澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「平和を願う文京戦争展」総括会議ご報告

日中友好協会・文京支部が、8月8日~10日の3日間、文京シビック内のアートサロン(展示室2)で開催した、「平和を願う文京戦争展―日本兵が撮った日中戦争」の総括会議が8月28日夕刻に開かれた。ノモンハンから帰日したばかりの私も参加した。

この企画、3日間で1500人の熱心な入場者を得てたいへんな盛況だった。開会時間は延べ24時間で、1時間当たり55人の入場者が途切れず続いた計算になるという。その盛況の原因の第一は、文京区教育委員会が後援を拒否したことが話題となったから。とりわけ、東京新聞がそのことを大きく記事に取りあげたことから知られるところとなった。この企画を「新聞」で知った方が36%にも達していた。アンケートにそのことに触れた人が多かったことが報告された。

だから良かったかというとそうではない。入場者のほぼ4割が70代以上の高齢者、10代・20代は極めて少ない。教育委員会後援があれば、学校の生徒に呼びかけることができるという。戦争の実態を若者に知ってもらうために、次回は粘り強く各教育委員に要請し説得する活動をしようという意見が交わされた。

任意のアンケート回答要請に、427人の方が回答してくれた。これは、たいへんな高率である。その中に、
☆毎年やってほしい
☆もっと若い人に見てもらえるように
☆全国色々な所で開催して欲しい
☆3日では短い、展示期間をもっと長く
☆もっと広い会場で
などの提案が書き込まれていた。

また、アンケートの中で、次の中学生の感想文が目を惹いた。
「なんでも武力で解決しようとした日本はもう少し他の解決策があったのではないかと思った。」
「日中戦争のことについては、あまりくわしく知りませんでしたが、罪のない人、子どもや老人が沢山殺されてしまったという事実を知り、このようなことは二度と起こしてはいけないと思いました。」
「罪のない人が大勢まきこまれる戦争がもう二度と起こらないようになってほしいと思う。村瀬が残してくれた写真で当時の状況が知ることが出来ました。」
「日本の戦争の仕方や武力で解決しようとする姿勢に納得がいかなかった。」

なお、韓国のテレビ局2社が取材に訪れたという。中国のメディアは来なかった。

意見交換の中で、印象に残ったのは、戦争を語る上での被害面と加害面のどちらを語るかの姿勢の問題についてである。

今回の「文京戦争展」は、文京区(当時は本郷区)出身の兵士が撮った中国戦線での写真展示と、文京の空襲被害の展示と語り部の2本立て。前者には、南京虐殺の現場写真や生々しい従軍慰安婦の写真もある。加害者としての皇軍が映し出されている。後者は、戦争被害による区民の辛苦。おそらく、後者だけなら、文京の教育委員会が後援を拒否することはなかっただろうという。

実は、文京区自身が戦争展をしたことがあるという。その内容は、空襲被害、原爆被害に限られた、徹底した戦争の被害実態についてのものだったとのこと。しかし、侵略戦争による近隣諸国への加害責任を語らずして、あの戦争を全面的に語ることはできない。

我々は、加害責任を避けることなく、戦勝・敗戦に関わりなくすべての国の民衆の戦争被害の悲惨さを、あるがままに訴えよう。官製戦争展が自国の被害だけの展示にこだわるのなら、我々は加害責任をこそ戦争を知らない世代に見てもらわねばならない。そのような合意がほぼできたように思う。
(2019年8月31日)

大草原のノモンハンと、ピリピリ感中国のご報告。

一昨日(8月28日)、ノモンハンへの旅から帰日した。充実した6泊7日。まだ、気持は草原の風に吹かれたままである。日常生活の感覚が戻ってこない。

なるほど、内蒙古の草原は確かに広かった。森も、林も、一本の木立ちもない、見はるかす限りの草地が、視界を遮る物なしにどこまでも続く。木陰というものがない。あるのは、空の青と地の緑だけの世界。この果てしない広さの実感は、高地に登ってこそ分ろうというものだが、その登って見晴らすべき高地が見あたらない。

大草原の中に、アスファルト舗装の道路が、1本だけどこまでも真っ直ぐに続く。ハイラルの街からノモンハンの戦場まで250~300キロだという。東京・仙台間の距離なのだ。街の近くには、樹木がある。しかし、街を出てバスでしばらく走ると、間もなく樹木のない草原だけの、行けども行けども同じ景色。ここで育った人は、自ずと世界観も人生観も違うことにならざるを得ない。

この大草原が、国境紛争の舞台となった。満・蒙の国境である。いうまでもなく、満州国は日本の傀儡国家であり、モンゴル社会主義共和国の背後にはスターリンのソ連がいた。満・蒙の小部隊の衝突が、宣戦布告のないまま、日・ソの本格的な大近代戦となったのがノモンハン事件である。この草地から、石油が出るわけではない。鉱物資源もない。薪にする樹木すらないのだ。定住している人は少なく、街らしい街の争奪をしたわけでもない。いったい何のために、両軍ともに2万を超す死者を出す死闘を繰り広げたのだろうか。何のために、この地でかくも多くの人が死なねばならなかったのか。あらためて、戦争というものの理不尽さを痛感せざるを得ない。

