澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「#差別企業DHCの商品は買いません」

(2020年12月17日)
DHCという問題だらけの企業。その創業者でありワンマン経営者でもあるのが吉田嘉明。2014年以来の、私との法廷闘争の相手方である。もちろん、法廷闘争は彼が私に仕掛けてきた不当なもの。それを私が受けて立ち、厳しく反撃して今最終盤を迎えている。

ところでこの人、根っからの差別主義者。何があってか、朝鮮・韓国に対する民族的差別感情に凝り固まっている。通常の社会人の感覚としては、差別主義者と言われることは恥ずべきことである。ところがこの人、差別表現を繰り返して懲りない。

差別的表現は違法である。とりわけ、在日差別には特別法ができている。通称ヘイトスピーチ解消法(正式には「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(施行2016年6月3日)には、下記の前文が置かれている。

我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することをせん動する不当な差別的言動が行われ、その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている。
もとより、このような不当な差別的言動はあってはならず、こうした事態をこのまま看過することは、国際社会において我が国の占める地位に照らしても、ふさわしいものではない。
ここに、このような不当な差別的言動は許されないことを宣言するとともに、更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進すべく、この法律を制定する。

私は法廷においても当ブログにおいても、吉田嘉明の唾棄すべき差別表現を指摘し指弾してきた。それもあってか、ここしばらくは彼のヘイト発言は鳴りを潜め、おとなしくしていたようである。が、またぞろ吉田嘉明の在日差別発言が話題になっている。そのことを、昨日(12月16日)ハフポスト日本版のネット記事で知った。

ハフポストの記事のタイトルは、《DHCに「差別だ」と批判あがる。競合他社を在日コリアンへの蔑称を使い批判》というもの。

「競合他社」とはサントリーのこと。「在日コリアンへの蔑称を使い批判」とは、「チョントリー」とという、不愉快極まる品のない差別表現のこと。社会常識を弁えないというに留まらない。およそ、よい齢をした大人の言うことではない。いや、《許されざる違法な差別発言》と言わねばならない。DHCはワンマン企業といえども株式会社ではないか。この会社には、トップのヘイト発言をチェックするコンプライアンスの機能は働いていないのか。

問題の一文は、「ヤケクソくじについて」と題する吉田嘉明自身のDHC製品宣伝文。DHCの公式オンラインショップとされているサイトに掲載されている。問題箇所を抜粋すれば、以下のとおりである。

(同業他社は)DHCでなら500円で売れるものを5000円近くで販売しているわけですから、売上金額の集計では、多くなるのは当たり前です。消費者の一部は、はっきり言ってバカですから、値段が高ければそれだけ中身もいいのではないかと思ってせっせと買っているようです。

サントリーのCMに起用されているタレントはどういうわけかほぼ全員がコリアン系の日本人です。そのためネットではチョントリーと揶揄されているようです。DHCは起用タレントをはじめ、すべてが純粋な日本企業です。

ハフポストは、「文章の中での表現について、根拠は一切示されていない」「ハフポスト日本版では、DHCにメールで見解を聞いている」「DHCから返答があった場合は追記する。」とした上で、「DHCにネットで批判が寄せられている」ことを以下のように紹介している。

この文章が話題になると、Twitterでは抗議の声があがった。「#差別企業DHCの商品は買いません」というハッシュタグは、12月16日午前10時現在日本のトレンド2位に。「企業のトップとしてこういう発言を出すのはどうか」「有名企業が使っていて許されるのか」などといった投稿が寄せられている。

ハフポスト日本版がDHC広報部に電話したところ、「電話では取材を受けられないので、メールを送ってほしい」との返答があった。そのため、Twitter上での批判に対する受け止めや、この文章が差別に該当すると考えるかなどをメールで問い合わせている。返答があった場合、追記する。

差別表現には、直ちに反撃が生じるのは、結構なことだ。「#差別企業DHCの商品は買いません」というハッシュタグを検索すると、2人の著名人の発言があった。

町山智浩氏 これは韓国人に対する差別ではない。コリアン系日本人に対する差別だ。芸能界、テレビ界はどうして声を上げないのか。どうしてDHCと戦わないのか。どうしておれみたいなミジンコがいつまでも孤独に地道に叫び続けなきゃならないのか。

小田嶋隆氏 DHCの問題はAPAホテルと高須クリニックの問題でもある。つまり「カネを持っていれば差別が容認される社会」のお話だ。DHCの問題は、単に「差別を拡散する企業が実在している」というだけの話ではない。そういう企業がテレビで番組を持ち、CMを打ち、有名タレントを起用し、コンビニに棚を確保し、新聞に広告を掲載することを許しているこの国の現状こそが問題だと思う。カネさえ払えば何をやってもいいのか、という。

また、こんなツィートもあった。「(吉田嘉明の)この文章を読んでもまだDHCの商品使う人がいたり、DHCの広告を受ける担当者がいたり、DHCの番組制作に関わってたりする人たちがいることが、本当に恐ろしい。他者への差別にそこまで無関心になれる社会が何よりも恐ろしい。心底恐ろしい。」

私は、日本に住む皆様に心からお願いしたい。ぜひとも、「#差別企業DHCの商品は買いません」を実行していただきたい。この日本の社会を、住みやすく差別のない真っ当なものにするために。

強権・スガ政権の正体が見えた。

(2020年10月1日)
スガ政権とは何か。その正体露呈の事態である。意に染まない官僚は切ると宣言した政権。そして、「それは当たらない」の一言で説明責任を拒絶してきた人物の率いる政権。その政権による「日本学術会議推薦の6人、任命されず」という報道に大きな衝撃を受けている。これは、大事件だ。あの、アベ政権ですらやらなかったことを、新米総理のスガがやったのだ。

50年ほどの昔のことだ。私は、23期(戦後の法曹養成制度が発足以来23年目)の司法修習生だった。1971年4月に、2年間の修習を終えた500人の同期生は、弁護士・裁判官・検察官それぞれの道に進んだ。ところが、裁判官希望者の内7人が採用を拒否された。最高裁当局は、「人事に関わる問題だから」として、その理由を一切開示しなかったが、明らかに思想差別であった。

