澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

オーイ、藤原くん。アベ晋三じゃダメだ。

藤原寛一君は、小・中・高を通じて一緒に育った友人。学校生活だけでなく寮生活もともにした仲。高校時代は同じクラブ活動の仲間でもあった。とはいえ、同じ境遇で育って、同じ時代を生きてきても人は同じようにはならないのが面白い。彼からは、ときどき私のアベ批判の口調のとげとげしさをたしなめるメールを頂戴する。彼は、私と違ってアウトドア派の趣味人である。山や花や小鳥の四季をみごとに切りとった写真をネットに掲載し続けている。以下が、彼の自己紹介。

自然が大好きな自由人。山野草の撮影にドップリ。蝶ならぬ私が、花から花へカメラを手に飛び回っています。ホームグラウンドは大阪府・奈良県をまたぐ「金剛山」(1125㍍)。日本100高山のうち39座に登っています。

https://botibotihuu.jimdo.com/

http://kkfuji.exblog.jp/

http://www.h6.dion.ne.jp/~kk-fuji/

その彼が、定年以来、「人生下り坂。どこに向かうもとても楽」と言い続けている。なるほど、「とても楽」が自由人の心境なのだ。うらやましい限りである。

ところで、「人生下り坂」と観念すれば、「とても楽」であると同時に、いまが一番高みにあることにもなる。いまが、できることが多いのだから、今のうちにやっておこうということになるのではなかろうか。

風情のない話に転じるが、おそらくはアベ晋三も「下り坂」の心境なのだろう。もう少し正確に言えば、「ジリ貧」の認識。ジリ貧なら、早いうちにできることはやっておこう。いまの解散が、傷を最小にとどめる良策だとなる。

野党の態勢の不備を見すかし、これに付け込んで、「いまがチャンス」と見たのだろう。公平で正確な主権者の判断を仰ごうという謙虚さは微塵もない。選挙民の判断材料を隠して、とにもかくにも選挙に勝つこと最優先。勝ちさえすれば官軍でいられるというゲスの根性。その人柄がとうてい信用できないということそれ自身を神無月総選挙の重要な判断材料としなければならない。

一方、トランプも同じではないか。アメリカが北朝鮮に対して、軍事的な絶対優位にあることは疑うべくもない。しかし、相対的な優位度はいま縮まりつつある。これも、トランプの目からは、「下り坂=ジリ貧」と見えているに違いない。

危険なのは、「開戦するなら早ければ早いほど有利」「開戦の機は、相対的優位が最大のいま」という判断になりかねないということだ。

軍事力においては、ドーベルマンとチワワにたとえられる両国の関係。チワワがどう吠えようとも、ドーベルマンに噛みつくまですることはあり得ない。しかし、アメリカが「いまのうちに北朝鮮をたたきつぶしておこう」と考える余地あることは否定し得ない。いまなら、北は米本土への核報復の能力を持っていない。「叩くなら、今のうち」ということはありえない判断ではない。

もちろん、北朝鮮は韓国に対する瞬時の報復能力を持っている。日本国内の米軍基地に対してもだ。楽観的に、アメリカが同盟国を火の海にしかねない危ない選択をするはずはない、と信頼してよいだろうか。もしやアメリカは、「いまなら、戦争の火の粉は、同盟国に降りかかっても、アメリカ本土は安全」「ならば、いまこそ行動の時」と考えはしまいか。

トランプの昨日(9月19日)の国連演説。「米国は大いなる強さと忍耐力があるが、米国と同盟国を守らなければならない時、北朝鮮を完全に破壊するほか選択肢はない」「米国はその準備ができているが、できれば(軍事的行動は)必要でないことを望む」という一節は不気味この上ない。

トランプのテーブルにあらゆる選択肢があるわけではない。軍事オプションは、韓国の国民、日本の国民が許容するところではない。まずは、ドーベルマンに対して、「チワワに噛みついてはならない」と国際世論を喚起しなければならない。窮鼠でさえ猫を噛む危険な存在。噛みつかれたチワワも、近隣諸国民には危険この上ないのだ。

その上で、北朝鮮の瀬戸際政策をも強く批判しなければならない。そうして、国際世論の圧倒的な圧力によって、当事国双方を、時の氏神や近隣諸国をまじえて対話のテーブルに着ける以外にこの危機を解決する方法はない。

トランプに続いて、アベ晋三も国連で対北朝鮮政策を演説するという。伝えられるところでは、トランプへの全面追随で、北朝鮮に対する制裁圧力一辺倒の内容だとか。彼の眼中には、ご主人様トランプ政権だけがあって、韓国や日本の国民の安全はないのではないか。

オーイ、藤原くん。アベ晋三じゃダメだ。安心して「花から花へカメラを手に飛び回って」おられるように、もう少しマシな政権に取り換えようぜ。
(2017年9月20日)

臍を噛むまい。「憂しと見し世も 今は恋しき」と。

永らへば またこの頃や しのばれむ
 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

百人一首でおなじみの藤原清輔の詠。『新古今集』から採られているそうだが、これは恐い歌だ。希望のない、絶望の歌。この頃そう思う。

この先もっと長く生きていて、憲法の理念が輝く民主的な時代を見ることは、どうやらできそうもないようだ。改憲を唱える反動勢力が跳梁するひどい時代と思っている今日この頃だが、この先になって思い返してみると今の時代が懐かしく思い出されてくることになってしまうのだろう。「ああ、あのときはまだマシだった」と。いま、振り返ってみれば、あのときにはムチャクチャだったと思っていた昔の日々も、今に較べればまだマシだったと恋しいほどに思い出されるのだから。きっと同じことが繰り返されるに違いないのだ。

この歌に貫かれているのは徹底した厭世観だ。世の中、今日より明日がよくなるはずがない。これまでも、どんどん悪くなるばかりだったのだから。一昔前に比べて今はなんとひどいことになっているのだろうか。何年か経って、一昔前となったこの頃を振り返ってみても、今よりよくなっていようはずはない。

