澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

大飯原発に設置許可処分取消判決の「衝撃」。

(2020年12月6日)
一昨日(12月4日)大阪地裁で言い渡された、大飯原発の設置許可を取り消す判決が、日本の社会に大きな衝撃をもたらしている。付された事件名は、平成24年(行ウ)第117号「発電所運転停止命令義務付け請求事件」。福井県や近畿地方の住民ら127人が原告となって被告行政庁を原子力規制委員会とする行政訴訟だが、2012年の提訴以来8年を経ての判決。提訴当時は、原子力規制委員会に「関電に対しての運転停止命令を義務付け」請求であったが、「関電に対する運転許可処分取消」を求める請求の趣旨への変更となり、これが全面的に認容された。なお、被告側に関西電力が参加している。

判決の主文は以下のとおりである。

 原子力規制委員会が平成29年5月24日付けで被告参加人(関西電力)に対してした大飯発電所3号機及び4号機に係る発電用原子炉の設置変更許可を取り消す。

 これは関電にとってだけでなく、財界にとっても、そして政権にとっても、政権を支えてきた原子力ムラにとっても、この上ない衝撃の判決。原発の稼働を直接差し止める判決ではないが、この判決が確定すれば、大飯原発の3・4号機は稼働不能となる。

判決主文だけでなく、その許可処分取消理由のシンプルさが、また衝撃である。このシンプルな理由を全国の原発(の許可処分)に当てはめてみるとどうなるだろうか。毎日は、「大飯3、4号機以外でも、これまでに8原発14基が大飯と同様の考え方で規制委の安全審査を通過した。判決が確定した場合、審査のやり直しを迫られる可能性がある。」と報じている。

まず、裁判所が作成した「判決骨子」(全文)をご覧いただきたい。争点は、原子炉の耐震設計基準の定め方にある。

「関西電力は,大飯原発3号機及び4号機の設置変更許可申請において,各原子炉の耐震性判断に必要な地震を想定する際,地質調査結果等に基づき設定した震源断層面積を経験式に当てはめて計算した平均値としての地震規模をそのまま用いた。新規制基準は,経験式による想定を超える規模の地震が発生し得ることを考慮しなければならないとしていたから,新規制基準に基づき基準となる地震動を想定する際には,少なくとも経験式による想定を上乗せする要否を検討する必要があった。原子力規制委員会は,そのような要否自体を検討することなく,上記申請を許可した。原子力規制委員会の調査審議及び判断は,審査すべき点を審査していないので違法である。以 上」

判決書きの全文は、200ページを越す大部なものだが、その判断の核心は、以上の「骨子」に尽きている。あっけないとも、素っ気ないともいうべき判決理由。

問題は、「原子炉の耐震性判断に必要な地震動の基準」である。これを「基準地震動」という。原子炉は、少なくも「基準地震動」を越える耐震性をもつように設計されるが、その基準値は合理的なものでなくてはならない。ところが、判決はこの基準値震動の設定において、原子力規制委員会の調査審議及び判断にはミスがあって、許可処分は違法だというのである。

キーワードは、「基準地震動」「平均値」そして「ばらつき」である。

原子力規制委員会は、「基準地震動」を策定するに際して、当地の地質調査結果等に基づき設定した震源断層面積を経験式に当てはめて計算した「平均値」をそのまま用いた。しかし、原子力規制委員会自らが定めた規制基準は,「平均値」では足りず、「ばらつき」を考慮して少なくとも経験式による想定を上乗せする要否を検討する必要があった。それをしていない処分は看過しがたい過誤や欠落があったとして違法、というのである。

「数式から算定される想定基準値震動は飽くまで平均値に過ぎず、現実に発生しうる地震が想定の平均値より大きくなる可能性を考慮していないことを違法と判断した」と言ってよいと思う。だから、原告住民側の弁護団は「全ての原発の基準地震動の設定に関する重大な問題。ただちに策定をやり直すべきだ」との声明を出した。

この判決の「衝撃」は、普段滅多に出るはずのない行政に厳格な判決が出たことによる。だが、本来司法とは行政に厳格でなくてはならないもの。実は、この判決は「大道廃れて仁義あり」の類いではないだろうか。「司法の正義廃れて名判決の衝撃あり」の感が深い。

以下に、弁護団声明、原告団声明、判決要旨を掲載する。

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弁護団声明

2020年 12月 4日

大飯原子力発電所設置許可取消請求弁護団

本日大阪地方裁判所は画期的判決を言い渡した。
真塾かっ真剣な審理の結果に対し敬意を表する次第である。
本訴訟の最大の争点は基準地震動の設定が安全性を担保する適切な値として定められているか、そして、国の規制機関である原子力規制委員会がその基準地震動を認めるにあたって、適切な審査をしたか否かにあった。
国が定めた「地震動審査ガイドJには、基準地震動を定めるにあたって、経験式から導かれる数値は「平均値としての地震規模を与えるものであることから、経験式が有するばらつきも考慮されている必要がある」と規定している。しかし、これまで、すべての原発についてこの「ばらつき」は考慮されず、したがって、基準地震動は過小評価されて設定されていた。
本判決は、この基準地震動を過小評価として、それを見過ごした設置許可処分を違法として取消を命じたものである。
この問題は、すべての原発の基準地震動の設定に関係する重大な問題であるから、直ちに全原発について、基準地震動の策定をやり直し、もしくは、一刻も早く危険な原子力発電所を廃止すべきであることを強く訴えるものである。

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原告団声明

12月4日 大阪地裁は国に対し大飯原発3・4号の設置許可取り消しを命じる
大飯3・4号は地震に耐えられないと、原告の主張を認める判決国は控訴を断念して設置許可を取り消し、すべての原発等について耐震性の見直しを行え

本日(12 月 4 日)大阪地裁の行政訴訟において、大飯原発の基準地震動は過小評価であるとして、設置許可を取り消せとの判決が出された。これは福島原発事故後に新たに導入された地震動審査ガイドの規定を踏まえた結果である。原子力規制委員会は直ちに大飯3・4号の設置許可を取り消し、国は人々の安全を守るために控訴を断念すべきである。この判決は8年半にわたる長い闘いの成果である。
原子力規制委員会は、これまで自ら策定したガイドにおける地震規模の「ばらつき」を考慮せよとの規定を無視し、適用を退けてきた。大飯原発で、基準地震動の基礎となる地震規模を決める入倉・三宅式は、過去に起こった世界中の 53 個のデータの平均値である。しかし実データはばらついていて平均式との間に乖離があり、平均式より大きい地震規模が発生する可能性をはらんでいる。
この事実に基づいてガイドは、「経験式は平均値としての地震規模を与えるものであることから、経験式が有するばらつきも考慮されている必要がある」と規定している。この規定について、原子力規制委員会は 2018 年 12 月 19 日付「新規制基準の考え方[改訂版]」において、「当該経験式の前提とされた観測データとの間の乖離の度合いまでを踏まえる必要があることを意味している」との見解を出している。
今年 1 月 30 日に裁判長は被告に対してこの乖離の度合いとして、少なくとも標準偏差を考慮しても、設置許可基準規則 4 条 3 項が規定する「地震による損傷の防止」が成り立つことを示すよう指示した。「ばらつき」の考慮が福島事故後に初めて策定されたことの意味を考えるようとも指摘した。
現行では「不確かさ」を考慮した場合の 856 ガルが最大加速度である。それにさらに「ばらつき」の標準偏差を考慮すれば 1,150 ガルとなる。それでも上記基準規則の成立を示すことが事実上求められたのである。
ところが被告は、標準偏差は考慮したものの、今度は現行の「不確かさ」考慮をとり払い、現行より低い 812 ガルにしかならないと主張した。これでは裁判長が基準規則適合性を求めた意味が消し飛んでしまう。
このような愚論を判決ははっきりと退けた。地震が過去の平均値で起こるとは限らないとの法則性を裁判所が認定したのである。
原子力規制委員会はこの判決を踏まえて、すべての原発及び原子力施設等について、地震規模(地震モーメント及びマグニチュード)の見直しを行うべきである。
関西電力に関しては、大飯原発の地震規模の見直しはもちろんのこと、とりわけ老朽美浜3号炉の耐震性が大きな問題になる。敷地のほぼ直下にある C 断層が現行でも 993 ガルをもたらすが、「ばらつき」の標準偏差を考慮しただけで 1,330 ガルに跳ね上がる。老朽化に伴う諸問題を抱えながら、このような危険性が放置されてよいはずはない。再稼働を中止し、耐震性の見直しを行うべきである。
全国各地の原発に関して、耐震性の見直しを要求する取組みを協力して進めていこう。

2020 年 12 月 4 日 おおい原発止めよう裁判の会

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平成 24年(行ウ)第 11 7号 発電所運転停止命令義務付け請求事件
裁判官 森鍵一,齋藤毅,豊臣亮輔(言渡日 2020年12月4日)

