澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ソンタクこそは日本文化の神髄である

「忖度」、そりゃ大切だ。周りとうまくやるためには、一に忖度、二に忖度。
処世の要諦、これ忖度。忖度なしには、世渡りできない暮らせない。

出世しようと思うなら、ね、キミ。
上司の意中を忖度できなくっちゃね。

なんてったって、ソンタクこそは日本文化の神髄だ。忖度なくして、われわれの和の文化はあり得ない。忖度があって初めて、美しい日本の社会が存在するんだ。 17か条の憲法も、教育勅語も、忖度でできている。忖度は、大和民族の文化でもあり、伝統でもあるのだ。

そう。忖度は、男尊女卑や、大勢順応、権威追随、権力への諂いなどとともに、民族の優れた精神的遺産なのだ。天皇制とともに、いつまでも大切にしなければならない。しかも、今や、企業文化の基盤となっているのだからね。

いいかね、この社会は上位の者と下位の者とが階層をなしてできている、みんながみんな人間は平等だ、なんて言いだしたらいったいどうなる。この社会の平穏な秩序が壊れてしまうじゃないか。これを防ぐのが、忖度の文化だ。下位者の上位への自発的服従という美風だ。

社会の秩序を守るために、いにしえの聖人が道を説いてきた。たとえば、五倫。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信だ。今なら、さらに富者と貧者の和、多数派と少数派の議。あるいは諸民族間の敬であろうか。

この五倫をパクって、極端な国家主義と天皇崇拝を混ぜて拵え上げたのが教育勅語だ。臣は君に、子は父に、妻は夫に、幼は長に、そして朋友は互いに、忖度せよというわけだ。臣たる者、君命の出づる前に、主君の心中を察して行動せよ、言いにくいことを言わせるな。これが忖度の意味であり精神文化たる所以。

暴力団の鉄砲玉は、組長からあいつを襲えと具体的な指示を受けるわけではない。言われる前に、立派に忖度して組長の意に沿うのだ。そして、事後には組長から指示を受けていないと、組と組長を守ることになる。これこそ忖度文化の到達点。

戦前の天皇制がそうだった。天皇はけっして自ら命令を下さない。しかし、東条をはじめとする群臣は、例外なく、天皇(裕仁)の意向を忖度して、オオミココロに沿ったのだ。そうしてこそ、天皇の意思を実現しつつも、天皇の法的政治的責任を免じる口実をつくるのだ。

「木戸幸一日記」や「原田熊雄日記」が示すように、上奏以前の内奏等の過程で、天皇はしばしば質問(下問)や沈黙の形で、自らの意思を間接に示しており、そこから内奏者等は天皇の意思をまさに「忖度」して、その意に沿って何らかの決定を行っているのである。(横田耕一・「忖度」が横行する社会)

戦後今に至るも、この伝統は受け継がれている。いま、「天皇(明仁)の意に沿うべきだ」などと恥ずかしげなく言える空気が世に満ちている

「和をもって貴しとなす」も同じことだ。「和」とは、もちろん主体性をもった平等者間の連帯や団結のことではない。下っ端役人は上級官僚にツベコベ言うな。官僚は天皇に逆らってはならない。上からの命令や懲罰によってではなく、下僚の上級に対する自発的な服従でできあがる官僚秩序の形成を「貴い」としたのだ。これこそ、忖度の文化と伝統の草分けではないか。いま、これがわが国の企業内人間関係に生きていて、愚物の企業経営者が、社内の「和」を説いている。

文化と伝統の墨守は、保守政党のお手のもの。モリ・カケ事件でのアベ晋三は、忖度した官僚を、トカゲの尻尾よろしく切り捨てて涼しい顔だ。「私も妻も、けっして指示なんぞしていない」というわけだ。

日大アメフト部の監督も、この辺はよく心得ている。
「弊部の指導方針は、ルールに基づいた『厳しさ』を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離が起きていたことが問題の本質」と言ってのけた。これはホンネだろうが、たいしたものだ。

この監督は、ルール違反のタックルで相手チームの主力選手にケガを負わせろ、とまでは言っていなかったのかも知れない。しかし、当の選手には監督が何を望んでいるかは、明瞭に「忖度」可能だったのだ。だから、監督の望むとおりに実行した。

監督の側は、いざというときは、「自分は指示をしていない」「選手が忖度した結果だとすれば、それは勝手にした間違った忖度だ」と逃れることを想定している。天皇も、アベも、組長も、そして体育部の監督も、忖度文化の利益を存分に享受しているのだ。

だけどね、キミ。「忖度」がいつもうまく行くとは限らない。
出世しようと上司の意中を忖度した結果が、上司に裏切られることも、往々にしてあるんだな。その場合は、泣くに泣けない悲劇となる。

「忖度」にも、相応の覚悟が必要ってことだ。佐川や、柳瀬や、迫田や、美並などの行く末をよくよく見てみようじゃないか。
(2018年5月19日)

級友との沖縄の旅・4日目ー沖縄と天皇

本日(5月11日)は、沖縄の旅最終日の4日目。糸満から那覇に戻って夕刻には羽田着の予定。4日目の予定記事となる。

今日の沖縄の状況は、戦争の惨禍とアメリカの極東軍事戦略がもたらしたものだが、その結節点に天皇(裕仁)の存在がある。そして、本土がそのような沖縄を放置し、その犠牲の上に安逸をむさぼる構造がある。ちょうど、過疎地に原発のリスクを押しつけ、その便益は中央が受益している如くに、である。

信じがたいことだが、日本国憲法の適用範囲から沖縄を切り離して米軍の統治に委ねようというアイデアは、憲法施行によって一切の権能を剥奪されたはずの天皇(裕仁)の発案だった。彼の超憲法的行動としての「沖縄メッセージ」が、沖縄をアメリカに差し出したのだ。

GHQの政治顧問シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた1947年9月22日付公文が残されている。

沖縄県公文書館のインターネットによる資料紹介では、以下のとおりである。

“天皇メッセージ”

(シーボルト書翰の)内容は概ね以下の通りです。
 (1)(天皇は)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
 (2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
 (3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモ(シーボルト書翰)によると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。

沖縄県には遠慮があるようだが、「沖縄メッセージ」の核心は、「共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか」というものである。

昭和天皇(裕仁)には、憲法施行の前後を通じて自分の地位に決定的な変更があったという自覚が足りなかったようだ。1948年3月には、芦田首相に「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」と述べてもいる。

