澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

あらためて言おう。納税者がファーストだ。

国も自治体も関与しないイベントがどのように行われても、違法でない限り、誰からも文句を付けられる筋合いはない。イベントに関わる者の完全な自由だ。だが、国や自治体の便益を受け、国費や自治体の費用が注ぎ込まれるとなれば話は変わってくる。主権者は、国や自治体の財政面に関わる問題として、ものを言わざるを得ない。ものを言うべき権利があるというだけでなく、ものをいうべき責務がある。看過し、躊躇し、沈黙することは、消極的な同意を意味する。大いにものを言わざるべからず。

財政面における主権者を「納税者」と表現して、「納税者基本権」を構想したのが、今は亡き北野弘久さん。私が事務局長の時代に、日民協の理事長だった方。

「納税者基本権」とは、徴税の対象としての狭い意味の納税者の、税金納付の局面での権利だけを意味するものではない。担税の仕組みや租税の使途(支出)についても、納税者一人ひとりが物申し違憲違法を是正すべきことを人権として把握する構想である。

国や自治体の財政支出は、民主主義的な原理で構成された行政が行う。この民主主義原理に、人権原理をもって対抗し補完しようとするもの。国民一人ひとりが、納税者として、国や自治体の違憲違法な財政を是正する権利を有するという。

この納税者基本権という思考の枠組みは、国民の防衛費の負担についても、政党助成金の国民負担についても、また消費税という逆累進の税制を考えるうえで有益だが、オリンピック・パラリンピックの国民の負担を考える際においても、是非とも有効に活用したい。

あらためて言う。「納税者ファースト」以外の考え方はあり得ない。アスリート自身が「アスリートファースト」を口にすることは、僭越も甚だしい。JOCもIOCもえらそうな口をきける立場にない。そして、政治家は常に「ラスト」でなければならない。

昨日のことだ。ラストであるべき政治家が、えらそうな口を利いている。
「東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長は14日、さいたま市内で講演し、競技会場見直しについて『アスリートファーストでまとめたものをきちっとやってきた。スポーツやオリンピック、今までの約束事をご存じのない方が来てガチャッと壊した』と小池百合子・東京都知事を批判した。」「『組織委員会は無責任な団体だとか、好きなことをおっしゃっている』と不満をぶちまけた。また、ボート・カヌー会場を巡る動きを『(小池氏が)何も勉強しないで、かわいそうに(宮城県の)村井嘉浩知事は踊らされちゃった』と皮肉った」(朝日)と報じられている。

また、アスリートの僭越ぶりも目に余る。
「東京五輪のバレーボール会場の見直し案をめぐり、日本バレーボール協会などは8日、記者会見を開き、従来の計画通り『有明アリーナ』(東京都)の新設を求めた。元五輪選手らとともに東京都の小池百合子知事あての嘆願書も提出した。」「都内であった会見には、元五輪選手ら16人が出席。」「『東京五輪では、女子も男子も、その体育館(『有明アリーナ』)で記憶に残るような死闘を繰り広げることをお約束したい』と述べた。」

「バレーボールをめぐっては既存の『横浜アリーナ』(横浜市)を活用する案も浮上している。」「東京都の調査チームが1日にまとめた報告書では、有明アリーナの新設にかかる整備費は、従来の404億円から370億円前後に削減できると試算。一方、横浜アリーナの活用案は、観客席の仮設による増設工事なども7億円で済むとし、コスト面でメリットがあるとされた。」(以上、朝日)という報道の中での、アスリート側の巻き返しである。なんとも、はや。

億の単位、さらには兆の単位の財政支出に納税者は鈍感になってはいないだろうか。健全な庶民感覚を取り戻さねばならない。そして、主権者として、納税者として厳格に、税金の使途に目を光らせ、大いにものを言おう。なんたって、「納税者ファースト」なのだから。
(2016年11月15日)

「競技連盟ファースト」も「アスリートファースト」もあり得ない。あるのは、「納税者ファースト」だけだ。

国際ボート連盟の会長が、ロランというフランス人だという。国際ボート連盟なる組織がいかなるものか、その会長がいかなる人物かはまったく知らなかったし、本来なんの関心もない。それが、突然に東京までやって来て出過ぎた発言で物議を醸している。

この人、フルネームがジャンクリストフ・ロランだそうだ。えっ? 本当か。ロマン・ロランのジャンクリストフといえば、我々の世代には「青春のバイブル」だった。この名前の印象は良過ぎ、それに比してこの人物の言動の印象が悪過ぎ。相対的に、小池側を応援したくなるのが少しシャクなほど。

2020年東京五輪の競技施設建設予算がべらぼうな額となり、遅きに失したとは言え、小池都知事が見直しに着手した。そのなかに、ボート競技会場となる「海の森水上競技場」の建設中止がある。昨日(10月3日)ロランは、これにクレームをつけたのだ。彼が言わんとしたは「東京から遠い宮城県なんかに移されてはがっかりだ。東京に連盟とアスリートの気に入るような最高の施設を作れよ。カネのことはオレは知らん。あんたの方でなんとかしろ」ということだ。ロマン・ロランも驚くだろう。ジャンクリストフなら絶対に言わないセリフ。知性なき乱暴者ロランだからこそ、こんなことを口にできるのだ。

学生時代にボートをやったという人は少なくない。あのロランと同類に見られるかと、さぞ肩身が狭いことだろう。それだけではない。アスリート全体に肩身の狭い思いをしてもらわねばならない。アスリートが何様だ。そう言葉を発するのに、ちょうどよいきっかけではないか。これから、遠慮なくものを言おうではないか。

報じられているところでは、ロランの言葉は、次のとおりである。
「我々は14年から日本全国の候補を調査、検討し、その中で色んな要素を考慮した。知事が懸念しているコストや、アスリートファースト、レガシーも。(海の森は)IOC、都、組織委員会という全てのステークスホルダーと分析して出した結論」。

「色んな要素」とは、コスト、アスリートファースト、レガシーの3点。
「すべてのステークスホルダー」とは、IOC、都、組織委員会の3組織。
おそらくは、これがアスリート団体のトップ層の粗雑で思い上がった頭の中なのだ。こんな連中をのさばらせてはならない。

