(2020年10月12日)
今、我々の眼前で進行しているスガ政権の日本学術会議人事への介入事件。もっと正確に言えば、スガ政権の学術会議人事介入を切っ掛けに生じた、民主主義の枠組みを擁護しようという勢力と破壊しようという勢力との壮大なせめぎ合い。これからの状況進展如何にかかわらず、歴史に刻まれることになる。
昨日(10月11日)の報道では、理工系93学会が共同で、「政権の任命拒否を憂慮する」緊急声明を発表したという。
声明は日本地球惑星科学連合、日本数学会、日本物理学会のほか、生物科学学会連合と自然史学会連合の傘下学会が共同で出した。政府が理由を示さずに会員候補の任命を拒否した事態を憂慮し、対話による早期解決を求めた。
任命を拒否された6人は人文・社会科学系の学者だが、日本地球惑星科学連合の田近英一会長(東京大教授)は記者会見で、「理系でも起こり得る話。学術に基づいた自由な言動が制限されることは学問の自由の制限につながる」と述べた。
日本物理学会の永江知文会長(京都大教授)は、拒否の理由が説明されない点を問題視し、「忖度しないとならない世界は、科学者から見れば変な世の中だ」と批判した。
私の所属している日本民主法律家協会も声明を出した。一昨日地元文京区で行われた、「今なぜ敵基地攻撃なのか」緊急学習会(講師・澤藤大河)でも、参加者一同の名で抗議の声明を採択し、官邸に送ることとした。今後、続々と、抗議声明が積み重ねられることになるだろう。問題の大きさにふさわしい、大きな運動が盛り上がりつつある。
https://jdla.jp/shiryou/seimei/201009_seimei.pdf
アベ・スガの両名が、学問の自由破壊のみならず、民主主義の基本枠組みの破壊をたくらんだ頭目として歴史に悪名を残すことになろう。このときに、喜々として政権の走狗の役割を買って出ようというのが、情けなや河野太郎だ。スガは、文字どおり狷介な悪代官、河野太郎よ、その悪代官スガの腰巾着となって歴史に悪名を残そうというのか。キミは、そんな情けない人物だったのか。
河野太郎よ、キミは、「行政改革担当相として、日本学術会議を行革の対象として検証する」と言った。「(自民)党の方から行政改革の観点からも見てほしい、という要請があった」「私のところで年度末に向け予算あるいは機構、定員については聖域なく、例外なく見ることにしているので、その中でしっかり見ていきたい」とも述べたという。これは、メディアの言うとおり、「政府のまさかの逆ギレ検証」「任命拒否問題を学術会議の機構・定員問題にすり替え」ではないか。自民党内からも「このタイミングで検証するのは目くらましだ」と疑問の声が上がっている。その先頭に立たされているのがキミなのだ。
河野太郎よ。行革の対象を「聖域なくしっかり見ていきたい」と語るのなら、真っ当な優先順位というものがあろう。まず何よりも、不要不急な武器の爆買いを強いられている防衛費支出のメカニズムにメスを入れよ。アメリカの言い値のとおりに、一機100億円を超すF-35A、さらに高価なF-35Bを購入せざるを得ないというこの事態を何とかしたらどうだ。思いやり予算の計上も同罪だ。政党助成金も、皇室費も、官房機密費も、大いに見直すがよかろう。
踏み込むべきところには踏み込まず、切り込むべきところに切り込まず、日本学術会議の名を特に上げて行革の対象とし、「年度末に向けて予算、機構、定員について聖域なく見るので、しっかり見ていきたい」と述べている。明らかに、政権に楯突くと予算で締め上げるぞ、という悪辣ぶり。
しかしだ、河野太郎よ。考え時ではないか。スガが沈むとき一緒に沈もうというのは愚かなことだ。姑息にスガの腰巾着になるよりは、民主主義の大道を歩むべきだと思うのだが。
(2020年10月10日)
本日各紙の報道によれば、スガ首相は昨日(10月9日)午後、新聞各社の2度目のインタビューに応じ、日本学術会議の人事介入問題に触れて幾つかの重大な発言をした。
最も注目さるべきは、スガが「官邸が6人を除外する前の、学術会議が推薦した105名の推薦者名簿は『見ていない』」と述べたということ。スガが名簿を確認した段階で、すでに6人は除外されていたとした。「最終的に決裁を行ったのは9月28日。会員候補のリストを拝見したのはその直前」としたうえで、「現在の会員となった(99人の)方が、そのままリストになっていたと思う」と説明した。
この記事には我が目を疑った。このことだけで事件である。日本学術会議法が、「学術会議の推薦に基づいて」新会員の任命をすべきと義務付けされている首相が、学術会議の推薦名簿を見ていないと明言したのだ。スガ義偉、正気か。これは、明らかに任命行為の違法を認めるオウンゴール発言である。
幾つかの理解が可能である。おそらくは1枚の名簿に記載された、学術会議による105名の新会員推薦行為を不可分一体の1件の行為と見れば、スガ首相がその名簿に目を通すことなく、99名を任命した手続は明らかに違法で法的瑕疵がある。つまり、任命行為に当たって、スガは何者かによってすり替えられたニセの名簿にもとづいての任命手続を行ったに過ぎないもので、学術会議による真正な新会員推薦に基づく任命を行ってはいないということのだ。
学術会議は105名の新会員推薦名簿を作成して、これを内閣府に提出している。内閣府は、学術会議から受領した105名の推薦名簿を、そのまま官邸にまわしたと言っている。すると、名簿は官邸が受領して首相の目に入るまでの間に、何者かがすり替えたことになる。この官邸官僚の責任は重大である。もちろん、スガの監督責任も免れない。
適法な手続が未了なのだから、改めての任命手続が必要となる。但し、両名簿に重複掲載されている99名については、手続き的瑕疵が治癒されるとして取り扱うことは可能であろう。
また、学術会議による105名の新会員推薦行為を、各人毎に各別の105個の行為とみれば、99人については、適法な任命行為がなされたことになる。しかし、残る6人については学術会議の推薦が首相に到達していないのだから、任命行為が不存在というほかはない。首相は、改めてこの6人についての任命をしなければならない。もちろん、憲法と日本学術会議法に則っての任命でなければならず、スガ自身がこのインタビューで、推薦者の思想信条が任命の是非に影響することは「ありません」と否定しているところなのだから、6人の全員任命以外に採るべき途はあり得ない。
以上の発言を含め、スガの言うことは、支離滅裂で牽強付会というほかはない。今後の学術会議のあり方の見直しに向けた政府内での検討についてはこう語っている。「学術会議が良い方向に進むなら歓迎したい。私が指示することは考えていないが、行政改革の中で取り上げるということではないか」
