澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「断固憲法 本格派」《熱血弁護士 にひそうへい》をよろしく。

(2022年7月3日)
 参院選公示日の6月22日以来、当ブログを日本共産党への選挙応援シリーズとして今日が12回目。「あれっ? 澤藤さん。共産党には辛口じゃなかったの?」と訝る方に、ご説明をしておきたい。

 私は、この政党が拠って立つ基本理念や政策の一貫性には敬意をもっている。しかし、当然ながら拳拳服膺する立場にはない。この政党にはいくつも注文があるし、不本意な対応の経験もある。しかし今、日本共産党が国会にかけがえのない存在であることに疑問の余地はない。とりわけ、憲法改悪を阻止するためには、この党以外に頼るべき政党はなく、どうしてもこの党を応援し大きくする以外に道はない。

 ついこの間まで、「安倍晋三が総理でいられるうちが改憲派にとっての千載一遇のチャンス」であったはず。ようやく安倍は総理の座から降りたのだが、予想に反して岸田政権になっても改憲の危機は深まるばかり。昨年の総選挙で改憲阻止勢力の議席が減ったら、とたんに憲法審査会の運営が様変わりした。このままでは深みにはまりそうで本当に危ない。いま、国会に頼りになる共産党の議席を増やさないことには、改憲が実現してしまうのではないか。今度の参院選では、そのための努力を惜しんではならない。

 そのような立場からの日本共産党の応援だが、なかでも比例代表の弁護士候補・「にひそうへい」には、ぜひとも当選していただきたい。そして、2期12年の経験と持ち前の情熱を生かして、国会での「平和の力」となり、改憲阻止勢力の主柱として活躍してもらいたい。

 この人のキャッチフレーズはいくつもあるが、「熱血弁護士」が最もふさわしい。「憲法こそ希望」は、東京選挙区の山添拓候補と共有しているスローガン。そして、自ら口にする「断固憲法 本格派」が頼もしい。

 この候補者の決意表明の一端をご紹介しておきたい。

 「ロシアはウクライナ侵略やめよ!」
 戦争に勝者はありません。戦争は政治の敗北に他なりません。

 2度の世界大戦を経て人類が到達した、「どんな紛争も戦争にしない」という国連憲章に基づく平和の秩序を取り戻せるのか、逆に力づくで他国の領土や民族を支配しようとする歴史の逆流を許すのか。このことが、世界と日本に問われています。

 同時に、危機に乗じて日本の政治に起こっている、大軍拡と憲法9条改悪の大合唱は重大事として看過できません。岸田内閣は歴代政権で初めて、相手国の中枢機能もせん滅する「敵基地攻撃能力」を持つと踏み出しました。米軍が動き出したら、日本が攻められてもいないのに、安保法制・戦争法のもとで、集団的自衛権で敵基地攻撃があり得るといいます。

 専守防衛を捨て、戦争する国へ。憲法9条を変え、「核共有」など逆に戦火を呼び込み、くらしと自由を壊す危険な道を絶対に許してはなりません。

 「力対力」「核には核」の政策は、アジアと世界をいっそう危険にする道です。
 「国連は無力」「憲法9条は空想的」とあざ笑い、「戦争をする国」へ。そうした暴走のために憲法9条を変えようとする勢力に参議院の3分の2以上の議席を握らせるわけにはいきません。

 いま、国会に「平和の力」が必要です。ベトナム戦争をはじめ、かつて軍事紛争の絶えなかった東南アジア・ASEAN10カ国のみなさんが国会においでになり、一晩懇談させていただいたことがあります。

 それぞれ社会体制も言葉や文化、宗教も違い、利害や思惑もありますが、あれこれの価値観で対立を持ち込むのではなく、どんなもめごとも軍事衝突には発展させないと友好協力条約を結んで、年1000回もの国際会議で対話と協力を深めているから、みなさん仲がいいんですね。

 このASEANが呼びかけ、中国もロシアも韓国もアメリカも日本も参加している、東アジアサミットを本格的な平和の仕組みに発展させましょう。朝鮮半島や台湾の問題も、尖閣や千島など領土の問題も、歴史の事実と国際法の道理に立って対話を重ね、友好協力条約をアジア全体に広げて、戦争の心配のないアジアをつくろうというのが日本共産党の提案です。

 何としても、国連憲章に基づく平和秩序を回復・強化し、憲法九条が生きる戦争の心配のない世界とアジアヘ。唯一の被爆国として核兵器廃絶の先頭に立ち、どんな大国に対しても歴史の事実と国際法の道理に立って筋を通す自主・自立の外交へ。皆さんの先頭に立って働かせて下さい。

 私は弁護士として、お一人の目の前の被害者の後ろには、同じように苦しむ1000人の人々がいると肝に銘じ、裁判でも、2期12年の国会でも、戦争や公害、大災害、性暴力や派遣切り、労働災害など、「被害ある限り絶対に諦めない」と力を合わせ、力を尽くしてまいりました。

 憲法こそ希望。ここからが頑張りどころです。いまこそ弁護士の私を。もう一度、国会に押し上げてください。

 比例代表は「日本共産党」、あるいは候補者名の「にひそうへい」を。

9年間毎日ブログを書き続けてきたことを記念し、今夜はサイダーで乾杯。

(2022年4月1日・毎日連続更新満9年と1日)
 4月、年度が変わる。当ブログも本日から10年目に入る。毎日連続更新を広言して連載を始めたのが2013年4月1日。昨日で満9年、毎日連続更新第3287回となった。この間一日の休載もなく書き続けられたことに、いささかの達成感がある。怪我や病気や事故なく過ごせた好運に恵まれたことを喜びたい。

 この日記の連載を始めたのは、安倍晋三極右政権の改憲に危機感あってのこと。当然に、改憲阻止をメインテーマにしてきたが、人権や民主主義に関わる諸問題や、司法問題にも触れてきた。法律問題だけでなく、「日記」として日常の諸問題をも書き綴ってきた。