同時に、人事権を握る最高裁当局は、裁判所内の青年法律家協会会員に執拗な脱退勧告を繰り返し、宮本康昭判事補に対する前代未聞の再任拒否まで行った。我々は、頑迷固陋な超保守主義者・石田和外を長官とする最高裁当局の、人事を通じての思想統制であると断じた。このままでは「司法の独立」・「裁判官の独立」が崩壊する、時の権力の意のままになる司法に堕すると危機感を抱いた。

あれから50年たった今、同じことが政権の学術会議会員任命をめぐって生じている。権力によるあからさまな思想差別であり、これを通じての思想統制である。裁判官も研究者も、権力からの介入に自由でなければならない。この度のスガ政権のやり口は、やってはならないことに敢えて汚れた手を突っ込んだのだ。

日本学術会議法による学術会議の会員は210名である。任期は6年で3年ごとに半数が交代する。同法第17条は「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」と定める。つまり、日本学術会議の候補者推薦以外に、会員となる道はない。明らかに、法は、形式上の任命権者である内閣総理大臣が専門家集団としての学術会議の推薦を尊重してこれに従うべきことを想定している。現実に、これまで、推薦した候補者が任命されなかった例はないという。

8月末、学術会議は恒例のとおりに、政府に105名の推薦書を提出した。しかし、任命されたのはそのうちの99名のみ。うち6名が任命されなかった。学術会議事務局が官邸に問い合わせたところ、「間違いや事務ミスではない」と返答があった、と報道されている。

推薦されながら任命されなかった研究者6名は、全て第1部門(人文科学分野)である。小澤隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)、芦名定道・京都大院教授(キリスト教学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、宇野重規東京大教授(政治学)。

この顔ぶれは、いずれも政権に尻尾を振る似非学者ではない。一見して、政権からその学問上の毅然たる姿勢を厭われたと言ってよい。当然のこととして、「日本学術会議法解釈の誤読」「思想差別」「学問の自由への乱暴な介入」「憲法違反」と批判が出ている。

一方、加藤勝信官房長官は本日の会見で「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないと考えている」と述べたという。50年前の最高裁当局と同じだ。

「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」という、コメントがおかしい。政権は、「人事等を通じて一定の監督権を行使」したことを認めたのだ。

あからさまに言えば、こういうことだ。「この度の日本学術会議会員任命人事において、政権に不都合な学問傾向をもつ被推薦者の任命を拒否することを通じて、政権の姿勢を明確に天下に示し、政権の意向に従順ならざる者に対しては峻厳に対応することを官僚だけでなく、国民一般に知らしめることで、政権の有する監督権を適切に行使した」というのだ。これが、スガ政権の正体というしかない。

これは、ウカウカしておられない。政権に対する最大限の反論・批判が必要ではないか。

石川逸子さんの「風」が問いかけるもの

(2020年9月30日)
戦争を語らねばならない8月が過ぎ、差別を語る9月も今日で終わる。この月の半ばに、7年8か月差別政策を積み重ねてきたアベ政権は終わった。が、アベなきアベ承継政権が既に始まっている。そのような時代の初秋の月の替わり目。

一昨日(9月28日)、自由法曹団の金竜介弁護士から、メールをいただいた。金さんは、かのマルセ太郎を父とする人。金さんの発言は、いつも貴重である。

もうお読みかもしれませんが昨日の朝日のコラム。
石川逸子さんの詩が正しく使われています
ご参考までに送ります。

ここで引用されている
 遠くのできごとに
 人はうつくしく怒る
に続くのが

 近くのできごとに
 人は新聞紙と同じ声をあげる

添付されていたのは、「抗議のマスクと一編の詩」(福島申二)という、大坂なおみ選手の活躍に対する世評の在り方をテーマにしたコラム。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14637184.html

その中に、こういう一節がある。

 思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。

  遠くのできごとに
  人はうつくしく怒る

 自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。

金さんは、もう一歩踏み込んで、
  近くのできごとに
  人は新聞紙と同じ声をあげる
を問題としている。改めて、石川逸子さんの「風」を抜粋して紹介しよう。

 

 風   石川逸子

遠くのできごとに
人はやさしい
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人はだまりこむ
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
立ち向かうのは遠くの人で
近くのできごとに
立ち向かうのは近くの私たち

「遠くのできごとに うつくしく怒る」その人が、「近くのできごとには だまりこむ」のは、「遠くのできごとに立ち向かうのは遠くの人」だが、「近くのできごとに立ち向かうのは、自分自身」だからだというのだ。自分自身の問題として立ち向かうには、覚悟が必要なのだ。

黒人差別、アパルトヘイト、イスラム排斥、シリアの難民問題、ロヒンギャ、そして香港等々の「遠くのできごと」には、「美しく怒る」人々の多くが、在日差別、部落差別、朝鮮学校差別、ヘイトデモ、ジェンダーギャップ、天皇賛美等々の身近な出来事にはだまりこんでしまう。それでよいのか。そう問われているのだ。もちろん、私も。

伊藤詩織・大坂なおみ両氏の、この社会での飛び抜けた影響力。

(2020年9月24日)
米誌タイムは、例年「世界で最も影響力のある100人」を選出して発表している。「パイオニア(Pioneer)」「Artists(アーティスト)」「Leaders(リーダー)」「Titans(巨人)」「Icons(アイコン)」の5カテゴリーに分けてのこと。

昨日(9月23日)今年の「100人」が発表になった。日本からは、2人の女性が選出されている。自らの性暴力被害を公表しているジャーナリスト伊藤詩織さんと、人種差別反対を訴えているテニスプレーヤーの大坂なおみさんである。伊藤さんについては「勇気ある告発」で日本人女性の在り方を大きく変えたと評価され、大坂さんについては、全米オープンの場で人種差別に抗議、スポーツの領域を超えた存在感を示したと紹介されている。

伊藤さんの選評は、社会学者の上野千鶴子さんが執筆しているという。伊藤さんの告発を機に、日本でほかの女性もセクハラ被害に声を上げるようになったことなどを紹介し、「勇気ある告発で、日本人女性の生き方を永遠に変えた」などとした。

この2人が、今の日本で「最も影響力のある人物」という、タイムの見識に敬意を表さねばならない。今年は、アベ晋三やスガ義偉を選ばず、小池百合子や吉村洋文も、そしてトヨタやホンダの経営者も無視したセンスに肯かざるを得ない。