戦跡を訪ねての充実した旅だったが、今の中国についてのいくつか印象に残ったことを書き留めておきたい。私の中国語会話能力は、ほぼゼロに等しい。日本語のできる中国人と会話のできる機会に、いくつかの質問をしてみた。私の主たる関心は3点。中国の選挙事情と、漢族の少数民族に対する差別の有無、それに香港の民衆運動の盛り上がりに対する感想である。中国共産党についての評価などは差し控えてのこと。

全人代議員の選挙は、確かに行われているという。ただし、一選挙区に候補者は党が指名した一人だけ、この候補者に有権者が信任投票をするのだという。どんな人物か、どんな抱負をもっているか、意識したことはないということだった。我々のイメージする選挙とは、およそ異質のもののごとくである。また、漢民族の他の少数民族に対する圧倒的な優越意識は相当のもので、明らかに問題が伏在している。きっと、なにかの折に顕在化することになるのだろう。

そして、驚いたのは、香港の民衆に対する平均的中国人の敵対的感情である。官製メデイアが、香港の民衆を「暴徒」と言っていることには驚かないが、私が会話の機会を得た狭い情報からの推測ではあるが、中国人の大方が同じ論調なのだ。

私が、日本語の達者なある中国人に、逃亡犯条例に対する香港の人びとの嫌悪感を話題にしたところ、「香港は国ではありませんよ。飽くまで中国の一部でしかない」「国法に従うべきが当然」と強い口調で主張された。「香港が国であろうとなかろうと、住民の意思を尊重すべきが民主主義の基本ではありませんか」とやんわり言うと、「ホントにいつまであんなことをやっているのか。早く解決してもらいたい」と、香港の人びとの心情への思いやりも、連帯感もおよそない。なるほど、これが今の中国なのだ。

もう一つ、空港の出入りに際してのセキュリティチェックの厳格さにも驚き不愉快でもあった。10月1日が70年目の国慶節で、大軍事パレードが予定されていることもあるのだというが、国際線以上に国内線のチェックが厳しい。以前にはないピリピリした空気。これも、今の中国なのだ。
(2019年8月30日)

今日は、終日ノモンハンの草原で風に吹かれている。

1975年発刊の五味川純平「ノモンハン(文芸春秋社)の帯に、本文の一節を引用して、次の記載がある。

著者は言う―自分の戦争年間の体験を歴史の時間的順序に配列し直してみて気づいたことは、ノモンハンの時点に、その後数年間の日本の思い上りや、あがきが、集約的に表現されていたことである。ノモンハン事件は、小型「太平洋戦争」であった。ノモンハン事件は太平洋戦争の末路を紛うことなく予告していたのである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か2年3ヵ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずであった。
 ノモンハン――みはるかす大平原に轟いた砲声は、日本にとっては、運命が扉を叩く音であった。日本の指導者たちはそれを聞きわける耳を持たなかった―と。

これは、名文である。戦後になってからだが、ノモンハン事件の重大さを、多くの人が漠然と感じていた。その重大さの本質を的確に表現した一文。ノモンハンの時期は、第2次大戦の直前に当たる。日本は、ソ連と、本格的近代戦の予行演習をしたのだ。五味川は、それを「小型太平洋戦争」と表現した。

その予行演習で、日本軍は手痛い敗北を喫した。それでも、その教訓を生かすことのないまま、英米蘭との開戦に踏み切り、310万人の死者を出して、太平洋戦争を終えた。五味川は、あとがきでこう記している。

  ノモンハン戦失敗の図式は三年後のガダルカナル戦失敗の図式に酷似している。特に作戦指導部の考え方において、そうである。作戦指導の中枢神経となった参謀二名が両戦に共通しているからでもあろうが、当時の軍人一般、ひいては当時の日本人一般の思考方法が然らしめたものであろうか。先入主に支配されて、同じ過誤を何度でも繰り返す。認識と対応が現実的でなく、幻想的である。観測と判断が希望的であって、合理的でない。反証が現われてもなかなか容認しない。

五味川のノモンハン作戦指導部に対する評価は厳しい。
「前線将兵は奮戦しても、後方に在る高級司令部の戦闘構想と戦力補給の関係は画餅に近いものがあった。国が貧しいといえば、すべてそこに起因するが、出来ることまで出来ていないのは、戦争そのものを組織する能力が乏しかったとしか考えられない」。「日ソ両軍の間には・・・戦闘を組織的に遂行するための配慮の密度に甚だしい差があり、戦闘の予備段階で既に直接に勝敗を分つほどの懸隔があった」「この考え方の安易さと粗末さは、これが軍事のプロかと呆れるばかりである」。

「参謀たちは性懲りもなく敵の兵力使用を低く見積っていた。戦って失敗すると、敵の兵力が意外に大きかったという」「この思い上がった愚かしさは、ほとんど理解の外である」「日本軍は、一度やって失敗したことを、同じ方法、同じ兵力で、二度三度やろうとした。他に手がないから仕方がないというのでは、近代的な戦闘を組織することはできないのである」。

こうして、死なずに済んだはずの兵士に代わって、五味川は、高級参謀たちの無能と怠惰を切歯扼腕する。そのとおりだと思いつつ、違和感も禁じえない。戦史を読むときに、いつも感じる違和感。では、もっとセオリーに忠実に、もっと巧妙に、もっと戦意を昂揚して戦闘すべきだったのかという違和感。戦闘に負けたことが責められるべきことで、勝っていればよかったのか。