驚いたのは、ブッシュ大統領親子が共同して、トランプ批判の声明を出したことだ。トランプのやり方が生温いというのではない。その人種差別主義の言動を真っ向から批判している。あのブッシュ親子にさえ、乱暴で非人権的と批判されているのが超大国アメリカの現政権なのだ。悪しきポピュリズム、反知性主義、排外主義、アメリカの独善。あの当時には、「ひどい」、「最悪」と思われたブッシュでさえ、「今は恋しき」対象なのだ。

アメリカだけではない。日本も同様なのだ。55年体制確立以来、自民党政権は長期低落傾向にあった。弥縫を重ね公明党を抱き込み、何とか延命を重ねた自民党。長く、事実上は改憲をあきらめていた。それがどうだ。安倍晋三という、改憲執念勢力の代表各が首相におさまっている。あの当時は、金権、反動、最悪と思われた田中角栄も、中曽根康弘も、「今は恋しき」ではないか。

そして都政だ。石原慎太郎時代には、こんな保守反動の知事は空前であるばかりでなく絶後だろう、と思ったものだ。しかし、どうもそうではなさそうだ。小池百合子都政は、明らかに猪瀬・舛添時代以下だ。もしかしたら、石原時代よりもひどいことにもなりかねない。その理由は、知事子飼いの政党が議会の第一党になっているからだ。それだけではない。石原慎太郎が筋金入りの右翼で、排外主義者で、差別主義者だったことは天下周知のことだった。ところが、小池百合子がなにものであるかについては、よく知られていないという事情もある。

ようやく、大手メディアが小池批判をするようになってきた。本日(8月21日)の毎日「<政治団体>日本「ファースト」どこへ 米国第一のコピペ?」という記事はその典型だろう。

記事の書き出しは、「小池百合子東京都知事の側近、若狭勝衆院議員が設立した政治団体『日本(にっぽん)ファーストの会』が揺れている」というもの。
識者のコメントを連ねる手法で、「『アメリカ・ファースト』とうり二つ 排外主義連想の指摘も」とし、「東京都議選で都民ファーストはいきなり第1党に躍り出た。」「利益誘導型の旧来の自民党政治が顔を出して無党派層の不満が高まるなか、小池氏はポピュリズムをうまく利用し、民進党に代わって『受け皿』になった」「日本ファーストは近隣諸国からどうみられるか。排外主義を連想するなという方が無理だ」「政策決定者である私が決めた。文書としては残していない。『情報公開は東京大改革の一丁目一番地』と言いながら、結局は『自分ファースト』だった」。若狭氏は7月9日の報道番組で新党のスタンスとして「憲法改正が必要というのは共通している。安倍さんとあえて対立構図を作ることはない」と述べた。「自民党との本質的な違いは見えにくい」。

慎重な言い回しだが、「小池百合子を警戒せよ」「小池百合子にだまされるな」という警告である。安倍晋三、橋下徹、小池百合子などのポピュリストに警戒せよ、だまされるな、ということでもある。

私は、心底心配せざるを得ないのだ。安倍晋三のごとき知性に欠けた反文明人の利己主義者を長く首相に据えておく、「この頃」の世の雰囲気についてである。民主主義運用の難しさについてということでもある。もう少し先になって、「素晴らしい憲法だったと悔やむ日が」(8月21日万能川柳欄・浜松よんぼ)としてはならない。「あの頃に世を憂しと見しは、杞憂なりしか」と詠う日が来なければならない。漫然と待つのではなく、その日が来るように努力を重ねなければならない。それは、可能なはずなのだから。
(2017年8月21日)

国際紛争の解決は、武力の威嚇によってではなく、対話によって。

人と人とが争いなく共存することはこんなにも難しいことなのだろうか。

有史以来、人と人とは、あるいは集団と集団とは、生命と種を維持すべく、本能の命じるままのあらゆる欲望の衝突の場面で過酷に争ってきた。が、また一面、人と人とは、生命と種を維持すべく共同体を形成して支えあってもきた。

文明の進歩とは、人と人との争いの契機を小さくし、やがてはなくすこと。これに代わって共同の契機に基づく社会を形成していくこと。そうには違いないのだが、問題は、このあるべき進歩がけっして必然とは言い難いことなのだ。

人は、食料を求め、土地を求め、生産手段を求めて争い、富と財貨を奪い合い、互いに権力的支配を争奪し、信じる神の正統性でも、正義の解釈でも争ってきた。その争いの究極の形が戦争である。戦争の規模とその残酷さは、歴史を経るにしたがって大きくなり、今や人類を滅ぼそうとさえしている。

近代の人間の理性と叡智は戦争を違法化する試みを営々と続け、大戦間の国際連盟や不戦条約、そして第二次大戦後の国際連合を生み出した。さらに、わが国は、15年にもおよんだアジア太平洋戦争の惨禍に対する真摯な反省と不戦の決意の中から日本国憲法を生み出した。日本国民は、戦争による廃墟のなかから、人類の叡智の正統なる承継者として、今後いかなる局面になろうとも、再びの戦争を避け、武力の行使や威嚇を紛争解決の手段とはしない旨を宣言したのだ。

いつ、いかなるときも、この恒久平和の理念を揺るがせにしてはならない。とりわけ好戦的な政府が戦争や軍備への誘惑を語るとき、国民は断固として平和の声を上げなければならない。

国防の必要は、常に邪悪な敵を想定して煽られてきた。かつては、暴支膺懲であり鬼畜米英がスローガンであった。手前勝手に、他国の領土を日本の生命線などと称して、これを守るための自存自衛の戦争の必要が語られた。

戦後は、長く暗黒のソ連や共産中国が仮想敵国であった。そして今、その地位は北朝鮮が担っている。北への不安や恐怖の煽動に乗せられて、恒久平和主義を揺るがせにしてはならない。このようなときにこそ、軍備もその行使も、紛争解決の手段とはなり得ないことを冷静に再確認すべきではないか。

日本国憲法前文は、こう宣言した。「日本国民は、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。決意した、とは中途半端な言葉ではない。あらゆる知恵を使い、勇気をもって、武力によらない平和の追求に徹するとの国家方針を決断したのだ。今ごろになって、オタオタしたり、びくびくすることはない。

