澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

アベ・シンゾーが語る「9条改憲」のホンネ

本日は12月8日、実に感慨の深い日だ。ボクは、この日になると自ずと背筋が伸びる。高揚した気持ちになる。本当は12月8日をこそ国民の祝日にすべきなんだ。12月8日だけでなく、柳条湖事件の9月18日や、盧溝橋事件の7月7日もね。南京陥落の12月13日もいい。8月15日や6月23日、3月10日などはいけない。もちろん、8月6日、9日の両日も。

76年前の今日、日本は世界の大国である米・英両国に宣戦布告をした。なんてったって、世界を相手に戦争をするほどの日本人の気概を示した日なんだ。もっとも、日曜日を狙ったパールハーバー奇襲の方が宣戦布告よりは早かったけどね。

それだけじゃない。今日はNHKが「大本営発表」を始めた日でもある。

昔はよかった。元気に戦争だってできたし、放送の統制だってなんなくできた。天皇陛下の思し召しというだけで、大概のことはできた。本当に天皇って便利だったんだ。「戦争には反対」だの、「放送は真実を伝えなければならない」などとツベコベうるさいのは、「天子様に弓を引く国賊め」としょっぴくことができた。政権運営に便利この上なく大切な天皇制。これこそ、魔法の杖だよね。これはいつまでも大切にしなければいけない。

ボクは、毎年12月8日になると「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」を読むんだ。例の大詔渙発というやつ。天皇陛下が臣民に下したありがたいミコトノリ。原文はカタカナ書きで読みにくいし、漢字が難しい。国会で官僚の作った原稿を「でんでん」と読んだボクの国語能力ではよく理解できないけど、雰囲気は分かる。国民にも敵国にも上から目線で、大威張りの態度。そして、戦争に踏み切ったら、国民の拍手喝采だったというじゃないの。なによりも、そこがうらやましい。

今の憲法は平和主義だ。だから、戦争をやるっていえば猛反対を受ける。だから、ボクはこそこそと少しずつ、戦争のできる国にするために小さなレンガを積んで努力しているんだ。前の憲法の時代はよかった。東条英樹閣下がうらやましい。陛下を使えば、簡単に戦争ができたんだもの。ボクもその時代に総理をやりたかった。それが無理だから、憲法9条を骨抜きにしたいんだ。そのための「アベ9条改憲」のスケジュールを組んだんだ。

「宣戦ノ詔書」の一部をひらがな書きにすると次のようなもの。正確には分からないけど、だいたいのところは分かる。

「朕、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は、励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期せよ。(以下略)」

こんなことも書いてある。
「米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威を加う。」

これって、今の北朝鮮の言っていることとまったく同じ。

「朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従せしめんとす。」

我が国は平和を望んで我慢に我慢を重ねたが、邪悪な敵は少しも譲ろうとしない。だから日本は、今や自存自衛の為、決然と戦争に決起する以外に道はなくなった。ここだよ、感動するのは。「自存自衛の為の決然たる決起」だ。

同じ日に、私が尊敬する東条首相もこう言っておられる。

「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。…東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。

事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上るの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪へず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんと念願するのみであります。国民諸君も亦(また)、己が身を顧みず、醜の御楯(しこのみたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗つて戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。」
なんと、胸おどる言葉ではないか。名演説だ。ボクもこう語ってみたい。

「76年前も今も、日本になんの変わりはありません。私たちは正義の旗を掲げています。東洋平和であり、隠忍自重です。にもかかわらず、邪悪な敵が我が国の誠意に応じないときには、蹶然起たざるを得ないのであります。」

ところで、アベ政権は、戦闘機から遠隔地の目標物を攻撃できる複数の「長距離巡航ミサイル」の導入検討を決めた。自衛隊が導入を検討する長距離巡航ミサイルは「JASSM(ジャズム)―ER(イーアール)」、「LRASM(ロラズム)」、「JSM(ジェイエスエム)」。航空自衛隊の主力機F15や最新鋭ステルス機F35に搭載することなどを想定している。

結局のところ、「自存自衛」とは敵の基地を奇襲することさ。パールハーバーを叩いたときのように。今も事情は変わらない。先制的に敵の基地を叩かなければ、こちらがやられちゃうじゃないか。12月8日だ、じっくりと「自存自衛」の戦略を練ろう。今度こそは、絶対に負けないようにしなくては。

その第一歩が、「9条改憲」だ。
(2017年12月8日)

時代を映す入学試験問題ー戦時と今と

旺文社「蛍雪時代」は、私の世代には懐かしい大学受験情報誌。とりわけ、田舎の非進学高にあって国立大学進学を夢みていた私にとっては、唯一の受験情報源だった。なめるように読んだ憶えがある。世話になったという思いは強い。

だから旺文社社長の赤尾好夫の名は印象に深いが、その人となりは知らなかった。後年、右翼だったと知る。

ウィキペディアには、こう書かれている。
「戦時中に戦意高揚を煽った廉で、敗戦後は公職追放を受けた。かつて旺文社の労組で赤尾と対立した音楽評論家の志鳥栄八郎は『赤尾社長は、だいたいが右翼系で、そちらのパージになったこともある人だけに、赤いものは、赤旗はもちろんのこと、赤い腰巻きまで嫌がった』と語っている。」

「蛍雪時代」は、1932年通信教育会員の機関誌『受験旬報』(通信添削会員向けの通信誌)として創刊され、1941年10月号から、現誌名に改題されているそうだ。つまり、太平洋戦争期の受験雑誌だった。当時ライバル誌といえるほどの存在はなかったろう。

戦時下の蛍雪時代がどんな記事を載せていたか。講談社が運営するサイト「現代ビジネス」のそんな記事が興味深い。タイトルは、「大学受験が『聖戦』? 戦時下の受験生はこんな問題を解いていた。当時の受験雑誌を読んでみると…」というもの。筆者は、「不思議な君が代」の著書もある辻田真佐憲。若い(30代前半)ライター。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53490

興味深いのは、たとえば、次のような記事。
「戦時受験の主役は、旧制中学校の上級生や卒業生だった。かれらは、旧制高等学校や、陸軍士官学校、海軍兵学校など上級の学校に進むため、切磋琢磨した。旧制高校は、帝国大学につながり、エリートの登竜門だったのである。
日本最古の受験雑誌のひとつである『螢雪時代』も、現在こそ大学受験の雑誌だが、当時はこの層をターゲットとした。」

「時局ともっとも縁遠そうな数学でさえ、時代の影響をまぬかれなかった。
『螢雪時代』1943年7月の懸賞問題には、つぎのようなものもあった。

時速50粁の航空母艦が其の搭載機を以て海岸にある都市を爆撃せんとし、一直線に目標に向つて進み、途中其の搭載機を放つて直ちに逆行するものとする。搭載機は母艦より目標に向つて直進して之に到達した後30分間其の上空を飛翔して爆撃し、更に母艦の後を追つて飛行帰還するものとすれば目標から幾何の距離に於て母艦を出発したらよいか。但し搭載機の性能は時速450粁、航続時間10時間である。(出題者 旺文社数学部々長 高橋数一)

この問題は、航空母艦の機能や役割を知っていなければ答えられない。現在ならば、まずお目にかかれない出題だろう。」

「旺文社(欧文社)からは、受験参考書として「国体の本義」「臣民の道」「戦陣訓」などの解説書も盛んに刊行された。もちろんそれは、口頭試問や筆記試験に対応するためにほかならなかった。そして同社の広告も『受験生は本書の徹底的研究を絶対必要とする』『皇軍のように志望校を突破せよ!』とその狙いを隠そうとしなかったのである。」

