澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

悪魔が来たりて笛を吹いた ー 祭りのあとの感染爆発

(2021年8月13日)
 本日の新規コロナ感染者数、東京都が過去最多の5773人、重症患者も最多227人となった。全国では20293人と初めての2万人の大台超え。感染者の暗数は分からない。率直な感想として、この事態は恐ろしい。そして、こうまで事態をこじらせた政権や都政の無能に憤らずにはおられない。

 腹の立つ名を順に挙げれば、安倍晋三・菅義偉・小池百合子、そしてトーマス・バッハである。私はこれまでバッハのことを疫病神と言ってきたが、今日からは呼び名を変更しよう。悪魔だ。尻尾のあるあの邪悪の象徴。

 この悪魔が、祭の東京に来て笛を吹いた。政権も都政も制御できなかった。笛の音に合わせて、コロナが踊り出し蔓延し跋扈した。そして、祭が終わった今、東京5000、全国2万の新規感染者である。いったい誰だ、こんな愚劣な祭をやったのは。悪魔を呼び寄せたのは。悪魔に笛を吹かせたのは。

 バッハの嫌われっぷりが凄まじい。分に過ぎたホテルに泊まっていると叩かれ、広島に行って嫌われ、挨拶が長いと嫌われ、広島原爆投下の日に選手の黙祷を要望されて拒否したと嫌われ、銀座をうろついてたたかれ、何をしても嫌われっぱなし、叩かれっぱなし。いまは、広島訪問「警備費」を県と市に押し付けたとして、国民的な悪役となり、悪罵を受け続けている。

 念の入ったことに、丸川珠代が、五輪担当相として『銀ブラ・バッハ』擁護を呟いて大炎上とのことである。なにせ、「不要不急か否かはご本人が判断」との発言。国民の怒りが爆発するのは当然であろう。傲慢なバッハを嫌う国民感情は健全なものだ。そのバッハ擁護論へのバッシングも健全なものではないか。

 それだけでない。この悪魔は笛を吹いて、アルファ株だけでなく、デルタ株を呼び寄せた。祭のさなかに、東京の感染は爆発し医療は着実に崩壊し続けた。さらに、国内初のラムダ株にまで、出番を与えた。さすが、悪魔の笛である。

 ペルーに滞在歴があった大会関係者の女性(30代)が、7月20日に羽田空港に到着して、新型コロナウイルスの変異株で南米ペルー由来とされる「ラムダ株」の初感染者と確認された。ところが、その事実が一部メデイアに報道されたのが、8月6日のこと。それまで伏せられていたのだ。しかも、当人が大会関係者と発表されたのは、本日8月13日になってからのこと。

 ラムダ株は致死率が高いとされている。2週間も報告しなかったのは、オリンピックの閉幕まで伏せていたのではないかとの疑惑がつきまとう。自民党外交部会長の佐藤正久は、テレビ番組で「もっと早く問い合わせがあれば答えた」と釈明したという。

 すべては、祭のさなかに吹き続けられていた悪魔の笛の調べのなせる業。再びの祭はごめんだ。再びの悪魔も、その笛も。

愚劣で危険な東京オリンピックが終わる。

(2021年8月8日)
 東京オリンピックが本日で終わる。コロナ禍の中での五輪禍。あらためて、オリンピックというものの愚劣と危険が浮き彫りになった。中止に追い込むことができなかったことが残念の限り。

 東京オリンピックとアスリートの愚劣を象徴する事件が、「豪選手団が帰国便で大騒ぎ ー 泥酔しマスク拒否」と報道されたもの。

 「オーストラリアの東京五輪代表選手らが、帰りの日本航空(JAL)機内で泥酔してマスクを拒否するなどの騒ぎを起こした。騒ぎを起こしたのは、サッカーと7人制ラグビーの男子代表選手ら。選手らが搭乗した日本航空の飛行機は、2021年7月29日に羽田空港を出発し、約10時間のフライトを経て、翌30日朝に豪シドニーに到着した。選手らは機内で、酒を飲んで歌い始め、客室乗務員がマスク着用や着席を求めても拒否した。しかも、機内に保管してあった酒類を勝手に持ち出し、乗務員らが止めても応じなかったという。また、トイレで嘔吐して床などを汚し、トイレが使えなくなったケースもあった。機内には、一般客も搭乗しており、選手らの行為は迷惑だったとメディアの取材に話したという。」

 取り立ててオーストラリア選手のモラルが低いということはありえない。これがオリンピック選手の平均レベルだろう。スポーツが人間性を育てるなどというのは、真っ赤なウソ。むしろ、一流と言われるアスリートの特権意識が鼻持ちならない。

 スポーツを嗜む人と無縁な人。それぞれのグループに人格者もいれば、非人格者もいる。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は、罪の深い迷信である。私は、アスリートに対する敬意の念を持ち合わせていない。むしろ、「体育系」といわれる人々の精神構造に嫌悪感をもち続けてきた。

 「昔軍隊、今体育系」は至言である。日本の「体育」は軍事訓練のルーツをもっている。ご先祖様である天皇の軍隊と同様、体育系は不合理の巣窟。イジメ・暴力・体罰・私的制裁・上命下服・精神主義・面従腹背・勝利至上主義・非科学性、非知性、権威主義・ナショナリズム…。個人主義よりは全体主義に親和性を持ち、同調圧力に弱い。人権思想や民主主義感覚との対極にある。体育系は批判精神に乏しく盲目的に指導者に従う。

 だから、体育系の精神構造は企業には歓迎される。親はそれを知っているから、子どもにスポーツをやらせる。そんな風に育つ子どもたちのトップエリートとしてオリンピック選手が生まれるのだ。格別にアスリートに敬意をもつべき理由とてあり得ない。

 オリンピックとは、「体育系」精神の集大成としての興行である。本質において偉大なる愚劣と言うべきであろう。ところが、この愚劣なイベントが、きらびやかな装いをもって多くの人々の関心を惹き付ける。それ故に無視し得ない危険をはらむものとなっている。

