澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

安倍政権の国会召集拒否は「国民への説明責任を回避」ー「立憲デモクラシーの会」が見解

(2020年8月14日)

誰の目にも、いま国会審議が必要である。新型コロナ対策が喫緊の重要課題である。審議すべきテーマは多岐に及んでいる。豪雨災害への対応も必要だ。イージスアショア計画の廃棄に伴って敵基地先制攻撃能力論などという物騒なものが浮上してきた。アメリカからの思いやり予算拡大要求問題も、中国の香港弾圧問題もある。

通常国会を閉じずに会期延長すべきところ、政権・与党は強引にこれを打ちきって臨時国会を開会しようとしない。そこで7月31日、立憲民主党、国民民主党、共産党、社民党の野党4党は、憲法53条の規定に基づく臨時国会召集の要求書を提出した。

憲法第53条は、こう定めている。
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」

要求書の内容は「安倍内閣は、新型コロナウイルス感染症への初動対応を完全に誤り、『Go Toトラベル』に象徴される朝令暮改で支離滅裂な対応を続けて、国民を混乱に陥れているにもかかわらず、説明責任を果たしていない」というものと報道されている。しかし、問題はその内容の如何や正当性ではない。「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会の召集を決定しなければならない」というのが憲法の定めである。安倍内閣の、憲法尊重の意思の有無が問われているのだ。

今のところ、安倍内閣には、憲法尊重の姿勢は見えない。このことを巡って、憲法学者や政治学者でつくる「立憲デモクラシーの会」が昨日(8月13日)、衆議院議員会館で記者会見し、厳しく批判する見解を表明した。記者会見するに出席したのは、中野晃一・上智大教授、石川健治・東大教授、高見勝利・上智大名誉教授、山口二郎・法政大教授の4人。

同見解は、憲法53条の条文設置の趣旨を、「国会閉会中の行政権乱用防止のため一定数の議員の要求で、国会を自律的に召集する制度を設けている」「憲法違反が常態的に繰り返されている」「内閣の準備不足などとして、召集時期を合理的期間を超えて大幅に遅らせるのは、悪意すら感じさせる」と厳しく指摘している。

6月10日、那覇地裁で「憲法53条違憲国家賠償請求事件」一審判決言い渡しがあった。同判決は、「内閣には通常国会の開催時期が近かったり、内閣が独自に臨時国会を開いたりするなどの事情が無い限り、「合理的期間内」に召集する法的義務を負うもので、単なる政治的義務にとどまるものではない」としている。しかし、7月末の野党の召集要求に対し、政府・与党は早期召集に応じない方針を示している。つまり、敢えて違憲を表明しているのだ。これは、15年と17年の前科に続いて、安倍政権3度目の憲法違反行為である。

政権のこうした姿勢について、石川健治・東大教授(憲法学)は、「憲法改正手続きを経ずに、53条後段の削除と同じ効果が生まれている」と危惧を呈したという。また、中野晃一・上智大教授(政治学)は、「言葉の言い間違いではなく、安倍首相が『立法府の長』であることが現実化しつつある」と述べたとも言う。なるほど、そのとおりである。

なお、下記のとおり、同見解では「憲法上重大な疑義のある『敵基地攻撃能力』が政権・与党内で軽々しく論議されていることも、現政権の姿勢を示すもの」と言及されている。安倍政権、問題山積ではないか。一日も早く臨時国会を開催せよ。

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立憲デモクラシーの会が8月13日発表した見解の全文は以下の通り。

安倍内閣の度び重なる憲法第53条違反に関する見解

2020年8月

 新型コロナウイルスの感染拡大と経済活動の大幅な収縮に歯止めが掛からず国民生活が深刻な危機に見舞われるさなか、国会は閉じる一方で、来月にも国家安全保障会議で「敵基地攻撃能力」の保有に向けた新しい方向性を示す安倍晋三政権の意向が報じられている。

コロナ対策の当否など火急の案件だけでなく、国政上の深刻な課題が山積しているにもかかわらず、安倍首相は国会の閉会中審査に姿を現さず、記者会見もまともに開かず、何より憲法53条に基づく野党による臨時国会開催要求にさえ応じない。これは、主権者たる国民に対する説明責任を徹底して回避していると言わざるをえない。

そもそも憲法53条後段は、国会閉会中における行政権の濫用を防止する目的で、一定数の議員の要求により国会が自主的に集会する制度を設定したものであり、「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とするのは、衆参どちらかの少数派の会派の要求がありさえすれば、国会の召集の決定を内閣に憲法上義務づけたものである。

また、議員からの召集要求があった以上は、召集のために必要な合理的期間を経た後は、すみやかに召集すべきであるとするのが学説の一致した見解であり、近年は政府でさえ「合理的期間を超えない期間内に臨時国会を召集しなければならない」(2018年2月14日横畠裕介内閣法制局長官答弁)と認めている。さらに、本年6月10日那覇地裁判決は、「内閣が憲法53条前段に基づき独自に臨時会を開催するなどの特段の事情がない限り、同条後段に基づく臨時会を召集する義務がある」とする。議員の要求によって召集される臨時国会での審議事項は、上記の自律的集会制度の本質上、内閣提出の案件の存否にかかわらず、各院において自ら設定しうるものである。内閣の準備不足などとして、召集時期を必要な合理的期間を超えて大幅に遅らせようとするのは、憲法53条後段の解釈・適用に前段のそれを持ち込もうとする悪意すら感じさせる。

2015年と2017年につづいて2020年にもまた、このような憲法違反が常態的に繰り返されようとする事態は看過できない。そうした中、憲法上重大な疑義のある「敵基地攻撃能力」が政権・与党内で軽々しく論議されていることも、現政権の姿勢を示すものと言える。敵基地攻撃は国際法上preemptive strike すなわち先制攻撃と見なされるのは明らかで、政権内の言葉遊びですまされるものではない。安倍政権はいずれ終わるとしても、その負の遺産は消えない。これ以上、立憲主義や議会制民主主義を冒瀆することを許してはならない。

ルイ16世の不運と、アベ晋三の好運と。

(2020年6月13日)
今国会のヤマ場であった検察庁法改正審議大詰めの5月15日。松尾邦弘元検事総長ら検察OBが、法案に反対の意見書を法務大臣宛に提出した。長文のその意見書中の次のくだりが話題となった。

 本年2月13日衆院本会議で、安倍晋三首相は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 言うまでもないことだが、私は無邪気に検察の正義を信ずる立場にはない。実務の中で、幾度となく検察の横暴にも検察の不作為にも苦い思いを繰り返してきた。しかし、この切所とも言うべき局面で、権力に対峙すべき検察の役割を適切に語って時の総理大臣をたしなめる、この検察OBの言には感動を禁じ得ない。

思いもかけぬ賭けマージャン報道で、時の人黒川弘務・東京高検検事長が辞任したその直後の5月22日衆院厚労委員会で、この「朕は国家」問題が取り上げられた。共産党の宮本徹が、ルイ14世に例えられた安倍晋三に、こう問うた。

【宮本徹】検察庁法の問題については、元検事総長の方々も初めて連名で意見書を出されました。総理もお読みになられましたかね。本会議で総理が検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにしたと述べた、このことについて、法律改正の手続を経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ十四世の言葉として伝えられる、朕は国家であるとの中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢だと。絶対君主、絶対王政の時代と同じ姿勢だというふうに批判されているんですよ。こういう批判について真摯に耳を傾けるべきじゃありませんか。