「沖縄メッセージ」の負い目からであろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を訪問したが沖縄だけには足を運ばなかった。運べなかったというべきだろう。

「沖縄についての天皇の短歌」「天皇に対する沖縄の短歌」について、内野光子さんから、いくつかを教えてもらった。

 「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」

これは、死期に近い1987年の天皇(裕仁)の歌。気にはしていたのだ。やましいとは思っていたのだろう。しかし、彼がいう「沖縄をたずねて果たさんつとめ」とは何なのだろうか。謝罪を考えていたとすれば、立派なものだが原爆投下による惨禍についても「やむを得ないことと」と言ってのけた彼のこと。沖縄の民衆に手を振ることしか脳裏になかったのではなかろうか。

父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから6回、計11回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。

一方、天皇に対する在沖の歌人たちは、次のような厳しい歌を詠んでいる。

 日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)

 戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)

 おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)

根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、事実上異民族支配が今も続く沖縄。

傍観者としてではなく、沖縄の人びとのこの怒りを真摯に受け止めねばならないと思う。
(2018年5月11日)

元号 ― ああ、この不便・不合理にして有害なるもの

2018年5月1日。第89回メーデーである。「働く者の団結万歳!  世界の労働者万歳!」。今年は、「安倍9条改憲反対 戦争法廃止! 市民と野党の共闘で安倍政権退陣を」「過労死合法化、雇用破壊の安倍『働き方改革』反対」「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「なくせ貧困と格差 大幅賃上げ・底上げで景気回復、地域活性化」「めざせ最賃1500円、全国一律最賃制の実現」などを統一スローガンに、天候に恵まれた全国各地で諸行事が行われた。

ところで元号で表記すれば、第89回メーデーの今日の良き日は、平成30年5月1日である。では、来年第90回メーデーの日を元号で表そうとすると、…できない。平成は31年4月30日で終わる。その次の日、2019年5月1日は平成ではないことは確実で、しかも新元号は未定なのだ。2019年5月1日以後の平成表記はできない。元号とは、なんと不完全で不便・不合理な年代表記方法だろうか。原理的に現天皇在位終了後の将来を表記できないのだ。

本日5月1日は休日ではない。裁判所は開いている。全国の裁判所で多数の民事事件の和解が成立していることだろう。将来の給付を約束する和解条項についての合意の調書も作成されているはずだ。たとえば、次のような和解条項。

「被告は原告に対して金1000万を100回に分割して、2019年5月から2028年8月まで、毎月末日限り各10万円を原告指定の銀行口座に送金して支払う。」

この条項が元号では書けない。裁判所の文書は元号表記だが、これを無理に「平成」に換算して書くとすればあまりにバカげている。いや、平成31年5月も、平成40年8月も存在しないのだから、平成での表記をすべきではない。和解調書だけではない。判決書の中にも将来の年月日の特定は必要だ。これも、西暦で表示するしかないだろう。

昭和の最末期、天皇の下血報道が始まって昭和が間もなく終焉を迎えることは誰の目にも明らかだったその頃。裁判所は平然と「昭和70年」、「昭和80年」と表記した。不自然ではあっても、昭和存続の可能性が絶対にないとは言えない。だから、「表記が間違いとは言えない」。「元号が変われば、事後に換算すればよい」。それが、裁判所の姿勢だった。

今度はそうはいかない。「平成31年5月以後」は存在しないことが確定しているからだ。各裁判官が独立して判断することにはなろうが、西暦表示を使うしかあるまい。

私は、裁判所に提出する書類は、訴状・準備書面をはじめ、すべて西暦表示で統一している。だから、元号変更の際の煩わしさとは一切関わりがない。これまでは、判決文を西暦表示で書いてもらえなかったが、この際、判決文も西暦表示でお願いしたいものと思っている。そして、日本の社会から、不便・不合理極まりない元号を一掃すべきではないか。

元号の使用や、西暦との併用の不便・不合理は既に明らかである。元号は平成を最後になくすべきが、事務の効率化と国際化を重視する時代の要請である。にもかかわらず、時代の区分を一人の自然人の死という偶然性によって画する不合理を承知で、元号を維持しようというのか。天皇制の存続にこだわるからである。なぜ天皇制の存続にこだわるのか。統治の道具として、現在なおそれが有用で有効だからだ。どのように統治に有効か。日本国民の主権者意識の鈍麻のために、である。換言すれば、国民の自立した主権者意識ではなく、臣民根性の涵養に有益なのだ。

日本国憲法の第1章は「天皇」であって、「(主権者としての)国民」となっていない。1条から8条までが、大日本帝国憲法の残滓たる天皇条項なのだ。市民革命を経ての憲法でないことの限界と指摘されるとおりである。以来、70年余。日本国民は良くこの憲法を「守って」はきたが、十分な主権者意識を育てあげたとはいいがたい。

天皇制と一体となっている諸制度をなくすること。とりあえずは元号を捨て去ること、叙勲の制度をなくすこと、「日の丸・君が代」の強制を一掃すること、などが憲法に手を触れることなく主権者意識を確立するための制度改革となるだろう。
(2018年5月1日)

黙ってはならない ― 天皇制批判にもセクハラにも

4月29日。かつての天皇誕生日で、その前は天長節だった。戦争責任を免れた昭和天皇裕仁が誕生したこの日を選んで、「春の叙勲」受賞者が発表されている。その数4151人。かたじけなく、うやうやしく、天皇から格付けられたクンショウをもらってありがたがっているのだ。

この4151人に、芥川龍之介の言葉を贈ろう。

「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなったものではない。勲章も―わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」

勲章をもらうのは軍人だけでない。なぜ良い齢をした大人が酒にも酔わずに、勲章をもらったことを人に知られて、それでも恥ずかしげなく往来を歩けるのであろうか。

たまたま、本日の東京新聞9面「読書」に、「沖縄 憲法なき戦後」(古関彰一・豊下楢彦共著)の書評が出ている。表題が、「米軍にささげた『捨て石』」というもの。沖縄を「捨て石」として米軍に捧げた人物、それがほかならぬ天皇裕仁である。

この書評が指摘するとおり、「沖縄に基地が集中したのは地政学上の理由ではなく、そこが『無憲法状態』にあったからだ」「沖縄の運命を決める政策決定の〈現場〉に、当の沖縄は不在だった。」「アメリカにフリーハンドを与えることを提案した昭和天皇の『沖縄メッセージ』の役割は大きい」(評者・田仲康博)。まことにそのとおりだ。今日は、この指摘を噛みしめるべき日だろう。

