2012年12月16日総選挙で、安倍晋三政権が誕生してから1年と2か月。この政権は、従来の保守政権とは明らかに様相を異にする。旧来の保守本流に位置していた人たちからも、その極端な危うさを指摘する声が高い。
いま、安倍政権が、比較的高い支持率で「安泰」なのは、アベノミクス効果と喧伝される経済政策によるものである。しかし、そのメッキも剥がれ始めたとする、説得力のある論説が目につくようになってきた。
アベノミクス崩壊以前に、被告人安倍晋三の大罪を俯瞰しておきたい。一応、「12の大罪・7つの被害」としてみた。別の視点もあるだろうし、見落としもあろう。それでも、安倍政権、いつまでも続けさせておくわけにはいかない。
第1の罪 明文改憲の罪
明文改憲によって、国防軍創設・天皇元首化・基本的人権の抑え込みをたくらむほか、96条先行改憲論に象徴される立憲主義への飽くなき攻撃こそ最大の罪。
第2の罪 解釈改憲の罪
集団的自衛権行使容認の強行や武器輸出解禁の姿勢に表れているとおり、改憲手続きを迂回して憲法の理念を実質的に破壊する罪は重い。
第3の罪 特定秘密保護法制定の罪
国民の知る権利を奪って民主主義の基盤を破壊するだけでなく、立法にも司法にも、秘密保護の枷をはめて三権分立を形骸化する大きな罪だ。
第4の罪 靖国神社参拝の罪
国家神道否定のための政教分離原則を蹂躙して軍国神社に額ずくことは、戦後の国際秩序への挑戦としても、罪は限りなく深い。
第5の罪 教育破壊の罪
教育基本法改悪の前科に続いての再犯。政治や行政から独立していなければならない教育を、権力の下僕にしてしまおうという執念の教育委員会制度改革の罪。
第6の罪 NHKともだち人事の罪
自らの分身をNHKに送り込み、公共放送を意のままに乗っ取ろうという、天の許さざる露骨な悪事。
第7の罪 原発再稼動と輸出の罪
3・11で顕在化した恐怖、利権構造、政策決定過程の密室性は、脱原発の澎湃たる天の声を呼び起こした。再稼動と輸出とは、人類の未来に対する大罪である。
第8の罪 労働法制改悪の罪
限りなく大企業・財界の思惑を偏重した労働法制は、限りなく労働者の貧困化を招くばかり。不安定雇傭の創出は、日本社会を暗黒化する重罪である。
第9の罪 福祉切り捨ての罪
すべての人に対する人としての生活の保障こそが、国家と政治の存在理由である。容赦なく福祉を削ることは政治の基本と人倫に背く罪である。
第10の罪 TPP交渉参加の罪
農業や漁業を潰し、外国企業のために消費者利益も、国民の裁判を受ける権利すらも売り渡そうとする交渉に、公約に反して参加した罪は深い。
第11の罪 消費税増税の罪
大企業と金持ちに大幅な減税、庶民には大幅増税。税制がもつ富の再分配機能を否定して逆進性顕著な消費増税の強行には怨嗟の声が世に満ちる。
第12の罪 辺野古新基地建設強行の罪
沖縄県民の立ち場でアメリカと交渉するのではなく、アメリカの立ち場で沖縄に基地を押し付け、新たな基地被害をつくり出す重罪。
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安倍晋三による国民の7つの被害
※危うくされたものは平和
近隣諸国を敵視し国民を煽って緊張を高め、それを口実に軍備を増強をたくらむ。安倍政権が続く限り、平和が危うい。
※傷つけられたものは歴史の真実
侵略戦争と植民地支配に対する反省を欠き、破廉恥な歴史の修正を厭わない。その結果、歴史の真実が傷つけられている。
※奪われたものは民主主義
特定秘密保護法案の審議過程で明らかになったものは、国民の知る権利にだけでなく、民主主義そのものに対する敵視の姿勢。いま、民主主義が奪われている。
※損なわれたものは国際的信用
原発の放射線被害は、「コントロール下にあり、ブロックされている」と平気で嘘をついた。靖国神社参拝も歴史修正主義も国際的な信用を損なっている。
※痛めつけられたものは国民の生活
消費増税・福祉切り捨て・労働者の切り捨ては、国民生活を痛めつけ格差と貧困を拡大している。
※害されるものは国内の産業
TPP交渉で、獲得しようとしているのは工業製品の売り込み先。切り捨てようとしているのが、農漁業と消費者利益。
※断ち切られたものは日本の未来
「教育再生」の名による教育の破壊は、洋々たる青少年の未来を、戦争の危険と貧困格差そして不安な社会という絶望に変える。
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.htmlに送信書式
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年2月26日)
1945年8月6日。世界で初めて核爆弾が人の住む街で爆発し、一瞬にして10万余の人を殺した。人類史はこの日を永遠に忘れることができない。この日、人類は、自殺の能力を自らのものとしたことを自覚したのだ。
さらに、1954年3月1日。ヒロシマ型ウラン爆弾の1000倍の破壊力をもつ水素爆弾が南太平洋ビキニ環礁で爆発した。その近くでマグロ漁に従事していた第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴びて被曝し、そのうちの一人、無線長だった久保山愛吉さんがその半年後の9月23日に亡くなった。この3月1日も、けっして忘れてはならない。人類は何千回も自殺できる。爆発だけでなく、放射能汚染でも滅亡しうるのだ。
その日から、今週の土曜日3月1日でちょうど60年。当時、私は小学4年生だった。第五福竜丸母港の焼津にほど近い清水市内に住んでいた。ガイガー計数管の測定で放射能に汚染された「原爆マグロ」は廃棄された。放射能の雨にあたらぬように注意され、たいへん不安な思いをしたことを憶えている。
我が国の国民的な原水爆禁止運動は、広島・長崎の被爆直後から起こったものではない。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって日本漁船の乗組員が被曝した、この事件をきっかけに始まり、大きく盛りあがった。このときに、核爆発の破壊力への恐怖ばかりではなく、放射線への恐怖が多くの人の意識の底に沈潜した。それが今、反原発運動の原点となっている。
1954年のうちに、東宝が「ゴジラ」をつくって、空前の大当たりとなった。国民の反原水爆感情へのフィットがあったからだろう。また、5年後の1959年には、新藤兼人が『第五福竜丸』という映画をつくっている。久保山愛吉役を宇野重吉が演じて、作品の評価は高かった。
公益財団法人第五福竜丸平和協会は、被曝60周年を迎えるに際して、次のようにメッセージを発している。
「第五福竜丸。皆さんはこの船の名をご存知ですか?