「もっとも生々しかったのは、受験生たちの投稿欄である「読者の声」のコーナーだった。
『全国の海兵党諸賢に次ぐ。[中略]月月火水木金金などは未だ小手先の芸当で、一路海兵打倒と定めた日から、俺は夜も眠らぬことにした(とは少し大ゲサかな)。大東亜を、否全世界を真の一宇的精神に光被せしめるための海軍として、帝国海軍は今や文字通りの天来の神兵艦隊である。此の艦隊の一員たらんとする以上、我々の決意も亦至浄至雄なるものでなければならぬ。(第二の軍神)』」

著者の締めくくりは、以下のとおりである。
「受験雑誌は驚くほど時代の変化に敏感だった。戦時下もそれは変わらなかった。現代の受験雑誌や通信添削のペンネームや読者投稿欄も、実はどこよりも現代を的確に映し出しているのかもしれない。」

「受験雑誌は驚くほど時代の変化に敏感だった」は、そのとおりだろう。もう少し正確に言えば、「入学試験」そのものが時代の変化に敏感で、受験雑誌も受験生も、その変化を受けいれざるを得ないのだ。

最近の大学受験事情はよく知らない。が、とある高校教師から上智大学の今年の入試問題の紹介を受けて驚いた。「近代日本の女性と国家」についての問。18歳の受験生に課されている問題のレベルとしては、あまりに高い。最近、上智に出かける機会が多い。これまでは、なんとのんびりした学生ばかりと思っていたが、この入試の洗礼を受けてきた学生たちと思えば、見方が変わる。

その入試問題は、一問でA4・4頁。しかも9ポの2段組み。問題文を読み通すだけで一苦労のボリューム。

問題文は、「現代における女性の社会的地位は、いったいどのようなものだろうか。」から始まる。一見女性は優遇されているようで、実は敢えて優遇措置をしなければならない現実があり、女性の地位は低いまま。日本の女性たちが歩んできた過去をしっかりと見つめなければならない。という問題提起があって、3つの例題文が提示される。

《例題文1》は、家族制度と絡めた「存娼派」と「廃娼派」の論争。存娼派の代表として福沢諭吉紹介され、公娼制を必要としながら、そこで働く女性を「人類の最下等にして人間社会以外の業である」という彼の論の一節が引かれる。アジア女性センターのブックレットからの引用。

《例題文2》は、富国強兵と良妻賢母をセットの国策ととらえた文脈における「新しい女性」像の問題。貞操論争、堕胎論争、廃娼論争などの議論を紹介し、青鞜などの女性解放運動が実は後年の女性を家庭に囲い込むジェンダー規範を作り出した側面をもっていると指摘する。

そして、《例題文3》が最も長文で最も重い内容。沖縄戦での女性の悲劇を描いたもの。純潔を強要された沖縄の女性が、敵に性的暴行を受けよりはと集団自決を選んだ経緯を考えさせる内容となっている。本土の兵士のための、県内女性と朝鮮人女性の慰安婦の問題もきちんと述べられている。

上智の受験生は、この問題文と格闘したことによって、意識が変わったのではないだろうか。

つくづく思う。戦争や国家主義鼓吹の受験勉強などをしなければならない時代はまっぴらだ。「受験生は、驚くほど入学試験の傾向に敏感」なのだから、「聖戦突破」ではなく、「近代日本の女性と国家」型の普遍性ある入試問題を歓迎したい。暗い時代を繰りかえさせてはなない。
(2017年11月19日)

安倍首相の「加憲的九条改憲論」に欺されてはならない。

本日は定例の「本郷・湯島九条の会」の街頭宣伝行動の日。だが、あいにく、私は東京にいない。代わって、澤藤大河がマイクを握った。下記の内容であったという。

ご通行中の皆さま。恒例の「本郷・湯島九条の会」からの訴えです。

安倍首相は、今年の5月以来憲法9条改正を明言しています。
どのような形になるか、具体案はまだ明らかになってはいませんが、現行の憲法9条の1項と2項をそのままにして、9条に第3項を付け加える意向と伝えられています。たとえば「前項の規定にかかわらず、自衛隊を違憲と解釈してはならない」などという第3項案が漏れ聞こえてきます。

安倍首相のねらいは、国民の改憲に対する抵抗感をできるだけ小さくすること。そして、それでいて国政の選択肢をしっかりと拡げることにあります。はっきり言えば戦争という選択肢をもつ国家を作ること。自衛隊を戦争のできる組織に変えようということなのです。

国民の抵抗感を薄めるために、安倍首相は、「9条を改憲しても、自衛隊の実態は変わらない」とか、「国ができることは同じまま」などと言っています。しかし、本当に、「変わらない」のでしようか。「同じまま」なのでしょうか。

改正しても、政府のできることが今と全く同じなのであれば、巨額の費用をかけて憲法改正など行う必要はないはずです。安倍首相の言葉の裏には、今の憲法ではどうしてもできないことを、何とかできるようにしたいという、狙いが隠されています。安倍首相の言葉をそのまま信じてしまうことは危険です。この隠された政権側の強い衝動を見抜かなければなりません。

憲法とは、国家に対する規範です。
国がしてはいけないことを規定することで国の暴走を止め、そのことによって国民を守るための規範です。憲法9条も、「国は絶対に戦争をしてはならない」、「戦争をしないたいための保証として、軍隊を持ってはならない」という規範なのです。

しかし、9条は戦後保守政権の度重なる解釈改憲によって、危機にさらされてきました。日本には巨大な米軍基地と強大な自衛隊があります。そして、安保法制のなかで集団的自衛権の行使までが認められるに至っています。

それでも憲法9条が歯止めとして働いて、許していないことは大きいのです。なによりも、憲法9条がある限り、米軍基地や強大な自衛隊の存在を違憲として批判できます。集団的自衛権の行使を認める安保法制を違憲とする訴訟が進行中です。

また、安保法制が集団的自衛権の行使を認めるに至ったとはいえ、それは「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という「存立危機事態」に限定されています。安倍政権としては、日本が米軍とともに世界に出て行って戦争をすることに、フリーハンドがほしいのです。

憲法9条に、安保法制によって性格を変えた自衛隊を明記することは、原理的に集団的自衛権行使を任務とする軍事組織を憲法上の存在として認めることにほかなりません。結局は、米軍の弾よけにされ、世界中で戦争をすることができるようになるのです。けっして、9条改憲を許してはならないと思うのです。

これに対して、現実には自衛隊が存在しているのだから、自衛隊を憲法に書き込むことで、政府の統制をしっかりと自衛隊に及ぼすべきだと主張する人もいます。自衛隊を憲法に根拠を有する組織とすることで、立憲主義的統制ないし文民統制を及ぼすべきだというのです。

しかし、これは、本末転倒の議論です。
法律というのは、規範であり、規範というのは現実を規律するものです。
現実に妥協して、規範を現実に合わせてしまっては、規範の意味がありません。
たとえば、刑法199条は殺人罪を定めて、人が殺されることを防止しようとしています。しかし、残念ながら殺人はそれでもなくなりません。そんなとき、私たちは、社会から殺人がなくならない現実に合わせて、殺人罪をなくし、殺人を合法化しようとするでしょうか。

