澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

天皇批判言論についての「法的自由」と「現実の不自由」の落差

(2020年8月25日)
一昨日(8月23日)、私のブログに醍醐聰さんから、「苦言」をいただいた。私のブログに目を通していただき、わざわざコメントをいただいたことをありがたいと思う。が、一言釈明をしておかねばならないし、敷衍して述べておきたいこともある。

当ブログは8月22日付で伊藤詩織さんの民事訴訟提起を肯定的に取りあげ、「『リツィート』も『いいね』も法的責任追及の対象となる。ネトウヨ諸君、中傷誹謗は慎まれよ。」と表題する記事を掲載した。私は、その末尾にこう書いた。

 匿名に隠れて誹謗中傷をこととするネトウヨ界の住人諸君。他人の人格の侵害には、責任が問われることを知らねばならない。たとえ、「リツィート」であっても、「いいね」でさえも。
 もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については自由度が高い。しかし、弱い立場にある者への寄ってたかっての攻撃は許される余地がない。心していただきたい。

醍醐さんのツィッターでの「苦言」は、以下のとおりである。

私も澤藤統一郎さんと同様、泣き寝入りを拒否して2次、3次被害の加害者の責任も追及するために提訴した伊藤詩織さんに敬意を表する。
ただし、「天皇などの社会的権威に対する批判の言論については自由度が高い」という澤藤さんの意見には賛同しない。自由度は極めて低い。

醍醐さんがこういうのだから、私の表現が意を尽くしていない。意とするところが正確に伝わるように、文章を練らなければならないと思う。私は、最近この種の「苦言」を受けることが多い。心しなければならないと思う。

確かに、天皇批判の言論に対しては、この社会は非寛容である。自由にのびのびと、気軽に気楽に、天皇批判を展開できる状況にはない。むしろ、天皇を語る際には敬称と敬語が必要との思い込みは社会に浸透している。そのようにすることが無難という一般常識がある。なかには、舌を噛みそうな慣れない敬語を使う滑稽な人々もいる。そんな社会においては、天皇批判はまことに口にしにくい。顕名で天皇批判の文章を残すなど、敢えて面倒のタネを播いて育てることに等しい。確かに、社会的な圧力が人々に天皇についての批判を控えさせている。醍醐さんの言われるとおり、現実には「天皇批判の自由度は極めて低い」。まったく同感である。

しかし、私は天皇批判言論の難易に関する社会の現実を「自由度が高い」と言ったのではない。当該のブログ記事は、言論に対する法的責任追及の可否を論じるものである。「他人の人格を侵害する表現は、法的責任が問われる」「もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については、自由度が高い。」という文脈は、表現の法的責任の有無・程度について述べたもの。

一般人を対象にその人格を否定し侵害する言論は、刑事民事の法的責任が問われる。これにくらべて、天皇や安倍晋三など、権威や権力者を対象とする批判の言論については、格段に「批判の言論の自由度が高い」。即ち法的に免責される可能性が高い。端的に言えば、天皇批判の言論には、手厚い法の保護が与えられるのだ。

言論の自由は、高い憲法価値をもつ。ということは、他の憲法価値と衝突する局面で優越する地位を獲得しうることを意味する。典型的には、言論が他人の名誉や信用を傷つけることが許容されるということなのだ。

天皇賛美や政権忖度の提灯言論は、他人の人権と衝突しない。この種の言論について言論の「自由」や「権利」を論じる意味はない。「陛下おいたわしや」「総理ご立派」などの言論が自由にできることをもって、言論の自由が保障されている社会とは言わない。

言論が特定の人格と衝突して、その人の名誉や信用や名誉感情を傷つけるときに、言論の自由という憲法価値と、人格権あるいは名誉・信用という憲法価値を衡量して、言論の自由に軍配があがる場合にはじめて言論の自由は意味をもつ。とりわけ、批判しにくい天皇や首相の名誉を侵害する批判の言論を許容することにおいて言論の自由はいみをもつ。

しかし、言論の自由も無敵ではなく、当然に限界をもっている。他の人権との衝突の場面で、しかるべき調整原理に従わなければならず、場合によっては優越的地位を譲らなければならないこともある。

そのような調整原理として、日本の判例に定着しているとされるものが、「公正な論評の法理」といわれるもの。公正な論評の法理においては、言論を、「論評」と「事実の摘示」とに分類し、「論評」には「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱」しない限り大幅な自由が認められる。また、「事実の摘示」については、その言論の公共性・公然性・真実性(または真実と信じたことについての相当性)があれば、他人の名誉を毀損しても違法性はないとされる。

さらに、アメリカ合衆国連邦最高裁判所の判例は、「現実的な悪意の法理」を採用している。まずは、「公人」概念を確立し、公人に対する名誉毀損表現を最大限許容する。その表現がたとえ真実性を欠く場合であっても、公人側が、表現者の『現実的な悪意』を立証できない限り敗訴となる。『現実的な悪意』とは分かりにくい訳語だが、「表現にかかる事実が真実に反し虚偽であることを知りながらその行為に及んだこと、又は、虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切ったこと」という。『自分の言論が虚偽であることを知っていたか、知らないことに重過失があった場合』と要約してよいだろう。これを批判された公人の側が証明しなければならない。アメリカの法廷では、公人が提起した名誉毀損訴訟は、ほぼ勝ち目がないと言われている。

日本の判例はそこまでは踏み切っていないが、言論の重要性が、権威や権力に対する批判を保障するところにあることには異論がない。アメリカの判例における公人とは、権威者あるいは権力者のことである。日本の判例でも、公共性や公益性の概念を通じて、権威や権力をもつ者に対する批判の言論は、違法性を阻却して法的に許容される結論に通じることになる。わが国における権威・権力のトップが、天皇と首相である。だから、「天皇に対する批判の言論については自由度が高い」のだ。