60年前の3月1日、太平洋ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で吹き上げられた「死の灰」により、第五福竜丸乗組員やマーシャル諸島の人々が被ばくし、さらに多数の船舶に被害を与え、広範な海洋・大気が放射能で汚染されました。
ビキニ水爆被災事件は、原水爆の脅威と地球規模の環境破壊の危険を明らかにしました。それから60年を迎えるいま、私たちは福島第一原子力発電所事故がもたらした危険にも直面しています。
ビキニ事件を機に人びとは、広島・長崎の被爆体験にも根ざした原水爆反対の世論と国民的運動を大きく高揚させ、それは世界へとひろがり国際的な潮流となりました。「ラッセル=アインシュタイン宣言」に示された警告にこたえ、戦争も兵器もない世界を作り出す努力がさまざまな形でつづけられてきましたが、人類はいまだに核の脅威から解き放たれてはいません。
ビキニ水爆被災から60年。この事件が問いかける意義を今日に活かし、核による惨禍とその非人道性・違法性に対する理解をいっそう深め、放射能被害の課題と向き合い、明日への希望につなげることを切に願うものです。
『知らない人には、心から伝えよう。忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう』。船を残そうとの呼びかけが多くの人びとを動かしました。それは、核なき未来を希求する合言葉です。私たちの希望がかなうその日まで……第五福竜丸は航海をつづけます。」
私は、同公益財団法人の監事を務めている。皆様に、協会が行う「60年記念プロジェクト」へのご賛同とご協力をお願いしたい。
<3・1ビキニ 第五福竜丸60記念のつどい>
日時:2014年3月1日(土)
午後2時開演(開場1時30分、終演4時30分)
会場:日本青年館・中ホール
入場料:2000円(学生1000円、中学生以下無料)
■記念コンサート「第五福竜丸の記憶のために」
作曲家・ピアニスト 三宅榛名さん…「第五福竜丸の記憶のために」と題された自作の新曲演奏。
■記念講演会「宇宙的視点から考える?ヒトと地球と空と核」
天文学者 池内了さん…水爆実験による放射線被ばくにピリオドを打つべく人びとは声を上げる。核なき明日への希望を…宇宙的視野から考える。
◇チケットのお申込みは第五福竜丸平和協会まで。
電話03?3521?8494、メールでもOK。
http://d5f.org/kinkyou.htm#1391757264_19682
お誘い合わせて、ご来場ください。
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合 〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.htmlに送信書式
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年2月24日)
東京に、いまだ残雪。しかし、季節は確かな「光りの春」。湯島から上野の界隈には、梅やマンサクが咲き、カンザクラまで開いていた。不忍池周辺では柳が芽を吹き、春はもうすぐの風情。
日曜の午後。作品撤去要請問題で話題となった、「現代日本彫刻作家展」を観ようと、東京都美術館に足を運んだ。しかし、展示期間は一昨日(2月21日)で終了していた。残念。
東京新聞の1月19日朝刊報道によれば、事件の顛末は以下のとおり。
『東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めていたことが分かった。作家は手直しに応じざるを得ず「表現の自由を侵す行為で、民主主義の危機だ」と強く反発している。
撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70歳)の作品「時代(とき)の肖像?絶滅危惧種」。…特定秘密保護法の新聞の切り抜きや、「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙を貼り付けた。代表を務める「現代日本彫刻作家連盟」の定期展として15日、都美術館地下のギャラリーに展示した。
美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌16日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。中垣さんが自筆の紙を取り外したため、会期が終わる21日までの会場使用は認めたが、観客からの苦情があれば撤去を求める方針という。
小室副館長は取材に「こういう考えを美術館として認めるのか、とクレームがつくことが心配だった」と話す。定期展は今回で7回目だが、来年以降、内容によっては使用許可を出さないことも検討するという。』
美術や芸術を一面的に定義づけて、政治や宗教と切り離そうとすることに無理がある。政治も宗教も、そして芸術も、人間の存在の根源と深く関わるが故に、相互に分かちがたく結びつき切り離しがたい。作家の個性こそが美術や芸術の本質なのだから、行政が個々の作品について「政治的」「宗教的」とレッテルを貼ることは、それ自体が作家の表現活動への不当な制約となろう。ましてや、それ故に展示を拒否することは、公権力の違法な行使とならざるをえない。
古来、平和を願い戦争を憎む芸術は、明らかに政治的メッセージ性を有するが、同時に人間存在の根源と結びつくものとして、その芸術性を疑うものはない。たとえば「ゲルニカ」や「原爆の図」は、作者の反戦の政治的メッセージと芸術的個性とが融合したものとして受け容れられている。「政治的であるが故に非芸術」などという愚かな批判はない。
現代の日本社会に生きる作家の個性が、時代の危険な空気を敏感に察知して、自分の作品に平和の危機を象徴するメッセージを書き付けることがあっても、事情はまったく同様である。行政が、「政治的であるが故に非芸術」などと言ってはならない。「政治的」というレッテルを張ることこそ、真の意味で「極めて政治的」な行為なのだ。
また、「靖国神社参拝の愚」「憲法九条を守り」「現政権の右傾化を阻止」などのメッセージが、「特定の政党を支持、または反対する場合」に該当する訳がない。
東京新聞の取材のとおり、美術館側の本音は、「クレームがつくことが心配だった」ということにある。これが時代の空気であり、皮肉なことに、作品の撤去を求められた作家の感覚の的確さを裏付けるものとなった。
しかし、行政は、「クレームがつくことが心配だった。だから作品の撤去を求める」と言ってはならない。「クレームがつくことが心配だった。だから万全の配慮で作品を守る措置を講じる」と言わねばならなかった。
教員組合や労働組合が主催する集会に関して、各地の地方公共団体が右翼の襲撃等のおそれがあるとして会場の使用不許可処分を行うことがある。自治体が組合を嫌悪しているわけではない。「クレームがつくことが心配」だというのだ。しかし、最高裁は、これらの処分を原則違法としている。行政には、実力で言論を封じようという右翼の襲撃から集会を防御して、憲法21条の表現の自由を擁護すべき責任があるのだ。
