澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

安田浩一『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』を薦める

安田浩一著の『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書・5月20日刊)を読んだ。私は、鶴橋や新大久保でのヘイトスピーチを、知らないではない。先日は秋葉原で、ヘイトスピーチデモとカウンターと警察3者の軋轢の場に出くわしてもいる。私も編集に携わっている「法と民主主義」誌で2度の特集もしている。それでも、この書の読後感は「衝撃」というほかはない。この臨場感溢れるルポを取材し書き下ろした著者に敬意を表したい。

ともかく、この書は多くの人に広く読まれるべきである。評価・評論はじっくりと時間をかけて考えよう。政治学的に、文化論的に、経済現象から。あるいは社会学的に、心理学的に、もちろん歴史的にも…。さらには、国際的にも、学際的にも、そして最後に法的な観点から…。さまざまな切り口から、生起している現象のトータルな説明や、原因分析や、対応策が議論されねばならない。が、それより以前に、情報を共有しよう。何が起こっているのかを社会全体で確認しなければならないと思う。私も、認識が不十分だったと思うのだ。

この書は、延々とヘイトスピーチの実態を叙述する。「第1章 暴力の現状」「第2章 発信源はどこか?」「第3章 『憎悪表現』でいいのか?」「第4章 増大する差別扇動」「第5章 ネットに潜む悪意」「第6章 膨張する排外主義」…。差し支えない限りに実名で語られる。基調は「ヘイトスピーチは、表現の範疇ではない。生身の人を深く傷つける暴力そのものであり、社会を壊す」というもの。説得力に富み、たいへんな迫力である。とりわけ、「第4章 増大する差別扇動」を読むと息苦しくなる。

私の読後感の「衝撃」は、恐怖でもある。私たちの暮らすこの社会は、今とんでもなく病んでしまっているのではないだろうか。もしかしたら、壊れかかっているのではないだろうか。あるいは、日本の社会が腐りかけ腐臭を放ちつつあるのではないのだろうか。そういう恐怖である。論理も、会話も、心情も、まったく通じない人々の集団がこんなにも肥大しているのだという恐怖。

差別や排外主義、弱い者イジメは以前から社会に潜んでいるにせよ、それが恥であることは共通の認識だったはず。隠れての言動はあれ、公然と口にし、行動することは希なことではなかったか。しかもこれだけの集団で執拗に。クー・クラックス・クランでさえ覆面をしていたではないか。我が国で、白昼堂々と、大っぴらに差別用語を広言する人々の集団が街を練り歩くこの事態に薄気味悪さを通り越した恐怖を禁じ得ない。

在特会の京都朝鮮学校襲撃事件に際して、3人の子を同校に通わせていた父親の話が印象に深い(同書106ページ)、龍谷大学の教員である彼は、勤務先から現場に自転車で駆けつけた。「実は、彼ら(襲撃メンバー)を説得できないものかと考えていたんです。学校にわが子を通わせている親としては、問題はきちんと解決したいし、地元に住む人々と摩擦など起こしたくない。ここで生きていく以上、日本人との対立を望む在日など、いるわけありません。話せばきっとわかってもらえる。そんな気持でいたんです」
しかし、この常識的な考えは裏切られ、彼は現場で立ちすくむことになる。投げかけられた悪罵は「朝鮮人はウンコ喰っとけ!」というものだった。

以来5年間、彼は裁判の支援に走り回った。刑事では首謀者4名に威力業務妨害による懲役1年~2年の刑(執行猶予付)が確定し、民事訴訟では在特会に1200万円の高額認容判決が確定した。しかし、裁判で何かが本当に変わったのか、変わらないままなのか。彼も著者も、在日への冷たい視線は残ったままだという。

また、中学2年生の女子学生が、「そこで生きる人々を恐怖のどん底に落とした」という「鶴橋大虐殺スピーチ」も紹介されている。
「鶴橋に住んでいる在日クソチョンコの皆さんこんにちは!」「私もホンマ、皆さんが憎くて憎くてたまらないんです。もう、殺してあげたい」「いつまでも、調子に乗っ取ったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!」「ここはニッポンです。朝鮮半島ではありません。帰れー!」
なんということだろう。著者の表現のとおりに、息苦しいし腹だたしい。

彼らは、在日差別だけてなく、ニューカマーへの差別も、部落差別も平然と口にする。その口舌たるやすさまじい。書中には、在特会を「反日」攻撃の一員と遇する右翼とのつながりや、現政権中枢とのつながりも示唆されている。嫌韓本や嫌中書が売れる時代の背景もある。警察の対応も問題視されている。

会話を拒否し、言葉も心も通じない集団が、容易にネットで増殖されていく恐怖。しかし、最終章で「ヘイトスピーチを追いつめる」として、カウンターデモに起ち上がった一団のことも語られる。これが救いであり、希望である。

著者の次の感想は重い。
「いま、日本は憎悪と不寛容の気分に満ちている。差別デモだけではなく、ネットで、書籍で、テレビで、飲み屋の片隅で、あるいは政治の場で、差別が扇動されている。」
おそらく、この憎悪と不寛容の気分も、煽動されている差別も、国際協調や平和への敵対物である。改憲勢力を利するものでもあろう。とにもかくにも、この社会のほころびの原因と修復の手立てを考えねばならないと思う。
(2015年5月31日)

宗教者の戦争法反対ー新宗教も仏教もクリスチャンも

新日本宗教団体連合会(新宗連)の「新宗教新聞」(月刊・2015年5月23日号)が届いた。
一面トップが、「『安保法制』に危機感」の大きな見出し。リードでは、「有識者や宗教者から『国民の理解、国会議論がないまま先行する姿勢は、民主々義の存立を脅かす』『9条だけでなく、憲法そのものを壊す』などの批判の声があがっている」と強い危機感がにじみ出ている。

5月15日国民安保法制懇の反対声明が詳しく紹介されている。「健全な相互理解と粘り強い合意形成によってなり立つはずの民主主義の『存立を脅かす』」「自衛隊に多くの犠牲を強いるばかりか、国民にも戦争のリスクを強いる」と、新ガイドライン・安保法制関連法案危険性指摘の引用が印象的である。

また、「安倍政権の戦略は『改憲』」とタイトルを付して「九条の会」の学習会や5月3日横浜・みなとみらい地区臨港パークでの「5・3憲法集会」開催も紹介されている。この集会での大江健三郎発言の「安倍首相はアメリカとの間で『安保法制』を進めようとしているが、多くの日本人は同意していない」と安倍政権批判や、樋口陽一の「憲法は70年間、改正を目指す度々の攻撃に対して、先輩の憲法学者や国民が守り支えてきた」との訴えが記事になっている。

また、大阪宗教者9条ネットワークが「戦争法案断固反対」を採択したとの記事もある。この記事では、「安保法制」ではなく、「戦争法案」断固反対との見出しが目を引く。5月16日午後2時から、「宗教者としてともに歩むー平和を尊び憲法9条を世界に」をテーマに、大阪市の大阪カテドラル聖マリア大聖堂で開かれた集会で、「宗教者9条の和」代表世話人でもある宮城泰年聖護院門跡門主、松浦悟郎カトリック司教がそれぞれ憲法の大切さ、平和への思いを語った。中学2年の時に敗戦を迎えた宮城門主は、軍事教練などの苦い思い出を語りながら、「自民党は、『安保法制』11法案の成立を企てているが、9条だけでなく、憲法そのものを壊していこうとしている。今こそもう憲法に敏感にならなければならない」と危機感を露わにし、松浦司教は「日本の世界への貢献は、軍事力とは違う土俵がある」として、平和的な支援活動がアジアや世界から信頼を得ていることを強調した。「戦争法案に断固反対する」集会アピールを採択した後パレードに移り、大阪城公園まで9条改悪反対などを訴え行進したという。

紙面の隅々に、戦争反対、世界に平和を、そして、宗派を超えた戦没者の追悼という意気込みが溢れている。さらに、戦争責任から目をそらしてはならない、戦争の危機が宗教弾圧をもたらすとの危機感などが感じられる。

また、巨大宗教団体である真宗大谷派(東本願寺)が5月21日に、里雄康意宗務総長名で、「日本国憲法の立憲の精神を遵守する政府を願うー正義と悪の対立を超えて」とする声明を発している。心して耳を傾けるべき立派な内容である。やや長いが、全文を紹介したい。

