澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

梅雨の晴れ間、徒然なるままに。

(2020年6月16日)
関東は6月11日に梅雨入り。平年より3日遅れだという。梅雨の晴れ間の早朝には、不忍池をめぐらねばならない。まず目につくのは、咲き誇る盛りの紫陽花。なんとも多種多様、色とりどりが楽しい。

アジサイは、日本の固有種とのこと。語源はいろいろあるようだ。「あづさあい(集真藍)」が転訛したものというのが、万葉かなの表記を根拠にした有力説らしい。ほかにも、「あづ(集まって)咲く」が語源との説も、「厚咲き」が転じたものとの説もあるという。

かつて、「紫(ムラサキ)」とは、「群れて咲く」花のことだと教えられて衝撃を覚えた。どうしてそれまで、気付かなかったのだろう。万葉の昔、関東平野には、「ムラサキ」が群生していたのだ、「ムラサキ」の花は白いが、その根から取れる染料の鮮やかな色を「紫」と名付けたのだ。今は、そのムラサキを目にすることはない。梅雨の季節、紫陽花にこそ「ムラサキ」の名がふさわしい。紫陽花の色をこそ、「紫」と呼ぶべきではないか。

いま、蓮池にはびっしりと蓮の葉が敷き詰められている。蓮の葉群落の、密生・密集・密叢である。蓮の華はまだ咲かない。目を凝らして、昨日(8月15日)一本の茎に小さな固い蕾があるのを見つけた。珍しげに見ていると、…「出たー」。噂の薀蓄おじさんである。「私は、今日は7つのツボミを見つけましたよ」「3日前からツボミが出ていますね」「最初の開花は、あと4~5日でしょう」「昨年よりもずいぶん遅れています」「一昨年は、記録的に早い開花で6月6日でした」と、貴重な情報。親切な薀蓄おじさんに教えられた場所で、15日には合計5個の蕾をメーッケた。そして本日(6月16日)は11個。中には、もうすぐ咲きそうな薄く紅がかった蕾も。

自宅から不忍池に直行するには、赤門から入って鉄門に抜ける、東大キャンパス横断コースが便利なのだが、今このコースがとれない。コロナ自粛以来赤門は、学外者通り抜け禁止となっている。加賀藩上屋敷の時代さながらに通行人は誰何される。遠回りの面倒はこの上ない。生協への買い物にも行けない。いつまで続く、東大自粛。

そういえば、6月15日の山本太郎出馬記者会見の見せ場。記者から、小池百合子の学歴詐称疑惑への感想を聞かれてサラリとかわし、「凄いですねー。カイロ大学の首席卒業だなんて。今度の都知事選立候補は、東大卒が二人(宇都宮と小野)でしょう。私だけが中卒」と笑い飛ばした。さすがに役者である。

私には、「れいわ」も「新選組」も、とても真面目なネーミングとは思えない。しかし、山本の難しい記者の質問を逸らさず、真面目に答え、ときには困ってみせる態度を好もしく思う。宇都宮陣営や野党の批判をせずに、周りの者を陽気に元気づける雰囲気を持っている。

2012年の都知事選。宇都宮陣営のキックオフ集会は、中野ZEROホールで開いた。このとき、山本太郎がゲストとして挨拶している。舞台の上で、彼は持ち前の明るい声で、「宇都宮さん、原発は全部止めなきゃだめですよね。とめましょうね」と語りかけた。そのきっぱりとした物言いが印象的だった。どう返答したらよいのか、さっぱり要領を得ない宇都宮とのコントラストが際立っていた。あれからもう8年に近い。

所属組織への忠誠ではなく、より普遍的価値への誠実を。

(2020年6月14日)

山口県田布施町職員の内部告発が話題になっている。正確に言えば、職員の内部告発に対する町当局の報復措置が話題となっている。この職員の告発内容は、固定資産税の過剰課税である。町民の利益のための公益通報者が不当な報復を受けているとの報道なのだ。公益通報者保護法の実効性が問われている。

事案の内容は比較的単純である。2年前、税務課に在籍していた男性職員が、固定資産税の徴収ミスを発見。上司に報告したが公表されなかったため、町役場に内部告発をしたという。ところが、徴収ミスの公表は2年も遅れた。公表のないまま、報復が始まった。その年度に役場側が出した男性職員の業務評価は最低の0点とされたという。それだけではなく、男性職員は2年間で3回の異動となり、今年(2020年)4月以降は、役場の建物から40m離れた公民館の一室に一人だけ隔離されているという。

人はその属する組織の上を伺ってヒラメとなり、忖度怠らず組織の論理に忠誠を尽くしておれば無難に世過ぎができる。今や、ヒラメを出世魚というのだそうだ。しかし、組織の論理を超える、高次の義務を意識すると、途端に面倒なことになる。公益通報者保護の制度とは、このような場合の拠り所を示すものである。