タイム誌のフェルセンタールCEO兼編集長は「(コロナ禍や反人種差別デモで)6カ月前には考えられない顔ぶれになった。政府首脳ら伝統的な権力者だけではなく、あまり知られていないが素晴らしい人たちも多く含まれている」と述べたという。なるほど、そのとおりとなっている。

さて、伊藤詩織さんである。上野千鶴子さんの選評は、「彼女は性被害を勇敢にも告発することで、日本人女性たちに変化をもたらしました」と評価。「彼女は日本の女性たちにも#MeToo運動に加わることを後押しし、全国の女性たちが花を持って集まり、性被害の経験について語ることで、性暴力に抗議するフラワーデモにも火をつけました」とのこと。

彼女は2017年、山口敬之・元TBS記者から性行為を強要されたことを記者会見で公表した。この件は、刑事事件としては嫌疑不十分で不起訴となり、検察審査会でも「不起訴相当」と判断された。山口敬之と官邸との親密な関係から、この不起訴にまつわる濃厚な疑惑を払拭できない。

その後、伊藤さんは山口を相手に民事訴訟を提起し、2019年12月の一審・東京地裁で勝訴判決を得た。この判決は、「合意のないまま本件行為に及んだ事実」などが認められるとして不法行為の成立を認定している。また、いわゆる「セカンドレイプ」に当たる誹謗中傷表現について、漫画家のはすみとしこや議員の杉田水脈らの責任を追及して損害賠償を求める訴訟を起こしてもいる。

彼女は今回の発表の後、「私の中ではまだまだ変えていくべきところの途中にいると思っています。選ばれたことを見たとき、確実な一歩が踏めたんだなという気持ちになりました」と話したという。

彼女が選出されたカテゴリーは、「パイオニア(Pioneer)」部門であるという。彼女は、その行動によって日本のジェンダー意識を変えた。ジェンダー文化を変革したと言ってもよいかも知れない。まさしく「パイオニア(先駆者)」なのだ。このジェンダー不平等社会を代表する山口敬之や、官邸まで繋がる一連の人脈の男性たち。そして、はすみとしこや杉田水脈ら、多くの野卑な女性たち。こういう人たちの存在の中での、泣き寝入りを拒絶した勇気ある行動が、彼女を「パイオニア(先駆者)」たらしめているのだ。

そして、大坂なおみさんである。こちらは2年連続の選出だが、今年の重みは昨年の比ではない。彼女は、アメリカで広がっている警官による黒人への暴行に抗議する「Black Lives Matter」の主張に賛同して、2020年全米オープンでは、犠牲になった黒人の名前をプリントしたマスクを7着を用意して試合に望み、全7試合に勝利した。

彼女には、「スポーツの場に政治を持ち込むな」「スポーツと政治は混同させるべきではない」という、非難が浴びせられる。だが、このような、ネトウヨ諸君からの誹謗や中傷あればこそ、輝きを増す勇気ある行為であり褒むべき影響力なのだ。

「スポーツの場に政治を持ち込む」とはいったいどんなことなのか、「Black Lives Matter」は「政治」なのか、それがなぜ非難されるべきことなのか、非難する者からの説明は一切ない。

大阪さん自身は、「アスリートは政治に関与してはいけない、ただ人を楽しませるべきだと言われることが嫌いです」とはっきりと表明し、「第一に、これは人権の問題です。第二に、なぜ私よりもあなたの方がこの問題について『話す権利』があると言えるのでしょうか? その論理だと、例えばIKEAで働いていたら、IKEAの “グローンリード”(ソファのシリーズ)のことしか話せなくなりますよ」と小気味よく反論している。

報道されている中で、「天気やランチの話をするように、人権について話をすべき」という賛同のコメントが、素晴らしい。

彼女も、日本女性やアスリートの文化を変えた。自分の信念を堂々と表現してよいのだ。とりわけ、人権について、差別についての、見て見ぬふりの沈黙はむしろ『裏切り』でさえある。彼女の発言は、まことに爽やかである。確かに、影響力は大きい。

虚飾なき蓮華と、虚飾に包まれた天皇の権威と。

(2020年9月22日)
秋分の日である。あの猛暑が嘘のような玲瓏な秋日和。不忍池に昨日は3輪の蓮の華を数えたが、本日はおそらくは最後となる一華を視認。本日9月22日を、2020年の「蓮じまいの日」と認定しよう。蓮華の命も彼岸まで。6月半ばから3か月余、目を楽しませていただいた。

国民の祝日に関する法律(祝日法)によれば、秋分の日とは「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としている。(なお、春分の日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」である)

秋分の日は、戦前の「秋季皇霊祭」を受継したもの。「皇霊」とは、明治期皇居内に新設された「皇霊殿」に祀られた《歴代天皇および皇族の霊》のこと。1908年9月制定の「皇室祭祀令」で、春季皇霊祭・秋季皇霊祭ともに大祭に指定され、宮中では国家行事としての春季皇霊祭・秋季皇霊祭が行われた。戦後になって、まさか「国民こぞって歴代天皇をうやまい、しのぶ」などとは言えないので、仏教習俗としての彼岸の定義を趣旨とした。

皇霊祭とは何か。天皇やら皇族やらの権威を、コテコテに盛るための演出のひとつである。なぜ、天皇やら皇族やらの権威を盛る必要があるのか。この世に、人と人との差別が必要だと考えたからである。天皇やら皇族やらを、貴なる存在として特別視することで、その対極に賤なる人々を作ることができる。社会に貴や賎を作れば、その中間段階で無限のバリエーションをもって人と人との差別を作り出すことが可能となる。

天皇やら皇族やらの権威を作り出し維持しようとする人々は、この社会に人と人との差別あることを利益とする人々である。あらゆる差別の根源として、天皇やら皇族やらの尊貴という権威を演出したのだ。

ある生身の人間を、常人とは異なる特別の人間と権威付けるためにどうすればよいか。特別な服装をさせてみよう。特別な場所に住まわせ、ときどき、民衆に見せて手を振らせることにしよう。それだけでは足りない。一見凡庸に見えるこの人物こそ、実は神なる祖先に連なる貴い血筋だということにしよう。そのための皇霊祭なのだ。