「私たちの教団は、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、このたび国会に提出された『安全保障関連法案』に対し、強く反対の意を表明いたします。そして、この日本と世界の行く末を深く案じ、憂慮されている人々の共感を結集して、あらためて『真の平和』の実現を、日本はもとより世界の人々に呼びかけたいと思います。
 私たちは、過去の幾多の戦争で言語に絶する悲惨な体験をいたしました。それは何も日本に限るものではなく、世界中の人々に共通する悲惨な体験であります。そして誰もが、戦争の悲惨さと愚かさを学んでいるはずであります。けれども戦後70年間、この世界から国々の対立や戦火は消えることはありません。
 このような対立を生む根源は、すべて国家間の相互理解の欠如と、相手国への非難を正当化して正義を立てる、人間という存在の自我の問題であります。自らを正義とし、他を悪とする。これによって自らを苦しめ、他を苦しめ、互いに苦しめ合っているのが人間の悲しき有様ではないでしょうか。仏の真実の智慧に照らされるとき、そこに顕(あき)らかにされる私ども人間の愚かな姿は、まことに慙愧に堪えないと言うほかありません。
 今般、このような愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が、『積極的平和主義』の言辞の下に、何ら躊躇もなく進められようとしています。
 そこで私は、いま、あらためて全ての方々に問いたいと思います。
 『私たちはこの事態を黙視していてよいのでしょうか』、
 『過去幾多の戦火で犠牲になられた幾千万の人々の深い悲しみと非戦平和の願いを踏みにじる愚行を繰り返してもよいのでしょうか』と。
 私は、仏の智慧に聞く真宗仏教者として、その人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません。これまで平和憲法の精神を貫いてきた日本の代表者には、国、人種、民族、文化、宗教などの差異を超えて、人と人が水平に出あい、互いに尊重しあえる「真の平和」を、武力に頼るのではなく、積極的な対話によって実現することを世界の人々に強く提唱されるよう、求めます。」

  
さらにキリスト教も、である。日本キリスト教協議会のホームページの冒頭に、小橋孝一議長による「今月(2015年5月)のメッセージ」が掲載されている。「剣を取るものは皆、剣で滅びる」という標題。

そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」マタイ26章52節

イエスを守ろうとして剣を抜いて大祭司の手下に打ち掛かった者を制して、主は「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断言されました。これは歴史の主の世界統治方針です。

どのような理由があろうとも、武力によって立つ者は、たとえ一時的には成功したかに見えても、結局歴史の主にその罪を裁かれ、身を滅ぼす結果になるのです。

大日本帝国は「富国強兵」のスローガンを掲げて、武力によって諸国を侵略・支配する罪を犯し、裁かれて滅びました。そして「剣を鞘に納める」誓いを内外に表明して、新しい歩みを始めました。

しかし戦後70年、その誓いを破り、再び「剣を取る者」となるための議案が国会で議決されようとしています。再び「剣で滅びる」道に歩み出そうとしているのです。何と恐ろしいことでしようか。

戦後の「平和の誓い」は、戦争によって自分たちが受けた苦しみによるもので、他国・他民族を殺し苦しめた罪の悔い改めによるものではなかったのではないか。その浅さが今露呈しているのです。

日本社会の根底に潜む罪を今こそしっかりと見つめ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との歴史の主の御言葉に身をもって聴き従い、世に訴えなければなりません。

「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」
これこそ、日本国憲法9条の精神ではないか。安倍晋三にも、高村正彦や中谷元にもよく聞かせたい。いや宗教者は、もっと品がよく、「安倍さんも、高村さんも、中谷さんも、皆さんよくお聞きください」というのだろう。それにしても、宗教者諸氏の平和への思い入れと、それが損なわれることへの危機感はこの上なく強い。

日本国中の津々浦々、そしてあらゆる分野に、安倍内閣の戦争法反対の声よ、満ちてあれ。
(2015年5月26日)

「またも負けたか東京都、それで教育委員会(いいんかい)?」

西南戦争の折りに、「またも負けたか八聯隊(はちれんたい)、それでは勲章九聯隊(くれんたい)」という俗謡が流行ったという。歩兵第8連隊が本当に弱兵であったか史実はともかく、九州人の大阪隊に対する揶揄と反感が窺える。

このところ、東京都教育委員会(訴訟当事者としては東京都)が裁判負け続けである。まるで、大阪府・市と敗訴の数を競い合っているかの趣。「またも負けたか東京都、それで教育委員会(いいんかい)?」と言いたくもなる。処分の連発で教育現場の管理を徹底しようという都教委の無理な手法の破綻が明確なのだ。これで、まともな教育ができるのか、本当に心配しなければならない。

5月25日(月)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決に続いて、昨日(28日(木))も、都教委敗訴の東京高裁(第14民事部須藤典明裁判長)の判決が言い渡された。今週2度目の都教委敗訴である。原告団は「ダブルパンチ」と言っている。月曜日地裁判決が君が代不起立を理由とする再雇用拒否を違法として5300万円の支払いを命じたもの。そして、木曜日高裁判決が、卒業式での「日の丸・君が代」不起立に対する停職懲戒処分を重きに失して違法と取り消した逆転判決である。処分を取り消しただけでなく、国家賠償まで認めたすばらしい内容。

2007年卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を職務命令違反として、Kさん(都立八王子東養護学校・当時)が停職3月、Nさん(町田市立鶴川二中・当時)が停職6月の懲戒処分を受けた。二人はこれを不服として、人事委員会に審査請求をし東京地裁に処分取消と国家賠償(慰謝料の支払い)を求めて提訴した。

2014年3月の一審判決は、次のとおり。
 Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求棄却
 Nさん 停職6月の処分取消請求棄却 慰謝料請求棄却

各原告と東京都が、それぞれの敗訴部分について控訴し、昨日の控訴審判決となった。結果は教員側が「逆転勝訴」の旗出しとなった。以下のとおりである。
 Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容
 Nさん 停職6月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容

注目すべきは、判決理由が、都教委の機械的な累積加重処分システムを違法と断じていること。これは痛快である。次のくだりは、都知事、教育長、各教育委員、そして橋下徹(現大阪市長)にもよく読んでもらいたい。

「学校における入学式,卒業式などの行事は毎年恒常的に行われる性質のものであって,しかも,通常であれば,各年に2回ずつ実施されるものであるから,仮に不起立に対して,上記のように戒告から減給,減給から停職へと機械的に一律にその処分を加重していくとすると,教職員は,2,3年間不起立を繰り返すだけで停職処分を受けることになってしまい,仮にその後にも不起立を繰り返すと,より長期間の停職処分を受け,ついには免職処分を受けることにならざるを得ない事態に至って,自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては,自らの思想や信条を捨てるか,それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり,…日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながるものであり,相当ではないというべきである。」

また、都側の過失を認定するに際して、国旗国歌法の制定過程での議論を丁寧に紹介し次のように述べていることも注目される。
「国旗国歌に対する起立及び国歌斉唱には,日本国憲法が保障している思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであること…個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があること…が意識されていたことが認められる。したがって,国旗国歌法制定に当たって,外部的行為は,思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであることにも配慮して,起立斉唱行為を命ずる職務命令に従わず,殊更に着席するなどして起立しなかった者について懲戒処分を行う際にも、その不起立の理由等を考慮に入れてはならないことが要請されているものというべきである。」

月曜日地裁判決も木曜日高裁判決も、最高裁判決の壁に阻まれて、君が代不起立に対する懲戒処分を違憲とまでは言えないが、その制約の範囲内で思想良心の自由保障に精一杯の配慮をした判決と評価することができる。

ところで、都教委は抱えた事件で敗訴を重ねて6連敗であると原告団が発表している。
2013年12月19日の再発防止研修未受講事件(「授業をしていたのに処分」事件)一審判決が控訴なく確定して以来、再任用更新拒否S教諭事件、条件付き採用免職Yさん事件、O教諭懲戒免職処分執行停止申立認容、再雇用拒否撤回二次訴訟、そして昨日のKさん・Nさん停職処分取消事件である。今年1月16日の東京「君が代」裁判三次訴訟の判決(31件・26名の減給・停職処分取り消し認容)を加えれば、7連敗と言ってもよい。都教委のやり方が異常なのだ。

