澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「5・18光州民主化運動39周年記念式典」での文在寅大統領演説

5月18日、私は小雨ふる光州にいた。1980年5月の光州は夏の暑さだったと聞かされたが、あの事件以後、光州の5月18日には雨がふさわしい。国立5・18民主墓地での「5・18光州民主化運動39周年記念式典」に参加して、文在寅大統領のかなり長い演説を聴いた。有能な通訳のおかげでほぼ内容は把握でき、立派なものだと感心した。

通訳を通じての言葉として印象に残ったのは、「光州の5月はけっして悲劇の5月に終わらせない。これからは希望の5月にしよう」という呼びかけだった。

ハンギョレ新聞によると、「大統領の演説は、メッセージ自体よりも、演説途中に20秒間近く続いた“言葉の空白”が話題になった」とされている。その沈黙は、「人権弁護士であると同時に民主化運動家として、光州に対して持ち続けた負債意識の表れであり、国政責任者として光州が再び侮辱される状況を目にしなければならない惨憺たる思いの表現だ」という。

「負債意識」とは、こなれない日本語だが、「負い目」「疚しさ」「呵責」ということなのだろう。ともに闘うべくして闘わず、友人を見殺しにしてしまった、という後ろめたさ。文在寅は、自分の立場が、常に民主主義や自由のために闘った人々の側にあるということを明確にしている。そして、野蛮な暴力と虐殺とで民主主義や自由を蹂躙した公権力の非道を、今や全国民を代表して謝罪しているのだ。

ハンギョレ紙は、こう続けている。
「沈黙の末に再開された記念演説は『1980年、光州が血を流して死んで行く時に、光州と共に(行動)できず、その時代を共に生きた市民の一人として、本当に申し訳なく思っている。公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に、大統領として国民を代表し、もう一度深くお詫び申し上げる』という、より具体的な謝罪につながった。」

この演説の日本語訳をネットで探してようやく見つけた。青瓦台から配布されたテキストを、ソウル在住のジャーナリスト・徐台教氏が翻訳したもの。以下は、飽くまでも私流の、抜粋・要約である。

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「5.18民主化運動 39周年記念式典式辞」

尊敬する国民の皆さま、光州市民と全羅南道道民の皆さま。今年もまた五月がやってきました。悲しみが勇気として咲きほこる五月です。

決して忘れることができない五月の民主の英霊たちを悼むとともに、厳しい歳月を生き抜いてこられた負傷者と遺家族の皆様の御苦労に心からのお見舞いを申し上げます。

来年は5.18民主化運動40周年になります。そのため、大統領がその時に記念式に参加する方がよいという意見がありました。しかし、私は今年の記念式に必ず参加したかったのです。光州の市民たちに対する、あまりに申し訳なく恥ずかしいという私の思いを、皆さまに訴えたかったのです。

80年5月、光州が血を流し死んでいくその時を私は光州と共にすることができませんでした。そのことが、その時代を生きた市民の一人として、本当に申し訳ない気持でいっぱいなのです。…… あの時、公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に対し、大統領として国民を代表する立場で、もう一度深く謝罪いたします。

今も5.18民主化運動を否定し侮辱する妄言が、はばかりなく大きな声で叫ばれている現実を、国民の一人としてあまりにも恥ずかしく思います。個人的には、憲法前文に5.18精神を書き込むとした約束を今日までに果たすことができていないことをお詫びいたします。

国民の皆さま、1980年5月、私たちは光州を見ていました。民主主義を叫ぶ光州を見、徹底して孤立した光州を見、孤独に死んでいく光州を見ました。全南道庁を死守した市民軍の最後の悲鳴と共に光州の五月は私たちに深い負い目を残しました。五月の光州と共に行動できなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました。そうして私たちは光州の痛みを共に経験しました。

その負い目と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな恩恵を受けました。大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験した者であれば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきた者ならば、誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。

光州が守ろうとした価値こそがまさに「自由」であり「民主主義」でした。独裁者の後裔でない限り、5.18を別の目で見ることはできません。「光州事態」と侮蔑的に呼ばれた5.18が、「光州民主化運動」として公式に呼称されるようになったのは1988年の盧泰愚政府の時でした。金泳三政府は1995年、特別法により5.18を「光州民主化運動」と規定し、ついに1997年に5.18を「国家記念日」に制定しました。大法院もやはり新軍部の12.12クーデターから5.18民主化運動に対する鎮圧過程を、軍事反乱と内乱罪と判決し、光州虐殺の主犯を司法的に断罪しました。

国民の皆さま、こうして私たちはすでに20年も前に光州5.18の歴史的意味と性格について国民的な合意を成し遂げ、法律的な整理まで終えました。もうこの問題についてこれ以上の議論は必要ではありません。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです。
そうしてこそ私たちはより良い大韓民国に向けて互いに競争しながらも統合する社会に近づいていけるでしょう。

しかし、虐殺の責任者、秘密埋葬と性暴力の問題、ヘリからの射撃など明かすべき真実は依然として多くあり、この真実を明らかにすることが今、私たちに求められています。そのようにして、光州が担った重い歴史の荷を下ろし、悲劇の五月を希望の五月に変えていきましょう。

私たちは五月が守った民主主義の土台の上で共に歩んで行かなければなりません。光州に受けた恩義を大韓民国の発展で返さなければなりません。

わが政府は国防部独自の5.18特別調査委員会の活動を通じ戒厳軍によるヘリ射撃と性暴力、性的暴行、性拷問など女性の人権への侵害行為を確認し、国防部長官が公式に謝罪しました。政府は特別法による真相調査究明委員会が発足すればその役割を果たせるように全ての資料を提供し、積極的に支援することを約束します。

光州市民と全羅南道の皆さん、5.18民主化運動39周年の今日、光州は平穏な人生と平穏な幸福を夢見ています。

その年に生まれて39回の五月を過ごした光州の子どもたちは中年の大人になりました。結婚もしたでしょうし、親になってもいるでしょう。真実が常識になる世の中で光州の子どもたちが共に良く暮らすことを私は心から望みます。

民主主義を守った光州は今や経済民主主義と共生を導く都市になりました。労使政それぞれが譲歩し分け合うことで社会的な大妥協を成し遂げ「光州型雇用」という名前で社会統合型の雇用を作り出しました。すべての地方自治体が、第2、第3の「光州型雇用」を模索しています。

五月はこれ以上、怒りと悲しみの五月になってはいけません。私たちの五月は希望の始まり、統合の土台にならなければなりません。

光州が担った歴史の荷はあまりにも重いものでした。その年の五月、光州を見て経験した国民が共に担うべき荷です。

光州により蒔かれた民主主義の種を共に育て大きくしていく事は、全国民の幸せにつながるものとなるでしょう。私たちの五月が毎年かがやき、すべての国民に未来に進む力となることを望みます。

ありがとうございました。

(2019年5月22日澤藤記)

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