五味川のノモンハン事件に対する総括的な評価として、国家の面目にかけて、不毛の地の寸土を争い、夥しい鮮血が砂漠に吸い込まれた」という一文がある。これには違和感がない。戦争自体が愚行なのだ。責任を負うべきは、戦闘を起こしたことであって、けっして負けたことではない。

ソ連を相手に近代戦争のなんたるかを知った旧軍が、なぜ、もっと大きな規模で同じ過ちを繰り返して、壊滅的な敗北に至ったか。ノモンハンの現地に行っただけでは分かるはずもなかろうが、考えるきっかけくらいにはなるだろう。

今日は一日ノモンハン。ハイラルから、200~250キロの距離だという。
(2019年8月24日)

ソ満国境で兵役に就いていた、私の父のこと。

本日(8月23日)が、ノモンハンへの旅の2日目。早朝、空路北京から内蒙古のハイラルに飛ぶ。ここが、ノモンハン事件を主導した第23師団司令部があったところ。39年5月の第小規模な1次衝突も、6月からの大規模な戦闘も、師団長(小松原道太郎中将)が、東京の陸軍省、参謀本部の紛争不拡大方針の指示を無視して、現地の判断で決行したものだという。

師団司令部遺跡では、当時の遺品を展示しているという。また、師団司令部だけでなく、旧日本軍の要塞址やハイラル神社も残っているそうだ。本日は、一日ハイラルを見学してハイラル泊となる。

ところで、五味川純平の力作「ノモンハン」の冒頭に、戦場となったノモンハンの風景が、次のように描写されている。

戦場となったノモンハン付近は、満州の西北、興安北省(旧称)が外蒙古と境を接するあたりの砂漠と草原の大波状地帯である。大小の砂丘が無数に起伏している。雑草や低い潅木群が点在するほかは空々漠々としている。戦闘は、日を追って、砂丘地帯と草原と若干の湖沼地帯にわたって展開された。
 気の遠くなるような広さである。見渡す限り平原がひろがっている。単調そのものである。徒歩行軍する部隊にとっては、この単調はやりきれない。早朝野営地を出発するときから、その日の夕刻に到着する地点が見えている。これが、歩いても歩いても距離が縮まらない。兵隊の俗語に「顎が出る」という表現がある。重い装具を背負い、太陽に灼かれ、汗の塩を吹き出しながら、いっこうに近づかない目標を怨めしげに見て歩くのは、確かに顎が出る仕事である。
 後方基地であるハイラルから戦場までは約200乃至250キロ、ソ連側は最も近い鉄道沿線のボルジヤまたはヴィルカから約750キロ、外蒙内の補給基地サンベースからは約450キロである。ソ蒙側に較べてこの補給距離の短いことが、関東軍が作戦を有利と誤判する一因であった。距離差など問題にならない補給力のいちじるしい差をやがて見せつけられることになる。

 愛琿(アイグン)に近かったという私の父の駐屯地も、こんなところであっただろうか。何度も聞かされた、父の話がある。岩手で育った父にとってもソ満国境の冬はとてつもなく寒かった。オンドルを焚いた部屋で窓を開けると、冷たい外気が室内の水蒸気を一瞬で凍らせて、部屋の真ん中に数センチの雪が積もるのだという。

また、現地で満月を2度見たそうだ。満州の月は大きい。盆のような月ではない。それこそタライのような満月だった。それが、地平線から出て、地平線に沈むのだと。

その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。達者な筆で、墨の濃淡を描き分け、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。

ノモンハン事件のあと、関東軍は南進論に転じて、戦友の多くは南方に送られて多くが戦死したという。父は、運良く召集解除となって帰宅し、その後2度まで招集されたが、いずれも内地勤務で、終戦は弘前で迎えた。

幸いなことに、父には実戦の経験はない。「たった一度、『明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ』という通知をもらったことがある。緊張この上なかったが、なにごともなくホッとした」。父にとっては、直接には戦闘の悲惨に遭わず、戦争とは軍隊生活のことだった。懐かしい想い出の一齣のようだった。隊内での演芸会やら、素人芝居やらを、楽しげに語ったことがある。戦後、父はときどきは生き残りの戦友会にも出かけた。

これに較べると母は、心から戦争を憎む様子だった。「戦争は身震いするほどイヤだ」「戦争中よいことなど一つもなかった」と繰り返し言っていた。母の妹は、夫を戦争で失っている。戦争を懐かしそうに語る男たちを、身震いするほどにイヤな奴と思っていたのではなかろうか。
(2019年8月23日)

いざ、モンゴルの大平原へ。ノモンハンへ。

本日(8月22日)、私は内蒙古ハイラルへの旅の途上である。帰京は8月28日夕刻の予定。おそらく、ハイラルでお分かりの方は少なかろう。ノモンハンの近くの街である。戦前、このハイラルに第23師団の本部があった。そして、その近くの満州と蒙古との国境紛争がこじれて、日本とソ連との本格的な近代戦となった。これが、ノモンハン事件。あるいは、宣戦布告なき「ノモンハン戦争」である。

事件は、ちょうど80年前の1939年5月に小規模な現地の衝突から始まる。一旦終熄するが、6月再び大規模な空爆・空中戦・戦車戦となり、9月まで続いて日本軍は手痛い敗北を喫した。このわずかの期間に、日本軍は2万を超す戦死者を出している。双方の死者総数は4万余。大会戦だったといえよう。ソ連側の指揮官が高名なジューコフであった。その戦跡を見学する旅なのだ。

