澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「日の丸・君が代強制」を合理化する最高裁「間接制約」論の構造

東京「君が代」裁判・4次訴訟の上告理由書提出の締め切りが間近である。
多様な上告理由を述べてはいるが、最も中心的なテーマは、最高裁が発明した奇妙な判断枠組み「間接制約論」をどう批判するかという課題。

憲法上の基本的人権は最大限尊重されなければならないが、絶対無制限ではない。他の人権や憲法上の利益と衝突する局面では、自ずから調整が必要となり、その限りで制約を受けることはやむを得ない。憲法学の常識では、公権力の行使が精神的基本権を制約しうるには、目的と手段の両面についての「厳格な審査基準」のテストをクリヤーしなければならない。

(1) 当該公権力行使は、真にやむを得ない目的(利益)をもっているか。
(2) 手段(規制方法)が目的を達成するために必要最小限(必要不可欠)なものであるか。

この厳格なテストのクリアーは至難の業といわざるを得ない。ところが、最高裁は、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制には服しがたいとする教員の思想・良心・信仰を制約する職務命令や懲戒処分の行使に関しては、「厳格な審査基準」によるテストは不必要で、より緩やかな「合理性の規準」で合憲性を認定してよいという。これは、通例経済的な自由の制限の可否の審査に用いられる規準。

要するに最高裁は、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は教員の思想・良心・信仰を侵害して違憲ではないのか」と問われて、何とか合憲の回答を与えようと知恵を絞って、緩やかな違憲審査基準の適用でよいとしたのだ。

そのための「知恵」としてひねり出されたのが、「間接制約論」である。判決の説示そのものが必ずしも明快ではないのだが、「思想・良心に対する直接の制約の局面ではなく、この場合は『間接的な制約』に過ぎないのだから、公権力側に甘い緩やかな審査基準の適用で合憲としてよいのだ」という論理の展開となっている。

最初の「間接制約論」判決となった2011年6月6日最判は、こういう。

「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」「本件職務命令は,特定の思想をもつことを強制したり,これに反対する思想をもつことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものと言うこともできない」

以上の文脈は、「(起立・斉唱を命じる)本件職務命令」は、「特定の思想をもつことを強制したり,これに反対する思想をもつことを禁止したりするものではない」という結論を導く苦心のレトリックである。

しかし、先入観のない目で見れば「国旗・国歌(日の丸・君が代)大好き」も思想だし、「国旗・国歌(日の丸・君が代)を卒業式に持ち込んではならない」も思想。「教員は、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制に従うべきではない」も思想に決まっている。それなら、国旗・国歌(日の丸・君が代)大好きな都知事や都教委が、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明には従えない」とする教員の思想をことさらに無視して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制するのは、「そりゃ直接的な思想の制約だろう」と思うのだが、そうではないというのだ。

最高裁は、まず「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為」を、「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するもの」と性格づける。「儀式的行事における儀礼的な所作」あるいは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」という言葉が出発点となっている。が、その内容は空疎で、十分な説明はなくよく分からない。

「儀式的行事」も「儀礼的な所作」も、「思想とも良心とも信仰とも無関係の無色のもの」と言いたいところなのだろう。が、なかなかそうも言い切りにくい。そこで、「一般的,客観的に見て」を入れて、何とか収めている。つまり、「一人ひとりには、異論もあるだろうが、一般的,客観的に見れば、『儀式的行事における儀礼的な所作』と言うべきだ」と言っている。これは、あなた個人がどう思おうと、社会一般から見れば、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明行為は、思想・良心・信仰とは無関係なんですよ」と言っているわけだ。

以上の文章に続いて、突然に接続詞「したがって」が登場し、一気に結論を導く。「起立斉唱行為は儀式的行事における儀礼的所作に過ぎない」。したがって、以上の論理的な帰結として、「上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」

日本語を解する多くの人に伺いたい。最高裁が言ってる、この論理、説得力があるだろうか。いや、それ以前に日本語として読み取れるだろうか。

改めて、ここまでの論理のスジを追ってみると、
「起立斉唱行為は一般的客観的には儀式的行事における儀礼的所作である。したがって、起立斉唱する者の思想や信仰とは不可分に結び付くものではなく、強制したところで思想や信仰の否定にはならない。」

この論理は、「一般的客観的」な視点で、「特定個人の」思想・良心の侵害を合理化する結論を導き出している。これは、ズルイ。と言うよりは禁じ手と言ってよかろう。社会の多数派は、その思想や信仰を公定のものとして少数派を従わせたいという衝動をもつ。これが、洋の東西を問わずすべての社会の多数派の願望。人権という概念は、国家からも社会からも歓迎されざる少数派を擁護することにこそ意義がある。思想の自由・信仰の自由は、国家からも社会の多数派からも疎まれ、危険視される少数者の思想や信仰を擁護してこそ自由の真骨頂と言うべきなのだ。

判決は続けて、「本件職務命令は,特定の思想をもつことを強制したり,これに反対する思想をもつことを禁止したりするものではない」という。それはなかろう。少なくとも、「本件職務命令は人事権者による、『国家への敬意表明は教育上意義のあることだとする特定の思想』を表白するもので、その支配下にある教職員に対して、これに反対する思想をもつことには懲戒処分を科すことを以て禁止し、その見せしめを通じて、人事権者に迎合する思想を持つよう慫慂するものにほかならない」のだから。

以上の大前提をおいた上で、最高裁判決も、「もっとも,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる『日の丸』や『君が代』に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」とはいう。

言っていることが、バカバカしいほどにまだるっこしいのは、論理が滑らかではないからだ。無理な論理が重ねられているからだ。要するに、「国旗・国歌に対する起立斉唱を強制されれば、個人としては辛いこともあるでしょう」というのだが、それを端的に「思想の自由の制約」とも侵害ともいわない。そう言ってしまうと、公権力や社会の多数派を窮地に立たせることになる。そこで、「その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」とひねり出したのだ。

ここにようやく「間接的な制約」が出てくる。何のことはない。「厳格な審査基準」の適用を排除して、「合理性の審査基準」の適用で足りるということを導き出すためのまだるっこしい操作なのだ。「厳格な審査基準」の適用は違憲判断と、「合理性の審査基準」の適用は概ね合憲判断と結びつくことになる。最高裁は、合憲判断を導くためのステップとして、無理を重ねて「間接的な制約」とし、だから「合理性の審査基準」で足りるとしたわけだ。

ここまで来ればあとは簡単。「このような間接的な制約について検討するに,……社会一般の規範等と抵触する場面において,当該外部的行動に対する制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限によってもたらされる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。」「このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びにこれによってもたらされる上記の制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。」

合憲の結論があって、これを導くために何か考えて判断をしているフリをしているだけ。「当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当」という言い回しには、正直驚かざるを得ない。「当該職務命令の合違憲の判断」は、「上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かで決める」は、実は何にも語っていない。何の判断もしていない。判断の適正を検証しようもない。アプリオリに結論を決めて、あとからその理由付けをしようということだから、こうなるのだ。

さて、まさに今、これに対する有効な反論を考慮中。
(2018年7月2日)

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