彼らの頭からは納税者がすっぽりと抜けている。ステークスホルダーとして納税者を意識していないし、施設のコストやレガシーを決めるのは納税者だという当たり前のことを理解していない。あたかも、IOCや競技連盟や組織委員会がなんでも決めることができると思い込んでいる如くではないか。まるで駄々っ子だ。

都民も国民も、ロランが語る思い上がった「アスリートファースト」に怒らねばならない。フトコロに手を突っ込んで「アスリートの気に入るようにもっとカネを出せ」と言われているのだから。

アスリートがなんぼのものか。アスリートとはいったい何様なのだ。納税者を差し置いて、IOCファーストや競技連盟ファーストや組織委員会ファーストはありえない。そして、「アスリートファースト」を美しい響きの言葉にしてはならない。うさんくささを嗅ぎ取らねばならない。理の当然としての「納税者ファースト」の姿勢を貫かねばならない。

プロ野球と比較してみよう。ここではお客様ファーストとならざるを得ない。球場に足を運ぶか、テレビ観戦をする観客に支えられて球界が存立している。しかし、実はプロ野球でなら、機構ファーストでも、選手ファーストでもいっこうに差し支えない。公費が投入されていないからだ。それでも、お客様ファーストでなくては興業として成り立たない。

五輪は、今や薄汚い商業主義の象徴と化している。にもかかわらず、多額の公費が投入されている不条理がある。それはさておき、公費が投入されている以上は、納税者ファースト以外にはあり得ない。それが、民主々義国家の常道である。

無頼のロランに対峙した小池は、経費削減の観点を強調し、「宮城県の知事も(開催に前向きな)意思を示している。もともと復興オリンピックを標榜していた」と述べ、東日本大震災の被災県で開催を検討する意義に理解を求めた、という。その姿勢を後退させてはならない。

ところで、「オリンピック・アジェンダ2020-20+20の提言」というものを2014 年11月のIOC総会が採択している。ここに見られるのは、オリンピックが持続できるかという危機感である。オリンピックの招致合戦や設備の建設に無駄なカネがかかりすぎることや、時に垣間見える汚い裏舞台への批判に耐えられなくなることへの対応策が必要になっているのだ。ローマの五輪招致辞退が、このことを象徴している。

IOCの傲りが納税者ファーストをおろそかにしてきた。そのことのツケが、オリンピック持続可能性のための具体的提言となっている。ロランの言は、明らかにこれに反している。ロラン一人の思惑か、ウワサされるような結託者がいるのかは分からない。少なくとも、ロランの言はIOCのタテマエに照らしてさえ、なんの説得力もない。せっかくのロランの言。これを「オリンピックは納税者ファーストで」の世論に切り替えるきっかけにしようではないか。
(2016年10月4日)

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」ーキャパニックの勇気

ハフィントンポスト(日本版)やロイターが、写真とともに生き生きと伝えている。「米ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)サンフランシスコ・フォーティナイナーズのクォーターバック、コリン・キャパニック(28)は1日、サン・ディエゴで行われたプレシーズンの試合前の国歌斉唱時に両手を組んでひざまずき、人種差別や警官の暴力行為に対する抗議の意を示した。キャパニック選手は、有色人種を抑圧するような国の国旗に敬意は払えないとして、国歌斉唱時に不起立で抗議を表明すると述べ、賛否両論を招いている。」

9月1日のゲームは、たまたま、「サルート・ミリタリー・ナイト」と重なった。240人の水兵、海兵隊、兵士たちによるアメリカ国旗の進呈、そして退役した米海軍特殊部隊によるプレゲーム・パラシュート・ジャンプなどのイベントが行われた。そのような場での国旗国歌に対する抗議だったのだ。

米国で警官による黒人への武器使用事件が相次ぎ反差別運動が巻きおこっていることは周知のとおり。キャパニックは、これまでも反差別の意味で国歌斉唱に加わっていなかったが、8月26日の試合で広く注目された。9月1日にはチームメイトのエリック・リードも同調し国歌斉唱時にひざまずいた。そしてシーホークスのコーナーバック(CB)ジェレミー・レインも、9月1日に行われた別のナイトゲームで起立を拒否した、と報じられている。

コリン・キャパニックの名は日本人に広く知られていないだろう。2013年にフォーティナイナーズをスーパーボウルに導いたスーパースターだそうだ。そう言われてもよく分からない。年俸が最高クラスの1,900万ドル(約20億円)と聞けば、その格がほぼ想像が付く。

そのキャパニックは、警察の暴力に言及し、「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」「その国の国旗に対する誇りを示せない」と語っている。
さらに、「同選手は自分の決断が議論を招くことは十分に承知しているとしたうえで、『だれかに分かってもらおうとか、認めてもらおうとかいう意図はない。虐げられている人々のために立ち上がらなければという思いだ』『たとえフットボールを取り上げられても、選手資格を奪われても、正しいことのために立ち上がったと思える』と語った」(CNN日本語版)。

キャパニックの行動が物議を醸し賛否両論があるのは当然として、注目すべきは、けっして彼が孤立していないことだ。

フォーティナイナーズは同選手の決断を尊重するとの声明を発表。「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と表明した。またNFLは声明で、「国歌演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と指摘した(CNN)。

誰もが、1968年メキシコ五輪の男子200m走の表彰式で拳を掲げて抗議したトミー・スミス(金メダル)、ジョン・カーロス(銅メダル)を想起する。この二人はアメリカ国内の人種差別に抗議するために、星条旗が掲揚されている間中、ブラックパワー・サリュート(Black Power salute)という拳を高く掲げるポーズで、国旗国歌に抗議したのだ。

国旗国歌は国民を統合する機能をもつシンポルである。多様な国民を国家という組織に組み込む装置のひとつにほかならない。ところが国民を統合した国家が国民の差別をしているとなれば、そんな国家に敬意を払うことはできないと抗議する国民があらわれるのは当然のことだ。差別される少数の側は、国旗国歌を「差別する多数の側のシンボル」ととらえざるを得ない。自分を差別する国家のシンボルに敬意を表することができないとすることを、いったい誰に非難する権利があろうか。

米国では「国旗(The Stars and Stripes)」だけでなく「国歌(The Star-Spangled Banner)」も「星条旗」と訳される。これを「日の丸・君が代」との比較で考えたい。星条旗は英国からの独立闘争のシンボルであり、合衆国憲法の自由の理念のシンボルでもある。一方、「日の丸・君が代」は、野蛮な天皇制の侵略戦争と植民地支配とあまりに深く結びついたシンボルとなってしまった。この忌まわしい記憶は拭いがたい。