話の始まりは、例によって、ある日吉田博徳さんからお電話をいただいたことにある。「澤藤さん、ノモンハンに興味がありませんか?」と言われる。イエスと答えれば、「では、ぜひご一緒しましよう」となることを承知で、私は「イエス」と答えた。その結果として、本日私は北京に飛んでいる。盧溝橋の戦争博物館を見学して一泊。明日からの3泊4日が、ハイラル・ノモンハンの旅となる。その後北京に泊して、帰京は8月28日の予定。

「ノモンハン・イエス」と答えたには、幾つかの理由がある。
私の父は、招集されて関東軍の兵士となった。ソ満国境の兵営で2年近くを暮らしている。除隊時には叩き上げの曹長だった。駐屯地は愛琿(アイグン)の近くの小さな街とのことだったが、それより詳しいことは分からない。ノモンハンは愛琿の近くとは言い難いが、亡父の過ごしたあたりの風景や空気を感じることができるのではないか。

ノモンハンの戦闘にも興味がある。維新後の日本は、戦争では基本的に成功体験を重ねた。日清・日露そして日独の戦争。その成功体験が日中戦争では、思わぬ長期戦となり、ノモンハンではソ連を相手に明らかな失敗体験となった。にもかかわらず、天皇制日本はこの失敗体験を生かすことなく、対英米開戦に突き進んで、壊滅的な敗戦に至る。いったい、なぜ?

モンゴルの大草原をこの目で見たい。風に吹かれてもみたいという望みもある。吉田さんはいう。「モンゴルの草原の広さはとてつもないものですよ。どこまで行っても、いつまで走っても、まったく景色が変わらない」。日本の景色を箱庭という、その感覚の拠って来たるところを実感してみたい。

そして、最後が吉田さんのお誘いである。これは断れない。吉田さんは、ノモンハン事件の直後、ハイラルの23師団に就役して歩兵連隊の小隊長として2年を暮らしたという。元気なうちに、ハイラル・ノモンハンをもう一度、よく見ておきたいという。98才の吉田さんがそうおっしゃるのだ。「お供します」というほかはないではないか。
(2019年8月22日)

権力や権威を批判する「言論の自由」を死守しよう ― 74年目の敗戦記念日に

8月15日である。74年前のこの日に戦争が終わった。

日中戦争・太平洋戦争が手痛い敗北によって終わったというだけでなく、明治維新以来幾たびも繰り返された、飽くなき侵略戦争もこの日以後はない。あの日以来74年、曲がりなりにも、日本は平和を享受してきた。

戦争こそ、最大の人権侵害であり、最大の環境破壊である。そして、最大最悪の凶悪犯罪でもある。明治維新以来今日まで、およそ150年の前半は、我が国が戦争に明け暮れた歴史だった。野蛮な天皇制が支配する軍国主義国家として侵略戦争を繰り返してきたのだ。富国強兵のスローガンのもと、国民には滅私奉公が強いられた。故なく、近隣諸国民を憎悪し侮蔑する差別感情が煽動される国家でもあった。

74年前の8月、敗戦とともに国家の原理は転換した。ポツダム宣言第6項は、「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。」という。この「勢力」の頂点に天皇が位置することに争いの余地はない。8月14日ポツダム宣言受諾をもって、主権は天皇から国民に転換したものと考えられる。

74年前の敗戦の日は、日本の近代を分かつ日であった。戦争と平和と。天皇主権と国民主権と。国家主義と人権尊重と。戦争終結の記念日は、天皇支配終焉の記念日でもあり、国民主権・民主主義・人権尊重の国家が再出発した記念日とも重なる。

本日。戦争責任を自覚することも表明することもないままに亡くなった当時の天皇(裕仁)の孫が、天皇(徳仁)として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに前天皇(明仁)の式辞とほぼ同文の次の一節がある。

「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、全国民とともに、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」。

この文言が、内閣の助言と承認を経てのものであるかについて疑義なしとしないが、「深い反省」の言葉があることは、注目に値する。同じ場での首相・安倍晋三の式辞には、反省も責任の一言もないのだから、印象際だつものがある。憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることも、同様である。

ただし、天皇の「深い反省」は曖昧模糊としたものである。天皇は、「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べたが、過去を顧み」とは、どのような過去の歴史をどのように顧みたのだろうか。戦争の惨禍をもたらした天皇の責任についての自覚はあるだろうか。過去の侵略戦争が、天皇が唱導した聖戦とされていた歴史的事実を十分に顧みているだろうか。「上官の命令は天皇の命令」として軍規を律した過去についてはどうか。天皇制否定の思想を死刑に値する犯罪とした治安維持法をもって平和運動を弾圧した過去などは、天皇の脳裏にあるだろうか。

「深い反省」とは、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことの反省でなくてはらない。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべきだと考えているのだろうか。

今、私たちは、再び戦前の過ちを繰り返してはならないことを自覚しなければならない。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。

かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者からも、権威あるとされる者からも、操られることを厳格に拒否しよう。

権力や権威を批判する「言論の自由」を死守しよう。そして、一切の差別につながる言論を拒否しよう。平和を擁護するために。次代に、平和な社会を手渡すために。
(2019年8月15日)