舛添要一都知事、中井敬三教育長に再度申しあげる。すべては旧レジームにおける前任者たちのしでかした過ち。控訴・上告は、その過ちに加担し責任を自ら背負い込む愚行となる。上訴を断念して、不正常な事態を一掃する決断をお願いしたい。
(2015/05/29)

戦争法案の危険性を見極めようー政権の悪徳商法に欺されてはならない

名は体を表すという。もちろん、「多くの場合には」ということであって、「常に」ではない。狗肉を売るに羊頭を掲げるのは、この「多くの場合には」という常識に付け込んでのこと。不用意に名を軽信すると、あとで悔やむことになる。

狗肉を狗の肉と正直に表示したのでは買い手がつかない。そこで、羊頭の看板を掲げ、偽装表示を施すことが必要となってくる。狗の肉を、あたかも羊の肉と思い込ませるセールストークで売り込もうという悪徳商法。ここでは、羊の肉と名付けられて、実は狗肉が売られることになる。

「他のどんな名前で呼んでもバラはバラ」であるごとく、「他のどんな名前で呼んでも狗肉は狗肉」なのだ。看板ではなく、包装ではなく、名前ではなく、欺罔のセールストークではなく、商品の中身の実体を見極めなければならない。うっかり買ってからでは、取り返しのつかないことになる。

うまい話には裏がある。甘い話には毒が潜んでいる。ゴテゴテと看板を飾り立てるセールストークは、それだけで眉唾物と警戒しなければならない。今まさに、政権が危険な商品を国民に売り付けようとしている。

このブログでは一貫して「戦争法案」と呼称してきた5月16日国会提出の閣法2法案。その正式名称は「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」と、「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」である。「平和」「安全」「国際」「共同」などの好もしいイメージの語でデコレーションされた法案の名称。これが羊頭である。美しいラッピングでもある。端的に言えば、偽装表示にほかならない。

メディアでは、「平和安全法制整備一括法案」「国際平和支援恒久法案」などと呼んでいるが、これは体を表した名ではない。狗肉の実体を隠すことに手を貸しているというべきではないか。トリカブトをバラと呼んではならない。狗を羊と見誤ってはならない。

前者の提案理由に、「国際連携平和安全活動のために実施する国際平和協力業務その他の我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するために我が国が実施する措置について定める必要」が謳われている。後者についても、「国際社会の平和及び安全の確保に資する」という。「国際」「連携」「平和」「安全」「協力」の大安売りである。

私(たち)がその実体から戦争法案と名付けた法案は、他のどんな名前で呼ぼうとも、「平和」や「安全」の名で飾りたてようとも、戦争の腐臭が消えないのだ。眉に唾を付けよう。この法案の売り手は、これまでも平気で嘘をついている男なのだから。

さらに問題は、「専守防衛」にある。
安倍首相は昨日(5月27日)午後の衆院平和安全法制特別委員会で、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法案について、先制攻撃を排除した「専守防衛」の原則を変更するものではないとの見解を示した。民主党長妻昭代表代行が「専守防衛の定義が変わったのではないか」と問い質したのに対し、「専守防衛の考え方は全く変わりない」と否定した。

専守防衛とは、自衛力の行使を、自国の領土が武力攻撃を受けた場合に限るということだ。しかも、自国民の安全を守るために最小限の実力の行使に限定する。これが、自衛隊の存在を許容する9条解釈の限界とされてきた。自衛隊は、専守防衛に徹するものとして誕生したのだ。1954年自衛隊法成立に際しては、参議院が「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を成立させている。全会一致でのことだ。

専守防衛は、自衛力の行使の場所は自国領内に限定することを想定している。時間的には、相手国からの攻撃のあとのものとの想定である。遠く、自国を離れた戦地での防衛的な武力行使や、先制攻撃をもっての武力行使をまったく想定していない。海外での武力行使、自国を攻撃していない国に対する武力行使は、専守防衛ではない。

集団的自衛権の行使とは、自国が攻撃されていないときに、同盟国への攻撃に反撃する武力行使なのだから、専守防衛から逸脱することになるのは自明のことである。専守防衛では、つまりは個別的自衛権の行使では不十分だとしての法改正なのだから、あまりに当然のこと。

しかし、専守防衛から逸脱するとあからさまに認めれば、国民に不安の種を植えつけることになる。ここは、集団的自衛権という危険な狗肉に、専守防衛というラッピングをしてしまおう。憲法9条遵守という羊頭の看板も掲げておこう、というわけだ。

着目すべきは、看板でも、ラッピングでもない。商品実体なのだ。戦争法案が想定する集団的自衛権行使を選択肢として許せば、自衛隊は国防軍化することになる。いざというときのために、装備も編成も作戦も、すべては一人前の軍隊として歩き出すことになる。これだけでたいへんに危険なこととなる。

さらに、この上なく危険な同盟国アメリカの先制攻撃で始った戦争のある局面で、アメリカの一部隊が攻撃されたからということから自衛隊が一緒に闘うことになりかねない。これを「巻き込まれた戦争」というか、「日本主導の戦争」というかは問題ではない。日本が戦争当事国となり、全土が攻撃目標となり得るのだ。

くれぐれも用心しよう。暗い夜道と安倍話法。
(2015年5月28日)

舛添さん、ここはよくお考えを。

このところの舛添要一さんの言動。石原トンデモ知事とは大違いだ。常識人としての発言内容に好感がもてる。昨日(27日)記者会見での下記の発言も、石原知事とはずいぶんの違いである。そう認めつつも、やっぱりおかしい。どうしても違和感を拭えない。私の言うことにも耳を傾けて、よくお考えいただきたい。

【記者】都立高校の元教員の方が、卒業式などの君が代の斉唱時に起立しなかったことを理由に再雇用を拒否されたのは違法だということで裁判訴訟を起こして、東京地裁が、昨日都に5300万支払いを命じる判決を言い渡しました。これについて、知事の見解を伺えますか。
【知事】これは今、しっかりと都の方で、判決内容を精査して、どういう対応をとるかということであります。国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして、やはり世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のことなので、その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思いますので、今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたいと思っています。

舛添さん、それはない。それはおかしいよ。
※「国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして」と持ち出していることがまずおかしい。国旗国歌法とは、国民に対して国旗国歌に敬意を払うべしとの趣旨で作られた法律ではない。もちろん、この法律に基づく「国旗国歌敬意表明義務」などあるわけがない。「国旗起立義務」も「国歌斉唱義務」もない。むしろ、国会審議の過程では「そんな義務をさだめるものではありません」と強調することによって、法の制定にこぎ着けている。
国旗国歌法を根拠に、国民の国旗国歌への敬意表明の必要を論じることは、学者知事である舛添さんの名誉にもかかわる。やめた方がよい。

※「世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のこと」もおかしい。
今論じられている問題は、「国旗や国歌に敬意を払うこと」の是非ではない。国家象徴への敬意表明強制の是非であり、歴史的な負の遺産を背負っている「日の丸・君が代」尊重姿勢強制の可否なのだ。自発的な敬意の表明とその強制との間には、天と地ほどの違いがある。
訴訟の原告となっている教員の中には、「自分はこれまで率先して起立し斉唱してきたが、職務命令として強制されれば、個人の信条としても教員の良心からも絶対に立てない歌えない」と処分を受け、再雇用を拒否された人もいるのだ。

※「世界中どこ見ても卒業式で自国の国旗や国歌に敬意を払うことを強制すること、従わなければ懲戒処分をすること」は決して当たり前ではない。
どうやら、北朝鮮と中国はそのような国であるらしい。しかし、人権後進国あるいは民主主義未成熟国家ならではのこと。ヨーロッパ諸国では、そもそも卒業式に国旗国歌というものの出番がない。これが国家を相対化した成熟国家の常識。アメリカは建国の事情から国旗国歌に対する思い入れが過剰なな国だが、少なくともバーネット判決以来強制はない。司法が強制には歯止めをかけているのだ。かつて永井愛さんが、「日の丸・君が代」強制をテーマとした「歌わせたい男たち」の演劇をイギリスに紹介しようとしたら、彼の国の人にはこの強制の事態があり得ざることとして飲み込めなかったという。あまりにばかばかしい事件として喜劇としても受け容れられない、という結論になったという。石原知事の意を受けて都教委がやってきたことは、決して、グローバルでもユニバーサルでもない。北朝鮮・中国レベルの話なのだ。