 この9年間で印象に残るのは、何よりもこのブログによる「舌禍」としてDHC・吉田嘉明からスラップ訴訟を起こされたこと。このブログで大いに反撃し、「DHCスラップ訴訟」と、これに続く「DHCスラップ『反撃』訴訟」とをともに完勝し、その経過を逐一このブログで報告した。この顛末を、いま出版しようと稿を練っているところ。刊行を楽しみにしていただきたい。

 そして「宇都宮君おやめなさい」シリーズ。今読み直して力作である。当時の緊張した思いが懐かしいだけでなく、重大な問題提起をしていると思う。何よりも読み物として、面白いのではなかろうか。しかし、残念ながら、今のところこちらのテーマでは出版の予定がない。そのほか、東京「君が代」裁判や、NHK問題などの報告、弁護士会のあり方、天皇制批判などについて、自分なりに意義ある言論を世に問うてきたとの、ささやかながら自負がある。

 繰り返し広言してきたが、権力者や経済力のある者、多数意見派の耳に痛いことを遠慮なく言わねばならない。その姿勢を堅持したい。終期を決めず、安倍政権が終わるまではと思っているうちに意外に安倍政権が長期政権となって、ブログの連載も長期化することとなった。負けるものかと張り合ううちに、政権は倒れたが改憲危機は続くことになり、「憲法日記」は本日まで止められない事態となった。本日のこの記事が、10年目の第1回となる。当面の目標をあと1年の継続としよう。

 このブログの発信は、ネットやメール接続のフロクだという。その意味ではタダなのだ。なんの変哲も工夫もなく、写真一枚ない文字だけのブログ。誰の宣伝もしない。毎日相当の時間を割いて一円にもならない作業になぜのめり込むのか。自分でも分からない。人には、自分の内心を表出したいという生来の欲求があるということなのだろう。

 それにしても、このブログの記事を紙に印刷して撒けば、いったいどれだけ撒くことができるだろうか。ネットなればこそ、金をかけることもなく、瞬時に全国の人に読んでもらうこともできる。誰もが社会に発言できるツールの存在を素晴らしいことと思う。これを活用しない手はない。

 身近な人が口を揃えていう。「ブログをもっと短くしなさいよ」「長文と思った瞬間読む気が失せる」「読んでもらえなけりゃ意味がないでしょう」と。これまで、そのアドバイスに従おうと思いつつ、できなかった。

 10年目、今日からは短くするぞ、このブログ。きっと…。多分…。いや、必ず…。多くの人に読んでいただけるように。  

今年は、DHCスラップ訴訟の顛末を書物にして刊行したい ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第197弾

(2022年1月4日)
 暮に所用あって上野に一度、銀座に一度外出の機会があった。驚いたのは、そのときの人混み。どこもかしこもマスクをした人々の、密・密・密である。怖じ気づいて、正月三が日はこもりっきりであった。これから来るであろう第6波が恐ろしい。

 それでも、正月である。人並みに、今年の希望や抱負も語らねばならないところだが、さして元気が出ない。弁護士として受任した仕事を、丁寧に誠実にやり遂げること、という当たり前のこと以上にはさしたるものはない。

 強いて抱負らしいものを挙げれば、DHCスラップ訴訟の顛末を書物にして刊行したい。スラップというものの害悪と、この害悪をもたらした者の責任を明確にし、スラップを警戒する世論を高めるとともに、スラップ防止の方策までを考えたい。これは、私の責務である。

 そして、当ブログを書き続ける。来年の3月末で、このブログは連載開始以来満10年となる。2023年3月31日に「自分で祝する、10年間毎日連続更新達成」の表題で記事を掲載するまで多分書き続ける。これは執念である。

 DHC・吉田嘉明以外にも、このブログにはこれまで複数のクレームを経験している。当ブログに市井の庶民からの苦情はあり得ないが、私の批判が目障り耳障りという様々な人はいるのだ。そのためにこそ、このブロクを書き続ける意味はある。

 もっとも、毎回長文に過ぎるという批判を頂戴し続けてきた。今年こそは、短く読み易く、分かり易く、鋭い記事を書きたいもの。

 今年のブログのテーマは、何よりも国会内外における改憲策動と阻止運動の動きが中心とならざるを得ないが、その次には沖縄に注目したい。復帰50年である。そして知事選。辺野古新基地建設継続の可否も正念場となろう。既に、米軍基地からのコロナ感染が話題となっている。その県民の怒りの中での名護市長選が間近である。今年の沖縄には目が離せない。
 
 そして中国である。2月には北京冬季五輪が開催される。ナチス・ドイツ以来の大々的な国威発揚オリンピックとなることだろう。そして、IOCが商業主義の立場からこれに迎合する醜悪な事態となることが予想される。

 今秋には、「中国共産党第20回大会」が開催される。党結成100周年で20回目となる。党規約上5年に1度の党大会だが、文革期には13年も開催されなかったこともあるという。今回の党大会が注目されるのは、習近平独裁体制の確立という点である。

 「18年の憲法改正で、2期10年までとされていた国家主席の任期制限を撤廃。総書記に任期制限はないため、不文律の「68歳定年」さえ破れば、習氏は来年以降も最高指導者の地位を保つことができる。(時事)」というのが、メディアの解説。習はこの大会で、異例の総書記三選を果たすことになるだろうというのが、報じられているところ。この独裁、ブレーキの利かないものになりはしまいか。

 中国共産党政治理論誌「求是」が新年に、昨年11月の習近平演説の内容を明らかにした。習は、1989年の天安門事件について「深刻な政治的動乱に対する断固たる措置で党と国家の生死と存亡がかかる戦いに勝利した」と評価し、天安門事件を朝鮮戦争と同じ国家の危機だったとして事態を収拾できなければ「中華民族の偉大な復興の過程も絶たれていた」とまで述べたという。