もちろん、全ての人は平等である。あまりにも当然のことだ。ところが、いまなお、天皇やら皇族やらを常の人ならぬ神聖な存在とする迷妄が存在し、その迷妄を社会に差別的秩序あることを利益とする人々が支えている。

天皇やら皇族やらの神聖性は、一人の幼児の「王様は裸だ」という一言で吹き飛ぶ虚飾に過ぎない。この儚げな虚飾を剥ぎ取るか、剥がされることを恐れてさらに虚飾を重ねるか、そのせめぎ合いが続いている。

いまだに差別が残る社会である。差別の存在を利益とする者がこの社会を牛耳っているからである。その差別の根源としての天皇の権威を受け入れている人が少なくない。天皇神聖や天皇尊貴の根拠が「血統への信仰」という馬鹿げた虚妄にあるのだから、「血統」による貴賤や優劣の存在を、意識的に徹底して否定しなければならない。今どき、自分の先祖を自慢する愚物を鼻先で嗤ってやろう。天皇であれ華族であれ、その血筋に恐れ入って見せる人を徹底して軽蔑しよう。

不忍池の蓮の華には虚飾がない。あるがままで美しい。社会も、このようでありたいものと思う。今年の「蓮じまい」が惜しい。来年も、あるがままに美しい蓮の華を楽しみたい。

「パットを外した」のは、トランプ自身ではないか。

(2020年9月3日)
類は友を呼ぶ。アベシンゾーの友は、同類のトランプやプーチンであるという。「友」もいろいろ。シンゾーもひどいが、トランプやプーチンは、これに輪を掛けたムチャクチャぶり。それぞれにムチャクチャではあるが一定の岩盤支持層を有していることが、同類の所以。

トランプは退任表明をした朋友シンゾーについて「素晴らしい人物。最大の敬意を表したい」とお世辞を言っているそうだ。お互いにそう言い合おうとの魂胆が見え見えで、醜悪きわまる。もっとも、トランプの真意はこういうことだ。

「シンゾーこそ、これまでどんな無理なことも私の言うとおりに従順に従ってくれた素晴らしい人物。とりわけ、友情の証しとして、日本国民への苛酷な負担をも顧みず、ほとんど独断で不必要な大量の武器を私の言い値で購入してくれたことに、心の底からの敬意を表したい」

トランプとシンゾー。ゴルフ仲間だという。多分どちらも、パットは下手くそなのだろう。トランプが、「ゴルフの大会で、3フィートのパットでも外すことはある」と言ったことが話題になっている。もちろん、「3フィートのパット外し」は、比喩である。この出来の悪い比喩が、もしかしたら大統領選の命取りになるかも知れない。

トランプは8月31日放送のFOXニュースのインタビューで、米中西部ウィスコンシン州の警官による黒人男性銃撃事件を話題にして、警官を取り巻く非難の重圧がますます厳しくなっていると強調した。その上で、このような重圧の中では「ゴルフの大会でもそうだが、3フィート(約90センチ)のパットでも外すことはある」と述べたのだ。白人警察官が丸腰の黒人男性の背後から至近距離で7発もの銃弾を打ち込んで瀕死の重傷を負わせた深刻な犯罪行為を、お気楽に趣味のゴルフに例えたというわけだ。

「3フィートのパットを外す」という比喩は、「7度の発砲」についてのもの。恐ろしく下手くそで分かりにくいだけでなく不愉快極まる比喩ではあるが、重圧の中ではどんなゴルファーも、「3フィートのパットを外すというミス」を起こすものだ。同様に、非難の世論という重圧の中では、白人警官が「黒人男性に対する背後からの7度の発砲というミス」を起こしても不思議ではないと言いたいのだ。だから、パットミスと同様に、発砲した白人警官を責めることは酷に過ぎる、大目に見てやれ。そういう、白人層に対するアピールなのだ。白人警官の黒人に対する発砲行為が抱えている深刻な問題を見ようとせず、パットミス程度の問題と擁護しようというのだ。当然のことながら、ワシントン・ポスト紙を始め有力メディアが、批判の声を上げている。

パットミスを使った下手な比喩で、白人警官を擁護しようとしたトランプ発言だったが、実はパットを外してミスを犯したのはトランプ自身ではないか。彼は、自らの「3フィートのパットミス」発言で、差別主義者であることをさらけ出したのだから。確かに、厳しい環境に焦ると本性をさらけ出す発言で、取り返しのつかないミスを犯しがちではある。トランプがそれを証明して見せた。

ところで、トランプの友人というシンゾー君。ゴルフ仲間のシンゾー君よ。「素晴らしい人物。最大の敬意を表したい」とまでお世辞を言われているシンゾー君。そして、シンゾー後継を争う諸君。君たちもそう思うか。トランプの言うように、「白人警官が黒人男性の背後から7回も銃撃することは、パットミス程度のことか」と。また、こんな発言をするトランプと、今後も友人関係を続けようというのか、と。

「女帝」が、今に刻む「国恥」の歴史

(2020年9月1日)
コロナに加えての熱暑の8月がようやく終わった。暦が替わると、照りつける8月から涼やかな9月に、鮮やかな様変わり。なるほど、明けぬ夜はなく、遷ろわぬ季節もない。横暴な政権も、いつまでもはもたないのだ。

戦禍と平和を考えるべき8月が去って、常であれば、今日からの9月は侵略の歴史を噛みしめるべき日。今年はこれに、アベ後継政権の構成が絡まる。また、日本国憲法の命運に重要な時季となった。

ところで、本日(9月1日)は私が名付けた「国恥の日」である。「国」は、国家だけではなく国民をも指している。「恥」の第1は、無抵抗の者を大量に虐殺したこと。これに過ぐる恥はない。「恥」の第2は、その虐殺が民族差別・排外主義と結びついていたこと。そして、いま強調されねばならない決定的な「恥」の第3は、いまだにその事実を認めず謝罪をしようともしないことである。

1923年9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲った。地震はたちまち大火災となり、死者10万5千余といわれる甚大な被害を生じた。関東大震災である。その被害はいたましい限りだが、自然災害としての震災は恥とも罪とも無縁である。