 さすがに、宮本はことの本質をよくとらえている。
従来一貫して、検察官には国家公務員法の定年制の規定は適用されないと理解されてきた。ところが、今年1月31日回突然に黒川検事長定年延長の閣議決定に及び、これを追及されるや、2月13日衆院本会議で、「検察官にも国家公務員法の定年延長規定を適用する旨、従来の解釈を変更することにした」旨述べたのだ。

この重大な解釈変更は、国権の最高機関であり唯一の立法機関でもある国会をないがしろにして、内閣が恣意的に立法に及んだに等しい。その政権の姿勢が、『朕は国家である』と言った絶対君主の言葉を彷彿とさせると批判されたのだ。

しかし、批判は、知性を欠いた人物には意味をもたない。馬耳は、東風だけではなく、北風も疾風も感じないのだ。批判の文脈を理解する能力のない人物には、なんの痛痒も生じさせない。検察官OBの言葉も、宮本の質問も、アベ晋三には届いていないのだ。

ここでの予想される答弁のパターンは、こうであろうか。

A(真っ当受けとめ型)
委員ご指摘のとおり、法律専門家の皆様からの私に対する厳しいご叱責には、真摯に耳を傾けざるを得ません。近代の法治主義も、立憲主義も、権力分立も、そして人権尊重の法思想も、『朕は国家である』という絶対王政の思想と国家体制を克服するところから、出発しているものと心得ています。その根底のところでの私に対する批判なのですから、深く自省して、再び同様なことがないよう、この戒めを今後の行政府の長としての心構えといたします。

B(受け流し型)
政権の運営には、さまざまな観点からのさまざまなご批判があることは当然であろうと考えているところでございます。いただいた厳しいご指摘を、けっして無視するということではございません。立場によってはそうも見えるものであるのかという、貴重なご指摘として、参考にさせていただきたいと考えているところでございます。

C(反発型)
せっかくのご指摘と批判ですが、的はずれと受け取らざるを得ません。安倍内閣は、法解釈の変更でできることと、その範囲を超えて法改正をしなければならないこととの区別は十分に承知しておるところでございます。1月31日黒川検事長定年延長の閣議決定は法解釈変更のレベルでできること、そして今国会で審議をお願いしております検察庁法改正案は法解釈を超えているものです。検察OBの皆様には、そのあたりの誤解があるようで残念です。これまでの経緯の詳細を虚心に精査していただけば、誤解も曲解も氷解するものと自信をもっております。

これに対するアベの答弁は、以上のパターンのどれでもなかった。次のとおりである。

【安倍晋三】ルイ16世(14世の間違い)と同じとまで言われると、多くの方々がそれは違うのではないかというふうに思われるのではないかと思うわけでございます。私がここに立っているのも、民主的な選挙を経て選ばれた国会議員によって選出をされた、その多数によって選出をされてここに立っているわけでございますから、この根本的なところをよく見ていただかなければならないんだろう、こう思うところでございます。共産党はどのように党首を決められるのか、よく私は承知をしておりませんが、そのようになっている、総理大臣や、また我が党においても、選挙において総裁を選んでいるということでございます。

 この答弁はムチャクチャである。噛み合わないとか、論点からずれている、などというレベルではない。およそ、何を聞かれているかの理解がないのだ。このレベルに達すると、無知はこの上ない強みである。

アベは、「検察OBから、ルイ16世と同じとまで言われた」と思い込んでいるようなのだ。もしかしたら、アベは、比喩とか、暗喩とか、隠喩とか、メタファーとか、アナロジーなどという言語技法を知らないのかも知れない。あるいは、「彷彿」の意味が本当に分からないのかも知れない。さぞや、宮本も面食らったであろう。

宮本対アベの遣り取りでは、「募るも、募集も同じことでしょう」という珍問答を思い出さざるを得ない。やむなく、宮本が、アベにこう解説をしている。

【宮本徹】民主国家だからこそ、こういう声を上げて批判されているわけですよ。私たち一人一人は、選挙で選ばれた国民の代表です。立法府は、国権の最高機関なわけですよ。だからこそ、その立法府で定めた法解釈を一方的に捻じ曲げるのは、「朕は国家なり」と同じだ、と批判されているわけですよ。その点を理解されない、受けとめない、大変問題だということを厳しく指摘して、質問を終わります。

 アベ晋三、まったくものが分かっていない。自分がものの分からない人物であることもまったく分かっていない。会話が成立しないのだ。困ったことだ。

質問でのルイ14世が、答弁でのルイ16世となっていることが示唆に富んでいる。言うまでもなく、ルイ16世は、フランス革命高揚の中で「国民を裏切った」として断頭台の露と消えた不運な王である。

民主主義国家では、アベ晋三の人権も保障されている。たとえ、彼が国民を裏切った数々の違法が暴かれたとしても、それで「断頭台の露と消える」ことはあり得ない。アベ晋三の嫌いな日本国憲法が、その罪刑法定主義をもってアベ晋三の人権を擁護しているのだ。その好運を噛みしめるべきである。

憲法理念を大切にし続けた松本光寿君の逝去を悼む

(2020年6月3日)
松本光寿君が亡くなったという連絡を受けて茫然としている。50年前、23期の同期司法修習生として司法制度の在り方や法律家の使命などを語り合った仲。享年76、まだ逝くには早すぎる。彼のことだ。此岸には、大きな未練があったはず。

彼は鳥取の人。修習を終えて、郷里鳥取で弁護士となった。登録間もなく、社共統一の鳥取市長選に立候補し、当選には及ばなかったが善戦している。その後、弁護士らしい弁護士として生涯を貫き常に革新の立場を堅持した。

修習生時代の彼は、性温和、大言壮語することも激することもない飄々たる風貌と物腰だった。その彼が、いつの頃からか隠すこともなく検察官志望を口にし、いつの頃からか隠すでもなく青年法律家協会会員ともなった。

当時、裁判所の内部には、憲法擁護を掲げる青年法律家協会裁判官部会の勢力が強く、右翼と自民党と最高裁当局とが、一体となって潰そうと策動していた。これを「ブルーパージ」と言った。われわれ23期修習生活動の共通スローガンは、この策動に対抗して「同期の裁判官志望者のなかから、任官拒否者を出すな」というものだった。青年法律家協会の会員が、最高裁から疎まれ、その思想故に、あるいは団体加入故に、差別されて任官を拒否されるのではないか。憲法を護るべき裁判所にそのような自殺行為があってならない。その運動のボルテージは高かった。

当然のこととして、裁判官志望者は青年法律家協会の会員であることを秘匿した。その雰囲気の中で、松本光寿君は、ただ一人、青年法律家協会会員として検察官志望者であり続けた。彼は、「憲法の理念実現を掲げる青年法律家協会の会員であることと、検察官であることとに何の矛盾もあるはずはない」と言っていた。

それは、まことに真っ当な見解であった。が、問題は、裁判所も法務省も、けっして真っ当ではないことにあった。彼は、何度か、青年法律家協会からの脱退を勧告されたという。それでも、飄々たる風貌と柔らかい物腰に見えた彼は、けっして動揺しなかった。頑固だったと評することもできよう。

そして、彼は検察官としての任官を拒否された。もしかしたら、彼こそは、その思想故に検察官任官を拒否された、歴史上たった一人の人物、なのかも知れない。

松本光寿君が検察官への任官を拒否されたと同じ時期に、同期の裁判官志望者7名も任官を拒否された。そのうち6名が青年法律家協会の会員だった。当局は、どのような手段でか正確に司法修習生の個人情報を把握していたのだ。