スガの言う「よい方向」とは何か。言うまでもなく「『学問の自由』とか、専門家集団の『独立』などと生意気なことを言わせず」、「政権の意に染まない学者を、政権の意をもって排除することを可能とする」方向のことだ。各メデイアから、自らの違法を棚上げにしての「論点ずらし」と強い批判を受けている。
しかもスガは、6人を除外した理由について問われると、またまた「総合的・俯瞰的な活動、すなわち広い視野に立ってバランスのとれた行動をすること、国民に理解される存在であるべきことを念頭に全員を判断している」「一連の流れの中で判断した」などと、わけのわからぬことを述べてはぐらかし続けている。
さらに、首相の任命を「形式的にすぎない」とした1983年の政府答弁から「解釈変更を行っているものではない」と繰り返してもいる。
改めて思う。日本国民は、アベを脱してスガのトンデモ政権と対峙しているのだ。この支離滅裂な強権体質の政権と、本気になって対決しなければならない。
(2020年10月9日)
A 不思議でならない。スガ新内閣の支持率が70%にもなっている。10月5日発表のJNN調査の結果が、支持70.7%で、不支持はたった24.2%だという。いったいこの国の国民はどうなってしまったんだ。
B 別に驚くには当たらないだろう。みんな安倍さんの政治には飽きていたんだよ。新たなキャラクター登場で、その新味への期待感が支持率アップとなったと思う。それに、ケイタイ電話料金値下げ、既得権益を許さない行政改革断行なんて、悪くないんじゃじゃないか。
A でもね。スガは、アベ政権の継承を謳って総裁選に勝っている。これまではアベの皮を被ってきたスガが、アベの皮を脱ぎ捨て正体を現したのがスガ政権だろう。スガ自身にも、閣僚の人選にも、政策にも、新味なんてなにもない。ケイタイ料金値下げなんて、やる気さえあれば、今までだってできたことではないか。
B とは言っても、トップとナンバー2とでは、やっぱり大きく違うんじゃないか。スガさんは2世の坊ちゃんじゃない、雪深い秋田の出で、これまで苦労してきた人だというし、国民の利益になる身近なことをやってくれるというんだから、国民の期待は高いよ。
A JNNの世論調査では、学術会議の6名に対する任命拒否についても、質問している。「あなたは、政府の対応について妥当だと思いますか? 妥当ではないと思いますか?」という問に、「妥当だ」との回答は24%に過ぎない。妥当ではないは51%だ。にもかかわらず、内閣支持率70%とはどういうことだろう。
B 簡単なことさ。学問の自由の侵害なんて、学者や大学の問題だろう。多くの人にとっては、自分に関わることではないんだ。学問の自由よりは、ケイタイ料金引き下げの方が、遙かに重大事なんだよ。
A ケイタイ料金値下げ程度のエサに釣られて、スガの強権政治を見過ごしていると、社会全体の自由がなくなってしまう。そんなことでよいはずはないだろう。
B そんなことになるだろうか。確かに、安倍さんには「9条改憲」の危険な匂いがつきまとっていた。それに、モリ・カケ・桜と、政治の私物化というイメージも強かった。しかし、スガさんには、そんな強烈なものは感じられない。ケイタイ料金値下げをやってくれるのなら、ありがたいじゃないか。
A アベ内閣の官房長官だったスガはアベと同罪だろう。それに、スガ官房長官がこれまで記者会見で語ってきたことを思い出してみろよ。「そういう見方は当たらない」、「担当部局は適切に処理していると聞いている」、という一方的な説明拒否、説明打ち切りの連発。こんな人物を信用してはいけない。
B そう言われればそうかも知れない。でも、日本には憲法もある、選挙もある、報道の自由もある。そんなに簡単に、自由のない社会になるという実感が湧かない。
A 第2次アベ政権ができて以来、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の廃棄、安保関連法による集団的自衛権容認、共謀罪法の強行、黒川検事長の定年延長等々、実質的に憲法が壊され、自由が蹂躙されてきた。これを実務面で支えてきたのがスガではないか。NHKをはじめとするメディアを統制して、選挙をも支配してきたのだ。
B 確かに、安倍政権の末期には支持率が下がって行き詰まったよ。しかし、菅さんだって、バカじゃないだろうから、簡単に支持率が下がるようなことはしないように思うがね。
A 日本学術会議が推薦した新会員候補者6名の任命拒否問題。これは、大きな問題だ。政権が、臆面もなく、自分の気に入らない人物や思想を選別して排除すると宣言したのだ。それでも支持率は下がるまいと、国民を侮っての仕業だ。この国の、学問の自由侵害というだけではなく、自由や人権、民主主義という基本的な枠組みを逸脱した行為といってよい。こんな政権をのさばらせてはいけない。
B 「ケイタイ料金くらいでダマされるな」「政権に侮られるな」ということくらいはわかったが、菅内閣がそんなに危険なものだということにまだ納得できない。もう少し、新政権のやり方を見たいと思う。
A くれぐれも、手遅れと後悔するようなことのないようにね。
(2020年10月8日)
スガ新政権の日本学術会議への強権的な人事介入。この報に接して以来、首筋に薄ら寒さが消えない。秋風のせいばかりではない。あの、戦前のイヤーな歴史の記憶が、甦るからだ。
思い出されるのは、1933年の京都帝大・「滝川幸辰」事件、35年の東京帝大・美濃部達吉に対する「天皇機関説」事件である。政府の強権と右翼の暴力とが学問の独立や自由を蹂躙した後に、全体主義の国家と社会が完成した。そして、38年の国家総動員法から40年大政翼賛体制確立を経て、41年の太平洋戦争開戦へとつながっていく。
苛酷な戦争の惨禍を体験した戦後日本は、以下の「日本学術会議法」前文のとおりに科学を位置づけて学術会議を設立した。
日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。
科学の使命は、「わが国の平和的復興と人類社会の福祉への貢献」だというのである。日本学術会議の主要な役割は、平和憲法と軌を一にして、再び科学が戦争の惨禍をもたらすことのないようにすることであった。今、国の産学官一体となっての防衛産業興隆策に、学術会議は科学者の良心を結集してよく抵抗してきた。
下記の「軍学共同反対連絡会」(共同代表、池内了・香山リカ・野田隆三郎)による「菅首相による日本学術会議会員の任命拒否に抗議し、撤回を求める」声明の、下記抜粋に全面的に賛意を表する。
http://no-military-research.jp/
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2020年10月5日