昭和天皇(裕仁)は、自由なき国家の主権者の地位にあったことだけで、責任を問われねばならない立場にある。のみならず、国の内外にこの上ない戦争の惨禍をもたらしたことについての最大の責任者でもある。さらに、敗戦後には何の権限もないはずの身で、沖縄を米国にささげたのだ。なんのために…。保身以外には考えられない。

そんな人物ゆかりの日に、クンショウもらってニコニコなどしておられまいに。

いま、天皇や天皇制を批判する言論に萎縮の空気を感じざるを得ない。アベやその取り巻きにおもねる言論が大手を振って、権力や権威の批判が十分であろうか。「国境なき記者団」が今月25日に発表した「報道の自由度ランキング・18年度版」では日本は67位とされている。昨年の72位よりも5ランク上げた理由は理解し難いが、43位の韓国や45位の米国の後塵を拝しているのは納得せざるを得ない。

言うべきことは言わねばならない。空気を読んで口を閉ざせば、空気はいっそう重くなるばかり。萎縮せず、遠慮せず、躊躇せず、黙らないことが大切だ。「私は黙らない」と宣言し続けねばならない。

昨日の新宿「アルタ」前での若者たちの『私は黙らない』行動。セクハラ批判に声を上げた彼らの行動を頼もしいと思う。持ち寄られたカラフルなプラカードには、「With You」「どんな仕事でもセクハラは加害」「私は黙らない」などの文字。

ここでも「勇気を出して声をあげる」ことが大切なのだ。一人の声が、他の人の声を呼ぶ。多くの人が声を合わせれば、社会の不合理を変える。「萎縮して黙る」ことは、事態をより悪くすることにしかならない。

集会は「いつか生まれる私たちの娘や息子たちが生きる社会のため、ここから絶対に変えていきましょう」との言葉で締めくくられたそうだ。

安倍や麻生が権力を握るこの時代。ときに絶望を感じざるを得ないが、社会の不当に黙ることなく声を上げる人々がいる限り確かな希望は消えない。天皇や天皇制や叙勲についての不合理の指摘や批判の言論についても、黙してはならない。
(2018年4月29日)

武田清子『天皇観の相剋』再読

本日(4月19日)の朝刊で、武田清子さんが4月12日に亡くなられていたことを知った。思想史学者で国際基督教大名誉教授。1917年のお生まれは、丸山真男(1914年生)や鶴見俊輔(1922年生)らと同世代で、享年がちょうど100となる。

靖国訴訟に携わった際に、「天皇観の相剋ー1945年前後ー」に目を通した。
その際には、アメリカ占領軍の対日占領政策における天皇制廃止論と天皇制存続論との「相克」としてだけ理解した。戦後民主化の障害物として廃止の対象とする天皇観と、効率的に支配と民主化に利用できるものみる天皇観との相克。

連合国の天皇や天皇制への批判は厳しかった。たとえば、同書の中に、終戦直前のワシントンポスト(1945年6月29日付)が報じるギャラップ世論調査の紹介がある。天皇(裕仁)の取り扱いに関するアメリカの世論は、以下のとおりである。
 処刑             33%
 終身刑            11%
 追放              9%
 裁判で決定          17%
 日本を動かすパペットに利用せよ 3%
 軍閥の道具だから何もしない   4%
 雑・回答なし          23%

天皇個人を処罰し天皇制を廃止すべし、というのが圧倒的な戦勝国の世論だった。「日本の天皇制が根こそぎに除去されるまで、日本人を文明人の仲間とすることは不可能である」(『シカゴ・ニュース』)、「あの、中世的ミカド・システム(天皇制)が、温存されている限り、太平洋にはけっして平和はあり得ない」(『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』)、「裕仁は、日本の軍事的冒険に直接的に責任がある」(雑誌『ネーション』)などの米国内の論調が紹介されてもいる。オーストラリアの世論は、さらに天皇や天皇制に厳しいものだったという。

しかし、天皇(裕仁)は「処刑」・「終身刑」・「追放」にはならず、「裁判で決定」にすらならなかった。この範疇の世論合計が70%にも達していたにもかかわらずである。彼は、戦犯としての起訴を免れ、3%の支持しかなかった「日本を動かすパペットに利用」という政策が採られることになった。

これは、奇妙ではないか。圧倒的な世論を背景とした峻厳なラティモアらの天皇制廃止派と、占領政策の効率的な運用という観点からのグルーら妥協的天皇制温存派の「相克」において、どうして前者が敗れて後者の採用となったか。当時の私はその関心だけで読んだ。しかし、これは皮相な読み方だったようだ。

この書の広告文に、「廃止か保持か―日本降伏をめぐる英・米・オーストラリア・中国など連合国側のさまざまな天皇観の対立・相剋をはじめて実証的に明らかにし、戦後改革を伝統社会の変容のドラマとして解明した画期的研究。諸外国の「鏡」に映し出された天皇制のイメージは、同時に日本人のいかなる思考や集団行動様式を反映しているのか。」とある。相克は、「諸外国の『鏡』に映し出された日本自身の天皇制の二重のイメージ」だということがこの書の眼目のようなのだ。

著者自身が、朝日.comのインタビューで、次のように分かり易く、明快に語っている。
「1945年前後の連合国では、天皇観が対立していました。アメリカの中国専門家オーエン・ラティモアは『アジアにおける解決』で、天皇制を廃止しなければ日本の民主化はできないと主張しました。オーストラリアも天皇制廃止論の強い国の一つでした。一方で、アメリカの駐日大使だったジョセフ・グルーは、天皇は秩序維持に不可欠な『女王蜂』であり、右翼や軍国主義者を排除すれば天皇がいても日本は民主化できる、と楽観的でした。

 この相剋の帰結は、天皇の人間宣言や象徴天皇制となりますが、実は外国という鏡に映った日本の中の相剋だったというのが私の見方です。そもそも明治維新のシンボルとしての天皇観に対立があった。吉田松陰は『天下は一人の天下』と絶対主義的な天皇観であり、山県太華は『天下は天下の天下』と制限君主的な天皇観でした。

 明治憲法の起草者である伊藤博文の思想も二重構造でした。『万世一系ノ天皇』は『神聖ニシテ侵スヘカラス』だから、天皇は憲法も超える存在だと民衆には説く。他方で、政治家や民権論者に対しては、憲法は君主権を制限するものだという解釈を示す。これはその後、超国家主義である国体明徴運動と、民本主義の大正デモクラシーや天皇機関説とに分解していきます。