 東京オリンピック開催強行は、人々のコロナへの関心を相対的に稀薄化し対策を弱体化して、既に感染爆発を招いている。しかしこれでは終わらない。このさきの潜伏期間経過後に、さらなる感染拡大を覚悟しなければならない。「メダルラッシュ」「感動の大安売り」の代価はとてつもなく高価なのだ。

 オリンピックは、それだけではない危険をはらんでいる。あの安倍晋三が、得々とそのオリンピックの危険性を説明してくれている。「月刊Hanada」(飛鳥新社)8月号に掲載された、櫻井よしことの対談。そこで安倍晋三は、東京五輪開催に反対する世論を「反日的」と攻撃しているのだ。なるほど、そうすると私も「反日」なんだ。

 安倍晋三・櫻井よしこという極右コンビとオリンピックとは、とても相性がよいのだ。この右翼政治家は、オリンピックを自分に親しいものとして、こう語っている。

「この『共有する』、つまり国民が同じ想い出を作ることはとても大切なんです。同じ感動をしたり、同じ体験をしていることは、自分たちがアイデンティティに向き合ったり、日本人としての誇りを形成していくうえでも欠かすことのできない大変重要な要素です」「日本人選手がメダルをとれば嬉しいですし、たとえメダルをとれなくてもその頑張りに感動し、勇気をもらえる。その感動を共有することは、日本人同士の絆を確かめ合うことになると思うのです」「(前回の東京五輪では)日本再デビューの雰囲気を国民が一体となって感じていたのだと思います」

 自身が繰り返してきた「復興五輪」「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、完全な形で、東京オリンピック・パラリンピックを開催する」などのフレーズはどこへやら。要するに、安倍晋三にとって東京五輪の開催は「日本人としての誇りを形成」「日本人同士の絆を確かめ合う」「日本再デビュー」などという全体主義、国粋主義鼓吹の道具なのだ。おそらくは、これが本音である。

 確認しておこう。安倍や櫻井にとって最も重要なのは、「親日」か「反日」かの分類である。東京オリンピック開催に賛成するのが「親日」、反対意見は「反日」なのだ。その理由は、オリンピックというイベントを通じて、ナショナリズムの喚起が可能となるからだ。安倍晋三の言うとおり、これがオリンピック危険の本質なのだ。

言うなれば 汝人民家で死ね

(2021年8月7日)

 表題の句、残念ながら私の作ではない。朝日川柳欄に掲載の一句。作者は兵庫県・大西哲生、これは秀逸だ。
 五輪・コロナ・バッハ・菅が、今の新聞時事川柳の主要ネタである。魂胆ありげな安倍も案外多く、小池は精彩を欠いて少ない。それぞれのネタが、深刻ではあるが、いかにも川柳的なのだ。掲載句はさすがにどれも達者、とうてい真似できない。

 テーマが重複し分類は難しいが、このところの毎日仲畑万能川柳と朝日川柳とから、いくつかを並べてみた。

✦ まずは東京五輪を詠んだ句。東京五輪を手放しで肯定する駄句はない。東京五輪開催強行を問題にする句が主流だが、始まれば興味をそそられるというアンビバレントな心情が句になっている。

 スローガンコロコロ替わる五輪です 本庄 支持拾六

 五輪後は他国のコロナ置き土産 東京 小政

 ゴリ押しは「五輪押し」と書くこれからは 栃木 風倒人

 感動や興奮よりもホッとしたい 山口 葉と根

 反発と祈りが交差する五輪 下野 咲弥アン子

 国のためじゃなくて走れキミのため 鴻巣 雷作

 国別のメダル数より感染者 福島 烏賊人参

 コロナから菅とバッハに菌メダル 静岡 ミノチャン

 見なくても非国民ではない五輪 駒ケ根 早次郎

 テレビでは五輪とコロナもう飽きた 下関 畠中英樹

 開催後東京誤輪なりそうね 北九州 皿倉さくら

 皆の者そこのけそこのけ五輪が通る 茅ケ崎 ゴト師妻

 無観客体力測定みたいだな 和泉 今倉大

 間際まで命と金のせめぎ合い 東京 カズーリ

 五者協議つまりはやりたい人で決め 東京 立肥

 悪いことしているような聖火リレー 草加 石川和巳

 2020撤去忘れのよな看板 熊本 ピロリ金太

 夢・希望・感動押しつけられ苦痛 八王子 テイク5

 お祭りはみなの笑顔があってこそ 北九州 半腐亭

 金メダル選挙前だよ栄誉賞 鳴門 かわやん

 単純にコロッと感動するんだろ 札幌 紅帽子

 オリパラのテレビ意地でも見るものか 豊田 けにち

 「中止しろ」聖火が来たら「がんばれ~」 伊豆 シロくん

 流行語「安心安全」入りそう 西条 ヒロユキン

 感動も二つ三つほどが良い(岐阜県 中野和彦)
 
 煮沸して天日干しする金メダル(宮城県 田所純一)

 表敬は金メダルチョコ代用し(東京都 堀江昌代)

 日本では寝込んだ時分(ころ)の聖火かな(京都府 藪内直)

 反対とあれほど嫌った五輪見る(茨城県 加納楯夫)

 アスリート私たちよりどこ偉い(東京都 古賀雅文)

 金メダル タイタニックに積み上げて(広島県 高橋滋)

 ニュース読むアナウンサーに顔二つ(愛媛県 吉岡健児)

 この博打(ばくち)やればやるほど負けが込み(埼玉県 西村健児)

 喰(く)えぬ子を余所(よそ)に弁当ドッと捨て(神奈川県 朝広三猫子)

 そしてコロナを詠んだ句。コロナそのものについてではなく、コロナを巡る政権の無為無策無能に目が向けられている。

 ついに出たコロナ在宅死の勧め(愛媛県 木村瞳)