「日の丸・君が代」よりは、象徴するする理念においてずっと普遍性の高い「星条旗」も、差別や出兵への抗議で、そっぽを向かれるだけでなく、焼かれたり唾をかけられた受難の歴史を持つ。しかし、米国の司法は、国旗を侮辱する行為をも表現の自由として不可罰としてきた。日本でも、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制に抵抗感をもつ多くの人が現実にいる。どこの国であれ、国民が国家をどう評価するかは自由でなくてはならない。国家が、国民に「われを讃える旗と歌」を強制することなどあってはならない。社会が個人に、国旗や国歌への敬意表明を強制してはならない。

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」という、キャパニックの勇気を讃えたい。同時に、日本の社会も「日の丸君が代」への敬意表明強制に従えないという人を孤立させてはならない。ナショナリズムを超えた思想良心の自由に、寛容な態度を学ばねばならないと思う。
(2016年9月5日)

2020年「パンとサーカス」に喜々とする市民になるなかれ。

ようやく、リオ・オリンピックの狂騒が終わった。ところがメディアは、「さあ、次はいよいよ東京オリンピック」「この感動を東京につなげよう」という。この狂騒が、そっくり東京に来るのかと思うとやりきれない。2020年8月には、本気で東京疎開を考えなければならない。

もっとも、私はオリンピック全否定論者ではない。どんなテーマであれ、国際交流が相互理解と平和のために望ましいのは当然であるから。情報と資本と商品の流通だけでなく、人と人とが国境を越えて直接に行き来して、言葉を交わし、気持を通わせることは平和の礎である。

観光も、留学も、文化や学術の交流も、ますます盛んになればよい。それぞれが外国と外国の人や生き方を見ることが友好の第一歩だ。国際結婚ももっと増えて人種や民族の混交が進めば、差別意識もなくなってくるだろう。友情の絆や親族関係が国境を越えて張り巡らされれば、やがては国境そのものが不合理な存在となり、国際紛争も戦争の火種もなくなってゆくに違いない。

国籍や人種や民族、宗教の異なる人びとの大規模な交流の場として、オリンピックの意義がある。「堅固な平和の礎を築くことを目的とした交流の祭典」としての意義である。リオでの難民チームの結成は快挙というべきだ。自国の旗を背負うことを拒否するアスリートを束ねたチームの結成はできないものだろうか。国ごとのチーム編成を払拭できれば、さらに素晴らしい。

ところが、為政者もメデイアも、オリンピックをナショナリズム高揚の絶好の機会と捉え、あるいは国威発揚の場として利用しようとしている。これが、鬱陶しくてうんざりなのだ。メダルの数や色など、選手には関心事だろうが、はたが騒ぐほどのことではない。

オリンピックを取り巻く現実は、理想にほど遠い。日刊ゲンダイは「五輪メリットは『国威発揚』 NHKが憲章と真逆の仰天解説」と報じている。
「ビックリ仰天した視聴者も多かっただろう。21日のNHKの番組『おはよう日本』。オリンピックを扱ったコーナーで、『五輪開催5つのメリット』としてナント! 『国威発揚』を挙げていたからだ。
 『リオ五輪 成果と課題』と題し、刈谷富士雄解説委員が登場。…驚いたのは次の場面だ。
『何のためにオリンピックを開くのか。その国、都市にとって何のメリットがあるのか』と投げ掛けると、五輪のメリットとして真っ先に『国威発揚』を示したのだ。」

戦時には、「日本勝った」「強いぞ我が軍」という記事こそが、新聞の部数を伸ばした。だから、各紙が挙って従軍記者を戦地に送った。無名のむのたけじだけでない。文名赫々たる岡本綺堂や石川達三も戦地に行って記事を書いた。あれと同じ構造。メディアはオリンピックで、ナショナリステックな感動を大売り出しして、シェアの拡大をねらう。そんな画策に乗せられてはならない。

リオ大会の閉会式には、アベと小池の醜悪コンビが顔を揃えた。それだけで、もううんざりだ。

ところで、閉会式では信じがたい演出がなされた。画像に、ドラえもんが用意した不思議な「土管」が映し出される。この土管が、東京から垂直に下りて地球の裏側リオにまでつながる。マリオがこの土管を伝わって、東京からリオに移動するという設定。これは悪い冗談だ。見る人誰にも原発事故でのメルトダウンからチャイナシンドロームを想い起こさせる。しかも、閉会式会場に設置された土管から出たマリオの帽子と服を脱ぐとアベが現れるという仕掛け。2013年9月に、ブェノスアイレスでのIOC総会で、「福島第1原発の放射線は完全にブロック」「アンダーコントロール」と言ったそのアベが、チャイナシンドロームで開いた穴から出て来るというのだ。ブラックジョークのつもりか、あるいは悪意の当てこすりなのだろうか。アベは、どうしてこんな演出に喜々としていられるのだろう。

オリンピックのうさんくささは、ナショナリズムだけが原因ではない。「パンとサーカス」という言葉を思いださせるからだ。

かつてのローマ帝国における愚民化政策の代名詞が、「パンとサーカス」だ。権力者は市民を愚民に貶めておく手立てとして「パンとサーカス」を提供した。食料の配給は公衆の面前で物乞い行為に対する施しとして行われたという。そして、娯楽を求める市民の要求に応えて提供された見世物が「サーカス」。中でも剣闘士同士の闘いや、剣闘士と猛獣との闘いが人気を呼んだ。民衆はこのよう娯楽を十分に与える権力者を支持し従順となった。現代のオリンピックも恰好の見世物。ヒトラーは1936年ベルリンオリンピックを最大限利用した。アベも小池も、このことを十分に意識しているに違いないのだ。

戦後占領軍は日本の統治に意識的に3S政策を組み込んだといわれる。スポーツ、スクリーン、セックス(またはスピード)。これも、民衆の社会的な自覚や、政治への関心から目を逸らせるための愚民策。オリンピックはこれと重なる。

繰り返すが、私はオリンピックを全面否定はしない。しかし、アベや小池の愚民化政策に乗せられて、政権批判を忘れて「パンとサーカス」に喜々とする市民になるのは、まっぴらご免だ。
(2016年8月23日)