※中国の名誉のために一言しておきたい。「五星紅旗」も「起来人民」も、国民的合意がある理念を象徴している。しかし、「日の丸・君が代」は、そうではない。旧天皇制国家とあまりに深く結びついた負の刻印を背負っている。我が日本国憲法が、意識的に排斥した軍国主義や植民地主義あるいは排外主義や国家神道理念の象徴でもある。欧米人には、「ハーケンクロイツに拝跪を強制するに等しい」と言えばわかりやすいだろう。そのような偏頗な理念的象徴に対する敬意表明の強制は、どうしても踏み絵と同じく思想信条をあぶり出し、思想弾圧をもたざるを得ないのだ。

※「その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思います」という俗論が一番おかしい。保守ではあっても、リベラルな「政治学者舛添」さんの本心とはとても思えない。「政治家舛添」さんはこう語らねばならないのだろうか。
子供たちは無限の発達可能態だ。あらゆることを学ぶ権利がある。国家や社会が一色の価値観に染まり、国家が提供する価値観が正しいと思い込ませることは、子供の学ぶ権利を侵害することといわねばならない。公立学校とは、検証された真理を教えるところで、特定の価値観を教え込むところではない。とりわけ、国家という怪物との向かい合い方について、一方的に肯定的な価値観だけを刷り込むようなことがあってはならない。
なお、決して「国歌斉唱時には起立して歌うというのは当たり前」ではない。1989年学習指導要綱の国旗国歌条項改定まで、都立高で卒業式に君が代の式次第をもっているのは3%に過ぎなかった。その後、このパーセンテージはかたちのうえではアップするが、ほとんどの教員は起立も斉唱もしなかった。この時代の生徒たちは、権力の提供する価値観が絶対のものではないことを学んだ。愛国心や国旗国歌尊重を教え込むことは、戦前教育への回帰の一歩として、罪の深いことというべきであろう。

※舛添さんは、「自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前」という思い入れが強すぎるのでないか。オリンピックでは盛大に日の丸をはためかせ、君が代を歌ってほしい、とでも思っているのだろう。愛国と排外とは紙一重である。挙国一致とか、一億一心とかが叫ばれるときには碌なことがない。国民の多数が「当たり前」と思い込んでいるのだから、子供にもそのとおり教えろ。これは、多数派主義・国家至上主義ではあっても民主主義ではない。もちろん憲法の基底にある個人尊重主義でも自由主義でも、人権尊重主義でもない。あまりに安易に、教育の場における、強制が可能と考えてはいないか。

※「今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたい」というのも一理あるようでやっぱりおかしい。法の支配が貫徹しているはずの日本である。下級審とはいえ、東京地裁の合議体裁判所が、東京都の行政行為を違法とし人権侵害行為があったと認定したのである。由々しき事態との認識があまりにも希薄ではないか。もっと、恐縮の体があってしかるべきではないか。石原知事の時代の教育行政の失態であることは誰もが知っていること。舛添さん個人には責任がないのだから、ここは控訴断念して、新教育長とともに都立校の教育現場の正常化にイニシャチブを発揮すべき好機としていただきたい。

石原慎太郎都知事が就任して、都教委が「10・23通達」を発出するまで4年半かかっている。この間に、教育委員・教育長人事を「お友達」で固めたのだ。しかし、当時の教育委員は、内館牧子を最後にもう一人も残っていない。10・23通達体制を元に戻すのにはさほどの時間の必要はない。舛添要一さん、地裁判決への控訴の可否はあなたの決断次第だ。あなたへの期待は大きい。
(2015年5月27日)

「再雇用拒否第2次訴訟」判決ーこれを都教委方針転換の好機とせよ

昨日(5月25日)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決。法廷から出てきた仲間の弁護士から第一報のメールがはいった。肉声のように、生々しい。

「全面勝訴! 裁量権逸脱で、その余の点は判断するまでもなく(憲法判断もなし)。 1年分の収入を損害賠償として認めた。
『正義は勝つ・・・とはかぎらない。でも、たまに勝つことがある』
いやあ、ほんとうに、希望がもてるような気がしてきました。がんばりましょう。」

率直な心情の吐露である。実は、事案の内容をほぼ同じくする「第1次訴訟」では、一審において同様の「勝訴判決」(2008年2月)を得たものの、高裁で逆転敗訴(2010年1月)となり、上告棄却(2012年6月)で確定している。「第1次訴訟」のほかにも、前例となる類似事案3件で最終的には教員側の敗訴が確定している。

昨日の判決は、そのような数件の判決があることを双方十分に意識した上での攻防を経て言い渡された原告勝訴なのだ。だからこそ、「必ずしも常に勝つとは限らない正義実現への、今回こそはの希望」という実感が湧いてくる。

この事件は、私は直接には関与していない。弁護団長は川越の田中重仁さん。彼を支えて埼玉の弁護士が中心になって担ってくれた。東京弁護団の重荷を分担していただいたのだ。提訴が2009年9月だから、6年近いご苦労。その成果に敬意を表したい。

各紙の報道を眺めてみる。見出しに微妙な差がある。
 君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 共同
 再雇用拒否、都に賠償命令=君が代不起立、元教諭ら勝訴 時事
 君が代不起立で再雇用拒否は違法、都に賠償命令 地裁 朝日
 君が代不起立訴訟:再雇用拒否の都に5300万円賠償命令 毎日
 国歌斉唱で不起立、再雇用せず…都に賠償命令 読売
 君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 東京(共同配信)
 君が代訴訟で都に賠償命令 「再雇用拒否は違法」 日経
 国歌不起立で教員再雇用せず 都に賠償命令 東京地裁判決 産経

ネットで配信されている「弁護士ドットコム」の報道がやや詳しく分かり易い。
「君が代を歌わないだけで『再雇用拒否』は違法ー東京地裁が東京都に『賠償命令』判決」

東京地裁(吉田徹裁判長)は5月25日、卒業式・入学式で「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったこと」だけを理由にして、東京都立高校を定年退職した教職員を「再雇用」しなかったことが「違法だ」とする判決を下した。2007年~09年にかけて再雇用されなかった元都立高校教職員の原告たち22人に賠償金(211万円〜260万円)と利息を支払うよう、東京都に命じた。賠償金は、もし再雇用されていたら支払われていたはずの1年分の給与にあたる額。

判決は、教職員の90%~95%が採用される再雇用制度の実態などから、教職員には再雇用されることを期待する権利(期待権)があり、その期待権は「法的保護に値する」とした。そして、都教委が「不起立」のみをもって原告たちを再雇用をしなかったことは、原告たちの期待権を「大きく侵害」し、違法だと判断した。

注目すべきは、毎日の判決理由の要約。
「判決は、都教委が再雇用を拒否した理由は『不起立』だけだと指摘。『起立斉唱命令は原告らの思想の自由を間接的に制約している。命令違反は再雇用拒否の根拠としては不十分』と述べた。その上で22人全員に、1年分の報酬211万〜259万円の支払いを命じた。

末尾に裁判所が配布した「判決骨子」を貼り付けておく。これをお読みいただけば論旨明快な判決理由がよくわかる。
判決が都教委の裁量権逸脱濫用を認定した決め手は、「再雇用制度の意義・趣旨」「再雇用制度運用の実態」である。自らの思想・信条と教員としての良心に忠実であろうとしたために、国旗国歌の強制に従えないとした者に、懲戒処分を超えた過当な不利益を科することを違法と認めたのである。

周知のとおり、石原慎太郎・横山洋吉・米長邦雄・鳥海厳・内舘牧子などの面々が悪名高き「10・23通達」を発して、東京都の教育現場に踏み絵を再現させた。彼らは、「日の丸・君が代」強制の職務命令違反が重なるごとに処分の量定を加重する手法を編み出し、過酷にこれを実践した。明らかに、「日の丸・君が代」受容の思想への転向強要システムというほかはない。

