澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

植物園・太平洋戦争ゆかりの寺院・護憲アート~日曜日の散歩

日曜日。久しぶりに小石川植物園で寛ぐ。喧噪とは無縁の16万㎡。生き返るような解放感。本日初めて見たもの。タヌキノカミソリ、センコウハナビの花。莢にはいったハナキササゲ、ハナズオウ(いずれも豆科)の実。そして、蚊取り線香を焚きながら日本で最も古いとされるスズカケノキの幹を描く画家。

帰りの道すがら、「こんにゃくえんま」に立ち寄った。浄土宗の寺院で、正式な寺号は常光山源覚寺だというが、源覚寺では地元の人にもなじみがないのではなかろうか。

この寺に、鎌倉時代の作とされる像高100センチほどの木造閻魔大王坐像があって、文京区有形文化財に指定されている。これが、「こんにゃくえんま」となったのは、「宝暦のころに眼病を患った女性が、好物のこんにゃくを断って一心に眼病が治りますようにと祈願したところ、夢枕に現れた閻魔が自ら一眼を盲目にし眼病を回復させると言い、そのとおりとなった」という言い伝えからだという。以来、一眼を損なっているこの閻魔にこんにゃくを供えて眼病快癒の願をかける習わしが今日まで続いているという。確かに、いつ行っても閻魔堂にはコンニャクが山と積まれて供えられている。

この寺に戦争に関わるものが多い。まず、鐘楼に「汎太平洋の鐘」がある。この鐘は1660年(元禄年間)に当寺に奉納されたものだったが、1937年に当時日本領だった「サイパン島の南洋寺に転出」したものだという。時期は、日中戦争の時期で、太平洋戦争勃発の前。「転出」の理由は分からない。

1944年太平洋戦争で、サイパン島軍民は玉砕してこの鐘も行方不明になっていた。ところが、1965年に米国・テキサス州オデッサ市においてこの鐘が発見された。その後、1974年になって当寺院に寄贈された、という。

鐘楼の傍らに、小ぶりだが立派な白鳳仏風の菩薩立像ある。「南洋群島物故者慰霊像」と名付けられているもの。サイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する場として、サイパンに由緒ある当寺に建てられたと、碑文がある。

また、その側には「雲がハシル 学徒が征ク 空ニ 同期ノ華 参千六百」(昭和63年8月15日 二四世徳誉発願)という石碑がある。由緒は定かではないが、当寺の住職が、学徒出陣者の生き残りなのだろうか。「お百度石」も残されている。これも戦時中には、出征した兵士の家族が無事を願って、お百度を踏む者が多かったことだろう。探せば、身近に戦争との関わりの跡は、数多く残されているのだ。

こんにゃくえんまを出ると、すぐ側に古書店があった。大亜堂書店という。なんとなく店名が大東亜共栄圏や大アジア主義などを彷彿させる。これまでは、敬して素通りだった。その店が本日休業だったが、閉まっていたガラス戸に何枚もポスターを張り出していた。これが面白い。絵はお伝えできない、気の利いたキャッチコピーだけをご紹介しよう。

「たった70年だったな とは言わせない」1947年施行 日本国憲法
・安倍晋三の顔を大きく描いて、「一般の国民とは 私に逆らわない 人たちのことです 共謀罪」
・小池百合子の顔をあしらって、「あたしの いちぞんで決めたから 自分ファースト」
・バラの花の画面に「NO NUKES」
・そして、「9条タグカード 無料配布中!」「身につけてくれる方に。どうぞお声をおかけください」「一人一枚限り 対面手渡し」 次の機会にこれをもらおう。そして、身につけることにしよう。

犬も歩けば棒に当たる。戦争の傷痕にも、憲法擁護の声にもあたる。植物園では蚊に食われもしたが、出かけた甲斐(カイイ)もあったというもの。
(2017年8月20日)

8月15日 あらためての決意

8月15日。国民の感覚では、72年前の本日に15年続いた戦争が終わった。戦争に「負けた」ことの不安や悔しさもあったろうが、戦争が「終わった」ことへの安堵感が強かったのではないか。これ以上の戦争被害はひとまずなくなった。空襲の恐怖も、灯火管制もこの日で終わった。非常時に区切りがついて、ようやくにして日常が戻ってきた日。

法的には、8月14日がポツダム宣言受諾による降伏の日だ。そして、降伏文書の調印は9月2日。しかし、多くの国民が戦争の終結を意識したのは8月15日だった。

この日の正午、NHKが天皇の「終戦の詔書」を放送している。1941年12月8日早朝の「大本営発表」からこの終戦の日まで、終始NHKは太平洋戦争遂行の道具であり続けた。天皇や軍部に利用されたというだけではない。国民に対する煽動と誤導への積極的共犯となった。

ところで、この「玉音放送」の文章は、官製悪文の典型という以外にない。こんなものを聞かされて、「爾臣民」諸君の初見の耳に理解できたはずはない。持って回った、空虚な尊大さと仰々しさだけが印象に残るすこぶる付きの迷文であり駄文というべきだろう。ビジネス文書としてこんな文章を起案したら、上司にどやされる。

あのとき、天皇はまずこう言わねばならなかった。
「国民の皆様に、厳粛にお伝えいたします。昨日、日本政府はアメリカ・イギリス・中国・ソ連連名の無条件降伏勧告書(ポツダム宣言)に対する受諾を通告して、無条件降伏いたしました。戦争は日本の敗北で終わったのです。」

そして、こうも付け加えなければならなかったろう。
「戦争を始めたのは、天皇である私と、政府と軍部です。戦争で大儲けした財閥はともかく、一般国民の皆様が戦争責任の追及を受けるおそれはありません」
「天皇である私と政府は、何千万人もの外国人と、何百人もの日本国民の戦没者に対して、戦争をひき起こした者としての責任を痛感しております。誠実に戦後処理を行ったあとは、命をもってもその責任をとる所存であります」
「私の名による戦争を引き起こして、取り返しのつかない事態を招いたことを、幾重にもお詫びもうしあげます。そして、国民の皆様に日本の復興に力を尽くしていただくよう、よろしくお願いいたします。」

72年後の本日。戦争責任を引き受けることのないまま亡くなった当時の天皇の長男が、現天皇として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに次の一節がある。