法は理想を追求し、現実をリードし規律するものです。法が、現実に屈してあきらめてはならないのです。平和の理想を捨てることは、現実をさらに危険な方向に動かすことになります。

あるいはまた、日本の軍事力を強化することで、平和を守るべきだという人もいます。そのために9条が邪魔だというのです。

しかし、これは戦争を違法化する国際法の努力を見過ごした議論です。
国際法上、戦争は基本的に違法であり、特に侵略戦争は絶対に違法化されています。
戦争を憎み平和を愛する諸国民の国際世論や、戦争を違法化する国際法の到達点を無視し、軍事的な威圧が平和をもたらすというのは、あまりに偏った見方です。
現に、日本には、毎年5兆円の防衛費をかけ、20万人以上公務員を有する巨大組織である自衛隊が存在していますが、それが軍事的均衡や平和をもたらしているのでしょうか。北朝鮮のミサイル開発を止めることができたのでしょうか。
これでは、足りないというのであれば、あと、何兆円かけ、何万人の定員の組織にすれば、ミサイルを止められるというのでしょうか。

憲法9条は、日本に軍隊を持たせず、戦争をさせないための規範です。
軍隊を持たず、交戦権もなければ、戦争を起こせるはずがないからです。
他国からの侵略を防ぐためにも、憲法9条は、有効なのです。他国を軍事的に威圧しなければ、他国から脅威と思われないからです。
9条を遵守し、本当に他国に脅威を与えなければ、日本が標的にされることはありません。

今、日本の外交は、トランプに寄り添い、トランプに追随するばかりです。
真に平和を目指すのであれば、9条を遵守し、積極的に軍事的緊張を緩和すべく、あらゆる地域で平和外交を進めるべきです。

日本が第二次世界大戦後戦争をしていないことは、外交上とても大きな財産です。
さらに、唯一の被爆国として、また、戦争を放棄し軍備の不保持を宣言した平和国家として、世界的な権威を獲得することが可能です。そうすれば、平和外交による自国の平和も維持できます。それが、本来の憲法9条の理念にほかなりません。

この憲法9条の平和主義の理念は、けっして空想的なものではなく、現実的な平和維持の手段として理解すべきなのです。
(2017年11月14日)

日本軍による久米島住民虐殺事件

本日のブログは、宮川泰彦さんの論稿「日本軍による久米島住民虐殺事件」の転載。
宮川さんは、かつて東京南部法律事務所という共同事務所で席を並べた同僚弁護士。沖縄出身で、父君も自由法曹団員弁護士と聞いていた。沖縄出身の弁護士といえば、まずは徳田球一である。そして、古堅実吉、照屋寛徳なども。闘士然としたイメージがまとわりつくが、宮川さんは温厚な人柄。少し前まで自由法曹団東京支部長で、それを降りた後に日朝協会東京都連会長を務めている。

宮川さんの母方のルーツは久米島とのこと。久米島は、「沖縄本島から西に約100km、沖縄諸島に属する島で、最も西に位置する島である。人口は1万人弱で、行政上は島全域が久米島町に含まれる。面積は59.53K㎡で、沖縄県内では、沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に次いで5番目に大きな島である。(ウィキペディア)」という。島は、元は二つの村からなり、宮川さんの祖父に当たる方が、一村の村長だったという。その島で、終戦時に複数の住民虐殺事件があった。加害者は本土の軍人。宮川さんならではの押さえた筆致が、生々しい。

とりわけ、終戦後に朝鮮出身者の一家7人がいわれなき差別観から、皆殺しの惨殺(後記の④事件)に至っていることが、なんともいたましい。驚くべきことは、戦後加害者に謝罪も反省の弁もないことだ。沖縄の住民の本土に対する不信の念の根はこんなところにあるのだろう。そして、言い古されたことだが、「軍隊はけっして住民をまもらない」ことをあらためて確認すべきだろう。

論稿は、自由法曹団東京支部の「沖縄調査団報告集」の末尾に掲載されたもの。
自由法曹団東京支部は、今年(2017年)9月16日(土)から18日(月・祝)にかけて、沖縄本島に支部所属の若手団員及び事務局員等総勢23名からなる調査団を派遣し、関係各所を訪問した。若手とは言いがたい宮川さんもその一員として訪沖し、久米島(戦争)犠牲者追悼碑に祖父(久米島具志川村長)の名を確認し手を合わせたところから筆が起こされている。以下に、宮川さんのご了解を得て転載する。
(2017年11月10日)

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日本軍による久米島住民虐殺事件

みやがわ法律事務所 宮川 泰彦

「平和の礎」久米島犠牲者追悼碑に刻まれた濱川昌俊(私の祖父・久米島具志川村長)と濱川猛(伯父・軍医)の名を確認し手を合わせた。
その際にガイドの横田政利子さんから「この久米島の追悼碑には、軍によって殺された島民の名も刻まれている」との説明を受けた。私の母の故郷である久米島で日本軍による虐殺があったことはきいてはいたが、正しくは知らない。そこで簡略ではあるが、自分なりに確認してみた。

<久米島の日本軍と米軍無血上陸>
久米島は沖縄本島の西、那覇市から約100キロにある周囲48キロの島。島には日本海軍が設置したレーダーを管理運営する通信兵の守備隊30名ほどが配置されていた。隊長は鹿山海軍兵曹長。
1945年6月に入り、米軍は久米島を攻略するために偵察部隊を上陸させ、情報収集するため島民を拉致し情報を得た(後記②事件)。さらに、米軍は、後記③事件の仲村渠らからの情報も得ており、久米島には通信兵などの守備兵がわずかしかいないことを把握していたことから、艦砲射撃などは行なわず、無血無抵抗のまま6月26日間島に上陸し占鎖した。久米島守備隊は何ら抵抗せず、山中に引きこもった。

<スパイ容疑虐殺方針>
米軍は、無血上陸前の6月13日夜、ゴムボートで偵察隊を島に送り、比嘉亀、宮城栄明ら3名を連行した。翌14日解放された宮城は農業会仮事務所へ行き、米軍に連行された事実を報告した(後記②事件参照。)。

鹿山隊長は、その翌日6月15日付で、具志川村・仲里村(当時の久米島の2村)の村長、警防団長宛てに「達」を発し、さらに軍布告で「拉致された者が帰宅しても、自宅にも入れず、直ちに軍駐屯地に引致、引き渡すべし。もしこの令に違反した場合は、その家族は勿論、字区長、警防班長は銃殺すべし」とした。
以降悲惨な虐殺が続く。

① 6月27日 安里正二郎銃殺
久米島郵便局に勤務していた安里正二郎は上陸した米兵に見つかり、アメリカの駐屯地に連行され、鹿山隊長宛ての降伏勧告状を託された。安里は隊長のもとに持参したところ、鹿山隊長に銃殺された。鹿山は1972年に行なわれたインタビューで「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするための断固たる措置」だったと語っている。見せしめにしたのだ。

② 6月29日 宮城栄明、比嘉亀の家族、区長、警防団長ら9名虐殺
比嘉一家4人、宮城一家3人、さらに区長と警防団長も責任をとらされ、9名が銃剣で刺殺された。9名は宮城の小屋に集められた。刺殺した鹿山らは、火を放って立ち去った(廃山は火葬だと言い放っていたそうだ。)。黒焦げの死体は針金で縛られ、それぞれ数か所穴があいていた。