しかも、「日の丸・君が代」不起立への制裁は懲戒処分だけでは終わらない。一度着けられたマイナス評価は職業生活の最後まで、いや定年後まで生涯にわたってついて回る。その陰湿なイヤガラセの中で、最たるものが定年後の再雇用(再採用・嘱託採用)拒否なのだ。元々再雇用制度は、定年制導入の際に年金受領年齢までの間隙を埋める制度としてできたもので、全員採用が制度の趣旨であり運用実態でもあった。ところが、他の理由の被懲戒経験者は採用されても、「日の丸・君が代」関連の被処分者だけは頑なに差別されて採用を拒否されているのだ。

それにしても、都教委の手口はひどい。ようやくにして、関連訴訟での都教委の敗訴が続いている。日本の司法の行政への甘さはよく知られているところ。法律用語でいえば、「行政裁量」の範囲は広すぎるほど広いのだ。だから、よほど目に余ることでもない限り、行政裁量が違法とされることはない。最近の諸判決は、司法が都教委のやり方を「到底看過できない」としているということだ。

都教委は本件の判決について、「大変遺憾。内容を精査して、今後の対応を検討する」と、中井敬三教育長のコメントを発表している。何が「遺憾」なのだろうか。指摘された自分の違法行為を反省して遺憾と言っているのではなさそうだ。東京地裁の裁判官を怪しからんと言っているように聞こえる。傲慢としか評しようがない。

都教委に猛省を促すと同時に、特に中井敬三教育長に一言申しあげておきたい。
あなたはこれまでの都教委の違法の積み重ねに責任がない。すべて、あなたの前任者がしでかした不始末で、「これまでの都教委のやり方がよくなかった」と言える立場にある。あなたの手は今はきれいだ。まだ汚れていないその手で、不正常な東京の事態を抜本解決するチャンスだ。

この度の判決への対応を間違えると、あなた自身の責任が積み重なってくる。あなた自身の手が汚れてくれば、抜本解決が難しくなってくる。一連の最高裁判決に付された補足意見の数々をよくお読みいただきたい。この不正常な事態を解決すべき鍵は、権力を握る都教委の側にあることがよくお分かりいただけるだろう。

「トンデモ知事」の意向で選任された「トンデモ教育委員」による「10・23通達」が問題の発端となった。今や、知事が替わった。当時の教育委員もすべて交替している。教育畑の外から選任された中井敬三さん、あなたなら抜本解決ができる。今がそのチャンスではないか。大いに期待したい。
(2015年5月26日)

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平成27年5月25日午後1時30分判決言渡1 0 3号法廷
平成21年(ワ)第34395号損害賠償請求事件
東京地裁民事第36部 吉田徹裁判長 松田敦子 吉川健治
          判 決 骨 子
1 当事者
原告 ○○ほか21名  被告 東京都

2 事案の概要
 本件は、東京都立高等学校の教職員であった原告らが、東京都教育委員会(以下「都教委」という。)が平成18年度、平成19年度及び平成20年度に実施した東京都公立学校再雇用職員採用選考又は非常勤職員採用選考等において、卒業式又は入学式の式典会場で国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを命ずる旨の職務命令(以下「本件職務命令」という。)に違反したことを理由として、原告らを不合格とし、又は合格を取り消した(以下、これらの選考結果等を「本件不合格等」という。)のは、違憲、違法な措置であるなどとして、都教委の設置者である被告に対し、国家賠償法1条1項に基づき損害賠償金の支払を求めた事案である。

3 主文(略)

4 理由の骨子
(1)再雇用制度等の意義やその運用実態等からすると、再雇用職員等の採用候補者選考に申込みをした原告らが、再雇用職員等として採用されることを期待するのは合理性があるというべきであって、当該期待は一定の法的保護に値すると認めるのが相当であり、採用候補者選考の合否等の判断に当たっての都教委の裁量権は広範なものではあっても一定の制限を受け、不合格等の判断が客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法と評価され、原告らが有する期特権を侵害するものとしてその損害を賠償すべき責任を生じさせる。
(2)原告らに対する不合格等は、他の具体的な事情を考慮することなく、本件職務命令に違反したとの事実のみをもって重大な非違行為に当たり勤務成績が良好であるとの要件を欠くとの判断により行われたものであるが、このような判断は、本件職務命令に違反する行為の非違性を不当に重く扱う一方で、原告らの従前の勤務成績を判定する際に考慮されるべき多種多様な要素、原告らが教職員として長年培った知識や技能、経験、学校教育に対する意欲等を全く考慮しないものであるから、定年退職者の生活保障並びに教職を長く経験してきた者の知識及び経験等の活用という再雇用制度、非常勤教員制度等の趣旨にも反し、また、平成15年10月に教育長から国旗掲揚・国歌斉唱に関する通達が発出される以前の再雇用制度等の運用実態とも大きく異なるものであり、法的保護の対象となる原告らの合理的な期待を、大きく侵害するものと評価するのが相当である。
 したがって、本件不合格等に係る都教委の判断は、客観的合理性及び社会的相当性を欠くものであり、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用に当たる。
 よって、都教委は、その裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用して、再雇用職員等として採用されることに対する原告らの合理的な期待を違法に侵害したと認めるのが相当であるから、他の争点について検討するまでもなく、都教委の設置者である被告は、国家賠償法に基づき、期特権を侵害したことによる損害を賠償すべき法的責任がある。
(3)再雇用職員等の運用実態、雇用期間等を考慮すると、原告らが再雇用職員等に採用されて1年間稼働した場合に得られる報酬額の範囲内に限り、都教委の裁量権の範囲の逸脱又はその濫用による原告らの期待権侵害と相当因果関係にある損害と認めるのが相当である。

安倍晋三の憂鬱ー「政権の存立危機事態」が目前だ

日曜日、ゴルフコースの坂道を登りながらこう考えた。説明責任を果たさなければ叩かれる。さりとて、丁寧に説明すれば世論は離れていく。ほんに、政治家も楽ではない。人をたぶらかすのは難しい。

そんな沈んだ気持の週明け。各紙の朝刊に碌な記事が出ていない。とりわけ不愉快なのが、日経だ。1面に「本社世論調査」の結果として「安保法案『今国会で』25%」という大見出し。
「日本経済新聞社とテレビ東京による22~24日の世論調査で、集団的自衛権の行使を可能にする関連法案の今国会成立に『賛成』が25%と4月の前回調査から4ポイント低下し、『反対』が55%と3ポイント上昇した。政府・与党は今国会での法案成立を目指すが、慎重論の強さが改めて浮き彫りになった。」
見出しの付け方も、記事の書き方も、もっと別の言い方があるだろう。産経や読売を見習うように、よく言って聞かせなければならない。

日経記事が癪に障るのはむしろ2面の世論調査詳報だ。見出しが、「安保法案『説明不十分』8割」というもの。「成立への懸念強く」「内閣支持層でも7割」というのだ。
「日本経済新聞社の世論調査で、26日に衆院で審議入りする安全保障関連法案への懸念の強さが改めて浮き彫りになった。8割が政府の説明は不十分だと回答。安倍晋三首相の『米国の戦争に巻き込まれることはない』との発言に『納得しない』も7割を超えた。政府・与党は今国会成立をめざすが、必要性はまだ浸透していない。」

何より頭にきたのは、今年1月から5月までの世論変化のグラフを掲載していること。わざわざ「集団的自衛権行使に関する法案成立には反対が増えつつある」というコメント付きでだ。反対世論は順調に増加して、「49%→55%」となっており、私の愛する賛成派国民は「31%→25%」と着実に減っている。

また、わざわざ目立つように表を拵えて、次のように報じている。
◇集団的自衛権行使に関する法案成立に
  賛成   25%    反対  55%
◇首相の『米国の戦争に巻き込まれることはない』との説明に
  納得する 15%   納得しない73%
◇政府の安全保障関連法案に関する説明
  十分だ   8%   不十分だ 80%

こんな数字は、細かいポイントで目立たないようにすべきが常識ではないか。たかが民間新聞の分際で、政府に楯突こうというのか。

日経だけではない。毎日の世論調査結果もその報道姿勢も不愉快極まる。政権批判が新聞の使命だといわんばかりではないか。父の晋太郎が在籍していた社ではあるが、最近偏っているのではないか。いや、いつまでも昔のままで時代の風を読めていないのではないか。