竹田君のモノローグ-「前途には、越すに越せない障害物が山積」

私、竹田恒和です。恥ずかしながら、皇族の出です。オリンピックを取り巻いているのは、金持ちだけでなく王族や貴族が織りなす世界。クーベルタン自身が男爵でしたし、歴代9名のIOC会長のうち、5人は爵位の持ち主です。キラニンは男爵、サマランチは侯爵、ロゲは伯爵。世が世であれば、私だって爵位くらいはあったはず。

もっとも、出自の良さと能力には何の関係もありません。出自と廉潔さともなれば、なおさらのこと。もっとも、育ちの良さは、一般に逆境を切り抜ける強さに欠けることにはなるでしょう。私も、この点自信がありません。東京オリンピック招致不正疑惑についての厳しいご指摘、一々ごもっともと、私自身が思ってしまうのですから。安倍さんや、籾井さん、そして今もうひとり疑惑の渦中にいる舛添さんなどの強心臓を学ばねばならないと思いながらも、ままなりませんね。

一昨日(5月16日)から本日(18日)まで、三日続けて国会で疑惑追及の矢面に立たされました。部下が作った原稿を読むのが私の役目なのですが、当の私自身が出来のよい弁明とは思えないくらいですから、あれを聞いておられた多くの人びとが、疑惑を深めたであろうことはよく分かります。私は馬術の障害飛越競技選手でしたが、果たして眼前の障害を乗り越えることができるのだろうか。心細く不安でなりません。

私の弁明は、招致委員会が「ブラックタイディングス社」に2億3000万円を送金したことを認めるところから出発しています。送金の事実は証拠を押さえられていますから、否定することができません。2回に分けての送金の時期が、2013年9月の東京オリンピック招致を決めたIOC総会をはさんで、7月と10月。当然疑惑の対象となるわけです。

送金先の会社とどのように接触したのか。その素性をどう確認したのか、送ったカネの趣旨は何だったのか、そのカネはどのように使われたのか、送金先からカネの使途についてどのように報告を受けているか、ほかにもカネをばらまいていないのか…。想定される疑問に、スタッフが知恵を絞ってあの原稿を書いたのです。

具体的なことを書けばボロが出るわけですから、できるだけ抽象的に、あとからどうでも言い訳できるような文章を拵えてありますから、リアリティに欠けます。後ろめたい印象となったのは当然のこと。

しかしこう思ってくださる心温かい方もすくなくないと思うのです。
「オリンピック招致にワイロが動くのは常識じゃないの」「2016年大会招致の敗北は結局実弾が不足していたからでしょう」「招致に成功すれば見返りは十分なのだから思い切った『投資』が必要なことは理解できる」「コンサルなんて、ワイロあっせんに決まっているでしょうが」「ロビー活動って、結局はどうやって裏金を渡すかの密談以外の何ものでもありませんよね」「要は、ワイロを待ち構えているIOC委員に、どれだけの金額で、オ・モ・テ・ナ・シをするかだよ」

こういうものわかりのよい人びとを心の支えに、「カネはコンサル業務の対価としての支払いだ」とまずは構成しました。で、電通の名を出してこれに一部責任を転嫁し、「電通から、実績あるコンサル業者であることを確認した」と言ったのです。

ブラックタイディングスは、自分の方から売り込んできたのです。自分の実績も、IOC委員とのつながりについても、いろいろ話しただろうと思うのが常識的な判断。でも、そこを認めてしまっては、障害を飛越できません。飽くまでも、無理と知りつつ、「何も聞いていません」「委員との人的関係は知る由もありませんでした」とがんばるしかありません。

もっとも、何もかも知らぬ存ぜぬでは、「そんなことを調べもせずに2億ものカネを出したのか」「杜撰きわまる」と批判されますから、どこまで知らぬと押し通すかは微妙なところ。本当のことを語っては、「お・し・ま・い」なのですから、いかに本当らしく語るかが、苦心のしどころなのです。

招致決定以前の7月の支払いは、国際ロビー活動や情報収集業務として、招致後の10月の支払い分は、「勝因分析」業務として支払ったことにしました。「勝因分析に1億」って、そりゃ何だ? と突っ込まれるのは当然といえば当然。このコンサル会社は実はただのペーパーカンパニーで、裏で国際陸連前会長ラミン・ディアク氏の息子であるパパ・ディアク氏と繋がっていることを知っていただろうという追求を受けることになります。「知っていた」と言ってしまえば、一巻の終わりです。

どうしても逃げられないのが、コンサルタント料の約2億3000万円について、事前にも事後にも使途を確認していない、ということ。本日も、参考人として出席した衆院文部科学委員会で説明、このことを明言しました。だってね、まさか「事前に、ワイロとしての使途を確認」したり、「事後に、確実にワイロとしてターゲットに渡ったことの確認」などできるわけはないでしょう。だから、「使途の確認はしていない」と言わざるをえないのです。

すると、「使途の確認もすることなく2億を超えるカネを支払ったのか」「まことに不自然ではないか」「不見識」とお叱りを受けることになります。これは辛いが、じっと我慢する以外ありません。辻褄合わせは楽ではないのです。

結局、今はやりの第三者委員会方式による調査をすることにしました。弁護士など第三者の調査チームをつくるという、あのやり方です。ここにお任せして、招致関係者から聞き取り調査をしてもらおうというのです。これが一番楽で利口なやり方。うるさい記者には「第三者委員会で調査中で、その結論を待っています」と時間稼ぎができます。その内に、いろんな事件が起きて世論の逆風もおさまるに違いない、と思うのです。

うるさくない弁護士だけを集めて、調査チームを作って答申させるのです。あんまり、露骨な甘い調査ではいけない。さりとて本気になって厳格な調査など始められたら、なおいけない。その辺のアウンの呼吸を身につけた、大人の弁護士を見つけるのが、この種危機管理の要諦というもの。しかるべき人脈で、しかるべき弁護士を見つけることができるはずです。いざという時は、また、電通に頼みこめばよしなにはからってくれるでしょう。

私の後ろには、政権も東京都もついていたはずだったのです。ところが、東京都の方は当時の知事が不祥事で辞任し、その次の知事もおかしくなってしまっています。残るは、安倍政権なのですが、今度の参院選でどうなりますか。こちらも、心もとないありさまです。