判決要旨

1  事案の概要
(1) 原子力規制委員会は,平成29年5月24日付けで,被告参加人(関西電力)に対し,大飯原発 3号機及び 4号機(本件各原子炉)の設置変更を許可した(本件処分)。
本件は,福井県等に居住する原告らが,本件処分に係る参加人の許可申請(本件申請)が当時の「実用発電用原子炉及びその附属施設の位置,構造及び設備の基準に関する規則」 (設置許可基準規則)で定める基準に適合するものでないにもかかわらず,本件処分がされたものであることなどから,本件処分は当時の核原料物質,核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律43条の3の6第1項4号等に反し違法である旨主張して,その取消しを求める事案である。
(2) 本件の争点は,本件各原子炉の耐震性判断のための基準となる地震動(基準地震動)を策定(想定)するに当たり行われた地震規模(地震モーメント)の設定が,新規制基準に適合している旨の原子力規制委員会の判断に不合理な点があるか否かのほか,原告らが主張するその余の違法事由(基準地震動を想定するための経験式(入倉・三宅式)の選択の違法,制御棒挿入時間の基準超過,F-6破砕帯を活断層と判断しなかったための地盤安定性の見誤り,基準津波の設定の誤り,重大事故時の溶融炉心冷却設備及び放射性物質拡大抑制設備の不備)が認められるか否かである。

2 判断の概要
裁判所は,概要,以下の理由から,本件申請について,基準地震動を策定するに当たり行われた地震モーメントの設定が新規制基準に適合している旨の原子力規制委員会の判断に不合理な点があるとして,本件処分は違法である旨判断した。
なお,原告らが主張するその余の違法事由はいずれも採用することができないものと判断した。
(1) 判断枠組み
原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる発電用原子炉設置(変更)許可処分の取消訴訟における裁判所の審理,判断は,原子力規制委員会の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって,現在の科学技術水準に照らし,原子力規制委員会の調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり,あるいは当該発電用原子炉の設置(変更)許可申請が上記具体的審査基準に適合するとした原子力規制委員会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤,欠落があると認められる場合には,原子力規制委員会の判断に不合理な点があるものとして,その判断に基づく上記処分は違法であると解するのが相当である(伊方原発事件に関する最高裁平成4年1 0月 29日判決)。
(2) 新規制基準における基準地震動の策定に関する定めア 設置許可基準規則 4条 3項は,発電用原子炉施設のうち,一定の重要なものは,その供用中に当該施設に大きな影響を及ぼすおそれがある地震による加速度によって作用する地震力(基準地震動による地震力)に対して安全機能(設置許可基準規則 2条 2項 5号参照)が損なわれるおそれがないものでなければならない旨を定める。
イ 基準地震動の策定に当たっては,敷地に大きな影響を与えると予想される地震について,震源の特性を主要なパラメータで表した震源モデルを設定しなければならない。この点について,設置許可基準規則を受けて原子力規制委員会が定めた内規である当時の「実用発電用原子炉及びその附属施設の位置,構造及び設備の基準に関する規則の解釈J (規則の解釈)は,基準地震動の策定過程に伴う各種の不確かさ(震源断層の長さ,地震発生層の上端深さ・下端深さ,断層傾斜角等の不確かさ並びにそれらに係る考え方及び解釈の違いによる不確かさ)については,敷地における地震動評価に大きな影響を与えると考えられる支配的なパラメータについて分析した上で,必要に応じて不確かさを組み合わせるなど適切な手法を用いて考慮する旨を定める。
ウ そして,設置許可基準規則及び規則の解釈の趣旨を十分踏まえ,基準地震動の妥当性を厳格に確認するために活用することを目的として原子力規制委員会が定めた「基準地震動及び耐震設計方針に係る審査ガイド」 (地震動審査ガイド)は, 「震源、モデ、ルの長さ又は面積,あるいは 1回の活動による変位量と地震規模を関連づける経験式を用いて地震規模を設定する場合には,経験式の適用範囲が十分に検討されていることを確認する。その際,経験式は平均値としての地震規模を与えるものであることから,経験式が有するばらつきも考慮されている必要がある。」 (I. 3. 2. 3 (2)。本件ばらつき条項)と定める。
(3) 本件ばらつき条項の意義
経験式は,二つの物理量(ここでは,震源断層面積と地震規模)の間の原理的関係を示すものではなく,観測等により得られたデータを基に推測された経験的関係を示すものであり,経験式によって算出される地震規模は平均値である。そこで,実際に発生する地震の地震規模は平均値からかい離することが当然に想定されている。地震規模(地震モーメント)は,震源モデルの重要なパラメータの一つであり,その他のパラメータの算出に用いられるものであって,基準地震動の策定における重要な要素であるといえる。そうすると,経験式を用いて地震モーメントを設定する場合には,経験式によって算出される平均値をもってそのまま震源モデルにおける地震モーメントとして設定するのではなく,実際に発生する地震の地震モーメントが平均値より大きい方向にかい離する可能性を考慮、して地震モーメントを設定するのが相当であると考えられる(例えば,経験式を導く基礎となったデータの標準偏差分を加味するなど)。ただし,他のパラメータの設定に当たり,上記のような方法で地震モーメントを設定するのと同視し得るような考慮など,相応の合理性を有する考慮、がされていれば足りるものと考えられる。また,経験式が有するばらつきを検証して,経験式によって算出される平均値に何らかの上乗せをする必要があるか否かを検討した結果,その必要がないといえる場合には,経験式によって算出される平均値をもってそのまま震源モデルにおける地震モーメントの値とすることも妨げられないものと解される。
本件ばらつき条項の第 2文は,以上の趣旨をいうものと解される。このような解釈は,平成 23年 3月 11日に発生した東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発の事故を受けて耐震設計審査指針等が改訂される過程において,委員から,経験式より大きな地震が発生することを想定すべきであるとの指摘を受けて,本件ばらつき条項の第 2文に相当する定めが置かれるに至った経緯とも整合する。
(4) 原子力規制委員会の調査審議及び判断の過程における過誤,欠落参加人は,本件申請において基準地震動を策定する際,地質調査結果等に基づき設定した震源断層面積を経験式に当てはめて計算された地震モーメントをそのまま震源モデルにおける地震モーメントの値としたものであり,例えば,経験式が有するばらつきを考慮するために,当該経験式の基礎となったデータの標準偏差分を加味するなどの方法により,実際に発生する地震の地震モーメントが平均値より大きい方向にかい離する可能性を考慮して地震モーメントを設定する必要があるか否かということ自体を検討しておらず,現に,そのような設定(上乗せ)をしなかった。
原子力規制委員会は,経験式が有するばらつきを考慮した場合,これに基づき算出された地震モーメントの値に何らかの上乗せをする必要があるか否か等について何ら検討することなく,本件申請が設置許可基準規則 4条 3項に適合し,地震動審査ガイドを踏まえているとした。このような原子力規制委員会の調査審議及び判断の過程には,看過し難い過誤,欠落があるものというべきである。 以 上

独立を貫いた裁判長の原発運転差し止め決定

昨日(1月17日)、広島高裁(森一岳裁判長)は、四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを認める決定を出した。これは、快挙である。3人の裁判官に、敬意を表したい。

事件は、山口県内の住民3人が求めた仮処分申し立てである。本案訴訟の判決言い渡しあるまでの仮の差し止めが認められた。申し立てたのは、伊方原発から50キロ圏内にある瀬戸内海の島の住民。山口地裁岩国支部が昨年3月、その申し立てを却下する決定を出したため、これを不服として広島高裁に即時抗告して、逆転の決定に至った。原発運転を差し止める高裁レベルでの司法判断は2件目だという。

抗告審で問題になったのは、国内最大規模の活断層「中央構造線断層帯」に関連する活断層が原発の沖合約600メートルにある可能性、約130キロ離れた阿蘇山(熊本県)の巨大噴火で火砕流が到達するリスク、あるいは事故が起きた際の島からのは避難の困難性などであったという。

報じられている決定の概要では、「活断層が原発の敷地に極めて近い可能性を否定し得ず地震動評価や調査が不十分」「阿蘇カルデラ噴火による影響についての想定は過小」「原子炉設置変更許可申請を問題ないとした原子力規制委員会の判断は誤りで不合理」と、踏み込んだ判断となっている。その判断の影響は大きい。

私が注目したのは、裁判長の定年の時期である。森一岳裁判長は、この決定の8日後今月25日に65歳の誕生日を迎えて定年退官する。決定を退官後の後任裁判長に先送りすることなく毅然とした判断を貫いたのだ。

あるいは、もう定年間際である。恐いものはないのだから、自分の思うところを貫こうと考えたのかも知れない。「鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し。人の将に死なんとする、その言ふや善し」というが、「裁判官の将に定年になろうとする。その判決や善し」なのだ。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。ところが、独立した裁判官も、独立を貫いた裁判も、実は稀少なのだ。

歯に衣きせずに敢えて言えば、司法の本質は権力機構の一部である。この社会の体制から、あるいは社会の多数派が牛耳る立法権から、そして権力主体としての行政権から、司法は強い掣肘を受けている。それが現実である。

もちろん、法の論理としてはそうであってはならず、すべての裁判官が独立していなければならない。しかし、現実は甘くない。司法が他の権力からの掣肘を受けるだけでなく、個々の裁判官が最高裁当局から監視され締め付けを受けている。

原発の推進は国策である。行政のみならず、司法当局も、原発推進に逆行する判決を歓迎していないことは、誰の目にも明白である。最高裁当局の思惑を忖度して、それに逆らわない判決を書ける人を「賢い裁判官」という。賢いとは、上手に生きる処世の術に長けているということである。