「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。」

「深い反省」の言葉があることに注目せざるを得ない。同じ場での安倍晋三の式辞には、反省も責任もないのだから、十分に評価に値する。また、憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることにも、同様である。

なお、天皇の式辞のなかに宗教的な臭みのある用語のないことに留意すべきだろう。この点は、よく考えられていると思う。これに比して、安倍の式辞には、御霊(みたま)が3度繰り返されている。「御霊(みたま)の御前(みまえ)にあって、御霊(みたま)安かれと、心より、お祈り申し上げます。」という調子。靖国神社参拝と間違っているのではないか。非常に耳障りであるし、意識的な批判が必要だと思う。

さて、天皇の「深い反省」について考えてみなければならない。誰が、誰に、何を反省しているのか、である。

まず、反省の主体は誰なのだろうか。天皇個人なのだろうか。天皇が象徴する日本国民なのだろうか。あるいは、戦争当時の天皇(裕仁)を代理しているのだろうか。それとも、抽象的な日本国の漠然たる反省だということなのだろうか。

また、「深い反省」を語りかけている相手は、軍人軍属の戦没者だけなのだろうか。「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」という表現は、原爆や空襲被害者も含まれているのだろうか。また、日本人戦没者だけなのだろうか。被侵略国の犠牲者ははいっているのだろうか。戦没者以外の傷病者はどうなのだろうか。

さらに、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことなのだろう。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべき考えているのだろうか。

巨大な惨禍をもたらした戦争の反省のあり方が、一億総懺悔であってはならない。
まず、統治権の総覧者であり宗教的権威をもって戦争を唱導した天皇に最大の戦争責任があることは論を待たない。そして、天皇を御輿に担いで軍国主義国家を作って侵略戦争と植民地支配に狂奔した政治支配層の責任は明確であろう。これに加担したNHKや各紙の責任も大きい。そして、少なからぬ国民が、八紘一宇や大東亜建設、五族協和などのスローガンに浮かれて戦争に協力し、戦争加害国を作りあげたことの責任と反省も忘れてはならない。

国民それぞれが、それぞれことなる質と量との責任を負っていることを確認すべきなのだ。一般国民は、天皇や軍閥との関係では被害者であり、近隣諸国との関係では加害国の一員としての立場にある。

そして思う。今、私たちは、再びの戦前の過ちを繰り返してはならないことを。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。

かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者にも、権威あるとされる者にも、操られることを拒否しよう。平和を擁護するために。
8月15日、あらためての決意である。
(2017年8月15日・連続第1598回)

国際紛争の解決は、武力の威嚇によってではなく、対話によって。

人と人とが争いなく共存することはこんなにも難しいことなのだろうか。

有史以来、人と人とは、あるいは集団と集団とは、生命と種を維持すべく、本能の命じるままのあらゆる欲望の衝突の場面で過酷に争ってきた。が、また一面、人と人とは、生命と種を維持すべく共同体を形成して支えあってもきた。

文明の進歩とは、人と人との争いの契機を小さくし、やがてはなくすこと。これに代わって共同の契機に基づく社会を形成していくこと。そうには違いないのだが、問題は、このあるべき進歩がけっして必然とは言い難いことなのだ。

人は、食料を求め、土地を求め、生産手段を求めて争い、富と財貨を奪い合い、互いに権力的支配を争奪し、信じる神の正統性でも、正義の解釈でも争ってきた。その争いの究極の形が戦争である。戦争の規模とその残酷さは、歴史を経るにしたがって大きくなり、今や人類を滅ぼそうとさえしている。

近代の人間の理性と叡智は戦争を違法化する試みを営々と続け、大戦間の国際連盟や不戦条約、そして第二次大戦後の国際連合を生み出した。さらに、わが国は、15年にもおよんだアジア太平洋戦争の惨禍に対する真摯な反省と不戦の決意の中から日本国憲法を生み出した。日本国民は、戦争による廃墟のなかから、人類の叡智の正統なる承継者として、今後いかなる局面になろうとも、再びの戦争を避け、武力の行使や威嚇を紛争解決の手段とはしない旨を宣言したのだ。

いつ、いかなるときも、この恒久平和の理念を揺るがせにしてはならない。とりわけ好戦的な政府が戦争や軍備への誘惑を語るとき、国民は断固として平和の声を上げなければならない。

国防の必要は、常に邪悪な敵を想定して煽られてきた。かつては、暴支膺懲であり鬼畜米英がスローガンであった。手前勝手に、他国の領土を日本の生命線などと称して、これを守るための自存自衛の戦争の必要が語られた。

戦後は、長く暗黒のソ連や共産中国が仮想敵国であった。そして今、その地位は北朝鮮が担っている。北への不安や恐怖の煽動に乗せられて、恒久平和主義を揺るがせにしてはならない。このようなときにこそ、軍備もその行使も、紛争解決の手段とはなり得ないことを冷静に再確認すべきではないか。

日本国憲法前文は、こう宣言した。「日本国民は、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。決意した、とは中途半端な言葉ではない。あらゆる知恵を使い、勇気をもって、武力によらない平和の追求に徹するとの国家方針を決断したのだ。今ごろになって、オタオタしたり、びくびくすることはない。

子どものケンカも、暴力団の抗争も、国家間の諍いも、基本の構図においてさしたる変わりはない。口ゲンカの応酬が殴り合いになることも、小競り合いが不測の本格的な衝突に発展することもある。見栄を張っての強がりが引っ込みつかなくなって乱闘になることもありがちだ。金正恩とトランプの舌戦も、危険なことに間違いはない。

現実的な選択肢として、わが国のなし得ることとして武力の威嚇も行使もあり得ない。なによりも、米朝両国の危険なチキンゲームをやめさせなければならない。紛争当事者同士が話し合うのが解決の手段だが、なかなか当事者だけではできない。こういうときに、時の氏神としての仲裁者の登場が期待される。

仲介者たりうるのは、国際機関であるか、当事者双方に信頼と敬意をもたれる第三国である。仮に、日本が憲法を忠実に守って自衛隊も安保もない戦後を経験していたとすれば、そのような権威があったろう。しかし、まことに残念ながら日本にはそのような資格がない。国連か、ヨーロッパのどこかか、あるいはロシヤか中国か。対話の仲介に名乗りを上げたらどうだ。