子どものケンカも、暴力団の抗争も、国家間の諍いも、基本の構図においてさしたる変わりはない。口ゲンカの応酬が殴り合いになることも、小競り合いが不測の本格的な衝突に発展することもある。見栄を張っての強がりが引っ込みつかなくなって乱闘になることもありがちだ。金正恩とトランプの舌戦も、危険なことに間違いはない。

現実的な選択肢として、わが国のなし得ることとして武力の威嚇も行使もあり得ない。なによりも、米朝両国の危険なチキンゲームをやめさせなければならない。紛争当事者同士が話し合うのが解決の手段だが、なかなか当事者だけではできない。こういうときに、時の氏神としての仲裁者の登場が期待される。

仲介者たりうるのは、国際機関であるか、当事者双方に信頼と敬意をもたれる第三国である。仮に、日本が憲法を忠実に守って自衛隊も安保もない戦後を経験していたとすれば、そのような権威があったろう。しかし、まことに残念ながら日本にはそのような資格がない。国連か、ヨーロッパのどこかか、あるいはロシヤか中国か。対話の仲介に名乗りを上げたらどうだ。

報道によれば、ドイツのメルケル首相が、ドイツの役割について「軍事的な分野ではないところで、ドイツも問題の解決に向けて積極的に関わっていく」と述べている。アメリカ国内でも、米朝2国間の直接対話を望む多くの声があがっている。

日本国内でも、「軍事的対決を避けて対話を」「2国間の直接対話を」「対話の仲介者よ、出でよ」という世論を喚起すべきだ。わが国の政府は、アメリカの傘の下にあって、トランプの威を借りることしか能がない。いたずらに、「北朝鮮=挑発者」の構図から一歩も出ることが出来ない。だから、政府ではなく、憲法九条を持つ国の国民こそが、武力に拠らない紛争の解決に声を上げようではないか。
(2017年8月14日・連続第1597回)

愚かな大統領と、敬すべき自治体警察と。

「トランプ発言」新たな火種 容疑者に「甘くなるな」 警官に粗暴行為奨励か

昨日(8月2日)「毎日」夕刊8面右肩の記事。この見出しだけだと、「愚かな大統領の新たな愚行」の報道というだけに見えるが、実はそうではない。ときどき、愚かな大統領と対比しての、敬すべきアメリカに感心させられることがある。当然のことだが、愚劣な大統領を支持しているだけがアメリカではない。これを毅然と批判するアメリカの奥深さがあるのだ。主としては、そのことの報道となっている。

リードは以下のとおり。
【ワシントン高本耕太】トランプ米大統領が警察官らを前にした演説で、犯罪容疑者に「甘くなり過ぎるな」と粗暴行為を奨励するような訓示をした。各地の警察組織から「適正な法執行の精神に反する」と反発の声が上がったのに対し、サンダース大統領報道官が「大統領は冗談のつもりだった」と釈明し、批判の火に油を注いだ。背景には、警察による市民への暴力事案が後を絶たない米国社会の現状がある。

愚かな大統領は何と語ったか。
トランプ氏は7月28日、ニューヨーク州を訪問し、ラティーノ(中南米系)ギャング「MS13」摘発にあたる州や自治体警察官らを激励した。演説でトランプ氏は「あなたたちは凶悪犯を護送車に乗せる時、頭をぶつけないよう手を添えたりする」と身ぶりを交え説明。「殺人をするような犯罪者だ。お願いだからそんなに気を使わないでくれ」と語った。

この愚劣な男の脳裏には、人間の尊厳も、文明が築き上げてきた刑事手続の原則も、司法警察本来のあり方などの理念はない。犯罪者を生み出す社会の責任も、犯罪を減らすための政策もかけらすらない。あるのはひたすら「ここでどう言えば、民衆に受けるだろうか」というさもしい根性だけ。これがポピュリズムなのだ。

おそらくは、トランプはこう考えた。「犯罪者の尊厳を語っても、民衆に受けるはずはない」。「むしろ、『憎むべきギャングに容赦するな』と語ることで、自分の本来的支持者からも、警察関係者からも喝采を浴びることができるに違いない」「そうすることが、危うい大統領としての地位を固めることになる」。ポピュリスト・トランプのことだ。こう忖度して間違いはない。

ところが、この演説への反応は、予期に反するものとなった。
この発言に対し、南部ルイジアナ州のニューオーリンズ市警は声明で「大統領の発言は、法にのっとった警察活動や地域社会との連携とは対極のものだ」と批判。西部オレゴン州のポートランド市警は公式ツイッターに「我々は、容疑者であっても尊厳と敬意を込めて対応する」と表明した。

これは、驚くべきことではないか。日本のアベ首相は、法の支配や民主主義の理解度において、トランプとは兄たりがたく弟たりがたい。そのアベ発言に対して、警察や自治体が公式に批判することが考えらるだろうか。しかも、批判の根拠は「法の支配」「個人の尊厳」「基本的人権いう文明社会の根源的原理に則ったものであり、この批判の真っ当さに反論すべくもない。

31日の記者会見で大統領の発言の真意を問われたサンダース報道官は「ジョークのつもりだった」と答弁。さらに波紋が広がった。

最初のボタンの掛け違いをごまかそうとすると、このように波紋を広げることになるのだ。トランプの愚劣な発言を糊塗しようとして、大統領府全体が批判の対象となった。毎日は、この経過に続けて、次のような背景事情と波紋をこう解説している。

首都ワシントン近郊の東部メリーランド州ボルティモアでは2015年、警察に拘束された黒人男性が護送車で移送される間に脊髄を損傷し死亡する事件が発生。抗議デモが暴動に発展した。その他にも米国では黒人らに対する警察官の過剰な行為や差別的な扱い、射殺事件が相次ぎ、社会問題になっている。
ワシントン・ポスト紙は31日、「警察暴力はジョークではない」との論説記事を掲載。「警察が『法を超える存在』となり社会からの信頼を失えば、地域の安全を守ることは困難になる」とトランプ氏の発言を非難した。

