澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ソウル中央地裁慰安婦判決 ー 被害者と向き合う好機にせよ

(2021年1月8日)
「韓国裁判所が慰安婦被害者勝訴判決…『計画的、組織的…国際強行規範を違反』」こういうタイトルで、韓国メディア・中央日報(日本語版)が、以下のとおり伝えている。

旧日本軍慰安婦被害者が日本政府を相手に損害賠償訴訟を提起し、1審で勝訴した。日本側の慰謝料支払い拒否で2016年にこの事件が法廷に持ち込まれてから5年ぶりに出てきた裁判所の判断だ。

ソウル中央地裁は8日、故ペ・チュンヒさんら慰安婦被害者12人が日本政府を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、原告1人あたり1億ウォン(約948万円)の支払いを命じる原告勝訴の判決を出した。

裁判所は「この事件の行為は合法的と見なしがたく、計画的、組織的に行われた反人道的行為で、国際強行規範に違反した」とし「特別な制限がない限り『国家免除』は適用されない」と明らかにした。

また「各種資料と弁論の趣旨を総合すると、被告の不法行為が認められ、原告は想像しがたい深刻な精神的、肉体的苦痛に苦しんだとみられる」とし「被告から国際的な謝罪を受けられず、慰謝料は原告が請求した1億ウォン以上と見るのが妥当」とした。

さらに「この事件で被告は直接主張していないが、1965年の韓日請求権協定や2015年の(韓日慰安婦)合意をみると、この事件の損害賠償請求権が含まれているとは見なしがたい」とし「請求権の消滅はないとみる」と判断した。

この判決の影響は大きい。被告は日本企業ではなく、日本という国家である。日本は、国際慣習法上の「主権免除」を理由に一切訴訟にかかわらなかった。いまさら、日本がこの判決の送達を受領して、適法な控訴をするとは考え難い。とすれば、この地裁判決は公示送達(韓国では、裁判所が書類を一定期間ホームページに掲示することで送達完了とみなすという)手続後の控訴期間徒過によって確定する公算が高い。またまた、韓国内の日本の国有財産差押えの問題が生じてくる。

菅首相がさっそく反応した。政府は、1965年の日韓請求権協定で解決済みだとする立場で、「断じて受け入れられない。訴訟は却下されるべきだ」と記者団に語っている。加藤官房長官も、「極めて遺憾で、断じて受け入れることはできない」と述べ、日本政府として強く抗議したことを明らかにしている。

あ~あ、このようにしか言いようはないのだろうか。原告となった女性に対する、いたわりやつぐないの心根はまったく窺うことができない。せめて、「原告となられた方々の御苦労はお察ししますし、我が国がご迷惑をおかけしたことには忸怩たる思いはありますが、当方としては、こういう立場です…」くらいのことが言えないのだろうか。そうすれば、韓国国民の気持ちを逆撫ですることもあるまいに。

韓国外務省の報道官は、8日の判決を受けて「裁判所の判断を尊重し、慰安婦被害者たちの名誉と尊厳を回復するために努力を尽くしていく」と論評したという。両国政府の落差は大きい。

この訴訟の原告は12人。日本政府の「反人道的な犯罪行為で精神的な苦痛を受けた」として、日本国を被告とする慰謝料の賠償請求訴訟だが、5年に及ぶ訴訟の期間に、半数の6人が亡くなったという。

「1965年日韓請求権協定で解決済み」が私的な請求権については通らない理屈であることは、実は日本政府もよく分かっている。徴用工訴訟判決で明確になってもいるし、日本の最高裁の立場も私的な請求権までが全て解決済みとは言っていない。

この訴訟の論点は、もっぱら『主権免除』適用の有無にあった。日本政府の立場は、「主権国家は他国の裁判権に服さない。これが国際法上確立した『主権免除の原則』であって、訴えは当然に却下されるべきだ」というもので、まったく出廷していない。訴状の送達も受け付けないし、当初は調停として申し立てられたこの事件に応じようともしなかった。

しかし、ソウル中央地方裁判所は本日の判決で、原告側の主張を容れて、主権免除の原則について「計画的かつ組織的に行われた反人道的な犯罪行為」には適用外とし、今回の裁判には適用されないとする判断を示した。

また、原告の損害賠償請求権は、1965年「日韓請求権協定」や、2015年の「慰安婦問題をめぐる日韓合意」の適用対象に含まれず、消滅したとは言えないとも判示しているという。

来週の13日(水)には、元慰安婦ら20人が計約30億ウォンの賠償を求めている事件での判決が言い渡される。おそらくは、本日と同様に請求認容の判決となるだろう。

これに自民党内からは韓国に対し、激しい怒りの声が上がっているという。佐藤正久外交部会長は「国家間紛争に発展する可能性がある」とツイートしたという。これは穏やかではないし、危険で愚かな対応でもある。

戦後補償問題においては、加害国・加害企業・加害者が、被害者本人と向き合わなければ、いつまでも真の解決にはならない。日本国対戦時性暴力被害者が、直接に向き合う恰好の舞台が設定されているのだ。日本政府は、これを好機として被害者と直接に向き合い真の解決を試みるべきではないか。

香港に「平和」はあるだろうか。中国にはどうだろうか。

(2021年1月3日)
昨日の毎日新聞デジタルに、「『へいわって…?』 激動の香港で日本の絵本が読まれている理由」という記事がある。

https://mainichi.jp/articles/20210101/k00/00m/030/175000c

「中国政府による締めつけが続く香港で、日本の絵本『へいわって どんなこと?』が読まれ続けている。日中韓の3カ国で出版された後、2019年12月に新たに「香港版」が刊行され、現地の出版賞も受賞した。」という内容。

浜田桂子さんが執筆した、この絵本には「へいわって どんなこと?」の問いかけに、考え抜かれたこんな答が連ねられている。
「きっとね、へいわってこんなこと。
 せんそうをしない。
 ばくだんなんかおとさない。
 いえやまちをはかいしない。

 おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる
 おもいっきり あそべる
 あさまで ぐっすり ねむれる」

それだけでなく、
 「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。」

そしておしまいが、
「へいわって ぼくがうまれて よかったっていうこと
 きみがうまれて よかったっていうこと
 そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」
と結ばれているという。

浜田さんは「平和絵本は戦争の悲惨さを伝えるものが中心で、これが平和だよと伝えるような作品がないと感じていました。自分にとって平和とは何かを考えられるようなものを作りたいという思いが、ずっとありました」と語っている。

この絵本の制作は中国・韓国・日本の3カ国12人の作家によるプロジェクトによって生まれた。「悲惨な戦争ない状態の平和」にとどまらず、積極的に平和とその価値を語ろうという試み。その結論は、「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」と収斂する。なるほど、と頷かざるを得ない。

今、香港に、せんそうはない。ばくだんなんかおとされていない。いえやまちがはかいされているわけでもない。しかし、明らかに「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはない。「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」とは、ほど遠いものと言わざるを得ない。

だから今、「香港にはこの絵本が必要」とされているのだという。香港で絵本は増刷され、2020年末までの1年間で6000部発行された。2020年7月には、この絵本が公共放送局「香港電台(RTHK)」が主催する出版賞「香港書奨」(Hong Kong Bookprize)の9作品に選ばれた。30年以上続く伝統ある賞で、作品は「子どもの視点から、平和とは何かを伝えている。人間性の真善美を示している」と評されたと、毎日は伝えている。