菅首相による日本学術会議会員の任命拒否に抗議し、撤回を求める
軍学共同反対連絡会
共同代表 池内 了 (名古屋大学名誉教授)
同 香山 リカ (立教大学教授)
同 野田隆三郎(岡山大学名誉教授)
私たち軍学共同反対連絡会は、戦前の日本の科学者たちが軍国主義政府に追随して侵略戦争に加担した歴史を反省して、科学者が軍事研究に手を染めることに反対する活動を続けてきた。その際に、日本学術会議が発した「軍事研究には絶対に従わない」との二度の決議と、それを継承する2017年の声明が大いなる導きとなってきた。今回の(菅首相による会員候補)任命拒否には、日本学術会議声明が大学における軍事研究を抑制している現状を変えようとする狙いも込められていると報じられており、その点でも私たちは断じて許すことはできない。
日本学術会議は、単に日本の学術を代表する機関であるにとどまらず、科学者に対して自らの学問的良心と科学者としての倫理を想起させるとともに、広く学問の在り方を点検するための重要な機関である。私たちは、日本学術会議が任命拒否に怯むことなく、また学問の論理を追求することを怠らず、これまで通り学術の独立性を保つ姿勢を毅然として持ち続けることを強く期待している。
スガ新政権の日本学術会議に対する強権的な人事介入は、学術会議の独立の破壊であり、学問の自由の侵害である。さらにその先にあるものは、軍事研究に反対し、軍産学複合体制の確立に抵抗する学術会議への権力的掣肘なのだ。そのことが、首筋の薄ら寒さが消えない理由である。
(2020年10月7日)
政権は、思うとおりにならない科学者・研究者が目障りでならないのだ。世論を二分する重大な政治問題で、有力な学者たちが、反政府側の世論の先頭に立つ。理性や良識をもつ国民に影響力をもつこの人たちを何とか統制したい。その思惑での、菅政権による学術会議会員候補者の任命拒否である。反政府的言動を理由とする学術会議からの排斥であることが明らかと言ってよい。
真の意図を隠して、この度の6人の任命拒否を正当化する理由は、二つに絞られている。一つは、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》という論法。そしてもう一つは、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》というもの。いずれも、ほとんど説得力をもたない。
権力というものは、なんでも意のままにやりたいという危険な衝動をもっている。この衝動が暴走に至らぬよう幾重もの歯止めの装置が必要なのだ。そもそも法の支配や立憲主義が、そのためのものである。権力の分立による相互の牽制も、人権という法技術も、野党の存在も、教育やメディアに権力の介入を禁じる原則も、権力の暴走への歯止めとなっている。
日本学術会議とは、その政策に学術を活用するために設けられた国家の一機関ではあるが、自ずから「独立性」を第一義とするものである。学術というものが、時の政権の思惑から当然に独立している存在であって、忖度のない立論や提言がなければ、そもそも存在価値はない。また、国家は、学者集団の叡智が発する時の政権への苦言に耳を傾けることによって、暴走の誤りを避けることが可能となる。学術会議とは、宿命的に政権に耳の痛い発言をする組織なのだ。
そのような機関の新会員任命権を内閣総理大臣が実質的に握っているというのは、憲法や日本学術会議法の解釈として明らかに妥当でない。学術会議の推薦のとおりに、内閣総理大臣が形式的な任命手続をすべきと解するのが正しい解釈というべきである。仮に、内閣総理大臣の任命権をまったくの形式とは解せないとしても、学術会議の推薦が常識を逸したものであった場合に限定されざるを得ない。そのような例外的な任命拒否について、総理側に厳格な説明責任が課せられるべきは当然である。
果たして、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》と言えるだろうか。法は、明らかに、学術会議の独立性を認めて、時の政府におもねることのない活動や提言を期待しているのである。政府に批判の言動あった者を任命拒否するなど、あってはならないのだ。
また、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》などと言ってよいものだろうか。その性質上、国家は国費を投じても、これに介入すべきではない部門はいくつもある。教育・研究機関はその典型である。この論理を認めると、国費が投じられている国立大学・国立研究機関(独立行政法人も)は、時の政権からの介入を受けない「大学の自治」「学の独立」が根底から崩れてしまう。理は政権側にはない。
10月2日、学術会議は、菅首相に対し、
?任命されない理由を説明していただきたい、
?任命されていない方について速やかに任命していただきたい、
の2点を要望する「要望書」を提出した。
この学術会議の要望を支持する国民の意思を積み重ねていく運動の展開が必要となっている。スガ強権政治を許してはならない。
(2020年9月26日)
自民党衆議院議員の杉田水脈さん。本日(9月26日)の各紙朝刊に、あなたの言動についての記事が掲載されています。
お読みになっていますか。自分のことについて、このような記事にされていることに、心穏やかでいられますか。それとも、もう慣れてしまっているのでしょうか。メディアから、国会議員としての資質に欠けているという指摘を受けているとの自覚はありますか。この件について、弁明の記者会見をされる予定はありませんか。記事を書いた記者や、記者に情報を提供したという自民党議員と対決する覚悟はおありでしょうか。
これまでも、あなたの言動についての報道は、芳しいものとてありませんでした。しかし、今回の報道の内容は、あなたの議員としての資質に決定的に関わるものとお考えではありませんか。
冷静に事実を報道している代表的な記事として、共同通信配信のものを引用します。
杉田議員、女性はいくらでもうそ 自民党の合同会議で蔑視発言
自民党の杉田水脈衆院議員は25日の党の内閣第一部会などの合同会議で、女性への暴力や性犯罪に関し「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言した。被害者を蔑視する発言で批判が出るのは必至だ。
杉田氏は会議後、記者団に「そんなことは言っていない」と述べて発言を否定したが、会議に参加した複数の関係者から、杉田氏の発言が確認された。杉田氏は、会議で来年度予算の概算要求を受け、女性への性暴力に対する相談事業について、民間委託ではなく、警察が積極的に関与するよう主張。被害の虚偽申告があるように受け取れる発言をしたという。
