現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
「基本的な自然の法則」
人は皆、ある意味で泥棒だと言っていいでしょう。
もし、すぐには要らないものを私が手に入れ、手元に置いておくなら、他の誰かからそれを奪い取っているのと同じです。自然は私たちが必要とするだけのものを日々産みだしくれ、それは例外のない根源的な自然の法則です。
ですから、もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
私は社会主義者ではないので、お金持ちから財産を取り上げるやり方は望みません。しかし、暗闇の中で光明を見出すことを願う人なら誰しも従わなければならない法則があることだけは、あなた方に直接、はっきり伝えておきます。
お金持ちから財産を取り上げるという考えを、私は持っていません。そんなことをすれば、アヒンサーの法則(非暴力主義)から外れてしまいます。だから、もし他の誰かが私より多くのものを持っていたとしても、そうさせておくだけのことです。ただ、私白身はアヒンサーの法則に基づいて暮らそうと努めていて、必要以上のものを持たないと、はっきり決めています。
インドでは、300万人もの人が一日一食で飢えをしのいでいます。しかも、その食事は、脂肪分のまったくないたった一枚のチャパティと一つまみの塩だけなのです。このような300万人の人たちに、衣服と食べ物が今以上にいきわたるようになるまでは、私もあなたも、手元に蓄えているものについて、どのような権利もありません。あなたも私もそのことを十分に承知しているのですから、その300万人の人たちが大切にされ、食べ物と衣服に困ることがなくなるよう、自分の欲望を制御し、進んで食事なしで済ませることくらいはやってみなければなりません。
(「演説・著作集」第4版)
「何よりもまず、貧困層に適切な衣食住を」
上流階級や王侯貴族はいろいろ必要が多いのだと言い立てて、上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。それは、怠惰な詭弁であり、私の理論を揶揄するものに過ぎない。
富裕層と貧困層との間に存在する今日の格差は、見るに堪えない。インドの貧しい村人だらけ、外国の政府と自国の都市生活者の双方から搾取されている犠牲者である。村人たちは食料を生産するが、飢えている。村人たちはミルクを生産するが、その子どもたちには飲むミルクがない。このようなことは放置できない。誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。
(「ハリジャン」1946年3月31日号)
以上は、大阪の加島宏弁護士が紹介するガンジーの言葉の一部である。年2回刊の「反天皇制市民1700」誌第43号に、連載コラム「ガンジー」第8回に、ガンジーの経済思想として掲載されているもの。
人は大人になりきる以前には、必ずこのような思想や生き方に深く共鳴する。このような思想を自分の胸の底に大切なものとして位置づけ、このような生き方を理想としよう。一度はそう思うのだ。しかし、落ち着きのない生活を重ねるうちに、少しずつ理想も共感も忘れていく。
それでも、ガンジーのこの言葉は魂を洗うものではないか。ときに噛みしめてみなければならない。
ガンジーは、こう言うのだ。「もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。」
70年前にして現実はこうだった。「上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。」いまや、「目のくらむような較差」はさらに天文学的で絶望的なものになっている。それは、多くの巨大な泥棒連中が、この世に横行しているということなのだ。
泥棒を駆逐して、「誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。」と切に思う。日本国憲法の生存権思想は、まさしくそのような社会を求めている。
明文改憲を阻止するだけでなく、憲法の理念をもっともっと深く生かしたいと思う。
99%の「貧乏人」と、1%の「上流階級と王侯貴族と財閥たち」との間に横たわる目のくらむような較差の壁を崩していくことは、生存権だけでなく14条の平等権の歓迎するところでもある。社会保障を削って、軍事費を増やそうなど、もってのほかという以外にない。こうなると「泥棒」ではなく、「強盗」というべきだろう。
(2018年2月6日)