 千鳥ヶ淵
 SHOAH
 チェルノブイリ
 フクシマ
 中国人強制連行
 ヒロシマ
 詩歌
 オブジェ

「ハルラ山」は、韓国・チェジュ島の中央に位置する高山。ここは「済州島四・三事件」の舞台。権力に抵抗して蜂起した人々に対する虐殺の場。「千鳥ヶ淵」は、靖国と対置される、無名の太平洋戦争犠牲者の墓苑。「SHOAH」は、ユダヤ人に対するジェノサイドのこと。「チェルノブイリ」「フクシマ」は、多くの人の平和な故郷を奪った文明の陥穽。「中国人強制連行」は天皇制日本の蛮行の象徴。関谷さんは、「当時これを実施したのは現政権中枢の祖父たち。この子孫がいまだ政権に蟠踞している」とメモしている。もちろん、岸信介と安倍晋三を念頭においてのこと「ヒロシマ」は、あのヒロシマ。ここでは石川逸子さんの詩が、多く陶板に書き込まれている。「詩歌」の最初は、金芝河。そして伊東柱。坂口弘なども。「オブジェ」の冒頭作品は、「石のインティファーダへの『呼びかけ』」と評題されたもの。これでほぼ、朝露館」「悼」の骨格がお分かりいただけるだろう。

「朝露」は、はかない「あさつゆ」かと思ったのは間違いで、韓国では誰もが知っている抵抗の歌からの命名だという。1970年朴正煕政権下において、22歳のジョンテイル(全泰壱)青年が抗議の焼身自殺をした。これを悼む歌として、作られたのが、キムミンギ(金敏基)作詞・作曲の「アッチミスル」、即ち「朝露」である。

次のような訳詞が紹介されている。勇ましくはない。政権や体制への直接の批判の言葉もない。
  長い夜を暮らし草葉に宿る
  真珠より美しい朝露のように

  心に悲しみがみのるとき
  朝の丘に立ち微笑を学ぶ

  太陽は墓地の上に赤く昇り
  真昼の暑さは私の試練か

  私は行く、荒れ果てた荒野に
  悲しみ振り捨て私は行く

それでも、この歌は、民衆の抵抗歌として歌われ、軍事政権によって74年に「禁止歌謡」に指定されたという。もちろん、禁止されれば、なおのこと人は唱うものだ。民主化運動のうねりの昂揚のたびに、この歌は脈々と唱い継がれてきた。この抵抗のスタイルが、関谷さんの気持ちにピッタリだったのだろう。

安倍や、菅や、麻生や、河野太郎のような、「差別根性を丸出しにした」「政権中枢に蟠踞している輩」だけが日本人ではない。同胞の中に、関谷興仁さんや、石川逸子さん等がいることを誇りに思う。強者の不当な仕打ちに心から怒り、弱者の側に立って寄り添おうという人だけが、民族間の架け橋にもなり、平和を築く土台を作りうる。

益子に行ったら、朝露館を訪ねてみよう。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られている。
 春期(4月~6月) 秋期(9月~11月)
 開館日:金曜・土曜・日曜
 開館時間:12:00~16:00まで  
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00~16:00)

なお、ホームページが充実している。
http://chorogan.org/
http://chorogan.org/access.html
案内のユーチューブもある。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY

朝露館では、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致そう。
これ以上の過ちは繰り返させないという決意を新たにしつつ。
(2019年3月8日)

「3・1独立運動」は、現代の韓国民主化にどうつながっているだろうか。

昨日(2月22日)の夜、韓国から帰国。日本平和委員会が企画した「韓国ピースツアー・2019」に参加して、4泊5日の旅程が有意義に終了した。

この企画に初参加した昨年は、大きなカルチャーショックを禁じえなかった。韓国はすごい。韓国民衆の意識の高さと、市民運動のパワーに圧倒される思いだった。そして、市民運動に携わる人々の若さと明るさを羨ましいと思った。学ぶべき点が数多くある。今年の企画に参加した個人的な問題意識は、その市民のパワーの源流を確認したいということ。

「3・1独立運動」から100年である。日本の側から見れば、侵略と植民地支配の負の歴史をどう総括するのか。朝鮮(韓国)の人々は、植民地支配への抵抗の歴史が今にどうつながっていると見ているのか。そして今、両国の民衆はどのような共通認識のもと、連帯の行動が可能なのだろうか。

「3・1独立運動」は、華々しく独立を勝ち得た運動ではない。大規模な非武装の平和的民衆蜂起ではあったが、苛酷に弾圧され、押さえ込まれた民衆運動だった。果敢に運動の先頭に立った良心と勇気を兼ね備えた多くの人々が殺害されている。独立宣言文に署名した「民族代表」33名のほとんどが有罪とされてもいる。この抵抗と弾圧の記憶と怨念が、どのように継承され持続されたのであろうか。