天皇も一人の人間である以上、種々の制約はありつつも人権を有している。その人権の一部である名誉や信用も、天皇や天皇制批判の言論による侵害を甘受せざるを得ないということなのだ。

なお、天皇が人権を享有していることを強調することは、ほとんど意味をもたない。むしろ、天皇の人権は一般国民以上のものではないことが強調されねばならない。ちょうど、「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」が、黒人の人権が白人以下のものではないことを強調しているごとくに。

「政権長きが故に貴からず」ー 無能な政権の長きを以て迷惑と為す

(2020年8月23日・連続更新1701日)

通俗道徳を説く『実語教』の冒頭に、

 山高きが故に貴からず 樹有るを以て貴しと為す
 人肥えたるが故に貴からず 智有るを以て貴しと為す

とある。これに、以下のように続けよう。

 政権長きが故に貴からず 実績有るを以て貴しと為す
 総理その座の故に貴からず 国民奉仕を以て貴しと為す
 総理看板の枚数故に貴からず 実行有るを以て貴しと為す
 総理原稿読む故に貴からず 意欲と能力を以て貴しと為す
 トランプとの誼故に貴からず 己に如かざる者を友とするなかれ

何の実績もなく忖度とオトモダチ優遇に明け暮れた安倍第2次政権が、2012年12月26日発足以来本日(8月23日)で2798日となるという。馬齢を重ねると言えば、馬に失礼になろう。これで佐藤栄作の連続在任日数に並び、明日には歴代最長となるそうだ。

佐藤政権も、ろくでもない印象しか残していないが、安倍政権ほどひどくはなかった。嘘つき、ゴマカシ、権力の私物化と、こうも国民から胡散臭いとおもわれる政権は希だろう。それが、歴代最長の政権になるというのだから情けない。

ところで、当ブログの連載開始は、安倍政権の改憲策動に危機感をもったことに始まり、昨日のブログが連続更新2700日となっている。日本の右翼・改憲派が、穏健保守を押しのけて作りあげたアベ政権である。アベで改憲ができなければ、近い将来に改憲の望みはない。靖国参拝も、拉致問題も、北方領土も、保守勢力の懸案解決の切り札としての政権。しかも、民主党の政権運営失敗からの揺り戻しの国民意識を背景に、なんでもできるのではないか。そんな時代の雰囲気の危うさに抗して、アベ政権を批判し、改憲を阻止する力の一端を担おうと書き始めたのだ。

「憲法日記」との標題でのブログの初回は政権発足直後の2013年1月1日である。しかし、今の形で、今のURLでの書き始めは、同年の4月1日。毎日更新を宣言して、2700回を超えた。当時、こんなにアベ政権が続くとは夢にも思わなかった。

安倍内閣は確かに長く続いたが、国民の批判は予想以上に強く、右派勢力が思うような政権運営はできなかった。ときに、突出した強行姿勢を見せても、常に揺り戻しが大きく、決して右翼勢力の期待は実を結ぶに至っていない。

アベは、レガシーを意識しているという。しかし、悲願であった憲法「改正」はもう無理だ。近い将来、改憲は不可能という情勢を作り出したという点において、アベはレガシーを残したと言えるかも知れない。拉致被害問題も、北方領土問題も、1ミリの進展もない。イラン問題での仲介もできなかった。経済の再生もできないまま、確実に格差貧困だけは拡大している。花道と考えられた東京五輪・パラリンピックもアベの在職中にはもう無理だろう。

世界の首脳の中でたったひとりトランプとは良好な関係を結んでいるようだが、それはアメリカとの関係良好を意味しない。大胆な無法者と臆病な無法者との誼に過ぎないが、果たしてそれが我が国民の利益となるのかどうか。

負のレガシーはいくらでもある。見えるものとして国民の記憶に新しいのは、466億円を投じてのアベノマスク配布である。これこそ政権の無能と無為無策の象徴、アベの愚策として永遠に歴史と国民の記憶に残るだろう。

直接には見えないが、最大のものは公務員の忖度文化の育成であろうか。安倍政権時代の7年で、公務員は、国民のためにではなく、上を眺めて上にへつらうことで出世競争をするようになった。そして、適正な公文書管理の忌避。検察の独立性への不信。総理の国会発言の言葉の軽さ。上の責任を下に下ろして、末端職員を自殺にまで追い込む行政組織のありかた。

さらに、絶えず何かに取り組んでいる振りの「やってる感」演出文化。思い出してみれば、「デフレ脱却」「三本の矢」「女性活躍」「地方創生」「一億総活躍」「働き方改革」「人生100年構想」「人づくり革命」等々。掛け替えた看板の数だけは、比類のないもの。

アベとアベ政権が引き起こした数々の醜聞も忘れまい。モリ・カケ・桜、カジノに河井。情報隠して、格差を広げ、政治も行政もウソをつく。

いま、既にアベ政権はレームダック状態である。改憲の旗振りなんぞ今ごろできるわけがない。首相の体調の異変も報じられている。首相がいなくても行政は動くのだ。「悪さ」や「おいた」をすることなく、アベが黙っているだなら、もうしばらくアベ政権が続いてもよい。

アベは原稿読むだけの総理でよい。改憲発議せぬだけを以て貴しと為す。

当ブログは、安倍晋三の在任が続く限り、改憲問題・改憲阻止をメインテーマに書き続ける。ご愛読をお願いしたい。

本日、「憲法日記」満7歳に。

コロナ風厳しい中での4月1日。当ブログの連載開始記念日である。「建国記念の日」命名の筆法に倣えば、「憲法日記記念の日」にほかならない。「この日記とともに憲法をしのび憲法をこよなく愛する心を養うべき日」なのだ。

