澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

アベ後継は、ご飯論法承継の「美談論法」で。

(2020年9月13日)

コロナ禍のさなか、現職総理大臣が任期途中で職を投げ出して、突然の総裁選となりました。事実上の次期総理大臣選挙です。もちろん、国民のみなさまご存じのとおり、選挙は形だけのもの。私・菅義偉の総裁当選は派閥領袖たちの談合で決まっています。この密室の密謀による密議で、私はようやく陽の当たる明るい場所に出ることになりました。これまでは陰険な印象のつきまとう執権職でしたが、ようやくにして晴れがましい将軍職へのステップ・アップ。まことに本懐とするところです。

もう決まっているなら、なぜいま面倒な選挙をしているのか。しかも、「政治に一瞬の空白も許されない今日」などと言いながら…。それは、必要な儀式だからなんですよ。いまは、ミンシュシュギの世の中。お分かりでしょう、ミンシュシュギって、頭数で決めるってことなんです。厄介なことに、この頭数を数える儀式は、密室ではできないことになっています。

ですから、私が自民党総裁としての正当性を獲得するためには、形だけでも選挙が必要なんですね。できれば、ダントツで当選したい。私・菅義偉の人望や能力には党内からも、疑いの目で見る人が多い。圧倒的に選挙に勝たなければ、人望や能力に疑問符がついたままになってしまいます。選挙に勝ったからって能力の証しにはならないだろう、なんて突っ込みはためにする議論。

選挙をする理由は、それだけではない。もちろん、この選挙では、各候補者がどんな国家ビジョンを描いているか。誰が国民のために真剣に政治を行おうとしているか。どんな政治思想や見識や政策をもっているか。国民の声を聴くよい耳を持っているか。廉潔な姿勢や誠実性があるか、外交手腕や調整能力に優れているか。そんなことは、実はまったく問題ではありません。投票の権利をもっている議員にとっては、どの候補者の陣営に擦り寄れば、どんなポストにありつくことができるか。それが、いや、それだけが問題なのです。当然のことでしょう。

負ける候補者を支持しても得るものはない。士たる者は士道に生きる。そりゃ嘘だ。どんな主君に使えるかだけが生き残る道。当たり前すぎる処世術。私・菅義偉を支持して、選挙運動に参加すれば、望みのポストに近づきます。今回はあぶれても、その次の機会には。選挙がなければどのように論功行賞をすればよいか、材料がない。選挙をすればこそ、候補者への忠誠心を量れるということになります。だから、いま、圧倒的に私への支持が増えていますね。みんなが勝ち馬に乗ろうとしているというわけです。

とは言うものの、明るみでやらざるを得ない選挙にはリスクもつきまとうのが悩みのタネ。他の候補と対等の議論の場に引っ張り出されると、私の地金を隠しきれなくなってしまう。無能・無才・無知・無学・無教養・無見識・無定見の馬脚が表れてしまう。とりわけ、私には討論の能力がない。昨日(9月12日)の日本記者クラブ主催の3候補「討論会」を報じるメディアの評も厳しい。たとえば、毎日新聞。揶揄されているようでもあって不愉快だけれど、そのとおりだから反論のしようもない。

 岸田氏は菅氏に「社会保障の持続可能性をどう維持するのか」と質問したが、菅氏は幼児教育の無償化や雇用創出など安倍政権の実績を強調しただけで正面から答えなかった。ここは菅氏の「説明能力不足」を指摘するチャンスだったのに、岸田氏は何も言及しなかった。石破氏は新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正の必要性について明確に答えない菅氏に対し、「私が尋ねたことにお答えをいただきたかった」とクギを刺した。この「正面から説明しない」姿勢は、石破氏が争点化する安倍政権の負の側面と重なるので、もっと指摘してもよかったはずだ。

 一方、菅氏は相手が話している時に下ばかり向いている姿が目立った。応答要領の資料をめくりながら次に発言する内容を確認していたのだと思うが、相手の発言をメモすることもほとんどなく、「討論」とはほど遠い姿勢だった。

 象徴的だったのは、安倍政権の「負の遺産」が話題になった場面。森友学園問題をめぐって、朝日新聞の坪井ゆづる氏が再調査の必要性を尋ねると、財務省が内部調査をしたことなどを挙げて「結果は出ている」と従来の政府見解を繰り返した。財務省による身内の調査だと指摘されても「いま申し上げた通りだ」と答えるのみだった。

 どうひいき目に見ても、私は、他の候補者に較べれば能力の面において見劣りがしますよ。そりゃそうだ。そのことを天下にさらけ出してしまった。でもね、私は安倍さんを見ているからね。あれでも総理は務まるんだから、私だってね。総裁選で当選してしまえば、こっちのものだと思っていますよ。

安倍さんも、きちんとした論戦のできる人ではなかった。でも、彼独特の「ご飯論法」で乗り切りましたね。あれは、安倍さんが意識的に編み出した、「論争手法」ではなく、追い詰められ、逃げ回って、苦し紛れにああなったというだけの話です。それが身について、とにもかくにも逃げおおせた。

私は、もっと意識的に、「美談論法」というものを採用したい。下記は、週刊文春最近号「菅義偉『美談の裏側』集団就職はフェイクだった」の一節。私の例の、「秋田の貧しい農家から、集団就職で上京して…」という叩き上げ苦労人の『美談』について。

 「集団就職というのは、学校の先生に引率されて上京し、就職先を回って働き口を見つける、というもの。ところが、義偉君は一人で上京している。『集団就職で上京した』という記事を読むたび、どうしてこうなったのか、と不思議なんです」
 菅氏の親戚の一人も「間違ったイメージが広がっていることに懸念を抱いていた」と漏らす。「ある時、義偉さんに言ったんです。そしたら本人も『集団就職したことになっているけど……』と認めていました。ただ、『本当に集団就職した人たちもいる。わざわざ、訂正してそういう人たちを傷つける必要はない。そう思われているなら、それでもいい』と」
 つまり、菅氏は、自身が「集団就職」だということが「誤解」だとはっきり認識していながら、あえて訂正せずにいたのだ。

だってそうでしょ。敢えて美談を否定することはない。みんな美談が好きなんだから、あえて訂正する必要はない。私が積極的に嘘を言ったわけではない。安倍さんの「ご飯論法」での「ご飯は食べていない」という答弁は、パンを食べていたとしても、決して嘘を言っているわけじゃない。

私も、安倍後継を以て任じる以上は、できるだけ側近の官僚たちも「居抜き」で、「忖度文化」も、ウソとゴマカシのアベ政治も大事に受け継ぎたい。あとで弁解出来ない極端なウソはできるだけ控えるようにはしますが、都合のよい誤解を敢えて訂正するような愚かなことはしませんね。ご飯論法を私なりに受け継いで、美談のイメージを大切にする「美談論法」で、国会を乗り切りますよ。

えっ? できるかって? 私は安倍さんを見ていますからね。あの、安倍さんだってできたんですよ。大丈夫。ご安心ください。

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Published in 日曜日, 9月 13th, 2020, at 19:43, and filed under 未分類.

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