「国民的恥辱」「日本人として恥を知るべき」というのは、震災後の混乱のなかで日本の軍警と民衆の手によって行われた、在日朝鮮人・中国人に対する無数の虐殺事件である。これは、まぎれもなく犯罪であり刑罰に値する行為。人倫に反すること甚だしい。その事実から目を背け、まともに調査と責任追求を怠り、反省も謝罪もしないままに97年を徒過したこの態度を「国恥」といわざるを得ない。そして、今なお、この事実に正面から向き合おうとしない日本社会の排外主義容認の姿勢を「国恥」というのだ。

もちろん、日本の歴史に真摯に向き合おうという日本人も少なくない。日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺した事実を直視し、自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと願う人々。

そのような思いの人々が、毎年9月1日に、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑前で、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」を開催している。今年も行われたが、コロナ禍のなか、On-line式典として挙行された。私も、YouTubeで「参加」した。いつもなら、ここで友人に遭って挨拶を交わすことになるのだが、勝手が違った。

恒例の行事ではあるが、我が国の世論が政権とメディアによって、いびつな「反韓・嫌韓」の方向に煽動されているこの数年、日韓関係の根底をなす歴史を想起するために格別の意味づけをもった式典となっている。

「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」は、1973年に都議会全会派の賛同で設置されたものである。以来、追悼式典は毎年行われ、歴代知事が追悼文を送付してきた。あの右翼・石原慎太郎でさえも。しかし小池百合子現知事は、就任翌年の2017年追悼文送付を意識的に中止した。そのきっかけは、「朝鮮人虐殺はデマ」派の極右・古賀俊昭都議(故人・日野)による、都議会での追悼文送付やめろという質疑だった。悪質極まりない、工藤美代子のデマ・ヘイト本をネタにしてのものである。こうして、いまや小池百合子が、「国恥」を代表する人物となっている。

その小池百合子は今年(2020年)7月5日の都知事選に圧勝して再選された。なぜ、圧勝できたか。対抗勢力が余りに脆弱であり、全体として本気度が足りなかったから。野党共闘のスジができず、フライング立候補者に振り回されて、形作りの選挙しかできなかったという体たらくだったから…。ではあるが、実は、小池百合子の何たるかが選挙民に知られなかったことが最大の理由ではなかったか。選挙のあとに話題の「女帝 小池百合子」(石井妙子著・文藝春秋社)を読んで、選挙前に読んでおくべきだったと後悔した。

この書物の刊行は2020年5月29日。選挙までの期間はわずか1か月余に過ぎない。もう1年前、あるいは半年前にでも出版されていれば、選挙は違った様相になったのではないか。野党も真剣に選挙に取り組み、勝てる候補者の出馬も可能となったのではないだろうか。

出版後、選挙期間中にも話題にはなり、私も内容は一通り把握した気になっていたが、選挙後にようやく書物を手にし目を通してみて、その内容に衝撃を受けた。ひとつは、外面の虚像とは甚だしいギャップの小池百合子という実像の凄まじさに。そしてもう一つは、民主主義社会における政治家として最もふさわしからぬこの人物が、「嘘の物語」と「遊泳術」を駆使して有力政治家となり都知事にまでなることを許している日本社会の現実に、である。

著者石井妙子は、こう述べている。

「私は、小池氏の実像を追いかけることに徹しました。ノンフィクション作家として、極めてオーソドックスな手法を取っています。本書で利用した資料のほとんどは公刊されているもので、誰でも見る事ができます。それらを精読すれば、小池氏の発言の矛盾や『おかしさ』には気づけるはずなんです。でも、今まで誰も、彼女を取材対象として正面から扱ってこなかった。まともな批判にさらされることなく今に至ってしまったのです。」「小池さんは『女性であること』『女性のイメージ』を巧みに利用した。『女性』も本書のテーマの一つです。“有能な女性政治家小池百合子”というキャラクターを、小池氏は今も演じ続けています。メディアにはそれを持て囃してきた罪がある。彼女の共犯者です。『小池百合子』を生み出した、日本社会の歪みにも目を向けて欲しいです」

なるほど、そのとおりの内容となっている。また、「読者メーター」というサイトに、こんな読書感想が寄せられている。

…彼女の内面を抉る。 地位や権力自体が目的で、それらを得て実現したいことがあるわけではない、全ての言動はそれらの維持・拡大のためで、人を助けるとか世の中を良くするというマインドは皆無‥と完全にこき下ろし。著者の個人的感情が強過ぎとの書評を事前に幾つか目にしていたが、十分な取材や証言に基づいた客観的な結論との印象。カイロ大主席卒業についても(実質的には)事実ではなさそうだ。

エジプト人が言ったという、「辿々しい日本語のエジプト人が東大を4年でしかも首席で卒業したと聞いたら信じますか?」これが一番しっくりきた。

読み終わった今、表紙の小池さんを直視できない。不安や恐怖を感じる。人間性は遺伝子や幼少期からの環境に左右されると聞く。彼女の生い立ちを知ると同情心も覚えるけれど、長年にわたり形成された小池百合子という人格は、もう誰にも変えられないのだろうと思う。犬猫150匹近くを殺処分したあとで、“ペット殺処分ゼロ”の公約達成を笑顔で報告する彼女に心はあるのかな。 

自らが生きていくために、地位と名声を求め虚飾にまみれた小池百合子の人生を丹念にあぶり出すオーソドックスかつ丹念な取材のもとにかかれた名ノンフィクション。生い立ち、時代、様々な要素があるなかで、こんなにかわいそうな生き方(蔑んだ意味で)しかできない人もいるのかと、絶句する。都民には是非読んでほしい。

小池百合子という人間は、働く女性の象徴だと何となく思っていたし、同じ女として応援するのが普通になっていた。 今回、女性をテーマに本を書くことが多い石井さんが、こんなにも批判的に割と心配になる強い書き方で、小池百合子の物語を書いたのはすごく意味があると思うし、あって欲しいと思った。 こんなにも売れていて政治系の本かなあと思って読んだ一冊が、読んだ今では、読まなかったかもしれない自分がいたかもしれないと思うと怖い。今後、この本を読んだ都民はどう判断してどう投票したら良いのか。