われわれ同期は、この裁判官任官拒否に大いに怒った。その怒りが、修習修了式の阪口徳雄君の研修所長への一言の質問となり、阪口君罷免にまで発展した。一方、松本君の検察官任官拒否事件には、抗議はしたものの大きな運動のテーマにはならなかった。裁判官志望者に対する任官拒否と、検察官志望者への任官拒否とは、自ずと重要さが異なるという暗黙の共通理解があったからであろう。

裁判所は、また裁判官は、独立していなければならない。右翼や自民党の攻撃に屈して、憲法の理念に忠実であろうという裁判官を攻撃してはならない。そのような裁判官志望者を排除してはならない。その強い思いは共通していた。しかし、検察官志望者について同じレベルの問題とはとらえられていなかった。

黒川弘務検事長の定年延長問題で、検察官の準司法機関としての役割が強調されている今、松本君の検察官任官拒否の問題について、もっと深く考えるべきだったかと思う。

その後、ときたまに会った。会えば、あの頃のことに話が弾む。印象に残る2度の機会があった。

その1は、私も彼も、スモン訴訟に携わった。どちらも、第3グループの投薬証明皆無の地元患者の立証に苦労を重ねた。私は盛岡から彼は鳥取から、東京に出て会議に参加してその都度顔を合わせた。

その最初のころの機会だったと思う。「ボクもとうとう自分の顔に責任をもたねばならない齢になった」と彼が言うのだ。リンカーンの言葉を引用しての、40歳になった感慨の述懐。とすると、あれは、36年前のことか。

2度目は、憲法制定60周年の日弁連人権擁護大会である。開催場所が鳥取だった。松本君は、地元鳥取県弁護士会の会長だったと思う。受け入れ側を代表する立場だった。私は、日弁連の憲法問題対策本部の一員として、憲法制定60周年を記念するにふさわしい宣言案の起草に携わっていた。

何しろ、全弁護士が加盟する日弁連の宣言である。紆余曲折いろいろあったが、日弁連の対策本部から最終的な成案としてまとまったのが、下記の宣言案である。これに、かなり長文の提案理由が付されている。今、読み直して、なかなかよくできたものだと思う。

実は、この宣言案の採択は、議場で大いに揉めた。簡単には議決とならなかった。2時間半の「激論」が続いたと記録されている。右からの攻撃を想定していたが、議論は改憲派との間では起こらなかった。左からの攻撃を受けた。「9条2項の戦力不保持に関する姿勢が曖昧」というのが主たる問題点とされた。「これでは、自民党の提案と変わるところがない」とまでの発言があったと記憶する。

予定にはなかったが私も発言した。「個人的な憲法観を宣言に持ち込むよう要求してはならない」「特定の立場からの憲法観を盛り込んだ日弁連の宣言は、国民に対する影響力を弱めることになる」などという趣旨だった。

思いがけなくも、松本君も発言した。地元会を代表する立場での発言として、満場が注目した。彼は、落ちついた態度で、力強く語った。「この宣言案を弱いとか、不十分とする意見は、世の常識とかけ離れている」「これを自民党案と同様などと言うのは、ためにする議論で児戯に等しい」「日弁連はこの宣言案を満場一致で採択して、世に憲法理念の大切さを訴える責務を果たさねばならない」という内容と記憶している。大きな拍手を得た演説だった。

ああ、松本君。髪の色は変わったが、こと憲法に関する姿勢は、あのときから変わっていないのだと感動を覚えた。その松本君が5月初旬に亡くなったという。冥福を祈るばかり。

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立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言

日本国憲法制定からまもなく60年を迎える。

基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする当連合会は、1997年の人権擁護大会では「国民主権の確立と平和のうちに安全に生きる権利の実現を求める宣言」を行うなど、全国の弁護士会、弁護士とともに、日本国憲法と国際人権規約などを踏まえて人々の基本的人権の擁護に力を尽くしてきた。

ここ数年、政党・新聞社・財界などから憲法改正に向けた意見や草案が発表され、本年に入り衆参両院の憲法調査会から最終報告書が提出され、自由民主党が新憲法草案を公表するなど、憲法改正をめぐる議論がなされている。

そこで、当連合会は、自らの責務として、また進んで国民の負託に応えるべく、本人権擁護大会において、日本国憲法のよって立つ理念と基本原理について研究し、改憲論議を検討した。

日本国憲法の理念および基本原理に関して確認されたのは、以下の3点である。

憲法は、すべての人々が個人として尊重されるために、最高法規として国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤として成立すべきこと。
憲法は、主権が国民に存することを宣言し、人権が保障されることを中心的な原理とすべきこと。
憲法は、戦争が最大の人権侵害であることに照らし、恒久平和主義に立脚すべきこと。

日本国憲法第9条の戦争を放棄し、戦力を保持しないというより徹底した恒久平和主義は、平和への指針として世界に誇りうる先駆的意義を有するものである。

改憲論議の中には、憲法を権力制限規範にとどめず国民の行動規範としようとするもの、憲法改正の発議要件緩和や国民投票を不要とするもの、国民の責任や義務の自覚あるいは公益や公の秩序への協力を憲法に明記し強調しようとするもの、集団的自衛権の行使を認めた上でその範囲を拡大しようとするもの、軍事裁判所の設置を求めるものなどがあり、これらは、日本国憲法の理念や基本原理を後退させることにつながると危惧せざるを得ない。

当連合会は、憲法改正をめぐる議論において、立憲主義の理念が堅持され、国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義など日本国憲法の基本原理が尊重されることを求めるものであり、21世紀を、日本国憲法前文が謳う「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」が保障される輝かしい人権の世紀とするため、世界の人々と協調して人権擁護の諸活動に取り組む決意である。

以上のとおり、宣言する。

元検察トップ14氏の「検察庁法案反対意見書」に励まされる。

本日(5月15日)元検察トップ14氏が連名で、法務大臣宛に提出した話題の意見書。下記URLで全文が読める。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200515002893.html

一読して驚いた。わくわくするような躍動感あふれる語り口で、感動的ですらある。よく練れた文章で、具体的なエピソードにも富み、とても読みやすい。法の支配や立憲主義、権力分立などの理念を大切にしようという真摯さに溢れている。検察官の政権からの独立を大切なものと訴えながら、検察独善とならぬよう戒めてもいる。これは素晴らしい。

とは言え、かなりの長文である。まずは、私の抜粋(4パラグラフ)から、お読みいただくのが、楽だろう。

まずは、結論部分は以下のとおりである。この文書は、形式上14氏が作成した「法務大臣宛意見書」だが、実は全国民に宛てた檄文でもあるのだ。そのような趣旨として、私たちはこの意見書を受けとめなければならないと思う。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない
 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

なんという直截で飾らない訴えであろうか。「検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動き」を看過してはならないという。そんなことを許せば、私たちの国家社会は、正しいことが正しく行われる社会ではなくなってしまう。内閣が法案を撤回すればよし、さもなくば「多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出る」べきだと言うのだ。この悲痛な声が、かつて検察幹部だった人たちから発せられているのだ。

今、検察制度に関して、国民の眼前に大きな二つの問題がある。その一つは、黒川検事長定年延長の閣議決定である。この閣議決定について意見書は、法的根拠ないものと断じている。