 歓喜の畳 辛苦のベッド(茨城県 五社蘭平)

 2回目の前に勧める3回目(宮城県 鈴木正)

 アナウンサー飛沫(ひまつ)の量は増すばかり(大阪府 玉田一成)

 若者の怖くないよに怖くなり(群馬県 樺澤信雄)

 現実に引き戻される過去最多(徳島県 井村晃)

 知りました政治無力で人が死ぬ 埼玉 孫六

 もしかして「安心・安全」おまじない? 伊勢原 大原龍志

 ワクチンの在庫も見ずに百万回 群馬 からっ風

 GoToをせずにワクチンやってれば 東京 寿々姫

 首長が競わされてる接種率 川西 水明

 ウイルスが教える日本途上国 田川 下降の天使

 まん延をしてから防止するコロナ 福岡 朝川渡

 最初から「人の流れ」と言えばどう? 富士見 不美子

 挨拶は「予約取れたか」「うん取れた」 東京 ほろりん

 来週に打つこと決まりワクワクチン 沼津 まさみ

 副反応報告しあう接種後(あと) 川崎 さくらの妻

 接種日に出会った人と一期二会(神奈川県 田中ゆう子)

 第5波も6波もきっとやって来る 大阪 ナナチワワ

 援助せず酒は出すなよ金貸すな 鎌倉 狩野稔

 息できる人は自宅の恐ろしさ(東京都 内田昌廣)

 言うなれば汝(なんじ)人民家で死ね(兵庫県 大西哲生)

 Amazonに酸素ボンベはあるのかな(埼玉県 田口尚孝)

 崩壊を自宅療養と言い逃れ(東京都 村田正世)

 鉄面皮患者切り捨ての策に出る(神奈川県 大坪智)

 罹(かか)っても自助です五輪は続けます(東京都 土屋進一)

 言っとくよ 自宅療養 あなたもよ(大阪府 緒方よしこ)

✦ 次いで、IOCのバッハ。こんなにも短期間で評価が下がった人物も珍しい。これまでは、ベールの彼方にその姿がよく見えなかった。今回よく見えるようになったら、なんというお粗末なお人柄。贅沢極まる金銭感覚と意識だけは貴族趣味の奇妙な香具師。

 バッハ出て風呂から出たらまだバッハ(神奈川県 細田幸代)

 民宿でいいよ言わないバッハさん 別府 タッポンZ

 スイートに泊まるらしいねIOC 幸手 百爺

 IOC東京終わればハイ次と 東近江 佐太坊

 おもてなしIOC(あっち)が主賓だったのね 春日部 猫文庫

✦ 国内の人物では、当然ながら菅義偉。この人のやることなすこと、ひねりの必要なくそのまま川柳なのだ。こんな人は、却って句にしにくいのではないか。

 テロップがついて行けない読み飛ばし(三重県 山本武夫)

 式典で上告下げたを自賛する(埼玉県 渡辺梢)

「これまでに経験のない」無策かな(千葉県 高師幸広)

 難しいことは地方へ投げてやる(栃木県 井原研吾)

 総理即自宅療養させなさい(奈良県 横井正弘)

 菅総理目耳口頭もうあかん(福島県 菅野はるか)

 女房がしゃしゃり出ぬのがマシなだけ(福岡県 河原公輔)

 ガースーのそばだけ人が減っており(神奈川県 みわみつる)

 人流が減ったと見える不思議な眼(め)(兵庫県 河野敦)

 支持率が落ちたので止(や)む黒い雨(大阪府 首藤媾平)

 人心を摑めず人事掌握し 桶川 句意なし

 うけ狙い外す総理と似た自分 相模原 せきぼー

 今回も説明せずになし崩し 札幌 ヨーちゃん

 質問を聞かずに食べる山羊総理 東大阪 きくさん

 菅総理きっとくしゃみも「ワックチン」 府中 火星人

 先手だとおっしゃいますが後手後手ヨ 佐倉 桜人

 かみ合わぬ受け答え引き継ぐ総理 今治 てんまり

 打ち勝った証どころか宣言下 京都 みぞれ

 質問の前に答弁始めてる 別府 タッポンZ

 メモなしの球児宣誓観る総理 大津 石倉よしを

✦ この時期に安倍晋三に言及している句が少なくない。物欲しそうな風情が見えるからなのだろう。

 反安倍が反日だとは限らない 福岡 朝川渡

 安倍流で言えば6割反日に 東京 三神玲子

 耳打ちすアベちゃん逃げた日もうすぐよ(岡山県 木田昌)

 尻尾無いトカゲ見つけて調査中(福岡県 西野豊)

 安倍マリオ ヒラだ今度は公平に(山形県 渡部米助)

 沈む船マリオ船長どこ行った(神奈川県 一柳直貴)

 重い腰軽い責任無い記録 大分 赤峰ユキ

✦ 対して小池百合子の句は少ない。もう、旬の人ではなくなったようだ。

 サル山に天井無かった雌のボス(富山県 中居純)

 菅さんに ねえ立たないのと小池さん(愛知県 牛田正行)

直ちに「聖火」を消せ。《コロナに打ち負かされた証しとしての東京五輪》を中止せよ。

(2021年8月4日)
 かつて政権は、東京五輪開催の意義を「人類が新型コロナに打ち勝った証し」とノーテンキに説明した。コロナには勝てそうもないと分かってからはこの開催意義の看板は引っ込められたが、コロナ禍を顧みない無謀な五輪の開催には固執し続けた。五輪開催の意義なんぞ所詮はお飾り、どうでもよいことなのだ。そして、東京五輪開催強行の今、「政権がコロナに打ち負かされた、無能の証しとしての東京五輪」が現実化しつつある。