 二重構造の天皇観が、敗戦で連合国という異質の文化と出会い、民主化というドラマが始まりました。その時、連合国と共演した日本人は誰なのか。私は、天皇の側近だったようなオールドリベラリストではなく、大正デモクラシーや天皇機関説でインパクトを与えられ、民主化への希望を懐に持っていた一般民衆だったと思いました。そういう人たちが新憲法を支持した。(以下略)」

なるほど、相克しているのはもともとわが国に古くからあった「二重構造の天皇観」なのだ。これをキーワードに読み直すと、いろんなことが見えてくる。

著者は、近代日本の形成過程の中に、天皇に関する二つのイメージ、二つの相対立する天皇観が存在し、その両要素がパラドキシカルな緊張関係を保ちながら機能していた、と分析する。

単純化していえば、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」と、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」との、二つの天皇のイメージが、近代日本を貫いて二重構造・二元制をなして機能してきた。これが近代日本の内包する天皇観の相克で、こうした相矛盾する天皇観が外国の鏡に自らを投影し、それが無条件降伏後の日本の占領政策にはね返ってきた、というのだ。

具体的には、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」からは天皇制廃止の方針しか出てこない。しかし、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」からは天皇制を温存しつつ、平穏な民主化という選択肢が現実的なものと映ることになる。日本の占領政策は後者をメインに折れ合って、天皇の権威を利用して成功裡に平穏な民主化を実現したことになる。

この分析は、天皇・天皇制の考察を中心に、戦前と戦後の連続性と断絶性の契機を考える基本視点を提供するものでもある。天皇制の相克の折り合いは、戦前と戦後の断絶性と連続性との折り合いでもある。天皇制を温存した戦後は、戦前的な多くのものを引きずって今日に至っている。天皇制温存の「民主化」は平穏な過程というメリットとともに、自ずから不徹底な限界を内在する宿命にもあったのだ。

わが国戦後の天皇制存続下の民主化は、昨今における北朝鮮の金体制温存下での民主化の課題を彷彿とさせる。微温的に天皇制を温存しつつこれを「無力化」した日本の戦後民主主義改革の如くに、金体制の存続を保証しつつ、民主化や国際協調が可能なのだろうか。
(2018年4月19日)

鴎外の天皇制批判・再論

4月8日の当ブログに、「鴎外が書き残した、天皇制への嫌悪」を書いた。内容は、直木孝次郎「森鴎外は天皇制をどう見たかー『空車』を中心にー」を紹介して若干の私見を付したもの。

その拙稿を、Blog「みずき」の東本高志さんが4月10日付で取り上げてくれた。反応があるのは嬉しい。せっかくなので、ご紹介したい。
https://www.facebook.com/takashi.higashimoto.1/posts/1309413295855761

澤藤統一郎さん(弁護士)が森鴎外の「天皇制批判」の論を紹介している(澤藤統一郎の憲法日記 2018年4月8日)。鴎外は体制=天皇制擁護者、というのがこれまでの私の鴎外理解だったので意外だった。もっとも、その鴎外の天皇制批判の小説といわれる『空車』は昔、読んだ記憶がある。そのときの小説の解説には「天皇制批判」というよりも天皇を利用する側近=政治家批判のように書かれていたように思う。今度の澤藤統一郎さんの紹介する鴎外の「天皇制批判」論を読んでもそのときの読後感は変わらない。鴎外は「天皇制」そのものを批判しているのではなく、その「天皇制」を下支えしている「藩閥官僚」制度を批判しているように見える。この問題に触れている原武史(放送大教授)の直木孝次郎著『武者小路実篤とその世界』の書評を読んでも、鴎外の「天皇制」批判は結局そういうものだ、と私は思う。鴎外は体制=天皇制擁護者、というこれまでの私の鴎外理解も変更する必要を私は感じない。(以下略)

鴎外・森林太郎は、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)にして、官僚(高等官一等)であり、位階勲等は従二位・勲一等・功三級とのこと。「体制=天皇制」の中心部に位置していた人として、当然に「天皇制擁護者」のイメージは深い。したがって、「空車」という作品を、天皇制への批判や嫌悪感を書き残しておこうとしたものという理解にはなかなか思い至らない。だからこそ、直木孝次郎の炯眼に感服することになる。

「天皇制」のイメージには、人それぞれの理解がある。東本さんの「鴎外は『天皇制』そのものを批判しているのではなく、その『天皇制』を下支えしている『藩閥官僚』制度を批判しているように見える。」という感想がやや意外でもあり興味深くもある。「鴎外は、『神聖な天皇が、君側の奸たる藩閥官僚によって操られていた』と考えていた」との理解なのだろうか。

ところで、「天皇制そのもの」とはなんだろうか。天皇の神聖性とか、天皇の国民精神に対する支配性という類のもので、「天皇制を下支えしている制度」とは別物なのだろうか。

私は、天皇制とは単純に政治支配の道具に過ぎないと思っている。戦前の天皇制とは、「藩閥官僚による政治支配の道具」で十分である。だから、『天皇制そのもの』と、これを下支えしている『藩閥官僚』とを敢えて厳密に分離して考える必要はない。「天皇制を支える藩閥官僚」も、「藩閥官僚を従える天皇制」も、不可分一体のもので、『藩閥官僚』批判は、とりもなおさず天皇制批判にほかならない。

鴎外が、「空車」を「むなぐるま」と読ませたのは、「空しい」(≒虚しい)の語感を響かせたいということではなかろうか。大きな車に乗っているのは天皇なのだが、その実体はといえば、「空しい」だけの存在。空っぽに等しい。それにひきかえ、この車を牽く馬は大きく肥えて剽悍で、馬の口を取っているのは背の直い大男である。

結局のところ、「天皇制」とは、「空しい」存在である天皇だけでは成立し得ない。この天皇を乗っけた大きな車や肥えた馬やこれを御す大男の存在が必要不可欠なのだ。
直木孝次郎が引用するベルツの日記の一節(1900年5月9日)を再度引用しておこう。わたしはここに、天皇制の本質がよく顕れていると思う。

「一昨日、有栖川宮邸で東宮(皇太子嘉仁、後の大正天皇)成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤(博文、直木註)のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。」