その典型判例が、上尾市福祉会館使用許可事件最高裁判決(1996年3月15日)。最高裁はこう言っている。
「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。」
当該の作品展示に対して、右翼的心情をもつ来館者からクレームがつく「多少の不安」が生ずることは予想されるところ。これが、作品撤去の口実に使われてはならないことは、いうまでもない。是非とも、東京都美術館にも、そのような気概を堅持していただきたい。
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上野公園花便り
なかなか最高気温が10度に届かない。まだまだ寒い。雪も融けずにあちこちに残っている。
けれども、公園には子どもたちの声がはじけている。日が長くなって、春はもうすぐだ。「不忍池」のまわりのシダレヤナギの木が全体に黄緑色になってけむってきた。枝を手元に引き寄せて、仔細に眺めてみれば、ふしふしに若芽が膨らんでいる。春を運ぶ樹液が枝枝のすみずみまで行き渡るトクトクという音が聞こえるようだ。
紅梅も白梅もちょうどいい五分咲きだ。メジロが花粉にまみれて、枝から枝へと遊び回っている。おや、「上野動物園の入り口」あたりに、桜も咲いている。薄いピンクの五弁のカンザクラだ。
「五条神社」の境内にはフクジュソウの花が太陽のようにキラキラ咲いている。クリスマスローズの花も咲いた。梅もほどよく香っている。「清水寺の舞台」の下にはマンサクの黄色い花も満開だ。クラッカーがはじけたように、細長い花弁が外に向かって飛び出している。春になると「マンズサク」花で、雪国の人が待ち望んでいる気持ちがよく分かる。
「湯島天神」の梅は何だか精彩がない。まだ蕾が多くて五分咲きで、まさに見頃だが、梅の花より人が多い。受験シーズンのかき入れ時。いたるところ合格祈願、合格御礼の絵馬が山のようにぶら下がっている。さすが梅の木にではなく所定の場所に。昔は梅の枝にビッシリとオミクジが結びつけられていたが、今はオミクジは売られていない。あまりの人混みで、梅の香りはしなくて、たこ焼きの臭いが充満している。ここ湯島天神の春は受験の悲喜こもごもの思いと混ざり合ってやってくる。
(2014年2月23日)
悪名高い都教委の10・23通達。その通達に基づいた、教員への「日の丸・君が代」強制はまだ終わりを見ない。既に処分件数は457件だが、まだまだ続きそう。そして、この強権行政に対する闘いも終わらない。
本日は、東京都人事委員会での口頭公開審理。2010年?12年に処分されて人事委員会に審査請求している教員のうち8人が意見陳述を行った。それぞれが極めて個性豊かに、「日の丸・君が代」の強制に服することができない理由を語った。教育者としての信念や真摯さが、痛いほどに伝わってくる。とりわけ、障がい児教育、定時制あるいは「荒れた」生徒に向かいあう教師たちの陳述が胸を打つ。
また、異口同音に語られたのは、10・23通達後10年の教育の荒廃である。校長も教員も、教育を語らなくなった。ただただ、上命下服の行政だけが語られている。卒業式の主人公は生徒ではなくなった。その座は「日の丸・君が代」が象徴する国家に取って代わられている。都教委の監視下に、管理職はなによりも「日の丸・君が代」強制の貫徹を最重要の課題としている。不服従の教員には、徹底した嫌がらせが行われる。「もはや都教委が行政としての正常な感覚を失い、民間でいうところの『ブラック企業』に身を落としている」とまで言われた。
そして幾人もが、改憲と教育破壊を志向する、安倍政権の動向を憂れえた。「再び教え子を戦争に送ってはならない。それが自分の教員としての出発点だった。今こそ、初心に返って、子どもの将来を守るために、この危険な動向と対峙しなければならない」と決意が語られた。みんなが、他の人では語れない自分の言葉で語った。
さらに、教育行政による教育への露骨な支配・介入が語られた。ある教員の陳述書には、「話し合おうとしない人たちへ」というタイトルが付されていた。「話し合おうとしない人たち」とは東京都教育委員のことである。「話し合うということは、とりわけ教育の世界では大切なこと。話し合うことのできる人間を育てることが教育のおおきな目標と言ってもよい。話し合うことが、争い解決の唯一の手段なのですから」という立ち場からの問題提起。
「学校では、たとえ生徒の稚拙な論理であってもじっと耳を傾け、一緒に考え、理解しあう努力をしなければなりません。一方的な強制は、生徒の人間としての成長には良い影響をもたらしません。かつての教育現場は、卒業式に限らず学校行事の企画・運営については教職員の間で実にさまざまな意見が出され、充実した話し合いがなされてきました」
「ところが、10・23通達以来の10年間、学校現場では、職員会議での賛否を問うことすら禁止され、ひたすら上意下達の徹底が図られ、話し合うということが無くなりました。話し合いに代わるものが、教育の世界にあるまじき問答無用の命令と服従なのです」
「10・23通達とは、現場での話し合いを拒否して、問答無用で行政が教育に介入しようというもの。まさしく教育基本法のいう「不当な支配」そのものです。教育に携わる者が権力に支配されてはならない。権力をもつ者が直接的に教育を支配することの危険性は、歴史からいやというほど学んだではありませんか」
「正しいことでも間達った内容でも、権力が教育に介入することは絶対に避けなければならないことです。まして、10・23通達のように、独断にもとづき、話し合いすら否定するものは、現代の社会においては認めてはなりません」
また、石原慎太郎やその後継をもって任じた猪瀬直樹の罪の深さに触れつつ、こんな陳述もなされた。
「新しい都知事を迎えて、教育委員会は今までどおりの教育行政を惰性的に継続するのでしょうか。人事委員会は私たちへの処分をこのまま認めるのでしょうか。誤りを糺すよい機会ではありませんか」
舛添要一新都知事についての教育現場からの評価は、まだ定まっていない。少なくも、石原のような極右ではなさそうだ。猪瀬のように石原都政に縛られる立ち場でもない。教育の自由や、教育行政の謙抑性や、公権力がイデオロギーを持ってはならない、という常識くらいは弁えていよう。市民的な思想・良心の自由尊重の姿勢も、石原・安倍よりは、ずっとマシなのではないか。もしかしたら、「ブラック官庁・都教委」の変身のチャンスなのかも知れない。
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ラン(藍)藻が作るバイオプラスチック
プラスチックを作る藻があるなんて、植物好きには見逃せない。2月20日の毎日は、理化学研究所(理研)が、ラン藻の遺伝子を改変して、従来の10倍も効率のよいバイオマスプラスチック生産に成功したと報じた。