74回目の「敗戦の日」を目前に

ご近所の皆様、本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。こちらは平和憲法を守ろうという一点で連帯した行動を続けております「本郷・湯島九条の会」です。私は近所に住む者で、憲法の理念を大切にし、人権を擁護する立場で、弁護士として仕事をしています。

真夏の真昼時、まことに暑いさなかですが、平和を守ろう、憲法9条を大切にしようという熱い願いの訴えです。少しの時間耳をお貸しください。

74年前の8月、東京は度重なる空襲で焼け野原となっていました。1945年8月15日正午、国民に敗戦を知らせる天皇の言葉が、NHKラジオの電波に乗って焼け跡の東京に響きました。国力を傾け尽くし、310万人の自国民死者と、2000万人にも及ぶ近隣諸国の犠牲者を出した末に、ようやくにして悲惨な侵略戦争は終わりました。

こんな戦争を始めなければ、もっと早く戦争を終わらせていれば、何百万もの貴重な命が失われずに済んだはずなのです。多くの人の戦死による記録が残されていますが、とりわけ住民を巻き込んでの地上戦となった沖縄の体験は悲惨でした。沖縄では、多くの中学生・女学生が戦場に動員されなくなりました。

第一高女と師範女子部からなる「ひめゆり学徒隊」の悲劇が有名ですが、実は9校あったすべての高等女学校の生徒が動員されています。第二高女の4年生は、45年の3月から「白梅学徒隊」として、第24師団の野戦病院に配属されました。

読売新聞社会部が1980年に「沖縄 白梅の悲話」という記録集を出版しています。その中から、戦死した二人の女学生の例を紹介いたします。いずれも、15才か16才の年齢。その若さで認めた家族への手紙が事実上の遺書となって記録されています。その内容に驚かされます。

お一人は、大嶺美枝子さん。
白梅学徒隊は、6月4日に現地解散し、「各自行動」の指令となります。その後間もない9日の夜、大嶺さんは直撃彈で戦死。彼女は、動員直前に、母親宛の手紙を書いています。

「お母様、いよいよ私達女性も出動できますことを心から喜んでおります。お母様も喜んで下さい。『皇国は不滅である』との信念に燃えて生き延びてきました。軍と協力して働けるのはいつの日かと待っておりましだ。いよいよそれが報いられたのです。いま働かねばいつの日働きますか。私は暖かいお母様のお教えを生かして一人前の立派な日本女性となる覚悟で居ります。
お母様、私の身軆のすべてを大君に捧げたのです。男でも女でも忠を尽くす信念は一つです。私達の身軆は国が保証して下さるのです。何の心配もなさらないで下さい。散る時には立派な楼花となって散って行きます。その時には家の子は偉かったと賞めて下さいね。」

母親の感想は、掲載されていません。心中いかばかりだったことでしょう。

もう一人は、仲村渠幸子さん。終戦の前年1944年夏頃に、姉(第一次女子挺身隊として沖縄から滋賀の近江航空に動員されていた)に宛てた手紙が遺されています。
姉さん、戦いも益々熾烈を極め、サイパン島玉砕の報を知った時には熱い涙がこみあげ、宿敵米撃ちてし止まむの意気旺盛になり、今迄の生ぬるい生活を断然、制裁しております。
……那覇では近頃、疎開騒ぎで荷車や荷馬車が夜昼となくガラガラと大通りを行くのを見るにつけ此の沖縄が戦場化されると思うと私達が玉砕するのも今年中でせう。おばあさんは相変わらず頑固で、疎開なんかしませんので頼もしい。他府県の人は総引き上げで、級友は6名も転校してしまいました。私達は純粋なる琉球人ですから居残って、ヤンキー共の首の二つや三つは竹槍で刺し殺してから玉砕する覚悟です。上級学校希望も捨てました。代わりに女子整備兵を希望して大いに運動して居ります。~」

彼女の最期については、このようだったと言います。
「彼女は防衛隊の父の戦死を知った夜、『仇を討ってやる』と、石部隊の兵に混じり軍服を着てハチマキを締め斬り込みに行った。家族が止めても止めても聞かなかったという。どの様な最後であったか不明のままである。」

生き残った元学徒からは、その悲劇の原因として、皇民化教育が語られています。無数の悲劇を重ねて、1945年8月15日、戦争が終わります。1931年から始まった長い長い戦争でした。再び、この戦争の惨禍を繰り返してはならない。多くの人々の切実な思いが、平和憲法に結実しました。とりわけその9条が、再びの戦争を起こさないという国民の決意であり、近隣諸国への誓約でもあります。

大日本帝国憲法は戦争を当然の政策と考えた、軍国主義憲法。主権者である天皇の名による戦争を神聖で正当なものとし、国民に戦争参加の義務を押し付けた憲法でした。戦後の日本国民は、きっぱりとこの好戦憲法を捨て去り、平和憲法を採択したのです。以来74年、私たちの国は戦争をすることなく、過ごしてきました。

日本国憲法は、戦争を放棄し戦力を保持しないことを憲法に明確に書き込みました。それだけではなく、この憲法には一切戦争や軍隊に関わる規定がありません。9条だけでなく、全条文が徹頭徹尾平和憲法なのです。戦争という政策の選択肢を持たない憲法。権力者が、武力の行使や戦争に訴えることのないよう歯止めを掛けている憲法。それこそが平和憲法なのです。