③ 8月18日 仲村渠(なかんだかり)明勇一家虐殺
明勇は、海軍小禄飛行場守備隊に配属され、6月はじめに捕虜となり収容所に入れられた。部隊で負傷し米軍に収容されていた比嘉氏とともに、我々の一命にかえても久米島への攻撃を中止させたいということを、通訳を通して米軍に懇願していた。その結果「君たちふたりが道案内するならば艦砲射撃は中止する」ということになった。明勇は、米軍の久米島攻略に道案内として同行し、久米島は無防備の島であることを説明した。そして久米島は米軍の総攻撃の難を逃れた。明勇は、住民に対し、「戦争は終わった、安心して山から帰宅するように」と声をかけまわった。
しかし、仲村渠明勇は鹿山隊に捕まり、米軍のスパイとして、妻、1歳の子とともに、手りゆう弾で爆殺された。

④ 8月20日 谷川昇一家7名虐殺
朝鮮釜山出身の行商人谷川(戸籍名は具仲会)は、妻ウタ(旧姓知念)と長男(10才)、長女(8才)、二女(5才)、二男(2才)と赤ん坊の7名の家族。日本軍からは、谷川は朝鮮人だからスパイをやりかねないと早くから目をつけられていたうえに、行商の品物が米軍からの供与品ではないかと疑われ、谷川はおびえていた。地元の警防団長は一家がかたまっているのは危険だから、散らばって身をひそめるようアドバイスした。8月20日夜になって日本軍は捜索にやってきた。谷川は長男を連れて逃げたが捕えられ、首にロープをかけられ数百メートル引きずられて死亡した。長男は銃剣で刺殺された。妻のウクは赤ん坊を背負い、2歳の二男を抱いて逃げたが捕えられ首を斬られ、泣き叫ぶ二男と赤ん坊もウタの死体の上に重ねて切り殺された。長女と二女は、裏の小屋に隠れていたが、不安にかられて外へ出たところを捕えられ、両親のいる方向へ連れていかれる途中で斬殺された。この日は月夜で、月光の下での虐殺を多くの住民が目撃している。

<これらの事件の特徴>
(1) 赤ん坊から大人まですべてがスパイ容疑者とされ、虐殺されたこと。
(2) すべての虐殺が、1945年6月23日(牛島中将と長参謀長が自決した日)の日本軍が組織的戦闘を終えた日、沖縄戦の終結の後に行なわれていること。上記③、④の虐殺は8月15日の太平洋戦争終結(天皇の玉音放送)の後であること。
(3) 何故戦争が終わっても住民を虐殺したのか。
この点につき、鹿山は「われわれの隊は30名しかいない。相手の住民は1万人いる。地元の住民が米軍側についたら、われわれはひとたまりもない。だから、見せしめにやった」とマスコミのインタビューに答えている。なお、鹿山は1972年のインタビューで、「私は悪くない」「当然の処罰だったと思う」などと、平然と答えている。
日本軍の正体を率直に表していると思う。

以上、佐木隆三「証言記録沖縄住民虐殺」新人物往来社、大島幸夫「沖縄の日本軍」新鮮社、編者・上江洲盛元「太平洋戦争と久米島」、wikipedia「久米島守備隊住民虐殺事件」などから引用して整理してみた。

「市民平和訴訟」―法廷の花と高額印紙問題と

弁護士として平和への思いを貫いた池田眞規さんが亡くなられたのが、昨年(2016年)11月13日。私は、11月16日の当ブログに「池田眞規さんを悼む」記事を掲載した。
http://article9.jp/wordpress/?p=7705

先輩である眞規さんからは、後輩として教えを受ける立場だったが、ともに戦ったのが[ピースナウ・市民平和訴訟(東京)]の法廷だった。このことは、11月16日ブログに次のとおり書いている。

私が弁護士になって20年目。1991年に湾岸戦争が起きた。日本政府(海部内閣)は、戦地に掃海部隊を派遣し、90億ドル(1兆2000億円)の戦費を支出しようとした。平和的生存権と納税者基本権を根拠に、これを差し止めようと「ピースナウ・市民平和訴訟」と名付けた集団訴訟が実現した。東京では1100人を超える人々が原告となり、88名の弁護団が結成された。私が弁護団事務局長を務め、団長は正式に置かなかったが、明らかに眞規さんが「団長格」だった。

いま、丸山重威さんが、池田眞規さんの評伝を執筆中で、私と接点のあった市民平和訴訟の経過について問合せがあった。丸山さんの関心は2点。1点は「法廷の花」であり、もう1点は「巨額の貼用印紙問題」である。聞かれて思い出せないこともあるが、思い出せる範囲で書き留めておきたい。

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入廷者全員に一輪ずつの法廷の花
市民平和訴訟では、訴訟自体を憲法運動として意識した。
訴訟に参加した市民の憲法意識は、戦争の加害・被害の反省にもとづくものだった。「再び加害者にも被害者にもなってはならない」という理念のうち、加害者にならない権利が強調された。戦費の支出とともに、これを「殺さない権利」とスローガン化した。「戦争という国家の人殺し行為に加担を強制されない権利」「国民が国家に対して人殺しをしてはならないと命じる権利」という意味である。
各回の法廷で、それぞれの原告が、どのように戦争で傷つき、平和を願ってているかを発言する機会をつくり、各回の法廷が原告の確信につながるような進行を工夫した。毎回、東京地裁最大の103号法廷を満席にして、原告の意見陳述は真摯さと迫力にあふれるものとなった。
平和的生存権については浦田賢治氏、納税者基本権については北野弘久氏、「湾岸戦争へのわが国の関わり方は参戦である」ということについて大江志乃夫氏、アジアからの視点で陸培春(ルウ・ペイチュン)氏、被爆者の立場から三宅信雄氏などが証言され、ラムゼー・クラーク氏による現地撮影のビデオ上映も実現した。
敗訴ではあったが、多数の原告がそれぞれに憲法の恒久平和主義に確信を深めたという点では、大きな意義のあった訴訟だと思う。その「成功」は、本気になって勝訴判決を取りに行く真摯さから生まれたのだと思う。けっして、「どうせ勝訴は無理、運動として成功すればよい」という姿勢ではなかった。
その東京地裁での20回の法廷に出廷した原告や弁護団の胸や手に、一輪ずつの花があった。バラ、カーネーション、スイートピー…。
私の記憶では、提訴の日に、横断幕やプラカードをもって地裁の民事受付(14階)までみんなで出かけようという原告団の提案があって、私と加藤朔朗弁護士(故人)が止めた。「裁判所構内には、横断幕もプラカードも持ち込めない」。そのとき、原告の女性の一人から、「じゃ、代わりに花ならいいでしょう」という提案があり、即座にそうしようと衆議一決した。
以後毎回の法廷には、女性原告たちが購入した花が、入廷者に配られた。弁護団も原告団も一本ずつ携えて法廷に入った。私も、バラを胸に挿して、弁論をした。
裁判長は、後に最高裁裁判官となった涌井紀夫判事。大らかに、花には一言の訴訟指揮もなかった。書記官からは、「法廷に、花や葉っぱを残さないようにしてください」とは言われたが。
あのとき、みんなの記憶にあったのは、プラハの春(1968)の際の一枚の有名な写真。ソビエト軍の戦車砲の筒先に、女性がバラの花を挿している図。「大砲ではなくバラを」「戦争ではなく、平和を」という市民の意思の表れ。
法廷の一人ひとりの花々は、平和を求める市民たちの法廷にふさわしい彩りであった。