そして心配は、日本での追求は飛越できたとしても、フランスの捜査当局がいったい何を見つけてしまうのか。心配で夜もオチオチ眠れません。いっそのこと、東京オリンピック返上覚悟で、洗いざらいぶちまけてしまったら、気持も軽くなろうかと思うのですが、そんな思い切ったことができないのは、やはり私の育ちの良さが邪魔しているのでしょうかね。
(2016年5月18日)

「オリンピック・ワイロ誘致音頭」または「恥さらし音頭」

ハア~
あの日猪瀬が ながめた月が
きょうは 舛添ボロ照らす
次の次には 東京五輪
かたい約束 夢の夢
ヨイショ コリャ 夢となれ
オリンピックの 顔と顔
ソレトトント トトント 恥さらし

ハア~
あの日会議で もっともらしく
コントロールよ ブロックと
ウソを承知のしたり顔
ダマシとったが 我が手柄
ヨイショ コリャ 手柄顔
オリンピックの ウソとウソ
ソレトトント トトント 大ウソだ

ハア~
コンサル会社に払ったカネは
2億と少しのはした金
庶民騒ぐは すじちがい
これが相場のワイロ額
ヨイショ コリャ やすいもの
オリンピックの カネまみれ
ソレトトント トトント カネまみれ

ハア~
東京招致は 日本の知恵よ
ワイロとダマシの 大成功
追求されても二枚舌
日本の子どもに よい見本
ヨイショ コリャ 処世術
オリンピックの カネとウソ
ソレトトント トトント 大成功

ハア~
待ちに待ったる 世界のカネよ
西の国から 東から
北の空から 南の海も
越えて日本へ どんと来い
ヨイショ コリャ ザクザクと
オリンピックの カネとカネ
ソレトトント トトント ふんだくれ

ハア~
色もしぼんだ エンブレム 
大会経費は青天井
ゼネコン企業にはずむゼニ
いずれおとらぬ 無駄遣い
ヨイショ コリャ 人のカネ
オリンピックだ たかろうぜ
ソレトトント トトント この際だ

ハア~
終始一貫 無責任
どんなに金がかかっても
知事も首相も知らぬ顔
宴のツケは庶民宛
ヨイショ コリャ 気をつけよう
オリンピックの 霧と闇
ソレトトント トトント 無責任 

ハア~
政権はやせば 国民踊る
失政繕う 隠れみの
メディアこぞって 拍手の音に
アベの批判も かすみゆく
ヨイショ コリャ 思う壺
オリンピックの 笛太鼓
ソレトトント トトント もっと吹け

ハア~
暑い盛りの真夏の空に
聖火台など 要りはせぬ
省エネ日本の心意気
そのままギリシャにお返ししょ
ヨイショ コリャ お返ししょ
オリンピックは 要らないね
ソレトトント トトント 要らないよ

ハア~
リオの五輪は 政権ご難
東京五輪も ぐらぐら揺れて
オリンピックは 呪われづくし
いっそやめよう 東京五輪
ヨイショ コリャ 夢さませ
オリンピックの 夢と夢
ソレトトント トトント 悪夢だね

ハア~
東京五輪は 錦の御旗
東北復興そっちのけ
熊本復興どうでもよいさ
一極集中まっしぐら
いっそやめよう 東京五輪
ヨイショ コリャ 民のため
オリンピックは 困りもの
ソレトトント トトント やめちゃおう

ハア~
オリンピックのうらおもて
おもての成果は とりあって
うらの失敗 なすりあい
うらばっかりの
オ・モ・テ・ナ・シ
こんな五輪は返上だ 
ヨイショ コリャ 返上だ 
オリンピックは もう要らぬ
ソレトトント トトント 返上だ 
(2016年5月16日)

「オリンピック惨歌」ーまたは「五輪怨み節」

オリンピックはヤなもんだ  
 コントロールとブロックの
 ダマシがケチのつきはじめ

オリンピックはヤなもんだ 
 所詮は奴らのメシのタネ
 踊らされるはマッピラだ

オリンピックはヤなもんだ 
 ローマの時代のサーカスが
 政権支えによみがえり

オリンピックはヤなもんだ 
 東京一極盛り上げて
 東北・熊本切り捨てる

オリンピックはヤなもんだ 
 日の丸君が代煽り立て
 愛国心を押しつける

オリンピックはヤなもんだ 
 国威発揚晴れ舞台
 主役はナチスか安倍シンゾー

オリンピックはヤなもんだ 
 渋滞混雑騒音の
 東京みんなで疎開しよ

オリンピックはヤなもんだ 
 猛暑のさなかの我慢会
 出場選手は熱中症

オリンピックはヤなもんだ 
 当初予算がいつの間に
 三段跳びやらハイジャンプ

オリンピックはヤなもんだ 
 ヘイトスピーチ野放しで
 オモテナシなど言われても

オリンピックはヤなもんだ 
 一億一心火の玉と
 戦時思わす気味悪さ

オリンピックはヤなもんだ 
 平和を嫌う政権が
 作り笑いのオモテナシ

オリンピックはヤなもんだ 
 じゃぶじゃぶカネを注ぎ込んで
 ツケは庶民のオモチダシ

オリンピックはヤなもんだ 
 宴のあとの荒涼に
 責任もつ人影もなし

(2016年5月8日)

東京オリンピックを機に東京にいらっしゃる外国人の皆さんに訴えます。東京は信仰の自由を認めない野蛮都市なのです。

2020年東京オリンピックまであと4年。世界中から、多くの人々が東京にやってこようとしています。既に東京に観光客の増加は著しく、今年の花見の名所には、外国人があふれています。しかし、本当に東京は平和と自由の祭典である、オリンピック・パラリンピックを開催する都市としてふさわしいのでしょうか。オリンピック開催都市としての資格があるのでしょうか。是非、その実態を知ってください。そして、できれば、ご一緒に東京都に抗議をしていただきたいのです。

世界中の皆様に、とりわけオリンピックを機に東京に足を運ぼうとしていらっしゃる方々に申し上げます。東京には、公権力によって思想や信仰に対する弾圧に苦しんでいる人が現実にいるのです。その背景にある事情に耳を傾けてください。