報道によれば、ドイツのメルケル首相が、ドイツの役割について「軍事的な分野ではないところで、ドイツも問題の解決に向けて積極的に関わっていく」と述べている。アメリカ国内でも、米朝2国間の直接対話を望む多くの声があがっている。

日本国内でも、「軍事的対決を避けて対話を」「2国間の直接対話を」「対話の仲介者よ、出でよ」という世論を喚起すべきだ。わが国の政府は、アメリカの傘の下にあって、トランプの威を借りることしか能がない。いたずらに、「北朝鮮=挑発者」の構図から一歩も出ることが出来ない。だから、政府ではなく、憲法九条を持つ国の国民こそが、武力に拠らない紛争の解決に声を上げようではないか。
(2017年8月14日・連続第1597回)

戦争屋にだまされない厭戦庶民の知恵―そのQ&A

「最後の特攻隊員ー2度目の遺書」(高文研)の著者として知られ、「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」を主宰しておられた信太正道さんが、亡くなられたのが2015年11月10日。この秋で2年となるが、まだ「厭戦庶民の会」からの郵便物は途絶えない。その活動は信太さん亡き後も続いているのだ。

国際的にも国内でも、「戦争屋」と思しき人物が戦争を煽っているこの世の中である。「こんな人物の虚言にだまされてはならない」という、信太さんの声が聞こえてくる。ひとりの人の熱意は、その人の死後にも他の人を動かすのだ。

「厭戦庶民の会」というネーミングに、最初は違和感もあった。しかし、正面からの「反戦」「不戦」や「平和」ではなく、「厭戦」というところに、信太さん独特の庶民感覚が見える。「国民の2割が面従腹背の厭戦主義なら戦争屋は戦争ができません」と言っておられたという。

「厭戦庶民の会」から送られた郵便物のなかに、「『厭戦庶民』超緊急増刊号」がはいっていた。太い文字で、「憲法Q&A(2016年版)」「憲法Q&A(2017年版)」「共謀罪Q&A」とタイトルがつけられたもの。全部で17の「Q&A」と、「緊急事態条項って何」が収められている22頁の手作りパンフレット。

冒頭に以下の一文がある。
 このQ&A集は、2016年と2017年の「平和のための戦争展inよこはま」での厭戦庶民の会の展示を、冊子のかたちに編集したものです。展示をつくるにあたっては、事務局以外の方々にも参加していただき、議論をつみ重ね文章にまとめました。このささやかな冊子には、多くの方々の経験と知恵がぎっしりとつまっているのです。
共謀罪と憲法について悩んだとき、まわりの人との対話のなかで壁につきあたったとき、ぜひこのQ&A集を活用して下さい。共謀罪の制定と改憲を阻止する力をつくるために!

私も、多くの方々の経験と知恵を学ぼうと思う。
先日、「本郷・湯島9条の会」が本郷三丁目交差点で街頭宣伝行動をしていた折、平和を訴えていた私たちの側まで来て、「北朝鮮に攻め込まれたとき、非武装でどうする」と言った男性がいた。毎回の行動で、一人か二人、こういう人に遭遇する。さて、どのようにお話ししたらよいだろうか。このパンフレットの次のQ&Aを参考に組み立ててみたい。

Q:中国や北朝鮮の脅威に、いまの憲法で対応できるのか不安です。(2016年版)
A:ミサイル発射や核実験、軍事施設建設などに不安をもつのはわかります。けれども、アメリカや日本も、原子力空母やイージス艦、偵察機などをわざわざ近くまで送り込んで、実戦的な軍事演習をやっています。相手側からすれば、これこそ挑発であり脅威ではないでしょうか? 両者が軍事的に対抗しあって、脅威をつくっているのです。脅威をとりのぞく道は、憲法を変えて軍事行動をやりやすくすることではなく、中国や北朝鮮、アメリカ・日本の軍事的対抗そのものをやめさせることではないでしょうか? そのためには、戦力と交戦権を否定した日本の憲法は、無力どころか大きな支えになるはずです。
ところで、脅威をあおっているのは誰でしょうか? 北朝鮮にミサイル発射の兆候があると、防衛省はすぐにPAC3配備の様子などをテレビで大々的に宣伝します。まるでミサイル発射を、自衛隊の軍事訓練に利用しているような印象さえうけます。政府・防衛省は、いますぐにでも日本にミサイルがうちこまれると本気で思っているのでしょうか? もしそうなら、日本海側に何十基もの原発をそのままにしておくことは、恐ろしくてできないはずです。だまされてはいけませんね。

Q:北朝鮮のミサイル発射や核実験‥。今の憲法で対応できるか不安です。(2017年版)
A:「北朝鮮が日本を狙っているのだから、やはり軍事的に対抗することは必要。今の平和憲法では無力では」ということでしょうか?たしかに今、北朝鮮の政府は、日本や韓国の人々の方にミサイルを向けて、じっさいに発射実験もおこなっています。とても許せないことです。しかし、これに対して、軍事力で対抗することは解決になるのでしょうか?危機を高めることにしかならないのではないでしょうか?
最近では「ミサイル発射される前に先制的に北朝鮮の基地をたたいてしまえ、核をおとして壊滅してしまえ」という声もきかれます。けれども、北朝鮮には私たちと同じような庶民がいます。彼らは政府がミサイル、核実験を幾度となくおこなうことによって、食べる物に困るほどの犠牲を強いられているといいます。先制的に攻撃することは北朝鮮政府に苦しめられてきた人たちのさらに命を奪うことにしかなりません。
「だったら金正恩だけを一気にやっつければいい」と言う人もいます。しかしそれまでアメリカが「○○の首をとる」とか「ピンポイントでやる」と言って、それですんだことがあるでしょうか。その過程で多くの人々の頭上に爆弾をふらせ、その後も泥沼化する戦闘の中で多くの犠牲者をだしてきたのではなかったでしょうか?
そもそも、最近戦争になりそうなほど危機が進んだのは、アメリカがシリアやアフガニスタンを攻撃し「次は北朝鮮だ」といわんぱかりに日本海に空母や原子力潜水艦を送りこみ、いつでも戦争できる態勢をとったからではないでしょうか。それに付き従ったのが日本です。歴史をふり返ってみても北朝鮮をここまでおいつめたのはアメリカです。
ミサイルに対して、より大きな軍事力でたたいていく、このようなことは悲劇しかうみません。私たちは権力者同士の軍事的な対抗や軍事力をバックにしたかけひきによる解決ではなく、むしろ憲法9条をつらぬいて、北朝鮮、日本、アメリカなどの庶民が国際的に力をあわせ戦争と軍事的な挑発をやめさせるべきではないでしょうか?
(2017年8月10日・連続1593回)