環境相時代のアスベスト被害者との懇談や都知事として築地女将さん会とやり取りしたエピソードが印象的。知事に窮状を訴え、気持ちが伝わり信頼関係を築いたと思った人々の失望が語られる。知事の資質だけでなく、政党や権力者、マスコミの問題が描かれている。私(有権者)もしっかりせねばと思う

著者の記述を信用するかは一つの判断だが、(法的措置のリスクを考えると)現為政者に対してここまで踏み込んだ内容を記述していること自体、かなりのエビデンスを保有していると考えられること、また、多くの核心的な部分で取材源が明かされトレーサビリティが確保されていることを考えると、私は信用出来ると考える。 イカロスの翼の例えは秀逸だ。今日も氏をテレビで見た。翼が燃え尽きるまで、昇っていくのだろうか。

「小池都知事を見る目が180度変わるというのが、共通の読後感ではないか。私も同感だ。そして改めて、こんな人物に都政を任せてはならない、こんな人物を選任してしまう民主主義の質を変えなければならない、と強く思う。

この書のなかでは、小池百合子から欺され裏切られた多くの人の怨みが語られている。この小池に対する怨みのグループの結集が力になってくるのではないか。そうして、傲慢な「女帝」を掣肘し、「関東大震災時の朝鮮人虐殺」の事実を認識して追悼の意を表するくらいのことはさせねばならない。そのことが、「国恥」を雪ぐ第一歩になるだろう。

大坂なおみが示した「日本人離れ」の、さわやかな個性

(2020年8月31日)
ナショナリズムとは、「内」と「外」とを分けるドグマ(教条)である。このドグマが教えるところは、単に「内」は味方で「外」は敵というにとどまらない。内は優れて外は劣る。内は正しく外は不正義という。ある種の人々にとっては、優越意識と排外主義のセットが心地よいのだ。しかし、さて問題は「内」と「外」とをどう分けるかである。国籍で? 人種で? 言語で? 信条で? 帰属意識で? 出自で? 体型で? 肌の色で? 目の色で? いずれもまことにバカげている。

この観点からは「内」の周縁に位置する人々に関心をもたざるを得ない。外国人力士、外国人労働者、在日コリアン、アイヌ、沖縄の人々。急速にふえつつある混血の人々。私だって、誇り高くまつろわぬ蝦夷の末裔だ。この人たちは、内なのか外なのか。タマネギの皮を剥き続けて、いったいどんな芯が残るというのだ。一見芯に見える天皇だって、百済からの帰化人の血を引いている。

大坂なおみというテニス選手、その風貌も言語習慣も「日本人離れ」の個性の持ち主。ハイチ系アメリカ人の父と日本人の母を持ち、日本で生まれてアメリカで育った。日米の二重国籍だったが、22歳になる際に日本国籍を選択したという。これまで、そのときどきで「内」にいれられたり「外」に弾かれたりという印象が否めない。

この人の意見や発言が、また「日本人離れ」して、すこぶる明快なのだ。力強い拳をあしらった図柄のMLB黒シャツ姿と、下記のツィッターが、いまさわやかな話題を振りまいている。

https://twitter.com/naomiosaka/status/1298785716487548928

こんにちは。多くの皆さんもご存じのように、私は明日(8月27日)の準決勝に出場する予定でした。しかし、私はアスリートである前に、一人の黒人女性です。黒人女性として、私のテニスを見てもらうよりも、今は注目しなければいけない大切な問題があると感じています。

私がプレーしないことで劇的に何かが起きるとは考えていませんが、白人が多い競技で議論を始めることができれば、正しい道へのステップになると思います。相次いで起きている警官による黒人の虐殺を見ていて、正直、腹の底から怒りが湧いています。数日おきに(被害を受けた人の名前の)新しいハッシュタグをつけ(SNSに投稿し)続ける状況に苦しみ、疲れています。

そして、同じ会話を何度も何度も繰り返すことにとても疲れてもいます。いったい、いつになったら終わるのでしょうか?

なお、ツィッターの原文には、英文と並んで日本語訳がある。日本語訳があることの意味は重要だと思うが、残念ながらこの日本語訳は日本語としてこなれたものではない。上記は朝日の訳を転載させていただいた。

この人は、自分を「アスリートである前に一人の黒人女性(a black woman)である」と躊躇なく言い切っている。そこがまことにさわやかなのだが、日本ナショナリズムは、自らを「一人の黒人女性(a black woman)」と自己認識する彼女を「内」の人と受け入れるだろうか。

私は、テニスという競技にはほとんど何の興味も知識もなく、「ウエスタン・アンド・サザン・オープン」の準決勝棄権というものの重みを実感できない。が、プロの選手が国際試合をボイコットしようというのだ。ウィスコンシン州で起きた黒人銃撃問題に抗議の意を示し問題提起のためとする、彼女の準決勝棄権の決意のほどは伝わってくる。立派なものだ。

その後、大会主催者は大坂の問題提起を受けとめた。8月27日に予定されていた全試合を28日に順延すると発表した。また、全米テニス協会も日程の順延について「テニスは、アメリカで再び起きた人種差別と社会の不公平に対し、結束して反対する」という声明を出したという。これも立派なものだ。おそらくは、大坂の問題提起を受けとめねばならないという空気が全米に満ちているのだろう。

さらには、Twitterでは「#大坂なおみさんを支持します」というハッシュタグが作られ日本のトレンドに入ったという。紹介されているものでは、「アスリートの鏡だと思う」「自身の影響力を社会のために使っている素晴らしい例」など大坂選手への応援の言葉が大半を占めたという。もちろん、右翼諸君の批判や疑問も多数にのぼるものだったともいう。

この大坂なおみ、『スポーツと政治を混同してはいけない』『アスリートの政治的発言はいかがなものか』という定番の批判にたじろぐところがない。今年(2020年)6月5日には、「スポーツと政治を混同させるな」の声に反論して、次のように発信している。

「アスリートは政治的に関わるな、ただ楽しませればよいという意見が大嫌い。第一にこれは人間の権利に関わる問題だから。そしてなぜあなたの意見の方が私より良いの? もしIKEAで働いていたら、IKEAのソファーの話しかしちゃいけないの?」

そのとおりだ。誰もがいかなる政治的テーマにも関わってよい。アスリートはその技倆で観衆を楽しませていればよく、その分を越えるべきではないというのは、アスリート蔑視であり不当な差別である。ましてや、重大な人権問題については、すべての人が関心をもち、発言しなければならない。それは、民主主義社会に生きるすべての人々の責務と言ってよい。