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「3兆4千億円の印紙を貼れ」問題
提訴後第1回弁論以前に、訴額と印紙問題が大きな話題となった。
訴状には、裁判所を利用する手数料として、訴額に応じて所定の印紙を貼付しなければならない。担当裁判所から弁護団に訴額についての意見照会があった。「印紙額が足りないのではないのか」というのだ。弁護団から、裁判所の意向を打診すると驚くべき回答があった。
裁判所は自らの見解を表明して、本件の係争にかかる経済的利益を差し止め対象の支出金額である1兆2000億円とし、これを訴額として1人あたりの手数料を算出して、 原告の人数を乗ずるという算定をすべきだという。これを計算すると、訴額は(1兆2000億円×571人分)で、なんと685兆円となり、訴状に貼付すべき印紙額は3兆4260億円ということになる。
司法の年間総予算が2500億円の規模であった当時のこと。試算してみたら、10万円の最高額印紙を東京ドームの屋根全面に貼り尽くして、まだ面積が足りない額なのだ。これは格好のマスコミネタとなった。
厳しい世論からの批判を受けて、裁判所は態度を軟化。大幅に譲歩して、267万9000円の印紙の追貼命令を出した。差し止めの訴額については、算定不能の場合に当たるとして一人90万円とし、これに原告数を乗じての計算。弁護団は事前にこれを予測し、予定の対応とした。差し止め請求は、2名だけを残して、その余の原告については取り下げた。2名を除く他の原告は国家賠償請求だけとしたわけだ。これは必要に迫られて編み出した現場の知恵で、「代表訴訟方式」などと呼んだ。
結局、この対応で印紙の追貼納付は、4000円だけでことが収まった。3兆4000億円から4000円に、壮大なダンピングだった。
この件は、その後の司法改革論議の中でも、市民の司法アクセスの問題として話題となっている。
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2015年9月19日に戦争法が国会で成立し、翌16年3月29日施行となった。この日を境に、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本から、政権による「存立危機事態」の判断次第で、世界中のどこででも戦争を行うことができる日本に変わった。この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。

しかも今、「北朝鮮危機」はアメリカの対北朝鮮開戦があった場合に、わが国も参戦せざるを得ない事態となる。「存立危機事態」とは、「参戦被強制事態」なのだ。

1991年湾岸戦争時のアメリカからの「参戦要請」の経験を思い起こすことは、今意味のあるものと言えよう。それに抵抗した、市民平和訴訟の経験も。
(2017年9月5日)

米・朝の対話以外に打開の策はない

北朝鮮は8月29日早朝、北海道を越え太平洋に落下する射程2700キロの弾道ミサイル発射を強行した。地図上日本を越えるコースは、これが5回目。無通告発射としては2回目となる。そして、本日(9月3日)6回目の核実験を強行した。水爆だという。安倍ならずとも、断じて容認しえない。北朝鮮だけではなく、あらゆる国や勢力の軍事挑発にも、核実験にも断固として抗議しなければならない。

問題は、これにどう対処するかである。「圧力を強める」一辺倒で解決に至らぬことは目に見えている。とりわけ、石油禁輸による経済封鎖には不吉な臭いが漂う。現在の北朝鮮は、戦前の日本とそっくりだ。日本を国際的に孤立させる、ABCD包囲網による対日石油全面禁輸体制は1941年8月に完成した。その直後同年12月には日本は暴発して対米英の宣戦に踏み切った。「座して死を待つことはできない」というのが、開戦の言い分。

8月29日の「Jアラート」なるものも、戦前戦時を想起させる。バケツリレーでの空襲対応、竹槍での本土決戦などと精神構造は変わってないのだ。

8月31日付の赤旗に、丸山重威さんが、「どう考える 北朝鮮ミサイル問題と国民の不安」として寄稿している。取り上げられているのは桐生悠々。

 「1933年(昭和8年)8月、陸軍は民間の防衛意識を涵養するため、「関東防空大演習」を実施した。大規模な空襲があった場合を想定してのことだった。信濃毎日新聞の桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」という論説で「敵機を関東の空に帝都の空に迎え撃つということは、我が軍の敗北そのもの」と書いた。」

桐生ならずとも、Jアラートには嗤わざるを得ない。「不安」を煽るだけの小道具でしかないのだ。

 「ミサイルの時代に、しかも「核」が想定される時代に、ミサイルの撃ち合いが始まれば、勝者も敗者もない。「Jアラート」は、ミサイル攻撃があった場合、という「後ろ向き」の対策だ。日本政府は「圧力と対話」と言いながら、結局は、憲法9条違反の「武力による威嚇」に同調し、協力し、話し合いの道を閉ざしている。
しかし、善悪は別として、北朝鮮は、今のままでは、どう「圧力」をかけても、米国などと同様、核開発とミサイル開発はやめないだろう。」

とすれば、不愉快であろうとも、対話の路線を模索するしかない。米朝2国間対話でも、6カ国協議でも、対話の実現以外に打開策はない。

対立する当事者の一方だけが100%正義で、他方が悪などということはあり得ない。また、相手を全面的な邪悪と決めつけては、真摯な対話も交渉も成立し得ない。日韓併合以来の歴史を繙けば、北朝鮮側には大いに言い分のあることだろう。第二次大戦後の南北の分断と朝鮮戦争の経過に鑑みれば、北朝鮮に米国や国連に対する不信感あることはもっともだ。そして、最近の米韓、米日の合同軍事演習のエスカレートによる挑発も無視し得ない。

憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の一文をあらためて確認しなければならない。ベトナム戦争、パナマ戦争、グラナダ侵略、湾岸戦争、アフガン・イラク侵攻等々の戦争を重ねてきた好戦国アメリカをも、「平和を愛する諸国」の一つとして、その公正と信義に信頼する度量が必要である。もちろん、北朝鮮にも同様の姿勢で臨まなくてはならない。

ようやく、アメリカに対して交渉の席に着くよう、国際世論の圧力が増しているように見える。ともかく、戦争を避けるための対話を重ねるしか、平和への道はないのだ。

トランプ政権は「今は対話の時ではない」と繰り返し、安倍政権もこれに追随している。トランプも安倍も、おそらくはホンネのところ、危機を打開しようという意思はない。トランプにしてみれば、北朝鮮危機はアメリカ産の武器を同盟国に売るチャンスだ。軍需産業が活気づけば、雇傭が増えて自分の支持者が納得する。その程度の認識だろう。

安倍も同じ穴のムジナ。北朝鮮危機を煽れば、たやすく防衛予算の増額が実現するだろう。うまくいけば、9条改憲の世論の喚起も期待できる。失政で危うくなった政治生命だが、タカ派の自分にとっては失地回復のチャンスとなりうる。

北朝鮮問題を危機を煽ることによる、防衛予算の増額や9条改憲の策動を警戒しなければならない。「北朝鮮に対抗して日本も核武装を」などは愚の骨頂。この事態を奇貨とする安倍政権の復権も許してはならない。
(2017年9月3日)

兵戈無用 ― 「不殺生戒」は平和憲法理念に通じる

昨日(9月1日)の都立横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典では、実行委員長宮川泰彦さんの「開式のことば」と、韓国伝統舞踊家・金順子(キム・スンジャ)さんの「鎮魂の舞」が大きな話題となったが、開式のことばの直後には、「鎮魂の読経」が行われている。「日本宗教者平和協議会 浄土真宗本願寺派・僧侶」小山弘泉さんを導師とするもの。