アメリカの民主主義や分権主義を侮ってはならない。なかには、その理念を体現するホンモノもいるのだ。

それだけではない。被疑者の人権を尊重しなければならないという実務的要請は、安永健太さん事件が教えている。容疑者に手荒に接することは、ときに不幸な市民の命を奪うことにもなるのだ。下記の当ブログ(2017年7月10日)を参照願いたい。

http://article9.jp/wordpress/?p=8830
2007年9月25日、安永健太さんは自転車に乗って障害者作業所から自宅に帰る途中で、不審者と間違われ、警察官から後ろ両手錠を掛けられ、5人もの警察官にうつぶせに取り押さえられて心臓突然死をしてしまいました。
健太さんには中等度の知的障害を伴う自閉症スペクトラム障害があり、コミュニケーションが難しいという特性がありました。健太さんは警察官と相対していた時も、「アーウー」としか言葉を発していなかったそうです。しかし、警察官は誰一人として健太さんに障害があることに気づきませんでした。
家族は健太さんが死んでしまった原因を知りたいと思い、刑事裁判で健太さんを取り押さえた警察官の刑事責任の追及をするとともに、民事裁判(国家賠償請求訴訟)として健太さんを死亡させたことの損害賠償を佐賀県に求めました。
しかし、刑事裁判では健太さんを取り押さえた警察官は無罪となり、民事裁判でも、佐賀県の責任は認められないまま、裁判は終わりました。(「考える会」のパンフレットより)
(2017年8月3日)

ジョン・マケインの至言ー「意見は異なっても相手に敬意を」

トランプ政権によるオバマケア潰しを阻んだ人物として、共和党のジョン・マケイン議員(アリゾナ州)が話題となっている。

民主党政権が成立させたオバマケア(「アフォーダブル・ケア・アクト」)に代わる法案の本命として、トランプ・共和党は「ヘルスケア・フリーダム・アクト」を提案して、下院は通した。そして、自信満々で上院の採決に持ち込んだが、7月28日否決に至った。満身創痍のトランプ政権に、また一つ深い傷が付け加わった。

上院の議席は各州2で100議席。その票決は、賛成49対反対51だった。その差わずか2票。反対票51の内訳は、民主党46、無所属3。これだけでは共和党の51議席にはおよばない。共和党からの2票の造反が採否を逆転させた。「ご意向」・「忖度」の程度を超えた、政権中枢や党幹部からの説得・圧力に屈しなかった2人のうちの1人が、ジョン・マケインである。彼は最近脳腫瘍と診断され闘病中と報道されていた。にもかかわらず、政治家としての存在感を見せた。

ジョン・マケインといえば、2008年大統領選挙で民主党オバマ候補の対立候補として接戦を演じたことが記憶に新しい。そのとき、生粋の軍人であること、戦闘機パイロットとしてベトナム戦争のヒーローであったことなどを知った。しかし、今、そのマケインがアメリカで再び尊敬を集めているという。もちろん、トランプとの対比においてである。

ベトナム戦争で彼は何度も死線をくぐっている。そして、撃墜されて重症を負い、さらにパラシュート脱出後民衆に殴打されて捕虜になり、5年に及ぶ過酷な捕虜生活に耐えたという。しかも、彼には早期釈放が提案されていた。マケインの父親(ジョン・S・マケイン・ジュニア)はアメリカ太平洋軍の司令長官となり、ベトナム戦域すべてを指揮する立場となった。それに伴ってのベトナム側からの釈放提案であったという。ところが彼はこれを拒否した。アメリカ合衆国軍の行動規範に”first in, first out”というものがあるそうだ。「自分より早く捕虜になった者がすべて釈放されるなら受け入れる」というのが、彼の拒否理由だった。

ベトナム戦争におけるアメリカの責任について免罪するつもりは毛頭ない。マケインも責任を分有しなければならない。しかし、廉潔や公平、自己規律という視点からは、自ずと別の評価が可能であろう。アメリカ軍の中にも、こういう人物はいるのだ。

そのマケインについてのもう一つの最近の話題が、2008年選挙集会でのある動画だという。彼が、民主党対立候補のオバマ候補を擁護した際の態度の公平さ、真摯さが、あらためて今、人々の称賛を集めていると報じられている。

その動画は、08年10月に中西部ミネソタ州でマケイン氏が開いた対話型集会の様子を映したもの。女性支持者が「オバマは信用できない。彼はアラブ人だ」と発言した。当時、支持者の中ではオバマ氏が過激派テロリストと関係しているなどの中傷が流布していた。マケイン氏は首を振りながら女性のマイクを取り上げ「違います。彼は家族を愛するまっとうなアメリカ市民です。彼と私はたまたま基本的な事柄について意見が異なるだけです」と諭した。

マケイン氏はその後も、会場の共和党支持者からブーイングを浴び続けながら「オバマ氏が大統領になっても恐れる必要はない。この国の政治は相手への敬意が基本だ」などと語った。

今月(7月)19日に脳腫瘍の診断を発表したマケイン氏に対し、共和、民主両党から早期回復を願う声が寄せられている。オバマ氏はツイッターで「マケイン氏は米国の英雄で最も勇敢な闘士だ。誰と戦っているのか、がんは分かっていない。ぶっ飛ばしてやれ」とエールを送った。(以上、「毎日」からの引用)

「彼と私とはたまたま意見が異なるだけです」「意見は異なっても、相手への敬意が基本」とはなかなか言えることではない。選挙という修羅場の中で、現実にそう言ったことで、マケインはいま尊敬を集めているのだ。

トランプとの比較もあろうが、「政治の私物化」「えこひいき」「隠蔽」「嘘つき」等々の非難の中、保身に汲々とするのわが国の政権にも、このような爽やかさがほしい。もっとも、尊敬すべき保守ほど手強い相手はいない。安倍政権の爽やかならざる隠蔽・嘘つき体質は、僥倖というべきなのだろう。
(2017年7月30日)