現行大韓民国憲法(第六共和国憲法・1987年採択)の前文冒頭に、「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし」と書かれているという。「3・1独立運動」こそが、「正義人道と同胞愛で民族の団結を強固にする」という国民運動の源流であり、87年民主化にもつながる「祖国の民主改革」の原点という国民的確認ということなのだろう。

ツアー最終日の昨日(2月22日)、安重根記念館タプコル公園を見学した。安重根は1909年に初代韓国統監伊藤博文を射殺した民族的英雄。そして、タプコル公園は1919年の「3・1独立運動」の発火点となった場所。この2事件は、日本の植民地支配への抵抗の形として、武力闘争と非武力の平和的大衆闘争の典型例。結局は両者とも、独立を勝ち取ることには成功せず、抵抗を示すことで終わった。しかし、その両者の精神が、朝鮮民族の中に脈々と流れてきたということになる。

自分の確信として、「安重根の伊藤射殺と韓国の現代」「『3・1独立運動』とキャンドル革命」とがしっくりと重ね合わされたわけではない。ツアーの続きのノリで、本日(2月23日)東新宿の高麗博物館を訪ねてみた。

同博物館のホームページによれば、高麗博物館とは、「市民がつくる日本とコリア交流の歴史博物館」だとある。「高麗」とは世界の共通語「コリア」の意味、つまり韓国と朝鮮をひとつにとらえた言葉。日本とコリアとの関係はこう語られている。

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有史以前から、朝鮮半島と日本列島の人々は豊かな交流があり、先進文化は朝鮮半島を通じて日本に伝えられ、日本は発展してきました。ところが日本は近代以降コリアを侵略し植民地にしました。しかし戦後、私たちの国はこの事実にしっかり向き合ってはきませんでした。在日コリアンが日本にいるということ、今も差別が続いているということは、過酷な植民地支配の歴史を象徴しています。日本人の多くは、このような歴史も、コリアンの心の内も、ほとんど理解しないで過ごしてきました。
私たちはこのような歴史の事実に向き合い、学び理解することを心がけたいと思います。これは日本とコリアの信頼関係の土台になり、東アジアの平和につながるものです。そして在日コリアの人たちと共に良き隣人となる道を歩んで行きたいと思います。

高麗博物館の目的

1、高麗博物館は、日本とコリア(韓国・朝鮮)の間の長い豊かな交流の歴史を、見える形であらわし、相互の歴史・文化を 学び、理解して、友好を深めることを目指します。
2、高麗博物館は、秀吉の2度の侵略と近代の植民地支配の罪責を反省し、歴史の事実に真向かい、日本とコリアの和解を目指します。
3、高麗博物館は、在日韓国朝鮮人の生活と権利の確立を願いながら、在日韓国朝鮮人の固有の歴史と文化を伝え、民族差別のない共生社会の実現を目指します。

その高麗博物館の2019年企画展「3・1独立運動100年~東アジアの平和と私たち~」が開催中なので訪ねてみた。企画展は以下のとおり。

2019年2月6日(水)~6月23日(日)
開館時間: 12:00 ~17:00
会場:高麗博物館展示室
休館日:月曜・火曜
入館料 400円    

この企画展の趣旨が次のように語られている。

1919年3月1日、日本の植民地支配に抗し、朝鮮で大規模な独立運動が起きました。各地で「独立宣言書」を読み上げ、「独立万歳」をさけび、あらゆる階層の人たちが参加して、運動は全国各地に広がっていきました。

日本の憲兵警察はこの 「3・1独立運動」を弾圧し、日本は敗戦まで植民地支配を続け、ほとんどの日本人は政府を支持しました。
100年が経過した今日、多くの人が「3・1独立運動」ばかりか、かつて日本が朝鮮半島を植民地にしていたことを知りません。
朝鮮半島の情勢は今大きく変化し、非核化と朝鮮戦争の終結へと向かっています。「3・1独立運動」100周年に当たり、高麗博物館では韓国の独立記念館、堤岩里の教会などを訪ね、3・1運動について学んできました。当時の報道や女性の活動、堤岩里の虐殺事件、在朝日本人の動き、そしてこの運動が今日の民主化運動、キャンドル革命へ連動していくことなどを展示して東アジアの平和について考えたいと思います。