あなたに対する辛口の論評を含む報道としては、日刊ゲンダイのこんな記事があります。
自民・杉田水脈また暴言 性暴力被害で「女性はウソつく」
やはり“付ける薬”はないようだ。自民党の杉田水脈衆院議員がまたやらかした。25日の党の内閣第一部会などの合同会議で、政府側から暴力や性犯罪の女性被害者の相談事業に関して説明を受けた際に、警察が積極的に関与するよう主張。その理由として「女性はいくらでもウソをつけますから」と、あたかも被害を虚偽申告する女性が多数いると受け取れる発言をした。
杉田氏は会議後、記者団に「そんなことは言っていない」と述べて発言を否定したが、複数の会議参加者が杉田氏の問題発言を確認した。発言に責任を持たず、往生際も悪すぎる。こんな国会議員を持つ国民は不幸だ。
また、「女性はウソつく」発言の背景事情について、こんな解説記事もあります。(リテラ)
このとんでもない暴言が飛び出したとされるのは、本日25日におこなわれた自民党の内閣第一部会などの合同会議。女性への性暴力や性犯罪について議論するなかで、杉田議員は、来年度予算の概算要求を受け、女性への性暴力に対する相談事業について、民間委託ではなく警察が積極的に関与するよう主張。そうした議論のなか、「女性はいくらでも嘘をつけますから」などと、女性被害者が虚偽申告するというような発言したのだという。
つまり、「女性はいくらでも性被害について嘘をつけますから」、民間委託の相談事業ではその嘘を見抜けず不適当なんです。犯罪捜査のプロである警察なら、女性の被害に関する嘘を見抜けるからより妥当なのです、という文脈で、あなたの発言がなされたというのです。頷ける話ではありませんか。
また、あなたの発言に、出席していた何人かの議員から失笑が漏れたという報道もあり、この失笑に違和感を感じたという議員の記者への発言もあったということです。あなたの発言についての報道は、極めて具体的で、リアリティに富み、しかも取材源は複数なのです。
しかし、この記事の報道内容が100%真実かどうか。それは、まだ私ども部外者には断定できません。報道でも、あなたは記者団に、「そんなことは言っていない」と発言を否定したそうですし、本日14時42分アップのブログでも、「一部報道における私の発言について」と題する記事を投稿して、「昨日、一部で私の発言についての報道がございましたので、ご説明いたします。まず、報道にありましたような女性を蔑視する趣旨の発言はしていないということを強く申し上げておきたいと存じます。」と書き込んでいます。
昨日の会議が終り、記者団に囲まれた時点では、あなたには二つの選択肢がありました。
(1) 発言を肯定する。その上で、自分の信念を披瀝する。あるいは、口を滑らせての本意ではない発言として、弁明する。
(2) 記者から指摘された発言を否定する。
(1) を選択すれば、あなたが嘘つきと言われることはなかったのです。しかし、あなたは、(2)を選択しました。今さら、(1)に戻る術はありません。
(2) の選択を前提とすると、以下のいずれかということになります。
(A)あなたは、真実のところ「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言したのに、「発言していない」とウソをついた。
(B)多くのメディアが、あなたが「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言してはいないのに、虚偽の報道をした。
今、あなたは、多くのメディアから、
(1) 「嘘つき政治家」だと非難されているのです。それだけではなく、
(2) 「女性でありながら、女性を差別視し女性の性被害救済を妨害しているとんでもない政治家」だと非難されているのです。
メディアの報道は「真実らしさ」が十分です。一方、あなたの「発言否定」は、あなたのこれまでの言動や、昨日の記者に対する不十分な対応によって、「嘘らしさ」に満ちています。
私は、ネットで見かけた、以下の意見に強く賛同します。
日本では、女性が性被害やセクハラ被害を訴えると、必ずと言っていいほど、SNSなどで「嘘だ」とか「ハニートラップだ」とか「売名行為」などと攻撃される。また、性暴力をめぐる刑法や裁判のあり方においても、男性優位目線がいまだ根強く、被害女性は性被害やセクハラ被害そのもの以上に、大きな二次被害を受けているというのが現状だ。そんななか、国会議員が「女性はいくらでも嘘をつけますから」などと発言することは、被害者攻撃をさらに助長するもので、断じて許されない暴言だ。(リテラ)
杉田水脈衆院議員が、女性への暴力や性犯罪被害に関し、「女性はいくらでもうそをつけますから」と公的な場でセカンドレイプ発言。複数の関係者が証言しているのに、記者団には「そんなことは言っていない」と発言を否定。いくらでもうそをつくのは女性じゃなくて自分だろう。(匿名)
国会議員として、絶対に言ってはならないことがある。人権の軽視や否定はその最たるもの。杉田水脈議員の場合、雑誌への寄稿で特定の人を「生産性がない」と書いた時点で国会議員失格だった。だがメディアは傍観した。今度こそ、この低劣な人権感覚の人物を、国会議員の地位から放逐しないといけない。(匿名)
杉田水脈さん。あなたは、今これだけの質の批判を受けているのです。しかも、その批判は今のところ十分な根拠をもつものと言わざるを得ません。あなたが、この批判を跳ね返す努力をして、それに成功しない限り、あなたは「嘘つき政治家」で、しかも「女性蔑視政治家」という汚名を甘受しなければなりません。ということは、国民の代表者である国会議員としての資格はなく、議員を辞任すべきということです。
あなたが今、直ちになすべき具体的行動は、自民党事務局に、昨日の会議の録音を公開させることです。それができなければ、記者会見を開いて、堂々と記者の追及を受けとめ、記者に情報を提供した同僚議員の「ウソ」を暴く工夫をすることです。それができなければ、あなたは「嘘つき政治家」で、しかも「女性蔑視政治家」なのですから、議員は務まりません。せめて、潔く議員の職を自ら辞することをお勧めします。
(2020年9月13日)
コロナ禍のさなか、現職総理大臣が任期途中で職を投げ出して、突然の総裁選となりました。事実上の次期総理大臣選挙です。もちろん、国民のみなさまご存じのとおり、選挙は形だけのもの。私・菅義偉の総裁当選は派閥領袖たちの談合で決まっています。この密室の密謀による密議で、私はようやく陽の当たる明るい場所に出ることになりました。これまでは陰険な印象のつきまとう執権職でしたが、ようやくにして晴れがましい将軍職へのステップ・アップ。まことに本懐とするところです。