「毎日」1面の見出しは、「安保法案『反対』53%」というもの。活字が大きすぎる。太すぎる。続いて、「今国会成立『反対』54%」「本社世論調査」というもの。

記事の内容は以下のとおり。
「毎日新聞は23、24両日、全国世論調査を実施した。集団的自衛権の行使など自衛隊の海外での活動を広げる安全保障関連法案については『反対』との回答が53%で、「賛成」は34%だった。安保法案を今国会で成立させる政府・与党の方針に関しても『反対』が54%を占め、「賛成」は32%。公明支持層ではいずれも『反対』が『賛成』を上回った。」

「質問が異なるため単純に比較できないが、3月と4月の調査でも安保法案の今国会成立には過半数が反対している。政府・与党は26日から始まる国会審議で法案の内容を丁寧に議論する姿勢をみせているが、説明が不十分なまま日程消化を優先させれば、世論の批判が高まる可能性がある。」

これが最新の調査結果。これが、昨年7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定後の国民的議論の暫定結果だ。今や、政府が閣議を経て国会に上程した法案に、国民世論の過半が反対しているのだ。賛成派は、4分の1か、3分の1。しかも、説明すればするほど、国民は「分からない」と言い「説明不足だ」という。そして「反対だ」という世論が増えていくのだ。なんとものわかりの悪い国民だろうか。

ここでの国会戦術はよく考えなければならない。強行突破か、一歩後退しての迂回か、いずれの戦術をとるべきか。

我が手には、小選挙区制のマジックで掠めとった圧倒的な国会の議席がある。幸いに、官製相場と悪口を言われながらも株価を維持しているおかげで、まだ安倍政権支持の世論は不支持を上回っている。今のうちなら、強行突破は可能だ。どうせ「丁寧な説明」を重ねたところで、国民が納得するはずはない。むしろ、世論は集団的自衛権反対、戦争法案反対などに固まりつつある。ならば、ジリ貧を避けるのが上策だろう。公明と次世代を語らって、強行に審議入りし、強行採決を重ねても法案成立に漕ぎつけるのが得策ではなかろうか。

とは言うものの、これは大きな賭けだ。リスクはこの上なく大きい。60年安保の教訓を思い起こそう。あの騒ぎは、新安保条約の危険性に国民が反対しただけではない。衆議院の強行採決が民主主義の危機という世論を喚起して、あの盛り上がりとなったのだ。結局は、新安保条約は自然成立となったが、祖父岸信介は政権を投げ出さざるを得なかった。こんな事態の再来は十分に考えられる。まさしく私の政権の「存立危機事態」の到来だ。いや既に、「重要影響事態」の水域には到達していると考えざるをえない。

憂鬱だ。ほんに、政治家も楽ではない。人をたぶらかすのは難しい。
(2015年5月25日)

「NPT会議はけっして失敗ではなかった」ー第五福竜丸平和協会評議員会にて

公益財団法人第五福竜丸平和協会の定款は、その目的を次のとおり定めている。
「1954(昭和29)年3月1日ビキニ水爆実験の被災船第五福竜丸を記念し、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示することにより、都民をはじめ広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与することを目的とする」
協会は、この目的のとおりに、「夢の島」展示館での第五福竜丸船体の保管・展示を通じて、「国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与」する諸活動を行っている。

本日は、その第五福竜丸平和協会の評議員会。2014年度の事業報告と決算の承認。それに新年度の理事の選任が主な議題。私は、監事として参加する立場。

評議員は、平和運動や原水爆禁止運動に携わってきた活動家が主だが、他にも多彩な顔ぶれ。物理学者やジャーナリスト、平和学や文化財保存や船の専門家なども加わっている。各分野の人々の発言が楽しい。今日も、NPT再検討会議参加者の報告があって盛りあがった。

昨年(2014年)度は、第五福竜丸がビキニで被爆してから60周年の節目。この1年の来館者は、104,745人と報告された。そのうち団体見学者が約3万人だが、事務局から「小学生の団体来館者が激減していることが心配」とのコメントがあった。本年の小学校の団体来館は92校、5,673名。この数字は10年前の約半数でしかない。どうしてこんなことになっているのだろうか。もちろん、小学生は圧倒的に都内学校。その来館者の減少は、学校や教員の姿勢の変化かと気になるところ。

来館者には、ボランティアの説明員が丁寧に説明をしてくれる。特に小学生は大歓迎。是非、多くの学校からのご参加をお願いしたい。核の恐ろしさ、平和の大切さについての貴重な学習の機会。核実験で死の灰を被った船体の存在感は大きい。この船で、人類最初の水爆実験被害の死者が出た。そのことの印象は強く、得るものは多いはずだ。問合せは、下記のURLを参照いただきたい。
  http://d5f.org/top.htm

また、昨年の来館者のうち確認できる外国籍として、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国・台湾・韓国・シンガポール・インドネシア・ドイツ・オランダ・デンマーク・マーシャル諸島などが報告された。大使館員であったり、ジャーナリストであったり、国際平和団体や教育者、そして留学生や観光旅行者も。

無名の多くの来館者が大切なことは言うまでもない。しかし、できれば各国の元首級や高官の来館も欲しいところ。今次のNPT会議再検討会議では、「被爆70周年の節目の今年。各国の指導者は広島・長崎に足を運んで、被爆の実相を知るべきだ」という決議案が話題となった。原爆の被害を知るための地といえば、広島・長崎だが、水爆の被害を知るための場は第五福竜丸である。各国の要人に、こちらにも足を運んでもらいたいものと思う。広島・長崎は、東京からは遠い。第五福竜丸展示館は都内(江東区・夢の島)で、来やすいはずだ。

ところで、我が国の閣僚や都知事も来館の経験はあるのだろうか。是非とも一度は来館し、船体と展示物を見ながら、充実した説明に耳を傾けてもらいたい。

なお、第五福竜丸の船体も展示館も、東京都が所有している。公益財団法人第五福竜丸平和協会が、東京都から委託を受けて船と建物を管理し、展示の事業を行っている。もちろん入館料は無料で、毎年東京都からの委託料を受領している。石原慎太郎知事時代、この委託料がどうなるかが心配だった。少しずつ、減額され続けたが、「財政難の折からのことで、他の同種事業も同じ」との説明だった。

同知事とその後継が退任し、現知事になってから1年余。昨年度と今年度、減額され続けてきた委託料が久々に増額に転じた。増額と知事の交替との因果関係は明確には分からない。しかし、久々に明るい雰囲気。

NPT再検討会議に参加していた評議員のお一人から、興味深い報告があった。
「日本のマスコミ報道は、最終合意案採択に至らなかったことの評価が否定的に過ぎるのではないか。中東問題が躓きの石となって最終合意に至らなかったことは残念ではあるが、この障害はNPT固有の問題ではなく、これまでの核軍縮の議論が後退したというものではない。会議進行の透明性は格段に進み、どこまでの合意ができていたかは明確になっている。「核兵器の非人道性」がキーフレーズで、この会議で核保有国を圧倒して核兵器を非人道的なものとする合意は形成されつつあるという印象だった。その点、今回の会議には、それなりの意義があったと考えてよいと思う。けっして、落胆するにはあたらない。」

本日の会合で、協会の5人の理事が再任された。評議員会後に新理事会が開かれ、川崎昭一郎理事長(千葉大学名誉教授・物理学)を選任した。労多くしておよそ役得はない。もちろん報酬もない。報いられることはない役職にご苦労様ですと申しあげるしかない。多くの活動が、このようなボランティアによって支えられている。

「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」というのが、亡くなった久保山愛吉さんの遺言だった。第五福竜丸がビキニで被爆し久保山さんが亡くなってから昨年で60周年。今年は61年目となっている。第五福竜丸船体の保存を通じて、反核・平和の世論を喚起し、久保山さんの遺志に応えることが私たちの責務である。

60周年記念事業の一つとして出版した記録集のタイトルが「第五福竜丸は航海中」だった。まだまだその航海は終わらない。受け継ぐ人のバトンをつなぎながら、今後も長く続けなければならない。
(2015年5月24日)