天皇とは「側近者の吹く笛に踊らされねばならない操り人形」として、「不幸な存在」なのだ。これを操って、民衆支配の道具としているのが、伊藤や山県などの藩閥政治家たちである。その背後には資本があり、地主階級があり、支配される側の民衆自身もあった。そのことは、伊藤や山県ばかりではなく、軍や警察幹部も、天皇自身も自覚していたであろう。もちろん、鴎外もである。これが戦前の天皇制。

さて、問題は、日本国憲法下の象徴天皇制である。戦前、実は操り人形に過ぎない天皇も建前としては権力者だった。戦後は、建前としても天皇は操り人形(ロボット)に徹することが求められている。これが象徴天皇制というもの。

天皇は、内閣の助言と承認によってする憲法7条に定める10件の国事行為以外はなしえない。オーソドックスな憲法学は、天皇を日本国憲法体系における例外的存在とし、国民主権論や人権論との整合の観点から、象徴天皇の行動範囲を可及的に縮小しようとしてきた。

ところが、現天皇自身が「象徴としての公的行為」拡大を意識し、そのような「象徴天皇像」を作ろうと意図してきた。鴎外の比喩を用いれば、空車の上におとなしく、目立たないよう座していなければならない操り人形が、権威や国民との親近性を求める意思をもとうとしているのだ。憲法的制約を自ら解き放とうとする天皇。これは危険なものと考えざるをえない。

来年(2019年)国民は、天皇代替わりの儀式に接することになる。主権者たる国民が、空車の操り人形に拝跪するがごとき愚行を戒めなければならない。飽くまでも、天皇の存在感と行動可能範囲を極小化する議論が必要なのだ。
(2018年4月12日)

鴎外が書き残した、天皇制への嫌悪

直木孝次郎という日本古代史の碩学がいる。1919年1月30日生まれというから、御齢99歳である。著書論文は夥しいが、一昨年4月に「武者小路実篤とその世界」を上梓している。その書の中に、「森鴎外は天皇制をどう見たかー『空車』を中心にー」という論稿がある。

森鴎外の『空車』は、古語で「むなぐるま」と読むのだそうだ。どう読んでも、意味は「乗せるべき荷のない空っぽの車」である。直木の文は、鴎外の原文の全文を掲載しているが、問題の部分だけを抜粋して引用しておこう。

 空車はわたくしの往々街上において見るところのものである。この車には定めて名があろう。しかしわたくしは不敏にしてこれを知らない。わたくしの説明によって、指すところの何の車たるを解した人が、もしその名を知っていたなら、幸いに誨(おしへ)てもらいたい。
  わたくしの意中の車は大いなる荷車である。その構造はきわめて原始的で、大八車というものに似ている。ただ大きさがこれに数倍している。大八車は人が挽くのにこの車は馬が挽く。
 この車だっていつも空虚でないことは、言を須(ま)たない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を満載して王子から来るのにあうことがある。しかしそういうときにはこの車はわたくしの目にとまらない。
 わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股(おおまた)に行く。この男は左顧右眄(さこうべん)することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人(ぼうじゃくぶじん)という語はこの男のために作られたかと疑われる。
 この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍(たいご)をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
 そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
 わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。

この鴎外の文章が何を述べようとしているのか。この文章だけを読んで理解できた人は、よほどに感性が鋭い。唐木順三も松本清張も分からなかった。むろん、私にはさっぱり分からない。

直木は、この文章を次のように要約している。

馬の口を取る男はわき目もふらず、旁若無人に大道を行く。この車に逢えば、徒歩の人も、騎馬の人も、貴人の馬車も、富豪の自動車も、隊伍を整えた軍人も、葬送の列もこれを避ける。この車に逢えば、軌道を走る電車も止まる。鴎外自身も、「目迎えてこれを送る」ー敬意を表して見送るー。

これでも、何のことだか分からない。いったい、「大いなる空の車」とはなんであるのか。「馬の口を取っている背の直い大男」とは誰のことか。そして、思わせぶりな、「貴き物」とは。

結論を原武史の書評(抜粋)で、語っていただこう。原がこう言っているのだから、直木の解釈は間違いなかろう。

本書は著者と付き合いのあった武者小路実篤の作品や思い出、あるいは実篤をめぐる人びとなどに関する文章を集めたものだが、最後の「余論」で森鴎外に触れている。鴎外が陸軍省を辞めた直後に書いた「空車(むなぐるま)」という小品に着目し、当時の鴎外は天皇制をどう考えていたかを論じた「余論」の文章こそ、本書の白眉(はくび)というべきだろう。

 ここで著者は、唐木順三や松本清張らの説を批判しつつ、「空車」を牽(ひ)く大男を山県有朋と推定し、「空車」には本来、大正天皇が乗っていたとする。鴎外は、山県に代表される藩閥官僚によってつくられた天皇制というシステムと天皇個人を区別していた。明治から大正になり、システムはますます大きくなるが、天皇自身は逆に「空虚」になる。それを象徴するのが「空車」だという指摘には思わずうならされた。

 著者は触れていないが、鴎外は1900年に勤務先の福岡県小倉で皇太子時代の大正天皇に会っている。そのとき抱いた印象と、著者が触れる大正天皇の即位礼に参列したときの印象は全く違っていたはずだ。鴎外は大正天皇を通して天皇制に対する批判を抱くようになり、細心の注意を払いながら、それを作品として残しておきたかったのではなかろうか。

直木は、お雇い外人教師のベルツの日記の次の一節(1900年5月9日)を引用している。

「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤(博文、直木註)のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。―こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。」

ベルツの引用に続けて、直木はこう言う。
「皇太子だけではない。天皇もまた藩閥政府の実力者―伊藤や山県有朋など―によっておどらされるかいらい―操り人形なのである。」「この空車もかつては権力を持つ天皇を乗せることがあった。今でも、天皇を乗せることがあるが、天皇は形骸化している。そうした天皇について語るわけにはいかない。」「山県有朋の側近にあった鴎外は、天皇の形骸化・かいらい化を見聞し、実感したに違いない。前述した東宮(皇太子)の操り人形化についての伊藤の所感は、山県と共通するだろう。天皇の操り人形化は、おそらく明治天皇の時代にはじまり、大正天皇の時代に一層すすんだことと思われる。」「このことを鴎外は何らかの形で、書き残しておきたいとかねてから思っていたのだろう。1911年1月に、天皇を暗殺しようとしたという理由で、事件と無関係の人を含めて12人が死刑になった事件が起こるが、それがその契機の一つではなかろうか。」「彼はこのとき、『かのように』など数編の論説を発表し、死刑12人という判決の行き過ぎであることを論ずるとともに、天皇の神聖性に疑問を投じているが、天皇の形骸化にまでは及んでいない。天皇そのものにまでは筆は及んでいないのである」

