澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

道徳教育教科化の学習指導要領改定に反対するバブコメを出そう

道徳の教科化に関するパプコメが募集されている。3月5日(木)の締め切りが間近となった。是非、多くの方に意見を述べていただくよう、呼びかけたい。もちろん、教育本来のあり方を踏まえて、安倍政権や下村博文文科行政に明確なノーを突きつける意見をお願いしたい。

このパブコメは、行政手続法39条にもとづく意見聴取だが、相当に複雑で意見を述べにくいように工夫が凝らされている。そのためやや面倒ではあるが、負けずに意見を述べていただけるよう、以下に手順を説明し、私なりに内容についての意見を述べておきたい。

政府がおこなおうとしていることは、学習指導要領の改正(真の言葉の意味では改悪、以下「改定」という)である。学習指導要領とは、法律(学校教育法)の下位法規である省令(学校教育法施行規則)にもとづく、「文科大臣告示」という法形式。法律事項ではないから、国会の審議を経る必要がない。だから、パブコメが、国会の論戦に代わるものとして重要なのだ。国民の批判がないとして、易々と改正を許してはならない。

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《手続編》
まずは下記URLを開いていただきたい。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000740&Mode=0
「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案等に関するパブリックコメント(意見公募手続)の実施について」という、パブコメ募集についての詳細解説ページが出て来る。落ち度なく、パプコメを提出するためには、これを熟読することが必要なのだが、このページの記載だけでは、何に対して、どのようなパブコメが求められているのかわからない。

ご面倒でも、下段の「関連情報」欄の5個のPDFファイルを開いてご覧いただく必要がある。できたら、プリントアウトしてじっくりとお読みするようお薦めする。

まずは、最初のPDFファイルが「意見公募要領」(全2頁)。
その第1頁に、「(改定)案の具体的内容」として、
 (1)「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案等について(概要)」
 (2)「小学校学習指導要領案」
 (3)「中学校学習指導要領案」
 (4)「特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案」を参照とある。
以上の(1)~(4)の資料が、あと4個のPDFファイルの内容となっている。

「意見公募要領」の第2頁に、求める意見の分類項目が①~⑬まで、書かれている。パブコメは一括しての意見ではなく、①~⑬までのどの分類に属する意見かを特定して提出する必要がある。その面倒さが、コメント提出の意欲を殺ぐものとなっているのだが、めげずにチャレンジしていただきたい。

1通の意見で1分野の意見を提出する。複数の分野についての意見を提出するには、それぞれの分野ごとに各1通の意見提出が必要になる。

①~⑬の分類は、「学校教育法施行規則の一部改正案(省令)」と「学習指導要領改定案」についてのもの。細かくは、以下のとおりである。

「第一」学校教育法施行規則の一部を改正する省令案について
  (その改定案の内容は前記「(1)PDFファイル」に記載)
  意見を求める事項① 「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案について」
「第二」小学校・中学校学習指導要領案について
  (その改定案の内容は前記「(2)PDFファイル」に記載)
  意見を求める事項② 第1章「総則」について
  意見を求める事項③ 第2章「各教科との関連」について
  意見を求める事項④ 第3章「特別の教科道徳」「第1目標」について
  意見を求める事項⑤ 第3章「第2 内容」の
    A 主として自分自身に関することについて
  意見を求める事項⑥ 第3章「第2 内容」の
    B 主として人との関わりに関することについて
  意見を求める事項⑦ 第3章「第2 内容」の
    C 主として集団や社会との関わりに関することについて
  意見を求める事項⑧ 第3章「第2 内容」の
    D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関することについて
  意見を求める事項⑨
       第3章「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」について
  意見を求める事項⑩ その他
「第三」特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案について
  (改定案の内容は前記「(4)PDFファイル」に記載)
  意見を求める事項⑪ 特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案について
  意見を求める事項⑫ 小学校、中学校、特別支援学校小学部・中学部
                     学習指導要領の特例を定める告示案について
 「第四」意見を求める事項⑬ その他

以上の①~⑬のどれに意見を述べるかを特定して、意見を書くことになるが、意見は⑤~⑧に集中することになるだろう。とりわけ⑦が重大ポイントだ。具体的な意見を作成するには、前記「(2)PDFファイル」を開かないと書けない。

