澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

神の国からの妄言にもの申す。

森喜朗よ。
錆び付いた大日本帝国時代の遺物よ。
汝の体内時計は、71年前で止まったまま。
歴史の歩みを刻んでいない。
いまだに汝は
「日本の国は天皇を中心としている神の国であるぞ」
という妄想の中にいる。

その妄想が、時にリアルな世界に妄言となって出てくる。
たとえば、リオ五輪選手団の結団式でのこと。
「どうしてみんなそろって国歌を歌わないんだ」
「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」
「口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、
表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」

空気を読めない場違いな発言のシラケに、汝は気付かないのか。
それとも、
こう叱りつけておけば、臣民どもは平伏するだろう。
ましてや、体育系の心性で育ったスポーツ選手ならなおさらのこと。
とでも思っているのだろうか。

汝の心根では
「日の丸」も「君が代」も、
「まさに天皇を中心とする神の国」の象徴なのだ。
その「日の丸」であればこそ、天皇を称えて敬礼せよ。
その「君が代」であればこそ、神を称えて唱え。
汝が言うからこそ、その意図が分かり易い。

愚鈍なるかな汝。
「どうしてみんなそろって国歌を歌わないんだ」
は、汝の苛立ちであるとともに汝の疑問。
その解を、汝は真に知らぬ如くだ。

しかし、今は世が違うのだ。
既に、「君」の代ではないことを知らねばならない。
五輪の出場資格と、国旗国歌に寄せる思いとはなんの関係もないのだ。
五輪は、国威発揚の舞台ではない。
五輪を機会に愛国心の高揚をはかろうというのは、
ベルリン五輪におけるヒトラーの発想そのものではないか。

スポーツは、個人による個人のためのもので、お国のためのものではない。
五輪の出場資格は愛国者だけに与えられるものではない。
日の丸も君が代も、ダサイという若者たちの感性を非難してはならない。
澤穂希や五郎丸の君が代に感動しない国民を非国民といってはならない。

個人と国家とは、実は厳しい緊張関係にあることを知らねばならない。
個人の自由や権利を侵害する最大の危険な存在こそが国家なのだ。
愛国心は、この緊張関係を覆い隠そうとする権力側からの詐術である。
国旗国歌への無邪気な親近感は、自律した主権者の自覚とは無縁なものである。

「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」という汝こそ、
オリパラ組織委員長の資格に欠けるのだ。

今後は、愚かな言葉を慎むがよい。
それができなければ、退任せよ。前都知事の如くに。

オリパラの選手諸君よ。
錆び付いた遺物の発言に萎縮してはならない。
これまでの精進と成果に自信をもって、
諸君のしなやかな心と体を大切にしたまえ。
諸君の心と体とその能力は諸君自身のものだ。
断じて国家のものではない。国家に捧げたものでもない。
そして、スポーツは平和と友情のためにこそある。
オリンピックもパラリンピックも、愛国心鼓舞の場ではない。
「日の丸」も「君が代」も、強制される筋合いはないのだ。
澤穂希や五郎丸の君が代に感動する国民もいれば、大いなる違和感をもつ国民だっている。
国家に抵抗したマホメド・アリは、一時はごうごうたるブーイングを浴びたが、やがては人類の英雄になったではないか。
諸君も、唱いたくなければ唱わなくてもよい。口モグでよいのだ。

大日本帝国時代の遺物の妄言に萎縮することなく、
のびやかにしなやかに自らを信ぜよ。
(2016年7月4日)

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Published in 月曜日, 7月 4th, 2016, at 17:14, and filed under 日の丸君が代.

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