 この演説は天安門上から、広場の群衆を見下ろす形で行われた。30年前に、民主化を求める多くの人々が犠牲になった場所である。そこで、習は民主主義を求める民衆への弾圧を「戦いに勝利」と言ったのだ。「戦い」の相手は丸腰だ。武器を持たない、市民と学生。これに銃を向け発砲したことを、「やむを得なかった」「忸怩たる思い」「胸が痛む」と言わずに、「戦いの偉大な成果」としてあらためて誇った。

 偉大な党の統制に服さない市民には同様に銃を向けるという宣言以外のなにものでもない。恐るべき大国の恐るべき指導者による、恐るべき姿勢。これが、当分続くことになるのだ。

<デタラメだぞ>ツィートに見える、河野太郎の扇動者としての危険性。

(2021年1月23日)
<うあー、NHK、勝手にワクチン接種のスケジュールを作らないでくれ。デタラメだぞ>

これが、河野太郎(行革担当相)の1月20日朝のツイートだという。ツイートとは言え、国会議員の国民に対するメッセージである。この乱暴なものの言い方には驚くしかない。しかも、新ワクチン担当大臣が、公共放送NHKのワクチン接種報道に<デタラメだぞ>というのだから穏やかでない。

河野太郎は、NHKのどんな放送内容を、<勝手で、デタラメ>と言ったのだろうか。興味をもってそのツィッターを検索してみてまた驚いた。<うあー、NHK、勝手にワクチン接種のスケジュールを作らないでくれ。デタラメだぞ>が、全文である。NHKが、いつ放送した、どのような報道内容の、どこがどうデタラメなのか、何の説明もない。NHKの報道を訂正して真実を国民に伝えようという真摯さはカケラほども見受けられず、NHKに無責任な悪罵を投げつけているだけとしか評しようがない。口をとんがらした、幼稚園児の口ゲンカを想起させる。

その動機に思い当たる節がないわけではない。毎日の記事が、上手にまとめている。

 「河野氏とNHKには因縁がある。NHKは昨年(2020年)5月6日、防衛省が陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の秋田市内への配備を事実上断念したと報じた。ところが、当時、防衛相だった河野氏は翌7日に「フェイクニュース。朝からフェイクニュースだと伝えているのに、夜のニュースでも平気で流す。先方にも失礼だ」とツイートした。この時もNHK批判が相次いだが、その後、事態は次第にNHKの報じた方向に傾き、河野氏は6月15日に自ら配備停止を表明している。」

同じ、毎日の記事(「ファクトチェック 本当にデタラメなのか 河野太郎行革相が批判したNHKワクチン報道を検証した」)によると、河野の<デタラメ>批判の対象は、どうやら一般人に対するワクチン接種の時期をめぐるNHKの報道内容のようなのだ。

「NHKは、20日朝の「おはよう日本」の中で、「早ければ5月ごろから一般の人への接種を開始する案も出ている」と伝えた。この部分は午前6時4分と午前7時7分の2回、全く同じ内容が放送されていた。河野氏の「デタラメ」ツイートは2回目の放送直後の午前7時8分。反射的にツイートした可能性がある。」

毎日記事は、「厚生労働省の公表資料に類似スケジュールが出ていた」「主要メディアが軒並みNHKと同様の報道をしている」ことを説得的に説明している。しかし、仮にそのような資料や同様の報道がなかったとしても、それなりの取材に基づく報道を<デタラメ>とは言えまい。しかも、NHKの報道は決してスケジュールを断定するものではない。

事態を傍目で眺めれば、河野は「オレの承認していないことを勝手に報道するな」と恫喝しているだけのことである。いや、恫喝は不正確かも知れない。駄々を捏ねている、というのが適切な表現であろうか。NHKや、同じ報道をしたメディアには、いささかの萎縮もあってはならないと思う。

河野は、自らが権力の側にあるという自覚と、その自覚に基づく謙虚さに欠けている。メディアへの統制の危険に無頓着なこの政治家、未熟で危険と指摘せざるを得ない。これ以上、権力の中枢に近づかせてはならない。

さらに問題なのは、この「〈デタラメ〉・ツィート」に対する社会の反応である。「このツイートは9万回以上リツイートされ、23万の「いいね」がついている。リプライ(返信)にはNHK批判と河野氏批判がせめぎ合っている。」という。これは、身震いするほど恐ろしいことではないか。ネットの世界には、こんな愚かなツイートを真に受けて、NHK批判に飛躍する多くの、煽動されやすい人々が現実に存在するのだ。

毎日が報じている例では、<えぇ…国民から受信料徴収して間違った情報流してるんですかNHKは…><受信料徴収してる『公共放送』 大臣がTwitterで情報発信しなければデタラメだと気付けず情報混乱しますよね…>などという反応。NHKが、何を、どう間違えたかの特定もないままの付和雷同。これが河野太郎支持者たちなのだ。

われわれは、トランプのTwitterによる情報発信を冷ややかに眺めてきた。トランプのツィートは、〈理由もなくメディアのニュースをフェイクと断じ〉、実は〈自らがフェイクを発信するもの〉だった。そのトランプの発信に無条件に耳を傾け、これを信じることによって、トランプを支えた人々の存在が、フェイク・ツィートを可能にした。

あれは、対岸の火事ではない。侮って批判を怠ると、我が国にもトランプ亜流を誕生させることになりかねない。河野太郎も、要警戒の一人である。もっとも、毎日が次のような理性にもとづく適切な批判のリプライを紹介していることに、救われた思いである。

 <(NHKの報道は)きちんと厚生労働省の発表を踏まえての報道です。ご自身が厚生労働省の発表を把握していなかったからのご発言ではないでしょうか。しっかり各省庁の動向を把握された上で、公人としてデラタメ発言はデタラメでしたと謝罪するか、Twitterをお取り消しされた方がよいと思います>

なお河野は、1月23日までに、デタラメでしたとの謝罪も、Twitterの取り消しも、実行していない。

DHC・吉田嘉明との法廷闘争は私の完勝で確定した。しかし、闘いはまだ終わらない。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第179弾