「ラン藻」とは植物ではないらしい。藍色っぽい緑色をしたバクテリアで、植物のように、葉緑体が光と二酸化炭素から酸素を発生して光合成を行う。もとは植物の藻類に分類されていたので、名前に藻がつく。単細胞生物は植物であるか動物であるかの区別が難しい。
日本では1960年代頃からプラスチック製品が日用品として使われるようになり、今では身近にあふれかえっている。塩ビ製の雨樋、水道管、ペットボトル、ポリエチレン製の袋、家電製品やコンピューターの外枠など。大変便利なものだが、大きな問題を抱えてもいる。これらプラスチック製品は有限な石油から作られる。また、腐敗しないので廃棄が難しい。
そこで追及されたのが、石油ではなく生物から合成される「バイオマスプラスチック」や自然に分解される「生分解性プラスチック」だ。ところが、強度や耐熱、耐久性が低い。加工が難しい。原料(生ゴミ、稲わら、海藻、サトウキビ、トウモロコシなど)が高価だ。ポリマー化が難しい。これらが原因となって、石油からできるプラスチックに較べると価格が3?5倍になり、太刀打ちができない。
そこに登場したのが、バイオマスプラスチックの原料となるポリヒドロキシ酪酸(PHB)である。「ラン藻」が光とCO?を使ってPHBを光合成してくれる。そうなればCO?が削減できる。自然に腐って水と有機物になるので、廃棄物処理も容易である。ダイオキシンの発生もない。頭の痛い地球規模の環境問題の一端が解決できる。
今回の理研の発表によれば、この「ラン藻」培養には、栄養もわずかの酢酸だけでよく、「『ラン藻』の乾燥重量の14パーセントに相当する量のプラスチックを合成した」(2月20日毎日)という。今話題のSTAP細胞にも酢が使われている。理研の研究成果には酢が付きもののようだ。
小さな記事だが、ワクワクする報道ではないか。この際、日本は原発につぎ込む助成金などやめて、国を挙げて「ラン藻」研究をしてみてはどうだろう。サステナビリティは「ラン藻」から。原発に代えて、ラン藻プラスチックとその技術を世界中へ輸出すのだ。そうすれば、「自国の繁栄のために地球を破滅に導いた国」との汚名から逃れることができる。いやむしろ、「破滅から地球を救った国」として人類史に名を残せる…かも知れない。
(2014年2月21日)
今日、2月20日は小林多喜二の命日。命日という言葉は穏やかに過ぎる。天皇制の手先である思想警察によって虐殺された日である。1933年の今日、多喜二は、スパイの手引きで特高警察に街頭で格闘の末に身体を拘束され、拉致された築地警察署内で、その日のうちに拷問によって虐殺された。
スパイの名は三船留吉。多喜二殺害の責任者は特高警察部長安倍源基。その手を虐殺の血で染めたのは、特高課長毛利基、特高係長中川成夫、警部山県為三らである。多喜二は満29歳と4か月であった。
以下は赤旗の記事『戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。』
共産党員であること自体を犯罪としたのは、悪名高い治安維持法である。治安維持法が、どのように思想弾圧に猛威を振るったか。以下は、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の対政府請願要旨の抜粋である。
『戦前、天皇制政治の下で主権在民を唱え、侵略戦争に反対したために、治安維持法で弾圧され、多くの国民が犠牲を被った。治安維持法が制定された1925年から廃止されるまでの20年間に、逮捕者数十万人、送検された人7万5681人、虐殺された人90人、拷問、虐待などによる獄死1600人余、実刑5162人に上っている。戦後、治安維持法は、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、政治的自由の弾圧と人道に反する悪法として廃止されたが、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。ドイツでは連邦補償法で、ナチスの犠牲者に謝罪し賠償している。イタリアでも、国家賠償法で反ファシスト政治犯に終身年金を支給している。アメリカやカナダでも、第二次世界大戦中、強制収容した日系市民に対し、1988年に市民的自由法を制定し約2万ドルないし2万1000ドルを支払い、大統領や政府が謝罪している。韓国では、治安維持法犠牲者を愛国者として表彰し、犠牲者に年金を支給している。』
よく知られているとおり、1925年治安維持法第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」というもの。
天皇制打倒、資本主義否定という「悪い思想」で結社をつくってはならないという弾圧法規。これが後に「改正」されて、最高刑は死刑となる。のみならず、「結社の目的遂行の為にする行為」までが処罰されるようになって猛威を振るった。党の活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、共産党員に少しでも関わればしょっぴかれるという、現実的な危険が生じたのだ。共産党員と親しいと思われることは恐いこと。触らぬ神に祟りなし。共産党には近づかないに限る。こういう庶民の「知恵」が、「お上に逆らう共産党は恐い」と固まっていく。宗教者や自由主義者も、そして反戦の思想も、民主主義も弾圧の対象とされた。多喜二虐殺はその象徴。
昨年の秋、築地署を見てきた。その裏門近くには、多喜二の死亡診断書を書いた前田医院が残っていた。そして、今日は「多喜二祭」に足を運んだ。メインの講演は、ノーマ・フィールドさん。多喜二の活動から、今の世を照射して、オプティミズムを語ろうというお話だったが、全体の骨格が良く見えてこなかった。
今、多喜二と治安維持法を語るには、自民党改憲草案に触れざるをえない。
自民党案は、表現の自由を保障した、21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。」に次の第2項を付け加えようという。
「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
これは、恐るべき暴挙だ。「公益及び公の秩序」に何を盛り込むか次第で、現代に治安維持法をよみがえらせることが可能となる。
さらに、拷問の禁止に触れた現行の第36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」となっている。自民党改憲草案は、この「絶対に」の3文字を取ってしまおうというのだ。
36条を起案した人の脳裏には、多喜二虐殺のことがあったに違いない。「絶対に」の3文字に力が込められている。自民党案は、今わざわざ、「絶対に」を抜いてしまおうというのだ。多喜二の命日に、虐殺された多喜二に代わって叫ぼう。そんなことは許さない。絶対に。
(2014年2月20日)