 また、菅は何度も、「安全安心な東京五輪」を強調してきた。「国民の命と健康を守るのは私の責務で、五輪開催を優先させることはない」とも言っている。しかし今、感染爆発のコロナ禍の実態は、東京五輪を「安全安心」の対極のものとしている。取り返しのつかない事態となる前に、直ちに聖火を消せ。《コロナに打ち負かされた証しとしての東京五輪》を中止せよ。

 政権も都知事も、そしてバッハも組織委員会も、コロナに打ち負かされたことを潔く認めなければならない。その上で、多くの人の命と健康を守るために、聖火を消して速やかに東京オリンピックを中止し、円滑な事後処理に移行しなければならない。

 コロナに負けたことは、バブルの外側でも内側でも顕著である。一昨日以来の、「重症入院患者以外は原則自宅療養」という政府と都の方針変更が、事実上の敗北宣言にほかならない。医療態勢逼迫を超えて、医療崩壊を自白したに等しい。我が国の医療態勢はかくも脆弱だったのだ。

 そして、本日の新規感染者数である。東京4166人、全国1万4207人と過去最高になった。これでも第5波のピークは見えていない。本日の閉会中審査・衆院厚生労働委員会で、政府のコロナ対策分科会会長尾身茂は、東京都の新型コロナ感染症の新規感染者数が1日1万人を超える可能性を肯定している。

 東京都を中心に医療状況の深刻さは新規感染者数に表れているばかりではない。都内の入院患者数はすでに3351人(3日時点)まで増え、過去最多だった1月12日の3427人に迫りつつある。都で感染拡大時に最大で確保できる病床6406床に対する病床の使用率は2日時点で50%と、最も深刻な「ステージ4」(感染爆発段階)に達した。

 また、1週間平均の1日当たり新規感染者数は3337人(3日時点)と過去最多を更新し続けており、入院者数が急増する懸念が生じている。療養者数も2万7千人を超え、自宅療養者数は1万4千人を上回っている。

 この事態に、世論の反発は強い。国民は、やる気のない無能な、この政権・この都政を継続させ続ける限りは、自分たちの命と健康が危ないことに気付き始めているのだ。

 一方、バブルの内側も、危うい。まずは、「選手村の敷地内で飲酒し騒ぎ」「選手ら複数人か 警察官が出動」という話題。

 31日午前2時と言えば、深夜である。東京五輪選手村の警備関係者から「選手村の敷地内で飲酒して騒いでいる人がいる」と、警視庁月島署に連絡があった。屋外の共有スペースで大人数の選手らが、マスクを外し酒を飲みながら騒いでいたという。署員が駆けつけた時にはそれらしい人たちの姿はなく、騒ぎを聞きつけた関係者数十人が現場に集まっていたという。負傷者がいるとの情報もあるが、被害届は出ていない。
 なお、選手村では新型コロナウイルス対策で、大勢が利用する共用スペースでの飲酒は禁じられている。違反した場合は競技への出場可否に影響する可能性がある。

 この騒ぎで、昨日(8月3日)「組織委員会が、関連する7~8の各国・地域オリンピック委員会(NOC)に注意喚起した」「組織委は、非常に目に余る状況としてNOCに注意をした」と報道されている。具体的なNOC名は明かされていない。騒ぎを主導した選手の所属NOCから謝罪があり、既に競技を終えている対象選手については今大会の離村ルールである「競技後48時間」を待たずに“強制帰国”させる措置を取ったという。また、他にも飲酒騒ぎがあったとする報道が出ている。

 さらに本日、「選手村で初クラスター」「ギリシャ、5人陽性」と報じられている。
 東京五輪・パラリンピック組織委員会は4日、ギリシャのアーティスティックスイミングの選手4人と関係者1人が新型コロナウイルス検査で陽性が確認されたと発表し、併せて「クラスター(感染者集団)と言わざるを得ない」との見方を示している。5人は東京・晴海の選手村に滞在しており、選手村でのクラスター発生は初となる。これまでの五輪関係者の累計陽性者数は300人を超えた。

 バブル方式とは、選手が国外から持ち込んだウイルスを閉じ込め外の世界への感染を防止する狙いだけでなく、反対に外からの選手への感染を防止する効果もあるだろう。しかし、既にバブルの内も外も清浄ではない。日本社会も国際社会も、そして五輪そのものも、完全にコロナに負けているのだ。

「あなた何様?」「わたしゃ五輪様」

(2021年8月3日)
 今朝の報道で知った。「五輪車両 当て逃げか」「ボランティア 関係者乗せ」「車2台に追突、走り去る」「女性2人負傷」「側壁にも衝突」「大破したまま『送迎優先』」などと各紙が見出しを打った事件。一昨日(8月1日)夕方のこと。

 そこのけそこのけ五輪が通る、と言わんばかりの不愉快。これは、例外事象ではあるまい。むしろ、五輪関係者の意識や姿勢を象徴する事件ではないか。

 東京オリンピックの大会スタッフ(関係者)を乗せた乗用車が1日夕、東京都内の首都高速道路で車両2台に相次いで追突する事故を起こし、そのまま走り去っていた。警視庁は道交法違反(事故不申告)などの疑いで、東京オリンピック大会ボランティアとして車を運転していた神奈川県に住む会社員(50代男性)から事情を聴いている。

 警視庁によると、事故は1日午後6時ごろ、首都高の台場出入り口(港区)―葛西出入り口(江戸川区)付近で発生。立ち去った車両はボランティアの50代の男性会社員が運転。車両は都内から千葉県に大会スタッフ1人を運ぶ途中で、男性は警察に対し「オリンピックのスタッフを送ることを優先した」と話している。

 大会スタッフを乗せた乗用車は、前を走っていたトラックと軽ワゴン車に追突したほか、前後して複数回にわたって側壁にも衝突した。軽ワゴン車に乗っていた女性2人が病院に搬送され、軽傷を負った。

 乗用車は前部が大破したまま十数キロ走り続け、千葉県内のインターチェンジを降りたところで同県警が停止を求めて運転手の男性に職務質問した。男性は事故を起こしたことを認めた上で「(乗せていた)大会スタッフの送迎を優先した」と話しているという。