この記事の示唆するとおり、香港は「平和」ではない。そのとおりだと思う。だとすれば、中国本土にも「平和」はない。香港以上に、「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはないからだ。言論が抑圧され、平和なデモ参加者が逮捕され有罪とされる社会は「平和」とは言えない。その地に、「ぼくがうまれてよかったって。きみがうまれてよかった」という安心が得られないからだ。

日本国憲法は、人権と民主主義と平和を3本の柱として成り立っており、それぞれの柱は互いに緊密に支えあっている。日本国憲法だけではない。いずれの国や社会においても、人権と民主主義を欠いた、「平和」はあり得ない。専制が人権を蹂躙するところ、たとえ隣国との交戦はなくとも「平和」ではない。

幹部自衛官養成機関の狂気のイジメ ー 「防大イジメ訴訟」に逆転判決

(2020年12月10日)
天皇の軍隊内での上官による兵隊イジメは、伝統であり文化でもあった。兵に対する指揮命令系統は、そのままイジメの構造と一体でもあった。これを容認し支えた日本人の精神構造は、連綿と今も生き続けている。そのことを強く印象づけるのが、防衛大学校の下級生イジメ事件である。

上級生のイジメに遭って退学を余儀なくされた元学生の起こした訴訟が、防大での下級生イジメの実態をあぶり出した。いうまでもなく、防衛大学校は、「大学」ではない。幹部自衛官養成のための訓練施設である。「採用試験」に合格した学生の身分は特別職国家公務員たる「自衛隊員」であって、学費は徴収されず、「学生手当」の名目で給与が支給される。まぎれもなく、ここは自衛隊の一部である。

その防大での上級生による下級生に対するイジメの実態は凄まじい。一審判決の認定によれば、たとえば、下級生を裸にして陰毛に消毒用アルコールを吹きかけライターで火をつける、ズボンと下着を脱がせてその陰部を掃除機で吸引する、など狂気の沙汰である。こういう連中が、自衛隊の幹部になって、武器を扱うのだ。

訴訟によって明るみに出た陰湿で執拗で凄惨なイジメの手口は、旧軍から受け継いだ防大の伝統となっているいってよいだろう。ところが、国を被告としたこの損害賠償請求訴訟の一審、福岡地裁判決は原告が敗訴した。昨年(2019年)10月のこと。監督すべき立場にある者にとっては、上級生のやったことは、「予見不可能」であったと認めたからである。「予見不可能」であれば、その行為を止めるべき作為義務も生じては来ないのだ。信じがたい結論である。

昨日(12月9日)、その控訴審である福岡高裁は逆転判決を言い渡した。「防大いじめ、元学生が逆転勝訴 国に賠償命令、福岡高裁」(西日本新聞)などと大きく報道されている。

増田稔裁判長は、国の責任を認めなかった一審福岡地裁判決を変更し、「元学生に対する暴力や、精神的苦痛を与える行為を予見することは可能だった」として国の責任を認め、約268万円の支払いを命じた。
増田裁判長は、規律順守を目的に学生が他の学生を指導する「学生間指導」について、元学生の在学期間に「上級生による下級生への暴力や、不当な精神的苦痛を与える行為がしばしば行われていた」と言及。防衛大は「実態把握が必要との認識を欠き、調査などの措置を講じておらず、内部で防止策の検討も不十分だった」と述べた。
その上で、国や防衛大の教官は元学生への暴行やいじめについて、発生前から加害学生の行動などから予見可能だったとして「教官が適切な指導をしなかったため防げなかった」と指摘。発生後に教官が上司に報告しなかった点も考慮し、国と教官に安全配慮義務違反があったとして、元学生の体調不良に伴う休学や退校との因果関係を認めた。

なお、元学生が上級生ら8人に慰謝料などを求めた訴訟は昨年2月、福岡地裁が7人に計95万円の支払いを命じ確定しているという。

高裁判決の要旨は、国が学生の負うべき安全配慮義務の内容として、「具体的な危険が発生する場合には、これを防止する具体的な措置を講ずべき義務も含まれる」と判断。「学生間指導の実態を具体的に把握する必要があるのに、その意識を欠き、実態の把握のために調査などの措置を講じていなかった」ことを安全配慮義務違反と認めた。

この防衛大学校のイジメの伝統について、吉田満「戦艦大和ノ最期」の一節を思い出す。戦記文学の傑作として持ち上げる人が多い。大和が、天一号作戦で出撃する前夜にも、兵に「精神棒」を振り回す士官が描かれている。

江口少尉、軍紀オョビ艦内作業ヲ主掌スル甲板士官ナレバ、最後ノ無礼講ヲ控エ、ナオ精神捧ヲ揮フテ兵ノ入室態度ヲ叱責シ居リ 足ノ動キ、敬礼、言辞、順序、スベテニ難点ヲ指摘シテ際限ナシ サレバー次室ヘノ入室ハ、カネテ兵ノ最モ忌避スルトコロナリ
老兵一名、怒声二叩カレ、魯鈍ナル動作ヲ繰返ス 眸乾キテ殆ンド勤カズ 彼、一日後ノ己レガ運命ヲ知リタレバ、心中空虚ナルカ、挙動余リニ節度ナシ 精神棒唸ッテ臀ヲ打ツ 鈍キ打撲音 横ザマニ倒レ、青黒キ頬、床ヲ撫デ廻ル 年齢恐ラクハ彼が息子ニモ近キ江口少尉 ソノ気負イタル面貌二溢ルルモノ、覇気カ、ムシロ稚気カ
 「イイ加減ニヤメロ、江口少尉」叫ブハ友田中尉(学徒出身) 江口少尉、満面二朱ヲ注ギ、棒ヲ提ゲテソノ前二立チハダカル

また、兵学校71期出身の俊秀とされる臼淵大尉の、作者への鉄拳制裁に伴う次のような叱責も紹介されている。欠礼した兵を殴らなかった筆者を責めてこういうのだ。

「不正ヲ見テモ(兵を)殴レンヨウナ、ソンナ士官ガアルカ」「戦場デハ、ドンナニ立派ナ、物ノ分ッタ士官デアッテモ役二立タン 強クナクチャイカンノダ」「ダカラヤッテミヨウジャナイカ 砲弾ノ中デ、俺ノ兵隊が強イカ、貴様ノ兵隊が強イカ アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ、ト貴様ノ兵隊ガナメテカカランカドウカ 軍人ノ真価ハ戦場デシカ分ランノダ イイカ」

 上記の江口は軍隊内の部下への理不尽な暴力を、臼淵は合理的な制裁を象徴しているごとくである。しかし、その差は紙一重というべきであろう。要は、「アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ」と舐められないための部下への暴力なのだ。殴りつけておけばこそ、「弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レ」と命令できるのだという論理である。その伝統と文化は、確実に防大に生きている。いや、それだけでなく、今の教育の中に、スポーツの中に、運動部の中に、あるいは組織一般の中に残ってはいないだろうか。