(2021年1月15日)

本日午後、最高裁(第1小法廷)から、私(澤藤)宛の特別送達を受領した。内容は下記のとおり、DHC・吉田嘉明の私に対する上告を棄却し、上告受理申立を不受理とする決定。これで、私はDHC・吉田嘉明に対して、裁判6連勝である。6年9か月に及ぶDHC・吉田嘉明と私との法廷闘争は、最終決着がついた。これ以上はない私の完勝である。つまりは、これ以下はないDHC・吉田嘉明の完敗という決着なのだ。

調     書  (決定)

事件の表示  令和2年(オ)第995号
       令和2年(受)第1245号
決 定 日  令和3年1月14日
裁 判 所  最高裁判所第一小法廷
裁判長裁判官 山口 厚
   裁判官 池上政幸
   裁判官 小池 裕
   裁判官 木澤克之
   裁判官 深山卓也

当事者等   別紙当事者目録記載のとおり
原判決の表示 東京高等裁判所令和元年(ネ)第4710号,
       同2年(ネ)第134号(令和2年3月18日判決)

裁判官全員一致の意見で,次のとおり決定。
第1 主文
 1 本件上告を棄却する。
 2 本件を上告審として受理しない。
 3 上告費用及び中立費用は上告人兼申立人らの負担とする。
第2 理由
 1 上告について
   民事事件について最高裁判所に上告をすることが許されるのは民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ,本件上告の理由は,違憲をいうが,その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって,明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。
 2 上告受理申立てについて
   本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。

        令和3年1月14日
最高裁判所第一小法廷
裁判所書記官 長谷川和秀 印

当事者目録

上告人兼申立人      吉田嘉明
上告人兼申立人       株式会社ディーエイチシー
同代表者代表取締役    高橋芳枝
上記両名訴訟代理人弁護士 今村 憲
被上告人兼相手方     澤藤統一郎

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DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として、無礼かつ無謀極まるスラップ訴訟を敢えて提起したのは、2014年4月のこと。訴状の日付は同月16日となっている。このスラップ常習企業の代理人弁護士の名を特に記しておきたい。今村憲(第二東京弁護士会)という。彼が、法律専門職の立場において、また弁護士の職業倫理の観点から、依頼者であるDHC・吉田嘉明に対して「勝ち目はないから提訴はおやめなさい」「この提訴は違法と認定されて、あなたに損害賠償責任が生じる恐れがありますよ」と、アドバイスした形跡はない。漫然と素人であるスラップ常習の依頼者に違法提訴を行わせ、損害賠償責任を負担させるに至ったこの弁護士の責任は決して軽いものではない。

この典型的なスラップ訴訟の訴状が私に届いたのが2014年5月16日である。私のブログの3本の記事を、DHC・吉田嘉明に対する名誉毀損に当たるとして、記事の削除と謝罪文の掲載を求めるとともに、2000万円の慰謝料を支払えという過大な請求であった。

こうして、DHC・吉田嘉明と私との法廷での熾烈な争いが始まった。この提訴の目的は、明らかに私に対する恫喝であった。「DHC・吉田嘉明の批判をするな」「黙れ」と、高額請求訴訟がメッセージを発していた。私だけでなく、広く社会に「DHC・吉田嘉明を批判すると、面倒なことになるぞ」「だから、そういう批判はやめておくのが賢い」と思わせることを狙っての提訴でもあった。

私は、弁護士として決してこの恫喝に屈してはならないと、自分に言い聞かせた。そして、猛然と当ブログに《「DHCスラップ訴訟」を許さない》シリーズを書き始めた。そしたらどうだ。慰謝料請求額は、2000万円から6000万円に跳ね上がった。どう見ても、スラップを自白した請求拡張ではないか。

その後、当然のことながら、東京地裁一審判決は、DHC・吉田嘉明の請求を全部棄却した。これを不服としてDHC・吉田嘉明は何の成算もないまま東京高裁に控訴したが1回結審で控訴棄却の判決となり、さらに最高裁に上告受理申立をして不受理の決定となった。DHC・吉田嘉明の3連敗である。全て今村憲が代理人となっていた。

こうして、DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として訴えた「DHCスラップ訴訟」はDHC・吉田嘉明側の完敗で終わった。しかし、DHC・吉田嘉明にも代理人にも、敗訴するような訴訟を提起したことを謝罪する姿勢は毫もなかった。こうして、DHC・吉田嘉明も代理人も、スラップ訴訟の所期の目的は幾分なりとも果たしたのだ。DHC・吉田嘉明を批判すると面倒なことになるという社会に蔓延した通念は、払拭されないまま残ったことになる。

そこで私は、DHC・吉田嘉明によるスラップ提訴そのもの違法の確認が不可欠と考えた。こうして、第2ラウンドが始まることになる。DHC・吉田嘉明に違法な提訴を理由とする損害を賠償せよと通知をしたところ、DHC・吉田嘉明から私を被告とする債務不存在確認請求訴訟の提起があった。信じがたいことに、DHC・吉田嘉明の方から、飛んで火に入ってきたのだ。これを受けて立って、損害賠償請求の反訴を提起し、この反訴を「反撃訴訟」と名付けた。

言うまでもないことだが、スラップ訴訟から身を守って請求棄却判決を得ることと、スラップを違法とする反撃訴訟で、損害賠償判決を勝ち取ることとの間には、その困難さにおいて大きな落差がある。私の弁護団は、表現の自由の顕現のために、この課題に挑戦し、みごとな判決を勝ち取った。

この反撃訴訟での東京地裁一審の判決の認容額は110万円であった。これに双方が控訴しての東京高裁判決が165万円の認容額となった。昨年(2020年)3月18日のことである。これで、裁判は私の5連勝となった。

