司法とは所詮は権力の一部なのだから、この最高裁判決は宿命というべきものなのだろうか。
(2022年6月18日)
3・11福島第1原発事故に関しての「避難者訴訟」。昨日、注目の国の責任に関する最高裁判決が言い渡された。結果は、ニベもない請求棄却(自判)で終わった。この判決は、誰の意を体してのものなのだろうか。そして、あらためて思う。最高裁っていったい何者なのだろう。
昨日の判決は、先行した福島(生業訴訟)、群馬、千葉、愛媛の4避難訴訟についての上告審。原審の各高裁判決は、国の責任を認めたもの3件、否定したもの1件だった。同種の集団訴訟は今回の4件を含めて約30件、原告総数は1万2000人以上となっている。これまで、1、2審で国の責任を肯定する判決が12件、否定するものが11件と割れているとは言え、肯定するものが多い。最高裁は、原審の判断を尊重するだろう。そんな楽観的な雰囲気の中での、敢えてした国寄り判決である。しかも、明らかに無理を押しての逆転判決。
毎日新聞が「『最高裁、国にそんたく』『肩すかし』原告ら憤り」「原告らに冷淡な結末」と見出しを打ち、朝日は、「『将来に恥ずかしい判決』と原告」とした。産経までが、「『こんな判決出るとは』無念の原告 疲労と失望」である。
第二小法廷は長官を出しているので、判決には4裁判官が関わる。結果は多数意見が3、反対意見が1だった。反対意見は検察官出身の三浦守判事のみ。弁護士出身判事までが多数意見にまわっているのはなんたることか。
国が有する規制権限を適切に行使しなかった場合、国に国家賠償法上の損害賠償責任が生じる。3件の原判決は、国の機関が2002年に公表した地震予測「長期評価」に基づく津波対策を講じなかったことを違法とし、国の責任を認めた。ところが、最高裁は、国が(経済産業相)事故前の想定津波に基づき東電に防潮堤を建設させる規制権限を行使しても、東日本大震災の津波による原発事故を防ぐのは困難だったとして、国を免責した。これが、判決理由の骨格である。
「判決理由の骨子」を引用すれば、以下のとおり。結果回避可能性否定の判断で請求を切り捨てている。
A(判断の枠組みの提示と有責の2要件)
公務員による規制権限の不行使は、その権限を定めた法令の趣旨、目的等に照らし、(1) 《その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるとき》は、国家賠償法1条1項の適用上違法となる。そして、国が公務員による規制権限の不行使を理由として国家賠償責任を負うというためには、(2) 《上記公務員が規制権限を行使していれば被害者が被害を受けることはなかった》であろうという関係が認められなければならない。
B(想定された規制権限行使の態様)
本件事故以前の我が国における原子炉施設の津波対策は、津波による原子炉施設の敷地の浸水が想定される場合、防潮堤、防波堤等の構造物を設置することにより上記敷地への海水の浸入を防止することを基本とするものであった。したがって、経済産業大臣が、2002年7月に公表された「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」(本件長期評価)を前提に、電気事業法(改正前のもの)40条に基づく規制権限を行使して、津波による福島第一原子力発電所(本件発電所)の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付けていた場合には、本件長期評価に基づいて想定される最大の津波が到来しても本件発電所の1?4号機の主要建屋の敷地(本件敷地)への海水の浸入を防ぐことができるように設計された防潮堤等を設置するという措置が講じられた蓋然(がいぜん)性が高い。
C(当該規制権限行使態様の非有効性)
ところが、現実に発生した地震は、本件長期評価に基づいて想定される地震よりもはるかに規模が大きいものであり、また、現実の津波(本件津波)による主要建屋付近の浸水深も、本件試算津波による主要建屋付近の浸水深より規模が大きいものであった。そして、本件試算津波の高さは、本件敷地の南東側前面において本件敷地の高さを超えるものの、東側前面においては本件敷地の高さを超えることはなく、東側から海水が本件敷地に侵入することは想定されていなかったが、現実には本件津波の到来に伴い、本件敷地の南東側のみならず東側からも大量の海水が浸入している。
これらの事情に照らすと、本件試算津波と同じ規模の津波による浸水を防ぐ防潮堤等は、本件敷地の南東側からの海水の浸入を防ぐことに主眼を置いたものとなる可能性が高く、一定の裕度を有するように設計されるであろうことを考慮しても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に侵入することを防ぐことはできなかった可能性が高い。
D(結論・有責要件(2) を欠いている)
以上によれば、仮に経済産業大臣が、本件長期評価を前提に、規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に浸入し、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にあるといわざるを得ない。
そうすると、経済産業大臣が規制権限を行使していれば本件事故またはこれと同様の事故が発生しなかったであろうという関係を認めることはできないから、被告国が原告らに対して国家賠償責任を負うということはできない。
以上は、「一応の辻褄合わせの理屈」でしかない。最高裁が国の立場に立てば、国の主張をつなぎ合わせて、このような国の免責ストーリーを描くことはできよう。しかし、もちろん被害住民の立場に立てば、まったく別の立論が可能なのだ。何よりも、原発という途方もない危険物の管理についての国の責任の厳格さの捉え方がまったく違う。最高裁は、ことさらに国の立場に立ったのだ。
我が国の最高裁は、どうして人権の側に立って権力に厳しい姿勢を貫くことができないのだろうか。これは我が国の最高裁に特有の欠陥なのだろうか。それとも、司法とは所詮は権力の一部にしか過ぎないのだから、宿命というべきものなのだろうか。