今の日本は、世界の良識に反人権・反国際協調の国と映っている。

野蛮なトランプが、パリ協定からのアメリカ離脱を表明した。この歴史的愚行の傷は深い。「愚かなアメリカ」「手前勝手なアメリカ」「国際倫理をわきまえぬアメリカ」「ごろつきアメリカ」の刻印が深い。かつてのアメリカの威信回復は、もはや不可能かも知れない。あんな大統領を選出した、アメリカの「デモクラシー」の質が問われている。さて、振り返って日本はどうだろうか。こんな首相を権力の座から引き下ろすことのできない日本の「民主主義」は、アメリカと兄たりがたく弟たりがたい。

アベ政権は、参勤交代よろしく発足直後のトランプに擦り寄って、アメリカとの価値観の共有を強調して見せた。なるほど、野蛮で知性に乏しい、似た者同士。さて今後、両者の関係はどうなることやら。

「デンデンのアベ」に代わって、「ミゾユウのアソウ」が、えらそうにコメントした。
「もともと国際連盟をつくったのはどこだったか。アメリカがつくった。それでどこが入らなかったのか。アメリカですよ。その程度の国だということですよ。」

「この程度の政権」の副総理であるアソウによる、「その程度の国」への批判の言。だが、忘れてはならない。1933年3月、国際連盟脱退という愚挙を犯して国際的孤立化への道を歩んだのが、ほかならぬ日本だった。その程度の国だったのだ。

そしていま、日本は確実に国連との軋轢を拡大しつつある。世界の良識に背を向けつつあることにおいて、連盟脱退の時代に似て来たのではないか。これ以上再びの孤立化への危険な道を歩んではならない。

まずは、シチリア島におけるアベとアントニオ・グテーレス国連事務総長との懇談内容公表問題。日本側の公表内容を国連報道官側が否定した。国連側に、日本の公表内容は我田引水に過ぎるとのニュアンスが感じられる。問題となったテーマは、極めて重要な2点。「慰安婦問題に関する日韓合意評価」と、「『共謀罪』への懸念を表明した国連特別報告者の地位」に関するもの。

アベも、自分の都合のよいことについては、国連の権威を利用したいのだ。そこで、「安倍総理から慰安婦問題に関する日韓合意につき,その実施の重要性を指摘したところ,先方(グテーレス国連事務総長)は,同合意につき賛意を示すとともに,歓迎する旨述べました。」と発表した。しかし、国連側はこれを否定した。「(事務総長は、)慰安婦問題が日韓合意によって解決されるべき問題であることに同意した」が、「事務総長は、特定の合意内容については言及していない」、「問題解決の方向性や内容を決めるのは日韓両国次第だという原則について述べた」だけだという。

また、日本側は「(事務総長は、)人権理事会の特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は、必ずしも国連の総意を反映するものではない旨述べました。」と発表した。しかし国連側は、「事務総長は安倍首相に対し、(人権理事会の特別報告者とは、)国連人権理事会に直接報告する独立した専門家であると述べた」という。

日本側は、反論しているようだが、無駄だし無意味だ。懇談の席でどう話されたのかが問題ではない。いま、オープンな場で、事務総長が日本側の公表内容を否定していることが重要なのだ。アベが深追いすれば、みっともなさの傷は深くなるばかり。

次に、デービット・ケイ報告問題。国連人権理事会の特別報告者であるこの人。担当は、表現の自由だ。昨年来日して、日本における言論の自由状況を精力的に調査して、深い懸念を表明した中間報告書を作成している。特定秘密保護法問題、担当大臣の停波発言等報道の自由の萎縮、そして教科書検定のあり方など問題とされた内容は具体的だ。この人の報告に接して襟を正さなければならない政権が、逆ギレしてしまっていることが異常な事態である。

さらに、プライバシー担当のジョセフ・カナタチ特別報告者の共謀罪に関するコメント。首相宛ての書簡が話題を呼んでいるが、政府は自らの姿勢を反省する姿勢はさらさらなく、抗議に及んでいる。国連の言うことなど聞く耳もたないという如くである。

そして、思い起こそう。世界の潮流が反核に動いているこのときに、被爆国日本が、核兵器禁止条約に反対の立場を鮮明にしていることを。日本政府は、核兵器禁止条約への交渉不参加を表明して実行している。国連の圧倒的多数国が、6月15日から7月7日まで、後半の交渉スケジュールで核兵器禁止条約を作り上げる交渉の予定だが、ここに日本政府が姿を見せることはない。

他国から日本政府の行動を見たら、日本は反人権国であり、反国連・反国際協調主義の国柄と映るだろう。そして、原水爆禁止にもまったく熱意のない国であるとも。
世界からこのように見られている日本が共謀罪を成立させれば、そして9条改憲を実現させれば、国際社会は1933年の過ちを再び繰り返す日本を想起することだろう。アベ内閣自身が、そのような「印象」をもたれるよう、せっせと「操作」を積み重ねているのだ。
(2017年6月4日)

北朝鮮を、暴発にまで追い込んではならない。

誰もが思うことでも、口にすることをはばかることがある。誰もは思わないことなら、なおさらである。

その典型の一つは、権力批判である。政治的あるいは経済的・社会的な権力者を批判すると、回りまわって何らかの報復を受け、不利益を被ることになる恐れがある。だから、権力者への批判は、口にすることをはばかられるのだ。痛烈な批判であればあるほど、である。

もう一つの典型は、権威の批判である。天皇や天皇制に関わる言論がその最たるものだろう。権威とは、社会的多数派による特定の人物や事象に対する敬意や神聖性の承認を強制する圧力のことである。社会的排外主義が、すべからく権威の批判者を攻撃目標とする。だから、権威への批判は、口にすることをはばかられるのだ。痛烈な批判であればあるほど、である。

保身を前提とする限り、権力批判も権威批判も、慎むべきが正常な平衡感覚を持つ者の合理的な判断と言ってよい。ゴマを擂ったり、忖度しての阿諛追従まではせずとも、口を慎み沈黙すべきが常識人の処世術にほかならない。