昨年暮れの特定秘密保護法案審議の最終盤では、「こんなにも広範囲の秘密・秘密では、国民の目の届かないところで行政が暴走しかねないではないか」という批判が巻き起こった。この批判をかわすために、安倍政権は「チェック機関創設の大盤振る舞い」をした。まずは、「保全監視委員会」「独立公文書管理監」「情報保全観察室」(いずれも仮称)なるものだったが、さっぱり何をするのか分からない。しかも、そのいずれもが行政内部の機関であって、ムジナにタヌキの監視をさせるようなもの。その評判の悪さに、安倍が最後の切り札として「第三者機関をつくる」と言いだしたのが、参院での採決強行の前日、12月5日。こうして、行政の外の第三者機関としての「情報保全諮問会議」が発足した。
出自からしてまことに怪しい組織。国民的に盛りあがった秘密法批判をかわすための「イチジクの葉」であることは歴然。成立した特定秘密保護法に、民主的な化粧のひとはけを施す茶番劇の小劇場という趣である。
諮問会議は、法の適正な運用のため内閣総理大臣に対し意見を述べることが役割で、会議のメンバーは下記の7名。
宇賀克也・東京大学大学院教授
塩入みほも・駒澤大学准教授
清水勉・日本弁護士連合会情報問題対策委員
住田裕子・弁護士
(主査)永野秀雄・法政大学教授
南場智子・株式会社ディー・エヌ・エー取締役
(座長)渡辺恒雄・読売新聞
渡辺恒雄が座長なのだから、この会議がどう動くことになるかは推して知るべし。
ただ、日弁連から清水勉弁護士が加わっているのが目を引く。彼は、特定秘密保護法の成立に最も鋭く反対した一人。それでも敢えて、この茶番に付き合おうという。私は、その意気を買いたいと思う。
特定秘密保護法は、「運用宜しきを得る」ことでなんとかなるしろものではあるまい。細部の修正ではなく、法の廃止を求めるのが筋だ。おそらく彼もそう思っているだろう。それでもなお、内部から批判を貫こうとしている。
会議参加への批判は、二つのレベルで考えられる。まずは、どうせ密室での個人の発言が会議の進行や政策に影響を与えることになろうはずはない。だから、発言しても無駄。また、仮に発言が外部に公開されたとしても、どうせ徹底批判意見は7分の1でしかない。結局は諮問会議全体の意見は翼賛的な見解にまとめられてしまうだろう。その結果、実質的には日弁連代表も加わって、特定秘密保護法の運用が定着した、という安倍政権の形づくりの思惑に手を貸すだけではないか。
その批判を意識して、本日の毎日「そこが聞きたい」欄で、清水さんが記者の質問に答えている。
−−諮問会議は「会議として」首相に意見を述べることになっています。反対派が1人では、多数派に取り込まれるだけではありませんか。
「そうはならないでしょう。秘密保護法18条には『首相は(秘密指定などの)基準を定めるときは、識見を有する者の意見を聴いたうえで案を作成する』とあります。『識見を有する者』という個人の立場で意見を言えるから参加しました。問題意識や専門性の高い人が、情報の適正管理という観点から公的な場で言った意見を踏まえ、法律が運用されていくのが正しい筋道だと思います。」
「この7人で何か具体的な議論をして決めるとは思いません。自分の分かっていること、見えていることに問題意識を持って発言することが一人一人に求められています。」
−−反対派である自身の役割は。
「賛成、反対ではなく、経過をなるべく公表公開する必要があると思っています。議事録には発言者の氏名を入れることになりました。意味のある発言を公的な場で記録することが重要です。後からでも意見が生きればよいと思います。基準案作りに向け、資料をなるべく多く見せてもらい、考え抜いて意見をまとめたいと思っています。」
つまり、7人の見解をまとめた合意形成は予定されていない。しかも、密室の会議ではない。発言内容は、国民に届くはず。という彼の読みなのだ。外は外で、法の廃止を求めた運動をつくっていけばよい。彼は彼で、諮問会議の中で頑張ろうというのだ。もちろん、会議の中で「法の廃止」などと言えるわけはない。法の実施を前提としたものになるのは当然として、どのような法の運用になるかの幅は極めて大きい。大いに期待したい。
ところで、せっかく作成された議事録。是非目を通してみよう。
まずは、官邸のホームページで、第1回会議の議事次第、配布資料と議事要旨が入手できる。URLは、以下のとおり。
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/jyouhouhozen/index.html
ところが、議事録はホームページ掲載とはならない。第1回会議(本年1月17日)の議事録は、メディア各社が情報公開請求をしていたがなかなか開示されず、これが批判の対象となっていた。ようやく、2月12日に公開があって各社が入手したようだ。1時間余の会議の記録で全文14頁。さっそく読みたいと思ったが、どのメディアも全文掲載をしていない。探したら、福島瑞穂議員のホームページで読める。そのURLは、以下のとおり。
http://satta158.web.fc2.com/docs/140212-minutes-of-security-law-council.pdf
安倍晋三が、2度にわたってかなり長い発言をしている。また、渡辺座長の、自分の立ち場をよく心得たという発言もある。そして、清水弁護士はブレない発言を貫いているという印象。私は、彼を応援する。
そしてなにより大切なのは、第2回以後も、情報保全諮問会議議事録の公開を堅持させることだ。この点は、みんなで声を揃えよう。
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接ぎ木ロボット
実の成る野菜を作るには、今は「接ぎ木苗」を使う。種をまいて、立派な実物(みもの)を収穫するのはなかなか難しい。素人の家庭菜園だけでなく栽培農家も「接ぎ木苗」を植える時代らしい。そうでなければ栽培農家でも、八百屋さんに並んでいるような、大きくて色つやがよく、味のよい商品価値のある実物は作れない。その結果、「接ぎ木苗」は主要5品種(キュウリ、スイカ、メロン、ナス、トマト)で年間6億本も生産されている。
いったい「接ぎ木苗」とは何か。味や収量、見栄えを求めて、野菜は続々と品種改良されている。しかし、この優良品種は概して病害に弱い。味がよくて、そのうえ病気に強いものが求められる。その難問を解決するのが「接ぎ木苗」なのだ。
植物は昔から、挿し木や接ぎ木で殖やされてきた。土壌病害に強い根っこをもった「台木」に、弱いけれどおいしい実の成る「穂木」を接ぎ木したらと試行錯誤された。芽生えて間もない苗を使って、適切にカットした両者を接着しておけば、2週間もしないうちにカット面が活着して1本の苗になる。
スイカの台木にはカンピョウ(ユウガオ)を使う。キュウリやメロンにはカボチャを、ナスにはアカナスが台木となる。味のよいトマトには根の強いトマトが台木として使われる。
素人はカボチャ味のキュウリやメロンができはしないかと心配になるが、そんなことはない。しかし、「ナスの木にトマトのような赤い実が成った」「キュウリやスイカを作ったらカボチャが成った」ということは間々あるという。穂木が衰えて、勢いの強い台木のほうが育って実を結んだのだ。
