澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

70年の平和をさらに続けようー今年初めての街頭宣伝行動

ここ、本郷三丁目の交差点で、お昼休みのひとときに、今年はじめての訴えをさせていただきます。少しの間、耳をお貸しください。

私たちは、「本郷・湯島九条の会」の会員です。この近所に住んでいる者が、憲法九条を大切にしよう、憲法九条に盛り込まれている平和の理念を守り抜こうと寄り集まって作っている小さな会です。私も近所の本郷五丁目に住んでいる弁護士で、憲法と平和を何よりも大切にしようとしている者のひとりです。

今年は、「戦後70周年」をもって語られる年です。70年前と比較すれば、今年のお正月は平和に明けました。戦争のないお正月。空襲警報は鳴りません。敵機の来襲もなく、特高警察も憲兵もありません。徴兵も徴用も、宮城遙拝の強制もなく、治安維持法や軍機保護法で痛めつけられることもありません。ラジオの臨時ニュースが大本営発表をしているでもありません。

70年前の正月、私たちの国は激しい戦争をしていました。戦争のために、国民生活のすべてが統制され、一人ひとりの自由はありませんでした。空襲は日増しに激しさを増し、3月10日には都内の10万人が焼け死んだ東京大空襲の悲劇が起こります。6月には沖縄の地上戦が陰惨を極め、8月には広島・長崎に原爆が投下されて、15日の敗戦の日を迎えます。その日までに、日本国民310万人が戦争で尊い命を落としました。また、日本軍が近隣諸国に攻め込んだことによる犠牲者は2000万人にのぼるとされています。

戦争は日本の国民に、被害と加害の両面において、このうえない惨禍をもたらしました。どんなことがあっても、再び戦争を繰り返してはならない。これが、生き残った国民の心からの思いでした。どうして戦争が起こったのか、どうして戦争を防ぐことができなかったのか。そして、どうすればこのような悲惨な戦争を繰り返さないようにすることができるのだろうか。

真剣な議論の答の一つは、民主主義の欠如ということだったと思います。戦争で最も悲惨な立場に立つことになる庶民の声が反映されない政治の仕組みこそが問題ではないのか。国民が大切な情報から切り離されて、政治に参加できないうちに一握りの財閥や軍人や政治家たちの思惑に操られて戦争に協力させられてしまった。国民一人ひとりが、自分の運命に責任を持つことができるように、国民自身の手に政治を取り戻さねばならない。それができれば、国民を不幸にする戦争を、国民自身が始めることはないだろう。民主主義の発展こそが、平和の保障だという考えです。

もう一つの答が、憲法9条に盛り込まれた平和主義であったと思います。人類は、身を守るために長く暴力に頼ってきました。でも、次第に暴力を野蛮なものとし、暴力ではなく他と相互に信頼関係を築くことで安全を守ることに切り替えてきたのではありませんか。これが文明の進歩というものではないでしょうか。国家という集団でも同じことです。国の平和を守るためには軍事力が必要だというのが長らくの常識でした。しかし、武力の行使や戦争を違法なものとする考え方が次第に成熟し、国連憲章を経て、日本国憲法にこのことが銘記されることになったのです。

日本国憲法9条第1項は、「戦争を永久に放棄する」としています。そして、同第2項は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、軍隊をもたないことを宣言したのです。戦争はしないと宣言し、軍隊をもたないという謂わば捨て身の覚悟で、日本は平和を獲得しようとしたのです。

放棄されたものは、明らかに侵略戦争だけでなく自衛戦争までを含むものでした。当時政権を担っていた吉田茂や幣原喜重郎などの保守政治家が、「古来すべての戦争が自衛の名のもとに行われてきた。日本国憲法の平和主義は自衛の名による戦争を許さないものである」「文明と戦争とは両立し得ない。文明が戦争を駆逐しなければ、戦争によって文明が駆逐されしまうだろう」と述べています。

ところが、これが冷戦の中で、変化してきます。厳密な自衛のための武力行使や戦争は憲法が禁じているところではない、とする説明が出てきたのです。これが集団的自衛権行使は認められないとした上で、個別的自衛権なら認められるという理屈です。専守防衛に徹する限りにおいて自衛隊は合憲なのだというのです。

この考え方で60年が過ぎました。ところが、安倍政権は昨年これをも覆して、集団的自衛権行使容認の閣議決定をしてしまいました。これは恐るべき事態。憲法の条文を変えないで、解釈を変えることで憲法の根幹を骨抜きにしてしまおうというのです。

もっとも、閣議決定だけでは自衛隊をうごかすことができません。今年の国会では、安倍内閣は、集団的自衛権を現実に行使できるようにするためのたくさんの法律案を提案し、その多くが対決法案となることでしょう。

戦争を始めるためには、それだけでは足りません。教育とマスコミの掌握は不可欠なものです。煽られた戦争の相手国の一人ひとりと仲良くしていたのでは戦争はできません。我が日本民族が優れて他は劣っているとし、近隣諸国への排外主義を煽るには、教育とメデイアの役割が欠かせないのです。

そのような目で安倍内閣を見直すと、憲法改正、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法の制定、村山談話や河野談話の見直し、武器輸出三原則の撤廃、侵略戦争の否定、靖国神社参拝、教育再生、NHKのお友だち人事、国家安全保障会議の設置、、日米ガイドライン改訂…等々の動きは、明らかに70年前の敗戦時に日本の国民が共通の認識としたところとは大きくへだったものになってきています。

そのほか、安倍政権がやろうとしていることは、原発再稼働であり、原発輸出であり、派遣労働を恒久化する労働法制の大改悪であり、福祉の切り捨てであり、大企業減税と庶民大増税ではありませんか。そして、このような状況で民族差別を公然と口にするヘイトスピーチデモが横行しています。従軍慰安婦報道に比較的熱心だった朝日新聞に対する嵐の如きバッシングが行われています。

庶民の生活にとっても、民主主義の良識に照らしても良いことは何にもなく、危険な事態が進行しています。このようなことを見せつけられた近隣諸国の人々は、日本は本当に先の戦争の反省をしているのだろうか。平和を大切にしようとする意思があるのだろうか。そう疑念を持たざるを得ないのではないでしょうか。安倍政権は、緊張関係を煽っているのではないでしょうか。

皆さん、戦後70年の平和をこれからも続けようではありませんか。安倍政権による危うい政治を正して、戦争ではなく平和をと声を上げていこうではありませんか。
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寒さの中で、声を枯らしたが、「くどい」「長すぎる」「工夫が足りない」「もっと短いフレーズで」と悪評サクサクだった。が、めげてはならない。がんぱらなくちゃ。
(2015年1月13日)

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