忠誠や忠実という言葉には、手垢にまみれた負のイメージがつきまとう。忠義となればなおさらのイヤーな感じ。かつて忠は身分社会の倫理とされ、その対象は主君であった。「君が君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」とは、何とムチャクチャな。近代日本では、臣民の忠の対象は天皇であり国家とされた。忠君愛国・滅私奉公…、支配者にとってこんな好都合な道徳はない。

この忠の身分的感覚は、象徴天皇制とともに戦後も生き残って、現在も払拭されていない。一人の人に幾層にも重なる社会構造のそれぞれが個人に忠誠を求めている。その主たるものは、従業員や公務員にとっての上司であり、また全国民にとっての国家でもある。忠誠や忠実が支配する側にとって好都合な徳目である事情は相変わらずなのだ。押しつけがましい愛社精神やら、愛国心やらには反吐が出る。

しかし、身分の上下や権力関係を捨象して、人が人に対し互いの人格を尊重し合うことや、人が社会に対して誠実に向かい合うべきことに疑問の余地はない。この普遍的な人の誠実義務が、組織の求める

森友案件での文書改ざんを命じられて自責の念から自死に至った赤木俊夫さんは「ぼくの契約相手は国民です」を口癖にしていたという。国民のために誠実であろうとする生来の心情と、所属する組織が要求する忠誠との板挟みとなって、国民への誠実を貫けなかったことの悔恨が死をも招いたのだ。

この社会の幾重もの組織の中で生きていかねばならない人は、組織の求める忠誠と普遍的な誠実さとの間での矛盾に晒され続けている。公益通報者保護は、このような矛盾の解決手段である。内部告発者を擁護することは、個人の誠実さを尊重することであり、個人の尊厳を護ることでもある。そして、さらに社会的な公益をも擁護することになるのだ。

当該職員だけの問題ではない。田布施町だけの問題でもない。日本社会全体の問題として、経過を明らかにし問題点を明確にしたうえ、然るべき救済措置と責任者への相当処分、さらに再発防止措置とその公報が行われねばならない。

薀蓄オジさん花の下での歴史の講義

言うまでもなく、花と花見は別物である。
http://article9.jp/wordpress/?p=10136

上野は飽くまで花見の名所であって、花の名所ではない。そのように思われがちだが、なかなかそうとも言いがたい。けっこう、多くの花があり珍しい花もある。上野の桜通りは封鎖されて今年の花見はできないが、今年も花は美しく咲いている。ソメイヨシノが主役の座を下りたいま、まばらな人影が、多様な花の美しさを堪能している。

上野の山には、56種の桜があるそうだ。ジュウガツザクラやオオカンザクラなど冬に咲くものもあるが、多くは今が盛り。不忍池の畔は、カンザン、イチヨウ、ウコン、シロタエ、コウカなど里桜の競演が見事である。ベニユタカの盛りは過ぎたが、ヤエベニトラノオ、エイゲンジ、バイゴジジュズカケザクラ、ギョイコウなど、珍しい品種もある。上野にこそふさわしいランランもあれば、かつてはソメイヨシノの片親と言われたコマツオトメ、あるいはアマノカワ、ソノサトキザクラ、フクロクジュなどという目を楽しませてくれる桜もある。イモセ、オモイカワ、マイヒメなどという小粋なネーミングのものも。

珍しい桜の多くは、この辺に出没する何人もの薀蓄オジさんに教わったもの。薀蓄を語るオジさんは桜に限らない。蓮の華の薀蓄を語る人、水鳥の生態について薀蓄をかたむける人、最近は立派なカメラを携えたカワセミの薀蓄おばさんにしばしば会う。教えを乞う姿勢さえあれば、この辺りは薀蓄に満ちている。

桜の下で究極の薀蓄オジさんに出会ったのはいつのことであったろう。真っ赤な夕日が本郷台のビルとビルの間に沈もうとしているころ。小柄で大きな帽子をかぶった、つよい東北なまりの雄弁おじさんに捕まった。薀蓄オジさんには、こちらから声を掛けての出会いが常で、向こうから声を掛けられたのは初めての経験。

客観的には明らかにアヤシいオジさん。それを意識してか、この方、「恥ずかしながら自分は文化庁の歴史審議官」と繰り返して名乗られた。そんな役職があるのかどうか、確かなことはいまだに分からない。最初はいいかげんに聞いていたが、いやいろんなことをよく知っている。ここ東叡山寛永寺の由緒から始まって、蕩々と江戸時代の各地の大名の内政外交、江戸の町の変遷、明治維新の経過、大東亜戦争の将官たちの評価、戦後の東京23区の成り立ち、NHK大河ドラマの裏話等々、語るところ面白く日はすっかり沈んで真っ暗になるまで桜の下での特別講義を拝聴した。

寒くなって来たのでお礼もそこそこに急いで帰ったが、翌日目覚めて以来、あれは本当にあったことなのか、桜に化かされたのではないだろうか。犬も歩けば棒に当たる。ときには、こんな薀蓄オジさんにぶつかることもあるのだ。もっとも、まだ、憲法を語る薀蓄オジさんにはお目にかかっていない。

(2020年4月9日)