 大会組織委員会は「本来、ただちに警察へ報告するなど事故の初動対応にあたるべきところ、当該ドライバーは現場を離れてしまったとの報告を受けており、組織委としても重ねておわび申し上げる。事故の再発防止に努める」としている。

 大会関係者が絡む交通事故は、五輪が開幕した7月23日以降、75件発生。軽傷の人身事故が1件あり、そのほかは物損事故だった。今回の事故を含めると76件となる。事故以外にも一時不停止や違法駐車の放置などの交通違反が28件確認されている。(以上、主に「毎日」の記事による)

 消防車や救急車の交通優先権は誰もが認めるところ。清掃車や道路工事車両、福祉施設車両への敬意も惜しまない。例外はあるにせよ警察車両も同様である。市民社会全体の共通の利益のためとの合意も信頼もあるからである。しかし、たかがオリンピックにそのような合意も信頼もない。怪しげなボッタクリ連中と政権とがつるんだ不要不急のイベント。そのスタッフの送迎のための車両に、何の公共性があろうか。

 「オリンピックのスタッフを送ることを優先した」という、このボランティアの責任は重い。「市民の怪我の手当よりもオリンピックが大事」と言っているのだから。しかし、さらに責任を問われるべきは、この車両に乗車していた「大会スタッフ」という人物である。事故後は直ちに自ら被害者の安否確認を最優先とし、救急車を呼び警察に通報すべきであった。あるいは、運転者にそのように指示しなければならない立場であった。にもかかわらず、「前部が大破したまま十数キロ走り続け」とは、いったい何を考えていたというのだ。まさしく、「そこのけそこのけ五輪が通る」の姿勢ではないか。

 報じられている大会組織委員会の弁明も通り一遍、他人事のごとくではないか。この点について本日の「毎日」に、「ボランティア 笑顔消え」「不慣れな運転・道 ストレス」の大きな記事。中に、次の一節(要約)がある。

 「2日にはボランティア運転手の男性が首都高速道路で追突事故を起こし、そのまま走り去っていたことが報じられた。女性(ボランティアの一人)は事故が起きたことには驚かなかった。組織委は運転手が足りないと多くのボランティア応募者に伝え、都心の運転に不安があると答えた人には『カーナビに従うだけなので大丈夫』などと安全性に欠ける説明をしていたからだ。
 事前研修は30分ほど運転するだけ。『職業ドライバーではない私たちが不慣れな道を走るのはストレスが多い』。英語に不慣れな運転手もいるのに、行き先を指定するアプリにも不具合が続いていたという。
 ボランティアから笑顔が消え、義務感で参加する人も生まれた大会は後世にどう語り継がれるのだろうか。」

「IOCの正体見たり ぼったくり」ー オリンピックとは何であるかを学ぶ

(2021年8月2日)
 本日の毎日朝刊コラム「風知草」に、山田孝男が「五輪で学んだこと」を書いている。その中に次の一節がある。

 「日本人は、大会開催に至る過程で、IOC(国際オリンピック委員会)が、国際公務員を擁する善意の公共機関などではなく、営利に敏感で透明性の低い、厄介なスポーツ興行団体であることも学んだ。

 IOC会長と有力理事は各国の知名士や大企業と結びつき、<貴族化>している。バッハ会長は今、1泊300万円(値引きで250万円とも)というホテルオークラのスイートルームにいる。ほぼ全額を大会組織委員会が払う契約が露見し、IOCの全額負担になったという報道もある。

 バッハ以上に尊大な印象を与えてやまないコーツ副会長も同じホテルにいるらしい。我々は、差別解消をうたう五輪憲章の総元締IOCが、社会的格差という時代の課題に無頓着である現実も学んだ。

 84年の米ロサンゼルス大会以来、ひたすら商業化路線を突き進んできた五輪に大きな転機が訪れた。さまざまな未熟さが露見し、成熟が問われている。不格好だが、時代を画する大会になっている。」

 端的に言えば、パンデミック下の東京五輪で学んだことは、「IOCの正体見たり ぼったくり」ということである。ないしは「尊大な興行師」、あるいは「たかり屋」でもあろうか。授業料は3兆3000億円と、とてつもなく高くついたが。

 ぼったくり連中が五輪の正体を教えてくれる以前の日本人のオリンピックについてのイメージは、聖なるものではなかったか。

 私自身も、教えられたとおり、オリンピックには長い間プラスイメージを持っていた。古代ギリシャではポリス間の戦乱が絶えなかったが、4年に1度のオリンピアードの際には戦をやめて、この平和の祭典に参加した。その勝者には、名誉を表す月桂樹の冠だけ、その余の賞金も賞品もなかった。近代オリンピックは、その古代ギリシャの崇高な平和の祭典を復興したものである。国際協調主義、人種や民族を超えた平等の理念で貫かれている。

 そのオリンピックの正体とは、国威発揚、商業主義、そして政権の浮揚策である。中でも目に余るのがボッタクリ精神横溢の商業主義。国費を使いまくってのたかり屋への奉仕。祝賀資本主義という言葉をよく聞くようになった。本日の赤旗に、「コロナ禍 問う五輪」の記事。安保法制に反対する学者の会などが開催したオンラインシンポの紹介である。こちらは、7人の学者による多角的なオリンピックの徹底批判。胸に落ちる。以下は、その7学者発言の要約である。

広渡清吾・東大名誉教授 「政権浮揚のための東京五輪強行」

 新型コロナは収束の兆しが見えず、その対処に人類の英知が問われている。市民の命と暮らしを守るのが政治の役割だが、日本政府と東京都、組織委員会は、その見識を失っている。政権浮揚のための東京五輪強行だが、事態は十分にハルマゲドン化している。これを切り開く議論を行おう。