SF(催眠)商法によく似た安倍政権の政治手法

商売と政治とはよく似ている。どちらも、人を説得し「その気」にさせる技術を伴う。悪徳商法と安倍政治手法とはよく似ている。どちらも、詐欺すれすれ。うっかり乗せられると、どちらも被害甚大である。賢く身を守る術を心得ねばならない。

独立行政法人国民生活センターが、5月21日付で、「高齢者が支払えなくなるまで次々に販売するSF商法」と、悪徳による「次々販売」「過量販売」被害の増加に警告を発した。
  http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20150521_1.html

「SF商法」とは、集団催眠商法と言った方が分かり易い。50年ほども前の「新製品普及会」なる悪徳グループを元祖とするところから、ローマ字の頭文字をとって「SF」。この安直な業界用語がお役所用語としても定着した。会場に顧客を集めサクラが雰囲気を盛り上げる。最初は安物をただ同然で配って消費者の気持をつかんだあとに、本命の高額商品を売り付ける。被害額の大きな悪徳商法の典型のひとつとされる。

売り手は脅すわけではない。明らかな詐欺とも言いにくい。仕掛けは、ウソすれすれの話術とプロとしての演出が作りだす昂揚した雰囲気にある。消費者の心理が完全に操作された状態となり、先を争って我勝ちに商品を買おうとすることになるのだ。

もちろん、「集団催眠状態」から覚醒すれば、消費者は悔やむことになる。なぜあのときはあんなにも、こんなつまらぬものが欲しいと思ったのだろう。どうしてあんな奴の言うことを信用してしまったのだろう。不要なものを買わされた。明らかにたぶらかされた。こんな商品は引き取ってくれ。金を返せ。

商売とは、所詮そんなものだという考え方も根強い。上から目線で消費者の自己責任論が説かれもする。われわれ消費者弁護士は、このような場面での「業者擁護論」「消費者自己責任論」と闘い続けてきた。「あるべき賢い消費者像を想定し、これを基準とするようなことがあってはならない」「消費者被害は、現実の弱い消費者像に寄り添うところから立論しなければならない」というのが、基本の考え方だ。

この理は、実は政治にも当てはまる。悪徳業者は政権を握る政治家に、集団催眠に陥る消費者は煽動された国民にちょうどピッタリなのだ。

安倍晋三の政治手法を「SF政治」と名付けてよいだろう。安倍が国民をあからさまに脅しているわけではない。明確な詐欺とも言いにくい。問題は、ウソすれすれの話術と、プロとしての演出が作りだした政治的雰囲気にある。国民の心理を巧みに操作して、このままでは近隣諸国の不埒な跳梁を許すことになると不安を煽り、国民生活を守るためと信じ込ませて、支持と得票を獲得しているのだ。

もちろん、この先「集団催眠状態」から覚醒すれば、国民が悔やむことは目に見えている。なぜあのときはあんなにも、こんなつまらぬことにこだわったのだろう。どうしてあんな奴の言うことを信用してしまったのだろう。近隣諸国を挑発する不要な法律を作ることに加担させられた。明らかにたぶらかされた。こんな立法は廃止せよ。平和と国際友好を取り戻せ。

政治とは、所詮そんなものだという考え方も根強い。上から目線で国民の自己責任論が説かれもする。そんな、「政権擁護論」「国民の自己責任論」とは、断固闘わねばならない。悪徳政治家の口車に乗せられると、どこまでもっていかれるやら見当もつかない。眉に唾を付けて慎重にかからないと、取り返しのつかないことになる。

だから、私は、次のように警告したい。

最近では、国政選挙が間近にないため、長期政権の兆しとともに、平和の危機と、貧困・格差拡大の被害が目立っています。株価釣り上げに目眩ましされた国民に対し、戦争法案や企業利益確保政策への支持が掠めとられようとしています。初めは警戒していた国民も、与党や政権から、繰りかえし、「あなたのための政治をしている」「平和のためです」「国の安全のためです」「そのうちきっとおこぼれがまわってきますよ」などと思いやるような言葉を掛けられて説得されてしまう。説明を聞いているうちに、良いことをしてくれそうな錯覚に陥って、投票してしまうなどの事情がうかがえます。

最近のこのような手法では、国民が長期間欺されて、たいへん危険な法案が次々と提案され、次々と成立しかねないことが危惧されます。SF政治に欺される人の特徴からは、戦争体験の受継の不十分や、孤独、貧困などからの絶望、判断能力の低下といった問題が関係してくるため、事態はたいへんに深刻です。そこで、国民がSF政治の被害に遭遇して手遅れにならないため次のようにご注意ください。

違憲違法な危険法案は、次々にやって来ます。早期に食い止めないと、切りがありません。放置しておくと、最終的にはリアルな戦争被害が生じるまで続くこことになります。一刻も早く食い止めなければなりません。

次々に法案が提出され、成立していくうちに、何が憲法原則で何が平和なのかが、分からなくなり、気が付いたら平和がなくなってしまい、戦争に突入していたということになりかねません。むしろ、そのような国民意識の混乱が政権の付け目なのですから、しっかり見極めましょう。

安易に為政者の言うことを鵜呑みにしてはいけません。昨日まで神様だった人が、突然「実は私は人間ですよ」と宣言したり、神風の吹くはずが吹かなかったり、鬼畜だった米英が民主主義の先生になったり。最近も「原発は安全」だとか、「完全にブロックされコントロールされている」だの。いくらも身近な実例があるではありませんか。

権力者が甘いことを言うときは、隠れたウソを嗅ぎつけなければなりません。「うまい話には裏がある」「甘い話しには落とし穴」「タダより高いものはない」こういう庶民の知恵を発揮して、政府や与党の嘘を見抜き、支持と票の要求には、きっぱりと断りましょう。大切な平和に関わる問題です。くれぐれも、慎重な対応を。

以下は催眠商法についての識者(社会心理学者)のコメントの私流の解釈
 SF政治の個々のテクニックは一般的な政治的言論でも用いられてはいる。しかし、SF政治では、政治家がこれらのテクニックを意識的に合わせ技で国民に働きかけているのが特徴となっている。特に、社会心理学的に根拠のある「承諾誘導」のテクニックが多用されている。このテクニックによって、国民は当該政治判断の必要性や妥当性などといった重要な点に注目を払わないように誘導され、政権からの働きかけに何ら違和感を持つことなく、政治選択をしてしまう。
 理性ではなく感性レベルへの訴えかけであり、テクニックによる国民意識操作なのだから、民主主義は完全に形骸化したものとなっている。
 問題は、民主主義の成熟度にあるのだが、悠長に自然な熟成を待っておられるほどの時間的な余裕があるかは疑わしい。
(2015年5月23日) 

天皇制教育を清算して確立した現行教育法体系

東京都(教育委員会)を被告とする、一連の「日の丸・君が代」強制拒否訴訟は、一定の歯止めとなる判決を得ながらも所期の成果をあげるまでには至っていない。最高裁での違憲判決を求めて、法廷闘争はまだまだ先が長い。

弁護団は知恵を絞って、新しい主張を開拓して裁判所を説得したいものと努力をしているが、一方、これまで積み上げてきた基本となる教育の本質論や、憲法を頂点とする教育法体系の理念や、その立法事実の主張にも手を抜いてはならないと思う。天皇制教育を清算して戦後に確立した現行教育法体系は、「戦後レジーム」(戦後民主主義体制)の象徴というべき存在として、訴訟を離れても、今その確認と評価とは、ことのほか重要なテーマとなっている。

具体的には、教育の本質とは何か。教育条理は法にどう反映しているか、法の解釈にどう活かされるべきか。また、戦前のレジームを象徴する天皇制教育とはいかなる考え方で、いかなる実態をもち、国の命運にいかなる結果をもたらしたのか。戦後教育改革とは、戦前教育のどこをどう反省し、どのように根本転換して、戦後教育法システムを作り上げたのか。さらにそのことが、新憲法の理念とどう関わっているのか。

本日(5月22日)が、東京「君が代」裁判第4次(処分取消)訴訟の第5回口頭弁論期日である。ここで陳述される原告準備書面(4)が、以上の問題意識に触れる主張を盛り込んだものとなっている。この訴訟を担当している限り、歴史修正主義に毒されることはありえない。