ところが、歴代の保守政権は、この憲法が嫌いなのです。とりわけ、安倍政権は憲法に従わなければならない立場にありながら、日本国憲法が大嫌い。中でも9条を変えたくて仕方がないのです。

彼が言う「戦後レジームからの脱却」「日本を、取り戻す」とは、日本国憲法の総体を敵視するという宣言にほかなりません。「戦後」とは、1945年敗戦以前の「戦前」を否定して確認された普遍的な理念です。人権尊重であり、国民主権であり、議会制民主主義であり、なによりも平和を意味します。戦後民主主義、戦後平和、戦後教育、戦後憲法等々。戦前を否定しての価値判断にほかなりません。安倍首相は、これを再否定して「戦前にあったはずの美しい日本」を取り戻そうというのです。

戦後74年、日本国憲法施行以来72年、国民は日本国憲法を護り抜いてきました。それは平和を守り抜くことでもありました。そうすることで、この憲法を自らの血肉としてきました。平和は、憲法の条文を護るだけでは実現できません。国民の意識や運動と一体になってはじめて、憲法の理念が現実のものとして生きてきます。平和憲法をその改悪のたくらみから護り抜き、これを活用することによって恒久の平和を大切にしたいと思います。

そのため、安倍9条改憲を阻止して、「戦後レジームからの脱却」などというふざけたスローガンを克服して行こうではありませんか。夏、8月、暑いさなかですが、そのような思いを新たにすべきとき。憲法9条と平和を大切にしようという訴えに、耳をお貸しいただき、ありがとうございました。

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各 位

「本郷・湯島九条の会」石井 彰

強烈な炎天下での昼街宣になりました。平和運動の方、文京労連の方もご参加いただき13名の方々がマイクでの訴え、署名、リーフ配布とみなさん大活躍でした。みんな汗びっしょりです。ほんとうに頭が下がります。

三度の大戦許すまじの熱い思いた熱暑を払い除けての活躍です。こんな素晴らしい仲間がいることを誇らしく思います。お盆でいつもより人通りは少なくても多くの方が訴えに耳を傾けていただきました。

来月は9月10日(火)12時15分~です。多くの方のご参集をお待ちしています。炎暑はまだ続きます。御身専一にお過ごしくださるようお願い申し上げます。

(2019年8月13日)

文京写真展「日本兵が撮った日中戦争」の出足好調

東京は暑い。熱い。アツ~イ。8月上旬の東京の暑さは尋常ではない。油断していると命に関わる、と言って誇張ではない。

この暑さのさなかに、来年は東京でオリンピックだという。とても正気の沙汰ではない。いったい誰が、こんな無謀なことをたくらんだのか。来年確実に起きるであろう悲劇に、誰がどのように責任をとれるのか。

一旦始まった戦争が、今さら引き返すことなどできないと、国の破滅まで突っ走ったのと、同じ構造ではないか。

その戦争の実態を語り伝えようという、平和を願う文京・戦争展「日本兵が撮った日中戦争」。猛暑のさなかに出足は好調である。昨日(8月8日)午後だけで、ほぼ400人が訪れた。狭い展示室に熱気が感じられる。

アンケートの回収率がとても高いというのが、主催者の感想。みな、戦争に対して一言いわねばならないという気持になっている。

東京新聞の記事を読んで、後援申請を不承認とした文京区教育委員会に抗議の意味で参加という人がかなりいた。あと2日、ぜひご来訪いただきたい。まず、この企画を宣伝したい。

「日本兵が撮った日中戦争」

平和を願う文京・戦争展
文京・真砂生まれの村瀬守保写真展

DVD上映 証言1 侵略戦争
      証言2 中国人強制連行
文京空襲  語り部 小林暢夫さん
(8月10日午後2時より)

と き 8月 8日(木) 13:00~18:00
    8月 9日(金) 10:00~20:00
    8月10日(土) 10:00~16:00
ところ 文京シビック1階 アートサロン(展示室2)
入場無料

2年半にわたり中国各地で撮影し、家族に送られた日本兵の日常

村瀬守保さん(1909年~1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。

 一人一人の兵士を見ると、
 みんな普通の人間であり、
 家庭では良きパパであり、
 良き夫であるのです。
 戦場の狂気が人間を野獣に
 かえてしまうのです。
 このような戦争を再び
 許してはなりません。
村瀬守保 

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この企画展の後援申請を不承認とした文京区教育委員会の委員5名の氏名を再度明示しておきたい。そして、ぜひとも、汚名を挽回していただきたい。
 教育長 加藤 裕一 
 委 員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
 委 員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
 委 員 坪井 節子(弁護士)
 委 員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

なお、教育委員の報酬は月額231,500円である。月一回の定例会に欠席しても全額が支払われる。ぜひ、区民の期待に応える委員であって欲しい。

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河村名古屋市長に抗議し、「表現の不自由・企画展」の再開を求める緊急署名に引き続きご協力を

こちらの緊急署名もぜひご参加よろしくお願いします。

8月1日に愛知芸術文化センターで始まったばかりの「表現の不自由展」。テロを予告した犯人の一人が逮捕されましたが、表現の自由擁護派と妨害派の衝突は、抜き差しならないところまで来ています。