もう決まっているなら、なぜいま面倒な選挙をしているのか。しかも、「政治に一瞬の空白も許されない今日」などと言いながら…。それは、必要な儀式だからなんですよ。いまは、ミンシュシュギの世の中。お分かりでしょう、ミンシュシュギって、頭数で決めるってことなんです。厄介なことに、この頭数を数える儀式は、密室ではできないことになっています。
ですから、私が自民党総裁としての正当性を獲得するためには、形だけでも選挙が必要なんですね。できれば、ダントツで当選したい。私・菅義偉の人望や能力には党内からも、疑いの目で見る人が多い。圧倒的に選挙に勝たなければ、人望や能力に疑問符がついたままになってしまいます。選挙に勝ったからって能力の証しにはならないだろう、なんて突っ込みはためにする議論。
選挙をする理由は、それだけではない。もちろん、この選挙では、各候補者がどんな国家ビジョンを描いているか。誰が国民のために真剣に政治を行おうとしているか。どんな政治思想や見識や政策をもっているか。国民の声を聴くよい耳を持っているか。廉潔な姿勢や誠実性があるか、外交手腕や調整能力に優れているか。そんなことは、実はまったく問題ではありません。投票の権利をもっている議員にとっては、どの候補者の陣営に擦り寄れば、どんなポストにありつくことができるか。それが、いや、それだけが問題なのです。当然のことでしょう。
負ける候補者を支持しても得るものはない。士たる者は士道に生きる。そりゃ嘘だ。どんな主君に使えるかだけが生き残る道。当たり前すぎる処世術。私・菅義偉を支持して、選挙運動に参加すれば、望みのポストに近づきます。今回はあぶれても、その次の機会には。選挙がなければどのように論功行賞をすればよいか、材料がない。選挙をすればこそ、候補者への忠誠心を量れるということになります。だから、いま、圧倒的に私への支持が増えていますね。みんなが勝ち馬に乗ろうとしているというわけです。
とは言うものの、明るみでやらざるを得ない選挙にはリスクもつきまとうのが悩みのタネ。他の候補と対等の議論の場に引っ張り出されると、私の地金を隠しきれなくなってしまう。無能・無才・無知・無学・無教養・無見識・無定見の馬脚が表れてしまう。とりわけ、私には討論の能力がない。昨日(9月12日)の日本記者クラブ主催の3候補「討論会」を報じるメディアの評も厳しい。たとえば、毎日新聞。揶揄されているようでもあって不愉快だけれど、そのとおりだから反論のしようもない。
岸田氏は菅氏に「社会保障の持続可能性をどう維持するのか」と質問したが、菅氏は幼児教育の無償化や雇用創出など安倍政権の実績を強調しただけで正面から答えなかった。ここは菅氏の「説明能力不足」を指摘するチャンスだったのに、岸田氏は何も言及しなかった。石破氏は新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正の必要性について明確に答えない菅氏に対し、「私が尋ねたことにお答えをいただきたかった」とクギを刺した。この「正面から説明しない」姿勢は、石破氏が争点化する安倍政権の負の側面と重なるので、もっと指摘してもよかったはずだ。
一方、菅氏は相手が話している時に下ばかり向いている姿が目立った。応答要領の資料をめくりながら次に発言する内容を確認していたのだと思うが、相手の発言をメモすることもほとんどなく、「討論」とはほど遠い姿勢だった。
象徴的だったのは、安倍政権の「負の遺産」が話題になった場面。森友学園問題をめぐって、朝日新聞の坪井ゆづる氏が再調査の必要性を尋ねると、財務省が内部調査をしたことなどを挙げて「結果は出ている」と従来の政府見解を繰り返した。財務省による身内の調査だと指摘されても「いま申し上げた通りだ」と答えるのみだった。
どうひいき目に見ても、私は、他の候補者に較べれば能力の面において見劣りがしますよ。そりゃそうだ。そのことを天下にさらけ出してしまった。でもね、私は安倍さんを見ているからね。あれでも総理は務まるんだから、私だってね。総裁選で当選してしまえば、こっちのものだと思っていますよ。
安倍さんも、きちんとした論戦のできる人ではなかった。でも、彼独特の「ご飯論法」で乗り切りましたね。あれは、安倍さんが意識的に編み出した、「論争手法」ではなく、追い詰められ、逃げ回って、苦し紛れにああなったというだけの話です。それが身について、とにもかくにも逃げおおせた。
私は、もっと意識的に、「美談論法」というものを採用したい。下記は、週刊文春最近号「菅義偉『美談の裏側』集団就職はフェイクだった」の一節。私の例の、「秋田の貧しい農家から、集団就職で上京して…」という叩き上げ苦労人の『美談』について。
「集団就職というのは、学校の先生に引率されて上京し、就職先を回って働き口を見つける、というもの。ところが、義偉君は一人で上京している。『集団就職で上京した』という記事を読むたび、どうしてこうなったのか、と不思議なんです」
菅氏の親戚の一人も「間違ったイメージが広がっていることに懸念を抱いていた」と漏らす。「ある時、義偉さんに言ったんです。そしたら本人も『集団就職したことになっているけど……』と認めていました。ただ、『本当に集団就職した人たちもいる。わざわざ、訂正してそういう人たちを傷つける必要はない。そう思われているなら、それでもいい』と」
つまり、菅氏は、自身が「集団就職」だということが「誤解」だとはっきり認識していながら、あえて訂正せずにいたのだ。
だってそうでしょ。敢えて美談を否定することはない。みんな美談が好きなんだから、あえて訂正する必要はない。私が積極的に嘘を言ったわけではない。安倍さんの「ご飯論法」での「ご飯は食べていない」という答弁は、パンを食べていたとしても、決して嘘を言っているわけじゃない。
私も、安倍後継を以て任じる以上は、できるだけ側近の官僚たちも「居抜き」で、「忖度文化」も、ウソとゴマカシのアベ政治も大事に受け継ぎたい。あとで弁解出来ない極端なウソはできるだけ控えるようにはしますが、都合のよい誤解を敢えて訂正するような愚かなことはしませんね。ご飯論法を私なりに受け継いで、美談のイメージを大切にする「美談論法」で、国会を乗り切りますよ。
えっ? できるかって? 私は安倍さんを見ていますからね。あの、安倍さんだってできたんですよ。大丈夫。ご安心ください。
(2020年9月6日)
9月2日夕刻に菅義偉の自民党総裁選出馬会見が行われた。あれからまだ4日である。この4日の内に、何とも事態が急展開である。いや、事態が変わったわけではなく、見えなかった事態が少しずつ見えるようになっただけのようだ。