一言、付け加えておきたい。私は、この防衛大学校訴訟に表れた幹部自衛官養成の実態に接して、幹部自衛官という人々を見る目が変わった。自衛隊という組織を恐るべきものと感じざるを得なくなった。この判決を読んでなお、子息を防衛大学校にやろうとする親がいるとはとうてい思えない。

この訴訟提起の意義は、幹部自衛官教育の実態と、そうして教育された幹部自衛隊員の人格の実像を世に知らしめたことであろう。原告となった元学生に感謝したい。

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2020年12月9日

福岡高裁判決に対する弁護団声明

防衛大いじめ人権裁判弁護団

 本件は、一審提訴が2016(平成28)年3月18日で、国に対する一審判決は、2019(令和1)年10月3日でした。本日の高裁判決まで提訴以来、約4年9ヶ月が経過しました。
一審判決は、どの学生が、いつどこでどのような加害行為を行うかは予見不可能であるとして、防衛大の安全配慮義務違反を認めませんでした。これは学生が学生を指導する学生間指導において現実に多発する暴力を追認すると言わざるを得ない判断でした。
今回の高裁の判決は、学生間指導により、具体的な危険が発生する可能性がある場合には、この危険の発生を防止する具体的な措置を講ずべき義務も含まれる、と安全配慮義務の内容について、より踏み込んだ判断をしています。
その上で、防衛大は、学生間指導の実態を具体的に把握する必要があるのに、その意識を欠き、実態の把握のために調査等の措置を講じていなかったとしています。
本件で問題となる、学生による加害行為のうちA学生が、粗相ポイントの罰と称して、一審原告の体毛に火を付ける行為について、見回りにきた教官が、確認を怠ったこと、同じA学生が一審原告に反省文を強要していることを、母親が防衛大に情報提供したにもかかわらず、注意だけですませ、そのような事案についての対応の検討を防衛大内部で行わなかったこと、指導記録に記載しなかったこと、ボクシング部の主将B学生による暴行行為についても注意するだけで、情報共有しなかったことを安全配慮義務違反としました。さらに、一審原告2学年時に福岡帰省の事務手続き不備を指摘され、中隊学生長のC学生から暴行行為を受けた際、指導を指示した教官が、C学生が暴力を振るう可能性があると認識できたとしてやはり安全配慮義務を怠ったとしています。
しかし、やはり事務手続き不備とされる件についてのD・E学生の暴行、3年生のF学生の恫喝的指導、G・H学生による一審原告に対する葬式ごっこと退学を迫る大量のラインスタンプの送付行為、相談室相談員が相談に訪れた一審原告に対して何の対応もしなかったことについては、安全配慮義務の違反を認めませんでした。
損害額については、請求額の約2300万円を大幅に減額しています。一審原告が請求していた幹部自衛官の収入と全国の平均収入との差額約776万円の他、慰謝料についても50万円しか認めませんでした。しかし他方で、医療費、休学により学生手当を受けられなかったことのほか、2学年で退学せざるを得なかったことによる、3学年と4学年の学生手当を失ったことによる損害賠償を認めたことは評価に値します。
不十分な点はありますが、学生間指導に名を借りた3人の学生の加害行為について防衛大の安全配慮義務違反を認めたことは画期的で、学生間指導に司法のメスが入ったことを意味します。国と防衛大に対しては、この判決について上告せず受けり入れ、暴力が蔓延する防衛大の現状を改善することを強く求める次第です。

以 上

12月8日、あらためて戦争を繰り返させない教訓を噛みしめる。

(2020年12月8日)
本日は定例の「本郷・湯島9条の会」の街宣活動の日。これが、文京母親会議の「12月8日行動」と重なった。本郷三丁目交差点では、いつにないにぎやかさ。マスク姿の22名が、マイクを持ち、プラスターを掲げ、「赤紙」を配った。平和を願う市民の運動おとろえず、である。

私にまでマイクはわたってこなかった。だから、下記は漠然と考えていた発言予定の内容。

12月8日です。1941年の本日未明、帝国海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島のパールハーバーを攻撃しました。太平洋戦争の開戦です。現地時間では、12月7日・日曜日の早朝を狙った奇襲は、宣戦布告なく、交渉打ち切りの最後通告もない、日本のだまし討ちでした。

当時、日本は中国との間に10年も戦争を続けていました。中国との戦争の泥沼にはまった日本が、さらに強大な国を相手に始めた展望のない戦争。しかし、79年前のこの日、NHKが報じる大本営発表の大戦果に、日本中が沸き返ったといいます。

いくつか今日述べておくべき感想があります。国民は開戦のその日まで、軍の動きも内閣の動きも、まったく知りませんでした。知らされてもいなければ、知る術もなかったのです。それでも知ろうとすればスパイとして処罰される世の中。そんな時代に逆戻りさせてはなりません。政府のやることの透明性を確保し、説明責任を全うさせなければなりません。国民の表現の自由、政府に反対する行動の自由を大切にしなければならないと、あらためて思います。いまの政権が真っ当なものではないだけに、国民の不断の努力が必要だと思います。

私たちの父母・祖父母の時代の日本人は、大本営発表の戦果に歓呼の声を上げました。勝てそうな戦争なら支持をしたということです。そして、4年後の夏に、国土を焼き払われ、多くの死者を出して敗戦の憂き目を見ることになります。戦争は、決して負けたから悲惨なのではなく、勝者にも甚大な被害をもたらします。全ての人々にこの上ない悲劇、不幸をもたらします。二度と戦争の惨禍は繰り返させない。その決意を、今日こそ再確認すべきではありませんか。

戦争をたくらむ指導者に欺されてはなりません。鬼畜米英や暴支膺懲などという、スローガンに踊らされてはなりません。他民族に対する敵愾心や優越意識は、極めて危険です。民族差別を許してはならないのです。安倍政権の発足当たりから、差別的な言動が繁くなっています。ネットの空間でも、リアルの世界でも。この動きを批判して、差別を許さない社会の空気を作っていく努力を重ねようではありませんか。

もう一つ、申し上げたい。一国を戦争に導こうとする者は、決して戦争狂の恐ろしい形相をしているわけでも、好戦的で威嚇的な言動をしているわけでもないということです。むしろ、平和を望むポーズをとりつつ、「平和を望む我が国はこんなに隠忍自重してきたのに、好戦的な敵国の振る舞い堪えがたく、自衛のために開戦のやむなきに至った」というのです。これに、欺されてはなりません。

天皇が作った和歌を御製といいます。明治天皇(睦仁)の御製として最も有名なのが、
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」
というものでしょう。

事情を知らずにこの歌だけを読むと、明治天皇(睦仁)は、まるで平和主義者のごとくです。「世界中の人々がみんな兄弟のように仲良くしなければならないと私は思っているのだが、どうしてこんなにも平和を掻き乱す時代の波風がたちさわぐのだろう」というのです。「波風のたちさわぐ」は、あたかも自分の意思とは無関係な平和にたいする障碍のようではありませんか。つまり、「私は平和を願っているのだが、どうしてその平和は実現しないのだろう。嘆かわしいことだ」と言っているのです。