コロナ感染の危機を、民主主義の危機にしてはならない。

新型コロナウイルス感染をめぐる世の雰囲気が、尋常でない。昨夜(3月25日)、小池都知事が緊急の記者会見を開き、現状を「感染爆発の重大局面」と表現した。「このままの推移が続けば、ロックダウン(都市の封鎖)を招いてしまう」とも言った。唐突な説明に、違和感を禁じえない。

私は、安倍も小池もまったく信用していない。安倍や小池が何かを言えば、まずはウソだろうと否定する。ウソとまでは思わぬ場合にも、裏があるだろう、どんな思惑でしゃべっているのだろう、引用のデータはおかしい、と身構える。眉に唾して聞かなければならないという、その姿勢が間違っていたことはなく、確信に揺るぎはない。

このような時期に、このような政治家しか持ち合わせのない日本の民主主義を心底情けないと思う。コロナ感染が本当に危険なら、何を今さら、オーバーシュートだのロックダウンなどと言い出したのか。オリンピック開催の強行に差し障りがあるからとしてこれまでは感染の危険性を過小に発表して騒がないようにし、オリンピック延期やむなしとなったとたんに権力を振り回す。安倍も小池も、国民からそう見られることを、不徳の至りとして甘受しなければならない。

こんなときにこそ、あらためて肝に銘じておきたい。人権や民主主義の危機は、常にもっともらしい理由を伴って登場する。ブレない醒めた理性が必要なのだ。「非常事態」を口実とした立法権の行政への白紙委任を警戒しなければならない。

ウィルス感染蔓延の防止という、容易には反対しがたい名目での権力の万能化が企図されている。軽々にこれを許容してはならない。「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点をこういうときにこそ、思い出さなければならない。

議論の出発点となつているデータが信用しがたい。毎日、いったい何人の検査を行ったのか。そのサンプルはどうして選定したのか。感染死者数は、どうして確定しているのか。肺炎死者やインフルエンザ死者の中に、コロナ感染死がないことは確認できているのか。結局は、PCR検査の受診者をどう選定するか次第で、感染者数も、重症者数もコントロールされているのではないか。蔓延している疑問に誠実に答える姿勢に欠けているのではないか。

さらに、述べておきたい。いかなる場合にも、議会を無視した行政府の専横を許してはならない。行政が非常の事態だからとして人権を制約しようとするときには、納得できる根拠を国民に示してその同意を得る努力をしなければならない。コロナ感染症についての疫学的基礎データの徹底した情報公開と国民への説明によって、採ろうとする方策への積極的同意を獲得しなければならない。それなくして、感染症蔓延防止に成功することはあり得ない。

哀しいかな、嘘とごまかしにまみれ、国民からの信を失った安倍晋三政権である。自分ファーストに徹して都民の支持を失った小池都政のやることである。国民・都民の積極的同意を得ることは、たいへんに困難であることを肝に銘じて、これまでとは違った真摯な姿勢でことに臨んでいただきたい。
(2020年3月26日)

「新型コロナウィルス感染リスク🆚安倍政権追及討論合宿」 ー ある日のある会合にて

A 次の議題です。
新型コロナウィルス肺炎が流行の兆しです。厚労省が不要不急のイベントの自制を呼びかけていますね。天皇誕生日の一般参賀が中止になり、東京マラソンの一般参加枠も取りやめ。自民党大会も延期だとか。近々に予定されている私たちの討論合宿についても再考すべきではないかとの意見が寄せられています。皆様のご意見はいかがでしょうか。

B 合宿が不要不急のイベントとは思いませんが、キャンセルもありじゃないでしょうか。このところの報道に家族が心配しています。新幹線もバスも、宿泊施設も、感染リスクを否定できません。感染拡大がおさまってから再度計画としてはどうでしょうか。

C 何を規準にどう行動すればよいか迷う問題ですが、この間の「市中感染」事例発生の報道を見れば、合宿はキャンセルというのが無難なところだと思います。合宿に代わる都内での小会議を設定することで、合宿が目指している課題を実現することも十分可能でしょう。

D 感染リスクは、実はそれほどではないと思いますよ。1臆2600万の日本の人口に対し、現段階では中国とクルーズ船での感染を除く国内の感染確認者はまだ2桁でしかありません。また、コロナウィルスの致死率は、インフルエンザよりは多少高い程度で、SARSよりは低い。健康な人が感染しても大部分は重症化せず、風邪のような軽い症状ですんでいます。インフルエンザの年間死亡者数は2018年が3000人を超え、2019年はそれ以上のようです。コロナにしてもインフルエンザにしても、合宿での感染リスクより、満員電車での感染リスクの方が高いと思います。

C まだるっこしいほどの検査態勢の不備から、現時点では正確な感染リスクを判断できません。それでも、武漢の実例は十分に恐ろしい実例です。インフルエンザと違って、新型コロナには予防も治療も期待できない。致死率は低くとも、感染した場合の患者の社会生活上のダメージは極めて大きい。しかも、感染経路不明な感染者が出ていることは、社会の至る所に感染リスクがあるということ。判断しかねるときは、安全側を取るべきが常識ではありませんか。