「口は禍の元」「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」「大きなものには呑まれろ」「敬して遠ざけよ」「さわらぬ神に祟りなし」と、その手の教訓は世に満ちている。それだけではない。「和を以て貴しと為す」「逆らうことなきを旨とせよ」との書紀の記述以来、従順なる沈黙は道徳の域にまで高められ、権力や権威に対する批判は慎むべきが美徳として染みついているのがこの社会の伝統である。メデイアもこの伝統をよく身につけ、権力者とはともに寿司を食い、天皇には「陛下」と呼んで畏まり、歌を忘れたカナリアとなっている。

我が国のメデイアの自由度の国際的なランク付けが、昨年(2016年)は対象180カ国・地域のうちの72位とされたのは、情けないながらも、さもありなんというべきだろう。国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は今年も、もうすぐランキングを発表する。日本が、昨年よりもランキングをあげているとは到底考えがたい。

さて、「誰しもが思うことで、口にすることをはばかること」である。
北朝鮮の現体制は戦前の日本の体制に酷似している。明治維新以来の神権天皇制が三代続いて、その國體は塗炭の苦しみとともに崩壊した。この間ほぼ77年である。北朝鮮が1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の樹立を宣言して、もうすぐ70年。既に金帝国が三代続いて、この擬似帝国もそろそろ崩壊の時を迎えているのではないか。

ともに、極端な個人崇拝と権威主義。政権に服しないものには容赦ない弾圧。そして、徹底した情報統制と情報操作。個人崇拝のための漫画チックで大仰な演出。自国のみを貴しとする独善。世界からの孤立。20世紀前半の日本は、無理に無理を重ねたいびつな国家だった。21世紀の北朝鮮も、まことによく似ていると言わねばならない。

さすがに北朝鮮は領袖を神とまでは言わない。統治の正統性の根拠を、フィクションではあれ人民の意思としている。この点では神権天皇制よりはよほど開明的ではある。それでも、「将軍さま」は「天皇陛下」の模倣であり、その実態において正統なる後裔というべきだろう。主体思想が教育勅語に当たることになろうか。両体制の放送におけるアナウンサーのトーンまでがそっくりではないか。

最近、アメリカが「北朝鮮の体制の転換までは求めない」と言い出していることが興味深い。「北朝鮮の体制の転換」とは、金世襲政権の覆滅ということだろう。太平洋戦争末期、敗戦が必至となって降伏の遅延は大規模な国民の生命の喪失を意味することが明らかな事態で、天皇(裕仁)が「國體の護持」にこだわって、終戦を遅延させ、東京大空襲、沖縄の悲劇、広島・長崎の原爆投下をもたらしたことを思い起こさせる。国民の命よりも、天皇制の存続が重要事だったというわけだ。いま、北朝鮮も似たような状況にあるのだろう。そして、アメリカのコメントは、戦後日本の政策に天皇を利用したように、骨を抜いた金世襲政権に利用価値を見だしているというなのだろうか。

とはいえ、旧天皇制日本の軍国主義侵略主義にも「3分の理」はあった。1941年の天皇制日本は、先進帝国主義連合のABCD包囲網に経済的な行き詰まりをみて、その打開のために無謀な先制攻撃で開戦に踏み切った。これを「自存自衛」のやむをえざる戦争といった。

もちろん、北朝鮮にも3分の理がある。すべての軍事的行動は周辺諸国からの具体的な圧力や脅威に対抗するための自衛手段に過ぎない。これ以上軍事的・経済的包囲網が狭められれば、「自存自衛」のための暴発をしかねないではないか。1941年時の日本との違いは、この国が既に核をもっていることにある。この国に対する挑発は危険だ。韓国だけでなく、米軍基地のある日本が戦火の危険にさらされることになる。だから、今回は絶対に軍事的な選択肢をテーブルの上に置くことはできない。現に、次期大統領の椅子を争っている、韓国大統領選挙候補者5人のすべてが、揃ってアメリカの北への先制攻撃に反対しているではないか。

「平和主義」(パシフィズム)には、臆病で姑息だというニュアンスが込められている。しかし、強がってのチキンゲームは危険に過ぎる。北朝鮮を、1941年の日本のごとくにしてはならない。臆病でも姑息でも「平和主義」に徹して、外交努力による平和解決を目指す以外に方法はない。中国が果たすべき役割は大きいが、日本には外交的に口を出すべき余地が極めて小さい。そもそも、それだけの権威も信頼感もないのだ。アベ政権頼むに足りず、なのだ。この外交力の欠如は、近隣諸国との外交を軽視してきたアベ政権のこれまでの姿勢の表れである。せめて憲法九条をもつ日本国民の一人として、「平和的手段による解決」を、と声を出し続けよう。
(2017年4月16日)

「血を流し引きずり出される乗客」と「沖縄」がダブってみえる。

4月9日、「ユナイテッド航空機『オーバーブッキング』、警官が乗客をボコボコにして引きずり出す」(ハフィントンポスト)という米国内の事件が話題になっている。これは、明らかに消費者問題の範疇の事件なのだが、私には、沖縄の現状を彷彿させる事象として胸が痛む。

なんの落ち度もない市民が、暴虐な力によって理不尽な仕打ちを受け、ひどい目に遭っている。ああ、これはまさしく沖縄の姿だ。強者の理不尽が乱暴に弱者を圧殺している。ああ、これがアメリカだ。そして、現場で暴力に手を染めている制服の狼藉者。ああ、これがアベ政権だ。

ユナイテッド航空と、引きずり出された乗客の関係は、アメリカと沖縄の関係そのものだ。ユナイテッド航空の指示で乗客の引きずり出しを実行した空港の警察は、アベ政権と配下の機動隊という役どころ。引きずり出され負傷した乗客は、沖縄の県土と県民である。その象徴的存在となって長期の勾留を余儀なくされた山城博治さんだといってもよい。

泥棒にも三分の理。この事件でもユナイテッド航空側には、三分ほどの理はあると主張するのだろう。「乗客を機から降ろしてでも、キャビンクルーを乗せなければ、翌日の便の運航に支障が出る。そうすればもっと多くの乗客に迷惑を掛けることにもなる」「しかも、乗客には現金とホテルに無料で宿泊できるとまで提案したが、誰も応じなかったのだ」「だから、実力行使もやむをえないじゃないか」