「年齢計算に関する法律」を適用すれば、昨日(3月31日)の満了の時刻をもって、つまりは本日の午前0時をもって「憲法日記」は満7歳となった。2013年4月1日を連載第1回ととして今日まで、1回の欠落も一日の途切れもなく、続いてきた。

日齢では、昨日(18年3月31日)が、[365×7+2]=2557となり、本日が連続2558日目の毎日更新となっている。

当ブログは、第2次アベ政権の発足に刺激されて誕生した。当初は、日民協のホームページの一隅を間借りしての発足。

2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣を組閣した。こうして、今なお続く悪夢の安倍政治が始まった。

安倍晋三こそは、歴史修正主義の権化であり、軍事大国化路線の主犯である。戦後民主主義を否定し戦前日本への復古を目指す勢力の頭目でもあり、日本国憲法の天敵である。アベが政権を去るまでは、憲法擁護のブログを書き続けようと開始したのが、2013年1月1日。その直後に窮屈な間借り生活から飛び出て、同年4月1日から今日の形での連載を始めた。以来、満7年。2558日になったのだ。

もちろん、当時安倍政権がかくも長期政権となるとは思わなかった。何しろ、第1次政権を投げ出したみっともなさが際立っていたからだ。せいぜいが、2~3年の命運と思っていたのが、当てがはずれた。そのお陰で、「憲法日記」も長期連載となった。この間、護憲勢力はアベ政権を倒せなかったが、安倍改憲も実現していない。改憲の実現も許してはいない。一進一退、一喜一憂のせめぎ合いを繰りかえしながら、勝負のつかない7年間。だから、このブログが続いているのは、目出度くもあり、忌まわしくもあるのだ。

「当たり障りのないことなら書く意味がない。当たり障りのあることだけを書く」という方針で始めたブログだから、当ブログの連載が続く中で、相当の波風が立った。幾つか生じた波のうち、大きなものが「宇都宮君立候補をおやめなさい」であり、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズである。天皇制やその支持者に対する批判も、安倍の取り巻きに対する批判にも、波風はあった。これを、私は筆禍とも書き過ぎたともまったく考えていない。当然に言うべきことを言っただけのことではないか。

それでも、言うべきことを言うだけのことに、相当の覚悟が必要だということも、知ることになった。貴重な経験をした7年間である。

3週間ほど前のこと。知らない方からの電話をいただいた。落ちついた男性の声で、フランスのパリから国際電話を掛けているのだという。まったく思いがけないことだが、こんなお話しだった。もちろん日本語でのこと。

「パリで、「憲法日記」を愛読している。マスメディアでは得られない情報や意見を貴重なものと思っている。ところが、この数週間ブロックされて読めなくなっていることをご存知か。何らかの妨害工作があるのではないか」

まさか、政権や、公安調査庁・内閣調査室・公安警察がそんな工作をするはずもない。DHCも右翼も、そこまではやるまい。…あっ、そうか、もしかしたら…。

先日、「海外からのサイバー攻撃が頻繁に見られる」というサーバーからの連絡があって、海外数カ国からのアクセスを切ったかも知れない。その中にフランスも…。この電話を受けて数日後に、元に戻してフランスともつながったはず。

ひょんなことから、フランスにも読者がいることを知った。以前、韓国と中国からの反響は経験しているが、ヨーロッパにも読者。ありがたいとだ。

ありがたいことだが、安倍政権の継続がめでたくない。改憲を断念した状態で安倍政権が失脚すれば、当ブログも目出度く終了となる。

月1日は、その日の来たらんことを祈念する日でもある。

(2020年4月1日)

明けましておめでとうございます。

あらたまの歳のはじめ。さて、本当にめでたいと言うべきか。あるいは、めでたくもないのだろうか。

今、表立っての軍事衝突はなく、国内には曲がりなりにも平和が続いている。軍国主義の謳歌という状況もなく、独裁というほどの強権支配もない。国民の多くが飢えに苦しんでいるわけではなく、国家財政の目に見える形での破綻もない。国民がなだれを打って海外に逃れるような現象はなく、近隣隣国からの大量難民の流入もない。国民の平均寿命は延びつつある。これをめでたいと言って、おかしくはない。

しかし、この「平和」には危うさがつきまとっている。嫌韓ヘイト本が書店の棚を埋めつくしている。国威を興隆せよ、そのための軍事力を増強せよ、自衛隊を闘える軍隊にせよという乱暴な声が大きい。その勢力の支持を受けた安倍晋三という歴史修正主義者が、いまだに首相の座に居座り続けている。しかも彼は、この期に及んでなお、改憲の策動を諦めていない。少なくとも、諦めていないがごとき言動を続けている。

のみならず、天皇という存在が、民主主義の障害物として大きな存在感を示し始めてもいる。表現の自由が侵蝕されつつあり、三権分立は正常に機能せず、政権におもねる司法行政が裁判官の独立を侵害して「忖度判決」が横行している。明らかに格差が広がり貧困が蔓延している。人の自律性は希薄になって、政治への参加や、デモ・ストは萎縮している。社会を革新する労働運動の低迷はどうしたことだろうか。教育は競争原理を教え込むことに急で、連帯や団結を教えない。社会変革の主体を育てるという視点はない。保守政権が望むとおりのものとなっている。これがめでたいとは、とうてい言えない。

