宗教者の戦争法反対ー新宗教も仏教もクリスチャンも
新日本宗教団体連合会(新宗連)の「新宗教新聞」(月刊・2015年5月23日号)が届いた。
一面トップが、「『安保法制』に危機感」の大きな見出し。リードでは、「有識者や宗教者から『国民の理解、国会議論がないまま先行する姿勢は、民主々義の存立を脅かす』『9条だけでなく、憲法そのものを壊す』などの批判の声があがっている」と強い危機感がにじみ出ている。
5月15日国民安保法制懇の反対声明が詳しく紹介されている。「健全な相互理解と粘り強い合意形成によってなり立つはずの民主主義の『存立を脅かす』」「自衛隊に多くの犠牲を強いるばかりか、国民にも戦争のリスクを強いる」と、新ガイドライン・安保法制関連法案危険性指摘の引用が印象的である。
また、「安倍政権の戦略は『改憲』」とタイトルを付して「九条の会」の学習会や5月3日横浜・みなとみらい地区臨港パークでの「5・3憲法集会」開催も紹介されている。この集会での大江健三郎発言の「安倍首相はアメリカとの間で『安保法制』を進めようとしているが、多くの日本人は同意していない」と安倍政権批判や、樋口陽一の「憲法は70年間、改正を目指す度々の攻撃に対して、先輩の憲法学者や国民が守り支えてきた」との訴えが記事になっている。
また、大阪宗教者9条ネットワークが「戦争法案断固反対」を採択したとの記事もある。この記事では、「安保法制」ではなく、「戦争法案」断固反対との見出しが目を引く。5月16日午後2時から、「宗教者としてともに歩むー平和を尊び憲法9条を世界に」をテーマに、大阪市の大阪カテドラル聖マリア大聖堂で開かれた集会で、「宗教者9条の和」代表世話人でもある宮城泰年聖護院門跡門主、松浦悟郎カトリック司教がそれぞれ憲法の大切さ、平和への思いを語った。中学2年の時に敗戦を迎えた宮城門主は、軍事教練などの苦い思い出を語りながら、「自民党は、『安保法制』11法案の成立を企てているが、9条だけでなく、憲法そのものを壊していこうとしている。今こそもう憲法に敏感にならなければならない」と危機感を露わにし、松浦司教は「日本の世界への貢献は、軍事力とは違う土俵がある」として、平和的な支援活動がアジアや世界から信頼を得ていることを強調した。「戦争法案に断固反対する」集会アピールを採択した後パレードに移り、大阪城公園まで9条改悪反対などを訴え行進したという。
紙面の隅々に、戦争反対、世界に平和を、そして、宗派を超えた戦没者の追悼という意気込みが溢れている。さらに、戦争責任から目をそらしてはならない、戦争の危機が宗教弾圧をもたらすとの危機感などが感じられる。
また、巨大宗教団体である真宗大谷派(東本願寺)が5月21日に、里雄康意宗務総長名で、「日本国憲法の立憲の精神を遵守する政府を願うー正義と悪の対立を超えて」とする声明を発している。心して耳を傾けるべき立派な内容である。やや長いが、全文を紹介したい。
「私たちの教団は、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、このたび国会に提出された『安全保障関連法案』に対し、強く反対の意を表明いたします。そして、この日本と世界の行く末を深く案じ、憂慮されている人々の共感を結集して、あらためて『真の平和』の実現を、日本はもとより世界の人々に呼びかけたいと思います。
私たちは、過去の幾多の戦争で言語に絶する悲惨な体験をいたしました。それは何も日本に限るものではなく、世界中の人々に共通する悲惨な体験であります。そして誰もが、戦争の悲惨さと愚かさを学んでいるはずであります。けれども戦後70年間、この世界から国々の対立や戦火は消えることはありません。
このような対立を生む根源は、すべて国家間の相互理解の欠如と、相手国への非難を正当化して正義を立てる、人間という存在の自我の問題であります。自らを正義とし、他を悪とする。これによって自らを苦しめ、他を苦しめ、互いに苦しめ合っているのが人間の悲しき有様ではないでしょうか。仏の真実の智慧に照らされるとき、そこに顕(あき)らかにされる私ども人間の愚かな姿は、まことに慙愧に堪えないと言うほかありません。
今般、このような愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が、『積極的平和主義』の言辞の下に、何ら躊躇もなく進められようとしています。
そこで私は、いま、あらためて全ての方々に問いたいと思います。
『私たちはこの事態を黙視していてよいのでしょうか』、
『過去幾多の戦火で犠牲になられた幾千万の人々の深い悲しみと非戦平和の願いを踏みにじる愚行を繰り返してもよいのでしょうか』と。
私は、仏の智慧に聞く真宗仏教者として、その人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません。これまで平和憲法の精神を貫いてきた日本の代表者には、国、人種、民族、文化、宗教などの差異を超えて、人と人が水平に出あい、互いに尊重しあえる「真の平和」を、武力に頼るのではなく、積極的な対話によって実現することを世界の人々に強く提唱されるよう、求めます。」
さらにキリスト教も、である。日本キリスト教協議会のホームページの冒頭に、小橋孝一議長による「今月(2015年5月)のメッセージ」が掲載されている。「剣を取るものは皆、剣で滅びる」という標題。
そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」マタイ26章52節
イエスを守ろうとして剣を抜いて大祭司の手下に打ち掛かった者を制して、主は「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断言されました。これは歴史の主の世界統治方針です。
どのような理由があろうとも、武力によって立つ者は、たとえ一時的には成功したかに見えても、結局歴史の主にその罪を裁かれ、身を滅ぼす結果になるのです。
大日本帝国は「富国強兵」のスローガンを掲げて、武力によって諸国を侵略・支配する罪を犯し、裁かれて滅びました。そして「剣を鞘に納める」誓いを内外に表明して、新しい歩みを始めました。
しかし戦後70年、その誓いを破り、再び「剣を取る者」となるための議案が国会で議決されようとしています。再び「剣で滅びる」道に歩み出そうとしているのです。何と恐ろしいことでしようか。
戦後の「平和の誓い」は、戦争によって自分たちが受けた苦しみによるもので、他国・他民族を殺し苦しめた罪の悔い改めによるものではなかったのではないか。その浅さが今露呈しているのです。
日本社会の根底に潜む罪を今こそしっかりと見つめ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との歴史の主の御言葉に身をもって聴き従い、世に訴えなければなりません。
「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」
これこそ、日本国憲法9条の精神ではないか。安倍晋三にも、高村正彦や中谷元にもよく聞かせたい。いや宗教者は、もっと品がよく、「安倍さんも、高村さんも、中谷さんも、皆さんよくお聞きください」というのだろう。それにしても、宗教者諸氏の平和への思い入れと、それが損なわれることへの危機感はこの上なく強い。
日本国中の津々浦々、そしてあらゆる分野に、安倍内閣の戦争法反対の声よ、満ちてあれ。
(2015年5月26日)