私も、あの記者会見をラジオで聞いた。菅という人物を初めて見知ったという思いがある。率直に言って、印象はよくない。いや、すこぶる悪い。石破、岸田両人の会見では、それぞれの個性を発揮しながら記者との会話が成立している。しかし、菅と記者との間には会話が成立しないのだ。もちろん、心情の交流など望むべくもない。
アベの答弁には、「ご飯論法」というネーミングが奉られた。以来、アベが口を開けば、「ご飯だ」「パンだ」「朝食だ」と、あげつらわれる宿命となっている。これは、アベの身から出た錆なのだ。自らを怨むほかはない。その点、菅の答弁もよく似ている。決して、聞かれたことに端的に答えようとしないのだ。そこが、印象のよくない、いやすこぶる悪い原因である。
あの会見の全文を誰かが起こしてくれれば論評したいと思っていたが、産経以外に見つからない。必ずしも、完全な文字起こしではないが、産経を引用させていただき、幾つかの問題を指摘しておきたい。
最初の菅のコメントは、総裁選出馬の動機について述べ、次いで自分の生い立ちと、政治家を志して以来の経歴を語ったものだが、面白くもおかしくもない。この人、国民に語るべき政治理念のバックボーンをもたないのだ。大向を唸らせる技倆もない。もちろん、知性も理性も気の利いた言葉を操る感性も感じさせない。一言で評すれば、国民を惹きつける魅力に欠ける。
鈴木宗男という議員(維新)がいる。たまたまそのブログを見たら、「真打ち菅官房長官が立候補表明した。昨日の岸田、石破両氏と決定的に違った会見である。それはなにゆえに政治家になったか。自分自身の出自を述べ、志(こころざし)を持って地方から出てきた生き方を淡々と話され感動した。」という。
ふーん、人はいろいろだ。あの会見に「感動した」という人もいるのだ、など驚いてはいけない。政治家の「感動した」を真に受けるなどは、愚の骨頂である。ふーん、維新の議員は、菅のあの会見に「感動した」と言ってみせる必要があるのだ、と理解しなければならない。
さて、全部にものを言う余裕はない。まずは冒頭コメントの最後の幾つかのフレーズ。
「ポストコロナを見据えた改革を着実に進めていく必要があると思います。その上で、少子高齢化問題への対応、戦後外交の総決算をはじめとする外交、安全保障、その課題。とりわけ、拉致問題解決に向けた取り組み、そして憲法改正。まずは目の前にある危機を乗り越えることに全力挙げつつ、こうした山積する課題にも引き続き挑戦をしていきたいと思います。」
しっかりと、憲法改正を忘れずに言及している。もっとも、何をやりたいのかメリハリはない。感じられない。
「私自身、国の基本というのは、自助、共助、公助であると思っております。自分でできることはまず自分でやってみる、そして、地域や自治体が助け合う。その上で、政府が責任をもって対応する」
この人は、冷たい人だ。このメッセージは、自助の比重を大きくし公序を小さくしようというのだ。今でさえ、公助の不十分が明らかではないか。そのために苦しんでいる人が数多くいる。その人に手を差し伸べようとするのではなく、もっともっと自助だ、「自分でできることはまず自分でやれ」と言い、公助は最後の出番だという。この人は、財界の回し者でしかない。
「当然のことながら、このような国のあり方を目指すときには国民の皆さんから信頼をされ続ける政府でなければならないと思っております。目の前に続く道は、決して平坦ではありません。しかし安倍晋三政権が進めてきた改革の歩みを、決して止めるわけにはなりません。」
えっ?と、耳を疑う。「国民の皆さんから信頼をされ続ける政府でなければならない」が、現実にはそうなっていない。なぜだ? 明らかにアベ政権の国政私物化によるものではないか。モリ・カケ・桜・カジノに河井だ。あるいは、黒川問題だ。加えて、ウソとごまかしの政治手法によるものではないか。さらにはコロナ対策における無為無策ではないか。常識的には、「アベ政権の負の遺産を承継することなく、前政権の反省すべきを反省して」と言わねばならない。にもかかわらず、「安倍晋三政権が進めてきた改革の歩みを、決して止めるわけにはなりません。」などと言うから、辻褄が合わなくなるのだ。
ここからは記者質問に対する回答
??北朝鮮による拉致問題はどのように対応するか
「実は私自身、官房長官として、また拉致問題担当相でありますけども、そもそも私と首相との最初の出会いはこの拉致問題でありました。そういう中で、拉致問題の解決は、ありとあらゆるものを駆使してやるべきであるという考え方。そしてまた、拉致問題担当になる以前から、官房長官として拉致問題については、首相とある意味で、まさに相談をしながら進めてきているということも事実であります。ですから拉致問題解決のためには、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長とも条件をつけずに会って、活路を切り開いていきたい。そうした気持ちも同じであります」
アベ政権における拉致問題は、やってる感の印象操作だけで、まったく進展しなかった。7年8か月膠着してしまった拉致問題をどうして解決するのか方策はあるのかが問われている。それに対する回答は、「アベと気持ちが同じ」というだけ。アベが解決できず、むしろ悪化させてしまった問題をどう解決に道筋を着けていくのか。展望はないと答えたに等しい。
??安倍首相は敵基地攻撃能力の保有を強調しているが、この路線も引き継ぐのか
「今の問題については、与党から提言書をいただいています。憲法の範囲内、専守防衛の範囲内においての提言書をいただいておるわけでありますけども、これから与党ともしっかり協議をしながら、そこは進めていきたいというふうに思います」
なんということだ。否定しないのだ。「今はコロナが最重要課題。コロナ対策に目鼻がついてから考えましょう」で十分なのに、「そこは進めていきたい」というのだ。これは、一大事だ。
??「森友・加計学園問題」や首相主催の「桜を見る会」問題について、再調査を求める声がある
「森友問題は財務省関係の処分も行われ、検察の捜査も行われ、すでに結論が出ていることでありますから、そこについては現在のままであります。また、加計学園問題についても、法令にのっとり行うプロセスで検討が進められてきたというふうに思っています。『桜を見る会』については国会でさまざまなご指摘があり、今年は中止して、これからのあり方を全面的に見直すことに致しております」
「森友問題は財務省関係の処分も行われ、検察の捜査も行われ、すでに結論が出ていることでありますから、そこについては現在のままであります。」とは、明確な再調査拒否ということだ。「桜」は、今年止めたのだから。もう済んだことだろう、と言う。この点は、イヤにはっきりとしっかりという。ああそうか。なるほど、そういうことか。そういう約束で主要派閥が菅支持に回っているのか。やっと分かり易い構図が目に見えてきた。