この判決を不服として、DHC・吉田嘉明から上告・上告受理申立があって、最高裁(一小)への記録到着が同年9月14日。それからちょうど4か月を経て、昨日の棄却・不受理決定となった。これで6連勝。この結論に最高裁がいささかの迷いも見せた形跡はない。

こうして、2014年4月のDHC・吉田嘉明によるスラップ提訴の違法が確定した。私は、スラップ常習企業DHCとそのオーナーである吉田嘉明の、表現の自由を蹂躙しようという姿勢を罪深いものと思う。のみならず、DHC・吉田嘉明はその右翼的体質からデマ・ヘイトを繰り返し、消費者に対する欺しやブラック企業としての体質も露わにしている。DHCは、民主主義社会の異物である。その治療が必要なのだ。

この6年余の間に、当ブログではおよそ200回、DHCの問題を抉り訴え続け、DHC製品の不買を呼びかけてきた。

http://article9.jp/wordpress/?cat=12

そして、反撃訴訟判決の1・2審の判決理由は、この種訴訟のリーディングケースたりうるものとなった。その意味では、DHC・吉田嘉明の愚行に向き合って、厖大な時間と労力を注ぎ込んだことが、決して無駄ではなかったと胸を張ることができる。同時に、献身的に訴訟を追行して立派な判決を勝ち取った、光前幸一団長を先頭とする弁護団の皆様に敬意と感謝の意を表する。

法廷での争いは、これで終わる。しかし、私はなお、このブログでDHC製品の不買を訴え続ける。DHCと吉田嘉明の体質が、真っ当なものへと変容するに至るその日まで。

天皇批判言論についての「法的自由」と「現実の不自由」の落差

(2020年8月25日)
一昨日(8月23日)、私のブログに醍醐聰さんから、「苦言」をいただいた。私のブログに目を通していただき、わざわざコメントをいただいたことをありがたいと思う。が、一言釈明をしておかねばならないし、敷衍して述べておきたいこともある。

当ブログは8月22日付で伊藤詩織さんの民事訴訟提起を肯定的に取りあげ、「『リツィート』も『いいね』も法的責任追及の対象となる。ネトウヨ諸君、中傷誹謗は慎まれよ。」と表題する記事を掲載した。私は、その末尾にこう書いた。

 匿名に隠れて誹謗中傷をこととするネトウヨ界の住人諸君。他人の人格の侵害には、責任が問われることを知らねばならない。たとえ、「リツィート」であっても、「いいね」でさえも。
 もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については自由度が高い。しかし、弱い立場にある者への寄ってたかっての攻撃は許される余地がない。心していただきたい。

醍醐さんのツィッターでの「苦言」は、以下のとおりである。

私も澤藤統一郎さんと同様、泣き寝入りを拒否して2次、3次被害の加害者の責任も追及するために提訴した伊藤詩織さんに敬意を表する。
ただし、「天皇などの社会的権威に対する批判の言論については自由度が高い」という澤藤さんの意見には賛同しない。自由度は極めて低い。

醍醐さんがこういうのだから、私の表現が意を尽くしていない。意とするところが正確に伝わるように、文章を練らなければならないと思う。私は、最近この種の「苦言」を受けることが多い。心しなければならないと思う。

確かに、天皇批判の言論に対しては、この社会は非寛容である。自由にのびのびと、気軽に気楽に、天皇批判を展開できる状況にはない。むしろ、天皇を語る際には敬称と敬語が必要との思い込みは社会に浸透している。そのようにすることが無難という一般常識がある。なかには、舌を噛みそうな慣れない敬語を使う滑稽な人々もいる。そんな社会においては、天皇批判はまことに口にしにくい。顕名で天皇批判の文章を残すなど、敢えて面倒のタネを播いて育てることに等しい。確かに、社会的な圧力が人々に天皇についての批判を控えさせている。醍醐さんの言われるとおり、現実には「天皇批判の自由度は極めて低い」。まったく同感である。

しかし、私は天皇批判言論の難易に関する社会の現実を「自由度が高い」と言ったのではない。当該のブログ記事は、言論に対する法的責任追及の可否を論じるものである。「他人の人格を侵害する表現は、法的責任が問われる」「もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については、自由度が高い。」という文脈は、表現の法的責任の有無・程度について述べたもの。

一般人を対象にその人格を否定し侵害する言論は、刑事民事の法的責任が問われる。これにくらべて、天皇や安倍晋三など、権威や権力者を対象とする批判の言論については、格段に「批判の言論の自由度が高い」。即ち法的に免責される可能性が高い。端的に言えば、天皇批判の言論には、手厚い法の保護が与えられるのだ。

言論の自由は、高い憲法価値をもつ。ということは、他の憲法価値と衝突する局面で優越する地位を獲得しうることを意味する。典型的には、言論が他人の名誉や信用を傷つけることが許容されるということなのだ。

天皇賛美や政権忖度の提灯言論は、他人の人権と衝突しない。この種の言論について言論の「自由」や「権利」を論じる意味はない。「陛下おいたわしや」「総理ご立派」などの言論が自由にできることをもって、言論の自由が保障されている社会とは言わない。

言論が特定の人格と衝突して、その人の名誉や信用や名誉感情を傷つけるときに、言論の自由という憲法価値と、人格権あるいは名誉・信用という憲法価値を衡量して、言論の自由に軍配があがる場合にはじめて言論の自由は意味をもつ。とりわけ、批判しにくい天皇や首相の名誉を侵害する批判の言論を許容することにおいて言論の自由はいみをもつ。

しかし、言論の自由も無敵ではなく、当然に限界をもっている。他の人権との衝突の場面で、しかるべき調整原理に従わなければならず、場合によっては優越的地位を譲らなければならないこともある。

そのような調整原理として、日本の判例に定着しているとされるものが、「公正な論評の法理」といわれるもの。公正な論評の法理においては、言論を、「論評」と「事実の摘示」とに分類し、「論評」には「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱」しない限り大幅な自由が認められる。また、「事実の摘示」については、その言論の公共性・公然性・真実性(または真実と信じたことについての相当性)があれば、他人の名誉を毀損しても違法性はないとされる。