「退職の前年の1915年11月に京都で行われた大正天皇の即位式に参列したことが、『空車』という形で天皇を論ずる原因となったと思われる。主役の天皇は形骸化し、かいらい化しているのに、即位の大礼の古い儀式は堂々と典雅に行われる。その矛盾の大きさが鴎外の執筆の決意を固めさせたのであろう」

天皇という「貴き物」を乗せる車は天皇制である。しかし、肝腎の「貴き物」が形骸化し、操り人形と化しているから、この車は「空車」なのだ。「空車=天皇制」、「空車を牽く馬=軍隊」、「馬の口を取る男=藩閥政治家」と思って、鴎外の文章を読み直すと、なるほど見えてくるものがある。

空車(天皇制機構)は、すでに大きい。そしてそれが空虚である(天皇は、形骸化して操り人形となっている)がゆえに、人(藩閥政治家や軍の幹部の間近にあった鴎外自身)をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車(天皇制)が大道せましと行く。これにつないである馬(軍や警察機構)は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男(伊藤や山県などの藩閥政治家)は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車(いずれも天皇制のシステム)の霊ででもあるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人という語はこの男(天皇制を利用する者たち)のために作られたかと疑われる。

鴎外の慎重な物言いの中に、天皇制と天皇制を操っている者たちへの嫌悪感が読み取れる。

鴎外が見たという「天皇の即位式での、『主役の天皇の形骸化・かいらい化』と、『即位の大礼の儀式性』との矛盾の大きさ」。我々も、来年(2019年)に、この矛盾をつぶさに見ることになる。もっとも、鴎外ほどの鋭い眼識と感性があればのことなのだが。
(2018年4月8日)

卑怯な池田佳隆議員から前川氏指弾の責任を転嫁された選挙民よ、怒れ。

ことごとしく言うほどのことではないが、教育と教育行政とはまったく異質のものである。両者は異質のものとして厳格な区分が必要で、教育行政による教育への支配や介入は厳に慎まなければならない。

教育とは真理あるいは真実と確認された知の体系を次代に伝達し承継するという優れて文化的な営為である。また、その知を獲得して国家や社会を建設する主体となる人格を育てる崇高な営為でもある。

教育行政とは、国民の教育を受ける権利を実現するにふさわしい、教育条件の整備をその任務とする。予算を獲得し、校舎を建設し、教員を採用し、しかるべく配置し、給与を支払い…、教育が成り立つよう外的な条件を整備することであって、教育そのものではない。学生・生徒に何をどのように教えるかという教育そのものには、本来関与しない。むしろ関与してはならない。

これもことごとしく言うほどのことではないが、学校教育の主体は飽くまで学校である。学校とは、校長をリーダーとする教育専門家としての教員集団を指す。そして、教育行政の主体は各自治体に設置されている教育委員会であって文科省ではない。文科省は教育委員会に対して、限定された範囲での指導助言ができないではないが、つとめて抑制的でなくてはならない。

ところで、「教育と教育行政は異なる」「教育行政は教育を不当に支配してはならない」。これは当然のこととして世に受け入れられているだろうか。

「農林水産業と農水行政は異なる」「薬事業と薬事行政は別物である」「食品業と食品規制行政とを混同してはならない」「原子力発電に対し規制行政は独立していなければならない」などは、あまりにも当たり前のことだろう。ところが、教育と教育行政の関係となると、「あまりにも当然」ではない現実がある。

文科省は、2階から平場にある教育現場を見下ろして、教育内容に指図し介入することができると考えている節がある。彼らの目の下、中2階の位置に教育委員会があり、現場への指図は、ここを通じてやれるものとの思い上がりがあるようなのだ。

また、この2階は、3階に位置する政権や政権与党からは監視を受け、介入を許してもいる。教育委員会も、文科省も、露骨な政治的介入に対しては、本来防波堤にならなければならない。

戦前にはこんな議論はなかった。国家が教育を支配した。天皇制国家は臣民支配の無限の徹底を求めて、教育を膝下に置いたのだ。教育は全て天皇の勅令に基づいて行われた。天皇制権力の望むままに、「臣民」に対して、「天皇は神の子孫であり、現人神である」「天皇のために命を捧げることこそ、臣民の生くべき道」と、荒唐無稽の限りを吹き込んだ。壮大な一億総マインドコントロールを試み、半ば成功したのだ。

戦後の教育は、その反省から再出発した。「今回の敗戦を招いた原因はせんじ詰めれば教育の誤りにあった」(幣原喜重郎元首相)という問題意識が、戦後教育改革の原点となった。これが「戦後レジーム」だ。アベが脱却を図ろうというのは、このことなのだ。

戦前教育の基本だった大日本帝国憲法と教育勅語のセットが、日本国憲法と教育基本法に換えられた。教育勅語は参院では「失効」、衆院では「排除」の決議がなされた。

1947年制定の教育基本法の眼目は、その10条「教育は、不当な支配に服することなく」という、教育の国家支配からの独立にあった。同条文の文言は、「どこからの不当な支配」と明記されてはいないが、教育行政からの支配を含むものであることは明らかである。

第1次安倍政権下の2006年、教育基本法が「改正」された。しかし、47年教育基本法10条の「不当な支配に服することなく」の文言は、かろうじて「改正」法16条に残された。

今必要なことは、公権力や政治勢力による教育に対する支配・介入に、国民が監視の目を光らせなければならないと自覚することだ。今回の前川喜平講演に対する、政権与党と文科省の執拗で高飛車な圧力は、目に余る。徹底して糺弾しなければならない。

安倍政権下、民主主義が劣化し、貶められている。政権や与党そして教育行政の支配から、教育を独立させることの重要性を再認識したいものと思う。安倍内閣と自民党に教育に手を出させてはならない。赤池誠章、池田佳隆などというタチの悪い時代錯誤議員は、選挙で落とさねばならない。

この間雲隠れしていた池田佳隆(愛知3区・安倍チルドレン)が本日(3月22日)、2分足らずの間だけだが、カメラの前に立ったという。そこで池田が語ったことが次のとおりと紹介されている。

