国会議員は批判を甘受しなければならない
辺野古・高江の、基地反対運動からは目を離せない。厳しいせめぎあいの中では、いろいろと驚くべきことが生じる。目取真俊の身柄拘束にも、本土機動隊員の「土人」「シナ人」発言にも、そして松井知事の差別容認姿勢にも驚いたが、これと並んで島袋文子さんへの出頭命令にも驚ろかざるを得ない。87歳・車椅子の身で、今や現地の運動のシンボルとなっているこの人に、警察からの呼出である。被疑罪名が暴行か傷害かは明らかにされていない。告訴状が出ているのか、被害届だけなのかも定かでない。ともかく、名護署が、文子さんを呼び出して取り調べを始めたのだ。
被疑事実は、今年5月9日辺野古でのことのようだ。被害を受けたと主張しているのは、「日本のこころ」の和田政宗参議院議員とその「同行者」ないしは「スタッフ」である。
和田議員は自身のツイッターで次のように繰り返してきた。
「沖縄辺野古で、不法占拠のテントを撤去し合法的な抗議活動をするよう訴えたが、我々の演説を活動家達は暴力を振るい妨害。私は小突かれ腕をひっかかれ、スタッフは頬を叩かれたり、プラカードの尖った部分で顔面を突かれ転倒。警察と相談し対処する」
「5月に沖縄辺野古キャンプシュワブ前で道路用地にテントを張り不法占拠する活動家達に、不法占拠をやめるよう呼びかけた。その際、私と我が党スタッフが活動家達に暴行を受けたが、先日、警察に相談し被害届を提出した。憲法で保障される政治活動や表現の自由を力で阻止するというもの。戦わねばならぬ」
このような和田議員の発信をフォローしたネットニュースのIWJが、文子さん取り調べに関して和田議員を批判する記事を書き、同議員がこれを「捏造記事」だと反批判している。この点に、私は関心を向けたいと思う。和田議員もジャーナリスト(NHK)出身である。報道の自由に理解はあろうと思う。
和田政宗議員がIWJの報道を批判しているのは、10月18日の以下のブログである。抜粋では不正確となりかねないので、全文を引用する。
「岩上安身氏率いるIWJ ジャーナリズムにあるまじき捏造記事
ジャーナリスト出身者として、岩上安身氏率いるIWJが明かに嘘をついた記事をネット上にアップしたので反論するとともに、ジャーナリズムとしてやってはならないこと(右であろうと左であろうと)をしているので糾弾します。
まず当該記事を書いた佐々木氏の取材申し込み(2回)に対して、私と我が事務所は「お会いして取材をお受けします」と明確に回答しています。
言った言わないになるといけないので、私は電話取材でなく原則面会で取材を受けています。
悪意のある記者の「取材拒否された」を防ぐため、私も我が事務所も明確に「取材は受けます」と答えていますが、佐々木記者は「取材に応じず」と言っています。明確な虚偽にあたります。
ジャーナリズムとしてやってはならないねつ造です。
そして、私は島袋氏を訴えていません。
沖縄・辺野古において我々の正当な政治活動を活動家達が妨害しました。
私は、私に暴行した2人の男について被害届を出しましたが、島袋氏には被害届を出しておりません。
島袋氏は我々に暴行を繰り返したので、やめて、やめなさいと言いましたが、非暴力の我々を繰り返し叩き続け、同行者がかなり強い平手打ちを受け、同行者が被害届を出したものです。
記事を書いた佐々木氏は動画に暴行の現場が写っていないと言いますが、すべての動画が公開されているわけではありません。
公開されていない証拠映像は警察に提出済みです。
佐々木氏が「どこの世界に、87歳のおばあちゃんに対して暴行の被害届を出す「国会議員」がいるだろうか。健康で強壮な大の男のやることか。男として恥ずかしくないのか。」というのは、明らかに事実に反する誹謗中傷であり、謝罪と訂正がなければしかるべき措置を取ります。
事実に基づいて批判をするなら批判は甘んじて受けますが、取材を受けると言っているのに「取材に応じず」いうねつ造、岩上氏本人も事実を確認しないまま事実に反するツイッターをリツイートしています。
ジャーナリズムにあるまじき行為については、ジャーナリズム出身者として断固たる措置を取ります。」
この記事に、批判の対象としたIWJの記事(以下IWJ記事)のURLが付されている。内容は以下のとおり。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/339597
「高江で座り込みを続ける87歳の「文子おばあ」こと島袋文子さんから「暴行を受けた」と被害届を出した「日本のこころ」和田政宗議員!42歳!!IWJは再三取材を試みるも応じず!