−−菅義偉首相として目指す政治は、安倍晋三政権の政治の単なる延長なのか。違うのであれば、何がどう違うのか
「今私に求められているのは、新型コロナウイルス対策を最優先でしっかりやってほしい。それが私は最優先だと思っております。それと同時に、私自身が内閣官房長官として、官房長官は、役所の縦割りをぶち壊すことができる、ある意味でただ1人の大臣だと思っていますので。やり遂げていきたい、こういうふうに思ってます」
分かりにくい。菅が目指すのは、「安倍晋三政権の政治の単なる延長」なのか、違うのであれば何がどう違うのか。恩義ある派閥には「目指すはアベ政治の延長」と言わねばならないが、独自色を出さなければ国民の支持を得られない。で、言えるのはせいぜいこれくらいのところ。実のところ、総裁候補も辛い立場なのだ。
−−東日本大震災の復興にどう臨むか
「先般、福島県知事から色々な復興の状況の説明を受けました。まさにこれから、復興に向けてさまざまな具体的な事業を進めていかなきゃならない。そういう時期に差しかかっているという風に知事との会談の中でそうした思いをいたしました」
えっ? まさにこれから、復興に向けてさまざまな具体的な事業を進めていかなきゃならないですって? 「そういう時期に差しかかっているという風に知事との会談の中でそうした思いをいたしました」ですって? 東日本大震災の復興なんて、およそ頭の片隅にもなかったのでしょうね。
−−自民党総裁になったとき、番記者の厳しい追及にも応じるか。質問の事前聴取がないものも含め答えるか
「限られた時間の中でルールに基づいて記者会見というのは行っております。ですから早く結論を質問すれば、それだけ時間が浮くわけであります」
この質問者は東京新聞望月衣塑子記者。およそ、真面目に答えようという真摯さに欠ける。記者会見のルールとはなんだ。どのような理念にもとづいて、誰が設定したルールなのか。どうも、菅は記者会見のルールは、自分の都合で運用できるものと考えている如くである。
??安倍晋三政権は原子力発電を重要なベースロード電源と位置付け、安全が確認された原発の再稼働を進めているが、総裁になっても政策を踏襲するのか。東京電力福島第1原発の処理水問題は、次の政権で解決するか
「次の政権と言われましたが、次の政権で解決しなきゃならない、この思いはそうであります。そして、いまの全体の電力政策の中で原子力政策もありますから、それに基づいておこなっていきたいというふうに思います」
これが最後の質問と回答。聞かれた順序に、素直に答えればよいのに、そうならないから、分かりにくい。菅がなんと答えているのか、お分かりだろうか。「次の政権で解決しなきゃならない、この思いはそうであります」とは、「(福1の処理水問題は)次の政権で解決する」と決意を述べているのか、あるいは「思いだけはそうであります」と実際は困難だと言っているのか分からない。そして、…原発再稼働については、「全体の電力政策の中でおこなう」という。ということは、再稼働を推進するということか。端的に言わないから、いちいち聞き手が解釈しなければならない。わかりにくい、面倒な人だ。
(2020年9月5日)
信じられないことが次々と起こる。
「史上最低」・「戦後最悪」と言われ続けたアベ政権である。長すぎた政権の終焉の後には、反アベか、少なくも非アベを掲げる政権でなければ人心の掌握はできまい。アベ政権のママ、目先を変えねば保守政権がもたないだろう。そう考えるのがごく常識的な「読み」である。それが、どうやら見当外れのようなのだ。
アベの黒幕として、アベ政治を支えてきた人物が、アベ後継を看板に、総裁選に立候補予定で、既に当確だという報道なのだ。「アベのアベによるアベのための政治」から、「アベによらない、アベ流のアベ友のための政治」への微修正。世の中、少しも変わり映えしそうにない。
共同通信社が29、30の両日に実施した世論調査では、「内閣支持率」は1週間前より20.9ポイント増加して、たという。そんなバカな、と絶句するしかない奇妙奇天烈摩訶不思議。そのアベに対する国民のシンパシーをアベ後継がごっそりいただいて政権基盤を固め、あわよくば解散、総選挙にも打って出ようという構えだという。
アベ政権をどう評価するか。アベ後も、そのことを問い続けねばならないことになりそうだ。アベ政権っていったい何をしたんだ? あるいは、何をしようとしたんだっけ?
この点について、昨日(9月4日)の毎日朝刊解説面に、検証・安倍政権「最長政権 首相のレガシーは」という企画で、3人の若手研究者がのびのびと発言している。
https://mainichi.jp/articles/20200904/ddm/004/070/005000c
常識的には「安倍氏には、歴史教科書に残るだろうレガシーがない」(石原俊・明治学院大教授)が、いやいやそうでもなかろう、「改憲できなかったという『成果』」があるではないか」というのが田中信一郎・千葉商科大准教授の指摘。
田中信一郎説によれば、アベ政治には以下の「三つの成果」がある、という。これは貴重なレガシーではないか。
第一の「成果」は、憲法を改正できなかったことである。安倍首相は憲法改正に強い意欲を持ち、国会の状況次第では、発議が可能な議席数でもあった。それでも、憲法改正はできなかった。
安倍首相であっても憲法改正できなかったことは、憲法改正が非現実的な政治課題であることを実証した。それも憲法の基本原則「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を変更する改正が、極めて困難であることを示した。「精神の総力戦」を展開した安倍首相より有利な改憲条件の首相は、今後なかなか現れないだろう。
第二の「成果」は、国民生活を向上できなかったことである。景気拡大は71カ月続き、日経平均株価は2万円台を回復し、企業収益は過去最高を記録した。一方、2012年を100とする指数で18年を見ると、実質賃金指数は96・44に低下し、実質世帯消費動向指数は90・72に低下した。物価上昇に賃金が追いつかず、家計は苦しくなった。
指標での「景気回復」を実現しつつも国民生活を悪化させたことは、景気対策を中心とする従来の経済政策の限界を示している。いわゆる「アベノミクス」として異次元の金融緩和、100兆円財政への拡大、公正さが疑われるほどの規制緩和という、それまで別々に進められてきた経済政策を総動員した「経済の総力戦」だったにもかかわらずの結果である。