最高裁当局の思惑を忖度せず、敢えてそれに逆らって「その良心に従ひ独立してその職権を行ふ」愚直な裁判官はどうなるか。当然のことながら、出世コースから外される。給料に差が付く。任地で差別される。若い裁判官との接触の機会を求めても裁判長になれない。影響の大きな重要裁判は担当させられない…。

森一岳裁判長がどうであったかは具体的には知らない。しかし、処世術に長けた「賢い裁判官」ではなかったようだ。そして、もう定年間際。恐いものなく、純粋に法と良心のみに従った決定を書いた。そうすれば、政府や財界にも、最高裁事務総局にもおもねりのない、原発運転差し止め決定となるのだ。

裁判官の独立は、真に貴重である。

(2020年1月18日)

《東電の天皇》の責任と、《本家の天皇》の責任と。

《東電の天皇》と異名をとって業界に君臨し、原発を推進してきたのが勝俣恒久元会長。福島第1原発事故の未曽有の規模の被害について、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたが一審無罪の判決を得た(9月19日)。

 「被害者らが提起した民事訴訟では、東電の過失を認める判決が相次ぐ。一方、個人に刑罰を科す刑事裁判では、具体的な予見可能性や結果の回避可能性など、より厳格な立証が求められる。判決は、個人の過失を問う刑事裁判のハードルの高さを改めて印象づけたとも言える(河北新報社説)」ことはそのとおりだが、何とも納得しがたい。

「政府の事故調査委員会は、事故の背景について政府や東電に『複合的な問題点があった』と指摘した。国会事故調などは『人災』と判断した。今回の判決でそれがくつがえるわけではない(東京新聞社説)」こともそのとおりだが、何ともおさまりが悪い。

これだけの規模の大災害である。原発とは管理をあやまれば壊滅的被害あるべき危険物であるとは、誰もが知っていること。あの規模の津波の発生も、設備の浸水にともなう事故の発生も警告はされていた。そして、その結果回避も可能ではあった。しかし、判決は、さらに具体的なレベルでの予見可能性を要求しているようだがその判断に疑問なしとしない。

検察官役の指定代理人の下記コメントに賛同する。
「国の原子力行政をそんたくした判決だといわざるをえない。原子力発電所というもし事故が起きれば取り返しがつかない施設を管理・運営している会社の最高経営者層の義務とはこの程度でいいのか。原発には絶対的な安全性までは求められていないという今回の裁判所の判断はありえないと思う」

案の定、この判決はすこぶる評判が悪い。巷の声は、次のようなものだ。

 「ふざけるな」「不当判決だ」「市民常識とかけ離れている」「被災として怒りと失望を感じる」「ふるさとに帰りたいと思って亡くなった方がたくさんいることを考えれば、こんな判決は受け入れることができない」「裁判官の常識と一般市民の常識が違う」「裁判所は福島の被害者に真摯に向き合ったのか」「司法が死んでいることが証明された。世界中に恥ずかしい」「あれくらいの事故を起こして無罪ということはない」「それだけの責任ある立場の方々です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」「とうてい理解できない判決だ。被災者の思いを東京電力も裁判所も受け止めてくれない結果」「誰も責任を取らないなんて納得いかねえよ」「事故を繰り返さないため、トップの責任をはっきりして欲しかった」「本当に残念でなりません」…。

「これだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いている。その市民感情は健全で、当然のことと思う。私が注目したのは、誰も責任を取らない日本社会の文化が続いてしまう」という、市民のコメント。当然に天皇(裕仁)の戦争責任を念頭に置いての一言。

《東電の天皇》ならぬ《本家本元の天皇(裕仁)》の戦争責任も、同様のトップの責任。「あれだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いてよいのに、そうはならなかった。これが不思議。戦後最大のミステリー。おそらく、天皇本人も戸惑っていたに違いない。次のような声が飛びかってもよかったのだ。

 「天皇無責とは到底考えられない」「戦争被災者として怒りと失望を感じる」「望郷の念にかられながら果たせず、外地で亡くなった方がたくさんいることを考えれば、天皇無責は受け入れることができない」「天皇は、国内外の戦没者に真摯に向き合ったのか」「天皇無責は、日本社会の秩序が崩壊していることの証明だ。世界中に恥ずかしい」「あれだけの戦禍を引き起こして無責ということはない」「それだけの責任ある立場の方です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」「天皇の免責は、とうてい理解できない。戦没者の思いを受け止めてくれない結果」「天皇が責任を取らないなんて納得いかねえよ」「戦争の惨禍を繰り返させないために、天皇の責任をはっきりして欲しかった」「本当に残念でなりません」…。

原発の責任と戦争の責任。企業トップの責任と天皇の責任は、実によく似ている《東電の天皇》を免責したのは裁判所。《本家の天皇》を免責したのはマッカーサーだ。せめて、《東電の天皇》の責任については、健全な世論の追及が続けられることを期待したい。

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ところで、日課にしている早朝の散歩。この3か月、不忍池の蓮の華を愛でてきた。昨日最後の一華を見つけたが、今日はなくなっている。9月19日をもって、岸辺から目視の限りだが、今年の華との別れの日としよう。

実は、不忍池には、折々に薀蓄オジさんが出没する。桜の時期には「桜の薀蓄オジさん」、水鳥の時期には「水鳥の薀蓄オジさん」、そして当然のことながら「蓮華の薀蓄オジさん」も。

このオジさんによると、今年の蓮の開花は6月11日だった。昨年の最後の華は、9月17日だったという。このあたりを諳んじているのが、薀蓄オジさんたる所以。

今年の華の命は去年よりも2日長かったということになるが、華のない不忍池はまことに寂しい。サルスベリも、カンナも、キョウチクトウも終わった。季節は、確実に遷っている。政権も遷ればよいのだが。

(2019年9月20日)

嗚呼! 3・11。天譴論と原発事故処理費偽装と。

「2011年3月11日」から本日で8年になる。岩手を故郷とする私にとって、あのときの衝撃は生涯忘れることができない。例年、「3・1・1」という数字の連なりに特別の感傷が湧いて、 胸が痛む。例年、震災・津波・原発に関して何かを書かねばならないと思いつつ、筆が重い。

8年前の災害の直後に、石原慎太郎の「震災は天罰」という発言に接して、私は怒りに震えた。「天罰はオマエにこそふさわしい」と慎太郎に怒るとともに、この社会の慎太郎的なメンタリティに怒り、石原慎太郎ごときを都知事に選任している東京都民にも怒った。筆を抑えつつも、その怒りのほとばしりを、「石原慎太郎天罰発言・糾弾」の記事として書き連ねた。

そして、8年後の日刊ゲンダイが報じているのは、原発推進のための処理費用偽装である。当時は、「震災は天罰」とする天譴論をタチの悪い政治家の発言と怒ったが、今また、さらにタチの悪い原発偽装に怒らねばならない。

当時の私の「天譴論批判」記事から、2編だけを引用しておきたい。

 「天は誰を咎めているのか」(2011年3月28日)

 地震・津波・原発と続く災害のさなかに、「天譴」 という言葉を知った。辞書を引くと、漢籍では宋書(5世紀)に用例があり、和書では九条兼実の「玉葉」 (12世紀)に見えるという。 譴とは、譴責の熟語から推察されるとおり、咎めるということ。「天帝による咎め」は、為政者が過ったときに凶事としてあらわれる。ここには、権力批判のニュアンスが濃い。つまり、天の譴責は時の権力者に向けられる。

 関東大震災後後にも、多くの人が 「天譴」 を論じた。このときの天譴論の多くは、時の権力を譴責するのではなく、国民や人類を批判するものだったという

 例えば、内村鑑三。「時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば,人類の堕落は底止する所を知らないであろう」。 あるいは山室軍平。「此度の震災は、物慾に耽溺していた我国民に大なる反省を与える機会であった。堕落の底に沈淪せる国民に対して大鉄槌を下した」。 あるいは北原白秋。「世を挙り 心傲ると歳久し 天地の譴怒いただきにけり」(以上、仲田誠 「災害と日本人」)など。

 さらに警戒すべきは、自然の力に萎縮する人々の心理に付け込んで、強力に人心を誘導しようという、権力側からの天譴論である。都立高の歴史の先生から、陸軍のトップエリートであった宇垣一成が綴った日記の一節を教えられた。「物質文化を憧憬し思想壊頽に対する懲戒として下されし天譴としか思えぬ様な感じが、今次の震火災に就いて起りたり。 然り、かくのごとく考えて今後各方面に対する革新粛清を図ることが緊要である」

   権力による人心の支配への災害利用の意図を読み取ることができよう。 かくて、「関東大震災を機に大正デモクラシーが終焉して、ファシズムの時代に向かう」 との図式を描くことが可能となる。

   首都の都知事が言った 「震災は天罰」 は、その亜流である。しかも、国民による権力批判という本来の天譴論とは正反対の、権力による国民批判である。 これを新たな全体主義への第一歩としてはならない。

災害を「天罰」とするオカルティズムの危険(2011年03月19日)