自衛隊を憲法上認知することは、「日の丸・君が代」を国旗国歌と法的に認知したことの二の舞となる。

5月3日「第19回公開憲法フォーラム」におけるアベ晋三・ビデオメッセージで現れた「9条改憲新提案」に必要な反論をしておきたい。

アベ新提案は、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」というもの。意外性十分である。
これまでの改憲案の最大テーマは、9条2項(戦力不保持)の存否をめぐってのものだった。たとえば自民党改憲草案は、9条2項を全面削除するものとなっている。その上で9条の2を新設して、1項から5項までの規定を置き、詳細に国防軍の設置を定めている。明らかに、現状の自衛隊とは異なる、戦争を目的とした実力組織をもつことを明文化しようとするもの。その結果、装備も編成も、自ずから対外戦争を遂行するに足りる水準のものにならざるを得ない。空母も原潜ももちうることになる。日本が、戦争を政策の選択肢の一つとする国家であることを明示し宣言することを意味し、近隣諸国への威嚇ともなって、確実に緊張関係を高めることとなろう。
ところが、新提案はそうなっていない。あっさりと「9条2項を残す」という。その上で、前後の文脈からは「(現在ある)自衛隊を、(現在ある自衛隊のまま、憲法上の存在として認めるよう)明文で書き込む」というだけの内容に読みとれる。この新提案には、本音の改正願望を抑制した「過小な」改憲提案と評価される余地がある。しかし、この新提案を「過小な」ものと見くびってはならない。

まず、なによりも、これまで囁かれてきた「現実的な発議の落としどころ」が、緊急事態に関連した衆議院の解散への制約程度の「些事」についての「お試し改憲」提案であった。言わば、本丸からははるかに遠い、二の丸、三の丸の、石垣の一部に爪を立てようという程度のものだったはず。それが、とにもかくにも9条の本丸に手を延ばしてきたことを深刻な重大事と受けとめなければらない。

また、この9条改憲新提案には、公明や維新も、あるいは民進の一部も抵抗なく受容するのではないかという思惑が感じられる。さらに、護憲派と言われてきた運動の一部にも、動揺が及ぶのではないかと懸念される。

かつて、東京新聞「こちら特報部」(2015年10月)が「平和のための新9条論」を大きく取り上げた。「安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新9条の制定を求める声が上がり始めた」、「戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新9条である」との紹介の仕方だった。肯定評価という域を超えて、この方向に意見と運動を誘導しようという意図が見えた。

専守防衛に徹する自衛隊の存在を肯定し、個別的自衛権を行使容認を明記した明文改憲によって、新9条を制定しようというのだ。条文と現実との乖離を最小化して「解釈の余地を政権に与えない」憲法を制定しようとの発想だという。

この点について、2015年10月23日の当ブログで、次の批判の記事を書いた。
「新9条論」は連帯への配慮を欠いた提言として有害である
http://article9.jp/wordpress/?p=5803

目的や位置づけに差異があることは当然として、現象としては、アベの口から「新9条論」が語られたのだ。護憲の意味の再検討が迫られる。

憲法は現実を批判する規範として理想を語っている。現実との乖離は永遠の課題であって、常に現実を理想に近づける努力を続けなければならない。この乖離の存在を理由に、現実を理想に近づける努力を放棄して、理想の方を現実に合わせて引きずり下ろそうということには賛成しかねる。理想を一歩現実の方向に動かせば、現実は二歩も三歩も逃げていく。戦力不保持から一歩退いた「専守防衛」は、先制的防衛や予防的防衛という現実をもたらすことになるだろう。

9条護憲派には大別して2種ある。「自衛隊は違憲、安保条約も違憲。自衛権の発動としても一切の武力行使はできない」という伝統的護憲派陣営(A)と、「自衛隊は合憲、安保も合憲。集団的自衛権の行使は違憲だが、個別的自衛権の行使としてなら武力行使は可能」という旧来の保守本流の専守防衛陣営(B)。

統一した運動においては、A陣営は、B陣営との連携のために、Bの主張を前面に押し出すことになる。安倍政権と自公両党が、現状を大きく変えようと強権の発動をしている以上、現状を維持しこれ以上悪化させないためにはB論で一致することとなる必然性があったからだ。その逆の連携のあり方は非現実的で、あり得ることではない。一見すると(A+B)の全体が、あたかもBの見解で統一されたかのごとき観を呈したが、実際にはA陣営護憲派は、その見解を留保してきたのだ。

今、アベ新提案に、自衛隊違憲論のA陣営が揺らぐはずはない。専守防衛論のB陣営の人々に訴えたい。自衛隊を明文で認めることは、自衛隊を法的にコントロールすることにつながるよりは、自衛隊が大手を振って闊歩する時代の現出となる危険の大きいことを。

私は、国旗国歌法制定の国会審議を思い出す。首相も文部大臣も、口を揃えて言ったものだ。「法案は現状を追認するだけ」「人々になんの義務を課すものでも、権利を制限するものでもない」「教育現場になんの変化もない」「法は強制も制裁も予定していない」。しかし、法が制定されたあとは、国会での答弁とはまったく違った光景が現実のものとなった。教員に対する強制と処分の濫発がまかりとおる事態となり、権力による教育への管理統制の弊害は目を覆わんばかりである。確かに、国旗国歌法自体は強制の根拠とはなり得ない。しかし、「日の丸・君が代」に、国旗国歌としての法的認知がなされるや、公務員法、教育関係法の運用ががらりと変わったのだ。

おそらくは、自衛隊の憲法的認知は、同じ効果をもたらすことになろう。今、「新9条論」再論ではなく、これまで共闘してきた(A+B)の全体が、実質的にA論で統一して、アベ新提案を拒否する運動となることを望む。絶対に、アベに明文改憲をさせてはならない。
(2017年5月5日・連続第1496回)