改めて思う。実定憲法とは、法体系全体の理想でもある。この理想に照らして、今現実は理想との距離を縮めつつあるのか、それとも拡げつつあるのだろうか。常に、その意識が必要なのだ。

分野によって一律ではないが、現政権の悪法ラッシュによって、この乖離は確実に拡大しつつあるといわざるを得ない。手放しで「お目出度い」などととうてい言ってはおられないのだ。

しかも、この理想そのものを変えてしまえと言うのが安倍政権であり、これを支える人々の乱暴な意見なのだ。まずは、改憲志向政権を退陣に追い込んで、掲げる理想を守ることが、なににもまして重要な今年の課題というべきであろう。

昨年は天皇交替と元号変更の騒がしい歳だった。この騒がしさは、今年も東京五輪に引き継がれる。国威発揚の舞台としてのオリンピック、ナショナリズム発揚のためのオリンピックを批判し続けねばならない。

毎日更新を宣言して8年目となる当ブログ。温かいご支援をいただくようお願いを申しあげます。
(2020年1月1日)

この呼びかけは、どうしたら聞いて欲しい人に届くのだろう。

本日の東京新聞「こちら特報部」《民、侮るなかれ 参院選2019
いつにもまして、語りかけのボルテージが高く熱い。誰に語りかけているのか。現状維持でよいとする「無関心の有権者」にである。本当にそれでよいのか、「現状維持」とはどういうことなのか、無関心が何をもたらすのか。熱い語りかけなのだが、一面虚しくもある。が、虚しくはあっても、語り続けなければならない。

見出しをならべてみよう。
25面の前半記事の見出しは以下の3本
 「現状維持」危うい行く末
 安倍政権続けば…生活さらに困窮
 無関心の有権者「今のままでいい」

そして、頁を変えた26面後半記事の見出しがやはり3本
 「声上げれば変えられる」
 外交・安保 膨らむ懸念
 人権感覚も 世界に遅れ

この見出しで、全体の構成がほぼお分かりだろう。
メインの見出しが、下記の2本で対になっている。
 「現状維持」危うい行く末(25面)
 「声上げれば変えられる」(26面)

つまり、「現状維持」は、実は悲惨な近未来を招く選択なのだ。それを回避するには、「声を上げ」なければならない。「声を上げ」れば、悲惨な近未来を回避することができる。今、声を上げるとは、何よりも投票すること。選挙に参加するよう人に働きかけること。もちろん、安倍政権にアンチの立場での投票の呼びかけである。

「無関心の有権者は『今のままでいい』」というけれど、「このまま安倍政が権続けば…生活はさらに困窮する」ことになる。それだけではない。「外交・安保も、安倍政権のすることは危なっかしく、懸念は膨らむばかり」。「日本の人権感覚も 世界に遅れ」ていく一方ではないか。いつまでも安倍政権の横暴を許していてはならない。いまや、声を上げ、選挙に行って、反安倍に一票を投じようではないか。私にはそう読める。

下記がリードである。

 街角の有権者にこの参院選で期待する変化について尋ねると、選挙に関心がない人ほど「今のままでいいんじゃない」と答える。要は「現状維持」を望む意見で、よく出くわす。しかし、現状維持とは、現在の状況が固定化して続くことではない。現政権がもたらした経済、社会の指標や、外国との関係について、良好や悪化といった「傾向」が、そのまま引き継がれることを意味する。では、現状維持がもたらす日本の未来とはどんな姿なのか。 

本文に、こんな記載がある。

「日本すごい」どころか、「日本ダメ」が世界的に定着しつつあるのが現実なのだ。それなのに、なぜ現状維持を望むのか。
 駒沢大の山崎望教授(現代政治理論)が、老後資金2千万円不足問題について、学生たちに感想を尋ねたところ、「日本沈没」「終わった」と思考停止に陥るタイプと、「文句を言ってもしかたない」「個人で頑張る」といった自己完結するタイプに分かれたという。
 山崎氏は、「雇用も外交も問題は山積していて、暮らしにくさもあるのだが、ならば選挙で政治を変えようという発想には結び付かない。漠然とした将来の不安はあっても目をつぶり、むしろ不安ゆえ、現状が変わる方を恐れる」と心理を読み解く。

突破口はあるのか。山崎氏は、職場でのパンプスなどの強制に抗議する女性たちの身近な運動「#KuToo」の広がりに着目する。「当事者が.痛いと声を上げれば、個人の不満は共感され、集団で現状を変える力になる。・・政策も同―じ。若者が直面する貧困や奨学金といった切実な問題だって、当事者がおかしいと声を上げれば、政治も転換できる。そのことを知ってほしい」

うーん。このような運動が全体的な突破口たりうるのだろうか。「#KuToo」やLGBT容認の運動の広がりはあっても、どうして政治的な運動は十分な広がりを持てないのだろうか。

文末の「デスクメモ」が、率直にその苛立ちを露わにしている。
「この記事は大半の現状維持、選挙無関心派には届かないだろう。彼らは新聞はおろか、テレビやネットでも選挙の話題に触れず、投票にも行かないからだ。
 ヒドイ現実に直面しても、自己責任に帰してしまう。だが、それは美徳ではない。この国の主権者として責務を果たして欲しい。」

これ、運動に携わる者にとっての、永遠のテーマである。
(2019年7月13日)

連続2000回目の蟷螂の斧。今後も意気軒昂に振りかざし続けよう。

 本日で、「憲法日記」連続2000回である。2013年4月1日から連続更新を広言し、この日を第1回として本日が2000回目。2000日間、およそ5年6か月。毎日途切れなく書き続けてきたことになる。しかし、達成感には大きく欠ける。ちっともめでたくはない。本日各紙の朝刊には、「安倍三選」の見出しが躍っている。