さらに、アメリカ合衆国連邦最高裁判所の判例は、「現実的な悪意の法理」を採用している。まずは、「公人」概念を確立し、公人に対する名誉毀損表現を最大限許容する。その表現がたとえ真実性を欠く場合であっても、公人側が、表現者の『現実的な悪意』を立証できない限り敗訴となる。『現実的な悪意』とは分かりにくい訳語だが、「表現にかかる事実が真実に反し虚偽であることを知りながらその行為に及んだこと、又は、虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切ったこと」という。『自分の言論が虚偽であることを知っていたか、知らないことに重過失があった場合』と要約してよいだろう。これを批判された公人の側が証明しなければならない。アメリカの法廷では、公人が提起した名誉毀損訴訟は、ほぼ勝ち目がないと言われている。

日本の判例はそこまでは踏み切っていないが、言論の重要性が、権威や権力に対する批判を保障するところにあることには異論がない。アメリカの判例における公人とは、権威者あるいは権力者のことである。日本の判例でも、公共性や公益性の概念を通じて、権威や権力をもつ者に対する批判の言論は、違法性を阻却して法的に許容される結論に通じることになる。わが国における権威・権力のトップが、天皇と首相である。だから、「天皇に対する批判の言論については自由度が高い」のだ。

天皇も一人の人間である以上、種々の制約はありつつも人権を有している。その人権の一部である名誉や信用も、天皇や天皇制批判の言論による侵害を甘受せざるを得ないということなのだ。

なお、天皇が人権を享有していることを強調することは、ほとんど意味をもたない。むしろ、天皇の人権は一般国民以上のものではないことが強調されねばならない。ちょうど、「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」が、黒人の人権が白人以下のものではないことを強調しているごとくに。

「政権長きが故に貴からず」ー 無能な政権の長きを以て迷惑と為す

(2020年8月23日・連続更新1701日)

通俗道徳を説く『実語教』の冒頭に、

 山高きが故に貴からず 樹有るを以て貴しと為す
 人肥えたるが故に貴からず 智有るを以て貴しと為す

とある。これに、以下のように続けよう。

 政権長きが故に貴からず 実績有るを以て貴しと為す
 総理その座の故に貴からず 国民奉仕を以て貴しと為す
 総理看板の枚数故に貴からず 実行有るを以て貴しと為す
 総理原稿読む故に貴からず 意欲と能力を以て貴しと為す
 トランプとの誼故に貴からず 己に如かざる者を友とするなかれ

何の実績もなく忖度とオトモダチ優遇に明け暮れた安倍第2次政権が、2012年12月26日発足以来本日(8月23日)で2798日となるという。馬齢を重ねると言えば、馬に失礼になろう。これで佐藤栄作の連続在任日数に並び、明日には歴代最長となるそうだ。

佐藤政権も、ろくでもない印象しか残していないが、安倍政権ほどひどくはなかった。嘘つき、ゴマカシ、権力の私物化と、こうも国民から胡散臭いとおもわれる政権は希だろう。それが、歴代最長の政権になるというのだから情けない。

ところで、当ブログの連載開始は、安倍政権の改憲策動に危機感をもったことに始まり、昨日のブログが連続更新2700日となっている。日本の右翼・改憲派が、穏健保守を押しのけて作りあげたアベ政権である。アベで改憲ができなければ、近い将来に改憲の望みはない。靖国参拝も、拉致問題も、北方領土も、保守勢力の懸案解決の切り札としての政権。しかも、民主党の政権運営失敗からの揺り戻しの国民意識を背景に、なんでもできるのではないか。そんな時代の雰囲気の危うさに抗して、アベ政権を批判し、改憲を阻止する力の一端を担おうと書き始めたのだ。

「憲法日記」との標題でのブログの初回は政権発足直後の2013年1月1日である。しかし、今の形で、今のURLでの書き始めは、同年の4月1日。毎日更新を宣言して、2700回を超えた。当時、こんなにアベ政権が続くとは夢にも思わなかった。

安倍内閣は確かに長く続いたが、国民の批判は予想以上に強く、右派勢力が思うような政権運営はできなかった。ときに、突出した強行姿勢を見せても、常に揺り戻しが大きく、決して右翼勢力の期待は実を結ぶに至っていない。

アベは、レガシーを意識しているという。しかし、悲願であった憲法「改正」はもう無理だ。近い将来、改憲は不可能という情勢を作り出したという点において、アベはレガシーを残したと言えるかも知れない。拉致被害問題も、北方領土問題も、1ミリの進展もない。イラン問題での仲介もできなかった。経済の再生もできないまま、確実に格差貧困だけは拡大している。花道と考えられた東京五輪・パラリンピックもアベの在職中にはもう無理だろう。

世界の首脳の中でたったひとりトランプとは良好な関係を結んでいるようだが、それはアメリカとの関係良好を意味しない。大胆な無法者と臆病な無法者との誼に過ぎないが、果たしてそれが我が国民の利益となるのかどうか。

負のレガシーはいくらでもある。見えるものとして国民の記憶に新しいのは、466億円を投じてのアベノマスク配布である。これこそ政権の無能と無為無策の象徴、アベの愚策として永遠に歴史と国民の記憶に残るだろう。

直接には見えないが、最大のものは公務員の忖度文化の育成であろうか。安倍政権時代の7年で、公務員は、国民のためにではなく、上を眺めて上にへつらうことで出世競争をするようになった。そして、適正な公文書管理の忌避。検察の独立性への不信。総理の国会発言の言葉の軽さ。上の責任を下に下ろして、末端職員を自殺にまで追い込む行政組織のありかた。

さらに、絶えず何かに取り組んでいる振りの「やってる感」演出文化。思い出してみれば、「デフレ脱却」「三本の矢」「女性活躍」「地方創生」「一億総活躍」「働き方改革」「人生100年構想」「人づくり革命」等々。掛け替えた看板の数だけは、比類のないもの。