もっとも問題となり得る、中学校学習指導要領・第3章「第2 内容」の「C 主として集団や社会との関わりに関することについて」の改定案は以下のとおり。

C 主として集団や社会との関わりに関すること
[遵法精神,公徳心]
法やきまりの意義を理解し,それらを進んで守るとともに,そのよりよい在り方について考え,自他の権利を大切にし,義務を果たして,規律ある安定した社会の実現に努めること。
[公正,公平,社会正義]
正義と公正さを重んじ,誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること。
[社会参画,公共の精神]
社会参画の意識と社会連帯の自覚を高め,公共の精神をもってよりよい社会の実現に努めること。
[勤労]
勤労の尊さや意義を理解し,将来の生き方について考えを深め,勤労を通じて社会に貢献すること。
[家族愛,家庭生活の充実]
父母,祖父母を敬愛し,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くこと。
[よりよい学校生活,集団生活の充実]
教師や学校の人々を敬愛し,学級や学校の一員としての自覚をもち,協力し合ってよりよい校風をつくるとともに,様々な集団の意義や集団の中での自分の役割と責任を自覚して集団生活の充実に努めること。
[郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度]
郷土の伝統と文化を大切にし,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め,地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,進んで郷土の発展に努めること。
[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度]
優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献するとともに,日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努めること。
[国際理解,国際貢献]
世界の中の日本人としての自覚をもち,他国を尊重し,国際的視野に立って,世界の平和と人類の発展に寄与すること。

これに対する意見を、1000字以内で書いて、「意見提出フォーム」を利用して発信する。
意見提出フォームを利用しなくてもよい。
郵送は、〒100-8959 東京都千代田区霞が関3-2-2
           文部科学省初等中等教育局教育課程課宛
FAX番号:03-6734-4900
電子メールアドレス:doutoku@mext.go.jp
なお、「判別のため、件名は【省令案等への意見】としてください。また、コンピュータウィルス対策のため、添付ファイルは開くことができません。必ずメール本文に御意見を御記入ください」と注文がなかなか細かい。

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《内容編ーその1》
道徳の教科化については、いろんな問題点が指摘されている。
私も、当ブログにいろいろ書いてきた。この機会に要点を再掲しておきたい。必ずしも、以前書いたとおりではない。

国家よりも社会よりも、「個人の尊厳」こそが根源的な憲法価値です。その尊厳ある個人の主体を形成する過程が教育です。公権力は、教育という個人の人格形成過程に国家公定の価値観をもって介入をしてはならない。これが当然の憲法原則であるはず。国民の価値観は多様でなければなりません。学校の教科として特定の「道徳」を子どもたちに教え込むことが許されるはずはありません。

とりわけ、多様な考え方が保障されなければならない国家・集団と個人との関係について、道徳の名の下に特定の価値観を公権力が子どもたちに刷り込むことには警戒を要します。

国家は、統御しやすい従順な国民の育成を望みます。「国が右といえば右。けっして左とは言わない人格」がお望みなのです。国民を主権者としてみるのではなく、被治者と見て、愛国心や愛郷心、社会の多数派に順応する精神の形成を望んでいるのです。このような、権力に好都合な価値観の注入が道徳教育の名をもって学校で行われることには反対せざるを得ません。

戦後民主主義の中で、道徳教育は、修身や教育勅語の復活に繋がるものとして忌避されてきました。それが、少しずつ、しかし着実に、復活しつつあります。かつて、学習指導要領における国旗国歌条項は、一歩一歩着実に改悪が進み、今や「日の丸・君が代」強制の時代を迎えています。今回の中教審答申も、その恐れが十分。道徳教育の在り方もこのような道を歩ませてはならないと思います。

旭川学テ最高裁大法廷判決は、到底十分な内容とは言えませんが、少なくとも真面目に教育というものに正面から向かい合って考えた内容をもっているとは思います。その判決理由では、教員を、教育専門職であるとともに良質の大人ととらえています。教育とは、そのような教員と子どもとの全人格的な触れあいによって成立する、「内面的な価値形成に関する文化的な営為」とされています。道徳についても、子どもに教科として教え込むのではなく、教師との触れあいのなかから子どもが自ずと学びとるものということでしょう。子どもは、教師からだけではなく、友だちとの触れあいのなかからも市民道徳を学び取っていくものと考えられます。基本的には、これで十分ではないでしょうか。

これを超えて、学校で教科として道徳を教え込むことの是非については、二つの極端な実践例を挙げることができます。そのひとつが戦前の天皇制国家において、臣民としての道徳を刷り込んだ教育勅語と修身による教科教育です。天皇制権力が、自らの望む国民像を精神の内奥にまで踏み込んで型にはめて作り上げようとした恐るべき典型事例と言えましょう。

もう一つが、コンドルセーの名とともに有名な、フランス革命後の共和国憲法下での公教育制度です。ここでは、公教育はエデュケーション(全人格的教育)であってはならないと意識されています。インストラクション(知育)であるべきだと明確化されるのです。インストラクションとは客観的な真理の体系を次世代に継承する営為にほかなりません。真理教育と言い換えることもできると思います。意識的に「徳育」を排除することによって、一切の価値観の注入を公教育の場から追放しようとしたのです。価値観の育成は家庭や教会あるいは私立学校の役割とされました。公教育からの価値観注入排除を徹底することによって、根深く染みついている王室への忠誠心や宗教的権威など、アンシャンレジームを支えた負の国民精神を一掃しようとしたものと考えられます。