しかしこの歌、実は、日露戦争の開戦直前に、ロシアに対する先制攻撃を決定した当時の作とされています。「たちさわぐ波風」は、これから自分が作り出そうとしている対露開戦を意味するものとして読むと景色はまったく変わってきます。

「世界中の人々がみんな兄弟のように仲良くしなければならないとは私も思っているのだが、どうして戦争を決意せざるをえないことになってしまうのだろう」と言うことになります。「本当は平和を望んでいるのだけど、マ、しょうがない。戦争の仕掛けもやむを得ないね」ともとれます。

明治維新以後、日本は侵略戦争を続けてきました。しかし、表向きは「平和を望む」と言い続けたのです。「平和を望みなが、戦争もやむを得ない」として、積極的に侵略戦争を重ねてきました。この歌は、その文脈の中にあります。

そして、この歌は太平洋戦争開戦を決定した「1941年9月6日御前会議」の席で昭和天皇(裕仁)が読み上げたことで知られています。読みようによっては、「自分も祖父同様、平和を願いつつも不本意な開戦を決意せざるを得ない」と責任逃れのカムフラージュをしたようでもあり、「今や平和は空論に過ぎず、ここに開戦を決意する」と意思表明したようにも読めます。

いずれにせよ、「よもの海みなはらからと思ふ世に」(世界の平和を望む)は、枕詞のごとくに必ず謳われるのです。自分は平和主義者だ。しかし、敵は、平和を望まない。だからやむなく戦争を始める。戦争するとなれば、こちらから先制攻撃することに躊躇してはおられない。

睦仁も裕仁も、こうして大戦争を始めました。戦争指導者とは、「平和を望むポーズで、戦争を決意する」ものと知るべきだとおもうのです。それが、今につながる教訓ではないでしょうか。

初めて見た、亡父の軍歴。

(2020年11月4日)

明治政府はすべての国民を把握し管理するために「戸籍」を作った。国民の福祉のためではなく国民支配の道具として。その眼目は、「臣民の三大義務」とされた徴税と徴兵と義務教育実施を徹底するためにである。そして、徴兵された兵士については、各個人ごとに「兵籍簿」というものを作った。兵の移動や昇進を把握し、軍の編成のために不可欠なものとして。

「兵籍簿」には、旧陸海軍に軍人・軍属として徴兵された者についての、徴兵から召集解除(あるいは戦死)までの軍隊における記録が記載されている。現在、旧陸軍については本籍地の都道府県、海軍なら厚生労働省に問い合わせれば、その写の請求ができる。三親等以内の遺族が請求権者と定められている。

私の父は澤藤盛祐という。1914年1月1日に岩手縣和賀郡黒澤尻町に生まれ、この時代の人の避けがたい成り行きとして徴兵された。弘前聯隊に入営し、関東軍の兵士となって極寒のソ満国境、愛琿(アイグン)に駐屯している。幸い、一度の実戦の経験もなく帰還しているが、その遺族として「陸軍兵籍簿」というものの写を請求して、この度はじめて亡き父の軍歴を見た。

予想に反して、実に詳細な記述。なるほど、戦争をするということは、事務的にもたいへんなことなのだと実感する。手書きの文字が判読できないところも多少あるが、次のような軍歴が父の人生の一部である。天皇からどんなタバコをもらったのだろうか。いったいどんな味がしただろうか。もはや聞く術もないが、確かに、この国はかつて戦争をしたのだ。

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兵種 歩兵

本籍 岩手縣和賀郡黒澤尻町大字…

氏名 澤藤盛祐 大正参年壹月壹日生

出身別 幹部候補生(抹消)
    第二補充兵(抹消)
予備役  (抹消)

服役区分 現役  昭和十四年八月一日
     予備役 昭和十五年六月三十日
     第二補充兵役 昭和九年十二月一日

位階 勲等功級  (記載なし)

特業及特有ノ技能  小

官等級  昭和一四・五・三  歩兵二等兵
     昭和一四・八・一  歩兵一等兵
昭和一四・一〇・一 歩兵上等兵(乙幹)

昭和一五・二・一  歩兵伍長(乙幹)
     昭和一五・五・一  歩兵軍曹(乙幹)
昭和一五・六・三〇 歩兵軍曹
 同 一五・九・一五 軍曹(勅令第五百八十號ニ依リ)

賞典  昭和一七年一月二十七日

    天皇・皇后両陛下ヨリ特別ノ思召ヲ以テ御莨ヲ賜フ

履歴  高等小学校卒業(抹消)
    昭和五年三月九日黒澤尻中学校卒業。
    昭和五年三月九日同校ニ於テ配属将校ノ行フ教練検定ニ合格。
    昭和九年  一二月一日第二補充兵××(2字判読不能)ス。
    昭和十四年 五月三日臨時招集ノタメ
          歩兵第三十一聯隊留守隊ニ應召。
          同日第七中隊編入。
          八月一日幹部候補生ニ採用ス。
          八月八日第四中隊ニ編入。
          九月二十日歩兵乙種幹部候補生ヲ命ズ。
          十月一日歩兵上等兵ノ階級ニ進ム。
          十二月一日第七中隊ニ編入。
   昭和十五年 二月一日歩兵伍長ノ階級ニ進メラル。
         五月一日軍曹ノ階級ニ進メラル。
         六月三十日昭和一五年陸支密第五九五號
         ニ依リ満期除隊。
         同月同日任歩兵軍曹 
         六月一日臨時招集ノタメ歩兵第三一聯隊
         留守隊ニ応召入隊。
         同日第七中隊附。
         軍令乙第二十二號ニ依リ七月十日
         軍備改変編成下令。
         八月七日歩兵第五十二聯隊第九中隊附。
         同月二十七日編成完結

   昭和十六年 七月十七日臨時編成(甲)下令。
         同年七月二十九日歩兵第五十二聯隊第九中隊附。
         八月六日編成(甲)完結。
         八月十三日弘前出発。
         八月十六日大阪港出帆。
         八月十九日釜山港上陸。
         八月二十三日朝鮮国境通過。
         同日関東軍司令官の隷下ニ入ル。
         八月二十五日黒河省愛琿着。
         同日ヨリ同地警備。
         同年九月三十日給三等給。
         十二月八日ヨリ引続き同地国境警備。

   昭和十七年 三月五日軍令陸甲第十八号ニ依リ編成改正下令。
         六月七日編成(甲)完結。
         七月一日陸達第四十二号ニヨリ給二等給。
         十一月三日内地帰還ノタメ愛琿出発。
         同日愛琿縣境を通過。
         同日国境警備勤務を離ル。
         十一月六日鮮満国境通過。
         同月九日釜山港出帆。
         同日下関上陸同月十二日弘前着。
         同日第五十二聯隊補充隊第九中隊ニ臨時配属。
         昭和十五年陸支機密第二五四号及ビ
         八月二十一日弘動第一二四五号ニ依リ
         十一月十八日召集解除。

