澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

祝・「憲法日記」2年間連続毎日更新

日民協ホームページの間借り生活に別れを告げ、本格的に当ブログを開設して「憲法日記」連載をはじめたのが2013年4月1日。その日から数えて、本日が730回目となる。2013年4月1日から2015年3月31日まで、365日を2巡したのだ。この間1日の休載もなく、730日間連続して更新した。暮れも正月も、日曜祭日も、そして出張の日も書き続けたことになる。この地味で面倒なブログにお付き合いいただいたありがたい読者とともに、2周年の連続更新を祝いたいと思う。

日民協ホームページに「憲法日記」を再開して連載を始めたのは2013年の元日から。2012年暮の総選挙で安倍改憲(壊憲)政権が発足したからである。いうまでもなく、「改憲」は明文改憲と解釈改憲の両者を指している。危機感大いに募らせて、何か自分でできることをしなければという思いからの憲法日記開始だった。かつて、「事務局長日記」「憲法日記」と日民協のホームページにはスペースを確保していた。その延長でのブログ再開だったが、ブログの内容はかつての牧歌的なものではなかった。

その理由の一半は、安倍内閣の暴走に対する危機感であるが、それだけではない。2012年暮れの都知事選で、私は宇都宮選対に参加して「革新共闘」の実態をつぶさに見た。のみならず、まったく思いもかけない不愉快な体験をして、「革新陣営」への忌憚のない批判の必要を感じた。批判のないところ、独善と怠惰と無責任がはびこる。批判こそが革新の襟を正し背筋をピンと伸ばすことになる。

私が当ブログで「宇都宮君 立候補はおやめなさい」のシリーズを始めるのは2013年の暮れからだが、この年の1月以来のブログの雰囲気は私の気分を反映したものとなっていた。日民協のホームページに間借りするには不穏当と映ったかも知れない。

「選対事務局のお粗末さはわかりきったこと。その誤りは多々あっても、ともかく形だけでも共闘が成立していることが前進であり、明日につながることとして評価すべきこと」「誤りがあっても、不十分でも、革新の共闘を育てる努力をしなければならない」「批判よりは、まず協力」と、そんな意見をずいぶん聞かされた。が、私には到底納することができなかった。

日民協のホームページにいつまでも腰を落ち着けていることは、日民協にとっても私にとっても、落ち着きが悪く無理なことが次第に明らかになってきた。3月末日までは日民協ホームページに間借りし、試験的に今のブログを立ち上げて併走した準備期間を経て、4月1日に当ブログに引っ越した。

昨年の「一周年記念」のブログにこう書いた。
「間借りは窮屈でいけない。みすぼらしくとも、自前の持ち家が精神的にはのびのびとしてよろしい。せっかくのブログが、大家への気兼ねで、卑屈に筆の鈍ることがないとも限らない。一国一城望むじゃないが、せめて持ちたや自前のブログ。」

そのとおりではないか。2年前、引っ越して独立し、以来自由にものが言える開放感を味わい続けている。もの言わぬは腹ふくるるわざ。日民協のホームページの間借りのままでは、宇都宮選対批判は書けなかったかも知れない。書けたとしても遠慮で筆が鈍ったろう。自主・独立こそあらまほしきこと。精神の自立のためには、そのための環境を整えなければならない。独立して正解だった。

また、1年前こうも書いている。
「365日書き続けての実感として言っておきたい。ブログとは、言論戦におけるこの上ない貧者の武器である。誰もが手にしうるツールとして、表現の自由を画に描いた餅に終わらせず、表現の自由を実質化する手段としての優れものである。まことに貴重な存在なのだ。」

私のブログの維持費用は、article9.jpというドメインの管理費にすべて含まれている。独立したプログ立ち上げや管理の経費は一切必要ない。貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどはさらに困難である。むしろ、不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。

このインターネットツールは、国民の一人ひとりを言論の受け手としてだけでなく、送り手として言論の自由の主体たらしめる。革命的な現象と言ってよい。

日本国憲法第21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と宣言する。しかし、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の主体はメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来国民個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられ、「知る権利」を享受するだけの存在となってしまっている。

ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。

丸々2年の連続更新は、もちろん通過点である。次は「1000日連続更新」が当面の目標。そしてその次が、「石の上にも3年」「ブログも3年続けば一人前」が待っている。あと1年書き続けよう。当面は、書き続けること自体に意味があるように思われる。少なくも、安倍の失脚を見届けるまでは書き続けたいものと思う。
(2015年3月31日)

次回山場の4月22日13時15分口頭弁論ご案内 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第39弾

私が被告として6000万円の賠償金支払いと謝罪文の掲載を求められている「DHCスラップ訴訟」(東京地裁民事第24部係属)。その次回法廷と報告集会のご案内です。

口頭弁論期日は4月22日(水)午後1時15分から、東京地裁631号法廷(東京地方裁判所庁舎6階)です。もちろん、誰でも傍聴できます。

恒例のとおり、閉廷後に東京弁護士会507号室(弁護士会館5階)で、1時間をメドに報告集会を開催いたします。弁護団からの解説や意見交換だけでなく、元朝日新聞の記者でオリコンからスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんに、ミニ講演をお引き受けいただきました。これまで毎回、憲法学者やジャーナリストに有益な講演をお願いしてきました。今回も、興味ある講演になるはずです。

烏賀陽さんは、朝日新聞勤務のあと『アエラ』の記者として音楽・映画などポピュラー文化のほか医療、オウム真理教などを取材し、ニューヨーク駐在の経験もあるそうです。コロンビア大学修士課程に自費留学して、国際安全保障論(軍事学・核戦略)で修士課程を修了という異色の経歴。

スラップ被害の実体験から、フリーランスになってからの執筆ジャンルの一つとして、スラップ訴訟を追っています。「俺たち訴えられました!」(河出書房新社、2010年3月。西岡研介氏と共著)、法律時報2010年6月号「SLAPPとは何か─『公的意見表明の妨害を狙って提訴される民事訴訟』被害防止のために」などが知られていますが、近々スラップに関する新著を出す予定だそうです。スラップの言論萎縮効果の害悪や、これを抑制しあるいは撲滅する制度設計などについて、お話しいただきます。

さて、法廷の進行は、次回が一つの山場となります。場合によっては、結審が見えてくる法廷になるかも知れません。

ちょうど昨年の今ごろ、週刊新潮にDHCの吉田嘉明会長が手記を発表しました。なんと、吉田嘉明から「みんなの党」渡辺喜美代表に対して、政治資金8億円が提供されていたというのです。その内、3億円については借用証が作成されたとのことですが、5億円については貸金であることを示す書類はないようです。カネの動きも、貸金にしては極めて不自然。そのほかにも、渡辺側の不動産を吉田が、渡辺の言い値で購入したことも明らかとなりました。このような巨額のカネが、政治資金規正法にもとづく届出のない裏金として動いていたのです。

