澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「切れ目のない安全保障」とは、「切れ目のない戦争誘発」である

山内敏弘(一橋大学名誉教授・憲法)が、5月5日付赤旗で「軍事に大転換 断固阻止」と語っている。その中で、「戦争に備えたら戦争に」というフレーズが出て来る。言うまでもなく、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制を整備する」という安倍政権の戦争立法を批判してのもの。だから、「平和を望むなら平和に備えよ」との9条の理念が説かれている。

ローマ時代から「平和を望むならば戦争に備えよ」という言葉があったという。おそらくは「備えあれば憂いなし」と同じ感覚での言い習わしなのだろう。
当時、平和とは「外敵の進攻から自国の人民が守られている状態」の意であろうから、ことあるときには進攻してくる外敵と戦って勝てなければ平和を守ることはできない。戦いに勝てる軍事力は一朝にしては作れない。だから、隣国からの侵攻の気配のないときにも、戦争に備えた常備軍を保持しなければならず、訓練も怠ることはできない。そのことが「平和を望むなら、平時にも戦争に備えよ」と言い古されることとなった。

この命題は一面の真実である。しかし、真実の一面でしかない。各国がそれぞれ他国に猜疑心を持ち、相互に疑心暗鬼で国家が並立するときの真実であろう。国際協調が育たなかった人間の歴史は、長くこれを真実としてきた。しかし、今もなお真実であろうか。

古来この言葉を金科玉条としてきた諸集団・諸国家は平時から軍事力を競い合ってきた。いつか軍事の均衡が破れたときに戦端が開かれ、勝者に束の間の「平和」が訪れる。しかし、その「平和」が長く続くことはなく、勝者はまたやがて別の強者と闘わなければならない。平和とは常に暫定的なもので、戦争の恐怖から逃れることができない。

そのために、いずれの国も国民も、平時に一見友好的な隣国にも心を許すことはできない。常に戦争に備えよ、他国の軍事力を凌駕できなければ安心できない。ところが、その事情や考えは、隣国とて同じことなのだ。お互いに、「平和のためには軍備の増強が必要だ」「平和を望むからこそ戦争に備えなければならない」「国民の望む平和を保障するための精強な軍事力を」とならざるを得ない。こうして、各国とも際限のない軍備の負担に苦しまなければならない。ローマから、二つの世界大戦を経験するまでの長きにわたって、この呪縛から抜け出すことは夢物語でしかなかった。

しかし、この論理は、論理自体が戦争を誘発するリスクを内包している。その意味では悪魔の論理と言わねばならない。

「備えあれば憂いなし」は、自然災害への備えの場合には妥当する。しかし、相手国のある軍事に関しての「備え」は、相手国を刺激して別の「憂い」を誘発する。軍事的備えの増強は隣国から見れば、相手国の戦いの準備であり、軍事的進攻への対抗的な備えを増強しなければならないシグナルとして映るのだ。これへの対抗措置が、また新たな対抗措置を必要とし、相互に軍備の増強競争が始まることになる。

そのことを山内は、「戦争に備えたら戦争になる」と言っている。戦争への備えの主観的な意図如何にかかわらず、である。かくて、戦争へのスパイラルが作動を始めることになるのだ。

「戦争に」ではなく、反対に「平和に」備えたらどうだろうか。相手国は、敵対心のないことに信頼して軍備の負担を軽減してもよいと考えるだろう。相互に、軍備の増強の必要はないことになる。これは、平和へのスパイラルの作動である。

山内が言うとおり、まさしく「戦争の準備をすれば戦争になる」。歴史がそれを示している。だから「真の平和を望むなら平和の準備をしよう」。これが憲法9条の思想である。人類の歴史の進歩によって国際協調主義が成熟しつつあるとの認識にも支えられている。

安倍政権の戦争法案は、明らかに「切れ目なく戦争の準備をすれば、切れ目のない平和と安心がもたらされる」という考え方だ。これがローマ時代の常識であり、以来牢固として変わらず生き残ってきた思想。しかし、実は「切れ目のない戦争への備えとは、切れ目のない戦争誘発策」でもある。戦争準備が戦争を呼ぶことになるのだ。いまや、この考え方のリスクを見据えなければならない。

われわれはあらためて、「戦争の準備」を拒否して、「平和の準備」をしなければならない。このことを近隣諸国にも、全世界にも呼びかけよう。戦争を避けるために。平和な世界を実現するために。
(2015年5月8日)

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