韓国では、歴史を学ぶ場に若者が多い。どの運動体も、若者とりわけ女性に支えられているという印象が強い。比較して、日本の原状を嘆くのがパターンなのだが、今日はちょっぴり嬉しかった。たまたまなのかも知れないが、この博物館で高校生のグループと一緒に説明員の解説に耳を傾けた。その生徒たちの熱心さが好もしかった。ソウルの日本大使館前で「少女像」を囲んでの水曜集会に高校生や中学生がたくさん集まっているという話を、興味深そうに聞いてくれた。

日本の若者もけっして捨てたものではない。ただ、事実を知る機会がない。考える材料に接する機会がないだけなのだ。
(2019年2月23日)

元徴用工の新日鉄住金に対する請求権は、「消滅していないが、法的に救済されない」 ― お分かりいただけないでしょうね。

河野タロウでございます。
日韓請求権・経済協力協定の理解に関して、ミスリーディングなニュースや解説が流されています。まことに遺憾なことで、この機会に丁寧な説明をしておきたいと思います。

しんぶん赤旗電子版は、2018年11月15日号にこう記事を掲載しています。

『河野太郎外相は14日の衆院外務委員会で、韓国の元徴用工4人による新日鉄住金に対する損害賠償の求めに韓国大法院(最高裁)が賠償を命じた判決(10月30日)をめぐり、1965年の日韓請求権協定によって個人の請求権は「消滅していない」と認めました。
日本共産党の穀田恵二議員への答弁。大法院判決について「日韓請求権協定に明らかに反する」としてきた安倍政権の姿勢が根本から揺らぎました。』

しかし、「個人の請求権は消滅していない」ということは以前から答弁していることですし、個人の請求権は救済されないということにはなんら変わりはないわけですから、何かが根本から揺らいだわけではなく、極めてミスリーディングです。
さらにこの記事は続けて、こう言っています。

『また穀田氏は、大法院判決で原告が求めているのは、未払い賃金の請求ではなく、朝鮮半島への日本の植民地支配と侵略戦争に直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員への慰謝料だとしていると指摘。
これに関し柳井条約局長が、92年3月9日の衆院予算委員会で日韓請求権協定により「消滅」した韓国人の「財産、権利及び利益」の中に、「いわゆる慰謝料請求というものが入っていたとは記憶していない」としたことをあげ、「慰謝料請求権は消滅していないということではないか」とただしました』

韓国国民の請求権は、消滅させられてはいませんが、請求権が救済されない」ということは、常々申し上げてきたとおりです。衆議院外務委員会で何か新しいことがあったわけではありません。

上記の判決にもとづく執行としてなされた、大邱地裁による新日鉄住金に対する差押え命令の法的効力に対しても、同様の原則を貫いてまいります。

いうまでもなく、協定によって、個人の請求権を含む日韓間の財産・請求権の問題は完全かつ最終的に「解決」されました。当時の韓国が軍事政権下にあって、この協定が韓国国民からは強い反対を受けていたことはご存じのとおりですが、どのような事情があろうとも、政府間の協定は正式に成立しています。

もう少し丁寧にご説明申しあげれば、請求権・経済協力協定第二条1で、請求権の問題は「完全かつ最終的に解決された」ものであることを明示的に確認し、第二条3で、一方の締約国及びその国民は、他方の締約国及びその国民に対する全ての請求権に関して、いかなる主張もできない」としていることから、個人の請求権は法的に救済されません

しかも、この協定を実施するために、日本では国内法を制定し、この法律によって、法律上の根拠に基づき財産的価値が認められる全ての実体的権利、つまり財産、権利及び利益を消滅させたところです。

おわかりいただけますか。徴用工の新日鉄住金に対する請求権は、消滅させられたわけではありません。しかし、法的に救済されないのです。よろしゅうございますね。

何か、質問がございますか。
A社です。「協定で請求権は消滅しないが、法的に救済されない」というご説明がさっぱり分かりません。今のご説明を聞いていますと、むしろ、日本がつくった国内法の効力として、日本国内では、請求権が法的に救済されないものになったと理解すべきではないでしょうか。そのような国内法をもたない韓国では、司法が請求権の法的救済を認めるのは当然のように思えるのですが、いかがでしょうか。

次の質問どうぞ。
A社です。お答えいただけないのですか。どうして、そんな常識では分かりにくい協定になったのでしょうか。そのようなことは、相互に確認されているのでしょうか。

ハイ、次の質問どうぞ。
B社です。「一方の締約国の国民の請求権に基づく請求に応ずるべき他方の締約国及びその国民の法律上の義務が消滅した」ことについてのご説明が、ポイントだと思うのですが、これが理解いたしかねます。日本政府は、この協定によって、植民地統治時代における、いかなる種類の個人請求権も法的保護から外されたものとお考えなのでしょうか。仮に、虐待による不法行為慰謝料請求権まで法的保護から外されたというご見解であるとすれば、国家間の協定で個人の訴権までを奪いうるというその根拠をご説明ください。