この事件について、渡辺だけでなくDHC吉田側をも批判する論評は無数にありましたが、既に当ブログでご報告のとおり、吉田はその内の10件を選んでスラップ訴訟を提起しました。明らかに、自分への批判の言論を封じて、高額請求訴訟提起の威嚇による萎縮効果を狙ってのものです。

東京地裁に提起された訴訟10件の賠償請求額は最低2000万円、最高2億円です。私は当初「最低ライン」の2000万円でしたが、その後ブログに「口封じのDHCスラップ訴訟を許さない」と書き続けて、請求額は6000万円に増額となっています。

その10件のうち、折本和司弁護士(横浜弁護士会)が被告になっている事件は今年の1月15日に第1号判決となり、次いで3月24日に被告宋文洲氏についての第2号判決が、いずれも「原告完敗・被告完勝」の結果となりました。私の事件がこれに続く第3号判決になることが予想されます。

言論の自由は極めて重要な基本権ですが、常に絶対なものではありえません。その言論によって傷つけられる「被害者」側の人格的利益との調整が必要になってきます。その調整の基準が、言論における「事実摘示」と「意見・論評」とで、異なってきます。表現者側から見て、前者で厳しく、後者では緩やかなのです。

私のブログは、原告吉田が手記で自ら告白した行為の動機を、「自分の儲けのために行政規制を緩和しようとしたもの」と表現しました。当然に「意見・論評」に当たるはず。原告はこれを「論評」ではなく、「事実摘示」だと言って争っています。しかし、どちらにしたところで、原告が自ら明らかにした前提事実にもとづいた合理的な推論であり、この推論も真実であるか少なくとも真実と信じるについての相当性があることに疑問の余地はありません。

判断枠組みの基本は、1989(平成元)年12月21日の最高裁判決(長崎教師批判ビラ配布事件)です。「前提としている事実が真実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉侵害の不法行為の違法性を欠く」と明言しました。これは「フェアコメントルール」(公正な論評の法理)を採用したものと評されており、論評型の典型判例です。

前回の法廷で、裁判所はこの判決を念頭に「論評としての域を逸脱してはいないかどうか」が争点だと発言しています。これがメインのストリーム。

さらに、「論評としての域を超えた」は、「人格攻撃にわたるなどの表現の態様の問題」と、「推論の合理性を逸脱している」という両様の問題があり得ますが、どちらについても私のブログが「論評としての域を逸脱していない」ことは、明々白々というべきでしょう。

名誉毀損訴訟における「表現の自由と被批判者の人格的利益の調整」についての判断の在り方は、その言論をとりまく状況によって異なってきます。とりわけ、言論のテーマと批判の対象となる人物の属性が重要な基準。

私は、政治とカネという政治的に最重要のテーマの一つについて、社会的に有益な批判の言論を提供したのです。最も言論の自由が保障されてしかるべきなのです。

原告吉田は、自分を「私人に過ぎない」と言っていますがトンデモナイ。8億円を政党の党首に政治資金として拠出した人物は、高度の「公人」あるいはそれに準ずる者というほかありません。

彼は、自らの手記で、自分が経営する化粧品・サプリメントの事業に関して厚労省の規制チェックを桎梏としていることを臆面もなく語っています。そのような彼が、規制緩和=脱官僚のために巨額資金を拠出したというのですから、合理的な推論として「自分の儲けのために行政規制を緩和しようとしたもの」との批判は甘受しなければなりません。

被告弁護団は、現在作成中の準備書面で規制緩和問題についてもふれ、ブログ記事の論評が正鵠を射たものであること、いかなる意味でも「論評としての域を超えた」ものではないことを論述して、少なくとも裁判所が関心をもつ点についての主張は完了します。

裁判所が今後の進行について次回以後をどう訴訟進行することとするか、4月22日判断があろうと思われ、当日の法廷は一つの山場となるはずです。ぜひ、法廷傍聴と報告集会にご出席ください。
(2015年3月30日)

すべてのハラスメントを一掃して、個人の尊厳が確立された社会を

個人の尊厳は尊重されねばならない。しかし、現実の社会生活においては、強者があり弱者がある。富める者があり貧しき者がある。生まれながらにして貴しとされる一群があり、人種・民族・門地により差別される人々がある。時として、強者は横暴になり、弱者の尊厳が踏みにじられる。

憲法は「すべて国民は個人として尊重される」(13条)と宣言し、「法の下の平等」(14条)を説く。これは社会に蔓延する、個人の尊厳への蹂躙や差別の言動を許さないとする法の理念の表明というだけではない。その理念を実現するための実効性ある法体系整備の保障をも意味している。個人の尊厳と平等が確立された社会を実現するには、憲法13条や14条をツールとして使いこなさねばならない。

その具体的な手法の一つとして、社会は「ハラスメント(Harassment)」という概念をつくり出した。弱い立場にある者、差別される側からの、人間の尊厳を侵害する行為の告発を正当化し勇気づけるための用語である。言葉が人を励まし行動を促すのだ。

ハラスメントの元祖は、「セクハラ」(セクシャル・ハラスメント)である。弱い立場にある女性の尊厳を傷つける心ない男性側の言動を意味する。ジェンダー・ハラスメントと言ってもよい。強者の弱者に対する不当な人権侵害は糾弾されなければならないとする基本構造がここに示されている。

同じく、職場の上司がその立場を笠に着て、部下に対してする不当な言動は「パワハラ」(パワーハラスメント)となる。企業こそは人間関係の強弱が最もくっきりと表れるところ。取引先ハラスメントも、下請けハラスメントもあるだろうし、古典的には労組活動家ハラスメントも、権利主張にうるさい社員ハラスメントもある。

強者の不当な言動が被害者を精神的に痛めつける側面に着目するときは、「モラハラ」(モラルハラスメント)とされる。セクハラも、パワハラも、モラハラの要素を抜きにはなりたたない。

強者が弱者に対してその尊厳を蹂躙する不当な言動という基本構造から、個別のテーマで無数のハラスメント類型が生じる。

学校を舞台にした校長や管理職から教職員に対する陰湿なイヤガラセは、スクールハラスメント、あるいはキャンパス・ハラスメントとして把握される。部活やクラスのイジメやシゴキも、これに当たる。大学の場でのこととなれば、「アカハラ」(アカデミック・ハラスメント)である。

職場や学園で、「俺の注いだ酒が飲めないと言うのか」「さあ呑め。イッキ、イッキ」という、「アルハラ」(アルコール・ハラスメント)。周囲の迷惑を顧みず、煙を撒き散らす「スモハラ」(スモーク・ハラスメント)。

もっと深刻なのが、「結婚を機に退職するんだろう」「戦力落ちるんだから、職場に迷惑」という「マリッジ・ハラスメント」。そして、最高裁が「妊娠を理由にした降格は男女雇用機会均等法に違反する」と判決してにわかに脚光を浴びることになった「マタニティ・ハラスメント」(マタハラ)である。差別は職場だけでなく家庭生活にもある。DVにまで至らなくとも「ドメステック・ハラスメント」があり、「家事労働ハラスメント」も指摘されている。