実は、「憲法日記」を書き始めたのは、同年の1月1日。日民協の軒先を借りてのこと。もちろん、安倍晋三という人物が、再び政権与党の総裁となり、首相に就任したことの危機感から、改憲阻止のために何かをしなくてはならないと思い立ってのこと。

安倍晋三という人物には大衆政治家としての魅力と力量がない。彼の演説にカリスマ性を感じさせるところはまったくなく、聴衆を惹き付け熱狂させ魅入らせるという能力にも欠ける。議論の運び方に知性のカケラも感じられず、感情の抑制も得意ではない。批判の語彙と言えば、ニッキョウソとキョーサントーに尽きるのだ。この凡庸な政治家が国政のトップの座についた。

こんな程度の政治家を首相の地位に押し上げた時代の空気に、危機感をいだかざるを得ない。この人物、改憲意欲だけは旺盛なのだ。日本国憲法に対する敵意と、歴史修正主義と軍事大国化をウリにし、嫌韓・反中の右翼を支持勢力として保守陣営のトップに駆け上がった。ヘイトスピーチ跋扈の時代が、彼を首相に押し上げたと言い切ってよい。

こんな右翼を国のトップに据える嘆かわしい時代になったという危機感、あるいは焦燥感から書き始めた「憲法日記」。時代の空気が、本当にアベの改憲の野望を実現することになるのではないかという恐怖感情すらあった。

幸い、この人物の第1次政権は教育基本法の「改正」だけはしたものの長くは続かなかった。その政権投げ出しの際の醜態が印象に深い。このとき、「こんなみっともなくも情けない人物」に保守勢力が束ねられるはずはない、と少し安堵した。ところが、その後に返り咲いての第2次政権発足である。その発足が2012年12月26日。私は13年1月1日から「憲法日記」を書き始めた。そのご、自前の本ブログを開設した同年4月1日から数えて、今日が2000日目となる。

とは言うものの、この日記の連載を始めたころ、まさか5年先まで安倍政権がもつとは夢にも思わなかった。こんなみっともなくも情けない人物の長期政権の維持が可能とは到底思えなかった。ところが、現実が予想を裏切った。こんなみっともなくも情けない人物をトップに据えた、みっともなくも情けない国政が2000日余も続いたのだ。そのうえさらに3年とは…。なんたる事態。

2000日、改憲の危機感をバネに書き続けてきた。アベが身を引くまでは、毎日書き続けると言ってきたからには、ここで止めるわけにはいかない。だから、2000日の連続更新は少しも目出度くはない。改憲の策動に失敗した傷心のアベが首相の座を去るとき、私は擱筆してこのブログを閉じることができる。そのときこそが祝うべき目出度いとき。

このブログは、徹頭徹尾アベ的なものへの批判の言論となっているはず。改憲・軍事大国化・歴史修正主義・人権侵害・差別・新自由主義政策による格差貧国・教育統制・そして国政の私物化…。これに切り込む手段としては、批判の言論あるのみ。その批判の言論には切れ味が必要だ。切れ味とは、批判の相手にとっての「毒」にほかならない。アベのごとき権力者の批判に有効な毒、天皇制に象徴される権威を批判するに効力のある毒、格差社会に社会的強者として君臨する経済的強者に打撃となる言論の毒、そして、マイリティーに非寛容で同調圧力を押しつけるマジョリテイを覚醒させる毒。

たとえば、「吾輩は危険人物である」といった宮武外骨のように、あるいは「地震・憲兵・火事・巡査」を書いた山崎今朝弥のごとく、強者を敵にまわして一歩も退かない叛骨の精神を学びたい。

自分に言い聞かせる。私は弁護士だ。弁護士とは近代の市民社会が生み出した自由業。侵害された市民の自由や権利の救済に力を尽くすためには、弁護士自身が権力や社会的強者から独立し自由でなければならないのだ。権力や金力にへつらう自由の使い方をしてはならない。

そのように精神は昂揚すれども、如何せん身体は疲れる。その疲れた身体に鞭打って、蟷螂の斧を振り続けよう。各紙の朝刊に「安倍政権終焉 改憲の願い虚しく晋三去る」との見出しが躍るその日まで。
(2018年9月21日・連続更新2000日)

祝!?  「憲法日記」連続更新満5年。

4月1日。当ブログの連載開始記念日である。いわば「憲法日記」の誕生日。
2013年4月1日生まれの当連載ブログは、本日で満5歳となった。日齢では、昨日(18年3月31日)が、[365×5+1]=1826となり、本日が連続1827日目の毎日更新ブログとなっている。

実は、この「憲法日記」誕生の以前に3か月間の胎児期がある。日民協のホームページの一隅を間借りしていた期間。そもそもの始まりは、第2次アベ政権の発足である。右翼・極右勢力に支えられた、安倍晋三の第1次政権が短命で終わったことに胸をなで下ろしていたところ、ゾンビの如く息を吹き返したのが、2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣の組閣をした。

アベこそは歴史修正主義の権化であり、軍事大国化路線の推進者。戦後レジームを否定して、国家主義の戦前日本への復古主義勢力の頭目。日本国憲法の天敵である。アベが政権を去るまでは、憲法擁護のブログを書き続けようと開始したのが、2013年1月1日。この「旧憲法日記」は、窮屈な間借り生活から飛び出して、4月1日から、今日の形で連載を始めた。以来、満5年。1826日になる。