しかし、この「三分の理」は、実は「七分の非理」であり「無理」である。乗客の任意の席の譲渡を得る解決方法はいくつも考えられたのだし、キャビンクルーを別便で運べばよいだけのことではないか。あるいは、陸路の搬送でも不可能ではなかったようだ。なによりも何の落ち度もない乗客のプライドを傷つける、こんなやり方の実力行使は人権侵害行為として許されることではない。

ハフィントンポストによれば、「警察官が無理やり席から立たせようとしたとき、男性が頭をひじ掛けにぶつけ、叫び声を上げた。あおむけに倒れた男性を引きずっていく警察官を、驚いた他の乗客たちが携帯電話で撮影した」「引きずり出された男性は『唇を怪我していた』」。この事態に、「仕事に行こうとする医者にこんなことをしてはダメだ。オーバーブッキングだからって」「ああ、何てことするの? こんなの間違ってるわ!」「ひどい、何てことをしてるの! あり得ない!」と乗客の悲鳴が、録画されているという。

アメリカとアベ政権も、三分ほどの理はあるというのだ。「中国や北朝鮮などの仮想敵国に対する抑止力を構築するために、日本のどこかに米軍基地を置くことが必要である」「しかし、日本のどこも基地には反対ばかりで、任意の受け入れはあり得ない」「だから、従前の経緯で沖縄に基地を建設するしかないではないか」「しかも、沖縄には、基地の負担に相応の経済的な援助をしている」「だから、基地建設強行の実力行使はやむをえない」

しかし、この「三分の理」も、実は「七分の非理」であり「無理」なのである。
「仮想敵国に対する抑止力構築名目の米軍基地は、実は軍拡競争のスパイラルを招く、平和への敵対物でもある」「仮想敵国に対する抑止力構築のための米軍基地は、有事の際の真っ先の標的になる覚悟なしには地元との共存はできない」「日本のどこも基地には反対ばかりなのは、その存在自体が危険であるだけでなく、日常的に騒音をバラマキ、風紀の紊乱の元凶ともなるからだ」「だから、沖縄への基地建設の押しつけ反対には十分な理由がある」「しかも、経済的観点からも、基地の存在は沖縄の大きな発展阻害要因となっている」「なによりも、県民のプライドを逆撫でするような、こんな基地建設強行の実力行使が許されてはならない」

誰しもが思う。「こんな理不尽なユナイテッド航空には、今後金輪際搭乗してやるものか」と。同じように考えたい。「こんな理不尽な沖縄いじめのアベ政権には、今後金輪際、政権を支えるための投票なんかけっしてしてやるものか」と。
(2017年4月12日)

雨にも負けず、アベにも負けず、改憲を許さぬ街宣行動。

花が満開となったあと、東京の天候が不順である。アメリカや日本の政権並みの異様さだ。
昼休み時刻、降りしきる雨である。しかも冷雨だ。激しくはないが風もある。スピーカーの音が雨に消されそう。当然のことながら、ビラの受け取りは悪かろう。で、今日は街宣活動はやめようか。逡巡して私は中止を提案したが、仲間の熱意が勝って結局は雨中の街宣決行となった。参加者10名。その平均年齢は60代の半ばだろう。なんたる意欲満々。

雨の中本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元「本郷・湯島九条の会」の定例の訴えです。しばらくお耳をお貸しください。

私たちは、「憲法を守ろう」、「憲法の理念を大切しよう」、「とりわけ何にも代えがたい平和を守りぬこう」、「絶対に戦争を繰り返してはならない」、「安倍政権の危険な暴走を食い止めなければならない」。そういう思いから、訴えを続けています。雨にも、アベにも、負けてはいられません。

アメリカがシリアを巡航ミサイルで攻撃しました。明らかな国際法違反です。世界にならず者国家というものがあるとすれば、まさしく、その筆頭がトランプのアメリカではありませんか。国連憲章は、自衛権の行使を例外として、武力の行使を認めていません。今回のトランプの攻撃がいかなる意味でも自衛のためであったはずはありません。国連ではシリアの化学兵器使用の確認を調査しようという話し合いが進んでいたところに、突然の攻撃。常軌を逸しているとしか評しようがありません。

しかも、さらにはシリアから矛先を転じて対北朝鮮への恫喝であり挑発です。複数の空母を朝鮮半島の至近海域に展開して、北朝鮮を牽制しようということのようです。一触即発という言葉が頭をよぎります。「シリアも、北朝鮮も怪しからん」「だから、徹底して脅して傷めつけてやれ」などという短絡した反応であってはなりません。日本国民としては、安定した平和な朝鮮半島情勢を築くべく、外交努力を求めなければならないと思います。安倍首相のように、条件反射的に、「アメリカのやることなら、爆撃でも進攻でも、なんでも支持します」では不安でなりません。今こそ、憲法の平和主義の理念を再確認しなければならないと思います。

もうすぐ、5月3日の憲法記念日がやって来ます。「国民の祝日に関する法律」では「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」日。今年(2017年)の憲法記念日は70周年の節目。言わば、憲法が古稀を迎えます。

この日本国憲法が生まれて生きてきた70年間、日本は戦争に踏み切ることも、戦争に巻き込まれることもありませんでした。明治維新以来、日本は10年ごとに、戦争を繰り返してきました。戦後70年間、戦争のないことは、日本国憲法の貴重な功績というべきではありませんか。いま、その平和主義の理念を再確認して日本にも、関係各国にも、声を大にして平和的な問題解決を呼びかけようではありませんか。

平和憲法を守ろう、憲法の平和主義を貫徹しよう、という訴えは、70年前から一貫した切実な国民の声であって、色褪せることはありません。ご一緒に、平和を求める世論を作りあげていこうではありませんか。

風雨激しいなかでの宣伝活動だった。思いのほか、通行人の共感を呼んだのではないか、というのが、参加者の事後の感想。韓国から来た旅行者たちが、足を止めて「写真を撮らせてください」と興味を示した一幕もあった。ビラの手を休めて一人が憲法擁護の意義などを話したところ、若い韓国人旅行者が「ボクたちも同じ考えです。がんばってください」と言ったそうだ。小さな、国際連帯。