それ以外でも、人間関係の強弱あるところにハラスメントは付きものである。医師の患者に対する「ドクハラ」(ドクター・ハラスメント)、弁護士のハラスメントも大いにありうる。聖職者の信者に対する「レリジャス・ハラスメント」もあるだろう。ヘイトスピーチとされているものは、「民族(差別)ハラスメント」「人種(差別)ハラスメント」にほかならない。

安倍政権の福祉切り捨てや労働者使い捨て政策は、国民に対する「アベノハラスメント」(アベハラ)である。本土の沖縄県民に対する居丈高な接し方は、「沖縄ハラスメント」(オキハラ)ではないか。

東京都教育委員会が管轄下の教職員に「ひのきみハラスメント」を継続中なのはよく知られているところ。これとは別に、「テンハラ」という分野がある。「天皇制ハラスメント」である。「畏れ多くも天皇に対する敬意を欠く輩には、断固たる対応をしなければならない」とする公安警察の常軌を逸したやり口をいう。ハラスメントの主体は警察、強者としてこれ以上のものはない。テーマは天皇の神聖性の擁護、民主主義社会にこれほど危険なものはない。典型的には次のような例である。

市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバーであるAさんは、半年以上にわたって公安刑事の執拗な尾行・嫌がらせを受けた経験がある。その尾行の発端となったのは天皇来訪に対する抗議の意思表示だった。
国民体育大会の競技観戦のためにAさんの近所に天皇夫妻がやって来た。市は広報で市民に「奉送迎」を呼びかけ、大量の日の丸小旗を配布した。このときAさんは、「全ての市民が天皇を歓迎しているわけではない」ことを示そうと、日の丸を振る市民の傍らで、天皇の車に向けて「もう来るな」と書いた小さな布を掲げた。それだけのこと。「憲法で保障された最低限ともいえる意思表示でした」というのがAさんの言。

その数日後から公安刑事の尾行が始まった。尾行は、決まって天皇が皇居を離れてどこかに出かける日に行われた。自宅付近・職場・テント村の活動現場などAさんは行く先々で複数の公安刑事につきまとわれた。刑事は隠れることもなく、Aさんに数メートルまで接近したり、職場のドア越しに大声を出すといった嫌がらせまでしたという。そして、極めつけが「あんなことしたんだからずっとつきまとってやる」というAさんに対する暴言。これが、テンハラだ。

Aさんを支援する立川自衛隊監視テント村や三多摩労働者法律センターは、次のように言っている。
「これまでも、天皇の行く先々で同様のことが行われてきました。国体や全国植樹祭といった天皇行事が行われるたびに、公安警察による嫌がらせや、微罪をでっち上げて逮捕する予防弾圧が繰り返されてきました。『不敬罪』の時代ではありません。天皇制に批判的な表現は、天皇の前でも当然保障されるべきです」

すべてのハラスメントを一掃して、個々人の尊厳と平等が擁護される社会でありたいものだと思う。
(2015年3月29日)

都教委の「新教育長」人事に注目ー期待したいところだが…さて。

「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の弁護団会議には、弁護士だけでなく原告の皆さんも出席して活発に意見を述べている。弁護団は、原告から必要な情報を得ているというにとどまらない。長年教職にある者の意見に耳を傾けているのだ。とりわけ、弁護士だけでは理解不十分な、教育条理に関する原告の見解は貴重だ。通常の事件依頼者と受任弁護士という関係とはひと味違う、教育専門家と実務法律家の親密な共同作業が必要なのだ。それなくして、この教育訴訟をどのように進行させるべきか的確な方針を期待し得ない。また、会議のテーマは必ずしも、法的な問題に限られない。関連して多方面に及ぶことになる。

最近の弁護団会議で、以下のような意見交換があった。
「10・23通達から11年余が経過した。この間、日の丸・君が代強制という問題が、自由闊達であるべき教育現場をいかに荒廃させているか。この点を明らかにすることが、都教委の教育の自由に対する侵害や不当な支配としての違憲・違法性の法的主張に直結すると思う」

「10・23通達以前の都立校の教育がどのようなものであったか、卒業式や入学式はどのような理念でどのように準備され、どのように感動的であったか。それが、10・23通達でどんなに変わってしまったか。それを総括しなければならない」

「それだけでなく、日の丸・君が代強制問題は、それ自体が独立して完結した問題となっているのではない。公権力による教育統制の一端なのだから、公権力の側がこの問題を利用しつつ、権力的な教育統制をどのように進行させているかという全体像を明確にする必要がある」

「同感だが、当時の仇役は姿を消した。石原慎太郎は退いて舛添知事に代わった。横山・米長・鳥海・内舘らの当時の教育委員も全部入れ替わった。その結果、東京都の教育行政は少しはマシになっているということはないのか」

「とんでもない。最近はもっと酷くなっていると言ってよい。以前は形式的には鄭重だった原告団の要請に対して、最近はまったく耳を貸そうとしない。問題を指摘し、これを定例の教育委員会に報告し検討するよう要請しても、露骨に拒絶される」

「しかも、教育庁の事務方は、われわれが提供する情報や見解を遮断するだけでなく、教育委員には自分たちに都合のよい不正確な情報と見解だけを吹き込んでいる。教育委員は、事務方の言い分しか知らず、最高裁が何を言っているか、まったく認識がないものと考えざるをえない」

「とはいえ、最高裁判決で、戒告はともかく減給・停職の処分は違法として取り消された。要するに最高裁は、都教委のやり口はあまりに酷い、常軌を逸したやり過ぎ、と批判したわけだ。このことが都教委全体の反省材料とはなっていないのだろうか」

「都教委は反省のかけらもなく、別の攻撃方法を探している。減給・停職の処分ができないとなるや、服務事故再発防止研修に藉口して徹底したイヤガラセを始めた。とりわけ、校内研修の繰りかえしの威嚇効果が大きい」

「しかし、舛添現知事は、元知事の石原やその後継を看板にした猪瀬前知事とは明らかに異なった常識人にみえる。明確に石原猪瀬体制の批判もしている。知事の交替による教育行政への影響は、見えないのだろうか」

「知事には、オリンピックの成功が第一の関心事ではないか。そのための、都市間外交などは評価しうるが、教育問題で都議会保守派を刺激したくはないのだろう。ましてやオリンピック推進の立場は、日の丸・君が代強制問題にものを言いにくくしている」

「教育庁職員OBの皆さんが、現在の頑な東京都の教育行政を批判している。当時と今と、何が違っているのだろうか。現在の職員は、不本意ながら、上に従っているということではないか」

「最初は強引で無理無体な押しつけだったものが、時間の経過とともに常態化した側面は否めない。また、この強制加担が出世コースから外れないための試金石だという認識もあるのではないか。職員がかなり主体性をもって強制加担をしている節が見える」