   昭和十九年 昭和十九年六月二十九日動員下令。
         七月十一日充員招集歩兵第百二十一聯隊ニ応召。
         同日歩兵第五十二聯隊連隊本部附。
         七月十五日動員完結。同日第一中隊附。
         八月十五日第十三国境守備隊補充要員引率官
         トシテ弘前出発。
         同月十八日下関港出帆。同日釜山上陸。
         同月二十日鮮満国境(安東)通過。
         同月二十三日愛琿縣境通過。
         同日愛琿県詰別拉着。同月二十五日詰別拉出発。
         同月二十六日愛琿縣境通過。
         同月二十八日鮮満国境(安東)通過。
         同月三十日釜山港出帆。同日下関港上陸。
         九月三日弘前着。
         十二月一日任陸軍曹長。
         十二月八日連隊本部附。

   昭和二十年 軍令陸甲第三十四號ニ據リ
         昭和二十年二月二十八日臨時動員(復員)下令。
         同年四月三日歩兵第四百六十聯隊に轉属。
         同月同日連隊本部附。五月十日動員完結。
         同月十三日移駐ノタメ弘前出發。
         同月十四日青森縣上北郡藤坂村着。
         六月一日給三等給。
         昭和二十年八月十八日
         軍令陸甲第一一六號ニ依リ九月十二日召集解除。

首相ではなくなった安倍晋三の靖国神社参拝への批判の視点。

(2020年9月20日)
昨日(9月19日)の午前、安倍晋三が靖国神社を参拝した。「内閣総理大臣を退任したことをご英霊にご報告」のための参拝であったという。

彼は、首相在任中に1度だけ靖国を参拝している。2013年12月26日、虚を衝くごときの突然の参拝だったが、これに対する内外の囂囂たる非難を浴びて、その後自ら参拝することはなかった。しかし、「もう首相でも閣僚でもなくなった」から、「参拝に批判の声はそう大きくはあるまい」、「7年前は厳しく批判したアメリカも、今はオバマではなくトランプの時代だ。参拝しても差し支えなかろう」という思いなのだろう。

右翼が褒めてくれたから だから12月26日はヤスクニ記念日
http://article9.jp/wordpress/?p=4110

それにしても、首相在任時の参拝も、昨日の参拝も、自分の支持基盤である、保守派ないし右翼陣営に対するポーズであるように見える。自分の政治的な影響力を保っておくためには靖国参拝が必要だ、という判断なのだ。まさしく、アベお得意の、印象操作であり、やってる感の演出である。この男、まだまだ生臭い。

当然のことながら、党内の右翼・保守派は首相退任から3日での参拝を歓迎している。戦後75年を迎えた今年8月には、自民党の右派グループ「保守団結の会」(代表世話人・高鳥修一)などから、当時の安倍首相自身による参拝を求める声が上がっていたという。時機は遅れて退任後とはなったが、今回のアベの参拝はこれに応えた形となった。

アベに近い右翼の衛藤晟一は、記者団に「非常に重たく、素晴らしい判断をされた」と褒め、右翼とは言いがたい岸田文雄までが、「(参拝は)心の問題であり、外交問題化する話ではない」と訳の分からぬことを述べている。

岸田の発言は下記のとおりで、恐るべき歴史感覚、国際感覚を露呈している。これが、外務大臣経験者の言なのだ。そして、自民党議員の平均的な靖国観というところでもあろうか。

「国のために尊い命を捧げられた方々に尊崇の念を示すのは、政治家にとって誠に大事なことだ。尊崇の念をどういった形で示すかというのは、まさに心の問題だから、それぞれが自分の立場、考え方に基づいて様々な形で示している。これは心の問題だから、少なくとも外交問題化するべき話ではないと思っている。政府においても外務省においても、国際社会に対して心の問題であるということ、国際問題化させるものではないということを丁寧にしっかりと説明をする努力は大事なのではないか。」

さて、中国が、どのように今回の安倍参拝を批判しているか、実は報道が不足してよく分からない。多くのメディアが、下記の共同配信記事を引用しているが、まったく迫力に欠ける。

 中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報(電子版)は19日、安倍晋三前首相の靖国神社参拝を速報した。中国外務省が昨年、日本の閣僚の参拝について「侵略の歴史に対する誤った態度だ」と非難したことにも言及した。(共同)

 また、産経は、環球時報(電子版)掲載の「過去長年にわたって参拝していなかったことへの一種の償いだ」とする『専門家の論評』を紹介している。

 外交学院の周永生教授は同紙に「安倍氏は2013年の靖国参拝以降、中国と韓国から強烈な批判を受けて参拝しなくなったために日本の右翼を失望させた」と指摘。現在は日本政府を代表する立場ではなくなったため、首相辞任後すぐに参拝したと分析した。

 こんな見解は、「専門家の分析」というに値しない。このようなものしか紹介されていないのは、今、中国自身が香港や台湾、ウィグル、内モンゴル問題で濫発している「内政干渉」と言われたくないのだろうか。切れ味に欠けること甚だしい。

これに比して、韓国は鋭い。【ソウル聯合ニュース】配信記事では、「韓国外交部は19日に報道官論評を発表し、日本の安倍晋三前首相が太平洋戦争のA級戦犯が合祀(ごうし)されている東京の靖国神社を参拝したことについて遺憾の意を表明した。」としている。その論評とは、次のように紹介されている。

 「安倍前首相が退任直後に、日本の植民地侵奪と侵略戦争を美化する象徴的な施設である靖国神社を参拝したことに対し深い憂慮と遺憾の意を表する」とし、「日本の指導者級の人たちが歴史を正しく直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で見せることで、周辺国と国際社会が日本を信頼することができる」と指摘した。

 簡潔ではあるが、要を得た的確な批判になっている。「政教分離」や「公式参拝」という面倒な言葉は使わない。あくまでも、《植民地侵奪と侵略戦争の被害国》の立場から、日本人の歴史観・戦争観を問うものとなっている。

靖国神社を、「日本の植民地侵奪と侵略戦争を美化する象徴的な施設」という。みごとなまでに、靖国問題の本質を衝いた定義である。「日本の指導者級の人たち」による靖国参拝は、「歴史を正しく直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省」に逆行する行為なのだ。

言うまでもなく靖国神社とは、天皇軍の将兵と軍属の戦没者をその功績ゆえに「英霊」と讃えて、祭神として合祀する宗教的軍事施設である。全戦没者を神として祀ることは、聖戦としての戦争を無条件に肯定することにほかならない。「英霊」に対して、「あなたが命をささげた戦争は、実は侵略戦争だった。」「植民地侵奪と不法な支配、国際法に違反した不正義の戦争だった」とは言いにくい。ましてや、「あなたやあなたの戦友たちは、被侵略地の人々に、人倫に悖る残虐な犯罪行為を重ねた」とは批判しにくい。むしろ、そう言わせぬための、靖国神社という装置であり、祭神を祀る儀式であり、要人の靖国参拝なのである。

靖国に参拝することは、戦争に対する無批判無反省をあからさまに表明することである。「歴史を正しく直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省の姿勢に立てば、靖国への参拝などできるはずはない」。韓国外交部の論評は、「日本の指導者級の人たち」に、そう語りかけている。

侵略戦争の加害行為を担わされた兵士たちも、実は誤った国策の犠牲者である。国を代表する資格のある者は、全ての戦没者に謝罪しなければならないが、その場所は決して靖国神社であってはならない。

「九一八事変」の日に、日本の罪を思う。

(2020年9月18日)
9月18日である。中国現代史に忘れることのできない日。そして、日本の歴史を学ぶ者にとっても忘れてはならない日。満州事変の端緒となった、柳条湖事件勃発の日である。