 この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

そして、もう一つの問題が、黒川検事長定年延長合法化に端を発した検察庁法改正問題である。改正法案の検察官定年延長導入について、意見書はこう言う。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長を可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。
 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

 まことに明快で、分かり易い。では、「検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め」ようという法案が、どうして提案されるに至っているのだろうか。その背景事情について、意見書はこう述べている。

 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)させるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 これも分かり易い。確かに、アベ政権には「朕は国家である」と口にした亡霊が憑依している。立憲主義も、三権分立も、法の支配も、まったく理解していないのだ。意見書は、「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告を発している。この文脈での「法の終わり」は、《黒川検事長の違法留任の放置》と《検察の人事に政治権力介入を許容する仕掛けの定年制導入》である。このアベ政権の法の無視を許せば、いよいよ本格的な「アベの暴政が始まる」ことになりかねない。「検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出る」しかないではないか。
(2020年5月15日)

憲法記念日に訴える - 「憲法を活かしてこその有効なコロナ対策だ」

例年のごとく、はつなつの風薫る季節に憲法記念日である。しかし、今日吹く風にはコロナの臭気が混じっている。そのコロナ風のおかげで、メーデーも改憲反対大集会も「オンライン集会」となった。

正式な集会名は、「平和といのちと人権を!5.3憲法集会2020」。当初は有明公園での大集会を予定していたが、本日13時からの国会前集会をネット中継することに。主催者の御苦労と無念は察するが、気勢を殺がれること甚だしい。

今年も、憲法の受難を意識しながらの憲法記念日である。現行の日本国憲法を理想の憲法と持ち上げるつもりはさらさらないが、その根幹が人類の叡智の結実であることに疑いはない。天皇教の教典である大日本帝国憲法などとは、比較すべくもない。

本来なら、この根幹を大事にしつつも、より良い憲法を求めて正しい意味での「憲法改正」運動が展開されてしかるべきなのだが、如何せん革新陣営にはその力量に欠ける。保守勢力の「憲法改悪」の策動を阻止する運動を積み重ねて、ようやく日本国民はいま日本国憲法を自らのものとしつつある。

憲法の危機が叫ばれる都度、日本国民は、日本国憲法が想定する主権者として鍛えられてきた。いままた、その危機のさなかにある。考えてみれば、日本国憲法の基本精神は権力者性悪説である。もとより、近代立憲主義が権力を危険視し、危険な権力を規制しようとするものである。権力は、常に腐敗の危険を内包してというだけではなく、腐敗せぬ健全な権力も危険なのだ。

権力者から嫌われ、疎まれ、煙たがれ、何とか「改正」しようとの標的とされる憲法であってこそ、まともな近代憲法として存在価値がある。改悪阻止運動の高揚も必然となる。

治者としての権力と、被治者としての国民とは、常に緊張関係にある。憲法をはさんで、両者は対峙しているのだ。権力は憲法によって与えられた権限を最大限活用し、あわよくば暴走をしてでも国民を押さえ込もうとする。国民は憲法を武器として、危険な権力に対峙し規制しようとする。この対立の関係は永久運動である。

しかも、今権力を握っているのは、政治と行政を私物化し、嘘とごまかしの正真正銘の性悪政権、安倍内閣である。この安倍を権力に押し上げている勢力が、改憲をねらっている。日本国民が、こぞって危険な改憲阻止に立ち上がって当然なのだ。

そして、今や「新型コロナ感染対策」という「緊急事態」にあって、憲法の有効性が攻撃を受けている。もとより、感染症蔓延を阻止するための、合理的な私権の制約はありうることである。しかし、例外的な私権の制約は、合理性が確認された最低限のものでなくてはならず、国民の納得と同意がなくてはならない。また、厳密に時限的な措置でなければならず、事後の検証も不可欠である。これらは、すべて現行「日本国憲法」が当然とするところである。

特措法に基づく緊急事態宣言の効果として行政権力がなし得ることは万能ではなく限定的ではある。しかし、非常時において行政権が立法権の干渉を排し権力を行使して私権を制約し得るという「緊急事態条項」の基本形の具備は明確である。この事態での政府や自治体の暴走に対する警戒を軽視してはならない。

この事態に、「非常の事態なのだから政府の権限を強化すべきだ」「いまは権力批判のときではなく、一致して政府の施策を支持すべきだ」という類いの言論に与してはならない。非常時における国民の同調圧力に迎合してもならない。

考えてもみよ。合理的な「新型コロナ感染対策」が、強権から生まれることはあり得ない。強権の発動は施策の合理性を阻害するものでしかない。明らかに、専門家の知見を含む国民の意見の総意のみが、最も合理的な対策を形作る。そして、常に施策実行の過程は徹底した透明性を確保された検証にさらされなければならない。不十分であれば直ちに変更するためである。最も合理的な施策が、私権を制限することになることはありうる。国民が民主的に参加して合理性を確認した施策であればこそ納得が可能であり、スムーズな実行が可能となる。また、当然のことながら、全体のために個人の利益が犠牲になるときには、適正な補償が必要となる。

「現行憲法の立場でも、十分に新型コロナ蔓延の事態に対処できる」のではない。現行憲法の立場を十分に活かすことによってこそ、新型コロナ蔓延の事態に対処できる「信頼できない政権にお任せしたら、国民の命と家計は取り返しのつかないこととなる」のだ。この事態を改憲へのステップとして利用しようなどとは、見当違いも甚だしい、とんでもないこと。しっかりと眼を見開いて、危険な政権の暴走と、改憲策動に歯止めを掛ける言論が必要である。
2020年の憲法記念日。薫風心地よけれども、風波は高い。
(2020年5月3日)

「緊急事態宣言」とは、かくも危険なものである。

昨日(3月13日)、新型コロナウイルス感染症を適用対象に加える「新型インフルエンザ特措法」の改正法が成立した。3月11日の審議開始からわずか3日間での成立である。内容は、新型コロナを法の適用対象に加えるだけで、ほかの規定は変えなかった。

衆参両院の決議はいずれも全会一致ではなかった。賛成は、自民・公明・維新と、立憲民主・国民民主・社民の共同会派。共産・れいわ・碧水会・沖縄の風が反対。その他の野党の中からも数人の反対・棄権・欠席があったことがせめてもの救い。

どさくさ紛れの火事場泥棒的法改正だが、新型コロナ感染症への適用に関しては、政令で対象期間を来年(2011年)1月31日までと定めた。それまで、緊急事態宣言の発動を阻止しなければならない。

言うまでもないことだが、近代憲法とは、個人の人権を権力の侵害から擁護するために、主権者が与えた権力規制の命令体系である。憲法の命ずるところに従って、権力の行使は人権侵害のないように制約される。ところが、国家緊急の事態においては、その例外がまかり通らねばならないとする考え方がある。その例外を憲法自体に書き込む例もあり、個別の法にそのような例外を設ける例もある。2012年成立の「新型インフルエンザ特措法」は、「緊急事態宣言」時には、そのような「立憲主義の例外」を安易に認める。危険な立法と言わざるを得ない。

大日本帝国憲法には、いわゆる「国家緊急権規程」が満載であった。第14条(戒厳大権)、第8条(緊急勅令)、第31条(非常大権)、第70条(緊急財政処分)などである。条文は以下のとおりである。

第14条(戒厳大権)
1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第8条(緊急勅令)
1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス

第31条(非常大権)
本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ

第70条(緊急財政処分)
1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得

戒厳が宣告されれば、こんなことになる。
戒厳令第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス
但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ
之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク
人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト

(口語訳)戒厳令が敷かれた地域内では、通常の立法・行政・司法は停止して、司令官が以下の専権をもつ。仮に、これによって誰かに損害が生じても、賠償はしない。
1 不都合な集会や、新聞雑誌広告の発行は停止する
2 軍が必要な諸物品を調査して、その輸出を禁止する
3 銃砲弾薬兵器火具などの危険物の所在を検査して取り上げる
4 郵便電報は開封し船舶や諸物品を検査し陸海の交通路を遮断する
5 やむを得ない場合は、人民の家屋や財産を破壊し焼却する
6 昼夜の別なく人民の住居・建物・船舶に立ち入って検査する
7 必要あれば住民を追い出すこと

関東大震災直後の1923年9月3日の関東戒厳令司令官通知万世一系なにごと以下のとおりである。
(同司令部は、9月2日緊急勅令による「行政戒厳」によって設置されたもの)
一 警視総監及関係地方長官並ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。
1 時勢ニ妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
2 兵器弾薬等其ノ他危険ニ亙ル諸物晶ノ検査押収。
3 出入ノ船舶及諸物晶ノ検査押収。
4 各要所ニ検問所ヲ設ケ
通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依り水陸ノ通路停止。
5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
6 本命施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。
二 関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開緘ス。

また、ヒトラーが政権簒奪の手段としてまず用いたのが、以下のワイマール憲法第48条2項である。
「ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。

そして、悪名高いナチスドイツの「授権法」(全権委任法)は、わずか全5条だった。これが、ヒトラー独裁の法的根拠となった。
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日までの時限立法である。

日本国憲法には一切の緊急事態条項がない。その理由を制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁は、こう語っている。

緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法(重宝)ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ伸展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス

「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」

70年余以前の、この日本国憲法制定の初心を、今噛みしめる必要があるだろう。新型インフル特措法改定案に反対した山添拓議員(共産)の、昨日(3月13日)参院本会議での反対討論(要旨)を紹介しておく。

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 新型コロナウイルス感染症に、多くの人が不安を感じています。今求められているのは、感染拡大を防ぎ、検査体制と医療体制をいっそう充実させるとともに、くらしと経済を守る政治責任を果たすことです。ところが政府は、本法案を通すことを最優先にしています。
 特措法の最大の問題は、緊急事態宣言の下で行政に権力を集中させ、広範な権利制限が可能となることです。
 外出自粛の要請が可能とされます。学校や保育所、介護老人保健施設など、多くの人が利用する施設の利用の制限・停止を要請し、指示できるとされます。医療施設建設のために土地や建物を同意なく使用できるとされます。
こうした多岐にわたる措置は、憲法が保障する移動の自由、経済活動の自由、集会の自由や表現の自由などの基本的人権を制約し、くらしと経済に重大な影響を及ぼします。
 特措法は、自由と権利の制限は「必要最小限度」としていますが、その保証はありません。さまざまな措置により市民に生じる経済的な損失について、補償する仕組みもありません。
 幅広い人権制限が発動されれば、市民生活と経済活動に広範な萎縮効果が及びます。
 自由と権利の重大な制約を可能とするにもかかわらず、法律上の歯止めが曖昧です。
都道府県知事にこうした強力な権限をもたせるのが、首相による「緊急事態宣言」です。ところが、その発動要件は法律上不明確です
 「重篤」とは何か、「相当程度高い」とはどの程度か、「まん延」とは何か、これらを誰が、いかなる根拠で判断するのかの定めがありません。科学的根拠について、専門家の意見を踏まえる仕組みがありません。
 「宣言」の発動や解除に際し、国会の承認は求められていません。私権制限を一時的かつ一部とはいえ行政権に集中させるのに、国会の事前承認すら求めないのは重大です。
 さらに「宣言」下では、「指定公共機関」であるNHKに対し首相が「必要な指示をすることができる」とされ、その内容や範囲に限定はありません。これでは、政府にとって都合の悪い事実は報道させないことも可能となり、国民の知る権利を脅かしかねません。
 本法案は、衆議院で3時間、本院でも参考人質疑を含め4時間20分の質疑時間で委員会採決に至り、十分な審議すら行われていません。政府は本日の質疑でも、現状は緊急事態宣言を発する状況ではないとしています。急いで審議・採決を進める必要はありません。
 憲法改定に前のめりの安倍首相の下で、自民党議員が「緊急事態条項を改憲項目に」と発言しています。安倍政権に緊急事態宣言の発動を可能とすることは容認できません。

(2020年3月14日)

新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明

お集まりの記者の皆様に、二つのことを申しあげます。
一つは、原理的な問題。いったい今、憲法原則に関わるどのような問題が起きようとしているのかということ。そしてもう一つは、ほかならぬ安倍内閣が手がけようとしているからこその危うさです。安倍内閣に、こんな危険なたくらみをさせてはならない。とんでもないことになってしまうということ。

言うまでもないことですが、近代憲法の最重要のテーマは、人権と権力の対抗関係の調整です。すべての個人に備わる人権こそが憲法上の最高価値です。権力の行使には、人権を侵害せぬよう抑制が求められます。権力は強大にならぬよう分立され、その行使には厳重な手続が課されます。主権者は、権力を生み、同時に権力を規制します。これが、近代立憲主義にほかなりません。

しかし、その例外を強調する考え方があります。「国家緊急権」といわれるものです。確かに権力には人権を侵害せぬよう配慮をすべき義務があることは認めざるを得ない。が、それは飽くまで平時の場合の原則であって、国家存亡の緊急時には例外が認められなくてはならない。国家存亡の緊急事態に、国民の人権への配慮などと悠長なことは言っておられない。平時の憲法秩序を一時停止し、権力に対する制約を解除してこれを強化し、人権に対する制約を許容しなければならない、というのです。

《国家がもつ権力》と《国民個人の人権》とが、対抗関係にあるのですから、権力を強化すれば人権が危うくなります。権力を与る者は、国民の人権を危うくする権力を誇示したいという衝動をもちます。国家の緊急事態には、権力は最大限化するとともに、人権の保障は最小限化されることになりますから、権力者にはたいへん魅力的な事態なのです。

今、目の前にあるのは、感染症の蔓延という災害を理由にした、「緊急事態」の発動です。その要件は限りなく曖昧で、その人権制約の効果には恐るべきものがあります。

「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点を、再確認しなければなりません。

そして、二つ目。安倍政権が特措法を改正して、新型コロナウィルスの蔓延を適用対象とし、緊急事態宣言を行おうとしていることです。

2012年4月の自民党憲法改正草案に、詳細な緊急事態条項の構想が、条文化されています。民主主義と人権にとって死活的な内容と言って過言ではない代物。おそらく、これが、安倍政権の本音だと思います。国権の最高機関である国会をないがしろにして内閣が制定する政令で法律に代えることができる、人権の制約は顧慮されません。これを、今やろうとしているのではないか。

安倍晋三とは、国政を私物化しようという人物。安倍内閣とは、嘘とごまかし、文書の破棄・改竄を厭わない政権。決して国民に対する説明責任を果たそうとはしません。このような人物、このような政権に、危険な刃物をもたせてはなりません。それは、国民を傷つけることになる。