 未開の時代、人は災害を畏れ、これを天の啓示とした。個人の被災は個人への啓示、大災害は国家や民族が天命に反したゆえの天罰とされた。
 董仲舒の災異説によれば、天は善政あれば瑞祥を下すが、非道あれば世に災異をもたらす。地震や洪水は天の罰としての災異であるという。洋の東西を問わず古くは存在したこのような考え方は、人間の合理的思考の発達とともに克服されてきた。
 天罰思想とは、実は何の根拠もない独断にすぎない。天命や神慮の何たるかを誰も論証することはできない。だから、歴史的には易姓革命思想として利用され、政権簒奪者のデマゴギーとして重用された。
 このたびの石原発言の中に、「残念ながら無能な内閣ができるとこういうことが起きる。村山内閣もそうだった」との言葉があったのに驚いた。政権簒奪をねらうデマゴギーか、さもなくば合理的思考能力欠如の証明である。このように、自然災害の発生を「無能な内閣」の存在と結びつける、非合理的な人物が首都の知事である現実に、肌が泡立つ。
 また、天罰思想は災害克服に無効である。天の罰との理解においては、最重要事は災害への具体的対応ではなく、天命や神慮の内容を忖度することに終始せざるをえない。また、災害は天命のなすところと甘受することにもならざるをえない。
 本来、災害や事故に対しては、まず現状を把握して緊急に救命・救助の手を差し伸べ、復旧の方策を講じなければならない。さらに、事象の因果を正確に把握し、原因を分析し、再発防止の対策を構築しなければならない。このことは科学的思考などという大袈裟なものではなく、常識的な合理的思考の姿勢というだけのことである。この常識的思考過程に、非合理的な天罰思想がはいりこむ余地はない。
 アナクロのオカルト人物が、今、何を間違ってか首都の知事の座に居ることが明白となった。このままでは、都民の命が危ない。
 都民は、愚かな知事をいだいていることの「天罰」甘受を拒絶しなければならない。都民の命と安全のために、知事には、即刻その座を退いていただきたい。

 あれから8年。我が故郷岩手の復興は、まずまずというべきだろうか。問題はあらためて福島の原発事故の重さとその復旧の困難である。

本日付、日刊ゲンダイの報ずるところを抜粋する。

 またデタラメ数値だ―。民間のシンクタンク「日本経済研究センター」は7日、廃炉や賠償などの処理費用が、総額35兆~81兆円になるとの試算を発表した。経産省が16年に公表した試算額は22兆円。経産省は思いっきり過少試算して、原発をゴリ押ししてきたのだ。

核燃料デブリを取り出して廃炉にした場合は81兆円、デブリを取り出さずコンクリートで閉じ込め、廃炉を見送った場合は35兆円とされている。35兆円には廃炉見送りで生じる住民への賠償や管理費は含まれていない。

 「原発を推進したい経産省は、変動要因をすべて楽観的に見て試算しています。『日本経済研究センター』は、反原発でも推進でもなく、試算は客観的にはじかれています。81兆円は経産省の22兆円よりも、圧倒的に信頼性がある数値といえます」「世耕経産相は22兆円を前提に『いろいろな費用を全部含めても、原発が一番安い』と繰り返しています。しかし、その22兆円が“真の数値”から懸け離れていた。つまり、国民はミスリードされていたのです。賃金やGDPをカサ上げしてアベノミクスの“成果”を見せかけた構図と同じ。原発推進も偽装の上に進められていたわけです」(横田一氏)

地震・津波は自然災害だが、原発事故は人災である。天譴論は愚かで底が浅いが、原発偽装は客観性を装ってる点の罪が深い。この期に及んでなお、原発推進政策を合理化しようとするものなのだ。慎太郎のオカルトよりも、ウソとごまかしのアベ政権恐るべし、なのだ。
(2019年3月11日)

第49回司法制度研究集会 ― 「国策に加担する司法を問う」

本日(11月17日)は、日本民主法律家協会が主催する第49回司法制度研究集会。テーマは、「国策に加担する司法を問う」である。

独立した司法部存在の意義は、何よりも立法部・行政部に対する批判の権限にある。立法部・行政部の活動が憲法の定めを逸脱し国民の人権を侵害するに至ったときには遠慮なくこれを指摘し、批判して国民の人権を救済しなければならない。たとえ、国策の遂行に対してでも、司法が違憲・違法の指摘を躊躇してはならない。当然のことだ。

それが、「国策に絡めとられる司法」「国策に加担する司法」とは、いったいどうしたことだ。日本の司法は、そう指摘されるまでに落ちぶれたのか。

われわれは、違憲審査権行使をためらう裁判所の司法消極主義を長く批判し続けてきた。「逃げるな最高裁」「違憲判断をためらうな」「憲法判断を回避するな」と言って来たのだ。

ところが、最近の判決では、司法部が積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた「人権擁護の司法積極主義」ではなく、「国策加担の司法積極主義」の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。言わば、「人権侵害に目をつぶり国策遂行に加担する司法」の実態があるのではないか。これは社会の根幹を揺るがす重大な事態である。

冒頭、右崎正博・日民協理事長の開会の挨拶が、問題意識を明瞭に述べている。

これまでの長期保守政権下における裁判官人事を通じて、行政に追随する司法という体質が形成された。その結果として、国策を批判しない司法消極主義が問題とされてきた。しかし、昨今の幾つかの重要判決は、むしろ政権の国策に積極的に加担する司法の姿を示しているのではないか。

国策は民主主義原理によって支えられているが、民主主義原理の限界を画するものが立憲主義の原理、すなわち人権という価値の優越である。日本国憲法は、民主主義原理と立憲主義とのバランスの上に成立している。そのような憲法のもとで、はたして現実の司法は日本国憲法の理念を実現しえているのか。

この問題意識を受けての基調報告が、岡田正則氏(早稲田大学・行政法)。「国策と裁判所―『行政訴訟の機能不全』の歴史的背景と今後の課題」と題する講演。そして、国策に加担した訴訟の典型例として、沖縄・辺野古訴訟と原発差し止め請求訴訟の2分野からの問題提起報告。「国策にお墨付きを与える司法─辺野古埋立承認取消訴訟を闘って」と題して沖縄弁護士会の加藤裕氏と、「大飯原発差止訴訟から考える司法の役割と裁判官の責任」と題する樋口英明氏(元裁判官)の各報告。その詳細は、「法と民主主義・12月号」(12月下旬発行)をお読みいただきたい。いずれの報告も、有益で充実したものだった。参加者の満足度は高かったが、同時に現実を突きつけられて暗澹たる気持にもならざるを得ない。

たいへん興味深かったのは、辺野古弁護団の加藤さんと、大飯原発差止認容の判決を言い渡した樋口さんの語り口が対照的だったこと。淀みなく明晰で理詰めの語り口の加藤さんと、人柄が滲み出た穏やかな話しぶりの樋口さん。鋭い切れ味の加藤さんと、抗いようのない重い説得力の樋口さん。加藤さんは沖縄の民意を蹂躙する政権の国策に加担した判決を糺弾する。樋口さんは国策加担という言葉を使わないが、誰にもそのことが分かる。お二人の話しぶりの対比を聴くだけても、今日の集会に参加の甲斐はあった。

私は樋口さんには初めてお目にかかった。この人なら、当事者の言い分に耳を傾けてくれるだろうという、裁判官にとっての最も必要な雰囲気を持っている。その樋口報告は、私が理解した限りで次のようなものだった。

3・11福島第1原発事故後の原発差し止め訴訟では、認容判決は私が関わったものを含めて2件しかない。棄却判決は十指に余る。「どうして原発差し止めを」と聞かれるが、原発は危険で恐い物だという思いがまずある。差し止めを認めなかった裁判官に、「どうして恐くないのか」聞いてみたい。

また、自分の頭で考えれば当然にこの危険な物の差し止めの結論となるはず。自分の頭で考えず、先例に当てはめようという考え方だから差し止め請求棄却の結論になるのではないか。

危険とは(1)危険が顕在化したときの被害の大きさ
    (2)被害が生じる確率
の2面で測られ、通常この2面は反比例する。一方が大きければ他方が小さい。ところが、原発は両方とも大きい。

原発事故の桁外れの被害の大きさは福島第1原発事故で実証されている。普通、事故の機械は運転を止めれば被害の拡大を阻止できるが、原発はそうはいかない。「止める⇒冷やす⇒閉じ込める」が不可欠で、福島の6基の事故ではそれができなかった。だから、福島第1原発事故の被害があの程度で済んだのは、いくつもの好運の偶然が重なった結果に過ぎない。その僥倖の一つでも欠けていれば、首都東京も避難区域に入っていたはずなのだ。

また、原発事故が起こり被害が生じる確率はきわめて高い。そもそも、基準地震動を何ガルに設定するか極めて根拠が薄い。地震学は未成熟な学問分野というべきで地震予測の成功例はない。気象学に比較してデータの集積もごく僅少に過ぎない。しかも、原発の規準地震動は、通常の木造家屋よりも遙かに低い。その設計において耐震性は犠牲にされている。それが、世界の地震の巣といわれる危うい日本の地層の上にある。

差し止め認容判決の障害は行政裁量といわれるが、既に日光太郎杉事件判決(東京高判1973 年)で十分な批判がなされている。自分の頭でものを考えれば、人格権に基づく原発差し止めも同様の結論になるはず。

会場からは、「日の丸・君が代」強制問題原告からの訴えもあった。これも国策だ。しかも軍隊の匂いがする国策の強制。自分の頭でものを考えず、先例追随のコピペ判決裁判官が、国策加担判決を積み重ねている。「先例追随主義」と「国策加担」とは紙一重というべきものなのだろう。