「政治に関わるな」「政治的発言は控えろ」「分を弁えておとなしくしておけ」という、社会の圧力に唯々諾々としたがっていたのでは、いつまでも社会から不合理がなくならない。民主主義とは、すべての人の発言を保障する社会のありかたである。多くの人々の意見の交換によってのみ、社会はより良い方向に進歩するという信念が基底にあるのだ。

ところで、日本のナショナリストたちには、日本女性の典型についてのイメージがあろう。おそらくは、男に寄り添う「たおやめ」であり、ひっそりと健気な「大和撫子」でないか。大坂なおみは、およそ正反対。これを「内」と「外」のどちらに分類するか、聞いてみたいもの。

人は、それぞれ多様な個性を持っている。大坂なおみは、飽くまで大坂なおみなのだ。「内」と「外」との分類におさまりようがない。そのことは、実はナショナリズムというドグマの不条理を物語っている。

朝日社説「虐殺の史実 都は改ざんに手貸すな」に敬意

(2020年7月25日)
本日(7月25日)の2本の朝日社説。ひとつは、「朝鮮人犠牲者追悼式」に対する小池知事の姿勢を批判するもの。そうして、もう一つが「検察刷新会議」の議論の在り方についてのもの。いずれも、分かり易く説得力があり余計な忖度のない、優れた内容である。

そのうち、「虐殺の史実 都は改ざんに手貸すなと表題する小池知事の姿勢についての社説を取りあげて紹介したい。

「虐殺の史実 都は改ざんに手貸すな」という表題が立場を明確にしている。「関東大震災時の朝鮮人虐殺」は「揺るぎない史実」なのだ。小池都政は、「その史実の改ざんに手を貸してはならない」と警告している。

冒頭の一文が、次のとおりである。

「こうしたおかしな行いが自由な社会を窒息させ、都政に対する不信を膨らませると、小池百合子知事は気づくべきだ。」

「史実の改ざんに積極的に手を貸す、こうしたおかしな行い」は、「自由な社会を窒息させ」る罪の深い醜行である。にもかかわらず、小池百合子は自分の生来の歴史修正主義思想や差別意識から、あるいは支持勢力への慮りから、敢えて「こうしたおかしな行い」をしようとしているが、そのことは、結局のところ、都民の小池都政に対する不信を膨らませることになるのだから、「結局あなたの得にはならないことに気づくべきだ」と、説得を試みているのだ。

「関東大震災後の混乱の中で虐殺された朝鮮人や中国人の追悼式典を開いてきた団体が、会場の公園を管理する都から「誓約書」の提出を求められている。
 (提出を求められている誓約書の)内容は、
▽参加者に管理の支障となるような行為をさせない
▽順守されなければ都の式典中止指示に従う
▽次年度以降、公園利用が許可されなくなっても異存はない、というものだ。」

この「誓約書」提出の要求が、「自由な社会を窒息させるおかしな行い」であり、都政に対する都民の不信を膨らませる」問題の行為なのだ。

 なぜ問題か。虐殺の事実を否定する団体が3年前から式典と同じ時間帯に「犠牲者慰霊祭」と称して集まり、大音量で「虐殺はでっち上げだ」などと演説を行っているためだ。昨年はこれに抗議する人たちとの間で衝突もあった。
 同様のことが起きれば来年から式典を開けなくなる恐れがある。否定派の団体の関係者はブログで「目標は両方の慰霊祭が許可されないこと」だと公言している。その思惑に手を貸し、歴史の改ざんにつながる「誓約書」になりかねない。

「関東大震災時の朝鮮人虐殺」は、検証された史実である。しかし、この史実を認めたくない人々がいる。「常に清く正しい日本人がそのような悪逆非道の行いをするはずはない」「存在しない虐殺をあたかも存在したように吹聴するのは、悪意の陰謀である」「仮に、朝鮮人殺りくがあったとしても、それは悪行に対する懲罰に過ぎず、朝鮮人の自業自得で日本人に責任はない」と言いたいのだ。史実を直視しようとしない、歴史修正主義派の一群。その典型である「そよ風」というグループが、小池百合子の知事就任直後から、追悼式典にぶつける形で集会をもち、大音量で「虐殺はでっち上げだ」と演説を始めたのだ。

 そもそも地方自治法は「正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない」と定め、安易な規制は許されないとする最高裁の判例もある。都の対応は集会や表現の自由への理解を欠き、いきすぎと言わざるを得ない。

この問題に関する東京弁護士会の「9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典のための公園占用許可につき不当な誓約書の提出を条件とすることの撤回を求める会長声明」(本年6月22)の次の一節を引用しておきたい。
言うまでもなく、集会の自由(日本国憲法第21条第1項)は、民主政の過程を支える憲法上優越的な人権として尊重されるべきものである。これを受けて公共施設の利用について、地方自治法第244条第2項は、「普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。」としているところ、判例上も、特段の事情がない限り、妨害者の存在を理由として、被妨害者の不利益を帰結するような取扱いはなされるべきではないものと解されているところである(最判平成8年3月15日・民集第50巻第3号549頁)

 知事の姿勢が影響していることはないだろうか。小池氏は歴代知事が式典宛てに出してきた追悼文をとりやめ、虐殺について「様々な見方がある」などとあいまいな発言を繰り返す。

「知事の姿勢が影響していることはないだろうか。」は、反語表現である。明らかに影響しているのだ。小池の姿勢が、歴史修正主義派、ヘイトスピーチ派の跳梁を誘発している。しかし、かろうじて、小池自身にあからさまにホンネを語らせないだけの世論状況にはある、ということなのだ。

 だが「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を投げ込んだ」といった虚偽の話が広がり、市民や軍、警察によって各地で虐殺が行われたのは厳然たる事実だ。多くの公的記録や証言があり、内閣府中央防災会議の報告書にも明記されている。にもかかわらず、否定派の団体は差別的表現を使いながら、暴動やテロがあったと言い募る。