普通、読経はサンスクリットの漢訳をそのまま音読するから、聞いていて意味はさっぱり分からない。「はんにゃはらみた」も、「ぎゃーてー、ぎゃーてー、はらぎゃてー」も、チンプンカンプン。本来が聴衆に聞かせて分からせるための読経ではないのだ。

ところが、小山弘泉さんの読経は、半分以上は日本語だった。聴いていて分かるのだ。大震災とその後の混乱の中で、朝鮮人と中国人と社会主義者や労働運動活動家が殺された経過と背景を語って、再びの悲劇を繰り返してはならないとする内容。これこそが、鎮魂の式典のあり方といえよう。

その読経の中で、「仏説無量寿経」の中のお釈迦様の言葉が紹介された。「兵戈無用(ひょうがむよう)」というのだ。

いうまでもなく、「兵」とは軍のこと、「戈」とは武器のことである。「兵戈無用」とは、軍隊も武器もまったく不要とする非武装平和主義、まさしく憲法9条の思想ではないか。

ネットで検索すると、出典は次の一節であるらしい。
『仏説無量寿経』
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起  国豊民安 兵戈無用」

読み下しは、
『仏説無量寿経(ぶっせつ むりょうじゅきょう)』
「天下和順(てんげわじゅん)し 日月清明(にちがつしょうみょう)なり 風雨ときをもってし 災厲(さいれい)起こらず 国豊かに民安くして兵戈(ひょうが)用いることなし」とのこと。

「み仏が歩み行かれるところは、世の中は平和に治まり、 太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もほどよく降り、災害や疫病なども起こらず、国は豊かに、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。」

お釈迦様が、悪を戒め信を勧められるところで語られることばで、その背景には「不殺生」という仏教の根本思想があるという。仏教は五戒を説くが、その筆頭は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」である。大量の殺生である戦争は佛教徒の最も忌むべきものであろう。

民族差別、排外主義は、それ自体が殺生の原因となる。そして、戦争の温床となって、さらに大規模な殺生に至るのだ。

「今に生きる私たちは、そのような差別と憎しみを克服して、戦争のない平和な世界、民衆が国境を越えて仲良く豊かに平穏に暮らせる世の中を作ります。そのために、けっして武器をとって争うことをしません。」

小山弘泉さんは、宗教者として、参列者とともに、亡くなられた犠牲者にそう語りかけていたのだと思う。
(2017年9月2日)

靖国派の終戦記念日論説(神社新報)を批判する

8月が終わりに近い。毎年この時期になると、し残したことのあるような、忘れ物があるような、なんとなく焦りにも似た気持になる。当ブログも、8月のうちに言っておくべきことを言い尽くせていない。

何を素材にすれば、言い残した語るべきことを語れるか。典型右翼の言論に対置する反論の形式が分かり易い。そのような観点で素材を探してみたが、適切なものが見つからない。結局、神社新報(神社本庁の準機関紙)の論説に落ちついた。8月21日付「終戦記念日 英霊への感謝と自戒を常に」と表題するものである。

同論説は、表題のとおり、「終戦記念日に際して、(1) 英霊への感謝と、(2) 英霊に恥じぬ自戒」とを呼びかけるもの。しかし、もちろんそれだけのものではない。そして、戦争観、戦没者観がよく出ている。

論説は、4個のパラグラフから成っている。必ずしも、各パラグラフが論理的に連関しているというわけではない。その意味で、出来のよい論説とは言いがたい。

○第1パラグラフは、戦没者の慰霊や追悼のあり方を述べる。
「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』である八月十五日、今年も靖國神社をはじめ全国の護国神社には多くの人々が参拝し
て英霊に感謝を申し上げ、東京・日本武道館では天皇・皇后両陛下御臨席のもとに、政府主催の「全国戦没者追悼式」が執りおこなはれた。
 戦後七十二年を経過し、戦争の記憶を持つ人々が減っていく中にあっても、国を護るために遠く戦地に赴き、もしくは戦禍によって命を落とされた方々に思ひを馳せようとする心は綿々と受け継がれてをり、靖國神社・護国神社で社頭に額づき、また両陛下の黙祷に合はせて御霊の安らかなることを祈ってゐる。
 先の大戦のことを思ひ、慰霊の誠を捧げることはごく自然におこなはれ、数多くの人々がそれを当然のことと理解してゐるが、残念ながらさうした雰囲気に反する行動も見られる。六月の「沖縄全戦没者追悼式」における野次や罵声なども含め、慰霊や追悼といふ厳粛であるべき場において、相応しくない行為に及ぶ人たちに対しては、ぜひともその再考を促したい。」

8月15日、国民が追悼した対象が、「国を護るために遠く戦地に赴き、もしくは戦禍によって命を落とされた方々」と表現されている。これは天皇(明仁)の戦没者追悼式での式辞からの転用だが、「(国を護るために)遠く戦地に赴いた」のは、帝国主義的侵略戦争に駆り出されたということだ。けっして自国を守るために、国土への侵入者と戦ったものではない。にもかかわらず、被侵略国の被害者に対する謝罪も反省も、追悼の言葉すらもない。これが宗教者の言だろうか。

また、本当に、「先の大戦のことを思ひ、慰霊の誠を捧げることはごく自然におこなはれ、数多くの人々がそれを当然のことと理解してゐる」だろうか。死を悼み、死者を回想してその人を偲び、その死を悼んで追悼すること自体は自然におこなわれていることだろう。しかし、ここで論じられているのは、戦争犠牲者一般の死を追悼することではない。皇軍兵士の戦没者だけを特別に「英霊」(優れた霊魂)と称して、これに「慰霊の誠を捧げる」と顕彰するのだ。死んだ兵士に、「あなたは立派だった」「あなたは優れた行いをした」と称賛しているのだ。こうして、侵略戦争の性格や戦争責任の所在は切り捨てられる。靖國神社や護国神社への参拝は、そのようなことさらの意図をもった、特殊な戦死者への接し方なのだ。

なお、慰霊や追悼が厳粛であるべきことは論を待たない。しかし、厳粛な問題であればこそ、死者の政治的利用は許されない。慰霊や追悼に名を借りた、現政権の9条改憲策動への靖国神社利用を許してはならないのだ。

○第2パラグラフは、信教の自由援用の問題である。
 「もとより、自らの信仰から英霊祭祀に異議を唱へる人々に対しては、信仰の営みの観点から我々が信ずる英霊祭祀のあり方を示し、そこに存する我々の意志を地道かつ明確に示していくことが必要であるだらう。
 しかし、この慰霊の日にあたり、ややもすれば反対することが目的化したやうな集会なども開かれ、例へば「平和安全法制」や「共謀罪」などに関する主張を絡め、または現政権への批判を持ち出して、慰霊とはかけ離れた極めて政局的な事柄を論じるやうな向きも見られる。また一方で、自らの信仰を充分に咀嚼しないまま、英霊祭祀に反対するやうな勢力に対していたづらな反論を試み、混乱に拍車をかけるやうなこともあってはならない。いづれにしても、不毛な論議が雑音のやうに入り乱れ、真摯な祈りを妨碍するやうなことが最も懸念されるところである。」