真に有効な感染症対策をしょうとするなら、なによりも専門知を結集して現状を正確に認識して科学的な検証に耐える対策を建てるとともに、これを国民に十分に説明して、その納得を得ることです。場当たりな素人判断で事態を悪化させ、緊急事態宣言の条件を作ろうなど、もってのほかと言わねばなりません。

そのような視点から、この声明に目をお通しください。

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新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明

新型コロナウイルスの感染拡大が深刻さを増すなか、安倍政権は現行の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下「特措法」と略記)の対象に新型コロナウイルス感染症を追加する法改正(ただし、2年間の時限措置とする)を9日からの週内にも成立させようと急いでいる。
しかしながら、特措法には緊急事態に関わる特別な仕組みが用意されており、そこでは、内閣総理大臣の緊急事態宣言のもとで行政権への権力の集中、市民の自由と人権の幅広い制限など、日本国憲法を支える立憲主義の根幹が脅かされかねない危惧がある。
そのような観点から、法律家、法律研究者たる私たちは今回の法改正案にはもちろん、現行特措法の枠内での新型コロナウイルス感染症を理由とする緊急事態宣言の発動にも、反対する。あわせて、喫緊に求められる必要な対策についても提起したい。

1 緊急事態下で脅かされる民主主義と人権
特措法では、緊急事態下での行政権の強化と市民の人権制限は、政府対策本部長である内閣総理大臣が「緊急事態宣言」を発する(特措法32条1項。以下、法律名は省略)ことによって可能となり、実施の期間は2年までとされるものの、1年の延長も認められている(同条2項、3項、4項)。
問題なのは、絶大な法的効果をもたらすにもかかわらず、要件が明確でないことである。条文では新型インフルエンザ等の「全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるもの」という抽象的であいまいな要件が示されるだけで、具体的なことは政令に委ねてしまっている。また、緊急事態宣言の発動や解除について、内閣総理大臣はそれを国会に報告するだけでよく(同条1項、5項)、国会の事前はおろか事後の承認も必要とされていない。これでは、国会による行政への民主的チェックは骨抜きになり、政府や内閣総理大臣の専断、独裁に道を開きかねず、民主主義と立憲主義は危うくなってしまう。
緊急事態宣言のもとで、行政権はどこまで強められ、市民の自由と人権はどこまで制限されることになるのか。特措法では、内閣総理大臣が緊急事態を宣言すると、都道府県知事に規制権限が与えられるが、その対象となる事項が広範に列挙されている。例えば、知事は、生活の維持に必要な場合を除きみだりに外出しないことや感染の防止に必要な協力を住民に要請することができる(45条1項)。また、知事は、必要があると認めるときは、学校、社会福祉施設、興行場など多数の者が利用する施設について、その使用を制限し、停止するよう、施設の管理者に要請し、指示することができる。また施設を使用した催物の開催を制限し、停止するよう催物の開催者に要請し、指示することができる(同条2項、3項)。
外出については、自粛の要請にとどまるとはいえ、憲法によって保障された移動の自由(憲法22条1項)を制限するものである。また、多数の者が利用する学校等の施設の使用の制限・停止や施設を使用する催物の開催の制限・停止という規制は、施設や催物が幅広く対象となり、しかも要請にとどまらず指示という形での規制も加え、強制の度合いがさらに強められており、憲法上とりわけ重要な人権として保障される集会の自由や表現の自由(憲法21条1項)が侵害されかねない。
また、特措法の下で、NHKは、他の公共的機関や公益的事業法人とならんで指定公共機関とされ(2条6号など。民放等の他の報道機関も政令で追加される危険がある)、新型インフルエンザ等対策に関し内閣総理大臣の総合調整に服すだけでなく(20条1項)、緊急事態宣言下では、総合調整に基づく措置が実施されない場合でも、内閣総理大臣の必要な指示を受けることとされている(33条1項)。これでは、報道機関に権力からの独立と報道の自由が確保されず、市民も必要で十分な情報を得られず、その知る権利も満たせないことになる。
さらに、知事は、臨時の医療施設開設のため、所有者等の同意を得て、必要な土地、建物等を使用することができるが、一定の場合には同意を得ないで強制的に使用することができる(49条1項、2項)。これも私権の重大な侵害であり、憲法が保障する財産権にも深く関わる措置である(憲法29条)。

2 政府による対策の失敗と緊急事態法制頼りへの疑問
政府は、特措法改正の趣旨を、新型コロナウイルス感染症の「流行を早期に終息させるために、徹底した対策を講じていく必要がある」(改正法案の概要)と説明している。
しかし、求められる有効な対策という点から振りかえれば、中国の感染地域からの人の流れをより早く止め、ダイヤモンドプリンセス号での感染を最小限にとどめ、より広範なウイルス検査の早期実施と実施体制の早期確立が必要であった。にもかかわらず、国内外のメディアからも厳しく批判されてきたように、初期対応の遅れとともに、必要な実施がなされない一方で、専門家会議の議論を踏まえて決定されたはずの「基本方針」にもなかった大規模イベントの開催自粛要請、それにつづく全国の小中高校、特別支援学校に対する一律の休校要請、さらに中国と韓国からの入国制限などが、いずれも専門家の意見を聞かず、十分な準備も十分な根拠の説明もないまま唐突に発動されることによって、混乱に拍車をかけてきた。
本来必要な対策を取らないまま過ごしてきて、この段階に至って緊急事態法制の導入を言い出し、それに頼ることは感染の抑止、拡大防止と具体的にどうつながるのか、大いに疑問である。根拠も薄弱なまま、政府の強権化が進み、市民の自由や人権が制限され、民主主義や立憲主義の体制が脅かされることにならないか、との危惧がぬぐえない。現に、特措法改正を超えて、この際、今回の問題を奇貨として憲法に緊急事態条項を新設しようとする改憲の動きさえ自民党や一部野党のなかにみられることも看過しがたい。

3 特措法改正ではなく真に有効な対策をこそ
今回の特措法改正はあまりにも重大な問題が多く、一週間の内に審議して成立させるなどということは、拙速のそしりをまぬかれない。私たちは、政府に対し今回の法改正の撤回とともに、特措法そのものについても根本的な再検討を求めたい。加えて、次のことを急ぐべきである。すなわち症状が重症化するまでウイルス検査をさせないという誤った政策を転換し、現行感染症法によって十分対応できる検査の拡大、感染状況の正確な把握とその情報公開、感染者に対する迅速確実な治療体制の構築、マスクなどの必要物資の管理と普及である。感染リスクの高い満員通勤電車の解消、テレワークを可能にする国による休業補償、とりわけ中小企業への支援、経済的な打撃を受けている事業者に対するつなぎ融資や不安定雇用の下にある人々や高齢者、障がい者など生活への支援を必要とする人々への手厚いサポートが必要である。そのため緊急にして大胆な財政措置が喫緊である。
強権的な緊急事態宣言の実施は、真実を隠蔽し、政府への建設的な批判の障壁となること必至である。一層の闇を招き寄せてはならない。

2020年3月9日

梓澤和幸 (弁護士)
右崎正博 (獨協大学名誉教授)
宇都宮健児 (弁護士、元日弁連会長)
海渡雄一 (弁護士)
北村 栄 (弁護士)
阪口徳雄 (弁護士)
澤藤統一郎 (弁護士)
田島泰彦 (早稲田大学非常勤講師、元上智大学教授)
水島朝穂 (早稲田大学教授)
森 英樹 (名古屋大学名誉教授)  (*あいうえお順)