「今回、問題となりました(前川氏の)授業が、果たして法令に準拠した授業であったのかどうか、地元の皆様方からのご懸念があれば、その大切なお声を国にしっかりとお届けすること、地元の皆様方の大きなお力で今こうして国会議員を務めさせていただいている私にとりましては、当然、大切な仕事であると常々考えてまいりました。今回、その信念に従ってお問い合わせをさせていただいた次第であります。」

池田は、こう言っているのだ。
「選挙民が、前川氏を不快に思い、選挙民が文科省に問合せを要求しているから、それにしたがったまでだ。これが民主主義だ。どこが間違っているのか」

目を覆わんばかりの議員の劣化である。選挙民への責任転嫁。これは民主主義ではない。民主主義とは理性に基づく政治だ。議員たる者、違法は糺さなければならない。違法を要求する選挙民を説得しなければならない。教育の何たるかを弁えず、戦後の教育法体系の転換を理解しない愚かな議員。責任転嫁された人々を含め、選挙民はこんな程度の議員を選出したことを恥じなければならない。
(2018年3月22日)

光てふ縛れざるもの多喜二の忌

本日(2月20日)は多喜二忌。1933年の今日、小林多喜二は築地署で虐殺された。その葬儀の会葬者も一斉に検挙された。この無念の思い忘れまじ。天皇制権力の暴虐許すまじ。そう思いを新たにすべき日。再びあの暗黒の時代の再来を許してはならない。こんな時代の「日本を取り戻」させてはならない。思想・良心の自由、結社の自由、表現の自由、政治活動の自由の貴重さを銘記しよう。そして、その自由獲得のために闘った先人の気概と覚悟を偲ぶ学ぶべき日。

筆名「575fudemakase」氏のサイトに、多喜二忌を詠んだ俳人の50余句が集められている。転載をお許しいただこう。
http://fudemaka57.exblog.jp/23611557/
なお、下記のURLにも同じ句が集められている。
http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/HAIKUreikuDB/ZOU/SHAKAIseikatu/932.htm#takiji

門外漢の私には、とても取捨選択などできない。全句を転載させていただく。(「かぎかっこ」は出典)
かなしげな犬の眼に逢ひ多喜二の忌 河野南畦 「湖の森」
ごぼりごぼりと今もこの川多喜二の忌 原田喬
てのひらで豆腐切らるる多喜二の忌 関谷雁夫
ふつつりと海の暮れたる多喜二の忌 成田智世子
もり塩に人の世灯る多喜二の忌 佃藤尾
スコップに雪の切れ味多喜二の忌 辻田克巳
タラバ蟹足括られて多喜二の忌 村井杜子
バラバラのパックの蟹買ふ多喜二の忌 斎藤由美
傷ぐるみ漉されしおもひ多喜二の忌 栗林千津
口シヤより蟹船の着く多喜二の忌 吉田君子
吹かれゐて髪が目を刺す多喜二の忌 角谷昌子
咽ぶごと雑木萌えおり多喜二忌以後 赤城さかえ
多喜二忌のあをぞらのまま夜の樅 大坪重治
多喜二忌の全灯点る魚市場 木村敏男
多喜二忌の埠頭に刺さる波の先 源 鬼彦
多喜二忌の夜空に白き飛行船 板谷芳浄
多喜二忌の崖に野鳥の骨刺さり 友岡子郷 「遠方」
多喜二忌の市電に走り追ひつくも 本多静江
多喜二忌の干して軍手に左右なし 長岐靖朗
多喜二忌の星大粒に海の上 菖蒲あや
多喜二忌の毛蟹抛られ糶(せ)られけり 菖蒲あや「あや」
多喜二忌の海真つ青に目覚めけり 木村敏男
多喜二忌の海鼠腸抜かれをりにけり 矢代克康
多喜二忌の焼いても口を割らぬ貝 飯田あさ江
多喜二忌の稿更けわたる廻套(まわし)かぶり 赤城さかえ
多喜二忌の肉食の眼のひかるなり 谷山花猿
多喜二忌の魚は海へ向けて干す 大牧 広
多喜二忌やまだある築地警察署 三橋敏雄
多喜二忌やベストの釦掛け違ふ 二宮一知
多喜二忌や地に嫋嫋と濡れわかめ 大木あまり「山の夢」
多喜二忌や工衣の襟のすりきれし 福地 豊
多喜二忌や焦げ目のつかぬ炊飯器 五十嵐修
多喜二忌や発禁の書を読み返し 遠藤若狭男
多喜二忌や糸きりきりとハムの腕 秋元不死男
多喜二忌や赤き実残る防雪林 佐々木茂
多喜二忌や鈍色の浪くづれたる 大竹多可志
夫若く故郷出でし日多喜二の忌 石田あき子「見舞籠」
指で裂く鰯の腹や多喜二の忌 生江通子
比内鶏噛みしめている多喜二の忌 有賀元子
汽罐車の目鼻の雪や多喜二の忌 平井さち子「完流」
沖どめの船が水吐く多喜二の忌 原田青児
洗ふ皿くきくきと鳴く多喜二の忌 岡部いさむ
海に降る雨横なぐり多喜二の忌 吉田ひろし
煙草火を借りて離任す多喜二の忌 国枝隆生
爪深くインク浸みをり多喜二の忌 鈴木智子
石斧のごとき残雪多喜二の忌 関口謙太
紅梅の夜空がそこに多喜二の忌 原田喬
蟹に指挟まれ多喜二忌の渚 石井里風
蟹缶の赤きラベルや多喜二の忌 有田 文
躍りゆく水の分厚さ多喜二の忌 佐々木幸
錐揉んでてのひら熱き多喜二の忌 伊藤柳香
音のして飯炊けてくる多喜二の忌 森田智子
饅頭に焼ごてを当て多喜二の忌 久保田千

このなかの一句。「夫若く故郷出でし日多喜二の忌」の若き夫とは、石田波郷のこと。あき子はその妻で自身も俳人。多喜二忌を悲惨な思い出とするのではなく、出立や希望に重ねているのだ。

多喜二忌やまだある築地警察署」と詠んだ三橋敏雄は、生年が1920年で2001年に没した俳人。多喜二虐殺の頃には13才だったことになる。

その年代の彼が、戦後に「まだある」と詠んだ感慨はどんなものだっただろうか。「あってはならないものがまだある」「忌まわしいものが厳然と滅びずにまだある」ということだったろう。そして、「まだある」のは築地署の建物だけでなく、戦後も続く権力機構としての警察の恐ろしさではなかっただろうか。