「確かに、舛添知事になってからの都庁内の雰囲気は、石原・猪瀬時代とは明らかに違ってきている。ところが、教育庁だけが旧態依然なのだ。石原も、初当選から10・23通達を出すまでは4年余の時間を要している。その間の周到な教育委員人事を変えて反憲法的な石原教育行政を確立して、教育に介入した」

「舛添教育行政が正気を取りもどすためには、何よりも教育委員人事が大切だ。次の教育委員人事に注目しなければならない」

その注目の教育委員人事、しかも4月1日からの新制度における教育長人事が昨日(3月27日)の都議会本会議できまった。現在の比留間英人教育長の横滑りではなく、中井敬三(現・財務局長)という初めて耳にする名前。比留間英人は勇退だと報じられている。かつて10・23通達体制の構築に蛮勇を振るった横山洋吉教育長が、教育長退任の後には副知事となったような優遇は受けなかった。そして、教育庁内部からの新教育長人事ではなく、これまで手の汚れていない他局からの人選である。

報じられているところでは、中井敬三・財務局長(59)は、一橋大卒で1978年に都に入庁。病院経営本部長や港湾局長を経て、2012年から現職だという。なお、従来は知事が教育委員を任命後、教育委員会が教育委員長・教育長を選任した。しかし、新制度では、知事が直接教育長を任命することとなった。大きな批判の中での新制度である。

その中井敬三新教育長に注目せざるを得ない。どのような事情あって、この重要ポストに就くことになったのだろうか。共産党も含んでの都議会全会一致の承認である。過剰な期待は禁物だが、もしかしたら舛添中道カラーの布石かも知れない。もしかしたら荒廃した教育現場再生への第一歩となるのかも知れない。まあ、期待を裏切られたところで、これ以上悪くはなりようがなかろう。
(2015年3月28日)

安倍政権批判こそが統一地方選挙の課題だ

昨日(3月26日)の10道県知事選の告示で、2015年統一地方選の前半戦の幕が開いた。4月12日(日)の投票日には、同知事選だけでなく、5政令指定都市市長、41道府県議会議員、17政令指定都市議会議員の各選挙の投票がおこなわれる。

そして後半戦の投票日が4月26日(日)。この日は、政令指定以外の市区町村長とその議会議員選挙の投票。

統一地方選としては、この度が18回目となるようだ。その第1回は、戦後間もない1947年4月。文字どおり全国統一の地方選挙だった。新憲法制定に伴う国と地方の議会構成のためにおこなわれたもの。

戦前にも、不十分ながら地方自治の理念と制度はあった。1925年の男子普通選挙(衆議院議員選挙法改正)に伴う翌26年の地方制度改正によって、市町村会議員、道府県会議員の各選挙に普通選挙制が導入された。市長は市会による選挙により選任され、町村長選任時の府県知事の認可は廃止された。もっとも、知事は新憲法制定まで官選のままで、官選知事は内務官僚出世コースの上がりのポストとされた。

敗戦後、「占領政策」の一環として、1946年9月に府県制が改正され、従来の官選地方長官(府県知事・北海道庁長官・東京都長官)は、住民の直接投票によって選挙される公選制都道府県知事となった。

そして、1946年11月に公布された新憲法は、旧憲法にはなかった地方自治の章を設け、4か条の地方自治に関わる原則を規定した。地方自治体の首長と議会議員は、住民の直接選挙によることが憲法上の制度として確立した。

翌47年5月の日本国憲法施行を目前とした同年4月、新しくできた参議院を含む両議院の議員選挙と、これも新たな知事公選を含む地方の首長と議会議員の選挙が全国一斉におこなわれた。初めての女性の政治参加、戦前非合法だった日本共産党も公然と国民の前に姿を現した。おそらくは、世の中が変わったことを国民が最も強く意識した政治参加の時であったろう。

手許の年表(吉川弘文館「日本史総合年表」)によれば、
 4月 5日 第1回統一地方選挙(知事・市区町村長選挙)
 4月20日 第1回参議院議員選挙(全国区・地方区)
 4月25日 第23回衆議院議員総選挙
 4月30日 都道府県議会・市区町村議会議員選挙
とある。この4月には国民は4投票日に、7回の投票をしたことになる。当時の国民には、自らがこの国をつくっているという実感があったことだろう。

私事にわたるが、私の父もこのとき、盛岡市議に立候補している。戦時中は関東軍の兵士として満州に駐屯し、終戦は弘前で迎えた。戦後盛岡市の職員として復帰し、33歳での市議戦への挑戦だった。推薦母体は日本社会党。結果は「惜敗だった」と聞かされた。のちに懇意になった岩手県共産党幹部の柳館与吉さんが同じ選挙に立候補しての落選組。私の父のことをよく覚えてくれていた。戦争を終えて、新生日本をつくっていこうとする若人たちの熱気が渦巻いていた時期であったろう。

地方選には国政とは別の課題がある。とりわけ、今回地方選は、地域の疲弊した現状と、その再生の在り方が、多くの人の関心事として浮かび上がっている。資本の最大限利益追求を積極的に容認する新自由主義政策は、必然的に競争力の弱い部分を容赦なく切り捨てることになる。そのことが、「中央」に対して競争力の弱い「地方(地域)」の疲弊と衰退をもたらし、「地方消滅」論すら喧伝される事態となっている。アベノミクスの負の側面である。

いま現政権は「地方創生」の看板を掲げているが、その政策の内実は、国家戦略特区構想や、農協切り捨て、TPP参加、カジノ合法化などに象徴されるように、中央資本による地方侵蝕を促進するものといわざるを得ない。

「地方創生」とは、これまで「地方(地域)」を支えてきた農・林・牧畜・漁業や地場産業にまで競争至上主義を持ち込み、結局はいっそうの地方衰退をもたらすものではないか。そのために、「地方(地域)」経済が切迫した危機にあり、それゆえのコミュニティの崩壊が危惧されている。

地方(地域)の再生とは、本来は住民一人ひとりの生活の向上をもたらすものでなくてはならない。にもかかわらず、財界と政権は、地域住民を切り捨てたうえでの、これまでの地域コミュニティとはまったく別ものとしての地方「創生」をたくらんでいるごとくである。

米価切り下げ、農協攻撃、TPP、農地法改正、特区への中央資本流入等々。これまで伝統的に保守の地盤とされてきた地方は、安倍政権に離反せざるを得ないのではなかろうか。この4月の統一地方選の結果が注目される。

それだけにとどまらない。安倍政権は、国政選挙の端境期に憲法を蹂躙する危険な政治を強行している。今回の統一地方選は、安倍政権の暴走への歯止めの選挙としての役割を果たすだろう。地方の立場からのアベノミクス批判としても、あるいは沖縄問題を含む日本の平和を守るためにも、自公の与党勢力にノーを突きつけ、さらに自公の政策を右側から引っ張っている次世代の党や維新の党を、投票行動によって批判したいものと思う。
(2015年3月27日)