以前各農家は、自分の畑に植える「接ぎ木苗」を自分で作っていた。しかしこのごろは、お好みのものを農協やホームセンターで手に入れる。家庭菜園の主も少々高価だがワクワクしながら、珍しい品種にチャレンジする。たいてい八百屋で入手した方が安上がりな結果になるけれど、愚かにも、園芸店に苗が並ぶと今年こそはと苗に手が伸びてしまう。
日経の記事(2014/02/13)によると、この膨大な6億本にものぼる「接ぎ木苗」を作っているのは、実はロボットなのだ。1本の腕がトレイに並べられた「実生苗?」の上部をカットして捨てる。もう1本の腕は別のトレイに並べられた別の品種の「実生苗?」をカットして、カットした上の部分を根のついた「実生苗?」のところへもっていき、パイプでとめる。人間は「実生苗?」と「実生苗?」を間違えないようにセットするだけでいい。もし人間がそのセットを間違えると、キュウリが成らずにカボチャが成ることになる。
人間なら1時間あたり200本のところを、ロボットは1000本の苗を作る。今までこの種苗会社は、苗生産の時期(2?5月)には200人の臨時パートを時給900円で雇っていた。このロボット購入に1億円かかったが、今まで行っていた人間の採用、教育、労務管理が大幅に省けるので充分ペイすると社長は満足げに語っている。
仕事のなくなったパートさんがロボットを作る仕事に就けるなら、まだいい。しかし、このロボットを作る会社はオランダの企業だという。こうして大量生産された「接ぎ木苗」に成るキュウリは誰が買うことになるのだろう。収入のなくなったパートさんには買えない。コスト削減のための接ぎ木ロボットは、人を幸せにするだろうか。住みやすい社会をつくるだろうか。結局は貧富の差を産み出すだけになってしまわないか。かつてのラッダイト運動とおなじように、ロボットを壊したくなる人がきっと出てくるに違いない。
(2014年2月19日)
下り急勾配の機関車の喩えは、立憲主義の権力制約の側面に重きをおいた説明。機関車が権力だが、この機関車には急勾配や急カーブでは、危険な暴走によってレールを踏みはずすことのないよう、あらかじめブレーキを掛ける仕組みとなっている。そのような仕組みの機関車と軌道とは主権者人民が造る。その機関車暴走予防システムの設計思想が立憲主義ということになる。
オデュッセウスとセイレーンの説話は憲法の硬性原理に重きをおいた説明。主権者の意思も、時に激情によって過つことがある。そのような誤りのおそれあることを見据えて、十分に理性的なときに、自分をも縛っておく知恵が立憲主義。現在の主権者の意思が、過去の主権者の意思に制約されることは一見不合理に見えるけれども、実はその方が近視眼的な誤りを避けて、安定した国家の運営ができるのだという歴史の検証を経た叡智。これも立憲主義。
別の話。盲導犬の育成で難しいのは、「不服従の訓練」なのだそうだ。盲導犬は、視覚障害者である主人の安全を守るよう訓練される。普段は主人の意向を汲んで、その指示のとおりに行動する。しかし、主人がその身の安全に反する行動に出ようとする時には、あらかじめ教えられた安全策を優先して、不服従を貫かなければならない。賢い盲導犬の自主的判断尊重という文脈ではない。あらかじめ想定された危険への対応行動についての十分な訓練の成果なのだ。主人が人民、盲導犬が権力だ。権力は人民の安全のためのものとして存在する。うっかりと人民が自らの安全に反して、あらかじめ決められた安全の方策から逸脱しそうになった場合には、権力はこれに従ってはならない。あらかじめ決められた安全の方策が憲法で、人民や権力のときどきの意向よりも、十分に練られ整備された安全策を優先し徹底することによって、長期的に人民の安全をはかろうという考え方。これが立憲主義。
なお、こんなご意見をいただいた。なるほど、これもよく分かる。
「国の形、国家の根幹を形づくる憲法と、他の法律のあいだに、人々は、なんとか階層性を保とうとした。その方策が、3分の2の改正発議要件であり、憲法に違反する法律は作れない違憲立法審査権だったりするわけですね。この階層性は重要だと思います。実際、国の形を変えるということは、きわめて重大なことなので、時の内閣の一存で、近視眼的、短慮軽率に変えるべきものではありません。日常の細々とした規則は、お父さんが決めても、国の根幹にかかわることは、お祖父ちゃんの意見も聞かなくては、ということでしょうか。家父長的な表現ですみませんが(笑)。」
自分の言葉で語ろうとすると、本当にはよく分かってはいないことが見えてくる。「ひらがなで語れ」とはそういうことなのだろう。立憲主義に限らない。
これから、ひとにものをかたるときには、ひらがなでかたろうとおもう。
(2014年2月18日)
昨日(2月16日)のブログは、自分でも手抜きだと思った。いろんな事情があったのだが、言い訳にはならない。さっそく、親しい知人から叱責をいただいた。
「当初一見かみ合わないように見えた、三氏の問題提起が、会場からの質問と意見を受けながら、どのようにかみ合っていったのか。また、立憲主義を『ひらがなで語る』とどうなるのか。続きを期待する」
手厳しい指摘だが、こんなに丁寧に拙文を読んでくれる読者のいることがブログを書き続けることの冥利。立憲主義を「ひらがなで語る」ことの続編だけでもきちんと書いておかなければならない。
梓澤和幸君流の「ひらがなで語った」立憲主義は、大要次のとおり。
「全速力で走り続けている機関車がある。下りの急勾配に差しかかったが、スピードは落ちない。このままでは危ない。このとき、権力という機関車の暴走へのブレーキが憲法。機関車に、あらかじめ国民の意思によるブレーキを組み込んでおくことが立憲主義だ」「用語はどうでもよい。権力の暴走を許さず、あらかじめの国民の命令として、ブレーキをかけられる仕組みが整っていることがたいせつなのだ」
なるほど、おもしろい。それなりによく分かる。しかし、まだ腹にストンと落ちるところまではいかない。名人芸の域に達しているとは言いがたい。
よく引き合いに出されるのは、ギリシア神話に登場する海の妖精セイレーンとオデュッセウスの話。セイレーンは岩礁から美しい歌声で船人を惑わし、歌声に魅惑された船人は舵を誤って難破し命を落とす。ホメーロスに詠われた『オデュッセイア』では、トロイ戦争から帰路のオデュッセウスが、船員には蝋で耳栓をさせ、自身を帆柱に縛り付け、「自分かセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命じても従ってはならない。より一層強く締め上げるよう」部下に命令する。部下はこの命令を忠実に実行して、一行は難を逃れる。サイレーンの歌声の誘惑に自らが負けてしまうことを知っているオデュッセウスの知恵として説かれる。
名古屋大学教授・愛敬浩二さんは、この説話を引いて、自らの「意志の弱さという問題を抱える合理的主体が自らの自立性を損なうことなく、継続的な合理性を獲得するテクニック」と解説する。これこそ立憲主義の神髄というわけだ。