祝・憲法施行70周年の憲法記念日

古稀は、年老いたことへの慰めの日ではない。古来稀なるとされた長い人生を経てなお、矍鑠たることの祝いと励ましの日である。憲法も同じだ。今日は、単に日本国憲法が年を経たことの、懐古・懐旧の日ではない。70年日本国民が、平和憲法と平和を守り抜いた誇りの日として祝おう。そして、もっともっと憲法を使いこなすべく、決意をかためるべき日なのだ。

その憲法記念日の東京新聞。本日の「平和の俳句」が眼に突き刺さる。胸が痛む。
  長兄次兄戦死父焦土の首都に焼死せり 江川節夫(84)東京都練馬区

これに付された、いとうせいこうの解説も句作さながら。さすがのものだ。
「このゴツゴツした字余り。慟哭の呪文のごとき文字列。そこに作者八十四歳の思いがぎっしりと詰まっている。八人きょうだいの末っ子。」

社会面に、江川さんを取材した記事がある。「平和継がなければ」「戦争は家族を破壊する」「揺らぐ憲法の理念 あきらめムード危ぶむ」という大きな見出し。

その最後に、江川さんの言葉がある。
「平和を守り続けてきた憲法の大切さは、理論的に言うだけでは伝わらない。家族を破壊する戦争の悲しみ、苦しみを若い人に語り継がなければ」

まったくそのとおりだ。平和憲法は、理論的に生み出されたものではない。家族や知人を失った、生き残りの日本人の悲しみと苦しみこそが生みの親であった。70年間、この平和憲法を守り抜いてきたのもまた、日本人の戦争体験とその継承による、悲しみと苦しみの記憶だった。もちろん、これに加害責任の自覚も伴っている。

日本国憲法とは、なによりも平和憲法なのだ。戦争の惨禍に対する痛苦の反省から生まれたが、戦争の記憶が薄れると、再びの軍事大国化願望が首をもたげてくる。アベのごとき、平和憲法に露骨な敵意をもつ者に、政権を担わせてしまっているのだ。

本日・憲法記念日は戦争を忌避し、平和の価値を再確認すべき日。しかし、各紙の社説は、一様ではない。憲法に対する、とりわけその平和主義に対する姿勢のコントラストが著しい。

産経は極右と政権の立場を代弁して、「北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となりつつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう」と言っている。読売も、「憲法施行70年 自公維で3年後の改正目指せ」と改憲の応援団役を買って出て旗を振っている。

日経は、「身近なところから憲法を考えよう」という。時代に切り結んでいるかはともかく、改憲の旗は振っていない。毎日は「施行から70年の日本国憲法 前を向いて理念を生かす」。朝日は「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ」と、それぞれ見識を示している。

感動的なのは、やはり東京新聞。「憲法70年に考える 9条の持つリアリズム」というタイトル。穏やかな語り口で、問題の核心に切り込んで説得力がある。

同社説は、次のリードを置いている。
「日本国憲法が施行されて七十年。記念すべき年ですが、政権は憲法改正を公言しています。真の狙いは九条で、戦争をする国にすることかもしれません。」

アベ政権の改憲のねらいを「戦争をする国にすること」と端的に喝破している。「戦争のできる国にすること」「戦争を政策の選択肢としうる国にすること」とまだるっこしいことをいわない。なるほど、政権の究極の狙いは「戦争をする国にすること」に帰着するのだ。

社説の本文は、冒頭に金森徳次郎の言を、末尾に石橋湛山の文を引用している。
<今後の政治は天から降って来る政治ではなく国民が自分の考えで組(み)立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない>(金森)

<わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす>(湛山)

この湛山の言葉を受けて、同社説は「これが九条のリアリズムです。『そういう(国を滅ぼす)政治家には政治を託せない』と湛山は断言します。九条の根本にあるのは国際協調主義です。不朽の原理です」と解説する。

そして最後をこう締めくくっている。
「国民は種まきをします。だから『悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない』-。金森憲法大臣の金言の一つです。愚かな政治を招かないよう憲法七十年の今、再び九条の価値を確かめたいものです。」

同社説の中の次の各指摘を真摯に受けとめたいと思う。

「九条も悲惨な戦争を体験した国民には希望でした。戦争はもうこりごり、うんざりだったのです。かつて自民党の大物議員は『戦争を知る世代が中心である限り日本は安全だ。戦争を知らない世代が中核になったときは怖い』と言っています。今がそのときではないでしょうか。」

「それなのに一部は反省どころか、ますます中国と北朝鮮の脅威論をあおり立てます。同時に日米同盟がより強調され、抑止力増強がはやし立てられます。抑止力を持ち出せば、果てしない軍拡路線に向かうことになるでしょう。」

本日の「施行70年 いいね!日本国憲法-平和といのちと人権を!5.3憲法集会」は55000人の参加で盛りあがり、インパクトのある集会となった。憲法改正阻止の大運動に向けて、力強さを感じる。4野党の党首クラスと、沖縄の風の伊波洋一が、護憲とアベ政権打倒を訴えた。

護憲の理念は、単に成文憲法の改悪阻止にとどまらない。その時々に、憲法の理念をめぐっての、個別のテーマが必ず存在する。

本日の集会で、繰り返し訴えられたテーマは、「共謀罪」「沖縄」「戦争法廃案」「脱原発」「軍学共同反対」「脱格差・反貧困」「反ヘイト」。そして「アベ政権の暴走を許さない」「野党と市民の共闘」であった。

あらためて、憲法の平和主義の理念の内実と、これをないがしろにする日米安保体制への批判を再確認した。帰りのバスで見た歩行者天国の平和で穏やかな風景。これを守るのは、断じてカールビンソンではない。市民の生活の平穏を守るのは、平和憲法であり、憲法に依拠して平和を守ろうとする人々の熱い思いと行動なのだ。
(2017年5月3日・連続第1494回)