アベとアベ政権が引き起こした数々の醜聞も忘れまい。モリ・カケ・桜、カジノに河井。情報隠して、格差を広げ、政治も行政もウソをつく。

いま、既にアベ政権はレームダック状態である。改憲の旗振りなんぞ今ごろできるわけがない。首相の体調の異変も報じられている。首相がいなくても行政は動くのだ。「悪さ」や「おいた」をすることなく、アベが黙っているだなら、もうしばらくアベ政権が続いてもよい。

アベは原稿読むだけの総理でよい。改憲発議せぬだけを以て貴しと為す。

当ブログは、安倍晋三の在任が続く限り、改憲問題・改憲阻止をメインテーマに書き続ける。ご愛読をお願いしたい。

本日、「憲法日記」満7歳に。

コロナ風厳しい中での4月1日。当ブログの連載開始記念日である。「建国記念の日」命名の筆法に倣えば、「憲法日記記念の日」にほかならない。「この日記とともに憲法をしのび憲法をこよなく愛する心を養うべき日」なのだ。

「年齢計算に関する法律」を適用すれば、昨日(3月31日)の満了の時刻をもって、つまりは本日の午前0時をもって「憲法日記」は満7歳となった。2013年4月1日を連載第1回ととして今日まで、1回の欠落も一日の途切れもなく、続いてきた。

日齢では、昨日(20年3月31日)が、[365×7+2(閏年加算)]=2557となり、本日が連続2558日目の毎日更新となっている。

当ブログは、第2次アベ政権の発足に刺激されて誕生した。当初は、日民協のホームページの一隅を間借りしての発足。

2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣を組閣した。こうして、今なお続く悪夢の安倍政治が始まった。

安倍晋三こそは、歴史修正主義の権化であり、軍事大国化路線の主犯である。戦後民主主義を否定し戦前日本への復古を目指す勢力の頭目でもあり、日本国憲法の天敵である。アベが政権を去るまでは、憲法擁護のブログを書き続けようと開始したのが、2013年1月1日。その直後に窮屈な間借り生活から飛び出て、同年4月1日から今日の形での連載を始めた。以来、満7年。2558日になったのだ。

もちろん、当時安倍政権がかくも長期政権となるとは思わなかった。何しろ、第1次政権を投げ出したみっともなさが際立っていたからだ。せいぜいが、2~3年の命運と思っていたのが、当てがはずれた。そのお陰で、「憲法日記」も長期連載となった。この間、護憲勢力はアベ政権を倒せなかったが、安倍改憲も実現していない。改憲の実現も許してはいない。一進一退、一喜一憂のせめぎ合いを繰りかえしながら、勝負のつかない7年間。だから、このブログが続いているのは、目出度くもあり、忌まわしくもあるのだ。

「当たり障りのないことなら書く意味がない。当たり障りのあることだけを書く」という方針で始めたブログだから、当ブログの連載が続く中で、相当の波風が立った。幾つか生じた波のうち、大きなものが「宇都宮君立候補をおやめなさい」であり、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズである。天皇制やその支持者に対する批判も、安倍の取り巻きに対する批判にも、波風はあった。これを、私は筆禍とも書き過ぎたともまったく考えていない。当然に言うべきことを言っただけのことではないか。

それでも、言うべきことを言うだけのことに、相当の覚悟が必要だということも、知ることになった。貴重な経験をした7年間である。

3週間ほど前のこと。知らない方からの電話をいただいた。落ちついた男性の声で、フランスのパリから国際電話を掛けているのだという。まったく思いがけないことだが、こんなお話しだった。もちろん日本語でのこと。

「パリで、「憲法日記」を愛読している。マスメディアでは得られない情報や意見を貴重なものと思っている。ところが、この数週間ブロックされて読めなくなっていることをご存知か。何らかの妨害工作があるのではないか」

まさか、政権や、公安調査庁・内閣調査室・公安警察がそんな工作をするはずもない。DHCも右翼も、そこまではやるまい。…あっ、そうか、もしかしたら…。

先日、「海外からのサイバー攻撃が頻繁に見られる」というサーバーからの連絡があって、海外数カ国からのアクセスを切ったかも知れない。その中にフランスも…。この電話を受けて数日後に、元に戻してフランスともつながったはず。

ひょんなことから、フランスにも読者がいることを知った。以前、韓国と中国からの反響は経験しているが、ヨーロッパにも読者。ありがたいとだ。

ありがたいことだが、安倍政権の継続がめでたくない。改憲を断念した状態で安倍政権が失脚すれば、当ブログも目出度く終了となる。

月1日は、その日の来たらんことを祈念する日でもある。

(2020年4月1日)

明けましておめでとうございます。

あらたまの歳のはじめ。さて、本当にめでたいと言うべきか。あるいは、めでたくもないのだろうか。

今、表立っての軍事衝突はなく、国内には曲がりなりにも平和が続いている。軍国主義の謳歌という状況もなく、独裁というほどの強権支配もない。国民の多くが飢えに苦しんでいるわけではなく、国家財政の目に見える形での破綻もない。国民がなだれを打って海外に逃れるような現象はなく、近隣隣国からの大量難民の流入もない。国民の平均寿命は延びつつある。これをめでたいと言って、おかしくはない。

しかし、この「平和」には危うさがつきまとっている。嫌韓ヘイト本が書店の棚を埋めつくしている。国威を興隆せよ、そのための軍事力を増強せよ、自衛隊を闘える軍隊にせよという乱暴な声が大きい。その勢力の支持を受けた安倍晋三という歴史修正主義者が、いまだに首相の座に居座り続けている。しかも彼は、この期に及んでなお、改憲の策動を諦めていない。少なくとも、諦めていないがごとき言動を続けている。

