澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「ある医療過誤事件の報告」 ー 1996年の論稿

幼子を失った中原中也は、こう呟く。
 「愛するものが死んだ時には、
 自殺しなければなりません。
 愛するものが死んだ時には、
 それより他に、方法がない。
 ……
 愛するものは、死んだのですから、
 たしかにそれは、死んだのですから、
 もはやどうにも、ならぬのですから」

最近、医療過誤事件の受任が多い。そのほとんどが患者死亡事故で、愛する者を失った依頼者の痛切な思いの一端を背負うことになる。時にその重さにたじろがざるを得ない。
「もはやどうにも、ならぬ」身近な人の死について、いったい訴訟という無機質の手段は何をなし得るのだろうか。依頼者本人と受任弁護士とは、共同で何をしようとしているのだろうか。答えのないままに、訴訟は始まり、進行し、終わっていく。

1992年暮の12月29日午後6時、当時27歳のSさんは甲府の産科診療所で妻の出産に安堵の思いをしていた。初産の妻は過期妊娠として入院しており、陣痛誘発剤の投与による4350グラムの「巨大児」の出産だった。
ところが、事態は思いもよらない悲劇に発展する。妻は分娩室からなかなか出てこない。不安が募るうちに分娩室の様子が慌ただしくなり、午後9時30分救急車の出動要請となった。妻は地元の大学病院に搬送されるが、救急車に同乗したSさんが見た妻の姿は生者のものではなかった。
後の手続きで顕出された大学病院でのカルテの最初に書かれた3文字は、「DOA」(デッド・オン・アライバル、到着時死亡状態)。死亡診断書の死亡時刻は、その日の午後11時54分とされている。
Sさんはこの年の2月に結婚、12月には夫婦が赤ちゃんを迎えるはずの家を新築したばかり。妻はこの新居に3日だけ住んで帰らぬ人となった。こうして、生まれた子は自分の誕生日を母の命日として記憶することになった。
間もなく、Sさんの動める会社の紹介で私が事件の依頼を受けた。最初に、Sさんはこう言った。
 「妻の死を、このまま受け容れることができません。妻のために、できるだけのことをしなければならない気持ちです。訴訟という手段があるなら、妻のためにとことんやってみたい。」
セオリーどおりに証拠保全手続きをしてカルテを入手した。その中に、大学病院の産科長からの報告書があった。「遺族には、子宮破裂か羊水塞栓症による産科ショックと説明」「マルプラクティス(医療過誤)はないと思う。産科ショックは早期発見、管理は難しい」。壁は厚い。
提訴が、1993年の暮。3年間甲府の裁判所に通った。
被告の主張は、患者は羊水塞栓症だったということ。羊水塞栓は2万ないし3万の分娩に1例生ずる珍しい症例である。その発症機序は明らかでなく、予見も予防も不可能。そして治療方法はなく、死亡率は極めて高い。原告は、羊水塞栓の主張は産婦死亡事故における医師の常套手段であり、逃げ場に過ぎないとしてこれを争い、法廷では熾烈なやりとりが行われた。
この間、亡くなった妻の親族の多数が傍聴席を占め、Sさん自身の主張や立証手段の理解に熱心だった。進行につれて、被告となった医師側の事情や気持ちもわかってきたのではなかろうか。
この件では鑑定はなされず、後医として患者の死亡診断書を書いた若い医師の、冷静で客観的な証言がこれに代わる役割を担った。こうして、証拠調べを終えて、双方から最終準備書面が提出された段階で裁判所から和解勧告がなされた。
「合議の結果、転医措置の遅延に関しては有責との心証ですが、果たして早期の転医が実現していれば救命できたかという因果関係の点に関しては、必ずしも十分な心証を得たとは言えません。」
この前提で和解の交渉は進行したが、原告がこだわったのは和解金の金額ではなく被告の死亡患者に対する謝罪と再び同様事故を起こさないという誓約だった。被告がこれを容れることは困難だったが、交渉進展の中でSさん自身の気持ちが整理されていった感がある。その本来の願いは、医師の責任を追及して「謝罪」を求めるよりは、むしろ妻への「哀悼」の意思表明を求めるものであったろう。
何度かの和解案の摺り合わせのあと、最終的な和解条項第1項の文言はつぎのとおりとなった。
「被告(医師)は、原告らに対し、亡S女の診療に関し理想の診療に至らざるところがあったことを認め、今後理想の診療のために努力を重ねることを確約するとともに、亡S女に対して深甚の哀悼の意を表明する」
最後にSさんが納得したのは、被告医師が妻への墓参を約束してくれたことによる。なお、和解金は1800万円でまとまり、Sさんに金額の不満はなかった。
1996年12月10日、甲府地裁での和解成立直後に関係者は車に分乗してSさんの妻の墓所に向かった。うららかな冬の午後の日差しのなかで、先ほどまで被告だった医師は、用意した花束と線香を墓に供えた。被告代理人の弁護士も同道して、同様に死者に哀悼の意を表した。
Sさんや、亡くなった妻の両親、残された子らに対して、医師は「今後、このような事故をおこさぬよう、研讃をいたします」と、頭を下げた。誠実な態度だった。
Sさんは、万感の面もちで答礼した。妻の母は涙を浮かべて、「おかげさまで胸のつかえがとれ、もう気持ちが晴れました。あの子も成仏できます」と医師に精一杯の言葉を返した。
甲府駅までの車のなかで、Sさんは言った。
 「妻のために、できるだけのことをした思いです。これで、ようやく妻の死を受け容れることができます」
特に普遍的な影響を持つ「意義のある」訴訟ではない。しかし、今までにない、後味のよい受任事件の「解決」であった。生きた人間の営みの手段として訴訟が有効に働いたとの満足感があった。
自分が同様の被告事件を受任したら、あの被告代理人のように、線香と花束を用意して和解成立後の墓参に行ってみたいとも思った。
「キタニ ケンカヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイイ」と手帳に書き留めた賢治の気持ちは分からないではない。「それでは弱者の人権が…」と息巻くつもりもない。賢治がイメージした訴訟は、勝敗に関わらず、詩人にとって生きる価値とは無縁のものであった。
しかし、「愛するものが死んだ時に」「もはやどうにも、ならぬ」気持ちを癒す訴訟もあり得る。
そのような訴訟を担う人に、ワタシハナリタイ。
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以上は、私が、東京弁護士会・期成会の機関誌「Wa」に掲載した1996年の寄稿である。もう、23年も前のことだ。
創立60周年を迎えた期成会が、本日(10月29日)は盛大な祝賀会を開いた。60周年記念企画として、これまで機関誌に掲載された会員の論稿の中から優秀作の表彰が行われた。光栄なことに、上記の私の論稿が「Wa傑作大賞」を受賞した。
私のこれまでの人生は、受賞とか表彰とは無縁だったが、弁護士仲間に表彰してもらうことは、とてもありがたいと思う。もちろん、司法制度や憲法論の、理論的に優れた論稿は他に多くあったはず。私の論稿は、弁護士のありかた、事件との関わり方が、選考委員に好感を持たれたものだろう。