三橋敏雄が「まだある」と詠んだ当時の築地署は多喜二虐殺の現場を残したものであっただろう。何年か前、私も築地署に行きその周囲も見てきた。もちろん建て替え済みの庁舎となってはいたが、築地署の裏門近くには、多喜二の死亡診断書を書いた前田医院が残っていた。ここで多喜二が殺されたのか、現場は思いを深くする力をもっている。

なお、昨年の今日、市田忠義さんのツィートが、朝日の俳壇から次の句を紹介している。
『光てふ縛れざるもの多喜二の忌』(向日市・松重 幹雄)
大串章・選評 「今日は多喜二忌。拷問によって獄死した小林多喜二は時代の光であった。」(今朝の朝日 俳壇)

多喜二忌の今ころは、寒さは厳しくも、光の春。光とは希望だ。権力が人の身体を縛ることはできても、心の中の光てふ希望までは縛れない。
(2018年2月20日)

「新元号制定に反対する署名」集めにご協力ください

戦前の軍国主義・侵略主義・植民地主義を支えたものが天皇制だった。富国強兵・滅私奉公のスローガンを支えたのも天皇制だった。権威主義と差別が蔓延する社会を支えたのも天皇制。

戦争の惨禍に最大の責任を負うべきは、明らかに天皇であり天皇制であった。国家と国民を滅亡の一歩手前まで追い込んだ諸悪の根源としての天皇制。敗戦時、国民は深刻に旧体制の欠陥を検証し、これを剔抉しようと試みたが、天皇制を清算できなかった。生き残った旧天皇制の残滓は、いつまた再生し、肥大化しないとも限らない。

天皇制とは、国民に対する精神支配の仕組みである。支配しやすい権威主義的精神の国民を作りあげるための道具立て。天皇の生前退位と代替わりが来年(2019年)に行われる。国民を臣民とし、臣民根性を刷り込んだ天皇制の新たなかたちでの復活を警戒しなくてはならない。

現在なお、天皇制刷り込みの小道具はいくつも残存している。まずは元号。そして、「日の丸・君が代」。さらに祝日と叙勲。それに、歌会始や天皇出席の諸行事…。

中でも、存在感の大きいものが元号。明らかに元号は天皇制を支えている。こんな不便で、不合理なものは、そろそろ退場の潮時だろう。頃合いよろしく、新元号制定に反対する署名運動の要請が舞い込んできたので、ご紹介したい。

署名用紙は、下記URLでプリントアウトを。
http://han.ten-no.net/wp-content/uploads/2018/02/shomei_20180207_1.pdf
**************************************************************************
新元号制定に反対する署名
内閣総理大臣 殿

天皇退位特例法にもとづいて、天皇の退位を2019年4月30日とすることが決まりました。「平成」は、この日をもって終わります。政府は「元号法」に基づき新しい元号を発表するとしていますが、わたしたちはこれを機に、新しい元号を制定しないことを求めます。
元号制度は、古代中国において、皇帝が時間を支配することを目的として作られたものです。「王」や「君主」の在位に合わせて暦を法律で変える国は、現在では日本しかありません。元号は「君主」の時間に民衆を従わせるための、本来的に非民主的な制度であるといえます。
2017年にNHKが行った世論調査によると、「西暦よりも元号をつかう」と回答した人は28%に過ぎません。63%が「元号よりも西暦をつかう」と回答しています。改元のたびの暦がリセットされる不便さを多くの人が感じ、元号は民衆生活の中からも急速に後景化しています。しかし残念ながら、役所や学校などでは元号の使用が慣例化され、市民も公共機関と関係をもつ場面では元号を使うことが事実上強制されています。
元号を変更することによる様々なシステム変更によって、大きな混乱や事故、また経済的な損失がもたらされることは、「昭和」から「平成」への改元でも起きたことです。このような混乱をもたらす元号は無用の長物でしかありません。新しい元号を制定せず、元号制度を終わりにしてください。

【請願事項】
 『新しい元号を制定しないでください。』

【元号はいらない署名運動】
氏名
住所
1次集約:2018年4月30日
集約先■靖国・天皇制問題情報センター(「元号署名在中」と明記下さい)
東京都新宿区西早稲田2-3-18-31 キリスト教事業所連帯合同労組気付
**************************************************************************
★仲間のみなさんへ★おねがい★
「新元号制定に反対する署名」集めにご協力ください
2019 年5 月1 日の天皇代替わりにむけて、政府は新しい元号を2018 年中に発表するとしています。
一昨年来、首都圏各地でさまざまなかたちで反天皇制の運動に取り組んできた私たちは、この新元号制定に反対する署名活動を皆さんによびかけます!
「昭和」の時代と比べれば、市民生活から元号は急速に姿を消しつつあります。インターネットでも元号不要論・不便論が公然と語られだしてきました。「最も生活に身近な天皇制」であるはずの元号と、民衆意識との乖離は着実に進んでいるのです。この天皇制の大きな弱点である元号制度を突くことを通じて、「終わりにしよう天皇制」の声を、共に、さらに広げていきましょう!
「8・8天皇メッセージ」から始まった「平成」代替わり反対闘争の重要な一環として、この署名運動に取り組んでいただけるようお願いします。目標は5000筆です。たくさんの仲間と共同できることを心待ちにしています。

1 署名を集めて、集約先または取り扱い団体までご郵送下さい
2 署名の取り扱い団体(個人ももちろん可)になってください
新元号制定に反対する取組みをするチャンスは、そう何回もないと思います。運動の広がりを示すために、ぜひ、皆さん自身が取り扱い団体・個人となって、署名集約のハブになってください。
3 街頭署名集めを計画してください
このテーマは街頭署名集めもしやすいテーマだと思います。ぜひ計画してください。一緒にやる仲間が見つからない方は、下記いずれかの連絡先までお気軽にご相談ください。
4 提出行動にご参加ください
署名の集まり具合や、新元号制定に向けた政府の動きなどを勘案して、内閣府に対して署名提出
行動を行います。あらためて日程をお知らせしますので、ご参加ください。

「元号はいらない署名運動」呼びかけ団体
■反天皇制運動連絡会 千代田区神田神保町1-21-7-2A 淡路町事務所気付 hanten@ten-no.net
■「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2 かながわ県民センター9FレターケースNO.333
■靖国・天皇制問題情報センター 新宿区西早稲田2-3-18-31 キリスト教事業所連帯合同労組気付
■天皇制いらないデモ実行委員会 立川市富士見町2-12-10-504 立川テント村気付 tennoout@gmail.com

(2018年2月15日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.