400年ほど昔のことです。戦国の動乱を経て統一日本の政権が江戸に打ち立てられたころ、時の為政者は極度に民衆の叛乱を恐れました。為政者の権威確立に邪魔となるものとして、厳格に宗教を統制しました。外来の宗教である、キリスト教は布教も信仰も厳しく禁じられました。さらに進んでね、江戸幕府の為政者は、キリスト教の信仰者を徹底して弾圧して信仰を抹殺しなければならないとまで考えたのです。しかし、信仰は目に見えません。どうしたら、キリスト教の信仰者をあぶり出すことができるでしょうか。

悪知恵を働かせて彼らが発明した独創的手段が、「踏み絵」というものでした。信仰者にとって大切な聖なる図柄を描いた踏絵板(後に真鍮製)を用意し、これを全民衆に踏ませたのです。キリストやマリアの像を踏みつけることはできない、罪の意識から躊躇する者を信仰者としてあぶり出したのです。普段は見えない信仰を可視化する見事な方法といわねばなりません。多くのキリスト教徒が「踏み絵」によって殉教を余儀なくされました。この踏み絵は、九州全域の年中行事として、幕末まで実に230年に及ぶ長期間、続けられたのです。日本の為政者の狡猾にして残忍な一面をよく表している歴史の一こまと言わねばなりません。

その後近代に至って、権力を掌握した天皇制政府は、踏み絵を発明した為政者のあとを襲って、宗教的・政治的弾圧に狂奔しました。彼らは、天皇を神とする宗教によって民衆の精神を支配しようと試み、天皇の権威を認めない宗教を徹底して弾圧したのです。ここにも、信仰者受難の歴史が刻まれています。また、政治的信条故に天皇の権威を認めようとしない者も過酷な弾圧を受けました。

70年前の敗戦にともない、日本は天皇制のくびきから解放され、憲法によって個人の精神的自由が保障される時代に入ったとされています。しかし、ご存じのとおり、日本の現首相自身が「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」と広言し、戦後民主主義を否定して戦前を志向しているのです。この国には、思想・良心・信仰の自由はいまだ根付かず、為政者は折りあらば思想や信仰の統制を狙っているのです。

13年前のことです。時の東京都知事石原慎太郎は、狡猾にして残忍しかも傲慢な人物でした。その人物が、自分の「盟友」たちを教育委員として採用し、知事の意のままとなる教育委員会を作り上げました。こうして知事の意を受けた東京都教育委員会は、「学校の入学式や卒業式においては、全教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなければならない」「この命令に従わない者には懲戒処分を科す」という通達を出しました。悪名高い、「10・23通達」です。

日本の国旗とは「日の丸」、国歌とは「君が代」のことです。いろんな理由から、このハタやウタに敬意を表することはできない、という日本人はたくさんいます。政治的信条や、教員としての良心、そして信仰者としての立場などを理由とするものです。この通達は、そのような人々に、起立斉唱を強制し、踏み絵と同様の精神的苦痛を与えているのです。

教職員の多くは、国旗国歌に敬意を強制することには反対の立場です。国旗国歌は、人格の形成を目的とする教育の場にふさわしくないと思っているからです。しかし、このような多くの教員が、自らの信念に従って不起立を貫くか、それとも心ならずも起立せざるを得ないと屈するか、の選択を迫られるのです。

神は果たして、踏み絵の前で苦境に立たされた信仰者に「信仰を貫け」「踏み絵を踏んではならない」と命じるのでしょうか。それとも「許すから踏んでよい」と人の弱さを認めるのでしょうか。神の意思を忖度して悩むのは、生身の信仰者です。これによく似た問題が、東京の学校現場で現実化しているのです。

踏絵を強要した宗門改めの役人の人物像に、石原慎太郎の顔か重なります。人間の尊厳よりも為政の秩序を優先することにおいて、人の精神の自由の価値に対する理解のない点において、日の丸・君が代を強制して恥じない石原の罪は、絵踏を発明した役人の残忍さに後れを取るものではありません。

東京都教育委員会は、「日の丸・君が代」の強制に服しなかったとして、既に延べ474件の懲戒処分を強行しています。これは、人の良心に鞭を打つ行為というほかはありません。思想・良心・信仰の発露としての行為が制裁の対象とされているのです。それぞれの人の内面における思想・良心・信仰と,そのやむにやまれぬ発露としての不起立・不斉唱という外部行為とは分かちがたく結びついています。ですから懲戒処分は各人の行為だけではなく内面の思想・良心・信仰をも鞭打つものとなっています。

たとえば、このような実例があります。敬虔なクリスチャンである教員が、どうしても「日の丸」の前で起立して「君が代」を歌うことはできない、として繰りかえし懲戒処分を受けています。

この人の目には、「日の丸」とはアマテラスという太陽神の象形と映ります。この神こそは、国家神道の中心に位置する天皇の祖先神です。また、「君が代」とは、神なる天皇の御代の永続をことほぐ祝祭歌にほかならないのです。その宗教的な意味づけ故に、自らの信仰と抵触し、これを受容しがたいというのです。

東京都はこのような教員を容赦しません。懲戒処分を繰りかえしています。処分を受けた者には、再発防止研修という名の嫌がらせも繰りかえされているのです。

このような東京都の野蛮な行為は、思想・良心・信仰をあぶり出して、制裁を加えようというもので、400年前に発明された踏み絵の流れを汲む日本の為政者の傳統といわざるを得ません。

思想や良心や信仰が大切なものだとお考えの皆さま。東京都に対して、「オリンピックに取り組む前にやるべきことがあるだろう」「東京都の思想弾圧・宗教弾圧の体質をあらためるべきではないか」と、私たちとご一緒に是非声を上げていただくよう、お願いいたします。
(2016年3月27日)

東京は思想・信仰弾圧の野蛮都市だ。オリンピック開催都市として恥ずかしくないか。

安倍晋三は「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら呼んでいただきたい」と言った。私は、右翼も軍国主義者も大嫌いだ。しかし、保守政治家一般を毛嫌いしているわけではない。むしろ正統保守には、しかるべき敬意を払ってきた。舛添要一という人物にも、それなりの評価を惜しまない。石原慎太郎に比べては気の毒だが、あんなものよりずっとマシなのは確かだと思ってきた。

しかし、時に評価は揺れる。オヤオヤこれは見損なったかと思わざるを得ないこともある。たとえば、昨日(3月15日)の都知事定例記者会見。下記のURL映像をご覧いただきたい。
 http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160315.htm