憲法記念日を前に訴える緊急声明(日民協)ー「軍事力で問題は解決しない!米朝対立による戦争の危機を回避せよ」

1.日本国憲法施行70年を迎える憲法記念日が近づいています。憲法は前文
で「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存す
る権利を有することを確認」しています。ところが今、朝鮮半島に「戦争の
危機」が迫っています。
私たち日本民主法律家協会は、米国および北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和
国)両国の対立から、東アジアで戦争が起きることを断固として回避し、あ
くまで話し合いによって問題解決を図るよう、米、朝両国政府に訴えるとと
もに、日本政府と韓国、中国、ロシアを初めとする東アジアの各政府が問題
を深刻にとらえ、対話による問題解決の道を開くため、あらゆる努力を傾注
することを求めます。

2.北朝鮮政府は、度重なる国連の決議にも拘わらず、核兵器および、その運
搬手段である中、長距離の弾道ミサイルの開発を進め、実験を続けてきてい
ます。これに対し、米国の新政権は、これまでの北朝鮮への経済制裁、韓国、
日本との共同訓練だけでなく、武力による制圧を計画し、近海への空母攻撃
団の派遣など圧力を強めています。そしてさらに、米国は「あらゆるオプシ
ョンがテーブル上にある」「中国が協力しなければ、独力で北朝鮮核問題を
解決する」「一線を越えれば、トランプ大統領は行動に出る」などと発言、
一方の北朝鮮も「米国が選択すれば戦争に乗り出す」「米国の無謀な軍事作
戦に先制打撃で対応する」「トランプ政権の対朝鮮政策は、歴代政権と比べ
てもさらに悪辣で好戦的」などと応酬、「宣伝戦」を続けています。
4月18日に行われたペンス米副大統領と安倍晋三首相との会談では、ペン
ス米副大統領が、「平和は力によってのみ初めて達成される」と述べたこと
に対し、安倍首相が事実上同意して、この「力による『平和』」を支えるた
めに「北朝鮮が真剣に対話に応じるよう圧力をかけていくことが必要だ」な
どと軍事的対立を煽るかのような発言をしています。
こうした日本国憲法の平和理念と正反対の動きに竿をさす安倍首相の責任
は重大であり、私たちは強く抗議します。
これらの発言は、メディアで取り上げられ、拡大され、それぞれの考え方
や思惑を越えて、世界に不安と不信を広げています。

3.私たちは、いかなる事情があろうとも、問題を武力で解決しようとする双
方の考え方を支持することはできません。
私たちは日本中をがれきにし、アジアで2000万、日本人だけで300
万を超す犠牲者を出した戦争の惨禍を経て、非戦、非武装の日本国憲法を守
り、70年を生きてきました。
しかし、今回、いずれかの国が「先制攻撃」をし、もう一方がそれに「反
撃」をすれば、米朝両国だけでなく、韓国も日本も、その戦争に巻き込まれ
多大な犠牲を出すであろうことは、火を見るより明らかです。まして、いっ
たん核兵器が実戦に使われたならば、一地域の問題ではなく、地球規模の被
害となることも必定です。
国民の生命と財産を守るべき日本政府は、こうした状況を冷静に見据え、
あくまで、朝鮮半島がそのような事態にならないよう、両国に訴えかけるな
ど、積極的な努力をしなければなりません。そして同時に、平和的な外交手
段を通じて、北東アジア地域全域の「武力によらない平和と安全保障」を追
求しなければなりません。
いま私たちは、この危機に直面して、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と
欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とう
たった憲法前文と、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行
使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とした憲
法九条を改めて思い起こし、「軍事力で問題は解決しない」ことを、声を大
にして訴えます。

日本政府と米朝両国、また、両国をはじめ世界の人々が、直ちに、話し合
いの呼びかけなど、そのための具体的な努力をされるよう、こころから訴え
るものです。
2017年 4月19日
日本民主法律家協会
理事長 森 英 樹

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少しだけ、私見を付け加える。
今対決すべきは、「平和は力によってのみ初めて達成される」という思想。70年前の日本国憲法制定時に、われわれはこれを採らないとした思想だ。私たちは戦争の惨禍を経て、「武力による平和」という考えを捨てて平和憲法を採択した。私たちのテーブルには、豊富な平和への選択肢がある。しかし、武力による威嚇や武力の行使による平和構築という選択肢はない。

樋口陽一氏の講演録からの引用である。
「1931年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(1896ー1993)は、「これは日本の自衛行動ではない」と断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手許にある。その中で横田は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この2人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。」

今必要なのは、「平和は力によってのみ初めて達成される」に対置される、「平和を欲するがゆえの平和を準備」にほかならない。平和を欲して「平和を準備する」その一歩は、とにもかくにも平和を望む声をあげることだ。日民協の声明は、その一つの試み。その声明を紹介する私のこのブログも、そのような小さな声の一つ。

日民協の緊急声明。是非とも、転載拡散をお願いしたい。

(2017年4月19日)

北朝鮮を、暴発にまで追い込んではならない。

誰もが思うことでも、口にすることをはばかることがある。誰もは思わないことなら、なおさらである。

その典型の一つは、権力批判である。政治的あるいは経済的・社会的な権力者を批判すると、回りまわって何らかの報復を受け、不利益を被ることになる恐れがある。だから、権力者への批判は、口にすることをはばかられるのだ。痛烈な批判であればあるほど、である。

もう一つの典型は、権威の批判である。天皇や天皇制に関わる言論がその最たるものだろう。権威とは、社会的多数派による特定の人物や事象に対する敬意や神聖性の承認を強制する圧力のことである。社会的排外主義が、すべからく権威の批判者を攻撃目標とする。だから、権威への批判は、口にすることをはばかられるのだ。痛烈な批判であればあるほど、である。

保身を前提とする限り、権力批判も権威批判も、慎むべきが正常な平衡感覚を持つ者の合理的な判断と言ってよい。ゴマを擂ったり、忖度しての阿諛追従まではせずとも、口を慎み沈黙すべきが常識人の処世術にほかならない。

「口は禍の元」「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」「大きなものには呑まれろ」「敬して遠ざけよ」「さわらぬ神に祟りなし」と、その手の教訓は世に満ちている。それだけではない。「和を以て貴しと為す」「逆らうことなきを旨とせよ」との書紀の記述以来、従順なる沈黙は道徳の域にまで高められ、権力や権威に対する批判は慎むべきが美徳として染みついているのがこの社会の伝統である。メデイアもこの伝統をよく身につけ、権力者とはともに寿司を食い、天皇には「陛下」と呼んで畏まり、歌を忘れたカナリアとなっている。