主権者オデュッセウスは、「自分がセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命令した場合は、より一層強く締め上げるよう」憲法を制定する。いざ、オデュッセウスの気が変わって、「この馬鹿者ども。私の命令が聞けないのか。この縄をほどけ」と叫んでも、縄を解くことは違憲の行為として許されない。セイレーンと遭遇する以前のオデュッセウスの最初の命令が高次なもので、その後現実にセイレーンと遭遇してからの命令はそれに劣るものとして従ってはならない。最初の命令が憲法の制定で、次の命令は憲法に違反するものとして効果を否定される。これが立憲主義。
「民主国家において、主権者であるはずの人民の政治的な決定権が憲法によって制限されているのも、そうして制限を課された政治権力の方が、長期的に見れば、理性的な範囲内での権力の行使をおこなうことができ、無制限な権力よりも強力な政治権力でありうる」から、などとも説明される(東大教授・長谷部恭男さん)。
「開戦が主権者国民の意思だから戦争を始める。半世紀も前の国民の意思に縛られる必要はない」という意見を憲法は許さないのだ。これが立憲主義。自らの弱さや変節の可能性をよく知る主権者が、自らを帆柱に縛り付けた縄、それが憲法、そして予めそのような制約を自らに課しておこうという考え方が、立憲主義だということ。これもなかなかの説明だが、まだ十分には納得しがたい。
「おまえはどうだ。自分のひらがな言葉で語ってみよ」と言われても、実はできない。しばらくは、漢字の「近代立憲主義」と、横文字の「constitutionalism」で語るしか能がない。立憲主義を説明するには、人権の至高性、憲法制定権力と権力授権の関係、そして憲法の権力に対する制限規範性、さらに主権者が主権者自身をも制約することが語り尽くされなければならない。これを、やさしく、深く、楽しく、愉快に、明るく、展望をもって、そしてひらがなでかたれるようになりたい。
ああ、今日も結局は不十分な内容で終わってしまった。
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雪の日の白イチゴ
今年は東京にも何度も雪が降った。家中冷蔵庫に入ったように寒い。積もった雪を集めて重ねると却って融けが悪くなると理屈をつけて、雪かきはしない。
ところが、常緑のミカンや椿に雪が積もって、しなった枝が地面まで届いている。雪下ろしの手間を惜しんだばかりに、大枝が見事にボキリと折れてしまった。天から落ちてくる雪を相手に喧嘩をするわけにもいかないので、「チャドクガがつくので、枝透かしをしなければと思っていたのだから、手間が省けた。」と案外さっぱりあきらめている。落語の「天災」のとおり、石田梅岩流「心学」で納得しているのがおかしい。
もっとも、「ツバキ 曙」の腕ほどの太さの枝が折れて、蕾が最後を知ってか、ピンクの花びらを競って開こうとしているのが憐れである。「大丈夫、椿は強い。新梢を吹いて、4,5年で回復する。低く仕立てて楽しめばいい」と自分に言い聞かせている。
真っ白な雪の美しさに感心していたら、朝日に「白イチゴ」の記事が出ていた。人の欲望は計り知れない。イチゴは真っ赤なものと思っていたら、真っ白い雪のようなイチゴが売り出されたという。「実の重さが100グラムを超える大玉の『天使の実』は銀座で2万9千円(9粒)で販売される超高級品」と報じられている。確かにイチゴの品種改良は激しく、ちょっと前に「東の女峰 西のとよのか」といわれてもてはやされていたが、今では八百屋さんにそんな名前は見えない。今主流は、とちおとめ(栃木)、さがほのか(佐賀)、あまおう(福岡)、紅ほっぺ(静岡)。みんな1個50グラムはありそうな、つやつやのピカピカ。値段も1パック300円ほどから800円ほどまで。大粒ほど高い。
ヘタのところまで赤いとうれしがっていたのは昔のこと。真っ白いイチゴ「天使の実」は色づかないように、厳格に温度、紫外線の管理をして、土で汚れないように白いビニールシーツで覆って栽培するという。
2007年9月16日のやはり朝日の記事の切り抜き。「中国西部の山岳地帯で不思議なイチゴを見つけた」「この(野)イチゴは完熟しても白いままなのだ。この地域のイチゴはみんな白いかというとそうでもなく、別の種のイチゴはちゃんと赤く、場所によっては紅白入り交じる」「口に入れると、まず桃に似たほのかな香りと、凝縮された甘さ。それを、濃厚なミルクの味が追いかけてきた」(青山潤三・動植物写真家)と書かれてある。
さて、一個3千円もする「天使の実」はどんな味と香りがするのだろう。絶対買いはしないけれど、見物に行って形と色と、そして香りだけでも愛でてこようか。
(2014年2月17日)
東京新聞の13日トップに、意外な大見出しが躍った。「首相、立憲主義を否定」というもの、副見出しとして「解釈改憲『最高責任者は私』」「集団的自衛権で国会答弁」とある。
以前であれば、あるいは凡庸には、「首相、集団的自衛権容認に積極姿勢」「『解釈改憲』に踏み込む発言」「首相、政府の九条解釈変更に意欲」くらいの見出しとなったのではないか。「立憲主義否定」が一面トップとなったことに、いささかの感慨を禁じ得ない。1年前ではあり得なかった。この1年の改憲阻止の運動の中で、「立憲主義」は人口に膾炙したのだ。
「東京」の記事は、「安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更をめぐり『(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける』と述べた。憲法解釈に関する政府見解は整合性が求められ、歴代内閣は内閣法制局の議論の積み重ねを尊重してきた。首相の発言は、それを覆して自ら解釈改憲を進める考えを示したものだ。首相主導で解釈改憲に踏み切れば、国民の自由や権利を守るため、政府を縛る憲法の立憲主義の否定になる」というもの。
集団的自衛権行使容認のために解釈改憲を進めようという安倍の発言を捉えて、「立憲主義を否定」と言いきったところに、センスのよさが光る。とはいえ、この発言の孤立・空回りの危険も感じていたのではないだろうか。
翌14日の赤旗がこれに続いた。やはり一面トップで、「立憲主義を否定する集団的自衛権への暴走は許されない」「志位委員長が首相を批判」というもの。内容は東京新聞と変わらない。政党機関紙でも、赤旗は全国紙。東京新聞としては、援軍として心強かったのではないか。
本日(15日)の毎日では、石破幹事長の防戦の言葉が紹介されている。「立憲主義をないがしろにし、『首相が言えば何でもできる』と言ったわけではない」というもの。俄然、立憲主義をめぐる攻防が政治の表舞台に躍り出た。
もちろん、産経は冷ややか。東京の13日トップの記事を取りあげて、「最近の東京新聞は『反原発、反自民』路線が徹底しており、皮肉ではなく『よくぞここまで』と感心します」と「褒めちぎって」いる。その上で、「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます。その憲法の解釈権は、行政府では内閣法制局ではなく、内閣が持つのが通説で、首相答弁は、当たり前の話です。東京さん、子供だましはもうやめましょうね。(編集長 乾正人)」と言っている。