ハイ、次の質問どうぞ。
B社です。ぜひお答えいただきたい。国民個人の請求権は、これを政府が代理して放棄したり処分してしまうことができるとお考えなのでしょうか。徴用工問題だけでなく、慰安婦問題にもつなが論点ですので、ご回答いただきたい。

ハイ、次の質問どうぞ。
C社です。文大統領は、韓国が三権分立の国である以上、司法部の判断を尊重するしかないと意見を表明しています。司法の独立という文明国の原則から当然のことと思いますが、大臣はこれにご批判あるのでしょうか。

ハイ、次の質問どうぞ。
C社です。この問題は、第三国から見ると、日本の司法権の独立はなく最高裁は政権の意のままになるのだと誤解を受けかねませんよ。

ハイ、次の質問どうぞ。
D社です。外務省のお考えを伺います。今回の韓国大法院の徴用工判決を、どうお読みになっていますか。判決理由は、実体的な債権だけでなく、訴権も失われていないことを当然のこととして詳細な説明がありますが、法廷意見の論理は間違っているとお考えでしょうか。

ハイ、次の質問どうぞ。
重ねてD社ですが、ご説明のうち「韓国は日本との協定を締結した以上は、誠実に実行すべきだ」ということは分かります。しかし、それは韓国の行政府のことであって、司法は別ではないでしょうか。司法は、国際条約を尊重しなければなりませんが、条約が国民の人権を蹂躙するものとして憲法と矛盾する場合には条約を無視しなければならなくなります。今回の大法院の判断は、実質的にそのようなものとお考えになりませんか。

ハイ、次の質問どうぞ。
D社です。お答えいただけないのは、結局大法院判決の論理には反論できず、ただただ不愉快なだけだと聞こえますが、そういう理解でよろしいでしょうか。

ハイ、これで質問を打ち切ります。会見は終了しました。
(2019年1月13日)

「1941年12月8日未明」と、「2018年12月8日未明」と。

12月8日である。1941年の本日早朝、全国民がNHKの臨時ニュースに驚愕した。「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」というのだ。

77年後の本日未明、幸いにして大本営発表はない。代わって報じられたものは、本8日未明における参院本会議での諸悪法案の可決成立である。国会前に集まった抗議の人々のプラカードの中に、「審議が足りない」「議論を尽くせ」「数の暴力を許すな」「生煮え法案反対」という文字が躍っている。哀しい事態と言わざるを得ない。議会制民主主義が壊れかかっている。

1941年の今日、天皇制日本は自滅への行動を開始した。恥ずべき奇襲攻撃をもって英米に対する戦争を開始したのだ。この日、多くの日本人は不安を抱えつつも昂揚した気分に包まれていたという。いま、歴史は繰り返さないと自信をもって言える事態だろうか。

本日、大本営発表はない。しかし近い将来の12月8日に、再びの悪夢はめぐってこないだろうか。また、本日が大本営発表の日の前年、あるいは前々年の12月8日と近似しているとは言えないだろうか。大本営が発表した開戦と、審議らしい審議のない議会制民主主義の実質的破壊との間に、どれだけの距離があるだろうか。

確認しておこう。満州事変にせよ、日中戦争にせよ、そして英領マレー奇襲も真珠湾攻撃も、すべて日本の方から仕掛けていることだ。日本は、けっして「やられたから、やむなく反撃した」のではない。常に征戦したのだ。だから、戦争の最終盤まで、戦地とは外地のことだった。近隣諸国が、いまだに日本の好戦性を危惧することには、歴史的に拭いがたい根拠があるのだ。

もう一つ。天皇制軍国主義における軍部の専横は、議会制民主主義の衰退と裏腹であった。議会制民主主義が国民の支持を失ったとき、天皇制とは軍国主義・侵略主義と同義になった。当時の政党政治がいかに未熟なものであれ、軍部の跳梁に対抗しうる貴重な機構だった。だが、議会制民主主義が自壊した。国民とメディアが議会を見限った。学校教育もである。こうして、軍部専横が、敗戦まで続くことになる。

2018年の12月8日。暗澹たる気持で、わが国の議会制民主主義の現状を見ざるを得ない。何たる自民・公明の体たらく、そしてこれに追随した維新。この3党の醜態と責任とを忘れてはならない。

ことの重大性は、入管法・水道法・漁業法・日欧EPA等の個別悪法の内容の問題だけではない。いつの間にかここまで忍び寄っている、議会制民主主義形骸化の恐怖である。

何年かあとに、「1941年12月8日未明」と同じニュアンスをもって、「2018年12月8日未明」が語られる日の来ることを恐れる。
(2018年12月8日)

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