澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け

これが今年の「驚き納め」だろう。日本共産党が、年明けの通常国会には開会式に出席するというのだ。大日本帝国議会のあの時代、貴族院にしつらえられた玉座から、天皇が国民代表の議員を見下ろして「(お)ことば」を賜るというあの開会式に、である。そりゃなかろう。

無数の星々が皆天界をうごめく中にあって、極北の頂点にたった一個の動かぬ星がある。その北辰のごときものこそが共産党ではなかったか。航海する諸々の船が、自分の位置を測るときの動かぬ測定の起点。それこそが共産党が占める位置ではなかったか。何が正しいか間違っているか、頑固な物差しとして変わらぬ存在が共産党ではなかったか。近代日本の民主主義も大衆運動も、天皇制と対峙して生まれ、天皇制と拮抗しながら成長した。その天皇制と向き合った民衆の側の最前線に常に位置していたのが共産党ではなかったか。融通がきかず頑固で、政党助成金も受けとらない筋を通す姿勢。それ故の、共産党への民衆の信頼であり敬意ではなかったか。北極星が動いて物差しが伸び縮みするようでは、世も末なのだ。

天皇制とは、世襲の政治権力構造を意味するものではない。むしろ、神話的・文化的な権威による社会心理的な統治構造というべきであろう。その意味では、象徴天皇制こそが、純粋な天皇制と言っても差し支えない。

支配者にとって、自らの主義主張を持った自立した国民は、支配しにくいことこの上ない面倒で疎ましい存在なのだ。統治しやすい支配者お望みの国民のまたの名を「臣民」という。大日本帝国憲法時代の臣民は統治しやすかった。日本国憲法の時代となって、法制上「臣民」はなくなったが、天皇制は残った。天皇と天皇制が残ったことによって、法制上はない「臣民根性」も「臣民もどき」も、旧体制の残滓として生き残っているのだ。

保守的支配体制の側が、統治をしやすい「臣民根性」「臣民もどき」を再生産し拡大をはかるために、天皇を最大限に利用してきたのは周知の事実ではないか。その天皇の利用に最も果敢に闘い、民主主義の徹底のために天皇の存在感を最小限に抑えるべきことを主張してきたのが、共産党であったはず。こんなに簡単に、ものわかりがよくなってしまっては、多くの良心ある叛骨の人々が戸惑うばかりではないか。これは、小さくない問題だ。

反権力とは、反権威につながる精神構造である。権威主義者の大方は、いかなる政権にも迎合する、統治しやすい「臣民もどき」なのだ。だから、天皇を「おいたわしや」とする心性を持った権威主義的国民こそが、権力の望むところ。統治しやすいお誂え向きの国民なのだ。できるだけ、天皇に親近感や敬意を持つ人々が増えることが保守支配層の望みであり、迎合層の働きどころでもある。

天皇あるいは天皇制は、多くの機能をもっている。その一つが、社会での人畜無害度測定機能、あるいは人畜無害性発信機能である。天皇に敬語を使い、天皇制を社会に有用だと表明することは、自分を「日本社会における安全パイ」とアピールすることになる。その反対に、天皇へのいっさいの敬語を拒否し、天皇制を社会の害悪と告発する人格を、社会は危険人物と見なすのだ。

開会式出席によって、まさか共産党が自らを「日本社会における安全パイ」とアピールする意図とは思わない。しかし、「予は危険人物なり」という颯爽たる風格を失おうとしていることは否めない。小異を殺して、大道についてばかりいると、ホントの自分や本来の自分の歩むべき道を見失ってしまうのではないか。心配せざるを得ない。

昨日(12月24日)の記者会見の中で、次の質疑応答があったという。

記者 よそから見たら、共産党が普通の党になっていくという一環みたいなことでしょうか。
志位委員長 普通の党というあなたの質問がどういう意味か分かりませんが、私たちが一貫して言っている開会式の民主的改革の提起というのは、将来の政治制度をどうするかという角度から提起しているのではないのです。現在の日本国憲法の原則と精神と諸条項を厳格に貫くという立場から一貫して対応しております。それは一貫しております。

この記者の質問は、論理的ではないにせよ、「これまでは普通ではなかった共産党」が、「普通」になってしまうことへの、良くも悪くも感慨が込められている。

これに対する志位委員長の回答は納得しにくい。少なからぬ憲法学者が、現行憲法の解釈として、開会式の「(お)ことば」などは、憲法が明文で限定する天皇の国事行為には含まれない。したがって、憲法はこれを容認していないと理解してきた。そのような憲法学者と共産党は、これまでは相性がよかった。しかしこれからは、リベラル憲法学との折りあいが悪くなることを覚悟しなければならない。憲法学者ばかりではない。多くのオールド・リベラリストとの関係においてもである。

共産党のあまりに唐突な方針変更に戸惑うばかり。その動機を忖度すれば、国民連合政府構想との関連があるだろうとは誰もが思うところ。各党の選挙協力で当選した議員が皆共産党流に開会式ボイコットすることは困難ではないかという配慮があるのではないか。そんなことがネックとなって、選挙協力に障害あると考え、これは「小異」と切り捨てたのではなかろうか。共産党が独自性を貫くことは、選挙協力の障害を残すこと。さりとて、妥協を重ねれば共産党ではなくなってしまう。コアの支持者を失うことにもなりかねない。共産党の宿命的なジレンマ。私は、安易な妥協を排して、共産党には共産党であり続けてもらいたいと思う。
(2015年12月25日・連続第999回)

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