のみならず、天皇という存在が、民主主義の障害物として大きな存在感を示し始めてもいる。表現の自由が侵蝕されつつあり、三権分立は正常に機能せず、政権におもねる司法行政が裁判官の独立を侵害して「忖度判決」が横行している。明らかに格差が広がり貧困が蔓延している。人の自律性は希薄になって、政治への参加や、デモ・ストは萎縮している。社会を革新する労働運動の低迷はどうしたことだろうか。教育は競争原理を教え込むことに急で、連帯や団結を教えない。社会変革の主体を育てるという視点はない。保守政権が望むとおりのものとなっている。これがめでたいとは、とうてい言えない。

改めて思う。実定憲法とは、法体系全体の理想でもある。この理想に照らして、今現実は理想との距離を縮めつつあるのか、それとも拡げつつあるのだろうか。常に、その意識が必要なのだ。

分野によって一律ではないが、現政権の悪法ラッシュによって、この乖離は確実に拡大しつつあるといわざるを得ない。手放しで「お目出度い」などととうてい言ってはおられないのだ。

しかも、この理想そのものを変えてしまえと言うのが安倍政権であり、これを支える人々の乱暴な意見なのだ。まずは、改憲志向政権を退陣に追い込んで、掲げる理想を守ることが、なににもまして重要な今年の課題というべきであろう。

昨年は天皇交替と元号変更の騒がしい歳だった。この騒がしさは、今年も東京五輪に引き継がれる。国威発揚の舞台としてのオリンピック、ナショナリズム発揚のためのオリンピックを批判し続けねばならない。

毎日更新を宣言して8年目となる当ブログ。温かいご支援をいただくようお願いを申しあげます。
(2020年1月1日)

この呼びかけは、どうしたら聞いて欲しい人に届くのだろう。

本日の東京新聞「こちら特報部」《民、侮るなかれ 参院選2019
いつにもまして、語りかけのボルテージが高く熱い。誰に語りかけているのか。現状維持でよいとする「無関心の有権者」にである。本当にそれでよいのか、「現状維持」とはどういうことなのか、無関心が何をもたらすのか。熱い語りかけなのだが、一面虚しくもある。が、虚しくはあっても、語り続けなければならない。

見出しをならべてみよう。
25面の前半記事の見出しは以下の3本
 「現状維持」危うい行く末
 安倍政権続けば…生活さらに困窮
 無関心の有権者「今のままでいい」

そして、頁を変えた26面後半記事の見出しがやはり3本
 「声上げれば変えられる」
 外交・安保 膨らむ懸念
 人権感覚も 世界に遅れ

この見出しで、全体の構成がほぼお分かりだろう。
メインの見出しが、下記の2本で対になっている。
 「現状維持」危うい行く末(25面)
 「声上げれば変えられる」(26面)

つまり、「現状維持」は、実は悲惨な近未来を招く選択なのだ。それを回避するには、「声を上げ」なければならない。「声を上げ」れば、悲惨な近未来を回避することができる。今、声を上げるとは、何よりも投票すること。選挙に参加するよう人に働きかけること。もちろん、安倍政権にアンチの立場での投票の呼びかけである。

「無関心の有権者は『今のままでいい』」というけれど、「このまま安倍政が権続けば…生活はさらに困窮する」ことになる。それだけではない。「外交・安保も、安倍政権のすることは危なっかしく、懸念は膨らむばかり」。「日本の人権感覚も 世界に遅れ」ていく一方ではないか。いつまでも安倍政権の横暴を許していてはならない。いまや、声を上げ、選挙に行って、反安倍に一票を投じようではないか。私にはそう読める。

下記がリードである。

 街角の有権者にこの参院選で期待する変化について尋ねると、選挙に関心がない人ほど「今のままでいいんじゃない」と答える。要は「現状維持」を望む意見で、よく出くわす。しかし、現状維持とは、現在の状況が固定化して続くことではない。現政権がもたらした経済、社会の指標や、外国との関係について、良好や悪化といった「傾向」が、そのまま引き継がれることを意味する。では、現状維持がもたらす日本の未来とはどんな姿なのか。 

本文に、こんな記載がある。

「日本すごい」どころか、「日本ダメ」が世界的に定着しつつあるのが現実なのだ。それなのに、なぜ現状維持を望むのか。
 駒沢大の山崎望教授(現代政治理論)が、老後資金2千万円不足問題について、学生たちに感想を尋ねたところ、「日本沈没」「終わった」と思考停止に陥るタイプと、「文句を言ってもしかたない」「個人で頑張る」といった自己完結するタイプに分かれたという。
 山崎氏は、「雇用も外交も問題は山積していて、暮らしにくさもあるのだが、ならば選挙で政治を変えようという発想には結び付かない。漠然とした将来の不安はあっても目をつぶり、むしろ不安ゆえ、現状が変わる方を恐れる」と心理を読み解く。

突破口はあるのか。山崎氏は、職場でのパンプスなどの強制に抗議する女性たちの身近な運動「#KuToo」の広がりに着目する。「当事者が.痛いと声を上げれば、個人の不満は共感され、集団で現状を変える力になる。・・政策も同―じ。若者が直面する貧困や奨学金といった切実な問題だって、当事者がおかしいと声を上げれば、政治も転換できる。そのことを知ってほしい」

うーん。このような運動が全体的な突破口たりうるのだろうか。「#KuToo」やLGBT容認の運動の広がりはあっても、どうして政治的な運動は十分な広がりを持てないのだろうか。

文末の「デスクメモ」が、率直にその苛立ちを露わにしている。
「この記事は大半の現状維持、選挙無関心派には届かないだろう。彼らは新聞はおろか、テレビやネットでも選挙の話題に触れず、投票にも行かないからだ。
 ヒドイ現実に直面しても、自己責任に帰してしまう。だが、それは美徳ではない。この国の主権者として責務を果たして欲しい。」

これ、運動に携わる者にとっての、永遠のテーマである。
(2019年7月13日)

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