歴史の修正は一種の信仰である。「神聖なる陛下ご親政の御代の日本人が、理由もなく他国の民を虐殺することなどあり得ない」「伝えられる自警団の朝鮮人への懲罰は、あったとしてもやむを得ない正当防衛に過ぎない」。明治維新後権力者によって意図的に作られたこのような信仰が、いま息を吹き返しつつあるのだ。恐るべきことではないか。

 小池氏は先の知事選で、ヘイトスピーチ対策を盛り込んだ都条例の制定を1期目の成果に挙げた。そうであるなら、事実に基づかぬ差別的な言説を放置せず、適切に対応するのが知事の務めではないか。自らも歴史に誠実に向き合い、都民の代表として追悼文を出すべきだ。

まったく、そのとおりだと思う。ここで提言されているのは以下の2点である。
(1) 事実に基づかぬ差別的な言説を放置せず、知事の務めとして適切に対応すべきこと
(2) 自らも歴史に誠実に向き合う証しとして、都民の代表として追悼文を出すべきこと

(2) は、都知事独断でできることだ。追悼式実行委員会への「誓約書」要求は撤回して、改めて都民の代表として追悼文を提出するべきであろう。できることなら、ご自分で起案をされて、心情のあふれるものとしていただきたい。
(1) については、3年後に迫った100周年の記念史を編纂してはどうだろうか。史実に基づく生々しい過去の記録に留めず、この史実を踏まえて「共生の東京」の未来図を描くものとして。

朝日の社説は、ここで終わらない。関東大震災時に振りまかれ今に至る「災害時のデマ」に筆を進めて締めくくっている。この締めくくり方には、やや不満が残る。

 災害時のデマは過去の問題ではない。東日本大震災では外国人窃盗団が暗躍しているとの流言が広がり、現下のコロナ禍でも外国人の排斥や感染者へのいわれない攻撃が起きている。
 社会不安が広がるとどんなことが起き、そうさせないために日頃からどうすべきか。97年前の惨劇から学ぶことは多い。

97年前の軍・警・民間が一体になっての朝鮮人虐殺は、決して「災害時のデマ」一般の問題に矮小化してはならない。帝国日本の朝鮮侵略に伴う作られた差別意識と反抗への恐れの感情を基本に据えて読み解かれるべきであろう。

とは言うものの、この朝日社説の見識に敬意を表したい。

「コロナ失業」の被害に、同じ労働者でもこんな「身分差」。

(2020年7月15日)
下記は、昨日(7月14日)の朝日の記事(抜粋)。普段はよく見えない、私たちの社会の差別や不合理の構造が、コロナ禍の中で突きつけられた典型例といえるだろう。朝日も、ときによい記事を書く。

それにしても、「コロナ失業」と呼ばれる現実があるのだ。その失業に直面して、「正規」と「非正規」の差別、女性労働者の地位の不安定は、かくも厳しい。「同じ人間とも思えない」とまで叫ばせるこの社会の罪は重い。それでも、負けずに立ち上がる人々に、心からの声援を送りたい。

コロナ失業する非正規の女性「同じ人間とも思われない」

9日、雨が続く夜の銀座で傘を差し、その女性(40代)は拡声機のマイクを握って声を上げた。「雇用調整助成金を活用して派遣社員の雇用を守ってください」「雇い止めを撤回してください」

1人から加盟できる労働組合「総合サポートユニオン」の仲間たち十数人も一緒だ。
目の前のオフィスビルには、女性が登録していた派遣会社が入っている。この日初めてあった同社との団体交渉で、会社側が「ゼロ回答」だったとして抗議に来ていた。

新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化した3月下旬。派遣先は、社員を在宅勤務に一斉に切り替えた。一方、派遣社員には「出社がいやなら有給休暇を」と告げた。感染は怖かったが、仕方なく出社を続けた。

感染リスクを減らそうと、4月下旬に有休を3日間とった。その直後、派遣先から労働者派遣契約を中途解除され、派遣会社から6月末での雇い止めを告げられた。理由を聞くと、派遣先のコロナによる売り上げ減少と、「在宅勤務を希望したから」。コロナでわかったことがある、と女性は言う。「派遣社員は、社員と同じ人間だと思われてもない」

「ある日突然、コマのように放置」

千葉県内のシングルマザーの女性(40代)は、葬儀場などで食事を提供する仕出し会社で14年間働いてきた。従業員約60人のうち50人超がパートの女性で、盛りつけや配送、配膳、接客までこなしていた。

コロナで会社は4月末から休業。経営が厳しくなり、「事業継続は厳しいかもしれない」と説明した。正社員の男性数人は、グループ内のほかの会社で仕事を続ける選択肢を示された。だがパートの女性たちは休業手当の支給もなく有休を取るしかなかった。

「なのはなユニオン」に相談し、25人で労組を立ち上げた。女性は取材に対して、「この職場で10年以上働くパートの女性が多く、私たちが切り盛りしてきた。それなのにある日突然、コマのように放置されたり、切られたりする。情けないし、悔しい」と憤った。

新型コロナは、サービス業を中心に非正規の女性たちが多く支える産業を直撃した

5月の労働力調査では、正社員は前年同月に比べて1万人減だったのに対し、非正規労働者は約61万人減。このうち8割近い約47万人が女性だ。「宿泊業・飲食サービス業」、「生活関連サービス業・娯楽業」は特に大きく就業者が減ったが、減った人のそれぞれ7割や8割が女性だった。

「声を上げれば会社は好き放題できない」
仕出し会社で働いていた女性に今月上旬、電話で近況を聞いた。会社は7月末で閉鎖すると伝えてきたという。組合側はそれまでの間、5月分まで遡及(そきゅう)して平均賃金の10割にあたる休業手当の支給を求め、会社も応じた。有休は労働者側が買い取る形となった。「会社側からここまで引き出せたのは労組を結成したから。みんなで声を上げれば会社は好き放題できないとわかった。今後の仕事にも生かせる経験です」

冒頭の派遣社員の女性は、「私の意見なんて、だれも聞いてくれると思っていなかった」。銀座でシュプレヒコールをあげた夜、「堂々としていて、立派だったよ」と仲間に言われ、はにかんだ。もう黙らない。女性はそう決めている。

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労組・労基署・ハローワーク、最悪の場合が生活保護。これが「コロナ失業」直面の場合の相談先。いざというときの駆け込み避難先の一覧表でもあればよいのだが。

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