D 合宿強行を主張するつもりはありませんが、感染リスクを避けるために合宿を中止するなら、満員電車に乗るリスクを避けるために当面の都内での会議・企画の中止も求めないと矛盾すると思いますよ。

E コロナ感染リスクの有無もさることながら、この時期に、自粛ムードに乗せられてしまうことに抵抗感がありますね。まるで、天皇死亡後の自粛ムードを彷彿させる事態。世間がこの空気だからキャンセルが無難だというのは、体制順応ウィルスに感染の症状ではありませんか。

F 私は、今合宿を行うことの意義を再確認したいと思います。ご存じのとおり、国会情勢は共闘体制を固めた野党側が徹底して安倍政権を追い詰めています。もう一息で、現政権の「国政私物化」「嘘とごまかし」を完膚なきまでに暴くことができる。私たちが、その情勢を正確に認識し、国会の内外で何ができるか、何をなすべきかの意見交換と検討が、一刻の猶予も許さぬ課題となっています。予定のとおり、ぜひ実行すべきです。

G 賛成です。感染リスクだけではなく、合宿の必要性の認識が重要だとおもいます。親睦会の開催の可否であれば、感染リスクの有無や程度だけの議論でよい。しかし、今われわれが、改憲阻止や具体的な政権追及の課題をテーマに討論合宿をすることには緊急性があると思います。実施すべきでしょう。

H とはいえ、高齢者や基礎疾患のある人にリスクの高いことは報道されているとおりで、ご本人の判断での欠席は、尊重されなければなりません。その点は、十分に配慮が必要だと思います。

A この件だけで、大きく時間を割くことができませんので、お諮りします。
合宿は、予定のとおりに開催する。ただし、状況を踏まえて再度出欠の希望を確認する。そして、それぞれのご事情での判断を尊重して、決してご無理をなさらぬようご通知をする。
これで、いかがでしょうか。
ご異議ないものと判断して、次の議題に移ります。

(2020年2月24日)

「#募ってはいるが募集はしてない」「答弁してはいるが答えていない」を「さくら論法」と呼ぼう。

史上、首相として国民から敬愛される人物はまことに稀少である。多くは、警戒され、嫌われ、恐れられる人物だった。安倍晋三という現首相。これまでの歴代首相とはひと味違う。長期政権を維持してはいるが、こんなにも国民から軽侮されている首相も珍しかろう。その理由の一つは、極端なまでの身贔屓だが、もうひとつとして、決定的な国語の基礎能力不足をさらけ出していることがある。官僚の作文を朗読することはできるが、ルビがふられていないと「云々」も「已まず」も読めない。

その、これまでの「実績」に、この度はもう一つ加わった。桜を見る会についての「募集ではなく募ったという認識だった」「募ってはいるが募集はしていない」という答弁である。一国の首相のこの国語能力不足の顕在化は,対内的にも対外的にも,国家機密暴露というべき大問題である。しかも彼は、「美しい国・日本」などを語る国粋派なのだ。

実は、不誠実な答弁姿勢こそが真の問題点なのだが、これは一見して直ちに誰にも分かるというものではない。それにくらべて、昨日(1月28日)の衆院予算委員会における,宮本徹議員質問に対する、首相答弁の国語力レベルは誰の目にも分かり易い。

首相 「私はですね、幅広く募っているという認識でございました。募集してるという認識ではなかったのであります」

宮本 「私も日本語を今まで48年間使ってまいりましたけども、募るというのは募集するのと同じですよ。募集の『募』は募るっていう字なんですよ。総理はその認識なく、募っているという言葉を使っていたんですか?」

首相 「あの、それはですね、つまり事務所、がですね、いわば今までの、ですね、今までの経緯の中において、ふさわしい方々に声をかけていると」「いわば、それにふさわしい方ということでですね、いわば募っているという認識があったわけでございまして、例えばですね、新聞等にですね、広告を出して、どうぞということではないんだろうと、こう思うわけでございます」

 ルビがふってあれば「募る」を読めても、意味までは理解できていない。官僚が書いた原稿を棒読みしているだけだから、当然、反省の気持ちもない。たまに自分の言葉で話せばこのザマだ。(日刊ゲンダイ)

この発言が報じられると、Twitterでは「#募ってはいるが募集はしてない」というハッシュタグが生まれ、大喜利が始まった。「答弁してはいるが答えていない」「太っているが肥えてはいない」といった投稿が集まり、一時トレンド入りしたという。このフレーズを「さくら論法」と呼ぶこととしたい。

思い出すのは、一昨年の流行語大賞の受賞作の一つともなった、上西充子教授の「ご飯論法」である。

Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」
Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

これを「さくら論法」流に言い換えれば、
「朝ごはん食べないとは言ったが、朝食をとらないとは言ってない」
というわけだ。

早くも、「#募ってはいるが募集はしてない」は、「今年の流行語大賞候補第一号ですな」という呼び声が高い。

安倍流「さくら論法」の大喜利フレーズがネットに並んだ。「答弁してはいるが答えていない」「太っているが肥えてはいない」を筆頭に、なんとも出来がよい。しかも、面白いだけでなく、含蓄に富むものが多い。

投票しているが支持しているわけではない。

書き換えてはいるが改竄はしていない

毎日新聞を読んでいるが 毎日新聞は読んでいない

自由民主党であるが、自由でなく民主的でもない

危ないとは認識してはいるが、危険という認識はない。

愚かだという認識はあるが、愚鈍という認識もある?