柳条湖事件とは、関東軍自作自演の「満鉄爆破」である。1931年の9月18日午後10時20分、関東軍南満州鉄道警備隊は、奉天(現審陽)近郊の柳条湖で自ら鉄道線路を爆破し、それを中国軍によるものとして、北大営を襲撃した。皇軍得意の謀略であり、不意打ちでもある。

満州での兵力行使の口実をつくるため、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだもので、関東軍に加えて林銑十郎率いる朝鮮軍の越境進撃もあり、たちまち全満州に軍事行動が拡大した。日本政府は当初不拡大方針を決めたが、のちに関東軍による既成事実を追認した。「満州国」の建国は、翌1932年3月のことである。

こうして、泥沼の日中間の戦争は、89年前の本日1931年9月18日にはじまり、14年続いて1945年8月15日に日本の敗戦で終わった。その間の戦場はもっぱら中国大陸であった。日本軍が中国を戦場にして戦ったのだ。これを侵略戦争と言わずして、いったい何と言うべきか。

この事件の中国側の呼称は、「九一八事変」である。「勿忘『九一八』」「不忘国耻」(「9月18日を忘れるな」「国の恥を忘れるな」)と、スローガンが叫ばれる。「国恥」とは、国力が十分でないために、隣国からの侵略を受けたことを指すのであろうが、野蛮な軍事侵略こそがより大きな民族の恥であろう。日本こそが、9月18日を恥ずべき日と記憶しなければならない。

ネットに、こんな中国語の書き込みがあった。

「九一八」,是國恥日,也是中華民族覺醒日。面對殘暴的侵略者,英勇頑強的中國人民從來不曾低下高昂的頭!

(「9・18」は、国恥の日であるが、中華民族目覚めの日でもある。勇敢な中国人民は、暴虐な侵略者を見据え、けっして誇り高き頭を下げることはない。)

中国は、9月21日に事件を国際連盟に提訴している。国際連盟はこれを正式受理し、英国のリットンを団長とする調査団が派遣されて『リットン報告書』を作成した。これは、日本側にも配慮したものであったが、日本はこれを受け容れがたいものとした。

1933年3月28日、国際連盟総会は同報告書を基本に、日本軍に占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告した。勧告決議が42対1(日本)で可決されると、日本は国際連盟を脱退し、以後国際的孤立化を深めることになる。こうして、国際世論に耳を貸すことなく、日本は本格的な「満州国」の植民地支配を開始した。

今、事件現場には「九一八歴史博物館」が建造されている。その展示は、日本人こそが心して見学しなければならない。そして、1月18日(対華21か条要求)、5月4日(五四運動)、7月7日(盧溝橋事件)、9月18日(柳条湖事件)、12月13日(南京事件)などの日は、日本人こそが記憶しなければならない。

ところで、89年前と今と、日本と中国の力関係は様変わりである。中国は、強大な国力を誇る国家になった。しかし、国内に大きな矛盾を抱え、国際的に尊敬される地位を獲得し得ていない。むしろ、力の支配が及ばない相手からは、警戒され恐れられ、あるいは野蛮と軽蔑され、国際的な孤立を深めつつある。

かつての日本は、国際世論に耳を傾けることなく、孤立のまま暴走して破綻に至った。中国には、その轍を踏まないよう望むばかり。国際的な批判の声に中国の対応は、頑なに「内政干渉は許さない」と繰り返すばかり。然るべき相互の批判はあって当然。真に対等で友好的な日中の国交と、そして民間の交流を望みたい。

皇軍の蛮行を擁護する高校生の意見に衝撃

(2020年9月4日)

第2回「平和を願う文京戦争展・漫画展」コロナ禍に負けず成功!
皆様の財政的ご支援に感謝申し上げます

というご通知をいただいた。
この企画については、下記のURLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=15387

 コロナの感染者が増加している中、開催された「第2回平和を願う戦争展・漫画展」は、8月10日~12日文京シビックセンターアートサロンで行われ、約500人の方々に見に来ていただきました。
 アンケートも100人の方から回答していただき「初めて加害の実態を知った」「これからも続けてほしい」「もっと若い人に働きかけてほしい」等の意見が、今年もまた寄せられています。
 戦争を知らない若い世代に見てほしいと思って、文京区教育委員会に“後援”の申請を出し、努力をしましたが今年もまた「不承認」となりました。
 日本の侵略戦争の加害の実態を克明に告発する、村瀬氏の写真は戦争を知らない若い世代の多くの人に見てもらいたいと思っています。そのためにも来年は教育委員会の“後援”を取れるよう頑張りたいと思います。
 財政的にも皆様のご協力で黒字になりました。残金は来年の展示に役立てるためプールしておくことを実行委員会で決めさせていただきました。
 ご協力本当にありがとうございました。今後とも引き続くご協力よろしく
お願いします。

     2020年9月

「平和を願う文京戦争展」実行委員会
支部長  小 竹 紘 子

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コロナ禍の中で、慎重に感染防止に配慮した展示企画となった。一時は入場制限もせざるを得ない運営だったが、3日間で入場者数は、ほぼ500人になったという。そして、今年もまた、文京区教育委員会に「後援申請」をしたものの、「不承認」となったのだ。「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に追悼文送付を拒否している小池百合子並みの文京区教育委員会である。なお、同様の企画で他区では承認になっているという。

 同封された中学生・高校生によるアンケートがとても興味深い。いくつか、ご紹介しておきたい。

中学生
 こんなにも恐ろしい現実を写した写真があると知って驚きました。
 この戦争展に来た人だけでなく、もっと沢山の人に、この現実を見て知ってほしいと思いました。ありがとうございました。

中学生
 原爆詩集序にかいてある文字が、ところどころ太く書いてあって平和への願いが強く感じられました。写真がとても痛々しかったけれど、これも現実にあったことなんだと思いました。

中学生
 漢字で読めない部分が少しあったが、写真で大体想像ができた。
 当時はとれほど人の命が軽く見られていたのかを知り、日本人として恥ずかしかった。罪のない人々を大勢殺してそれでも平然としていた人達がいたと言うことを知り、戦争は良くないと改めて学んだ。

中学生
 中国の強制連行のDVDを見ましたが、とても激しい暴力を受けていたこと、とてもかこくな労働をさせられていたことを知り、とてもつらくなりました。

中学生
 今では考えられない、考えたら恐怖でしかないことが現実に起こっていたと思うと本当に怖い。二度とこんなことを起こしてはならないと強く思った。
 また後世にどう伝えるかをもっと考えていくことが大切だと思う。

中学生
 私の身内には戦争を経験した人がいますが、誰も戦争に話を避けています。
 それほど辛く、苦しい出来事であると毎回実感します。今、学校で戦争について学んでいますが、心が苦しくなることばかりです。私は、戦争を知ることがとても重要だと思っています。これからも引き続き受継いでいきたいです。

中学生
 残酷な写真も多くありましたが、中でもお正月の少しだけ楽しそうな雰囲気の写真もあって、戦場でもお正月を楽しんでいる様子がよくわかりました。
 このような写真は見て、とても印象に残る物ばかりで、とても貴重なものが多かったので、ぜひこれからも、展示会などで広めていってほしいです。