思いがけなくも、安倍政権が長期政権となって、「憲法日記」も長期連載となった。この間、護憲勢力はアベ政権を倒せなかったが、改憲の実現も許してはいない。一進一退のせめぎ合いを繰りかえしながら、勝負のつかない5年間。だから、このブログが続いているのは、目出度くもあり、忌まわしくもあるのだ。

だが、そのせめぎ合いにも、終わりが見えつつあるようだ。いま、右翼勢力は、「アベ在任中に改憲できなくては、改憲の機会を永遠に失する」との焦慮が見える。来年(2019年)7月の参院選では、改憲勢力が3分の2の議席を割る公算が高い。また、彼らにとっては神聖な天皇代替わり儀式のスケジュールは、その以前の5月から始まる。改憲発議と国民投票は、あと1年が期限となるが、とてもそれが可能とは思えない。

昨日(3月31日)澁谷の駅頭で、「日の丸」を林立させた異様な集団が、「安倍内閣を支えよう」街頭宣伝行動をやっていた。現政権は、こんな連中に支えられているのだ。こんな連中しか支えてくれる者がないのだ。右翼が蠢動すればするほど、アベ政権の何たるかが鮮明に見えてくる。

少しの時間だったが、聞き取りにくい彼らの訴えを耳にした。伝わってきたのは彼らの焦りだ。
「残念ながら安倍政権には、確かにいろいろな問題があります。その是正はしてもらわねばなりません。しかし、それは実は大きな問題ではない。今この風雲急を告げる安全保障環境悪化の中で、日本というこの国家の運命を託せるのは、安倍総理しかいません」「皆さん、大切なのは日本という国家ではありませんか。この国家を北朝鮮や中国の攻撃から断固として守らねばなりません。」「多くの人が、安全保障については、憲法の枠内で専守防衛の路線が正しいなどとと言っています。しかし、専守防衛とは、北朝鮮や中国からミサイルが飛んできたとき、その第一撃は甘受しなければならないという考え方です。これでよいでしょうか」「今必要なのは、憲法に束縛された専守防衛論ではなく、これを乗り越えた国防体制です」「これができるのは、安倍総理を措いて外に誰がいるでしょうか」

アベは、右翼・極右から、こんなふうに期待されているのだ。というよりは、これらの右翼と一心同体なのだ。だから、けっしてその政権を存続させてはならない。

当ブログ「憲法日記」は、安倍政権が倒れるまでは、今後も書き続ける。
(2018年4月1日)

秘密政治結社「アベノセイダーズ」結成宣言 ― 当「憲法日記」毎日連続更新1800回記念号

宣  言

1 われらはみな日本国憲法とともに生きる主権者国民である。暮らしの中にこの憲法の理念を活かして、もっと明るく生き生きと豊かな生活をする道を見付けたい。
そのためには、平和への道、自由への道、平等への道、福祉国家への道、民主主義への道、公平・公正な政治の道を尋ねなければならない。

2 誰がこの道を阻んでいるか。アベだ。
  誰が平和を壊そうとしているか。アベだ。
  誰が近隣諸国との協調を破壊しているか。アベだ。
  誰が専守防衛を越える大軍拡を狙っているか。アベだ。
  誰が言論の自由を奪おうとしているか。アベだ。
  誰が格差と貧困を生み出しているか。アベだ。
  誰が福祉を切り捨て過労死を作っているか。アベだ。
  誰が政治と行政を私物化しているか。アベだ。
  誰が歴史修正主義の尖兵となっているか。アベだ。
  誰が、右翼の跳梁跋扈を招いているのか。アベだ。
  虎視眈々と憲法改悪を狙っているのは誰だ。アベだ。
  行政文書を隠匿しているのは誰だ。アベだ。
  公文書を改竄しているのは誰だ。アベだ。

3 近代科学の実証と先人たちの実体験と、
  われらの直観の一致に於て論じたい。
  悪いのはすべてアベだ。アベこそが一番悪い。
  未曾有の悪政の象徴たるアベのせい。
  アベの責任追及云々(でんでん)こそが、喫緊の課題。
  気候が不順な原因も、今日の天気が悪いのも、
  あれもこれも、みんなみんなアベノセイなのだ。
  みんなみんなアベノセイダと声をあげよう。

われらは日本国民のまことの幸福を索ねて、アベのセイダと声を上げよう。
何も言わなければ何も始まらない。何も動かず、何も変わらない。
「アベのせいだ」「アベが悪い」「アベは責任をとれ」「アベやめろ」
そう声を発することが最初の一歩である。
みんなで一歩を踏み出せば、
アベを辞めさせ、憲法を守り、今の世を変えることができる。
偉大なるかな。「アベノセイダーズ」

あらゆる場面で、あらゆる道の模索を重ねよう。子どもに小言を言ったり、夫婦喧嘩をしたり、ちょいと一杯やったり、散歩したり、通勤電車の中など、折々のついでに、「あれもこれもアベノセイダ」とつぶやこう。倦まずたゆまず、「とりあえずアベが悪い」「だからアベはやめろ」と言い続けることを、われらは誓う。

**************************************************************************
秘密結社アベノセイダーズ規約

1 名称
本結社(以下、「当会」という)の名称は、正式には「秘密結社アベノセイダーズ」という。
しかし、状況によって、「なにもかにもすべてアベノセイダーズ」でもよいし、「アベノセイかもねーズ」「もしかしたら、それもアベノセイダーズ」と、日和って名称を名乗ってもよい。状況に合わせて柔軟に原則も変える。会の名称だって、融通無碍・変幻自在・曖昧模糊・優柔不断。これこそが当会の本質であり神髄である。