安倍官邸と、河村名古屋市長そして維新の松井・吉村が、歴史修正主義と表現の自由妨害派としてのタッグを組む構図が鮮明になってきました。

「表現の不自由展」を中止のままにしておくことは、今後に禍根を残すことになります。ぜひとも、再開させなければならないと思います。

署名簿は、8月13日(火)に、第一次集約の上、8月15日(木)の午後に署名簿を持参して愛知県知事宛提出と決まりました。記者会見も予定しています。

署名の趣旨は、下記の2点です。

1.主犯者というべき河村名古屋市長に謝罪を求める。

2.企画展を即時、再開すること

この署名は短期・集中的に成し遂げなくてはなりません。

下記の要領で、よろしくお願いします。

 

署名用紙のダウンロード(プリントしてお使い下さい)

→ http://bit.ly/2Ynhc9H

ネット署名 → http://bit.ly/2YGYeu9 メッセージもぜひ

ネット署名に添えられたメッセージ一覧 → http://bit.ly/2LZz0RR

(2019年8月9日)

文京区教育委員会の見識を問う ― なぜ「日本兵が撮った日中戦争」写真展の後援申請を却下したのか

8月は、戦争を語り伝えるべきとき。あの戦争とは、いったいなんだったのだろう。戦地の生活とは、どんなものだったのか。そして銃後は。戦争とは、日常とどのようにつながり、どのように離れていたのだろうか。その戦争は、どうして起こったのか。どうして防げなかったのか。誰が、どんな思惑で戦争をたくらんだのか。いや、全国民の熱狂が戦争を欲したのだろうか。どうすれば、戦争の体験は、世代を超えて継承できるのだろうか。

そのようなことを語り伝え、考えるべき8月には、いくつもの恰好の企画がある。私の身近にも、今日から3日間、こんな企画がある。まず、これを宣伝したい。

「日本兵が撮った日中戦争」

平和を願う文京・戦争展
文京・真砂生まれの村瀬守保写真展

DVD上映 証言1 侵略戦争
      証言2 中国人強制連行
文京空襲  語り部 小林暢夫さん
            (8月10日午後2時より)

とき8月 8日(木) 13:00~18:00
  8月 9日(金) 10:00~20:00
  8月10日(土) 10:00~16:00
ところ 文京シビック アートサロン(展示室2)
入場無料

2年半にわたり中国各地で撮影し、家族に送られた日本兵の日常

村瀬守保さん(1909年~1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。

 一人一人の兵士を見ると、
 みんな普通の人間であり、
 家庭では良きパパであり、
 良き夫であるのです。
 戦場の狂気が人間を野獣に
 かえてしまうのです。
 このような戦争を再び
 許してはなりません。
           村瀬守保 

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さて、ここからが暑苦しい話題。

この企画の主催者は、日中友好協会文京支部(代表者は、小竹紘子・元都議)である。同支部は、今年の5月31日付で、文京区教育委員会に後援を申請した。お役所用語では、「後援名義使用申請書」を提出した。

その申請書の「事業内容・目的」欄にはこう記載されている。

「保護者を含めて戦争を知らない世代が、区民の圧倒的多数を占めています。従って子どもたちに1931年から1945年まで続いた戦争日中戦争、太平洋戦争について語り伝えることも困難になっています。文京区生まれの兵士、村瀬守保氏が撮った日中戦争の写真を展示し、合わせて文京空襲の写真を展示し、戦争について考えてもらう機会にしたい。」

なんと、この申請に対して、文京区教育委員会は「後援せず」という決定にしたという。このことが、8月2日東京新聞朝刊<くらしデモクラシー>に大きく取りあげられた。

同記事の見出しは、日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」というもの。

 日中戦争で中国大陸を転戦した兵士が撮影した写真を展示する「平和を願う文京・戦争展」の後援申請を、東京都文京区教育委員会が「いろいろ見解があり、中立を保つため」として、承認しなかったことが分かった。日中友好協会文京支部主催で、展示には慰安婦や南京大虐殺の写真もある。同協会は「政治的意図はない」とし、戦争加害に向き合うことに消極的な行政の姿勢を憂慮している。

 同展は、文京区の施設「文京シビックセンター」(春日一)で八~十日に開かれる。文京区出身の故・村瀬守保(もりやす)さん(一九〇九~八八年)が中国大陸で撮影した写真五十枚を展示。南京攻略戦直後の死体の山やトラックで運ばれる移動中の慰安婦たちも写っている。

 同支部は五月三十一日に後援を区教委に申請。実施要項には「戦場の狂気が人間を野獣に変えてしまう」との村瀬さんの言葉を紹介。「日本兵たちの『人間的な日常』と南京虐殺、『慰安所』、日常的な加害行為などを克明に記録した写真」としている。

 区教委教育総務課によると、六月十四日、七月十一日の区教委の定例会で後援を審議。委員からは「公平中立な立場の教育委員会が承認するのはいかがか」「反対の立場の申請があれば、後援しないといけなくなる」などの声があり、教育長を除く委員四人が承認しないとの意見を表明した。

日中友好協会文京支部には七月十二日に区教委が口頭で伝えた。支部長で元都議の小竹紘子さん(77)は「慰安婦の問題などに関わりたくないのだろうが、歴史的事実が忘れられないか心配だ。納得できない」と話している。

 村瀬さんの写真が中心の企画もあり、二〇一五年開催の埼玉県川越市での写真展は、村瀬さんが生前暮らした川越市が後援。協会によると、不承認は文京区の他に確認できていないという。