我が国のメデイアの自由度の国際的なランク付けが、昨年(2016年)は対象180カ国・地域のうちの72位とされたのは、情けないながらも、さもありなんというべきだろう。国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は今年も、もうすぐランキングを発表する。日本が、昨年よりもランキングをあげているとは到底考えがたい。

さて、「誰しもが思うことで、口にすることをはばかること」である。
北朝鮮の現体制は戦前の日本の体制に酷似している。明治維新以来の神権天皇制が三代続いて、その國體は塗炭の苦しみとともに崩壊した。この間ほぼ77年である。北朝鮮が1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の樹立を宣言して、もうすぐ70年。既に金帝国が三代続いて、この擬似帝国もそろそろ崩壊の時を迎えているのではないか。

ともに、極端な個人崇拝と権威主義。政権に服しないものには容赦ない弾圧。そして、徹底した情報統制と情報操作。個人崇拝のための漫画チックで大仰な演出。自国のみを貴しとする独善。世界からの孤立。20世紀前半の日本は、無理に無理を重ねたいびつな国家だった。21世紀の北朝鮮も、まことによく似ていると言わねばならない。

さすがに北朝鮮は領袖を神とまでは言わない。統治の正統性の根拠を、フィクションではあれ人民の意思としている。この点では神権天皇制よりはよほど開明的ではある。それでも、「将軍さま」は「天皇陛下」の模倣であり、その実態において正統なる後裔というべきだろう。主体思想が教育勅語に当たることになろうか。両体制の放送におけるアナウンサーのトーンまでがそっくりではないか。

最近、アメリカが「北朝鮮の体制の転換までは求めない」と言い出していることが興味深い。「北朝鮮の体制の転換」とは、金世襲政権の覆滅ということだろう。太平洋戦争末期、敗戦が必至となって降伏の遅延は大規模な国民の生命の喪失を意味することが明らかな事態で、天皇(裕仁)が「國體の護持」にこだわって、終戦を遅延させ、東京大空襲、沖縄の悲劇、広島・長崎の原爆投下をもたらしたことを思い起こさせる。国民の命よりも、天皇制の存続が重要事だったというわけだ。いま、北朝鮮も似たような状況にあるのだろう。そして、アメリカのコメントは、戦後日本の政策に天皇を利用したように、骨を抜いた金世襲政権に利用価値を見だしているというなのだろうか。

とはいえ、旧天皇制日本の軍国主義侵略主義にも「3分の理」はあった。1941年の天皇制日本は、先進帝国主義連合のABCD包囲網に経済的な行き詰まりをみて、その打開のために無謀な先制攻撃で開戦に踏み切った。これを「自存自衛」のやむをえざる戦争といった。

もちろん、北朝鮮にも3分の理がある。すべての軍事的行動は周辺諸国からの具体的な圧力や脅威に対抗するための自衛手段に過ぎない。これ以上軍事的・経済的包囲網が狭められれば、「自存自衛」のための暴発をしかねないではないか。1941年時の日本との違いは、この国が既に核をもっていることにある。この国に対する挑発は危険だ。韓国だけでなく、米軍基地のある日本が戦火の危険にさらされることになる。だから、今回は絶対に軍事的な選択肢をテーブルの上に置くことはできない。現に、次期大統領の椅子を争っている、韓国大統領選挙候補者5人のすべてが、揃ってアメリカの北への先制攻撃に反対しているではないか。

「平和主義」(パシフィズム)には、臆病で姑息だというニュアンスが込められている。しかし、強がってのチキンゲームは危険に過ぎる。北朝鮮を、1941年の日本のごとくにしてはならない。臆病でも姑息でも「平和主義」に徹して、外交努力による平和解決を目指す以外に方法はない。中国が果たすべき役割は大きいが、日本には外交的に口を出すべき余地が極めて小さい。そもそも、それだけの権威も信頼感もないのだ。アベ政権頼むに足りず、なのだ。この外交力の欠如は、近隣諸国との外交を軽視してきたアベ政権のこれまでの姿勢の表れである。せめて憲法九条をもつ日本国民の一人として、「平和的手段による解決」を、と声を出し続けよう。
(2017年4月16日)

気の合う似た者同士 春の夜の秘密の会話

A国首脳からB国首脳への打電
秘密が厳重に守られていることを信頼して、ご連絡いたします。
貴国が、本日(3月6日)午前7時36分ごろ、貴国西岸から東北東に向けて発射した飛距離約1千キロの弾道ミサイル4発のうち3発がわが国西岸海域の排他的経済水域(EEZ)に到達して落下。残る一発も域外近海に着水。私は、貴国を強く非難する談話を発表し、防衛相は「引き続き、情報収集・警戒監視に万全を期せ」との指示を出した。折しも、わが国の国会は、小学校新設問題をめぐっての私と妻のスキャンダルで騒然としていたところ。私の名を冠した校名で寄付を集め、私の妻が名誉校長に就任していた小学校の新設。その校地の国有地払い下げに私ども夫婦が関与したという疑惑。いつものことながら、実にタイミングよく貴国がミサイルを発射して、国民の関心をそらしていただき、私の窮地を救っていただいたことを感謝申し上げます。

B国首脳からA国首脳への返信
お役に立てたこと、欣快の至りでございます。
貴殿を首班とする長期政権が貴国の政治に継続することが、わが国にとっての死活的利益なのです。貴殿は、貴国を軍事大国化するとして、強引に突出した防衛予算膨張政策を続けていますが、その政策こそが我が国と軌を一にするところです。貴国が軍事費の膨張を重ねるから、我が国も軍備拡張してミサイル発射の口実をもつことができる。貴国も、我が国の軍備拡張を根拠に、防衛予算の拡大ができる。持ちつもたれつの親しい間柄ですから、貴殿の事情は常に把握し、必要あると忖度されるときは果敢にミサイル発射でも、核実験でもさせていただきます。貴国のナショナリズム喚起のため、そして何よりも貴殿の政権存続のために。