興味深いのは、「(靖国の)英霊祭祀に異議を唱へる人々」の二分論である。その一として、「自らの信仰」を動機とする一群の人々のあることを認めている。戦没者、あるいはその遺族が、自らの信仰から英霊祭祀に異議を唱えることに対しては、必ずしも感情的な反発をしていない。神社側の信仰の営みとして神社側が信ずる英霊祭祀の意志を地道に示していくしかないという。「あなたたちと私たちの、それぞれの信仰の衝突なのだ。ここは、私たち流を貫かせていただく」という姿勢。

「英霊祭祀に異議を唱へる人々」の別の一群とは、「慰霊とはかけ離れた極めて政局的な事柄を論じるやうな向き」である。神社側は「真摯な祈り」を捧げており、これに政治的な立場から異を唱えることは、「真摯な祈り」の妨害と位置づけられている。

しかし、戦没兵士の死をことさらに美化し、特別の意味づけを行っているのは、(靖国)神社側である。戦争や兵士の死の真実を明らかにし、その死の意味を明らかにする議論は、同じ過ちを繰り返さないために、避けて通ることはできないのだ。これを「真摯な祈り」の妨害として議論を封じることは、結局は戦争と戦死の美化論につながらざるを得ない。

○第3パラグラフは、8月15日の意味づけを中心とした叙述。さしたる論争点はない。
 「いふまでもなく八月十五日は、「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」の玉音放送があり、終戦の象徴的な日となってゐる。終戦の日としては、ポツダム宣言を受諾した八月十四日や、ポツダム宣言に基づく降伏文書の調印日である九月二日、またはサンフランシスコ講和条約発効日の四月二十八日など、いくつかが挙げられようが、やはり昭和天皇が御親らポツダム宣言受諾の旨を国民に示された八月十五日が似つかはしく、加へて月遅れの盆と重なることで、さうした意味合ひが強くなってゐる感がある。
 盆行事は本来旧暦の七月十五日だが、太陽暦採用にあたって月遅れの行事が八月十五日におこなはれるやうになり、各家庭では祖霊を迎へたり墓参りをしたりと、さまざまな行事がおこなはれる。それゆゑに多くの人々が休暇を取って帰省することになり、東京都心は正月に人々が帰省したときのやうな、ある意味で独得な静けさにも包まれる。さうした都会の中で「全国戦没者追悼式」が執りおこなはれ、隣接する靖國神社では、ほぼ終日に亙って降り続いた雨に濡れることも厭はず、神前で真摯に祈りを捧げる人々が列をなしてゐた。」

○第4パラグラフでは、神社流の慰霊のあり方の肯定を強く押し出している。
 「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営みには、もちろん戦争の惨禍に思ひを馳せ、平和を誓ふ祈りが含まれることは当然であり、決して好戦的なものではない。平和を護ることを常に意識し、挑撥をくり返す周辺国に対して充分な備へをおこなひ、また友好国との連携に努めることも当たり前のことである。ただ闇雲に「平和」の言葉を唱へるだけでは、決して真の平和は護れない。歴史と現実を直視し、時に毅然たる態度を執らねばならないことはいふまでもない。
 また八月十五日の祈りを捧げるとき、平素の自らの行為についても充分に考へる必要があらう。果たして今の自らが英霊に恥ぢないやうな生活を送り、浄明正直といふ言葉に反してゐないかといふことも含め、常に自戒の念を持つ必要性を指摘したい。
 八月十五日といふ節目の日に際し、英霊が護らうとしたこの日本において日々の生活を送れてゐることへの感謝の念を持ち、また内外の情勢への的確なる対応を常に考へ、そして、現今の平和な世の中を後世に伝へるためにも、改めて祈りを捧げるものである。
平成二十九年八月二十一日」

「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営み」という表現が曲者である。兵士の戦死を、意味のない無駄死にだったとは国民感情において口にしにくい。とりわけ、遺族の面前では。そこで、立派な目的をもった戦争で、国のために立派な死を遂げたと、死が美化されることになる。戦死の美化は、必然的に戦争目的の美化をともなう。国の膨張政策や軍国主義までカムフラージュされる。そして、戦った敵国は、邪悪で卑劣な国でなくてはならない。このようにして、英霊への感謝と顕彰は、戦争に対する反省をないがしろにし、次の戦争の準備に利用されることになる。

しかし今の国民感情を考慮するとき、平和の大切さに言及せざるを得ない。論説は、微妙な言い回しで、「慰霊と顕彰の誠を捧げる営みには、もちろん戦争の惨禍に思ひを馳せ、平和を誓ふ祈りが含まれることは当然」という。どうして「もちろん」なのかは了解しがたい。「戦没者の慰霊と顕彰」は、軍事的行為として過去の戦争の肯定そのものではないか。好戦的なものといって差し支えない。

さらには、「平和を護ることを常に意識し、挑撥をくり返す周辺国に対して充分な備へをおこなひ、また友好国との連携に努めることも当たり前のことである。」という。ここに述べられていることは、英霊の名を借りての「中国・北朝鮮に対する軍事的防備の増強」と、「アメリカとの軍事同盟強化」のアピールである。英霊に名を借りた、好戦的防衛政策の鼓吹にほかならない。

そして、神社イデオロギーのホンネが出てくる。
「ただ闇雲に『平和』の言葉を唱へるだけでは、決して真の平和は護れない。歴史と現実を直視し、時に毅然たる態度を執らねばならないことはいふまでもない。」
ここに、「平和」と「真の平和」のダブルスタンダードが語られている。ここでの「真の平和」は、安倍晋三のいう「積極的平和主義」に酷似する。平時から軍備を調え、必要なときには毅然として軍事力を行使せよ、というのだ。それが、「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営み」の意味するところとして、言及されているのだ。「靖国派」の面目躍如ではないか。

もちろん、平和を実現するためには、「ただ闇雲に『平和』の言葉を唱へるだけ」ではたりない。「歴史と現実を直視する」ことを通じて、徹底した靖国派との論争が必要である。そして、あらゆる国との間で核廃絶や軍縮に「毅然たる態度」を執り、紛争のタネをなくするために国際協調の「的確なる対応」を考えなければならない。
(2017年8月26日)

植物園・太平洋戦争ゆかりの寺院・護憲アート~日曜日の散歩

日曜日。久しぶりに小石川植物園で寛ぐ。喧噪とは無縁の16万㎡。生き返るような解放感。本日初めて見たもの。タヌキノカミソリ、センコウハナビの花。莢にはいったハナキササゲ、ハナズオウ(いずれも豆科)の実。そして、蚊取り線香を焚きながら日本で最も古いとされるスズカケノキの幹を描く画家。

帰りの道すがら、「こんにゃくえんま」に立ち寄った。浄土宗の寺院で、正式な寺号は常光山源覚寺だというが、源覚寺では地元の人にもなじみがないのではなかろうか。

この寺に、鎌倉時代の作とされる像高100センチほどの木造閻魔大王坐像があって、文京区有形文化財に指定されている。これが、「こんにゃくえんま」となったのは、「宝暦のころに眼病を患った女性が、好物のこんにゃくを断って一心に眼病が治りますようにと祈願したところ、夢枕に現れた閻魔が自ら一眼を盲目にし眼病を回復させると言い、そのとおりとなった」という言い伝えからだという。以来、一眼を損なっているこの閻魔にこんにゃくを供えて眼病快癒の願をかける習わしが今日まで続いているという。確かに、いつ行っても閻魔堂にはコンニャクが山と積まれて供えられている。