「妻は公人じゃないんです。国からボディーガードとお付きの人が付く私人なんです」

労働をしたが 働いていない

訪問をしたが 訪れてはいない

後援会の会員を、幅広く募集して、桜を見る会に招待し、税金で飲み食いさせて接待したが、背任したという自覚はない。

答弁に立つが答えない

任は痛感するが責任取らない

隠蔽ではないと言うが黒塗り資料しか出してこない

言わばと言うが後に例えが出てこない

まさにと言うが後に確かな事柄が出てこない

圧力はかけていない。テレビが勝手に忖度するだけ。

「募る」と「募集」は違うと安倍首相。
いよいよ危険が危ない。
というか、こんな答弁をされては頭痛で頭が痛い。(山添拓)

読んでいるが 読書はしていない

強烈な眠気はあるが 睡魔は襲ってきてきない

成蹊大学法学部政治学科卒業ではあるが 勉強はしてない

っているが虚偽ではない

招待したけど、招いたわけではない、みたいな。

マズい部分隠したが改竄ではない。

総理だが総裁ではない(ときもある)
総裁だが総理ではない(ときもある)

炉心溶融してるが、メルトダウンじゃない

桜を見る会の名簿、破棄はしたが棄ててはいない

殴ってはいるが殴打してはいない

「それでは、それではですね、宮本さんは、み宮本さんは、まさに、思いが募る、ではなく、思いが募集する、とか、言うんですか?言う、言うんですか?」

コピーして何人でも募れます!(募集ではない)

大喜利見てきたけど、やはり元祖に勝てる人はいまだかつて居ない。
#安倍さんしかいない

これは、他の件にも応用が利く。

逃げてはいるが逃亡ではない (ゴーン)

政府チャーターだが無料ではない (利用者に8万円請求)

安倍晋三のことだから、「募ると募集するは意味が違う」なんてアホな閣議決定をやりかねない。

(2020年1月29日・連続更新2494日)

朝日川柳に見る年の瀬の世相

クリスマス・イブとやら。外つ国の神の御子の生誕に何の感興もなく、したがって何の反感もない。万世一系のまがまがしさよりはずっとマシな今宵の穏やかさ。

 イブよりは年の瀬。たまたま10日前、12月14日の「朝日川柳」(山丘春朗選)欄掲載句が、今年を振り返るにまことに的確で秀逸。投句者と選者の才能と炯眼に脱帽するばかり。もっとも、朝日川柳欄、いつもいつも秀逸句ばかりではない。この日の粒ぞろいは神の御業か。野暮を承知で秀句に感想の駄弁を。

 一字から万事が見える桜かな(東京都 鈴木英人)

「一事が万事」というがごとく、「桜」の一字からいろんなことか見えてくる。まずは政権の驕り。そして安倍晋三という人物の薄汚さ。さらにはその取り巻き連の、意地汚さ。嘘と誤魔化しがまかりとおる、この世の情けなさ。おや、「桜を見る会」とは、実は「政権末期の醜態と世相を見る会」であったか。

 信なくも立ち続けてるその不思議(兵庫県 妻鹿信彦)

政治の要諦は「信なくば立たず」である。ところが、この政権に限っては、国民の信をすっかり失ってもなお立ち続けている。満身創痍、膿にまみれ腐敗臭を放ちつつ、なお立ち続けているのだ。これほどの不思議はない。「弁慶の立ち往生」を思い出す。この政権は、もうすぐ立ったまま干からびて枯死に至るのか。

 支持率の落ちて天下の怒気を知る(愛知県 石川国男)

冬枯れの落ち葉が散る。落ちた葉が木枯らしに舞う。この落ち葉こそ我が身の姿。支持率の低落は、モリ・カケ・サクラ・テストと続く疑惑の数々がなせる業。政権トップによる政治の私物化への民の怒りだ。この天下に満ちた怒気が肌に突き刺さる。目に痛い。「桜」疑惑追及をかわしたはずの国会閉幕後にこの世論の風の冷たさ強さ。わびしき、年の暮れ。

 文科省目玉ふたつを落っことし(埼玉県 西村健児)

これこそ秀逸句。ふたつの目玉とは、安倍政権肝いりの大学入試共通テスト改革。英語民間試験の活用と、国語数学に記述式導入の試み。のみならず、下村博文と萩生田光一の二人でもあり、安倍にとっての支持率と改憲気運のふたつでもある。また、行政に対する国民の信頼と安倍政権に対する信任でもある。文科省は、これを見事に、落っことしたのだ。