(2020年3月9日)

共産党は、「即位礼正殿の儀」に参列しない。その姿勢や良し

本日(10月10日)の赤旗からの引用である。
「『即位の礼』 一連の儀式参列せず」「小池氏 憲法原則と両立しない」という見出し。この見出しだけでも、分かることは分かる。

 日本共産党の小池晃書記局長は9日、国会内で記者会見し、天皇の代替わりにかかわり行われる「即位の礼」の一連の儀式への態度について問われ、「『即位礼正殿の儀』および『饗宴の儀』には参列しない」と述べました。

 小池氏は、日本共産党が天皇の代替わりに伴う儀式等については、憲法の国民主権、政教分離の原則にかなったものとすることを求めてきたが、政府が昨年4月に閣議決定した「即位の礼」の一連の儀式は、戦前の明治憲法下の天皇主権・国家神道のもとで代替わりの儀式を定めた「登極令」のやり方を踏襲するものだと指摘。「とりわけ『即位礼正殿の儀』は、神によって天皇の地位が与えられたことを示す『高御座』から天皇が即位を宣明し、その即位を内外の代表が祝う儀式であり、神道行事である『大嘗祭』と一体不可分に行われるものだ。『饗宴の儀』は、こうした『即位礼正殿の儀』と一体の行事に他ならない」として、「わが党は、これらの儀式が現行憲法の国民主権、政教分離の原則とは両立しないことを指摘し、国事行為である国の儀式とすることに反対を表明してきた。こうした見地から『即位礼正殿の儀』および『饗宴の儀』には参列しない」と述べました。

 簡明な理由と簡明な結論。これでよかった。共産党ともあろう者が、高御座の新天皇を仰ぎ見て、安倍晋三の音頭に唱和して、「テンノーヘイカ・バンザイ」などという愚かな真似をやれるはずもなかろう。共産党を支持し、これに票を投じた少なからぬ国民を代表する立場で、きっぱりと「一連の儀式参列せず」としたことを評価したい。

これを産経が「共産党が天皇陛下ご即位の儀式に欠席表明」と報じている。「天皇陛下ご即位の儀式」には、国民こぞって参列し、テンノーヘイカ・バンザイ」と祝意を表明すべきだと言わんばかりの記事のつくり。

芥川はこう言った。「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」

芥川に倣って,今はこう言わねばならない。「わたしには実際不思議である。なぜ主権者たる国民が、酒にも酔わずに、『テンノーヘイカ・バンザイ』などと叫ぶことができるのであろうか?」

私は、代替わり(天皇の交代)を祝うという感性が、自律した個人にふさわしからぬものと思う。これは、日本国憲法以前の、言わば近代のもつ自然法的な大原則だと思う。

共産党は、そこまでは言わない。キーワードは、「国民主権」政教分離」代替わり(天皇交代)儀式のあり方がこの憲法上の両原則に反するという。象徴天皇制を尊重しつつ、天皇交代の儀式のありかたを、天皇の存在に優越する他の憲法諸原則に照らして問題とする姿勢。もちろん、日本国憲法遵守至上主義に文句の付けようはないが、私には、やや物足りない。

ところが、世の中には、いろんな人がいて、いろんな見方がある。この共産党の「憲法遵守至上主義」を、「共産党は改憲派」という自民党議員の発言が飛び出した。何だいったいそれは。私の頭が混乱しているのか、当該議員の発言が混乱しているのか。

自民党の井野俊郎という議員が、本日(10月10日)の衆院予算委員会で「共産党の皆さんは改憲派」と発言し、一騒動あったという。

発言した当の自民党議員にしてみれば、「改憲派」とは、自分のことだ。共産党を「改憲派」というのは、自分と同じということ。これでは、罵り言葉にならない。

朝日が伝えるところでは、井野の発言は「憲法第1章、天皇制について言えば、我々自民党は護憲。他方、共産党の皆さんは改憲派になると思う」というもの。井野という人物、最近の共産党の姿勢を知ってのことか、知らないのか。

野党の席から「違うよ!」「でたらめなこと言うな!」と激しいヤジが飛び、委員会室は一時騒然となった。井野氏は「(共産党は)即位の礼に参加しないじゃないですか」と反論したが、ヤジは収まらなかった。

こうした状況を受け、午後に再開された同委の冒頭、棚橋委員長は井野氏の発言について、「公党に対して誤解を与えるような発言がありました。発言には十分に注意してほしい」と述べ、注意を促した。

井野議員の発言は「憲法第1章、天皇制について言えば、我々自民党は護憲。他方、共産党の皆さんは改憲派になると思う」は、本来の共産党のあるべき姿の指摘といえよう。国民の多くが漠然とそう考えているものと思われる。その改憲とは、歴史の進歩に沿う方向でのもの。

もちろん、天皇制について、「自民党が護憲派」はウソだ。歴史に逆行する形での改憲志向政党である。2012年4月28日発表の「自民党改憲草案」は、その前文の冒頭を、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって…、」としている。日本国憲法とは大違い。

そして、残念ながら、「共産党の皆さんは改憲派になると思う」も間違いなのだ。野党の席から「違うよ!」「でたらめなこと言うな!」と激しいヤジが飛んだとおり、共産党は「護憲一辺倒」なのだ。確かに、共産党は即位の礼に参加しない。しかし、それは現行憲法の大原則に反するからであって、象徴天皇制そのものに反対し、天皇制をなくしていこうという積極的改憲路線とは無縁なのだから。
(2019年10月10日)

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NHKへの抗議と激励の「アピール行動」10月18日(金)に延期

NHKへの抗議と激励の「アピール行動」は台風のため延期となりました。

10-18-kanpo-1.pdf

  日時:10月18日(金) 17時~18時
  場所:NHK放送センター西門周辺
     (最寄り駅:澁谷・原宿・明治神宮駅)

あたらしい憲法のはなし 『憲法』を読む

11月8日「あたらしい憲法のはなし 『天皇陛下』を読む」
http://article9.jp/wordpress/?p=11417

12月10日「『新しい憲法のはなし』のはなし」

http://article9.jp/wordpress/?p=11686

の続編である。

前回も書いたが、第5章『天皇陛下』の内容は余りにひどい。次いで第1章『憲法』である。やや長いが、まず、全文を掲記しておきたい。

 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和22年5月3日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。

 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。

 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。

 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。

 みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。

 そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戰爭をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。

 これまであった憲法は、明治22年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。

 みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。

 みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。國の規則もそれと同じで、一つひとつ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第1條から第103條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。

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以上の文章を、違和感なく読み進むことができるだろうか。私は冒頭から引っかかり、ほぼ全文に違和感を禁じえない。何よりも、憲法の解説として不可欠な歴史的背景が語られていないのがもどかしい。「あたらしい憲法」がなぜ必要になったのか。旧憲法のどこが批判の対象なのか。旧憲法から新憲法に、どのような原理的転換が遂げられたのか。新憲法において、権力と人権とはどのような対抗関係ととらえられているのか。市民社会の公理である個人主義とは何か、自由主義とは何か。中学生の理解力の問題ではない。書かねばならないことが書かれていないのだ。

 「みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和22年5月3日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。」

 この冒頭の一文から、バカげている。「みなさん、憲法ができました。そうして明治23年11月29日から、私たち日本國民は、この大日本帝国憲法を守ってゆくことになりました。」と置き換えて違和感がない。この一文の筆者は、大日本帝国憲法から日本国憲法への原理的転換の内容を理解していない。あるいは、子供たちに理解させたくないのだ。