恐るべき法感覚ー維新議員の「残業代支払わない」宣言

議会というところは、諸勢力、諸階層、諸階級の代表が、それぞれの利益を代弁してせめぎ合うコロシアムだ。有権者は、どの政党、どの議員が自分の味方で、敵は誰なのかを見極めなければならない。多くの政党や議員が、騙しのテクニックに磨きをかけて、庶民の味方を装う。「オレオレ詐欺に引っかかってはなるものか」という、あの細心の注意が必要なのだ。

時にホンネが語られることがある。ついつい議員の地金が出る。メッキがはげ、衣の下から鎧が見える。これを見逃してはならない。

その典型例が、昨日(3月25日)の衆議院厚生労働委員会での、維新の党足立康史議員(比例近畿)の発言。これは、維新の党が誰の味方で誰の敵であるかを、よく物語って分かり易い。同時に、維新の党のレベルを物語る点でも興味深い。

共同配信記事は以下のとおり。短いがまことに要領よく事態をとらえたもの。

「維新議員、秘書残業代不払い宣言 『労基法は現実に合わない』
 維新の党の足立康史衆院議員(比例近畿)は25日の厚生労働委員会で質問に立ち、元私設秘書から未払いの残業代700万円を請求されたことを明かし『払うことはできない。私たち政治家の事務所は、残業代をきっちりと労働基準法に沿って払えるような態勢かと問題提起したい』と述べ、未払いを正当化した。
 足立氏は『私は24時間365日仕事をする。そういう中、秘書だけ法に沿って残業代を支払うことはできない』と持論を展開。元秘書からの請求に対しては『ふざけるなと思う』と強弁。
 取材に対し『労基法は現実に合っておらず、見直しが必要だ。議論を喚起するために発言した』と述べた。」

「ふざけるな」と言いたいのは、まずは未払いの残業代を請求している元秘書氏だろう。そして、おそらくは現役の同議員秘書氏もだ。うかうかしていると残業代を含めた未払い賃金の請求権は2年で時効になる。早めに手を打っておくことをお勧めする。

それだけではない。すべての労働者が「足立議員よ、フザケルナ」と言わねばならないし、法による秩序を大切に思うすべての国民が「維新の党よ、フザケルナ」と言いたいところだ。私は、法による秩序すべてが守るに値するという立場ではない。しかし、社会法の典型として弱者を保護する労基法は厳格に遵守されねばならないことは当然だ。仮に、法改正を要するとの意見を持っていたとしても、現に存在する法規に違反することは許されない。この維新議員、恐るべき法感覚と指摘せざるを得ない。

いうまでもなく、残業には割増分(25%)を付した賃金を支払わなければならない(労基法37条)。その支払いを拒絶することは犯罪に当たる。刑罰は6か月以下の懲役または30万円以下の罰金である(労基法119条1項)。足立発言は、国会と公の場での犯罪宣言にほかならない。足立議員は、告発され厳重に処罰されてしかるべきだ。

念のためにユーチューブで彼の質問を聞いてみた。「自分はこういう労働基準法を改正するために議員になった」とまで言ってのけている。臆面もなく、強者の側に立って、弱者保護の法律をなくしてしまおうという使命感。こんな議員、こんな政党に票を投じることは、自分のクビを締めることになる。

画面を見つつ納得した。なるほどこれが維新の役割なのだ。この維新の議員は、「残業代ゼロ法案」を提案している悪役・政府与党の政務三役までを品良く見せている。こんなお粗末な手合いが、維新の党を作り、議員になっているのだ。民主主義の堕落というほかはない。

この足立という議員。元は「みんなの党」支部長からの転身だという。2012年の総選挙では、陣営から選挙違反の逮捕者を出している。投票呼びかけの電話作戦を担当した女性運動員3人に時給約800円の報酬を支払う約束をしたという被疑事実。維新全体がそうだが、コンプライアンス意識に問題あり、なのだ。

「ブラック議員」というネーミングが、まことにふさわしい。ブラック企業、ブラック社長、ブラック選対だけではない。ブラック政党、ブラック政治家、ブラック議員、そしてブラック政権だ。この世にブラックが満ちている。

さて、今日から統一地方選挙に突入だ。ブラック掃除のチャンスである。残念ながら、足立議員は今回は選挙民の審判を受けないが、同類の維新を一掃することは可能だ。労働者の利益のためにも、民主主義の劣化防止のためにも、自民とともに維新にノーを突きつけよう。
(2015年3月26日)

「粛々」とではなく「轟轟」とー辺野古沖埋立工事停止要求の声を上げよう

いったいいつころから、権力者は「粛々と」という言葉を使うようになったのだろう。粛の原意は、厳粛、粛然などの熟語に表れている「おごそか」「つつしむ」「ひきしまる」などの意味のようだ。これに加えて静粛の「しずか」も意味している。「鞭声粛々夜河を過る」の粛々も、「静かに」、「ひっそり」ということ。これに「やや緊張して」のニュアンスが感じられる。

権力を持つ者、力の強い者、法的な権利性に自信をもつ者は、騒ぐ必要がない。誰にも遠慮したり配慮したりすることなく、「粛々と」ことを運ぶことができる。その意味で、「粛々と」は権力者の余裕を誇示する用語となっている。「下々がどう騒ごうと、なんの痛痒もない。やりたいようにやらせていただくまでのこと」という語感が込められている。

これに対して、力なき者、弱い立場にある者は、粛々とはしておれない。大いに騒ぎたてなければならない。力弱き者が力を獲得するためには、まずは多くの人に訴えなければならない。こちらは「轟轟と」ことを進めなければならない、あるいは「喧々囂々と」だ。

今回の辺野古沖海面埋め立て工事の停止指示をめぐる議論においても、国は「粛々と」という言葉を使っている。菅官房長官は、「翁長氏の指示は違法性が重大かつ明白で無効だと判断」「法律に基づいて工事を粛々と進めることに全く変わりはない」と言うのだ。たしかに、「違法性が重大かつ明白」ならば、知事の工事停止指示は「無効」となる。無効とは、なんの法的効果ももたらさないということ。ならば、指示を無視して、「粛々と工事を進める」ことができる。国は工事を継続するために何の手続も必要ないのだ。

ところが、国は大いに慌てて農林水産大臣に対する審査請求の申立をした。併せて、執行停止も申し立てた。知事の岩礁破砕許可申請という歴とした行政処分を待ってからではなく、許可条件にもとづく工事停止指示に対する不服申立であり、執行停止である。国の、衝撃の大きさ、慌てふためいている心情がよく表れている。

県の工事停止指示は、あくまで知事による岩礁破砕許可に付された条件を根拠とするものである。これに行政不服審査の要件としての処分性が認められるとする国の主張は自明ではない。また、岩礁破砕許可の条件が遵守されているか否かを調査する必要があるとの県の言い分を、理由ないとして一蹴することは農水相としてもなかなか困難ではないか。

とは言え、農水相は内閣を構成する一員である。審査請求に対して国の望むような裁決を出さざるを得ないということになる公算も大きい。その場合、「工事停止指示に関する執行停止申立」も認容されることもあり得る。なにせ、プレーヤーとアンパイアが一心同体なのだから。