 首里首里と奏で辺野古を忘れさせ(埼玉県 堀利男)

ウームなるほど。首里首里と世相が騒いでいるのは、政権が奏でる曲に乗せられているのかも知れない。なんとなく、「首里が通れば辺野古が引っ込む」という印象は否めない。ここは、「首里も辺野古も」でなくてはならない。あるいは、「首里はゴーで、辺野古はストップ」、「辺野古建設を止めて、浮いた金を首里に回せ」でなくてはならない。「首里城も辺野古もともに忘れまい」。

 逃げ切った男が仕切る税調か(青森県 大橋誠)

疑惑の人。グレイではない真っ黒けの甘利明経済再生担当相(当時)である。この人も、安倍の側近といわれた人。「その人の安倍との距離は、醜悪さに比例し廉潔さに反比例する」という、アベの法則を地で証明した政治家。思い出させるのは、何ゆえこんなあからさまな政治家の犯罪が不起訴とされた悔しさ。ああ、検察もアベ一強に忖度する存在になりさがったか。その人が、またうごめいている。

 あいにくと川柳はせぬ年忘れ(神奈川県 朝広三猫子)

これが、今年の掉尾を飾るにふさわしい一句。アベも、アソウも、ニカイも、萩生田も下村も、良民どもは年が変われば旧年のできごとはすっぱりと忘れてくれるはずと思い込んでいる。みんな盛大に「忘年会」をやっているだろう。大切なのは、「年忘れ」をして新たな年を迎えることだ。ところがおあいにくにも、「川柳はせぬ年忘れ」なのだ。年の暮れにも初春にも、梅のころにも桜のころも、「桜疑惑」もモリ・カケも、忘れてなるものか。

(2019年12月24日)

面従腹背は、悲哀か救いか

文部科学省の新事務次官に同省の藤原誠官房長が就任した。昨日(10月16日)藤原新次官は、職員向けのあいさつで「文科省の組織文化の形成過程をきちんと検証していかなければならない」と述べ、「面従腹背はやめましょう」と呼びかけたという。

これだけの報道なら分からんでもない。しかし、新次官が述べた「面従腹背やめましょう」の具体的内容が問題だ。
(1)仕事で議論すべきときは議論する
(2)大臣をはじめ上司が決めたことには従う
(3)いったん決めた後は議論のプロセスをむやみに外に漏らさない
の3つだという。いったい何だ、それは。

そもそも、ツラ(面)とハラ(腹)とは、違うぞなもし。ツラ(面)は世の中と向き合ってるとに、ハラ(腹)は自分自身と向き合っちょる。そやけん、ツラ(面)は世の中に合わせんばならんとに、ハラ(腹)までツラ(面)とおんなじにしたらば、自分ちゅうもんがないようになるぞなもし。次官はそこまで求めとるごつやね。

べらぼうめ、ツラ(面)とハラ(腹)とが違ってたまるか。ツラ(面)とハラ(腹)とを別々になんぞという芸当ができるのはろくろくッ首くらいのもんだろう。面従腹背やめましょうは、あったりまえのことだろう。

いんや、面従せにゃならんが宮仕えのつらいところ。世のしがらみはどもこもならん。せめて自分の腹のうちだけは自分のものにとっておこうということぞなもし。

なもしも菜飯もあるか。面従なんぞするから、腹背しなきゃならなくなる。最初から、面従よせばよい。まず、ハラ(腹)をきめる。決めたとおりのツラ(面)をしてればよいだけのことじゃないか。

それでも、「上司が決めたことには従え」ぞなもし。次官だって、「大臣の決めたことには従え」やし、その大臣も「総理の決めたことには従え」「上の上の考えを忖度しろ」ということぞな。

ウーン。「顔で笑って腹で泣く」。ほんに男はつらいよってことか。

いんや、「顔で笑って腹で泣く」のは面従腹背。そんなこつは許さんちゅうのが、「面従腹背やめましょう」ということぞなもし。
(2018年10月17日)

憲法と落語(その4) ― 「名人長二」では、無茶苦茶な刑事司法が語られている。

三遊亭圓朝とは、言わずと知れた落語界の大名跡。大名人として「大圓朝」とさえ言われる。大看板、大真打ち、大師匠。どこまでも「大」の付く別格の噺家。その技倆は伝説にのみ残されているが、幕末から明治の人とて録音はない。だから、圓朝の話芸そのものについては、誰しもが語りかねる。

写真は残されており、鏑木清方、河鍋暁斎などの人物画もある。それらを見る限り、面白い噺をして人を笑わせようというタイプにはみえない。人情話や怪談を専らにし、また多くの長編を創作して自演した。その速記録が、日本文学史上の言文一致体の形成に大きな役割を果たしたとされている。