この寺に戦争に関わるものが多い。まず、鐘楼に「汎太平洋の鐘」がある。この鐘は1660年(元禄年間)に当寺に奉納されたものだったが、1937年に当時日本領だった「サイパン島の南洋寺に転出」したものだという。時期は、日中戦争の時期で、太平洋戦争勃発の前。「転出」の理由は分からない。

1944年太平洋戦争で、サイパン島軍民は玉砕してこの鐘も行方不明になっていた。ところが、1965年に米国・テキサス州オデッサ市においてこの鐘が発見された。その後、1974年になって当寺院に寄贈された、という。

鐘楼の傍らに、小ぶりだが立派な白鳳仏風の菩薩立像ある。「南洋群島物故者慰霊像」と名付けられているもの。サイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する場として、サイパンに由緒ある当寺に建てられたと、碑文がある。

また、その側には「雲がハシル 学徒が征ク 空ニ 同期ノ華 参千六百」(昭和63年8月15日 二四世徳誉発願)という石碑がある。由緒は定かではないが、当寺の住職が、学徒出陣者の生き残りなのだろうか。「お百度石」も残されている。これも戦時中には、出征した兵士の家族が無事を願って、お百度を踏む者が多かったことだろう。探せば、身近に戦争との関わりの跡は、数多く残されているのだ。

こんにゃくえんまを出ると、すぐ側に古書店があった。大亜堂書店という。なんとなく店名が大東亜共栄圏や大アジア主義などを彷彿させる。これまでは、敬して素通りだった。その店が本日休業だったが、閉まっていたガラス戸に何枚もポスターを張り出していた。これが面白い。絵はお伝えできない、気の利いたキャッチコピーだけをご紹介しよう。

「たった70年だったな とは言わせない」1947年施行 日本国憲法
・安倍晋三の顔を大きく描いて、「一般の国民とは 私に逆らわない 人たちのことです 共謀罪」
・小池百合子の顔をあしらって、「あたしの いちぞんで決めたから 自分ファースト」
・バラの花の画面に「NO NUKES」
・そして、「9条タグカード 無料配布中!」「身につけてくれる方に。どうぞお声をおかけください」「一人一枚限り 対面手渡し」 次の機会にこれをもらおう。そして、身につけることにしよう。

犬も歩けば棒に当たる。戦争の傷痕にも、憲法擁護の声にもあたる。植物園では蚊に食われもしたが、出かけた甲斐(カイイ)もあったというもの。
(2017年8月20日)

8月15日 あらためての決意

8月15日。国民の感覚では、72年前の本日に15年続いた戦争が終わった。戦争に「負けた」ことの不安や悔しさもあったろうが、戦争が「終わった」ことへの安堵感が強かったのではないか。これ以上の戦争被害はひとまずなくなった。空襲の恐怖も、灯火管制もこの日で終わった。非常時に区切りがついて、ようやくにして日常が戻ってきた日。

法的には、8月14日がポツダム宣言受諾による降伏の日だ。そして、降伏文書の調印は9月2日。しかし、多くの国民が戦争の終結を意識したのは8月15日だった。

この日の正午、NHKが天皇の「終戦の詔書」を放送している。1941年12月8日早朝の「大本営発表」からこの終戦の日まで、終始NHKは太平洋戦争遂行の道具であり続けた。天皇や軍部に利用されたというだけではない。国民に対する煽動と誤導への積極的共犯となった。

ところで、この「玉音放送」の文章は、官製悪文の典型という以外にない。こんなものを聞かされて、「爾臣民」諸君の初見の耳に理解できたはずはない。持って回った、空虚な尊大さと仰々しさだけが印象に残るすこぶる付きの迷文であり駄文というべきだろう。ビジネス文書としてこんな文章を起案したら、上司にどやされる。

あのとき、天皇はまずこう言わねばならなかった。
「国民の皆様に、厳粛にお伝えいたします。昨日、日本政府はアメリカ・イギリス・中国・ソ連連名の無条件降伏勧告書(ポツダム宣言)に対する受諾を通告して、無条件降伏いたしました。戦争は日本の敗北で終わったのです。」

そして、こうも付け加えなければならなかったろう。
「戦争を始めたのは、天皇である私と、政府と軍部です。戦争で大儲けした財閥はともかく、一般国民の皆様が戦争責任の追及を受けるおそれはありません」
「天皇である私と政府は、何千万人もの外国人と、何百人もの日本国民の戦没者に対して、戦争をひき起こした者としての責任を痛感しております。誠実に戦後処理を行ったあとは、命をもってもその責任をとる所存であります」
「私の名による戦争を引き起こして、取り返しのつかない事態を招いたことを、幾重にもお詫びもうしあげます。そして、国民の皆様に日本の復興に力を尽くしていただくよう、よろしくお願いいたします。」

72年後の本日。戦争責任を引き受けることのないまま亡くなった当時の天皇の長男が、現天皇として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに次の一節がある。

「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。」

「深い反省」の言葉があることに注目せざるを得ない。同じ場での安倍晋三の式辞には、反省も責任もないのだから、十分に評価に値する。また、憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることにも、同様である。

なお、天皇の式辞のなかに宗教的な臭みのある用語のないことに留意すべきだろう。この点は、よく考えられていると思う。これに比して、安倍の式辞には、御霊(みたま)が3度繰り返されている。「御霊(みたま)の御前(みまえ)にあって、御霊(みたま)安かれと、心より、お祈り申し上げます。」という調子。靖国神社参拝と間違っているのではないか。非常に耳障りであるし、意識的な批判が必要だと思う。

さて、天皇の「深い反省」について考えてみなければならない。誰が、誰に、何を反省しているのか、である。

まず、反省の主体は誰なのだろうか。天皇個人なのだろうか。天皇が象徴する日本国民なのだろうか。あるいは、戦争当時の天皇(裕仁)を代理しているのだろうか。それとも、抽象的な日本国の漠然たる反省だということなのだろうか。

また、「深い反省」を語りかけている相手は、軍人軍属の戦没者だけなのだろうか。「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」という表現は、原爆や空襲被害者も含まれているのだろうか。また、日本人戦没者だけなのだろうか。被侵略国の犠牲者ははいっているのだろうか。戦没者以外の傷病者はどうなのだろうか。

さらに、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことなのだろう。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべき考えているのだろうか。

巨大な惨禍をもたらした戦争の反省のあり方が、一億総懺悔であってはならない。
まず、統治権の総覧者であり宗教的権威をもって戦争を唱導した天皇に最大の戦争責任があることは論を待たない。そして、天皇を御輿に担いで軍国主義国家を作って侵略戦争と植民地支配に狂奔した政治支配層の責任は明確であろう。これに加担したNHKや各紙の責任も大きい。そして、少なからぬ国民が、八紘一宇や大東亜建設、五族協和などのスローガンに浮かれて戦争に協力し、戦争加害国を作りあげたことの責任と反省も忘れてはならない。

国民それぞれが、それぞれことなる質と量との責任を負っていることを確認すべきなのだ。一般国民は、天皇や軍閥との関係では被害者であり、近隣諸国との関係では加害国の一員としての立場にある。

そして思う。今、私たちは、再びの戦前の過ちを繰り返してはならないことを。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。

かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者にも、権威あるとされる者にも、操られることを拒否しよう。平和を擁護するために。
8月15日、あらためての決意である。
(2017年8月15日・連続第1598回)

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