ここで言うこの憲法を守ってゆくは、「根強い保守勢力の大日本帝国復古の動きに抗して、憲法典や解釈を変えさせないように護る」という意味での「守る」ではない。「憲法が命ずるところを遵守してゆく」という意味の「守る」なのだ。あろうことか、国民に「憲法を守る」よう呼びかけ、天皇や公務員に「憲法を守らせよう」という観点はない。立憲主義的な憲法の理解が抜けているのだ。そもそも、その根底にあるべき権力と国民(人権)の対抗観念がない。

以下、ほぼ全文に引っかかるが、顕著なところだけを抜き出してみたい。

 國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
  國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。

 憲法を「たくさんある規則のうちのいちばん大事な規則」という平板なとらえ方を不正確と言ってはならない。これは明らかな、ミスリードなのだ。憲法とは、国家権力を規制することによって国民の権利を守ろうという原則を定めたもの。国家権力の規制という視点を抜いた憲法解説は、大日本帝国憲法時代のものと変わらないこととなる。

 この憲法には、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。

憲法が、「人権規範」部分と「統治機構」部分の2部門からなることは、常識的な考え方である。しかし、この二つの関連をを平板に形式的にとらえてはならない。個人の「人権」こそが目的的な価値で、国の「統治機構」は人権を侵すことのないように組み立てられている。その解説こそが重要なのに、「国民の権利は、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事である」という倒錯を語ってはならない。

それだけではない。人権がなぜ大事なのか。その理由をこう言うのだ。

 「國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。」

 これは謬論である。これを時代の限界などと看過してはならない。人権は「國の力のもと」ではない。「國の力」を強くするために、人権が認められているのではない。日本の民衆には自由民権の時代から、脈々たる人権思想があった。この筆者には、その思想がない。人権を語る情熱もない。

 みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。

欽定憲法から民定憲法への原理的転換を、国民の憲法遵守義務の根拠にすりかえ封じ込めようという企み、というしかない。憲法が変わっても、臣民が国民と言い換えられても、飽くまでも政府は、「憲法を拳拳服膺する」従順で自律しない国民を望んでいるのだ。

この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。みなさんは、この三つのことを知らなければなりません。

こういうスッキリしない話しぶりにモヤモヤ感を払拭できない。あの、躍動するような日本国憲法前文を、「だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。」と無感動にまとめているのは一種の才能というべきなのだろう。

(2018年12月11日)

牛飼も大工も農民も漁民も、それぞれの目線で憲法を読み語れ。

 牛飼が歌よむ時に 世の中の 新しき歌 大いに起る

アララギに拠った伊藤左千夫のご存じの歌。「伊藤左千夫歌集」巻頭の一首だそうだ。この著名な一首を本歌として、ひねってみた。

 大工らが日本国憲法よむ時に 自由と人権 大いに起る

私の手許に、「大工の明良、憲法を読む:土台と大黒柱が肝心!」という新刊本がある。著者明良佐藤は1943年の生まれ、私と同い年のホンモノの大工だという。大工が書いた、大工目線の憲法の解説書である。憲法の成り立ちと構造を語り、前文から全条を解説している。これは快挙だ。

伊藤左千夫は、歌人としての高みから牛飼に歌作を薦めたのではない。伊藤左千夫自身が、乳牛を飼育して牛乳の製造販売に従事していた人。冒頭の一首は牛飼い自身の歌であればこその、生活者の歌としての清新さと骨太の逞しさを感じさせる。

大工の明良も、左千夫と同じことを憲法の分野でやった。研究者としての高みから、大工に憲法を解説したのではない。大工の仕事を比喩として、憲法の成り立ちを説明したものでもない。ホンモノの大工が、大工目線で憲法の全条文を読み、大工目線で憲法を解説したのだ。

この本の惹句がなかなかに秀逸である。
帯に「『君たちはどう生きるか?』の憲法版」とある。そう言って大袈裟でもなかろう。併せて、「『君たちはこの憲法をどう守るか?』と大工の明良さんは問いかける」ともある。徹底した護憲の立場。それを「若い君たち」に問いかけている。憲法に接した著者の感動と理解を若い世代に語り伝えようという情熱で書かれている。

上野千鶴子が帯で推薦の評を書いている。
「今さらながら、『えーっ、びっくり!』の連続。こんなわかりやすい憲法解説書はなかった」というもの。

出版元の現代書館はこう宣伝している。
「学者・弁護士・政治家の本では絶対に見られなかった“大工の憲法論”。大工の目で日本国憲法を読み解くと、それは驚きのベストホームだった! 従来の憲法論とはまったく異なる論点から明らかになる憲法の可能性を楽しく解説。」

この書の特徴は「大工目線」に尽きる。たとえば、憲法99条の「公務員の憲法尊重擁護義務」の解説で、立憲主義に触れる部分は、次のような書き方になっている。

 大工の目から言うと、家づくりの図面は、すべての職人等が守らなければならない最高法規といっていいものです。各職人が図面を勝手に解釈してつくったら、家づくりが順調に進みません。
 内閣総理大臣に相当する棟梁が率先して守らなければ、他の職人に示しがつかないどころか、他の職人から、棟梁が勝手に解釈するなら、こっちもやりいいようにするよ、となり、図面通りの家ができなくなってしまいます。
 それでは依頼主、つまり主権者である住む主人公の思いが実現できなくなります。
 憲法擁護義務は天皇、首相、大臣、議員、裁判官だけ。そこに国民が入っていない、というのは、家づくりでいえば当然です。家づくりをするのは大工等の職人で、家の設計図を守らなければならないのは職人です。依頼主である家の主人公が、家をつくる職人であるわけがないからです。
 建て主は、自分たちの思い通りの家ができていくのかを監視し、チエックしないとあとで欠陥住宅をつかまされたと、泣きが入るかもしれませんよ。

国民が施主、総理大臣以下の公務員が職人。施主から職人に渡された設計図が憲法に相当するもので、職人が勝手に設計を変えてはならない。施主は職人をしっかり監視しチエックしないと、思い通りの家が建たないというのだ。分かり易いではないか。

私はこの本のゲラの段階で目を通している。出版社からの依頼で校正に関わっている。忙しい折だったが楽しい作業だった。

改めて思う。牛飼いも大工も左官もサラリーマンも公務員も商人も教員も、女性も在日も障がい者も、学生も子どもも、犯罪被害者も冤罪に苦しむ人も、それぞれの目線で憲法を読み語れ。農民には農民の、漁民には漁民の目線があう。それぞれの立場で他の人たちが気付かない憲法を読む目線があるだろう。

「大工の明良」のように、憲法全文の解説をし、さらに「第2部 憲法を深く考えてみたら未来に光が見えてくる」と論文まで付するのは至難の業。条文のひとつでも、テーマのひとつでも、それぞれの目線で、憲法を読んで大いに語ろうではないか。

主権者国民がそれぞれの目線で主体的に憲法を読み語るまさにそのときにこそ、「新しき 憲法の時代」が到来するのではないだろうか。そして、民主主義も、自由も人権も、平和の風も、大いに起ることになるだろう。

この本の体裁は以下のとおりである。
単行本: 294ページ
出版社: 現代書館
発売日: 2018/10/8
1600円+税
http://www.gendaishokan.co.jp/new03.htm

(2018年10月27日)

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