鵜飼哲・一橋大名誉教授 「祝賀資本主義の収奪」

 五輪という「祝祭」は、「資本を再建する祭典」である。同時に、「招致された非常事態」であり、略奪のメカニズムでもある。商業主義を加速させるが、祝祭の後は必ず不況となり、さらなる規制緩和や増税のダブルパンチが待っている。

井谷聡子・関西大准教授 「五輪後に福祉カット」

 近代五輪の第1回大会は女性を排除した。クーベルタンの近代五輪の理念には、色濃く優生思想がある。近年の「五輪の肥大化」の中で、東京大会でも施設の大規模化の一方で、野宿者らが排除されている実態がある。五輪後には、財政再建の名による福祉カットが起きるだろう。声を上げなければならない。

大沢真理・東大名誉教授 「母子家庭の貧困深刻」

 五輪とコロナ禍の前から、日本の生活保障制度が低所得者と社会的弱者を冷遇し、保健所体制を大幅削減してきた。コロナ禍での若い女性の自殺増を招いており、命と暮らしの危機だ。とりわけ、母子家庭の貧困が深刻になっている。

岡野八代・同志社大教授 「自由束縛する菅政権」

 学問の営みとは、残酷さを避けること、最悪の事態を避けることに眼目がある。五輪とコロナ禍をめぐって菅首相をはじめとした政治家の自己中心的な振る舞いが際立っている。教訓を引き出すためにも、異論や批判を排除しない学問の自由が必要だ。

石川健治・東大教授 「緊急事態条項の危険」

 加藤勝信官房長官は、コロナ禍を「憲法に緊急事態条項を新設する絶好の契機だ」と発言している。しかし、元来の緊急事態の法理は、英国で発達した「客観的緊急事態理論」であって独裁権力を想定するものではない。独裁権力を作るために生まれた「主観的緊急事態理論」とは別物なのだ。

佐藤学・東大名誉教授 「人間の尊厳を取り戻すたたかいを」

 コロナ・パンデミックという「惨事」と、五輪という「祝賀」が同時進行している現状。社会的に弱い立場の女性や子どもにしわ寄せが及んでいる。奪われている私たちの自由と人権と人間の尊厳を取り戻すたたかいが必要だ。

 このパネルディスカッションの司会は、中野晃一・上智大教授だった。

1936年ベルリン大会の孫基禎と、TOKYO2020の張家朗(エドガー・チョン)を巡る事件 ー 歪んだ大国主義を映し出すオリンピック

(2021年8月1日)
 8月である。平和を語るべき季だが、今年はコロナ禍と五輪禍の重なった特別の8月。猛暑も一入身に沁みる。

 五輪禍とは、コロナ蔓延阻止に怠惰で、コロナ蔓延に手を貸している政権の姿勢を意味するだけではない。もっと積極的な諸悪、商業主義・国家主義・政権の便乗主義をいう。開催国日本の「五輪禍」は顕著だが、香港にも特別な形での「五輪禍」が及んでいる。

 香港の人々がテレビに映った表彰式の中国国歌にブーイングをした。これを煽ったとして一人の男性が逮捕された。このイヤなニュースに胸がふたぐ。戦前の皇国日本と、中国共産党が支配する現代中国と、どうしてこうまで似ているのだろうか。「神聖な君のため国のため」の滅私奉公と、「無謬の党が指導する偉大な中華民族のため」という精神構造が酷似しているのだ。もちろん、自然にこうなるはずはない。両者とも、念の入った教育プログラムの成果である。

 1936年のベルリン五輪のマラソンでは、朝鮮人孫基禎は日本選手としての出場登録を余儀なくされ、金メダルを獲得した。当然のことながら、孫の勝利は朝鮮民族の栄光だった。地元の「東亜日報」が表彰台に立つ孫の写真を加工しユニホームの日の丸を消して掲載したことが事件となった。記者の逮捕や新聞の発行停止の弾圧に発展した。孫自身が、民族意識が強く世界最高記録樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだという。天皇制日本、甘くはなかったのだ。

 時は下って、2021年香港。一昨日(7月30日)、香港当局は、ショッピングモールで東京オリンピック(五輪)の表彰式を見ていた際に中国国歌にブーイングしたとして、警察が40歳の男性を逮捕したことを発表した。天皇制日本と同様、中国も甘くはないのだ。

 この男性は、26日にショッピングモールで大勢で表彰式のライブ配信を見ていた際、中国国歌を「侮辱」した疑いが持たれているという。映像には、フェンシングの張家朗(エドガー・チョン)選手が香港で25年ぶりの金メダルを獲得した様子が映っていた。中国国歌が流れた際に「私たちは香港だ」などと抗議の大合唱が巻きおこったという。「私たちは香港だ」という大合唱は、「私たちは共産党が指導する中国(国民)ではない」という含意であったろう。逮捕されたのは、このブーイングを煽ったとされる男性。

 警察の側から見れば、ジャーナリストを名乗るこの男性は、中国国歌「義勇軍行進曲」を「侮辱」したということになる。昨年6月施行の国歌条例に違反した疑いで逮捕された。同条例に違反の逮捕第1号で、有罪となれば法定刑の最高刑は禁錮3年だという。

 あらためて思う。これこそ、「五輪禍」であろう。オリンピックの競技が、ナショナリズムを煽る舞台となつている。これは不正常な事態なのだ。国家代表ではなく、個人・個々のチーム単位の競技にあらためるべきであり、表彰式での国旗形容も国歌演奏はやめようではないか。

燃え盛る「聖火」を消せ。あの禍々しい劫火を。

(2021年7月30日)
 火は妖しくも美しい。それ故に火は人を呼び寄せ人を惑わす。火はときに、その危うさを人に忘れさせ、人は火に魅入られて身を焼き身を滅ぼす。火に群がる蛾と人と変わるところはない。