2 目的
本会は、日本の政治・行政・国防・外交・司法・経済・文化・報道・教育等々、国政や国民生活のあらゆる分野における歪みの原因は、すべてアベのせいであるとの確固たる信念のもと、アベ政権とアベ総理・アベ総裁を、あるときは徹底して糺弾し、またあるときはやんわりといい加減に揶揄することによって、その権威を失墜させて、これを政権の座から追い落とし、もって憲法改正を阻止するとともに、平和で豊かな国民生活の実現を目指す。そういう大袈裟で大それたことが当会の目的である。

3 秘密
予想されるアベ政権からの熾烈な弾圧を未然に防止するため、当会の存在自体を厳重な秘密とする。
事務所の所在地も代表者も決して公表することはなく、メンバー登録はせず、ナンバーカードもメンバー名簿も作成しない。当会の財産も収支も秘匿する。外部から当会への連絡方法はすべて遮断し、もっぱらステルス的に地下のゲリラ活動を行うものとする。

4 会員
以下の要件の一つに該当する者は、当会のメンバーたるの資格を有する。
①アベは平和と民主主義に敵対する危険人物であると認識する者
②アベ在任中の改憲策動には与しがたいと考える者
③理由はなんであれ、アベは嫌いだという優れた感性をもつ者

メンバーたるの資格をもつ者が次のどれか一つを実行すれば、即当会のメンバーとなる。
①「私は秘密結社アベノセイダーズのメンバーである」とネット上に宣言すること。
②誰かに「アベの改憲には賛成できない」と、ぽつりとささやくこと。
③周囲に誰もいないことを確認して、小声で「アベはやめろ。アベはやめろ。やっぱりアベはやめろ」と3回呟くこと。

メンバーの脱会は自由である。その際、なんの手続も不要である。また、脱会と再入会を無限に繰り返すことも妨げられない。

5 メンバーの権利と義務
当会のメンバーは、ささやかながらも改憲を阻止するためにアベ糺弾の一翼を担う行動に加わる光貴ある栄誉に浴する。そのこと以外に、当会のメンバーになることによる権利や利益は皆無である。
また、メンバーとして当会からの指示を履行する義務はない。会費納入の義務も、なんの報告義務もない。ただし、ネットにおいて、「アベノセイダ」活動の成果を誇ることは何の制約もなく自由に行うことができる。

なお、会員は、自覚的民主主義者として、「DHC製品は購入しない」「アパホテルには泊まらない」を励行する。

6 活動
当会全体としての活動は予定しない。活動のすべては、各メンバーにおいて、ことあるごとに、なににつけても「それはアベのせい」「アベが悪い」「安倍は早くやめるべきだ」とさりげなく一言を述べることにつきる。

こうして、通常は融通無碍・変幻自在・曖昧模糊・優柔不断に、しかし稀には断固たる活動を通じて、安倍を退陣に追い込もうと努力を重ねる。

**************************************************************************
2013年4月1日から、当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を毎日書き続けて、本日が連続更新1800回となる。この期間は、第2次アベ政権発足から現在にほぼ重なる。1800回、改憲と壊憲を指向するアベ政権を批判し続けてきた。

当ブログの影響力はたがが知れたものだが、政権批判にまったくの無力でもなかろう。「発言自体がささやかな力」「その継続は多少の力」と信じて、今後もひたすら書き続ける。少なくとも、アベ政治が終わるまでは。
(2018年3月5日・毎日連続更新1800回)

橋下徹の対岩上安身(IWJ代表)提訴はスラップである。

東本高志さんが主宰するBlog「みずき」は、私の目につく範囲では、ブログ文化のひとつの到達点を示すものといえよう。掲載される写真は美しい。引用される記事の浩瀚さには驚くばかり。論説の姿勢の一貫性も立派なものだ。気付かなかった視点の指摘に膝を打つことも多々ある。よくぞ一人で、ここまでできるものと感心せざるを得ない。

しかし、ものごとの断定に過ぎるところがあって、それが一面では歯切れ良さの魅力にもなり、他方危うさを禁じえない。共産党や沖縄県政への批判には、耳を傾けるべきところがあろうとは思うが、過ぎたる辟易感を否めない。

もとより、バランスに気を使った発言などは面白くない。味方の批判は控えろと言論を封じ込めてはならない。そのとおりだとは思うのだが、ときに一言したくなることがある。

同ブログには、「憲法日記」の記事を取り上げていただいたことが何度かある。多くは肯定的に引用していただきありがたく思っている。そしてもちろん、幾たびかは厳しい批判もいただいている。それが必ずしも的はずれではないから、反論など考えもしなかった。

しかし、一昨日(1月28日)付の記事【山中人間話】欄に、「岩上安身(IWJ代表)のツイッターのリツイートが元維新の会代表で元大阪府知事の橋下徹から提訴されたのはスラップ訴訟ではありません。岩上安身のリツイートがデマだったからです――澤藤統一郎の憲法日記『スラップ被害者に「同憂相救う」の連帯を呼びかける』」が掲載されている。これは見過ごせない。

Blog「みずき」の断定に過ぎた側面が出てしまったと思うのだが、岩上さんと私の言論の信頼性(名誉というほど大袈裟なものではないが)にも関わることであり、橋下徹免責の内容でもあるので、一言せざるを得ない。

最初に関係する記事のURLを上げておく。
Blog「みずき」:2018.01.28 今日の言葉
http://mizukith.blog91.fc2.com/page-0.html

東本高志フェイスブック1月26日 4:15
https://www.facebook.com/takashi.higashimoto.1/posts/1247612708702487

橋下徹氏に訴えられた岩上安身氏が会見-弁護士ドットコム 2018年01月22日
https://www.bengo4.com/internet/n_7312/

スラップ被害者に「同憂相救う」の連帯を呼びかける。― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第117弾「憲法日記」
http://article9.jp/wordpress/?p=9812