しかし、そうなったところで、県が本気になって岩礁破砕許可を取り消してしまえば、結局は無駄な手続だったことになる。あらためての取消処分に対する行政不服審査の申立が必要になる。そして、引き続いての行政訴訟係属となり、あらためての執行停止申立手続きが進行することにもなる。

このような法的手続における国の強硬姿勢は、沖縄の民意をますます反基地、反米、反政権に追いやり、新辺野古基地建設などは事実上不可能になっていくだろう。時あたかも、統一地方選挙目前である。政権には痛手となるだろう。

さて、行政不服審査手続に及んだ国の態度は、もはや「粛々と」などというものではない。まったく余裕なく、髪振り乱しての手続申立である。粛々と工事を進捗させるなどと言っておれないことを表白している。既に騒がざるを得なくなっているのだ。

一方の沖縄県側。こちらは国にも増して大いに騒ぐ必要がある。沖縄の民意が蹂躙されているのだ。怒らずにはおられない。知事を支えて、国の不当を訴えねばならない。私も本土での応援団の一人として声を上げよう。「粛々と」ではなく、「喧々囂々と」である。
(2015年3月25日)

輝け 沖縄の五分の魂ー知事の「岩礁破砕許可」取消を支持する

旅人の外套を脱がせるには、北風ではなく太陽の暖かさが必要だ。しかし、民衆を支配しようという輩は、この理を常に正しいとは考えない。恣意的にアメとムチとを使い分けようとする。民衆の利益とは無関係に、ただただ支配の効率だけを考えてのことである。

安倍政権は、仲井真県政をアメで抱き込んだ。ところが、アメには欺されないとする沖縄の民意が翁長県政をつくると、徹底したムチの政策に転換し冷たい北風を送り続けている。釣った魚に餌を与える必要はないと言わんばかりの傲慢さ。この仕打ちに知事が怒って当然。いや、オール沖縄に怒りの火がついて当然ではないか。一寸の虫にも五分の魂。ましてや、沖縄の魂である。鄭重に扱われてしかるべきだ。

昨日(3月23日)午後の記者会見で、翁長雄志沖縄県知事は沖縄防衛局に対して「名護市辺野古沖埋め立て工事に向けたボーリング調査など、海底面の現状を変更する行為を1週間以内に全面的に停止するよう文書で指示した」と発表した。同時に、国がこの指示に従わなければ、昨年8月に仲井真弘多・前知事が出した「岩礁破砕許可」を取り消す意向であることも明らかにした。

この記者会見では、同知事の「腹を決めている」との発言もなされている。沖縄県民の圧倒的な民意を背景とした、知事の辺野古新基地建設阻止への断固たる決意を感じさせる。この知事の姿勢を熱く支持したい。

工事停止指示の目的は、これまで防衛局が沈めたコンクリートブロックにより、サンゴ礁が損傷されていないかを調べる海底調査をするため、とした。また、工事停止指示や許可取消の根拠は次のごとくである。

沖縄県は国(防衛局)に対して岩礁破砕許可を与えているが、その許可には9項目の条件が付けられており、その一つが、「公益上の事由により県が指示する場合は従わなければならず、条件に違反した場合には許可を取り消すことがある」というもの。いま、防衛局がおこなっているボーリング調査工事はこの条件に反している恐れがあるから、まず工事停止を指示する。防衛局の工事を停止して、沖縄県の調査の結果条件違反があれば当然に許可を取り消す。仮に、工事停止の指示に従わない場合にも、許可の条件に違反するものとして取り消すことができる。

具体的な問題点は、ボーリング調査に伴う立ち入り禁止区域を示すブイ(浮き具)を固定するアンカー(重り)となるコンクリートブロック投下が、「許可を得ずにした岩礁破砕行為」となるか否かである。県側は、そのた蓋然性が高いから工事を停止させてよく調査する必要がある、という立場だ。

このコンクリートブロックは並みの大きさではない。コンクリート製の重量10トン、15トン、20トン、45トンのもの。鋼製の480キロ、750キロ、870キロのものなど、合計75個。市民団体が撮影した水中写真を見る限りでは、遠慮なく珊瑚を破砕しているものがある。これが、破砕許可の範疇のものなのか、あるいは許可されていない範疇の条件違反にあたるのか、まずは県において調べさせてもらおう、ということなのだ。

許可には、「公益上の事由により県が指示する場合は従わなければなら」ないとの条件が付されているのだから、国は調査のための工事停止指示には従わざるを得ない。これを拒否すれば、指示に従わなかったことが条件違反となり、許可取消の理由となるだろう。この県の指示が、明白かつ重大な瑕疵があって無効と言えない以上はそのような結論になる。国は、県の指示に「明白かつ重大な瑕疵」ありとしたいところだが無理な話。

ところで、「岩礁破砕許可」。耳慣れない。各県の漁業調整規則に目を通す機会の多い私だが、今年この問題が浮上するまで知らなかった。あらためて、いくつかの県の規則を見直したら、どこの県の規則にも同じように記載されている。

沖縄県漁業調整規則第39条は、「漁場内の岩礁破砕等の許可」に関して、次のように定める。

「第1項 漁業権の設定されている漁場内において岩礁を破砕し、又は土砂若しくは岩石を採取しようとする者は、知事の許可を受けなければならない。
第2項 略
第3項 知事は、第1項の規定により許可するに当たり、制限又は条件をつけることがある。」

辺野古の新基地建設のための海面の埋め立てには、公有水面埋立法にもとづく知事の承認がありさえすればできることにはならない。なるほど、基地建設のための諸過程で種々の法的問題が生じてくる。今はボーリング調査の態様が、水産資源保護を目的とする「漁業調整規則」上の岩礁破砕と知事許可との問題が生じている。

漁業調整規則は、漁業法や水産資源保護法に基づく県条例。漁業と漁民の保護のために種々の規制が定められており、岩礁破砕の許可もその一つだ。

仲井真県政は、国にこの許可を与えた。通常、いったん与えた許可は、知事が代わったからといって、あるいは選挙で民意が明らかになったからと言って、軽々に撤回はできない。行政の継続性、一貫性は大切な原則だ。

しかし、許可に「制限又は条件」が付され、許可を受けたものが「制限又は条件」に違反すれば話は別だ。その場合は、許可の取消決定が可能となる。

菅義偉官房長官の発言の余裕のなさが、政権側の動揺を物語っている。官房長官は、「この期に及んで(許可取り消しが)検討されているとすれば、はなはだ遺憾」としているが、東京新聞は、「この期に及んで」を5回繰り返したと報道している。その気持ちよくわかる。

あ~あ、仲井真県政ではOKしたではないか。仲井真県政にはアメをなめさせてやったではないか。それを今ごろ掌を返して…、という悔しさが言葉に表れたのだろう。ここ沖縄だけは、知事選も衆院戦も完敗だった悔しさの表れなのかも知れない。
(2015年3月24日)