速記録を見れば、なるほど大したものと思わざるを得ない。しかし、大圓朝の作だからなんでも結構かと言えば、そんなことはない。中には変な噺もある。

「名人長二」は、大圓朝創作の「変な噺」である。登場人物も多彩で、仔細を極めた筋書きだが、無茶苦茶なストーリーというしかない。

長い噺である。名人譚の見せ場である「仏壇こわし」の抜き読みなどは寄席や独演会にかかることもあるそうだが、私は聞いたことがない。志ん生のCDでは、各30分余で5話にまとめられている。何度か聞き直したが、やっぱり無茶苦茶だ。

時代は文政期。長二は、若いながらも名人の名を確立した指物師である。その名人気質や気っぷの良さの語りは聞いていて気持ちがよい。この名人譚だけでまとめておけば無難でよかったのにとも思うのだが、圓朝はこれをお白州ものとした。長二が、親殺しに及んで裁きを受けるのである。この点は、モーパッサンの短編「親殺し」を翻案したものとされている。この判決と、無理な判決理由をひねり出す過程が無茶苦茶なのだ。

あらすじをごくかいつまんで要約してみよう。
長二は、たまたま湯河原に傷養生の湯治に出かけて、自分の出生の秘密を知ることになる。自分はこの地で生み落とされて捨て子にされた。背中の傷は藪に捨てられたとき竹が刺さったためと聞かされれる。養父母は、これを拾って大事に育てたが、何も言わぬまま他界した。

その後、長二は亡き父母の菩提寺で、豪商亀甲屋幸兵衛とお柳の夫妻にめぐり遭う。長二は、贔屓にしてくれる幸兵衛とお柳を実父母ではないかと思うようになり、背中の傷を見せて問い質すが、夫婦は否定し続ける。そして、押上堤の場。長二は親子の名乗りをと迫り、これを拒否する幸兵衛が刃物をとりだし、もみ合いのなかで、長二は亀甲屋夫婦を殺害する。

長二は師匠の縁を切った上、奉行所に駆け込んで親殺しを自首する親殺しは大罪。南町奉行井和泉守の詮議が始まるが、長二は仔細を話すと親の恥が出るので話せない、このまま処刑して欲しいと言うばかり。さて、尊属殺をどう裁くか。

奉行の詮議の結果、29年前の「事件」が発覚する。実は、幸兵衛は長二の実父ではなく、長二の実父半右衛門殺しの犯人だったと判明。幸兵衛は、亀甲屋半右衛門の妻お柳と謀って半右衛門を殺し、亀甲屋を我が物としてお柳と夫婦におさまっていた。そして、そのとき生まれたばかりの長二を邪魔として捨てていた。

幸兵衛の殺害に関しては長二は親殺しではないばかりか、はからずも実父の仇を討ったことになる。ところが、問題として残ったのは、実母お柳殺しの罪状についてである。長二はまぎれもなく実母を殺したのだ。しかし、奉行と幕閣は、長二を何とか無罪にしたい。そこで、儒者・林大学頭の鑑定を依頼する。何とか無罪にする方策はないか、知恵をお借りしたいという趣旨である。

これに、大学はどう答えたか。青空文庫から引用する。
大學頭様は窃(ひそか)に喜んで、長二の罪科御裁断の儀に付き篤(とく)と勘考いたせし処、唐土(もろこし)においても其の類例は見当り申さざるも、道理において長二へは御褒美の御沙汰(ごさた)あって然るびょう存じ奉つると言上いたされましたから、家齊公には意外に思召され、其の理を御質問遊ばされますと、大學頭様は五経の内の礼記(らいき)と申す書物をお取寄せになりまして、第三巻目の檀弓(だんぐう)と申す篇の一節(ひとくだり)を御覧に入れて、御講釈を申上げられました。こゝの所は徳川将軍家のお儒者林大學頭様の仮声(こわいろ)を使わんければならない所でございますが、四書(ししょ)の素読もいたした事のない無学文盲の私には、所詮お解りになるようには申上げられませんが、あるかたから御教示を受けましたから、長二の一件に入用(いりよう)の所だけを摘(つま)んで平たく申しますと、唐の聖人孔子様のお孫に、あざなを子思と申す方がございまして、そのお子を白、あざなは子上と申しました、子上を産んだ子思の奥様が離縁になって後死んだ時、子上のためには実母でありますが、忌服(きふく)を受けさせませんから、子思の門人が聖人の教えに背くと思って、「何故に忌服をお受けさせなさらないのでございます」と尋ねましたら、子思先生の申されるのに、「拙者の妻であれば白のためには母であるによって、無論忌服を受けねばならぬが、彼は既に離縁いたした女で、拙者の妻でないから、白のためにも母でない、それ故に忌服を受けさせんのである」と答えられました、礼記の記事は悪人だの人殺ひとごろしだのという事ではありませんが、道理は宜く合っております、ちょうど是この半右衞門が子思の所で、子上が長二に当ります、お柳は離縁にはなりませんが、女の道に背き、幸兵衞と姦通いたしたのみならず、奸夫と謀って夫半右衞門を殺した大悪人でありますから、姦通の廉(かど)ばかりでも妻たるの道を失った者で、半右衞門がこれを知ったなら、妻とは致して置かんに相違ありません、然れば既に半右衞門の妻では無く、離縁したも同じ事で、離縁した婦(おんな)は仮令(たとえ)無瑕(むきず)でも、長二のために母で無し、まして大悪無道、夫を殺して奸夫を引入れ、財産を押領(おうりょう)いたしたのみならず、実子をも亡(うしな)わんといたした無慈悲の女、天道いかでこれを罰せずに置きましょう、長二の孝心厚きに感じ、天が導いて実父の仇を打たしたものに違いないという理解に、家齊公も感服いたされまして、其の旨を御老中へ御沙汰に相成り、御老中から直たゞちに町奉行へ伝達されましたから、筒井和泉守様は雀躍(こおどり)するまでに喜ばれ、…関係の者一同をお呼出しになって白洲を立てられました。