あらためて思う。事態は深刻である。
(2018年11月17日)

「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」 ― 原発稼働差し止め裁判官インタビュー

昨日(8月4日)の朝日に、樋口英明・元福井地裁裁判長のインタビュー。大飯原発訴訟の1審を担当して差し止め認容の判決を出した人。大きな見出しが、「原発は危険、判決の信念」「規準を超える地震『来ない』根拠なし 再稼働認めぬ判断」。そして、「行政の裁量逸脱 司法の介入やむを得ない」。よくできた良質のインタビューで、多々考えさせられる。

「裁判官は弁明せず」が美徳とされる。しかし、「弁明せず」は場合によっては無責任を意味する。行政に説明責任が求められているのと同様に、裁判官にも批判を恐れずに自分の判決について発言することを求めたい。それこそ裁判官の責任のとりかたではないか。独善や人事権者に追従の判決を改善することにもつながるだろう。同裁判官は既に退官しており、「大飯原発訴訟の控訴審判決が出て確定したので、インタビューに応じました」としている。

このインタビュー記事、ネットでも読むことができる。(もっとも、見出しが少しちがっているようだが)。https://www.asahi.com/articles/DA3S13620670.html

リードは以下のとおり。「福島の原発事故後では初めて、運転差し止めを命じた関西電力大飯原発3、4号機をめぐる2014年の福井地裁判決。しかし、控訴審で名古屋高裁金沢支部は7月、一審判決を取り消し、住民の請求を棄却する逆転判決をした。一審で裁判長を務め、昨年8月に退官した樋口英明さん(65)に、判決に込めた思いを聞いた。」

原発の危険性のとらえ方が随所に語られている。
「私が一審判決で指摘した点について具体的に反論してくれ、こんなに安全だったのかと私を納得させてくれる判決なら、逆転判決であっても歓迎します。しかし、今回の控訴審判決の内容を見ると『新規制基準に従っているから心配ない』というもので、全く中身がない。不安は募るばかりです」

「(日本の原発の現状は)小さな船で太平洋にこぎ出している状況に等しいと思います。運がよければ助かるかもしれませんが、そうでなければ日本全体が大変なことになります。一国を賭け事の対象とするようなことは許されるはずがありません」

「(再稼働を認めぬ方向に心証が傾いたのは)過去10年間に4カ所の原発所在地で、原発の耐震設計の根幹となる基準地震動(想定する最大の揺れ)を超える地震が5回も発生したことを知った時ですね。…争点は強い地震が来るか来ないかという点にあり、どちらも強い地震に原発が耐えられないことを前提に議論しているのです。そのこと自体が驚きでした」

 「わが国で地震の予知に成功したことは、一度もありません。」「将来の最大の揺れを予測する算式は、仮説に過ぎません。それを原発の耐震性の決定に用いることは許されません」「なにしろ大飯原発の(基準地震動)700ガルというのは、私が住んでいる家に対して住宅メーカーが保証している3400ガルに比べてもはるかに小さい値なんですよ。原発は私の家より地震に弱い」

原発差し止め訴訟の現状に関して、次のような注目すべき発言もある。

――「3・11」後、原発の運転差し止めを命じる判決、仮処分は樋口さんの2件を含め4件です。
 「少なすぎます。裁判官が原発の生(なま)の危険性に正面から向き合えば、差し止めの判断が出るはずです。裁判官教育の際に『裁判官は絶大な権限を与えられているので、その行使については謙虚かつ抑制的であれ』と教えられることが、必要以上に裁判官を萎縮させている面があると思います」

――(「裁判所組織は最高裁を頂点とした一枚岩で政権に迎合しているといった、単純な図式は間違い」という発言を承けて)ただ、樋口さんの後任の裁判長を含め、高浜原発の決定に対する異議審を担当した裁判官は3人とも最高裁事務総局付きを経験した「エリート裁判官」。樋口さんが出した運転差し止めの仮処分を取り消しました。
 「2人までは偶然で説明できますが、3人とも事務総局経験者というのは珍しいと思います。人事の意味はよくわかりませんが、何らかの示唆を受けて赴任した可能性はあると思います。ある裁判官が原発立地県の地裁に異動する際に、上司から『裁判官がこうした事件の判断に必要な高い専門技術性は持っていないことはわかっているだろうね』と言われた、という話を聞いたことがあります」

――国のエネルギー政策に関しては、国民から選挙で選ばれた国会や内閣が決めるべきで、裁判所が決めるのはおかしいという意見もあります。
 「今回の控訴審判決も、『その当否を巡る判断は司法の役割を超えるものであり、立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄』と述べています。私は本来、行政の裁量権を重視する立場ですが、原発の危険性を顧みずに運転を認めるのは、裁量権の範囲をはるかに逸脱しています。そういう場合、司法が介入することもやむを得ません」

ところで、このインタビュー記事には「愛国心」が出て来る。次のような使い方で。

 ――「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」の文にも驚きました。
 「これを書かせたのは、自分で言うのもなんですが『愛国心』だと思っています。判決当時、私はネット上で『左翼裁判官』などと批判されましたが、本当の保守は原発に反対すべきだと思います」

ここに出て来るキーワードは、「愛国心」と「左翼裁判官」と「本当の保守」。
国策である原発推進に楯突く判決を書くような者には、「左翼裁判官」とレッテルを貼られる現実があることが語られている。しかし、樋口は、自分にこの判決を書かせたのは「愛国心」だという。左翼的心情からではなく、ということは国家性悪説とでもいう立場からの判決ではなく、自分の内なる「愛国心」が判決と判決書きにおける表現の動機だったのだという。

その判決部分は、「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考えている。」というもの。これが「愛国心判決」ないしは、「愛国心的判決説示」というわけだ。

樋口の「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」は、「愛国心」とは本来が保守のもの。国富喪失の危険ある原発には、愛国心あるものは反対せよ、本当の保守(愛国心を大切にする立場?)なら当然に反対すべきだというのだ。

個人の自由と民主主義と平和こそが、強靱で豊かな国の姿だ。これを歪める国旗・国歌(日の丸・君が代)強制への反対こそが愛国心のしからしめるところ。「本当の保守は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制に反対すべきだと思います」ともいうべきであろう。
(2018年8月5日)

『津島原発訴訟』法廷での澤藤大河要旨陳述

志ある若手弁護士は、その時代にふさわしい「時代を映す事件」に取り組む。そのような事件の弁護団に飛び込む。かつては、公害事件であったり、薬害救済であったり、大規模消費者被害であったり、情報公開請求訴訟であったり。あるいは、いじめ・体罰、過労死、基地問題、ヘイトスピーチ、天皇の代替わりにともなう政教分離訴訟…などなど。

今それは、まぎれもなく原発訴訟。時代を映す問題としてこれ以上のものはない。文明史的な大事件として、取り組むに値する訴訟事件。

澤藤大河が「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」弁護団に参加して事件にどっぷりと浸かっている。ずいぶんと時間も労力も使っているようだ。

同弁護団はホームページを開設している。
http://www.tsushima-genben.com/

「『ふるさとを返せ 津島原発訴訟』は,2011年3月11日の福島第一原発事故に伴う放射能汚染によって「ふるさと」を追われた,浪江町津島地区の住民による集団訴訟です。

津島地区の住民は、代々培われてきた伝統芸能や先祖が切り拓いた土地を承継しながら、地区住民がひとつの家族のように一体となって、豊かな自然と共に生活してきました。

ところが、津島地区は、現在もなお放射線量の高い帰還困難区域と指定され、地区全域が人の住めない状況となっています。

津島地区の住民は、いつかはふるさとに帰れると信じながらも、いつになれば帰れるか分からないまま、放置されて荒廃していく「ふるさと」のことを遠く避難している仮住まいから想う日々です。

国及び東京電力は、広範囲の地域の放射能汚染という重大事故を起こしておきながら、原発事故に対する責任に正面から向き合おうとしません。

国及び東京電力のこのような姿勢に堪えかねた津島地区住民の約半数となる約230世帯700名の住民が立ち上がり、2015年9月29日、国及び東京電力を被告として、福島地方裁判所郡山支部に集団提訴をしました。」

本日(3月16日)の口頭弁論期日に、原告らの「第41準備書面」が陳述された。その要旨を、訴訟代理人澤藤大河が口頭で陳述したという。それが以下のとおり。

**************************************************************************
本日陳述の、「原告ら第41準備書面」は、被告国の第11準備書面の第6、つまり「本件事故には結果回避可能性がなかった」との主張に反論するものです。

被告国の主張は,概略次のようなものです。
「被告国が,事故前において考えつくことができた津波対策は,防波堤・防潮堤の建設だけである。
しかも津波予測に基づき対策として作られたであろう防波堤・防潮堤は、敷地を囲う物ではなく、海に面した東側に大きな切れ目のある構造になるはずであり、このような防波堤・防潮堤を建設しても、本件津波に耐えることはできず事故は避けられなかった。
また、この工事の工期はもちろんのこと、被告国の認可手続きにも時間がかかり,本件津波までに間に合うものではなかった」
というものです。
津波対策として、防潮堤防波堤にて敷地への海水侵入を防ぐという考え方を「ドライサイトコンセプト」といい、敷地への海水侵入があったとしても個別の重要機器を防水して機能を守る考え方を「ウェットサイトコンセプト」といいますが、国の主張は、「ドライサイトコンセプトしかなかったのだ」ということになります。
しかし、この国の主張には、根本的な誤りがあります。