ところで、東弁・期成会とは何かを説明しておきたい。
弁護士会には、「会派」というものがある。全国最大の単位会である東京弁護士会には、戦前からの「親和」と、戦後すぐに結成された「法友」の2大会派が重きをなしている。この「派閥」の弊害をなくす目的で、後に期成会が作られた。私も、東京弁護士会所属以来一貫して、期成会の会員である。

その期成会が、期成会をこう解説している。

期成会は、1959年(昭和34年)11月に産声を上げました。
それまでの東京弁護士会は、2大会派が非民主的な選挙抗争を繰り広げたり、各種委員や破産管財人の人事を壟断したりしていて、新たに発足した司法研修所で修習し、弁護士法第1条の理念を実現しようという気概に燃えた若い弁護士たちにとっては、改革の対象と映っていました。期成会という名称にも、「修習何期」というように呼ばれた司法研修所修了者たちによる会という意味が込められています。
今でこそそのような実感を抱くことはまずなくなりましたが、ここに至るまでには、40年余りの永きにわたって、期成会に集う会員たちが弁護士会の民主化のために脈々と活動を続けてきたのです。
今でこそ当然のように行われている日弁連の会長選挙も、古くは代議員による間接選挙でした。期成会の呼びかけに呼応した全国の弁護士が、これを現在の直接選挙の形に改革したのです。(以下略)

勲章や褒賞を授与といわれたら突っ返すが、東弁・期成会からの表彰なら、名誉なこととしてありがたく頂戴する。
(2019年10月29日・連続更新2402日)

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