全体で14時から14時22分までの短いものだったが、「週刊金曜日として取材のフリー記者」氏が質問している。知事は、この記者の質問をはぐらかすことなく答えている。質問と回答の全部の映像が公開され、文字情報としても起こされている。この透明性には好感が持てる。しかし、その回答の内容には、落胆せざるを得ない。舛添知事は、「日の丸・君が代」問題に関しては、何も知らない。部下から何も教えられていない。そして、何も考えようとしていない。

記者の質問のテーマの一つが、「日の丸・君が代」関連処分に関連する服務事故再発防止研修の問題だった。「過度の『研修』強要は、それ自体が思想・良心の侵害であり、イジメに等しい人権侵害ではないか」。それが、記者の問題意識だった。しかし、残念ながら知事はこの問題自体を理解できていない。さらに、記者とのやり取りの中で、「日の丸・君が代」強制問題に関する認識の浅薄さや、誤謬をさらけ出した。

関連の質疑応答部分を以下に摘記する。

【記者】知事の人権認識について伺いたいと思います。知事は昨年10月のヒューマンライツ・フェスタという人権を考えるシンポジウムに出席されまして、人権尊重都市東京とか、価値観の多元性の大切さということを説かれ、この記者会見の席でも同じ趣旨のことを何回か言われていると思います。それを踏まえて伺うのですけれども、…都立学校の卒業式、入学式の問題なのですが、不起立などの職務命令に違反した教職員に、再発防止研修というものが行われています。これは、なぜ不起立だったのかということを反省させるような研修でございまして、2015年度の場合は(一人の人に)6回も行われているのです。これはいじめのような、人権を侵害するものではないかと思うのですけれども。このことについて2004年には東京地裁が、『繰り返し何回も自分の非を認めさせるような研修を受けさせるのは違憲の可能性がある』という決定を出しておりまして、やはりこういう再発防止研修も、人権という観点から実態を調査していただいて、例えば、処分された先生に話を聞くというような、そういうお考えはないか、お答えをお願いします。

【知事】国旗・国歌の問題なのですけれども、これもいつもお話ししていますように、日本国憲法のもとにおいてきちんと制定された国旗・国歌の法律があります。したがって、それは法律違反をしていいということにはならないと思います。そこから先、どういう形でそれをやるかというのは、教育庁を含めての大きな方針だと思いますので、そこは、私は教育庁の方針でしっかりやってもらって、やはり教育の場にいる者が法律を平気で違反するというのはどうなのかと思うので。

【記者】そこをいつもおっしゃるのですが、国旗・国歌法というのは、起立しなければいけないとか、歌わなければいけないということは一切決めていないのです。単に日の丸を国旗にします、君が代を国歌にします、ということしか決まっていなくて、要するに強制するという法的な根拠はないのです。
 それで伺いたいのは、何回も何回も同じようなことを繰り返して、反省させるというあり方が、教育の場にふさわしくない、教師へのいじめではないかということなのです。

【知事】そこを何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。

「反知性の極右知事」から「知性豊かな学者知事」に代わって、事態は「強権強行の膠着」から抜け出て「対話による解決」への展望が開けるものと希望をもった。ところがどうも、「学者知事の知性」は買い被りだったのかも知れない。舛添知事は、思想・良心の自由にも、個人が国家をどうとらえるかという価値観の多元性も、行政の教育への支配の謙抑性にも、ほとんど関心をもっていないのだ。国旗国歌法というわずか2か条の法律にも目を通したことがない。「国旗国歌法には、『日の丸・君が代』強制を正当化する根拠条文が、何か書き込まれているに違いない」と信じているようだ。恐るべき権力者の無知である。

しかし救いは十分にある。舛添知事は性格的に傲慢ではないようなのだ。「(研修の名での呼出し嫌がらせ)を何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。」と謙虚に言っている。是非、誠実に調査してもらいたい。その上で、的確な判断による人権侵害の一掃を願いたいものだ。

実は、都教委は「思想転向強制システム」と呼ばれた処分の累積加重方式実行に着手していた。これは、毎年の卒業式・入学式のたびに繰り返される職務命令違反について機械的に懲戒処分の量定を加重する、おぞましい思想弾圧手法である。心ならずも、思想良心を投げうって起立斉唱命令に屈服し、「日の丸・君が代」強制を受容するに至るまで、懲戒処分は順次重くなり確実に懲戒解雇につながることになる。

最高裁は、さすがにこれを違法とした。以来、原則として減給以上の重い処分はできなくなった。すると、猛省しなくてはならないはずの都教委はこれに代わる嫌がらせとして、服務事故再発防止研修を強化し、繰りかえしの呼び出しという弾圧手法を編み出したのだ。この点についても、よく調査していただきたい。

さて、就任以来2年を経て、「日の丸・君が代」問題を何も知らない、知ろうとしない知事に、どうすれば「日の丸・君が代」に関心を向けさせることができるだろうか。その一つの手段として、東京オリンピックパラリンピックの機会の最大限利用があろう。大いにこのビッグチャンスを利用しなければならない。

知事は、オリンピックの実施にはことのほか熱心なようだが、オリンピック憲章には、次のような美しい文言が並んでいる。
「オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。」「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。」「スポーツの実践はひとつの人権である。」

人間の尊厳・人権・差別の解消・友情・連帯・フェアプレー…。まさか、東京の教育現場が偏狭なナショナリズム強制の場となり、400年前のキリシタン弾圧と同じ思想・良心弾圧が行われていようとは。オリンピックのために来日する世界の人々が、知れば驚くことになるだろう。

東京オリンピック・パラリンピックは、東京都教育委員会の強権的愚行を世界に訴える絶好のチャンスである。知性ある世界の人々に、日本の首都東京で、愛国心涵養教育の名のもと、「日の丸・君が代」の強制が行われ、既に474件もの懲戒処分が行われていることを広く知らせよう。最高裁が、一定の歯止めをかけているのに、都教委の教員に対する人権侵害はいまだに終息しないのだ。

東京は、思想良心の自由を圧殺する野蛮都市である。価値観の多様性を認めず、「日の丸・君が代」強制を強行している思想・信条・良心・信仰の弾圧都市である。「日の丸」とは、ナチスのハーケンクロイツと同様の、皇国日本の全体主義と軍国主義のシンボルである。「君が代」とは、神である天皇統治の永続を願うアナクロニズムの象徴である。キリスト教徒やイスラム教徒にとって、その斉唱の強制は苦痛きわまりないのだ。現実にすくなからぬ教員が、自分の信仰ゆえにこの歌を歌えないとして処分を受けている事実を知ってもらいたい。