 今、少なからぬ人々が「聖火」に引き寄せられ、その虚飾に惑わされ酔わされている。その火の危険を忘れ、あるいは危険を正視せず、危険に気付かないふりをし続けている。その怠惰は、多くの人々の身を焼き身を滅ぼすことになる。今必要なのは、一刻も早く、その危険を正視して「聖火」を消すことだ。直視せよ。あれは、人々の災厄を招いている劫火なのだ。

 昨日(7月29日)の東京都内新規コロナ感染確認者数は3865人と発表された。全国では10699人、初めて1万人の大台を超えた。言葉の真の意味での緊急事態である。東京では直近1週間の人口10万人当たりの感染者数111人を超えた。ステージ4下限の4倍を上回る。国民の生命と健康、そして生活が脅かされている。

 東京五輪は、7月23日に開会となった。その日から昨日までの東京の感染者数の推移は、下記のとおりである。
 
7月23日(金) 1659人 (開会式当日)
7月24日(土) 1128人
7月25日(日) 1763人
7月26日(月) 1429人 (連休明け初日)
7月27日(火) 2748人 (連休明け2日目)
7月28日(水) 3177人 (連休明け3日目)
7月29日(木) 3865人 (連休明け4日目)

 4連休が明けてからは、感染爆発と言って誇張ではない。この感染爆発が東京五輪開催と無関係という強弁は通らない。「東京五輪は、国民の犠牲を厭わず開催されねばならない」「都民やアスリートの安全よりも、東京五輪が重要だ」「まだ、アルマゲドンは起こっていない」と言うのなら、話の筋は通っている。危険この上ないスジではあるが。

 東京五輪の安全安心がお題目だけのことであるのは、誰もが知っている。バブルには「どこでもドア」が完備している。今回のオリンピックに限らず、選手の素行がよいわけはない。本日正午までの五輪関係感染者数は累計193人である。母数を確定しがたいが、これは無視できない多数である。しかも潜伏期間を考えれば、これからが心配なのだ。

 祝祭としての東京五輪が、「感動」を呼ぶものであればあるだけ、「感動」しやすい人々にパンデミックの現状認識を稀薄化させている。限りある医療リソースが東京五輪に奪われている。

 この事態に、菅義偉・小池百合子のコメントの情けなさは、言語に絶する。この二人への批判を機に、「楽観バイアス」という言葉が飛び交うようになった。今年の流行語大賞の有力候補である。人には、見たいものしか見えない。「聖火」に吸い寄せられた人には、その火の恐ろしさは見えない。見えても語らない。菅・小池とも、この事態に楽観論しか語らない。

 楽観バイアス・シンドロームは、菅・小池にとどまらない。立憲民主党の安住淳国対委員長が、東京オリンピックに関し「選手村でクラスターが起きるなど新たな状況が生まれない限り、中止は現実的でない」と述べたという。まず、これには驚いた。、菅・小池を糾弾して、誰が国民の味方であるかをアピールする絶好の機会を逃したのではないか。

 さらに、同党の枝野幸男代表までがこれに続いた、昨日(7月29日)の記者会見で、新型コロナウイルス感染拡大の中で開催されている東京五輪について、わざわざ中止を求めないと述べたという。その理由として、「すでに五輪の日程が進んでおり、多くの選手や関係者が来日して活動している」「中止すればかえって大きな混乱を招くと強く危惧している」と述べたとのこと。国民の命と健康を犠牲にしてまで実現しなければならない「混乱回避」とはいったい何なのだ。

 さらに、「アスリートの皆さんには競技に集中して全力を出していただきたい」「長年の努力の成果を自信を持って発揮できるよう、テレビの前で応援しているし、日本選手の活躍を喜んでいる」とまで語ったという。

 恐るべし、楽観バイアス・シンドローム。そして、「聖火」の危険な魅力。だからこそ、直ちにその火を消さなければならない。 

オリンピックが涵養するナショナリズム

(2021年7月26日)
 私は月刊誌文化で育った。漫画週刊誌が世を席巻する以前のことだ。小学生だけの寄宿舎2階の隅に図書室があり、少年・少年クラブ・少年画報・まんが王・少女・少女クラブ・リボン・なかよし・女学生の友・小学三年生などなんでも読めたし、なんでも読んだ。どっぷりとその世界に浸かった。

 手塚治虫・馬場のぼる・福井栄一らのマンガは文句なく面白かった。山川惣治らの絵物語というジャンルもあった。そして、それなりの文字情報もあった。連続小説もあり、歴史や科学の解説記事あり、そしてスポーツものが大きな比重を占めていた。

 その子ども向けスポーツ記事には戦前のオリンピックにおける日本人選手の活躍ぶりにページが割かれていた。日本凄い、日本人立派、のオンパレードだった。記憶に残るのは、まずは村社講平のスポーツマンシップだ。そして、西田修平・大江季雄の「友情のメダル」。織田幹雄・田島直人・南部忠平、みんな世界に負けなかった。前畑がんばれ。人見絹枝はよくやった。バロン西の戦死は惜しまれる。小学生の私は、この種の話が大好きで無条件に感動した。こんな話を通じて、日本人であることを自覚し、日本に生まれたことを好運にも思った。既に、小さなナショナリストが育っていたのだ。

 おそらくは、当時の日本社会が子どもたちに与えたいと願ったものが月刊出版物に忠実に反映していたのだろう。スポーツ界のヒーローの描き方の根底には、疑いもなく、敗戦の負い目や国際社会に対する劣等意識があった。これにこだわっての、本当はこんなに凄い日本、日本人は本来こんなにも立派なのだと押し付けられ、多くの子どもたちがこれを受容した。もちろん私もその中の一人。

 今にして思う。オリンピック金メダリスト孫基禎のことも、国民的ヒーローであった力道山が在日朝鮮人であることも、少年雑誌には出て来なかった。天皇や戦争などの暗い話題は誌面から避けられていた。さすがに国粋主義は出てこなかったが、ナショナリズムは色濃くあった。