たとえ「自称」であっても、日本の「保守」はここまで墜ちてしまったのだろうか。2016年5月、ある国会議員が沖縄・辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、基地反対派の市民から「暴力行為を受けた」として被害届を出した。
被害を訴えたのは、まがりなりにも「保守政党」を自称する、「日本のこころを大切にする党」参議院議員の和田政宗氏。42歳の男盛りである。訴えられたのはなんと、車イスで歩くのもままならない87歳のおばあちゃん、島袋文子さん(通称「文子おばあ」)である。」
さあ、これが国会議員の名誉を毀損する「捏造記事」だろうか。
整理してみよう。
和田議員が、「捏造」というのは、次の2点である。
(1)「IWJは再三取材を試みるも応じず!」
この記事は、和田議員側からは、「IWJは、(和田議員に、裏をとるために)再三取材を申し込んだが拒否された」と読めるが、真実は「2回の取材申込みはあったが、取材を拒否していない。取材は受けると告げている」。だから、記事は捏造。
(2)「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」
和田議員は、議員に暴行した2人の男性については被害届を出しているが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。だから、この記事は捏造。
IWJの批判記事が、国会議員である和田議員の名誉を毀損する違法なものと言えるかの高いハードルは幾つもあり、これを乗り越えることは難しい。このことは、ジャーナリストでもある和田議員自身がよく分かっていることと思う。
最初のハードルは、IWJ記事が、普通の読者の普通の読み方で、客観的に議員の社会的評価をおとしめて、名誉を毀損するものと言えるか、という点。
「IWJは再三取材を試みるも応じず!」が、メディアからの取材申し出を無視する民主主義社会の議員にあるまじき事実の指摘として和田議員の社会的評価をおとしめるものと言えるだろうか。IWJ記事は議員の涜職や政治資金規正法違反や人権侵害やスキャンダルをあげつらうものではない。「IWJは再三取材を試みるも応じず!」程度の事実の摘示で、国会議員の社会的評価が揺らぐとは到底考えられない。それが常識的な健全な判断と言うべきではないか。
もうひとつは、「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」という点である。
これも、暴力を受けたとするものが被害届を提出した、という事実摘示。言われた者の社会的な評価をおとしめる事実摘示とは考えられない。
IWJ側は、記事が不正確だという和田議員の指摘には真摯に対応すべきが当然である。しかし、それは飽くまでジャーナリストとしての倫理の問題で、IWJ記事が違法ということとは次元の異なる問題である。
仮に、和田議員がこの第1のハードルを越したとしても、IWJ記事が公共の事項に関わるもので、公益目的で書かれていることには疑問の余地がない。
すると、第2のハードルは、摘示の事実が主要な点において真実ではないと言えるかである。事実摘示の真実性は、必ずしも完璧なものである必要はない。主要な点において真実であればよい。
(1)については、「取材を試みるも応じず!」の主要な点における真実性はかなり高いものと思われる。「少なくとも2度の要請があって取材に応じなかった」ことは和田議員の認めるところである。この点の(少なくとも主要な点の)真実性が認定される可能性は限りなく高い。
(2)については、和田議員は、「議員に暴行した2人の男性については被害届を出したが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。」という。これが本当だったとして、確かにIWJ記事(2)は正確性を欠いている。しかし、和田議員と同行者の「被害者グループ」が被害届を出しているのだ。主要な点において真実と言える可能性は残されている。
そして最後に、真実と信じるについて相当な理由があったのではないかという、相当性のハードルである。以上の諸事情から、これは問題ない。軍配はIWJ側に上がることになるだろう。
要は、表現の自由と、批判対象の名誉権との調整との問題である。批判対象者の属性によってこの調整の原理は大きく異なることになる。この程度の記事が、一々国会議員の名誉毀損と言われたのでは、ジャーナリズムの萎縮は免れない。公権力の側にいる者は批判の言論を甘受しなければなない、と言うことなのだ。それは、意見や論評についてだけのことではない。事実摘示の問題に関しても同様なのだ。
米連邦最高裁の判例に定着した「現実的悪意の法理」と言うものがある。これは、公的立場にある者に対する批判は、誤った言論といえども保護に値する有益性をもつという理解から、表現者に「現実的悪意」があったことの立証に成功しない限りは名誉毀損が成立しないとする法理である。連邦最高裁の用語を引用すれば、「現実的悪意」とは、真実でない表現について表現者が「虚偽であることを知っていた」か「虚偽であるか否かを不遜にも無視した」ことを指す。
公的人物に限ってのことだが、これは批判の言論の自由を尊重するもの。多少は間違っていてもよいのだということなのだ。単に論評の領域だけではなく、事実摘示の分野についても同様なのだ。我が国の訴訟実務では、「相当性の理論」の限度ではあるが、国会議員は事実摘示を誤った報道についても、批判の言論を甘受しなければならない。この程度の批判の記事に「捏造」「しかるべき措置を取る」というのでは、国会議員としての大度に欠けるというほかはない。
(2016年10月25日)