日本の民主主義も人権意識も、この程度のものなのだ。東京オリンピックに集う各国の人々に、オリンピック期間中に氾濫する「日の丸・君が代」が、東京都の全教員に強制されるという異常な事態であることをよく認識していただきたい。世界の知性と国際世論で、東京に抗議の声を集中していただきたい。思想・良心・信仰の自由、人権という普遍的な価値のために。
(2016年3月16日)

オリンピック「政府は支援するが、干渉してはならない」

今年(2016年)は4年に一度の閏年で、オリンピックイヤーにあたる。8月5日がリオデジャネイロ五輪の開会式。このところ、問題ばかり多くて盛り上がらないオリンピックだが、ビッグイベントであることに疑いはない。巨額のカネが動き、国家の威信がこれ見よがしに喧伝される。騒々しいまでの商業主義とナショナリズムの祝祭である。

寡聞にして知らなかったが、そのリオの五輪にクウェートが出場停止処分を受けているという。そして、インドも危ないという。我が国では大きな話題になっていないが、興味をそそられる。

1月14日「ロイター・時事」が次の記事を配信している。
「クウェート政府は、今夏開催されるリオデジャネイロ五輪の参加を国際オリンピック委員会(IOC)から差し止められた問題で、クウェート・オリンピック委員会を相手に巨額の賠償を求める訴訟を起こした。IOCは、同国政府のスポーツ界への干渉が五輪運動の妨げになることを理由に、昨年10月に資格停止処分を決めた。」

この報道だけでは何のことだか分からない。とりわけ、なぜ政府が国内オリンピック委員会を訴えているのか見当もつかない。しかし、「IOCが昨年10月にクウェートの五輪参加資格停止処分を決めた」ことだけは、間違いなさそうだ。

本日(1月24日)の「朝鮮日報日本語版」寄稿記事が、その理由に触れている。そして、インドも危ない。韓国も気をつけねばならないと警告を発している。各国政府のオリンピック憲章違反への警告である。これを読むと、日本だって大いに危ういのではないだろうか。

その寄稿のタイトルは、「韓国もリオ五輪から追放されかねない」というもの。寄稿者は「イ・ダルスン」なる人物。「ハロースポーツ発行人(元KOC常任委員)」の肩書が付されている。知らない人だが、「朝鮮日報」掲載記事なのだから信頼に足りるのだろう。

これによると、IOCの対クウェート処分は、「国際サッカー連盟(FIFA)が昨年10月『クウェートが法律改正を通じ、政府がスポーツ行政に介入できるようにした』として、資格停止処分を下した」ことがきっかけだという。
なお、「クウェートは2010年にも、政府が自国の五輪委員会委員長などを直接選任したことが問題になり、国際オリンピック委員会(IOC)から懲戒処分を受けている」という。

要するに、政府のオリンピックへの介入が、今回の出場停止の理由なのだ。政府が各国オリンピック委員会(NOC)委員長を直接選任するなどは、不当な介入の典型行為というわけだ。クウェートが今年のリオデジャネイロ五輪に出場できないだけでなく、「さらにインドもクウェートの二の舞になる可能性が出てきている」という。

「このようにIOCは、サッカー・ワールドカップ(W杯)やアジア大会に至るまで、オリンピック憲章やIOCの指針に反するスポーツ行政に対し、強大な権威をもって容赦ない懲戒処分を下している。」

オリンピック憲章は「政府は支援はしても、干渉はしない」としており、国際スポーツの潮流は「スポーツ団体の主体は、非政府の純粋な民間による自主・自立団体でなければならない」というもの。そのように、寄稿は力説している。

ところが、韓国で新たに制定された「統合体育会定款」なる規定が、文化体育観光部(日本の文科省に当たるもの)長官が承認する項目が24もあることを問題視している。これは憲章違反になりかねないという。「韓国にも今年のリオ五輪に出場できなくなる危機が迫ってこないという保障がないわけではない。この事態の深刻さを、政府やスポーツ指導者たちは見過ごしている」と警告されている。

私は、IOCにこんなに厳格に憲章を守ろうという姿勢があろうとは思ってもみなかった。「国際サッカー連盟(FIFA)の幹部連中はカネまみれだった。IOCだって同じ穴のムジナだろう」というのが私の認識。IOCは多面的な顔を持っているということなのだろう。

国民は選手団のメダルの色と数には関心をもつが、五輪の理念にも憲章にも、組織原則には関心を持たない。報道もなく、ほとんど無知である。今回の競技場建設とエンブレム問題で、巨額のカネが動くことに唖然としているだけの状態ではないか。

寄稿者は、こう言っている。
「韓国の統合体育会の定款は、あたかも体育会が政府傘下の公営企業のような錯覚を覚える。統合体育会の結成を推進した政府や国会、スポーツ指導者たちは、国際スポーツの潮流を全く知らないでいる。推進委員たちはできるだけ早く、このような事実からまず確認し、国際スポーツ界からつまはじきにされることのないよう、対策を急がなければならない。」

日本とて、事情はまったく同様ではないか。官民一体というよりは、政府が主導する東京五輪には、落とし穴が待ち受けてはいないか。

オリンピックは、既にぎらつく商業主義に汚れている。それだけでなく、国威発揚の舞台となり、ナショナリズム高揚の機会とされている。どこにでも国旗が掲げられ、幾たびも国歌を聞かされることになるだろう。しかし、実は政府介入は五輪憲章違反ということなのだ。

オリンピック憲章が「政府は支援はしても、干渉はしない」としていることは、政府と教育の関係によく似ている。政府(自治体)は、教育条件整備の義務を負うが、教育の内容に介入してはならない。権力とは、そのような自制を求められるのだ。

アベ晋三の「福島原発の汚染水は、完全にブロックされ、コントロールされている」という大ウソから始まった東京オリンピック。攻めて静かにやってくれ。うっとうしく押しつけがましいことはやめていただきたい。国威の発揚やナショナリズム涵養への利用は御免こうむる。それが遵守できないなら、むしろ日本の出場停止処分を期待したい。
(2016年1月24日)

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