澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

中西進さん、「令和」批判への反論・弁明は、お見苦しい。

「世の中は三日見ぬまの桜かな」(寥太)という句がある。
作者の眼前には、満開の桜があるのだろうか。花はすっかり散った葉桜なのだろうか。三日見ぬ間に、花は咲いたのか、散ったのか。どちらとも解することが可能だ。

得意の人生を歩んできた者の眼前には満開の桜が見え、失意の人生を送った者には葉桜の句としか解せないのではなかろうか。句の解釈は、人それぞれである。また、人それぞれの立場やら人生経験が、解釈を決定することにもなろう。

さて、新元号「令和」である。私は、「令」も「和」も、いや~な漢字と繰り返し述べてきた。「令」は、命令・法令・勅令・訓令・威令・禁令・軍令・指令・家令・号令・布令…の令を連想させる。令とは、権力者から民衆に、お上から下々への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すまことに嫌みな漢字なのだ。

ところが昨日(4月12日)、これを正反対に解する人物の言が話題となった。その人の名は中西進。大阪女子大の元学長という肩書。万葉集の講座を東京都内で開いた。令和の「令」は発音が美しいと評価し、「命令」の「令」との指摘は当たらないと説明した。そして、こう言ったと報じられている。「命令の令との指摘は、こじつけだ。令嬢や令夫人などと同様に、和を形容する意味に取るのが普通だ」と強調した。

この元学長は、「中西進という人が(「令和」という元号の)考案者と言われているが、ここにいるの(自分のこと)は違う人間だ」とも述べたという。私は、中西進著「万葉の秀歌 上・下」(講談社新書)の愛読者である。これまでは尊敬もしていたが、中西進という人が「令和」の考案者だとしたら、実につまらぬことをしたものと興醒めだ。さらに、「令和」への批判を快しとせず再批判を試みる態度は見苦しい。「裁判官は弁明せず」という法諺がある。その美学を見習うべきだろう。

「令嬢や令夫人などと同様に、和を形容する意味に取るのが普通だ」という言語感覚にはなじめない。それこそ、こじつけではなかろうか。大多数の国民は、「令嬢や令夫人や令室」などという言葉とは無縁の生活圏で暮らしている。「令」と出てきたら、「令嬢や令夫人」を連想しろというのが、どだい無理な話だ。

「令和」と2字をならべて、「令」を修飾語、「和」を被修飾語と解して、「令なる和」と読めというのはさらに無理な話。「令嬢・令夫人・令室」など、人や物に付く「令」はともかく、「和」に修飾語が付くとは、普通の言語感覚では思いもよらない。「令」を修飾語とする例で思いつくのは、「令状」の令であり「巧言令色」の令くらいのもの。

少なくとも、両様の解釈が可能なことを、一方だけが正しくて、他を「こじつけ」という尊大さが、元号というものにまつわる権威主義的な雰囲気をよく表している。

さらに、令和の「レイ」は発音が美しいとの自画自賛の評価となると噴飯物である。高村薫は、「「れい」という音も冷たい響きで、長く使いたくなるような明るい語感ではない」と言った。こちらが常識的な言語感覚だろう。

令和のレイからは、冷血、冷酷、怜悧…、確かに冷たい響きしか聞こえてこない。

また、報道では「令和の典拠である万葉集に先行する漢籍「文選」に類似の文章があるとの指摘には『並ぶべくもない。冷静に見ると、万葉集が出典というのはいいと思う』と解説した。」とある。「並ぶべくもない」の意味が不明である。文選が万葉集に並ぶべくもないのか、あるいはその反対なのか。

中西進「万葉の秀歌 上」131~133頁に「巻五・822」の旅人の梅花の歌の解説があり、その中で中西先生はこう書いておられる。「旅人は、32首に先だって、漢文で当日の模様を書いて序文としているが、その書き方も中国の王羲之の名篇「蘭亭序」を真似たものであり、華麗な四六文によるものである」と。

「蘭亭序」の文中には、「天朗氣清、惠風和暢」という文書があるそうだ。中西説では、令和のネタ元である梅花の歌32首序はこの「蘭亭序」の真似ということなのだ。

また、中西説では指摘がないが、つとに話題となっているとおり、文選」中に漢の張衡による帰田賦」があり、その一節に於是仲春令月、時和氣清」と「令和」がしっかり出てくるという。「冷静に見ると、万葉集が出典というのはいいと思う」などとがんばっても仕方なかろう。「万葉のどこを採っても、結局は漢籍に行き着くね」と、余裕で破顔一笑してみせれば、中西先生の風格と尊敬は保たれたのに。

中西進といえば、大先生。その道の権威である。だから、自分の解釈が正しい、他はこじつけという姿勢を露わにしたことが不愉快なのだ。天皇制も権威である。天皇という権威が、学問上の権威と一緒になって、「令和批判は間違っている」と言うその姿勢こそ、まちがっている。天皇制に対してのものにせよ、元号に対するものにせよ、批判があって当然なのだ。天皇に関わることだから、斯界の権威が言うことだから、と批判を躊躇してはならない。誰もが語り、読み書きする言葉のことだ。何が正しいか、何がまちがっているか、天皇も大先生も決める権利はない。天皇にも大先生にも恐れ入ってはならない。
(2019年4月13日)

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