まず、「結果回避可能性」の有無は客観的に判断されるということです。
行為者の認識、能力、意欲など、主観的な事情は取り除き、客観的に可能性を判断するのが結果回避可能性の議論なのです。
被告国の主張は、客観的に判断されるべき結果回避可能性の議論において,「行為者が考えつかなかった」というような行為者の主観的な事情を考慮すべきとする点で誤っています。
特に、津波対策として,効果の乏しい防波堤・防潮堤の建設しか思いつかなかったはずであるとの主張は,自らの不勉強と無能力をことさらに強調しているだけであり,その責任を軽減したり、結果回避可能性を否定することには繋がりません。
客観的には,敷地に海水が侵入しても,なお原子炉を冷却できるようウェットサイトコンセプトでの対策を行うよう被告東京電力に指導すれば,本件事故は回避することが可能でした。これらの対策は,事故前に十分実施可能だったのです。素材や技術的な面での飛躍的進歩は、なにも必要ありませんでした。

被告国の主張は根本的な考え方を誤っていますが、それはさておいて、津波対策として、本件事故以前の時点で、ドライサイトコンセプトしかないとの主張についても、誤りであると指摘せざるを得ません。
1991年にはフランス・ルブレイエ原子力発電所にて洪水浸水事故があり、開口部の閉鎖という対策がなされていました。また、福島第一原子力発電所においてすら、1991年溢水事故の後、地下階に設置された重要機器が被水して機能を失わないよう、非常用ディーゼル発電機室入り口扉の水密化も行われていたのです。
被告国は、「ウェットサイトコンセプト」も取り入れるべきだったのです。

また、被告国が主張する「津波対策として建設されるはずだった防波堤・防潮堤」も、非常に不自然なものです。津波対策であるのに、敷地を取り囲むものではなく,海に面した東側を大きく開けた防波堤を建設することになったはずだったというのです。
実際には、被告東京電力の技術者は敷地全周を囲う計画を立てていました。この計画は最終的に刑事事件で起訴されている経営陣に拒否されました。
津波対策の防波堤であれば,敷地全周を囲むべきで,切れ目があってはならないのは当然のことといわなくてはなりません。土木技術の専門家ならずとも,容易にわかることです。

さらに、被告国は,対策の実施には時間的余裕がなかったとも主張します。
しかし,事故後の津波対策は,わずか1ヶ月という短期間で本件津波と同等の津波に耐える対策が実施されました。このことは、被告国が自ら報告しているのです。
確かに防波堤・防潮堤を建設しようとすれば、大規模な土木工事にそれなりの期間は必要です。しかし、防波堤・防潮堤のみが対策であるというのは,被告国の思い込みに過ぎません。
ウェットサイトコンセプトに基づく,個別重要機器の防水や予備電源の配置などを行えば,長くとも数ヶ月間という短期間に対策を完了することができたはずです。

被告国が長期評価により想定される津波の波高が15m以上となることを知り得た2002年に,あるいは遅くとも2006年には津波対策を実施するように被告東京電力に対し規制権限を行使すべきであって,そうしておれば本件津波襲来までに対策を完了し,事故を回避することができたことは客観的に明らかなことなのです。
(2018年3月16日)

3月11日に読む「ドイツ人が見たフクシマ:脱原発を決めたドイツと原発を捨てられなかった日本」

3月10日と、3月11日。偶然並んだこの両日は、いずれも忘れられない日であるが、同時に忘れてはならない日でもある。この両日に起こったそれぞれの出来事は、さまざまに関連して、今の私たちの生き方や社会のありかたを問い続けている。

3・10東京大空襲は明らかな人災であり、3・11大震災と原発事故は天災に人災が重なったものだ。空襲被害と原発事故被害とは、その責任の性質がよく似ている。その責任の本質をどう考え、どう対処すべきか。まずはドイツに学ぶべきだろう。

日独両国とも、敗戦の惨禍から再出発している。その原点は加害責任の認識であり、侵略戦争をもたらした旧体制への反省だったはず。ドレスデン爆撃と東京大空襲とは、侵略戦争が結局は自国民に惨憺たる運命を強いることになるという好例である。ドレスデン爆撃にはゲルニカへの無差別爆撃が先行し、東京大空襲には執拗な重慶爆撃が先行している。ドイツも日本も、自分がやったようにやり返されたのだ。しかも、何層倍もの規模においての報復だった。

ここまでは、日独は肩を並べての同罪である。天皇制日本と、ナチスドイツの両体制の失敗である。しかし、その後はちがっている。戦後ドイツをことさらに美化するつもりはないが、自国の戦争責任追及の姿勢の真摯さは、我が国には見られないものだ。両国には大きな、越えがたい落差がある。残念ながらこの姿勢の違いは、政治家の質の違いと言って済まされない。国民意識の落差がもたらしたものだ。改めて、アベや麻生を政権の座に据えていることを日本国民の恥辱と思う。

その両国の落差が、3・11後の原発への対応にも表れている。そのことを上手な語り口で、解説しているのが、「ドイツ人が見たフクシマ:脱原発を決めたドイツと原発を捨てられなかった日本」(16年3月11日発行)。

著者は、熊谷徹。元はNHKの記者だったというフリージャーナリスト。ドイツ・ミュンヘン市に在住。ドイツの過去との対決や、ドイツのエネルギー・環境問題を、日本との対比の視点で書き続けている人。「脱原発を決めたドイツと、原発を捨てられなかった日本」をテーマの執筆者として最適の人だろう。同じテーマの著書に、「なぜメルケルは『転向』したのか・ドイツ原子力40年戦争の真実」、「脱原発を決めたドイツの挑戦」などもあるようだ。

この書の問題意識が、宣伝文句に的確にこう語られている。
「世界中に大きな衝撃を与えた…福島原子力発電所の事故、その衝撃を最も深刻に受け止めたのは、日本人ではなくドイツ人だった!」「なぜ日本から1万キロメートル離れたドイツが、大胆なエネルギー転換に踏み切ることができ、深刻な原子力災害を経験した日本が、ドイツのような本格的なエネルギー転換に踏み切れなかったのか?」

まったく日独の原発に関する意識の格差は対照的だ。日本では、愚かな首相が、東京オリンピック招致のために、事故後の放射性廃棄物の環境への流出について「アンダーコントロール」と言ってのけた。なんの知識もなく事実の確認もないままの、世界に発信された大きな嘘。そんな口先だけの政治家が、まだ首相を続けているのだ。

事故後7年を経て、廃炉の見通しさえ立っていない。「アンダーコントロール」どころか、廃棄物処理の方針もない。にもかかわらず、原発再稼働が順次実行されている。さらには、自国でコントロールができない原発プラントの他国への売り込みまで熱心に行われている。なんということだ。この国は没道義の国になり果てている。

地震国日本での原発の容認と、地震のないドイツの原発の拒否。その対比は、文化史的に興味深いテーマといえよう。この書では、原発推進派だったメルケルは、フクシマの事故後、率直に自らの政策を反省して転換し、脱原発派に「寝返った」。このことは、彼女の資質でもあろうが、そのような政策転換なくしては、対立政党に政権を奪われるという、世論の動向があったという。特に「緑の党」の存在の重みが語られている。

「原発は安全」という神話は崩れた。ドイツに似た資質を持っている日本国民が設営する設備での事故は、ドイツに衝撃だったという。安全のためには、エネルギーが高価になっても良いという国民合意が形成されているともいう。原発でも化石燃料でもなく、環境に負荷とならない再生可能エネルギーを。これがドイツの世論であり、政策であるという。

この書の第1章が「ドイツ人に強い衝撃を与えた福島事故」となっている。その最初の見出しが、「NHKでは遅れた爆発映像」となっている。この記述は、私にとって衝撃だった。

事故翌日の3月12日、日本国外のテレビやインターネットの世界では、既に1号機の建屋が爆発する瞬間の映像が繰りかえし流されていた、という。この衝撃が大きかった。ドイツだけでなく、英国のBBC、米国のCNNもこの映像を流していた。ところが、肝腎のNHKだけがこの映像を放映していなかった。著者がドイツで見たリアルタイムでのNHKの放送では、アナウンサーが「福島第一原発で爆発音がして、建屋の天井の一部が崩れたという情報があり、確認中」という原稿を読んでいたという。しばらくして、NHKは1号機の爆発後の写真を放映したが、爆発の瞬間の動画は流さなかった。

世界がリアルタイムで見ていた爆発の衝撃画像は、福島中央テレビが撮影したもので、NHKは撮影に成功していなかったという。だから、NHKを見続けていた多くの日本人は衝撃映像の目撃者とならなかった。日本人の目には、外国の反応が過剰と映ったわけがあったのだ。

12日午後5時47分の枝野幸男官房長官会見も、「何らかの爆発的事象があった」という、“奥歯に物がはさまったような発表”となっていたという。

この書には、日独間のパーセプションギャップ(意識の隔たり)が頻りに語られるが、その原因の第一が、情報のギャプである。世界に配信されたこの爆発シーンは、「石橋を叩いて渡るような政府の公式発表や、市民に不安を与えまいとする『安心報道』を粉砕してしまった」という。