高校生
 私はふだん、東京高校生平和ゼミナールというところで活動していて、平和ゼミで学ぶことは、日本が被害者であるということです。しかし、日本は被害者であると共に、加害者であることを知るということが、とても少なく、原爆は危険であって核兵器はいらない! それだけでなく、日本がどんなことをして、どんな人がどういうふうに、傷ついてきたのか知る機会を増やすべきだと思う。
 もちろん、核兵器のない世界をつくるために沢山の人が、様々な事を学ぶべきだとも思う。

高校生
 これを見て日本がひどい国だな、という結論で終わってしまうのではないかと不安だ。虐殺等々の行為というのは日本だけでなく、どの国も行っていることだ、実際在日米軍も、交戦国でない日本人に対しひんぱんに非道な行いを行ってきたわけであるし、戦争中であればなおさら多い、どの国でもどのような状態でも、軍隊では起こり得ると言うことをよく理解してほしいと思う。
 そして軍の上層部は、後の世代の人間が、この非道な行いによって迷惑をこうむることになることをよく理解した上で、現場を指揮してほしいと思う。
 ただ日本が悪いという感想で終わりそうな展示を改めてほしい。

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 問題は、最後の「高校生」のメッセージである。企画に対する意見であるとともに、戦争というものに対する見解でもある。そして、過剰なまでに「日本」にこだわるコメント。人々の意見が多様であることは当然だとは思うのだが、私には、どうしても理解しかねる。

「これを見て日本がひどい国だな、という結論で終わってしまうのではないかと不安だ。」「ただ日本が悪いという感想で終わりそうな展示を改めてほしい。」この2行が、意見の骨格をなしている。素直に論理を運べば、「日本がひどい国だな、という結論で終わってはならない」「日本が悪いという感想で終わりそうな展示は改めるべきだ」というのだ。

彼の心情の根底にあるものは、一人ひとりの生身の戦争被害者の悲嘆の感情に対する共感ではない。戦争被害の惨状や悲嘆よりは、「日本がひどい国、悪い国と思われてはならない」という配慮こそがそれ以上の重大事なのだ。これは、恐るべきことではないか。

人には、生まれながらに備わった惻隠の情があり憐憫の情もある。他人の痛みや悲しみへの共感は、太古の昔から生得のものである。殺人を禁忌とする規範も、文明とともに確立している。これに比して、「日本がひどい国、悪い国と思われてはならない」というナショナリズムは生得のものではない。教え込まれて初めて身につけるものではないか。

写真であるいは動画で、戦争の悲惨を突きつけられれば、「こんなにも不幸な人を作り出す戦争を繰り返してはならない」と思うのが、真っ当な人間の心性ではないだろうか。反対に、「こんなに戦争の悲惨さを強調したのでは、日本がひどい国、悪い国と思われてしまうではないか「そう思われないように配慮すべきだ」。どうしてそうなるのか、私にはどうしても理解できない。

もちろん戦争は日本だけが起こしたものでなく、戦争犯罪も日本に限ったことではない。だからと言って日本軍の「虐殺等々の行為」が免責されるわけでも相対化させてよいことにはならない。

どこの国の誰もが、それぞれの立場で、悲惨な被害をもたらす戦争そのものをなくす努力を尽くさなければならない。日本の国民は、日本が行った戦争の加害責任から目を背けてはならない。苦しくとも逃げることなく、自分の父祖の時代に、日本人が他国の民衆した加害行為を事実として正確に見つめなければならない。

「実際在日米軍も、交戦国でない日本人に対しひんぱんに非道な行いを行ってきたわけであるし、戦争中であればなおさら多い、どの国でもどのような状態でも、軍隊では起こり得ると言うことをよく理解してほしいと思う。」は、文意必ずしも明晰ではないが、皇軍が大陸でしたことは、格別非難に値するほどのことではないと、「よく理解してほしい」という趣旨の如くである。

戦争である以上、住民に対する殺戮も、略奪も、陵辱も、「起こり得ると言うことをよく理解して」、非難は避けよとしか読めない。これが高校生の意見だというのが、一入恐ろしい。

さらに、この高校生は、「軍の上層部は、後の世代の人間が、この非道な行いによって迷惑をこうむることになることをよく理解した上で、現場を指揮してほしいと思う。」というのだ。明らかに、これから起きる戦争を想定して、これから起きる戦争指導者に対する注文である。この高校生は、これからの戦争を絶対起こしてはならないものとせず、むしろ肯定しているようなのだ。

彼が語っているのは、戦争による「迷惑」である。「迷惑」という表現にも驚かざるを得ないが、誰に対する「迷惑」かと言えば、南京で虐殺された無辜の住民ではないのだ。後の世代の日本の人間、つまりは自分たちが世界の良識から非難を受けるという「迷惑」だという。感覚がおかしいとしか言いようがない。

改めて考える。この高校生は、戦争によって理不尽に人が殺される、家が焼かれる、財産を奪われる、弱い立場の者が陵辱される、ということのリアルな受け止めができていないのだ。ゲーム感覚でしか、戦争を理解できないのではないか。

リアルな戦争の実相を伝えることが大切なのだ。改めて、文京区の教育委員各位にお願いしたい。せめて写真や動画で、戦争の現実の一端に触れることを奨励していただきたい。

来年こそは、この戦争展に関する“後援”の申請に対して「承認」していただきたい。各位のご氏名を特定して、お願い申し上げる。

教育長 加藤 裕一
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

私が生まれたのは、戦時中だった。

(2020年8月29日)
本日は私の誕生日。私は、1943年の今日(8月29日)盛岡で生まれた。その日、母が龍を呑んだ夢を見たとか、白虹が日を貫いたとかの奇瑞はまったく生じていない。ごく普通の暑い日だったようだ。

言うまでもなく、戦時中のことである。母が繰り返し語ったのは、終戦の年(1945年)の夏のこと。盛岡にも空襲があり、炎天下2歳に満たない私を負ぶって何度も防空壕に駆け込んだという。そのとき、私はハシカがひどくて泣き止まず、母の方が心細くて泣きたい思いだったと聞かされた。

戦争が終わってその年(45年)の秋に父は帰宅している。が、さて私が生まれた43年8月に、父は私という長男の誕生に立ち会っているのだろうか。

先日、この点について従兄弟の澤藤範次郎(金ケ崎在住)から、私の父(澤藤盛祐)が書き残したもののなかに、次の記録があると教えられた。私は散逸してしまったものである。

昭和14年5月に召集。弘前歩兵隊に入隊。幹部候補生に採用されたものの、駆足すれば落伍する、足首を捻挫するで、候補生仲間の世話になる。乙種で軍曹に任官。
 
昭和16年8月、弘前の部隊あげて満州国黒河省璦琿に駐屯、演習につぐ演習、行軍に強くなる。銃剣術大会のとき、ひとのみちの教えのことを思いだし、中隊優勝の因をつくったという武勇伝あり。タライのように大きい中秋の名月を二度見、零下45度の極寒を体験。ソ連が攻めてきたらひとたまりもないなあと思いながら、17年末召集解除。