大相撲千秋楽の国歌斉唱に異議あり。自衛隊の伴奏にさらに異議あり。

大阪府立体育館での大相撲春場所が終わった。荒れる春場所とはならなかった。予定調和のごとく白鵬(モンゴル)が優勝。これを追う逸材として照ノ富士(モンゴル)が名乗りを上げた。大関候補というよりは、逸ノ城(モンゴル)とともに近い将来の横綱候補といってよい。さらに、栃の心(グルジア)、大砂嵐(エジプト)、臥牙丸(グルジア)など、やがて上位を外国勢が独占する勢い。

2006年初場所の大関栃東を最後に、連続55場所日本人力士の優勝が途絶えている。公平に見て、さらにしばらくは日本人力士の優勝はなかろう。しかし、大相撲の心地よさは、よい相撲を見せる力士には人種や国籍を問わず声援が飛ぶことだ。

日本相撲協会の公式サイトでは来場者アンケートによる「敢闘精神あふれる力士」を毎日掲載している。千秋楽は、トップが照ノ富士、2位日馬富士、3位白鵬とモンゴル勢の独占。場所を通じてのトップは断然照ノ富士だった。
http://www.sumo.or.jp/honbasho/main/kanto_seishin

かつて実力ナンバーワンだった小錦の横綱昇進が見送られたとき、差別の臭いを感じさせられた。が、今そんなことをしていては、興行としてなりたたない。協会の姿勢をここまで糺した、日本の相撲ファンはけっこう質が高いのではないか。

で、目出度く千秋楽かといえば、実はちっとも目出度くはない。千秋楽の君が代斉唱には以前から大きな違和感あって異議を唱えてきた。外国人力士の活躍はその違和感をいっそう大きくしている。くわえて今場所は、別の問題が生じている。君が代斉唱の伴奏が、「陸自第3音楽隊」になったというのだ。

私は産経は読まないし、絶対に買わない。ささやかな経済制裁を続けている。その産経の関西版に、こんな記事があることを教えてもらった。

「国技の国歌斉唱、ぜひ国の守り手で」春場所千秋楽、陸自第3音楽隊が初の伴奏(産経・関西)
http://www.sankei.com/west/news/150321/wst1503210024-n1.html

「22日の千秋楽での表彰式前に行われる国歌斉唱の伴奏を、陸上自衛隊第3音楽隊(兵庫県伊丹市)が今場所初めて担当する。春場所以外の本場所(東京・名古屋・福岡)ではすでに各地の自衛隊音楽隊が伴奏を担当。大阪での第3音楽隊の初登場で、全ての本場所で自衛隊音楽隊が“そろい踏み”となる。
 『国技の本場所での国歌斉唱はぜひ、国の守り手の自衛隊にお願いしたい』
 春場所の表彰式での伴奏について、日本相撲協会から自衛隊大阪地方協力本部を通じて、第3音楽隊に要請があった。
 昨春までは約30年間、大阪市音楽団(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラに名称変更)が担当。昨年4月に同市直営から一般社団法人化したことで、相撲協会との交渉で演奏料などの折り合いがつかず、降板することに。そこで、第3音楽隊に白羽の矢が立った。
 第3音楽隊の阿部亮隊長=1等陸尉=は『たくさんの観客の前での演奏なので、立ち居振る舞いから緊張感をもって行いたい』と練習に余念がない。22日は表彰式での賜杯授与時の『得賞歌』と優勝パレード出発時『国民の象徴』の各演奏も担当する。
 第3音楽隊は昭和35年に発足した陸自第3師団の直轄。現在40人の編成で音楽を主任務とする専門部隊だ。」

恥ずかしながら、「大相撲の年6回の本場所では、東京では陸自東部方面音楽隊などが、名古屋では陸自第10音楽隊が、福岡では陸自第4音楽隊などが、それぞれ国歌斉唱などの伴奏を担当している」ことは知らなかった。何よりも、「国技の国歌斉唱は国の守り手の自衛隊に」という協会の姿勢は、到底許容しがたい。

ところで、公益財団法人日本相撲協会は、その定款(今は「寄付行為」という言葉は使わない)における設立目的に「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」とある。協会は、「我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序」とは、日本の軍事とともにあるという認識なのだ。だから、「国技」(相撲)と「国歌斉唱」(君が代)と「国の守り手」(自衛隊)とは、よく似合うというわけだ。

こうして、「日の丸・君が代」と自衛隊とが、一緒になって市民生活に入り込んでくる。そして、君が代斉唱に唱和するよう社会的同調圧力が強まることになる。大相撲だけではない。オリンピックも、国民体育大会も、プロ野球開幕式も同じように警戒しなければならない。

とりあえずは、産経だけにではなく、大相撲も個人的経済制裁の対象としよう。金輪際大相撲などは観に行かない。関連グッズも買わない。まことにささやかだが、宣言的効果くらいはあるのではないか。
(2015年3月23日)

国旗国歌への敬意表明強制はなぜ許されないかー放送大学解説への反論

ときたまFMラジオ「放送大学」の講座に耳を傾ける。ときに、質が高く内容の濃い講義にあたって、ハッピーな気分になる。もちろん、いつものことではなく、不愉快になることもしばしば。

きっかけは、大学で同級だった佐藤康邦君が放送大学の教授になったこと。プラトンやカント、ヘーゲル、マルクスなどの講義をしている。哲学、倫理だけでなく、文学や絵画にまで及ぶ彼の話がとても面白い。とはいうものの、たいていは朝6時からの45分間。寝床の中での受講は、殆どうつらうつらとしているうちにおわる。それでも叱責されることはない。ぜいたくな時間だ。

ここしばらく、6時から6時45分までが、「近代哲学の人間像」「西洋哲学の誕生」という佐藤君が中心の講義。昨日(3月21日)寝床のなかて夢うつつで聞いている内に、プログラムは終了した。いつの間にか、番組は移って、教育公務員に対する懲戒問題という、恐ろしく非哲学的なテーマの講義に切り替わっていた。

教育公務員に対する懲戒における裁量権の逸脱濫用論が語られ、「日の丸・君が代」強制問題にもかなり詳細に触れられていた。累積的に処分内容が加重される東京都教育委員会のシステムを、比例原則に反するものとして原則違法とし、減給以上の処分を取り消した最高裁の立場に好意的な内容。そして、明日(3月22日)は憲法論という予告。

本日(3月22日)、睡魔と闘いながら、寝床の中で坂田仰日本女子大学教授の「学校と法」第14回の講義を聴いた。中身は、「日の丸・君が代」強制事件の最高裁判決についての無批判な容認論。真面目に、この講座を聴いている人への影響も大きいことだろう。批判が必要と思って、この稿を起こしている。うつらうつらの聞き書きだから、正確な引用はできないことをお断りしなければならないが、大筋は外れていないはず。