「みずき」の当該ブログ記事は、1月26日付フェイスブックの引用である。その主要な点は下記のとおり。

岩上安身(IWJ代表)のツイッターのリツイートが元維新の会代表で元大阪府知事の橋下徹から提訴されたのはスラップ訴訟ではありません。岩上安身のリツイートがデマだったからです。自身に対するデマを名誉毀損として訴えるのは橋下であろうと誰であろうと当然のことです。それとも橋下のような右翼集団のボスにはデマを名誉毀損として訴える権利などないとでも言いたいのでしょうか? 澤藤統一郎弁護士の今回の岩上安身擁護の弁論は筋違いも甚だしいと私は思います。

『デマゴーグやヘイトスピーチに言論という同じ土俵でやり取りすべきではないので、今回橋下は正しい』(常岡浩介Twitter 2018年1月22日)

『自ら会見しておきながら、RTした元ツイートの内容も、RTを取り消した理由も「ノーコメント」。そりゃ、デマだからだよ。RTがそれだけで名誉毀損に当たる可能性があることは判例で明言。弁護士ドットコムがこんなに突き放した記事書いてるのは初めてみた』(同上)

私は常岡さんの見解に同意し、澤藤さんの見解には反対するものです。」

キモは以下の2行だ。
「自ら会見しておきながら、RTした元ツイートの内容も、RTを取り消した理由も『ノーコメント』。そりゃ、デマだからだよ。」
ジャーナリスト常岡浩介は、このように岩上RTの内容をデマと断定し、ブロガー東本もこれに賛同した。「デマへの訴訟。これをスラップとは言わない」との結論となった。

岩上側の1月22日記者会見が、RT内容をデマとする世人の思い込みを誘発し、その名誉毀損性肯定見解蔓延となったことが残念でならない。その直後に、原告橋下自身が提訴の対象としたRTの内容を、「僕が府の幹部を自殺に追い込んだという虚偽事実」と明らかにしている。実は、「僕が府の幹部を自殺に追い込んだ」という表現が果たしてデマといえるのか、ここが真の問題なのだ。

被告岩上側には大阪中心に弁護団ができると聞いている。いずれ、その弁護団の方針が明らかにされるだろうが、「知事である橋下が、大阪府の幹部職員を自殺に追い込んだ」というRTが表現の自由の保障を受けるべきものであることに関して、攻勢的に徹底して争われることになるに違いない。

すべての情報伝達命題は、「事実摘示」部分と、その事実を基礎とした「意見・論評」の部分とから構成されている。「橋下が府の幹部を自殺に追い込んだ」という命題においては、
(1) 「橋下の府幹部に対するハラスメント行為があった」
(2) 「その幹部が自殺した」
(3) 「自殺は橋下のハラスメントよって、追い込まれたものである」
という3構成要素から成り立っており、(1)と(2)とは、直接間接の証拠によって挙証の対象となる「事実の摘示」である。これに対して、(3)は、(1)と(2)を結ぶ因果関係の存在という推論的判断で、それ自体が直接の立証対象となるものではない。

この因果関係推論は、「意見・論評」の範疇として表現の自由が高度に保障されなければならない。とりわけ、府知事という権力者における部下に対する加害という批判の言論においては、最高度の尊重が要求される。

「自ら会見しておきながら、RTした元ツイートの内容も、RTを取り消した理由も『ノーコメント』。そりゃ、デマだからだよ。」は、前記(1)と(2)を否定して初めて口にすることができることになる。

この訴訟では、あらためて橋下の在職中のパワハラについての事実や、職員の受難の事実が総点検され挙証されることになるだろう。せっかく橋下自身が作った舞台だ。和解したり、取り下げに同意したりせず、徹底して有効に活用しない手はない。そのうえで、「公的立場にある(あった)人物の、自己への批判の言論に対する不寛容」という問題として裁判所だけでなく、世論にも強く訴えるべきだろう。

そのような構造を持つこの訴訟は、自分への批判嫌忌を動機とするスラップなのだ。この訴訟が原告橋下の敗訴で終わるとき、そのことが証明されることになるだろう。
(2018年1月30日)

「浜の一揆」訴訟結審の法廷での意見陳述ー漁業の「民主化」こそが指導理念だ

本日は、盛岡地裁「浜の一揆」訴訟第10回の法廷。最終準備書面の交換があって結審した。その結審の法廷で、原告側が最終準備書面を要約した下記の意見陳述を行った。

判決言い渡しは2018年3月23日(金)15時と指定された。手応え十分とは思うが、判決は言い渡しあるまで分からない。しばらくは、まな板の上の鯉にも似た心境である。

**************************************************************************
原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。

原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する領民の抵抗であり、藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。
一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。これが、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのだ。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。

 本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。

 漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。

もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。

 この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。

この法律を具体化した岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。

 したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。

なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。

一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。

 お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。「調整」を要する一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。一方、原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどと言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして頑なに、現状に固執しなければならないのか。これに対する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。

「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、許されることでしょうか。

また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われています。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。

 水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。

 弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。

貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、お願いして、代理人陳述といたします。

**************************************************************************
閉廷後の報告集会に、当ブログを見て参加という方が現れて驚いた。毎日書いている苦労が報われる思い。

昨日も、「「憲法日記」読んでいます」という方にお目にかかった。そのあとに、「長い文章で読むのがたいへんだけど」と付け加えられた。そうなのだ。短く、的確な表現は難しいのだ。そんな難しい技をこなせるようになるには、あと10年もかかるのではないだろうか。
(2017年12月1日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2017. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.