今度は横須賀海軍工廠造兵部へ徴用されました。18年9月。浦郷寄宿舎の寮長となる。海軍工廠の弁論大会で優勝したことと、15歳の少年工員が脳脊髄膜炎を患った折、ひとのみちの話をしてあげ、奇跡的に全快したのが思い出。胃潰瘍を患い、20日ほど入院。

19年7月、二度目の召集で弘前へ。曹長となる。青森県三本木に駐屯。急性肺炎にかかり、危うく命を取りとめる。夏終戦。秋帰宅。足掛け7年のうち、家にいたのは十か月。

そうなのか。父は、私の出生時には家族とともにいたのだ。そして、8月29日に生まれた嬰児と妻を残して、翌9月には横須賀に出立せざるを得なかったのか。「お国のため」に勇躍して出かけたはずはない。生まれたばかりの我が子と出産直後の妻を気遣って、後ろ髪を引かれる思いであったろう。が、父の生前その思いを聞かされたことはない。それにしても「足掛け7年のうち、家にいたのは十か月」というのが、戦争適応世代であった大正生まれの貧乏くじだったのだ。

母は、自説を押し通すというタイプではなかったが、「戦争だけは絶対にイヤだ。あんな目には二度と遭いたくない」と、この点は断固として譲らず、揺るがなかった。夫のいない心細さだけでなく、子育ての苦労は一入だったのだろう。語らない苦労も多くあったに違いない。この母の思いは、私が受け継いでいる。

母の妹は、東京日本橋で恵まれた結婚生活を送っていたが、夫が戦争の最終局面で遅い招集となり戦死した。サイパン行きの輸送船とともに爆沈されたという。妹の悲しみも、母が「戦争だけは絶対にイヤ」という大きな理由だった。

母が語る銃後の戦争と、上記の父が兵歴を語るトーンには明らかなズレがある。幸いに実戦に遭遇する機会なく無事帰還した父には、兵役や徴用は「貴重な思い出」でもあったようなのだ。戦後、「戦友」との友情を暖めてもいた。もちろん、「戦争は絶対に繰り返してはいけない」とは言っていたが、その言葉に母ほどの迫力は感じられなかった。戦後の国民感情における反戦・厭戦意識の濃淡の差を考えさせられる。

陸軍の旧軍人軍属の兵籍は、本人の本籍地のある都道府県庁が保管して照会に応じている。海軍の方は、厚労省だという。この際、父の軍歴を徹底して調べてみようと思う。一人の日本国民と家族に、徴兵や徴用がどれほど負担だったかという視点をもって。

ところで、8月29日とは、夏の盛りを過ぎたころで秋未満である。活動的な夏のスケジュールが終わって一息の頃で、秋はまだ始まっいない頃。子どもにとってはもうすぐ夏休みも終わろうというころだが、二学期はまだ始まっていない。そんな中途半端な夏と秋との端境期。だから、私の誕生日に関心をもつ人は、昔も今も殆どない。

が、今日は特別だった。夕餉に鯛の煮付けが出た。

我が家にもあった 戦地からの便り ー「軍事郵便」

(2020年8月24日)
8月の終わらぬうちに、戦争にまつわる記憶を書き留めておきたい。1943年生まれの私は、むろん直接には戦争を知らない。知っているのは、「戦後」の社会と大人たちから聞かされる戦争の辛さである。どの家族にも召集令状が届き、縁者に戦死者のない人はいなかった。

私が子どもの頃、大人とは戦争体験者であった。学校の先生も八百屋のオジさんも豆腐屋の兄さんも、男たちは皆鉄砲担いだ兵隊の経験をもっていた。なかには「敵」に実弾を発射した人もいただろうし、南方のジャングルからの帰還兵もいただろう。女性は銃後を護っていた人たち。そういう目で大人を見ていた。

私の父は招集されて関東軍の兵となり、ソ満国境の守備隊に駐屯した。愛琿の近くという以外に、その場所がどこかは正確には知らない。ノモンハン事件の前に曹長として召集解除となって帰郷し、その後2度内地で応召して、終戦は弘前で迎えている。

父は兵役にあって、好運にも「敵」との遭遇の機会はなく、まったく実戦を経験せぬまま除隊となったと言っていた。たった一度、「明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ」という通知をもらったことがあるという。中隊本部でその通知を受け、自分の兵舎に着くまでさほど遠くない帰途で、緊張の余り3度の排尿をしたという。結局、その情報は誤りで敵との遭遇はなく安堵したと繰り返し語った。

その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。父は器用な人で、絵も書もよくした。墨の濃淡を描き分けて、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。その絵には「俱運壮」という落款があった。軍曹をもじってのことだが、好運を身につけたいという願望の表れであったろう。「軍事郵便」として届いたそのハガキを母は大切に保存していた。

よく記憶しているのは、隊内の演芸会で演じた自身の「ガマの油」の口上の図。袴に襷掛けの自画像を巧みに描いていた。草原で寝転ぶとその音が聞こえるという、草にとまって鳴く小さな蝉。ノロという現地の小型の鹿。荷を牽くロバ、防具を着けた銃剣術稽古の兵…。

中で忘れられないのは、自分の手と指の写生。それに、いろいろと説明を書き加えている。妻に、自分をよく知って欲しいという気持の表れだったろう。あの絵入りの便りは、いかにも古代中国風の砦を表紙にあしらった一冊のアルバムに入っていた。そのアルバムは、いま九州の次弟の許にある、はず。

父は、運良く召集解除となって満州から帰宅し、戦後を永らえた。しかし、ノモンハン事件(1939年)のあと、関東軍の主力は南進に転じ、戦友の多くは南方に送られて戦死したという。

一昨日(8月22日)の毎日新聞朝刊に、軍事郵便の記事があった。「戦後75年 家族の手元に祖父の愛400通 沖縄で戦死」「孫、足跡追う」の記事。リードは、以下のとおり。

「太平洋戦争末期、32歳の若さで沖縄で戦死した伊藤半次さんが、福岡市で暮らす家族に送った絵手紙など約400通が残っている。ほとんどは長く出征していた旧満州(現中国東北部)からで、転戦した沖縄からも3通が届いた。『祖父の最期を知りたい』。同市早良区の会社役員で孫の博文さん(51)はこの数年、家族への愛がにじむ手紙を頼りに、祖父の足跡をたどり続けてきた。」

伊藤さんが、旧満州から家族に宛てた絵手紙2点が掲載されている。職人として日本画を学んだ人の立派なもの。この絵手紙を描いた伊藤さんは、ノモンハン事件後の41年にソ満国境の警備に配属され、その後44年10月に沖縄に転戦、45年6月に糸満で戦死されたという。

その記事の最後が孫の言葉として、こう結ばれている。

「家族を残して戦地に行ったのは祖父だけではない。『会いたい』『帰りたい』と素直につづれなかった時代があったことを、祖父の手紙を通じて多くの人に伝えたい」

私の父は、好運と倶に旧満州から内地に帰還した。しかし、父の多くの戦友は南方に送られて命を失った。伊藤さんは沖縄で散った。さぞかし無念であったろう。8月、それぞれの戦争との関わりを思い起こし、戦争の悲惨と愚かを確認しよう。

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