A国首脳からB国首脳への再打電
貴殿は貴国創建者の3代目。私も、政治家3代目。お互い気心が通じる素地があろうかと思います。私は、我が国の防衛力を強化して軍事大国化することが念願ですが、そのためには国民精神が危機意識をもってナショナリズムに覚醒しなければならりません。ところが、我が国には平和憲法があって、国民は平和主義・国際協調主義にすっかり慣れてしまっています。笛吹けど踊らぬ国民を踊らせるには、貴国の存在が何より必要なのです。世論調査における私の支持率は、貴国のミサイル発射のたびに持ち直すのです。今後も、よろしくお願いします。

B国首脳からA国首脳への再返信
我が国こそ、とりわけ私こそ、貴殿に感謝と恩義を感じています。
仮に、貴国において平和憲法を守ろうという政治勢力が政権に就くようなことがあれば、お互いにとってこの上ない悪夢というしかありません。貴国の軍備は削減されて、領海や国土の保全機関に徹することになり、あるいは大規模な環境保護部隊や災害救助専門部門に改組されて、我が国にとっての脅威でなくなるとすれば、我が国の軍事力維持増強の根拠が崩壊することになる。これは、恐るべき事態ではありませんか。

A国首脳からB国首脳への再々打電
まったく、おっしゃるとおり。腹を割ってお話しすれば、お互い利害を共通にし、同じ悩みももつもの同士。自国の民心を掌握するためには、ナショナリズムを喚起し隣国に対する敵愾心を掻きたてなければなりません。「自国は常に正義、相手国は常に邪悪」とお互いに非難し合うことが効果的なのは、歴史の示すところ。

B国首脳からA国首脳への再々返電
今回のミサイル発射は、今月1日から始まったC・D両国合同軍事演習に対する不快感の表明でもあり、自国民へのアピールでもあります。国民は、自国の軍備の増強には、無邪気に素直に喜ぶのです。国民は、政権と被治者の間の敵対関係を見抜くことなく、「自国」の軍備増強大歓迎なのです。このことは貴国でも事情は同じことでしょう。私の国から見ますと、天皇制政府が被抑圧階級を搾取し弾圧したことは動かしがたい歴史の事実。その天皇制政府の高官として、戦争突入内閣の商工大臣を務め、大陸侵略の大立て者だった人物の孫を、被抑圧階級が選挙で選んでいることが信じがたい滑稽なことではあります。それでも、ミサイル発射は貴殿の窮状を救うためなのです。

A国首脳からB国首脳への再々々打電
私の方こそ、貴国の独裁体制には批判があるのですが、それを言い始めると、いつものようにぶち切れますのでやめておきます。いずれにせよ、貴殿と私とは、一心同体ともいうべき軍事力信奉者であり、軍備拡大論者なのですから、お互いに相手の軍備増強姿勢を批判しつつも根拠にしつつ、表向きは相手国を挑発者と罵りながらしっかりと軍備増強に励もうではありませんか。

B国首脳からA国首脳への再々々返電
そう、お互いがお互いを挑発者とし、軍事演習を不快とし、新しい兵器の調達や防衛予算の拡大を口実にし合いながら、持ちつ持たれつで、軍備の増強に励もうでありませんか。

両首脳からの同時発信
有意義な意見交換でした。表面は反発し合いつつ、それぞれの国の軍備を増強しましょう。
(2017年3月6日)

「詭弁のイナダ」の防衛大臣辞任を要求する

「白馬は馬にあらず」とは詭弁である。
詭弁は、何らかの実益をもたらす「論証」のためのものである。
「それゆえ、馬の所有への課税も、私の白馬には非課税だ」
「それゆえ、白馬に乗っているかぎり、『下馬』も『乗馬禁止』も無視してよい」
「馬は徴発の対象となっても、白馬を徴発することは許されない」

「殺傷行為も武力衝突も戦闘ではない」は詭弁である。
 この詭弁はPKO派遣部隊の違憲行動を糊塗する。
「それゆえ、殺傷行為があっても武力衝突があっても戦闘があったとは言えない」
「現地に戦闘がない以上、自衛隊の憲法9条違反が問題となる余地はない」

「法は法的概念のみを取り扱う」は、もう一つの詭弁である。
「殺傷行為も武力衝突も事実的な概念であって、法的概念ではない」
「だから、いかに砲弾が飛び交い人が死んでも、全ては『殺傷行為・武力衝突』に過ぎず、戦争を放棄した憲法9条違反ではない」

この詭弁の行き着くところは、こんなところだろうか。
「事実として何が起ころうとも、憲法に禁止されている言葉以外で表現すれば、違憲の問題は起きない」
「戦争も、武力による威嚇も武力の行使も、『殺傷・破壊・武力衝突』と言い換えた途端に、憲法9条違反とはならない」

昨日(2月8日)と今日(9日)、イナダ防衛大臣の答弁として報じられているところは、こうだ。
「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」「戦闘行為ではないということに、なぜ意味があるかと言うと、憲法9条の問題に、関わるかどうかということでございます。その意味において、戦闘行為ではないと言うことでございます」「法的な意味の戦闘行為ではない。国会答弁する場合には、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」「紛らわしい言葉は使わない」

南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)をめぐり、稲田朋美防衛相が8日の衆院予算委員会で「国会答弁する場合には、(戦闘という)憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから『武力衝突』という言葉を使っている」と答弁したことについて、菅義偉官房長官は9日午前の記者会見で「(PKO参加5原則が崩れた状態としないために言い換えているとの)批判は当たらない。全く問題ない」と述べた。(朝日)

だれが聞いても、イナダの答弁は、「PKO参加5原則が崩れた状態としないために言い換えている」以外のなにものでもない。「批判は大当たり」だからこそ、弁明が必要なのだ。

この人は、イデオロギーのいびつさ以前に、事実を事実として認めるという謙虚さに欠けている。こんな詭弁を弄する人物が防衛大臣とは、危険きわまる。野党からの辞任要求は当然のことではないか。

なお、一言。こういう人物が弁護士であることが恥ずかしい。
多くの人が思うことだろう。
「イナダはひどい詭弁を弄する」
「イナダは弁護士だ」
「きっと、弁護士とは詭弁を弄する生業なのだ」

こんなことを思われたくはない。私も、声を大にして要求する。
「一刻も早く、イナダは防衛大臣をヤメロ」「議員を辞めろ」「政治家を辞めろ」
(2017年2月9日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2017. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.