準備書面は目次だけで6ページに及ぶ大部なものだが、そのごく一部を紹介しておきたい。以下、教育基本法制定の経過と基本理念、そして完成した教育基本法の普遍性、真理性についての要約である。

※戦前教育への反省と戦後教育改革の基本理念
 教育基本法は、戦後教育改革の結実点である。その立案にあたったのが、「教育刷新委員会(南原繁委員長)」であった。同委員会は内閣に直接建議を行う機関として位置づけられ、重要な役割を果たした。その委員会審議の冒頭に、吉田茂首相の代理として、幣原喜重郎国務大臣(前首相)が次のように挨拶している。
 「今回の敗戦を招いた原因は、煎じつめますならば、要するに教育の誤りに因るものと申さなければなりませぬ。従来の形式的な教育、帝国主義、極端な愛国主義の形式というものは、将来の日本を負担する若い人、これを養成する所以ではありませぬ・・・・我々は、過去の誤った理念を一擲し、真理と人格と平和とを尊重すべき教育を、教育本来の面目を、発揮しなければならぬと考えます。」
 ここには、戦前の教育に対する深い反省が表れている。戦前教育の誤りをもって戦争の原因と認め、天皇制教育を一擲して「真理と人格と平和とを尊重すべき教育」を教育本来の面目としている。この短い言葉に、戦後教育改革の理念が凝縮されている。

※憲法改正論議における「教育根本法」構想
 憲法改正審議の中で、憲法中に教育関係の一章を設けて、教育の自主性・教育の自由・教育の独立性など、新しい民主主義教育の理念を明らかにすべきことが、大島多蔵(新光倶楽部)らの議員から提案された。
 これに対し、田中耕太郎文相(後の最高裁長官)は、「教育根本法というべきものの構想をねっている」ことを明らかにし、さらに次のように発言している。
「教育権の独立と云うようなこと、詰り教育が或は行政なり、詰り官僚的の干渉なり或は政党政府の干渉と云うものから独立しなければならないと云う精神は、これは法令の何処かに現したいと云うことは、当局と致しまして念願して居る所でありまして、これは計画致して居りまする教育根本法に、若し法律的のテクニックとして許しますならば、考慮してみたい」
と述べ、教育にかかる憲法的条項を、新たに制定する「教育根本法」にゆずる方針を明らかにした。

※教育刷新委員会における教育基本法構想
 1946年9月20日、教育刷新委員会の第3回総会にて、田中耕太郎文相は、教育基本法の全体構想を掲げ、同委員会の審議を求めた。
 この中で、田中文相は、
 「文部省なり地方の行政官庁なりが終戦まで執って居った態度は我々の考から言ってはなはだ遠いものでありまして、文部省にしろ、あるいは地方の行政官庁にしろ、教育界に対して外部から加えられるべき障碍を排除するという点に意味があるのであります」
と、教育の独立を主張し、さらに、
 「要するに学校行政はどういう風にしてやって行かなければならないものであるかということ、あるいは学問の自由、教育の自主性を強調しなければならないということ、・・・・・・そういう建前をもって教育の目的遂行に必要な色々の条件の整備確立をやって行かなければならぬ」
と、47年教育基本法10条の「条件整備」の考え方、すなわち、教育行政の主眼は教育に関する施設・設備・予算等の確保に置かれるべきであり、教育内容についての官僚的な統制は排除され、学問の自由・教育の自主性が尊重されなければならないといった考え方を既に明らかにしていた。

※高橋誠一郎文相の教育基本法案上程理由説明
 「民主的で平和的な国家再建の基礎を確立いたしまするがために、さきに憲法の画期的な改正が行われたのでありまして、これによりまして、ひとまず民主主義、平和主義の政治的、法律的な基礎が作られたのであります。しかしながらこの基礎の上に立って、真に民主的で文化的な国家の建設を完成いたしまするとともに、世界の平和に寄与いたしますこと、すなわち立派な内容を充実させますることは、国民の今後の不断の努力にまたねばなりません。そしてこのことは、一にかかって教育の力にあると申しましても、あえて過言ではないと考えるのであります。かくの如き目的の達成のためには、この際教育の根本的刷新を断行いたしまするとともにその普及徹底を期することが何より肝要であります。
 …さらに新憲法に定められておりまする諸条文の精神を一層敷衍具体化いたしまして、教育上の諸原則を明示いたす必要を認めたのであります。」
「この法案は、教育の理念を宣言する意味で、教育宣言であるとも見られましょうし、また今後制定せらるべき各種の教育上の諸法令の準則を規定するという意味におきまして、実質的には、教育に関する根本法たる性格をもつものであると申し上げ得るかと存じます。従って本法案には、普通の法律には異例でありますところの前文を附した次第であります。」
 教育基本法は、教育勅語に代わる教育理念を示すいわば教育宣言であると同時に、その他の教育法を導く、「教育法の中の根本法即ち、教育憲法」(田中二郎)だといってよい。前文の文言が、そして文相の提案理由が示しているように、教育基本法は、なによりも教育が日本国憲法の精神に則り、その理想の実現を担うものであるべきこと、そのために教育の目的をさらに具体的に明示して、新しい日本の教育の基本を定め、教育実践と教育行政のあり方を方向づけるためのものであった。

※教育行政の理念
 以上のような教育の目的を実現するためには、教育行政は、時の政治的権力から自律し、教育独自の価値と論理を尊重する教育行政の仕組みがつくられることがとりわけ重要であった。その理念は「教権の独立」として表現された。
 文部省(田中二郎・辻田力)の『教育基本法の解説』(1947年)も、戦前の中央集権的教育行政制度をつぎのようにとらえていた。同解説は、
「(戦前の)精神及び制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍事的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。更に、地方教育行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきた」
「このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生れることは極めて困難であった」
 と述べて、教育基本法10条を根幹とする教育行政の新たな転換の意味が、教育の自主性・自律性の尊重にあることを強調した。戦後教育行政の理念は、戦前の中央集権的官僚統制主義の反省に立って、教育行政の任務を条件整備に限定し、教育内容への介入をさけて、政治に対する教育の自律性を確保し、さらに地方の実情に応じた個性的教育を創り出すことを援助することにおかれたのである。

※教育基本法理念の普遍性
 新憲法と教育基本法は、教育のあり方についての戦前的思惟への反省に立って、教育を国民の義務ではなく権利として規定するとともに、平和と民主主義を根本に据え、真理と正義を希求する人間の育成を新しい教育の目標とし、人間の尊厳に基づく個性の発現をめざすものとなった。
 また、国家と教育の関係も大きく変わり、教育においても学問の自由が尊重され、真理と真実こそが教えられねばならないこと、そして、このような教育の目的を実現させるためには、教育は「不当な支配」に服することなく、「国民に対して直接に責任を負う」べきものとしてとらえられ、教育の自主性と自律性が尊重されて、教師は不断の研修を通して子どもの学習権の充足につとめ、国民の信頼に応えるために努力すること、そして、教育行政は、教育の目的が達せられるための条件を整備することにその任務を限定すべきことが定められた。
 こうして、戦後教育改革は、教育勅語を中軸とする教育のあり方(帝国憲法・教育勅語体制)から、憲法・教育基本法を中心とする教育のあり方(憲法・教育基本法体制)へと大きく転換した。
 教育の依拠すべき根本のものが教育勅語から教育基本法に代わったということは、教育目的が天皇制イデオロギーの注入による国民形成から、真理と正義を希求する人間の育成へと変わったということにとどまらず、それまで勅語が占めていた次元そのものを否定して、いわば教育の全構造をかえるということを意味した。
 教育刷新委員会の委員長として教育基本法制定作業の中心に位置していた南原繁は、成立した教育基本法についてこう語っている。
「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」
 この南原の言のとおり、憲法26条(教育を受ける権利)、同13条(それを支える生徒の人間としての尊厳)、そして23条(学問の自由→生徒の権利を十全に発揮させるための教員の独立)という、高次の規範に揺るぎがない以上、2006年教育基本法改正を経てなお、教育基本法の基本理念に変更はないと見るべきである。
(2015年5月22日)

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