 協会事務局長の矢崎光晴さん(60)は、今回の後援不承認について「承認されないおそれから、主催者側が後援申請を自粛する傾向もあり、文京区だけの問題ではない」と話す。「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」と懸念を示した。

なんと言うことだろう。戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」不承認いうのは、あまりの不見識。「南京虐殺」も「慰安所」も厳然たる歴史的事実ではないか。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得して、後援実施してこその教育委員ではないか。

「戦争の被害実態はともかく、加害の実態や責任に触れると、右翼からの攻撃で面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられてていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。

文京区教育委員会事案決定規則(別表)によれば、この決定は、教育委員会自らがしなければならない。教育長や部課長に代決させることはできない。その不名誉な教育委員5名の氏名を明示しておきたい。

すこしは、恥ずかしいと思っていただかねばならない。そして、ぜひとも、汚名を挽回していただきたい。
教育長 加藤 裕一 
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

なお、教育委員の報酬は月額231,500円である。月一回の定例会に欠席しても全額が支払われる。その勤務ぶりについて、下記の区議のブログがある。これに、寄せられた区民の声に耳を傾けていただきたい。
http://a-kaizu.net/blog/archives/224
https://blogs.yahoo.co.jp/bunkyokugi/7234471.html

(2019年8月8日)

核兵器不使用を絶対的に保証するものは、廃絶以外にない。

だれの言葉かは知らないが、「8月は6日9日15日」である。8月こそは、鎮魂の月であり、戦争の悲惨と愚かさを語り継ぐべき時、そして、あらためて平和の尊さを確認して「憲法第9条」擁護を誓うべき季節。なお、「6日9日15日」は、安倍晋三が、気の乗らない挨拶文の朗読を強いられる日でもある。

被爆から間もないじきに、広島の小学校に入学した私には、8月6日は特別の日である。その日の8時15分が人類史の転換点だとも思っている。その時、人類は、種としての自死の能力を手に入れたのだ。

それから74年目の今日。広島平和記念公園で恒例の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式典」が営まれた。雨の中のしめやかな式典だったという。

松井一実市長の平和宣言は、列席した安倍晋三の目の前で朗読され、核兵器禁止条約に背を向ける日本政府に対し、「被爆者の思い」として署名・批准を求めると明確に宣せられた。

安倍晋三首相はいつものとおり、ホントにつまらない、気持ちのこもらない挨拶文を朗読した。紋切りの美辞麗句はあったが、「被爆者の思い」に応えるところはまったくなかった。

記者会見では「核兵器禁止条約には保有国が一カ国も参加していない」としてその実効性を疑問視し、「被爆者代表から要望を聞く会」に臨んでは、被爆者を前に日本政府による核兵器禁止条約の署名・批准を否定する姿勢をあらためて明確にした。この人は、本当に日本の首相なんだろうか。それとも、アメリカの属領長に過ぎない人なのだろうか。被爆者にも、被爆運動にも敵対する、日本の政府とは、首相とはいったい何なのだろう。

今日の式典で、耳目を惹いたのは、湯崎英彦広島県知事のあいさつだった。要点を抜粋してご紹介したい。

 絶望的な廃虚の中、広島市民は直後から立ち上がりました。水道や電車をすぐに復旧し、焼け残りでバラックを建てて街の再建を始めたのです。市民の懸命の努力と内外の支援により、街は不死鳥のごとくよみがえります。

 しかしながら、私たちは、このような復興の光の陰にあるものを見失わないようにしなければなりません。緑豊かなこの平和公園の下に、あるいはその川の中に、一瞬にして焼き尽くされた多くの無辜の人々の骨が、無念の魂が埋まっています。かろうじて生き残っても、父母兄弟を奪われた孤児となり、あるいは街の再生のため家を追われ、傷に塩を塗るような差別にあい、放射線被ばくによる病気を抱え今なおその影におびえる、原爆のためにせずともよかった、筆舌に尽くし難い苦難を抱えてきた人が数多くいらっしゃいます。被爆者にとって、74年経とうとも、原爆による被害は過去のものではないのです。

 そのように思いを巡らせるとき、とても単純な疑問が心に浮かびます。

 なぜ、74年たっても癒えることのない傷を残す核兵器を特別に保有し、かつ事あらば使用するぞと他を脅すことが許される国があるのか。

 それは、広島と長崎で起きた、赤子も女性も若者も、区別なくすべて命を奪うような惨劇を繰り返しても良い、ということですが、それは本当に許されることなのでしょうか。

 核兵器の取り扱いを巡る間違いは現実として数多くあり、保有自体危険だというのが、米国国防長官経験者の証言です。

 明らかな危険を目の前にして、「これが国際社会の現実だ」というのは、「現実」という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ、実のところは「現実逃避」しているだけなのではないでしょうか。

 核兵器不使用を絶対的に保証するのは、廃絶以外にありません。しかし大国による核兵器保有の現実を変えるため、具体的に責任ある行動を起こすには、大いなる勇気が必要です。

 唯一、戦争被爆の惨劇をくぐり抜けた我々日本人にこそ、そのエネルギーと勇気があると信じています。それは無念にも犠牲になった人々に対する責任でもあります。我々責任ある現世代が行動していこうではありませんか。

 (2019年8月6日)

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