坂田教授は最高裁の判断に賛成する理由をこのように説明する。
「このような例を考えてみると分かりやいのではないでしょうか。ギャンブルは犯罪には当たらず処罰すべきではないという信念をもった警察官がいるとしましょう。『憲法29条の財産権規定によれば、自分の財産をどう処分しようと自由なはずなのだから、ギャンブルを犯罪として取り締まることは違憲である』というのが彼の信念であり思想です。この信念に基づいて、『自分の思想・良心の侵害に当たるから、ギャンブル犯への逮捕状の執行は拒否する』と言えるでしょうか。おそらく、圧倒的多数の方が『そんなことができるはずはない』とお考えになるはずです。自らの思想良心に反するとして国旗国歌強制を違憲とする教員の論理は、この警察官の考えと基本的には同じものと考えられるのではないでしょうか」

正直のところ驚いた。あまりに、稚拙な議論の組み立てではないか。さすがにこれだけで説明は終わらない。「この立論に対しては、二つの方向からの反論が想定されます」として、次のように続く。

「一つは、警察官がおこなう職務執行行為と、教員がおこなう教育という行為の質的な差異を無視するものだということです。前者は権力作用であり、後者は非権力作用であって、この両者を同じように取り扱うのは間違っているという批判が考えられます。しかし、この批判は、教育には権力作用が伴うものであることを無視したものであることにおいて、妥当ではありません。子どもを学校に呼び出し、教室での授業を強制することにおいて、教員のおこなう教育も権力作用なのです。

もう一つは、ギャンブルを容認する思想と、国旗国歌強制を排斥する思想との価値序列の差異を理由とする批判です。しかし、これも納得できる批判ではありません。そもそも憲法19条を生みだした近代の自由主義思想は、一切の思想良心を等しく尊重する立場にたつもので、思想良心の内容による価値序列を認めないものであったはずだからです」

どちらの説明も、放送大学を受講しようとするほどの人にもっともと思わせるほどの説得力はない。この議論は、「自己の主観的な思想良心が侵害されているというだけの理由でいかなる職務命令も拒否できる」という乱暴な主張に対する反論としては成立する。しかし、さすがに最高裁はそんな前提での理由付けをしていないし、教員側もそのような単純な主張はしていない。

また、坂田教授流の立論は、公務員の職務内容を捨象し、すべての公務員を同等に見なしたうえで、思想・良心による職務命令拒否の余地を一般的になくしてしまうこととなる。今や旧時代の遺物として妥当性を否定されている特別権力関係論の蒸し返しに過ぎない。結局のところ、これでは職務命令絶対有効論にほかならないではないか。

教員の側から多くの訴訟が提起されているが、単純に「自分の思想にそぐわないから」「日の丸・君が代の強制には従えない」というだけの原告側の立論ではない。たとえば、敬虔なクリスチャンの教師が、信仰の上では天地創造説を信じていたとしても、物理、地学、生物、歴史の授業では天地創造説を真理として教えてはいけない。ビッグバンも、大陸移動も、進化論も、考古学も、自分の信念に反するとして授業を拒否することは許されない。もちろん、天孫降臨や神武東征の天皇制神話の奉戴者も、現代の定説としての歴史の教授を拒否することは許されない。こんなことは、当然のことだ。そんなことは現実に問題になっていないし、なり得ることでもない。

実は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、進化論を教えることの強制とはまったく違う問題なのだ。だから違憲の主張となり訴訟の提起に至っている。もちろん、警察官のギャンブル摘発とも違う。これを一緒くたにすることはあまりに乱暴な議論。

どこが違うのか。まずは、何よりも国家を個人の価値に優越するものとする取扱いは、いかなる場面においても許されることではない。ましてや、主権者たる国民に対して、その意に反して国家への敬意を表明せよという強制は許されない。これは、教育条理や公務員秩序に無関係に、いかなる場においても貫徹されなければならない大原則である。

個人と国家との関係をどう把握すべきか。このことは憲法の最大関心事である。自由主義憲法の基本原則は、まさしく個人の尊厳を最高の価値序列に位置づけるもので、国家はその僕に過ぎない。人権を侵害することのないように公権力の発動が抑制的でなければならないことは常識に属する。

主権者であり人権主体でもある国民個人に対して、公権力が国家の象徴である国旗国歌に敬意を表するよう強制することは、憲法的には背理であり、価値倒錯として許されることではないのだ。この場合当然に、精神的自由権の権利主体である教員は、憲法19条を根拠とした権利主張をなし得ることになる。

以上のとおり、個人と国家との直接的な対抗関係ないしは価値序列の優劣を問題にする点で、国旗国歌への敬意表明強制は、他と異なる特殊な問題局面なのである。ギャンブル肯定の例を比較に持ち出せようはずもない。

さらに、「日の丸・君が代」に敬意を表することは、公教育本来の内容ではない。ましてや、強制などが許されるはずはない。特定の教育理念を標榜する私立学校であればともかく、公教育において国旗国歌に敬意を表明するよう強制することは、国家主義的イデオロギーの受容を教育内容とするものとして憲法の許す教育ではあり得ない。そもそも国家は特定のイデオロギーをもってはならない。国家への敬意表明に抵抗感のない国民を育成しようというのは、明らかに憲法が想定する教育から逸脱するものとして、これを許容し得ない教員の思想良心を侵害するものである。

教育には、知育・徳育・体育の3分野があるとされる。知育が、真理を伝達する教育、あるいは真理を獲得すべき主体の能力開発する教育が、教員の職責に属することに異論はなかろう。体育も、基本的にこれに準ずる。問題は徳育である。人としての道徳や倫理の教育の名目によって、特定の価値観の注入をすることには、厳格な警戒を要する。国旗国歌に対する日本人、国際人としてのマナーを学ぶ機会を名目としての国旗国歌強制は、まさしくこれに当たるもので、あってはならないことなのだ。

問題を、生身の教員個人その人が具体的に有する思想・良心の侵害としてとらえるだけでなく、憲法が想定し期待する教員としての職責にあるべき思想・良心の侵害を考慮した方が分かり易いかも知れない。公権力が国家主義的イデオロギーを子どもに注入しようとするとき、教師はその防波堤となってこれを防ぐべき思想・良心を持つことが、期待され想定されているというべきであろう。

なお、坂田説による説明は、標準的な学界の通説からは、権力の側に偏っていると指摘せざるを得ない。普通の考え方なら、精神的自由に関する人権侵害があった場合には、公権力による当該の人権侵害を正当化するに足りる厳格な憲法適合性審査基準の要件をクリヤーしなければならない。

このことについては、宮川光治最高裁裁判官(当時)が、貴重な少数意見において明確に述べ曖昧さを残さない違憲判断をしたところである。通説的な学説からはこれが常識的な判断方法であろうが、坂田説はこれに触れるところがない。最終的に権力追随の結論に至ることまで非難はしないが、講義では公正・公平に目配りして、重要な論点の解説を落としてはならない。学問とはそういうものではないか。

そういう講義でなければ聴いていてハッピーな気分にはなれない。
(2015年3月22日)

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