おそらく、この天皇制型とコンドルセー型と、その両者を純粋型として現実の教育制度はその中間のどこかに位置づけられるのでしょう。私自身は、後者に強いシンパシーを感じますが、戦後の現実は、一旦天皇制型教育を排斥してコンドルセー型に近かったものが、逆コース以来一貫して、勅語・修身タイプの教育に一歩一歩後戻りしつつあるのではないか。そのような危機感を持たざるを得ません。

とりわけ、第1次安倍内閣の教育基本法改悪、そして今また「戦後レジームからの脱却」の一環としての「教育再生」の動きには、極めて危険なものとして強い警戒感をもたざるを得ません。
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《内容編ーその2》
私は「道徳」という言葉の胡散臭さが嫌いだ。多数派の安定した支配の手段として、被支配層にその時代の支配の秩序を積極的に承認し内面化するよう「道徳」が求められてきた歴史があるからだ。

強者の支配の手段としての道徳とは、被支配者層の精神に植えつけられた、その時代の支配の仕組みを承認し受容する積極姿勢のことだ。内面化された支配の秩序への積極的服従の姿勢といってもよい。支配への抵抗や、権力への猜疑、個の権利主張など、秩序の攪乱要因が道徳となることはない。道徳とは、ひたすらに、奴隷として安住せよ、臣下として忠誠を尽くせ、臣民として陛下の思し召しに感謝せよ、お国のために立派に死ね、文句をいわずに会社のために働け、という支配の秩序維持の容認を内容とするのだ。

古代日本では、武力と狡猾とをもって割拠勢力の勝者となった天皇家を神聖化し正当化する神話がつくられ、その支配の正当化神話受容が皇民の道徳となった。支配者である大君への服従では足りず、歯の浮くような賛美が要求され、その内面化が道徳とされた。

武士の政権の時代には、「忠」が道徳の中心に据えられた。幕政、藩政、藩士家政のいずれのレベルでも、お家大事と無限定の忠義に励むべきことが内面化された武士の道徳であった。武士階級以外の階層でもこれを真似た忠義が道徳化された。強者に好都合なイデオロギーが、社会に普遍性を獲得したのだ。

明治期には、大規模にかつ組織的・系統的に「忠君愛国」が、臣民の精神に注入された。その主たる場が義務教育の教室であった。また、軍隊も忠良なる臣民を養成する教育機関としての役割を担った。さらに、権力の片棒を担いだマスメディアもその臣民の道徳涵養の役割を買って出た。荒唐無稽な「神国思想」「現人神思想」が、大真面目に説かれ、大がかりな演出が企てられた。天皇制の支配の仕組みを受容し服従するだけではなく、積極的にその仕組みの強化に加担するよう精神形成が要求された。個人の自立の覚醒は否定され、ひたすらに滅私奉公が求められた。

恐るべきは、その教育の効果である。数次にわたって改定された修身や国史の国定教科書、そして教育勅語、さらには「国体の本義」や「臣民の道」によって、臣民の精神構造に組み込まれた天皇崇拝、滅私奉公の臣民道徳は、多くの国民に内面化された。学制発布以来およそ70年をかけて、天皇制は臣民を徹底的に教化し臣民道徳を蔓延させた。今なお、精神にその残滓を引きずっている者は恥ずべきであろう。この経過は、馬鹿げた教説も大規模に多くの人々を欺し得ることの不幸な実験的証明の過程である。

戦後も、「個人よりも国家や社会全体を優先して」「象徴天皇を中心とした安定した社会を」などという道徳が捨て去られたわけではない。しかし、圧倒的に重要になったのは、現行の資本主義経済秩序を受容し内面化する道徳である。搾取の仕組みの受容と、その仕組みへの積極的貢献という道徳といってもよい。

為政者から、宗教的権威から、そして経済的強者や社会の多数派からの道徳の押しつけを拒否しよう。そもそも、国家はいかなるイデオロギーももってはならないのだ。小中学校での教科化などとんでもない。

道徳を説くのであれば、まずは総理大臣にせよ。
「コントロールできています。完全にブロックしています」などと、嘘を言ってはいけない。人の話を聞かずに、「ニッキョーソ!」などと卑劣なヤジを飛ばしてはならない。
次に文科大臣にすべきだろう。政治資金規正法の趣旨を明らかに脱法しておいて、「違反はない」などと開き直ってはならない。この二人を辞めさせることが、子どもたちに、もっとも適切な道徳の教育になることだろう。
(2015年2月26日)

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