第三の「成果」は、政治・行政システムの欠陥を天下にさらしたことである。森友学園、加計学園、自衛隊日報問題、労働統計問題、桜を見る会などは、単なるスキャンダルでなく、政府高官の恣意によって、政府の権限・予算・財産が不透明・不公正に用いられるという疑惑であった。
安倍首相と政治・行政システムを巡るさまざまな問題は、システムの公正性・透明性を確保する改革が最優先課題であることを示している。今のままでは、人々を助ける政策であっても、中抜きなどの問題が横行するかもしれない。
以上の「成果」を認めず、改憲に政治的な資源を費やし、アベノミクスや亜流の経済政策を続け、政治・行政の透明化と公正化を最優先しない政治家は、現実を直視しない空想主義者である。人口減少など前例のない課題が山積する中、空想主義者に国会の議席を預け続けるのか、有権者の判断が問われている。
まったくそのとおりである。レガシーとは、決して為政者の名誉と結びつくべきものではない。国民の利益に適うものとしてとらえるべきが当然ではないか。アベは、総力をあげて改憲を実現しようとして果たせず、「改憲は不可能」という国民共通の認識を遺した。この実績こそが、国民の立場から、たいへんに貴重なレガシーなのだ。「アベノミクスを喧伝しなから国民生活を悪化させた」ことも、「政治・行政システムの欠陥を天下にさらしたこと」も、同様にアベの不名誉ではあるが、これこそ国民の立場からは立派なレガシーなのだ。
とすると、アベ退陣を機に内閣支持率を上げた20%の人々の真意は、「国民の利益のために、自らは不名誉の汚名を着てくれたアベさんありがとう」「憲法改正は不可能と実証してくれたアベさんへのご挨拶」「アベ流の経済政策や政治手法は転換しなければならないことを明らかにしたアベさんご苦労様」ということであったやも知れない。
これを読み違えると、政権の命取りでは済まず、保守政治の命取りになりそうだ。
(2020年6月23日)
1960年6月23日が、現行日米安全保障条約発効の日である。旧安保に代わる改定新安保は、文字どおりの国民的な大反対運動を押し切って成立した。全国津々浦々に満ちた「安保反対」「岸を倒せ」の声は、政権を担う者の心胆を寒からしめたが、参院での条約承認の議決できないまま、6月19日自然成立となった。そして条約発効6月23日、岸信介首相は混乱の責任をとって退陣を表明した。あれから60年である。
当時私は片田舎の高校2年生。周囲に安保反対を熱く語る人はなく、安保闘争高揚の意味はよく分からなかった。6月15日における樺美智子の死を報じる新聞紙面の興奮は覚えている。安保反対の運動が反戦平和を求めていることくらいの認識はあったが、安保条約のもつ対米従属性やその平和への危険性、あるいは条約と憲法との矛盾などへの理解はほとんどなかった。
その後、上京して進学すると、学内には安保闘争を直接に体験した上級生の、安保を知らない下級生に対する優越感らしきものを意識した。戦後ならぬ「安(保)後世代」という言葉もあった。安保闘争は偉大な大衆運動だった。続く若者たちに、政治的スローガンを掲げて街頭に出ることには何の抵抗もなく、政治文化として定着していた。
当時の学生や労働者にとって、好戦的な帝国主義アメリカと、これと結ぶ従属国日本支配層の不正義は自明のことであった。世界は、東西両陣営と両者に与しない第三世界とからなっていた。帝国主義陣営とその対抗勢力の拮抗を中心に地球は回っていた。日本は、平和国家としての国是をもっている以上、帝国主義陣営に組み入れられることを拒絶しなければならない。
国民を不幸のどん底に陥れたあの戦争を繰り返そうという輩が日本の再軍備を企てて違憲の自衛隊を育て、さらにはアメリカの手先となって自衛隊を極東の防衛に使おうとしている。これが当時の若者の常識であった。日米新安保はそのような日米の戦略の法的な根拠である。安保条約は、日本全土を米軍基地として提供する根拠となり、米軍とその指揮下にある自衛隊とが危険な軍事挑発をしょうとして、東側勢力を挑発している。
のみならず、日米新安保は、経済協力の名で、日本が経済的にアメリカに従属する体制を作り出した。政治的にも日本がアメリカの目下の同盟者になることの誓約でもあった。
多くの同世代の学生と同様、私もすんなりと、以上のように思った。1970年になれば、安保は通告することで平和裡に廃棄できる。安保を廃棄して日本を独立させることで、自主的な全方位平和外交展開の途が開けることになる。そのとき、自主防衛などという名目で日本の軍国主義を復活させてはならない。安保廃棄と並んで、自衛隊の解消ないし削減も、大きな政治課題となる。安保と自衛隊をなくして初めて日本国憲法が花開く。これが当時の常識だった。多くの学生や労働者が、シンプルにそう考えていた。だからこそ、あの国民的大闘争が展開されたのだ。
ところが、その後の事態は、予想したようには進展してこなかった。あの頃、政府がどう弁明しようとも、裁判所が何と言おうとも、安保も自衛隊も違憲が常識だった。ところが今はどうだ。安保も自衛隊もあって当然、安保と自衛隊のどこが問題なのか、いったい何が問題かという世の風潮。
60年安保闘争は戦後15年目のこと、戦争の惨禍への国民的な体験生々しい時代を背景としていた。あの時代、人々は何よりも平和を求め、再びの戦争の恐れに極めて敏感だった。そのことが、学生運動にも労働運動にも反映していた。
その後、憲法を学ぶようになって、二つの法体系論を心に刻んだ。日本国憲法体系と安保法体系の二重構造。両者は矛盾し、現実には安保法体系が日本国憲法の最高法規性を侵奪している。60年間、この構造が変わらない。
60年安保闘争時、学生運動も労働運動も力量を持っていた。運動に携わる人々だけでなく、多くの若者たちが自ずから反権力であった。その後の10年ないしは20年ほど、個人史的には私の青年時代には、そのような風潮であったと思う。未来は若者の手にあり、労働運動の発展が、世の中を変えるだろうと楽観していた。今、そうなっていないことを残念に思う。しかし、だからといって失望もしていない。社会の質が変わるには、長い時間が必要なのだ。
そして今日はもう一つ。敬愛する吉田博徳さんの99歳の誕生日である。吉田さんは、目出度く白寿を迎えた。昨日の赤旗に、60年安保当時の運動の経験を語っておられた。その年齢が(99)としてあったが、これは間違い。「年齢計算ニ関スル法律」によれば、1921年6月23日生まれの吉田さんは、昨日までは98歳。晴れて本日が99歳である。
お祝いの電話をして、すこしお話しした。すこぶるお元気である。最後に言われたのが「私はこの頃、一番大切なものは人権だと思うようになりました」という言葉。続けて「憲法がいう『個人の尊厳』ですね。国内もそうだけど、中国や北朝鮮を見ていると何とかしなければという気持ちになります」とのこと。背筋を伸ばして、肝に銘じた。