次回は、5月9日(火)のお昼休み。12時15分から13時まで。今度はきっと、青空の下の宣伝活動。共謀罪審議が本格化している頃だ。場所はいつもの、本郷三丁目交差点、かねやすの前。憲法を大切に思う方、どなたでもご参加を。
(2017年4月11日)

民主主義は、トランプ政権に打ち克てるか

トランプ新政権が発足して1か月。その行方が気になって仕方がない。民主主義という確立したはずの理念が揺らいでいるからだ。その妥当性や有効性があらためて問われている。アベ政権の暴走ぶりにも驚ろかされてきたが、トランプの乱暴さはそれに輪をかけたものになっている。

民主主義は、権力無謬の信仰とは無縁である。主権者無謬もない。国民の政権選択は常に暫定的なものに過ぎないとする。その暫定的な選択の誤りに対する修正の能力を、民主主義は期待しているのだ。ワイマール体制下でナチスドイツがやったことは、この「後戻りの道」を閉ざしたことだ。

いま日本もアメリカも、政権選択の誤りについての修正能力が試されている。アベにしてもトランプにしても、これだけ問題点が明確になれば、退陣を余儀なくされなければならない。ところが、コアな支持者として盲目的な右翼勢力のあることが不気味である。ポストトゥルースのこの時代、アナザーファクトしか見ようとしない支持者たちが、アベやトランプをのさばらせているのだ。

それでも、アメリカ側には幾つかの明るいニュースがある。最近の大統領が就任した日から数えて、不支持率が多数を占めるまでに要した日数は下記の通りなのだそうだ。(「お役立ち情報の杜」)http://useful-info.com/analyzing-president-trump-personality
 レーガン大統領  :  727日
 ブッシュ大統領-Ⅰ:1336日
 クリントン大統領 :  573日
 ブッシュ大統領-Ⅱ:1205日
 オバマ大統領   :  936日
 トランプ大統領  :      8日

支持率・不支持率には、いくつもの調査があるから、正確なことは言えない。それでも、トランプへのご祝儀蜜月期間が極端に短かったことは確かなようだ。

Gallup世論調査結果が発表された。2月13~15日の日程で行われたもの。トランプの支持率は40%で、就任1か月時点の調査としては、歴代の最低を記録したという。2大政党下での選挙の勝者である。当然過半数の支持があろうというもの。それが、40%でしかない。隠れトランプは、雲散霧消してしまったのではないか。

Gallupによると、アイゼンハワー大統領以来、就任1カ月目の支持率平均は61%で、トランプの支持率は平均を21%も下回るものとなっているのだそうだ。これまでの最低支持率は、ビル・クリントン大統領の51%。この最低記録を11%下回る新記録なのだそうだ。

アイゼンハワーからトランプまでの就任1か月後支持率は以下のとおり。
    Date        Job approval (%)
Trump 2017 Feb 13-15       40 %
Obama 2009 Feb 12-15      64 %
G.W. Bush 2001 Feb 19-21      62 %
Clinton 1993 Feb 12-14      51 %
G.H.W. Bush 1989 Feb 28-Mar    63 %
Reagan 1981 Feb 13-16       55 %
Carter 1977 Feb 18-21         71 %
Nixon 1969 Feb 20-25       60 %
Kennedy 1961 Feb 10-15       72 %
Eisenhower 1953 Feb 22-27   67 %
Average(平均)            61 %

もう一つのニュースが、ニューヨーク・タイムズに載った精神科医連名の投書。「大統領職を安全に務めることは不可能だと信じる」とするもの。

投書はアメリカ精神医学会(APA)に所属する医師など専門家35人の連名で、2017年2月13日付けの紙面に掲載されたという。投書の見出しは、「精神保健の専門家はトランプ氏に警告する」。次のような翻訳が報道されている。

「トランプ氏の一連の発言や行動は、異なる意見を受容する能力に欠けることを示しており、彼は異なる見解に怒りの行動をとる。彼の言動は他者への共感能力に著しく欠けることを示している。こうした人物は自分の精神状況に合わせて現実を歪め、事実や事実を伝えようとする人物(ジャーナリストや科学者)を攻撃する」
「トランプ大統領の言動が示す重大な精神的不安定さから、われわれは彼が大統領職を安全に務めることは不可能だと信じる」

以下は、「J-CASTニュース」からの引用。その先の引用元は分からないが、信頼できそうな内容。

この投書が注目されたのは、反トランプの内容だけでなく、投書した医師たちが、アメリカ精神医学会の長年の倫理規定を意識的に破ったことにあるという。
  この規定はゴールドウォーター・ルールと呼ばれ、1964年に民主党のジョンソン大統領と共和党のゴールドウォーター上院議員が大統領選を争ったのを機に制定された。この選挙では、ある雑誌が「ゴールドウォーターのメンタル特集」というテーマで、各地の精神科医に大統領として適任かどうかを投票させた。ゴールドウォーター氏はすぐに雑誌を名誉毀損で訴え、裁判では勝訴した。
  このルールは精神科医がこうしたトラブルに巻き込まれないようにつくられた。「精神科医が自ら診察していない公的人物について、職業的意見を述べたり、精神状態を議論したりすることは非倫理的」と禁止した。1973年に制定され、今も有効だ。
  アメリカ精神医学会は2016年、「このルールを破って大統領候補の精神状態を分析することは「無責任で、レッテル貼りにつながり、非倫理的な行為だ」と厳しく戒めた。しかし、今回の医師らは投書の中で、「これまでの沈黙は失敗だった。この非常時にもう沈黙は許されない」と規定破りの決意を述べている。

アメリカの1964年の事件で、言論の自由の旗を掲げる側が敗訴した裁判例あることが信じがたい。このような判例が今も生きているとは到底思えない。それはさておき、トランプは、35人の精神科医をやむにやまれぬ気持にさせたのだ。「これまでの沈黙は失敗だった。この非常時にもう沈黙は許されない」
メディアと医師が、トランプとたたかう姿勢を見せている。アメリカのこととはいえ、この動きに勇気づけられる。日本もかくあらねば、と思う。

(2017年2月20日)

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