「離縁した以上は私の妻ではないから、子のためにも母でない」「だから、離縁相当のことをしでかしたお柳を殺しても、長二は母殺しにはならない」というのがこの噺のキー・センテンス。これが儒教であり、家制度なのだ。明治の聴衆は、この噺を違和感なく受け入れたのだろうか。さらに、半右衛門はお柳を離縁したわけではない。志ん生は「あの世で離縁したに違いない」と辻褄を合わせている。

こうして、判決言い渡し。長二は無罪。どころか、「非業に相果てたる実父半右衞門の敵を討ったのであるぞ、孝心の段、上にも奇特に思召し、青差拾貫文御褒美下し置かるゝ有難く心得ませい、且つ半右衞門の跡目相続」も、という無茶苦茶。念のためだが、この「上」というのは、天皇のこではなく将軍家斉のこと。圓朝は名君と持ち上げている。当時、天皇も将軍もおんなじようなものだったのだろう。

尊属殺が否定されたところで、通常の殺人罪は成立するはずだと思ったら、これも敵討ちとして無罪。実母を殺しても、実母が家長殺しなら、むしろ仇を討ったとしてのご褒美頂戴だという。長二本人には、敵討ちの意図などさらさらなかったのに、である。

この判決の無茶苦茶さは、おそらく巧みな話芸が糊塗したのだろう。聴衆は、不幸な過去を持ちながらも、気っ風のよい善人長二に感情移入させられている。その長二が無罪なのだから、終わり良ければすべて良しとなる。

しかし、お白州とは、裁きとは、刑事司法とは、「お上」の思惑次第でどうにでもなるのでは困るのだ。世の中には、善人集団と悪人集団とがあるわけではない。司法の役割は悪人集団に属する者を摘発して裁くことではない。犯罪を犯した者を、罪状に応じて処罰することに尽きるのだ。善人長二を救って大団円という、「大圓朝」の変な噺に欺されてはならない。
(2018年9月19 日・連続更新1998日)

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 選挙だもの。脅すくらいのことはあるだろう。
 そんなことでへこたれてはいけない。それをいかに乗り越えるかだ。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 政治だもの。ウソもごまかしもあるのは当然だろう。
 いちいち責任なんかとれっこない。いかにごまかし通すかだ。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 一強だもの。批判されたってどこ吹く風よ。
 甘ったれちゃいけない。食うか食われるかだ。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 権力者だもの。腹心の友に甘い汁を吸わせるくらいはあたりまえ。
 学部一つ作るくらいで騒ぐんじゃない。あんな人たちには負けられない。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 自民党だもの。それとなく賄賂をねだるくらいのことはあるだろう。
 ばれたって大丈夫さ。検察もメディアもわが手にあるのだから。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 資本主義だもの。貧富の格差は必要悪だ。
 格差がなくなったら大変だ。貧乏人を金で操れなくなる。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 国会取り巻くデモの波。ウチのじいさん呑み込んだ。
 へこたれてはいけない。どうやって弾圧するかだ。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 軍隊だもの。ビンタもリンチもあるだろう。
 逃げてはいけない、逃がさない。殴れば殴るほど兵は強くなる。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 軍隊持たなきゃ国家じゃない。戦争できなゃ国家じゃない。
 改憲できなきゃ日本じゃない。取り戻そうぜ、大日本帝国。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 会社だもの上下の秩序が必要だ。パワハラもセクハラもやり放題だった。
 それでへこたれてはいけない。いずれは、自分もやる方になれるのだから。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 学校だもの。勅語の精神たたき込み、素直な良い子を作らなきゃ。
 「日の丸・君が代」否定するのは非国民。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 「テンノーヘイカの思し召し」その一言で、命までも投げ出した。
 あの時代がうらやましい。もう一度あの日本を取り戻そう。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 政治家にも教養があった。ミゾユウ・デンデンなんてなかった。
 今でよかった。これでも大臣務まるもの。

昔はもっと激しかった。こんなもんじゃなかった。
 隙を見せたら、強面記者から叩かれた。遠慮も会釈もあらばこそ。
 今は、一緒に寿司を食う。記者は仲良し、たいこもち。

(2018年9月18日・連続更新1997日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.