また、一部の視聴者のこととして、政府とNHKの『安心報道』の姿勢を「これでは大本営発表をそのまま流しているようなものだ」「日本政府の情報は信じられない」という批判が紹介されている。

3月12日の時点では、政府の公式声明のなかでは「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉すらタブーになっていた、とも言う。
NHK出身の著者は、さぞかしもどかしい思いであったろう。

一方、ドイツのメデイアには「安心報道」の配慮はまったくなかったという。悲観的情報、悲観的予測があふれていた、と紹介されている。おそらく、地元日本は情報において世界から孤立していたのだ。

3月10日一夜にして10万人の死者を出した東京大空襲被害も、もとをただせば聖戦と欺された国民の侵略戦争加担が原因となっている。大本営発表さながらの、原発安全神話に欺されたところから、3・11原発被害も生じている。そして、事故後も安全神話の延長としての《安全報道》が、原発への厳格な国民的批判を温いものとしてしまっている。ドイツに倣って、日本国民も政府やメディアが誘導する《安全神話》や《安全報道》に、もっと懐疑的でなければならない。

最終章に、著者の結論めいた記述がある。ごもっとも、というほかはない。
「ドイツ語には、《政治の優位》という言葉がある。これは、民意を反映する政治が、経済や科学技術など他の分野に優先するという意味だ。ドイツ人たちは、福島事故後の脱原子力決定によって、この国に《政治の優位》という原則が生きていることを、全世界に対して示した。つまり原子力技術の専門家たちが、「ドイツの原子炉は安全であり、直ちに停止するべき理由はない」という結論に達しだのに、メルケルは原発全廃を求める倫理委員会の提言を採用した。彼女は「木よりも森を見て」、原発全廃が公益にかなうと判断した。
メルケルは、この決断によって《政治の強さ》を示した。市民の代表が行う政治の決定が、企業や科学者、技術者の意思よりも優位性を持っているのだ。
我々日本人が一番最初に行うべきことは、民意を反映する政治を実現し、《政治の優位》を回復することではないだろうか。」

(2018年3月11日)

『ふるさとを返せ 津島原発訴訟』弁護団紹介

そのときどきに時代を映す訴訟というものがある。志ある若手弁護士は、その時代にふさわしい「時代を映す事件」に取り組む。それは、公害であったり、薬害であったり、大規模消費者被害であったり、情報公開請求訴訟であったり。あるいは、いじめ・体罰、過労死、基地問題、ヘイトスピーチ、天皇の代替わりにともなう政教分離訴訟…などなど。

今なら、まぎれもなく原発訴訟だろう。時代を映す問題としてこれ以上のものはない。文明論としても、人類史上の大事件としても、弁護士として取り組むに値する大事件。

とはいうものの、私には声がかからない。その余裕も力量もないからやむをえない。代わって、澤藤大河が「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」にどっぷりと浸かっている。ずいぶんと時間も労力も使っているようだ。

弁護団はホームページを開設している。
http://www.tsushima-genben.com/

「『ふるさとを返せ 津島原発訴訟』は,2011年3月11日の福島第一原発事故に伴う放射能汚染によって「ふるさと」を追われた,浪江町津島地区の住民による集団訴訟です。

津島地区の住民は、代々培われてきた伝統芸能や先祖が切り拓いた土地を承継しながら、地区住民がひとつの家族のように一体となって、豊かな自然と共に生活してきました。

ところが、津島地区は、現在もなお放射線量の高い帰還困難区域と指定され、地区全域が人の住めない状況となっています。

津島地区の住民は、いつかはふるさとに帰れると信じながらも、いつになれば帰れるか分からないまま、放置されて荒廃していく「ふるさと」のことを遠く避難している仮住まいから想う日々です。

国及び東京電力は、広範囲の地域の放射能汚染という重大事故を起こしておきながら、原発事故に対する責任に正面から向き合おうとしません。

国及び東京電力のこのような姿勢に堪えかねた津島地区住民の約半数となる約230世帯700名の住民が立ち上がり、2015年9月29日、国及び東京電力を被告として、福島地方裁判所郡山支部に集団提訴をしました。」

そのホームページに「弁護団加入Q&A 」があって、こんな問と答がある。

「Q 弁護士の活動実費、弁護士報酬などはどう保障されるのでしょうか。
A 訴訟の弁護士報酬について
まず、着手金はありません。勝訴(確定)の場合には、弁護士報酬をその関与の度合いを勘案してお支払いすることになります。もっとも、津島訴訟のような、社会的な訴訟においては、弁護士費用獲得やその多寡が目的でありません。弁護士として社会の役に立ちたいという高い志をもった方の参加をお待ちしています。」

要するに、手弁当で活動するというのだ。これで、よく弁護団を組めるものと感心せざるを得ない。

最近の法廷は11月17日、先週の金曜日。「原告ら第27準備書面~結果回避可能性について~」を陳述し、30頁に近い準備書面の要旨を、訴訟代理人澤藤大河が口頭で述べたという。それが以下のとおり。
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1.概要
本準備書面は,本件事故前に,被告らが何をしていれば結果を回避できたのか,主に甲B194号証の1「渡辺意見書」(工学博士渡辺敦雄氏が作成した意見書)に基づいて,結果回避可能性を指摘することを目的とする。
法は,不可能を要求しないため,前提として結果回避可能性が必要となる。そこで,事故の回避可能性があったことを明らかにする。

2.原子力発電所の危険性
まず,原子力発電所が原理的に内包する不可逆的かつ壊滅的危険性について,指摘しておく。原発の重大な危険性が被告らの注意義務を加重するからである。
重大事故が生じれば,広範な周辺住民の生命健康財産を侵害し,本件原告らの居住地のように,長期に渡り,立ち入りすら制限されることにもなりかねない。
このような原子力発電所が原理的にもつ危険の重大性から,絶対の安全性を確保することが,被告らに求められる。「危険が明らかな限りで対策をすればよい」のではなく,「安全と立証されない限り運転は許されない」のが,原子力発電所を運転する際に求められる基本姿勢である。
さらにすすんで,危険の見積りに不正確さがあれば,予想される幅の中で最も安全側の対策を採らねばならないし,本質的に安全であることが保証できないのなら,原子力発電所は運転してはならないはずである。

3.渡辺意見書
渡辺意見書は,工学博士渡辺敦雄氏が作成した意見書である。
渡辺敦雄氏は,東京大学工学部を卒業後に,株式会社東芝に入社し,原子力部門で基本設計を担当してきた。福島第一原発の1~3号機,5号機も担当したことがある。原子力技術者としての専門的知識は勿論,福島第一原発の現場を知る専門家である。
渡辺氏の専門分野は,機械であり,津波が襲来しても,原子炉の冷却機能を保持するために,具体的に,いかなる設備・対策を調えておくべきかが,渡辺意見書の趣旨である。
原子炉は,核燃料が内部に存在する限り,熱が発生し続けるので,冷却し続けなければならない。重大な事故を回避するための要諦は,①電力を安定的に確保すること,②冷却水を循環させること,である。

4.具体的対策工事
渡辺意見書が具体的に述べるところは,浸水高が2mの津波を想定して対策工事をしてさえいれば、2011年の実際の津波においてなお冷却機能を喪失せず,事故は避けることができたというものである。
敷地を2m浸水させる津波を想定した場合になすべきことは,建屋扉の浸水防止対策,外壁開口部の水密化,建屋貫通部の浸水防止,建屋内の重要機器室の浸水防止対策,重要機器類の高所配置,海水ポンプ室の水密強化等である。
原子力発電所の危険性を考えれば,電力が失われることに備えて,多重防護を考えることも必要である。予備の電源を確保するため,津波の影響のない高所に十分な出力の発電機と燃料を設置しておくことが考えられるし,移動式電源車を配備することも考えられる。
また,海水への最終的な熱の排出ができなくなることに備えて,淡水貯槽,空冷熱交換器を備え,熱を逃がす別の系統の整備もするべきである。冷却水の循環ポンプが動かなくなっても,冷却機能が維持できるようにするために車載式注水ポンプ車の配備も考えられる。
事故対策作業を現場において実際に行えるようにするための対策も重要である。原子炉制御室の作業環境確保,放射線エリアモニタの設置,放射線遮へい対策等の強化などをしなくては,作業員が対策のための活動を十分に行うことができない。
また,緊急時用資材倉庫の高台設置,がれき撤去用重機の配備等の対策を行うことが考えられる。
以上の対策は,全て可能で、かつ浜岡原発で現実に実施されていることでもある。
これらの工事の工期は,最長でも3年である。本準備書面で指摘した工事の項目は全部で11件となっているが,これらの対策を,遅くとも2006年に始めていれば,2011年までに十分に対策を完了させ,本件事故を回避することができたのである。

5.結論
以上のとおり,被告らの結果回避義務の前提として求められる結果回避可能性が存在していたことは明らかである。
(2017年11月20日・連日更新第1695回)