 戦前の攻撃的なナショナリズムとは違い、戦後のあの時期のナショナリズムは、国民的規模の劣等感の表れであったかと思う。今は、こんなに肩身の狭い思いを余儀なくされているが、本当は日本人は優秀で、日本は世界に負けないんだ、という肩肘張っての強がりの姿勢。

 オリンピックは、このようなナショナリズムを思い出させ、再構築する好機なのだ。対外的な劣等意識にとらわれている人、人生経験の浅い人ほど、日本選手の活躍に「感動」を押し売りされ、断れなくなる。私も小学生のころ、そうであったように。
 

オリンピックの非人間性と、自分をもたないアスリートの悲劇

(2021年7月25日)
 私は小学2年生から4年生までを、清水市立駒越小学校に通った。戦後間もなくの1951年4月から54年3月までのこと。この地は富士がよく見え、三保の松原にほど近い風光明媚なところ。当時は田舎で、周囲は農村と漁村の入りまじった土地柄だった。その小学校の秋の運動会が一大行事として印象に残っている。校内行事の規模を超えて、地域行事となっていた。

 運動会プログラムの最後が、地区対抗のリレーだった。確か、それぞれの地区が、1年生から6年生まで各学年の男女1名ずつを選手とする計12名のチームを作る。そのリレー競走が異様に盛り上がる。

 何チームができたのかは覚えていない。増村(ぞうむら)、蛇塚(へびづか)、折戸(おりど)、駒越(こまごえ)等々の村落ナショナリズムが実に強固なのだ。運動会が近づくと、どこの地区はもう選手を決めた。特訓をやっているそうだ、という噂が伝わってくる。

 この学校に通う、地元民でない2グループがあった。一つは、近所にあった東海大学の教職員宿舎の子どもたちで、「官舎の子」と呼ばれていた。もう一つが、私のような宗教団体の寄宿舎から通う、1学年15人ほどの子どもたち。宗教団体の名から「PLの子」と呼ばれていた。「官舎の子」も「PLの子」も、勉強はできて行儀がよく標準語を話す子どもたちだったが、地元の子どもたちには腕力で敵わず、運動能力も遙かに劣っていた。だから、もちろん尊敬される存在ではありえない。このグループもリレーのチームを作ったが、常に最下位を争っていた。通例、文武は両立しがたいのだ。

 この最下位2チームを除いてのことだが、各チームのリレー選手に選ばれるとたいへんなプレッシャーが掛かることになる。各村落の期待を背負って、勝てば褒めそやされるが、負ければ針のムシロなのだ。リレーの勝敗には、各地区の名誉がかかっている。子どもたちが、地区の名誉のために、懸命に走るのだ。和気藹々なんてものではない、村落間の対抗意識のトゲトゲしさが印象に残る。その対抗意識のなかでの子どもたちの痛々しい姿。

 もしかしたら、あの小学校のリレーが、私のスポーツ観の原点なのかも知れない。アスリートとは痛々しいもの。対抗意識で分断された部分社会を代表して、その名誉を賭けての代理戦争の選手となる者なのだ。勝てば褒めそやされるが、負ければ惨めな針のムシロの哀れな存在。

 子どもたちはクラス対抗では盛り上がらない。クラスは、便宜的に区分されたに過ぎず、来年にはクラス編成は変わる。クラスに対する帰属意識は育たない。クラス・ナショナリズムは成立しないのだ。しかし、クラスを横断した村落ナショナリズムは確実に存在した。それぞれが、そこで生まれ育ち将来も生き続けなければならない村落へのアイデンティティを強固にもっていた。

 地区対抗リレーでは、子どもたちが自分のためでなく、村落ナショナリズムを背負って、村落共同体の代表として走った。だから、各村落共同体がこぞって声援を送り、子どもたちは懸命に痛々しく走ったのだ。おそらくこのリレーは、普段は意識しない各村落間の対抗意識を顕在化させ煽るものであったろう。

 スポーツは競技と切り離しては成立しない。競技は競争の相手方を必要とするだけでなく、自分の属する集団の名誉や経済的利益を賭して行われる。学校の名誉のために、職場対抗の選手として、地域を代表して、さらには国家のために競技をすることになる。これは、単位社会間の代理戦争である。そのゆえに、大いに盛り上がることにはなるが、選手本人には限りない重圧が掛かることになる。当然に押し潰される人も出て来る。

 前回1964年東京オリンピック開催時には、私は大学2年生だった。アルバイトに明け暮れていた私には競技に関心をもつほどの暇はなく、テレビも持っていなかったから、騒々しさ以外には感動も印象も残っていない。ただ、陸上競技でのたった一人の日本人メダリスト円谷幸吉が、その後に傷ましい自殺を遂げたことから、この人についての記憶だけが鮮明に再構成されている。

 次のオリンピックには金メダルを。そのような国民の期待に応えようとした律儀な自衛官は、68年メキシコオリンピックの年の1月、頸動脈を切って凄惨な自殺を遂げた。当時27歳、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」との遺書を残してのこと。

 この事件は衝撃だった。国家の名誉と期待を背負わされた青年がその重みに耐えかねて、その重圧から逃れるための自殺。国家とは国民とは、そしてナショナリズムとは何と残酷なものだとあらためて知った。加えて、アスリートを押し潰すオリンピックというイベントの非人間性も印象に残った。

 円谷の精神の中では、国家や国民という存在が限りなく大きく重いものであったのだろう。卑小な自分は、国家や国民の期待に応えなければならないとする生真面目な倫理観があったに違いない。それが達成できなくなったときには、自分の生存自体を否定せざるを得なかったのだ。自我も主体の確立もない、ただ国家のために走らされる哀れなアスリートの悲劇である。

 駒越小学校では、あの村落対抗リレーはまだ存続しているのだろうか。一昨日から始まったTOKYO2020では、まだ無数の円谷が競技をしているのではないだろうか。

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