原発避難者訴訟ー「笑顔なき勝訴」から「笑顔に満ちた勝訴」を目指して

昨日(3月17日)、前橋地裁(原道子裁判長)が「福島第1原発事故 避難者訴訟」の判決を言い渡した。全国各地の原発事故損害賠償集団訴訟は20件を数え、原告総数1万2000人と言われる。その集団訴訟最初の判決として注目されていたもの。各地の訴訟への、今後の影響が大きい。

本日(3月18日)の毎日新聞朝刊社会面の見出しが、「原告、笑顔なき勝訴」「苦労報われず落胆」「認定137人の半分以下」というもの。「勝訴」ではあったが、各原告には「落胆」と受けとめられた判決。毎日が伝えるところを抜粋する。

笑顔なき「一部勝訴」だった。17日の原発避難者訴訟の判決で、前橋地裁は東京電力と国の賠償責任は認めたものの、命じられた賠償額は原告の請求からは程遠かった。古里を奪われた代償を求めて3年半。大半の原告が周囲に知られないように名前も伏せ、息をひそめるようにして闘ってきた。「もっと寄り添ってくれる判決を期待していたのに」。苦労が報われなかった。原告の顔には落胆の表情が浮かんだ。
 
「国と東電の責任を認めさせた。心からうれしいのは間違いない」。判決後の集会で壇上に立った原告の丹治(たんじ)杉江さん(60)はこう言った後、言葉に詰まった。「この6年間つらいことばかりだった。納得できるかな……」

「国と東電の責任が共に認められ、他の訴訟の追い風になる」と話す一方、「原告の主張すべてが認められたわけではなく、残念だ」とも述べた。
原告たちを突き動かしてきたのは「ふるさとを奪われた苦しみへの賠償が不十分」という思いだったが、判決で賠償が認められたのは原告の半分以下の62人だけだった。
「もっと温かい判決を期待していたのに」「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。お金のために裁判をやっているのではないが、損害認定には納得できない」と不満をもらした。

損害賠償訴訟実務の論点は、「責任論」(被告に責任があるか)と「損害論」(損害額をどう算定するか)とに大別される。前橋判決は、責任論ではまさしく「勝訴」であったが、損害論では原告らに笑顔をもたらすものとならなかった。以下にその問題点を整理しておきたい。

判決書は、膨大なものだという。入手していないし、到底読み切れない。判決当日、裁判所が判決骨子(3頁。判決主文の全文が掲載されている)と、判決要旨(10頁)とを配布した。これで、必要なことがほぼ分かる。

裁判所が下記の【参考データ】を作成している。
1 判決文全5冊総数1006頁
2 当事者 原告提訴時合計137名
      うち、訴訟提起後死亡 3名
      本件事故時出生前   4名
  被告 東京電力ホールディングス株式会社
  被告 国
3 請求関係
 原告の請求は1名あたり1100万円(うち、弁護士費用100万円)
 請求金額合計15億700万円
 認容金額合計3855万円
 全部棄却72名
 一部認容62名
 避難指示等区域内の原告数72名 うち認容19名
  最高額350万円 最低額75万円
 自主的避難等区域内の原告数58名 うち認容43名
  最高額73万円最低額7万円
  (相続分を合算した者102万円)
4 弁済の抗弁等
 上記認容額は、被告東電が原告らに対して既に支払った金員(訴訟係属中の支払を含む。)のうち、裁判所が、本件訴訟における請求(平穏生活権が侵害されたことによる慰謝料)についての弁済に該当すると認めた金員を控除した金額である。
(1) 被告東電が主張した既払額総額12億454万3091円
  そのうち、被告東電が主張した慰謝料に対する既払額総額
   4億5830万5860円
(2) 裁判所が弁済の抗弁として認めた金額の総額
   4億2093万5500円

以上のとおり、原告総数137名の内、一部でも認容された者は62名、72名が全部棄却されている。請求金額合計15億700万円に対する認容金額合計3855万円は、認容率において2.5%、40分の1に過ぎない。「もっと温かい判決を期待していたのに」「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。損害認定には納得できない」との原告らの不満も当然であった。

責任論では、原告に満足のいく内容だった。ということは被告両名(東電と国)には極めて厳しい判断となった。

判決は、「当裁判所の判断」の冒頭で、「被告東電に対する民法709条に基づく損害賠償請求の可否」と表題する項を設け、「立法者意思等に基づく原賠法3条1項の解釈からすると、原告らは被告東電に対し、原子力損害に係る損害賠償責任に関しては、民法709条に基づく請求はできない。」との判断を示す。

不法行為に基づく損害賠償請求の根拠が民法709条(「故意又は過失によって、他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」)で、被告に過失あることを要件に賠償責任を認めている。一方、原賠法(原子力損害の賠償に関する法律)3条1項は、「原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者(東電)がその損害を賠償する責めに任ずる。」と定めて、過失を要件としていない。

裁判所は、原発事故には、民法709条適用の余地なく、原賠法3条1項だけの適用ありというのだから、責任論において被告東電の過失の有無を検討する必要はないことになる。

ところが判決は、「原告らは、慰謝料算定における考慮要素として被告東電の非難性を挙げ、被告東電の非難性を基礎づける事情として、被告東電に、本件事故についての予見可能性及び結果回避可能性があったこと、を中心として主張していることなどから、被告東電の津波対策義務に係る予見可能性の有無及び程度について検討する。」として、「津波対策義務に係る予見可能性」を詳細に述べる。

民法709条にいう責任根拠としての「過失」とは、「注意義務違反」とされるが、注意義務は「予見可能性」のないところに成立し得ない。したがって、本件においては、「東電が3・11の規模の大津波の襲来を予見可能であったか」が、争点となる。予見可能なら、当然に防潮堤を嵩上げし、冷却水供給用の電源を浸水させぬよう処置するなどの、作為の注意義務の存在を認定できる、過失ありということになる。

だから通常、予見可能性の有無は責任論の範疇で論じられる。しかし、本件では、無過失責任を前提に、「被告東電の津波対策義務に係る予見可能性の有無及び程度についての検討」が、「慰謝料算定における考慮要素」として、損害論の範疇で論じられているのだ。

判決が予見可能性を認めた判断についての各紙の評価は高い。
「原発避難訴訟、国に賠償命じる判決 予見可能だった」「判決は津波の到来について、東電は『実際に予見していた』と判断。非常用ディーゼル発電機の高台設置などをしていれば『事故は発生しなかった』と指摘した。国についても『予見可能だった』とし、規制権限を行使して東電にこれらの措置を講じさせていれば「事故を防ぐことは可能であった」とした。原告の主張をほぼ認める判決となった。」(朝日)

「国の責任についても、『東京電力に津波の対策を講じるよう命令する権限があり、事故を防ぐことは可能だった。事故の前から、東京電力の自発的な対応を期待することは難しいことも分かっていたと言え、国の対応は著しく合理性を欠く』として、国と東京電力にはいずれも責任があったと初めて認めました。」(NHK

本件判決では、予見可能性の検討結果は、「東電には、本件事故の発生に関し、特に非難するに値する事実が存するというべきであり、東電に対する非難性の程度は、慰謝料増額の考慮要素になると考えられる」とされるのだが、それにしては認容金額は異様に低額と言わざるを得ない。

損害論について、判決要旨は下記のとおり述べているにとどまる。詳細は、判決書きそのものを読むしかない。

本件での請求は、すべて慰謝料(精神的損害の賠償)である。
※個々の原告が被った損害等(相当因果関係及、ぴ損害各論)総論
(1)個々の原告が被った損害については、平穏生活権の侵害により精神的苦痛を受けたかについて検討し、これにより精神的苦痛を受けた場合の慰謝料について、侵害された権利利益の具体的内容及び程度、避難の経緯及び避難生活の態様、家族等の状況その他年齢、性別等本件に現れた一切の事情を斟酌するのが相当と考える。
(2)健康被害に係る精神的苦痛に対する慰謝料は、請求の対象となっていないから慰謝料算定の考慮要素にはならず、上記苦痛に対する慰謝料についての支払いは本件請求についての弁.済とはならない。
(3)仮に.原告らが被ばく線量の検査を受けていなかったとしても、受けていないとの一事をもって、あるいは、被ばく線量の検査を受け原告の一部につき、検査結果が健康に影響のある数値とは認められなかづたことをもって、当該原告が本件事故により放出された放射性物質による被ばくについて、不安感を抱いていることを否定することにはならない。
(4)被告東電が、原告らのうち自主的避難等をした者に対して、合計12万円の支払をした場合には、そ.のうち4万円が精神的損害についての支払である。
※「個々の原告が被った損害等(相当因果.関係及び損害各論) 各論

「判決要旨」には、個々の原告が被った損害等(相当因果.関係及び損害各論)の掲載がない。何をもって慰謝料の算定要素とし、各原告をどのように分類して、各原告の慰謝料額を算定したのか、定かではない。

それでも、判決の評価は次のようにできるだろう。
責任論については、明るい展望を切り開いた判決である。各原告団・弁護団が抱える訴訟の責任論に自信を与えるものとなった。裁判所が無過失責任論を採るにせよ、過失責任主義を採るにせよ、被告東電の有責は揺るがない。

そして、損害論の課題が浮き彫りになった。裁判所を動かす論拠として足りないところを見極め、各弁護団内の議論と、弁護団の垣根を越えた意見交換で、原告らの「笑顔の伴った勝訴判決」を目ざすことになるにちがいない。
(2017年3月18日)

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