もしかして、産経しか読まない読者は、「東京さんが子供だましをしている」と思い込んでしまうかも知れない。ここは、「東京さん」のためではなく、立憲主義のためにどうしても一言しておかねばならない。
「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます」という産経流は、どこから拾ってきた定義だろうか。まったくの嘘ではないように見えて、実は決定的に間違っている。
今、この社会で普通に使われている立憲主義という用語は、個人主義と自由主義に立脚した近代立憲主義を指す。ここには、主権者国民が人権の擁護を至高の価値として、人権侵害の危険をもつ権力の発動を制約するために憲法を制定し、主権者国民の立ち場から権力に憲法を守らせるというコンセプトがある。「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うこと」という定義では、どんな憲法でも、どんな政府でも、どんな統治でも、「形式的に憲法に従った政治」でさえあれば、立憲主義に背馳するものではないことになる。これでは、立憲主義の内実は殺ぎ落とされ、三文の値打ちもなくなってしまう。安倍晋三を喜ばせるだけ。「最近に限ったことではありませんが、産経新聞は『親自民、親安倍、親権力』路線が徹底しており、もちろん皮肉ですが、『よくぞここまで』と感心します」
正確には、産経流の「立憲主義」は、真正の立憲主義から区別して、「外形的立憲主義」という。外形的立憲主義に基づく憲法の典型として、プロイセン憲法(1850年)、ドイツ帝国憲法(1871年)、そして大日本帝国憲法(1889年)が挙げられる。いずれも、強大な君主大権をもつもので、個人主義、自由主義、国民主権に立脚するものではない。それでも、産経流の定義にはぴったりなのだ。
昨日(14日)、首相は国会答弁で「立憲主義」の考え方を「王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と説明したと報じられている。産経流は安倍流でもある。もしかして、産経子は、「17か条の憲法による政治」も、「憲法に立脚した統治を行うことをいいます」の範疇に入れているのではないだろうか。「産経さん、子供だましはもうやめましょうね。」
これまで行政組織全体として積み重ねてきた憲法解釈を、主権者国民の意向を問うことなく、安倍個人が瓦解させようというのだ。暴挙というほかはない。真っ当な多くの人々から、安倍批判が噴出している。
本日の東京は追い打ちをしている。「憲法分かってない」「首相解釈変更発言」「与野党やまぬ批判」というもの。名前が上がっているのは、公明党の井上義久幹事長、民主党の枝野幸男憲法総合調査会長、結いの党の小野次郎幹事長。生活の党の鈴木克昌幹事長、共産党の志位和夫委員長、社民党の又市征治幹事長、自民党内では、村上誠一郎、野田毅、船田元、そして谷垣禎一法相も。
枝野幸男の批判は厳しい。「権力者でも変えてはいけないのが憲法という、憲法の『いろはのい』が分かっていない」というもの。
最後に、意外な人の意外な立憲主義「擁護」発言のご紹介。舛添要一新都知事だ。「自民憲法改正草案、立憲主義の観点で問題」というもの。短いから、本日毎日社会面の片隅の記事を全文転載する。
「東京都の舛添要一知事は14日、就任後初の定例記者会見で、選挙で支援を受けた自民党の憲法改正草案について『立憲主義の観点から問題がある。今のままの草案だったら、私は国民投票で反対する』と述べた。
舛添氏は2005年に自民党がまとめた第1次憲法改正草案の取りまとめに関わった。会見で野党時代の12年に出された第2次草案について問われると『学問的に見た場合、はるかに1次草案の方が優れている』と指摘。2次草案の問題点として
(1)天皇を国の「象徴」から「元首」に改めた
(2)家族の条文を設け「家族は互いに助け合わなければならない」と規定した
(3)「国防軍」の創設を盛り込んだ−−点などを挙げた。
また国民の権利に関し、1次草案の『個人として尊重される』を2次草案で『人として尊重』と変えたことに触れ『憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ』と厳しく批判した。
舛添氏は19日に憲法改正の考えをまとめた新書を発行するが、内容について『都知事選に出るから自民党寄りに書き換えたことは全くない』と強調した。」
「個人として尊重される」を「人として尊重」と変えたことについて、「憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ」という説明には、なるほどと頷かざるを得ない。
舛添と枝野の両名。かつては自民党と民主党を代表して憲法改正の協議を煮詰めた張本人。当時は改憲をたくらむ実務者・実力者として評判が悪かった。それが今は、ともに安倍改憲への批判の矛先が鋭い。この両名への評価の見極めは難しいが、安倍がたくらむ改憲内容のひどさを際立たせることには貢献している。
(2014年2月15日)
ケネディ駐日米大使が2月11日から13日まで沖縄を訪問した。平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」「戦没者墓苑」を訪れ、「厳粛な場所を訪れることができ誠に光栄に思います。命を落とされた兵士と一般市民の名前を読むのは圧倒される体験でした」と述べている。一人の市民の感想として真っ当なもの。籾井や百田、長谷川などの、支離滅裂で凶暴な言葉を聞かされて来た身には、このコメントは耳に心地よい。
昨年11月アメリカ大使として日本に着任して以来、ケネディは三陸地震被災地、被爆地長崎などを訪問している。また、安倍首相の靖国参拝について「disappointed!」(がっかりしたわ!)とツィートしたり、和歌山のイルカ漁について「イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」と述べたり、話題にはこと欠かない。50年前に暗殺された父親の柩につきそう5歳の少女の印象もあって、悲劇のプリンセスは過剰な期待と歓迎の空気の中にある。
そのケネディ大使の沖縄訪問にあわせて、琉球新報は2月11日、大使に呼びかける社説を掲げた。日本文に加えて英文でも。
社説は、「沖縄住民にとって米国は民主主義の教師であり、反面教師でもありました。」から始まる。戦後米国は強制的に理不尽な沖縄の基地建設を進めた。普天間基地も住民を排除してつくられた歴史が語られ、名護に移転しても、「県民は事故の危険性や騒音被害などで北部地域住民の命と人権、財産が半永久的に脅威にさらされることを危惧しています」。「イルカ追い込み漁の非人道性について懸念されているというのでしたら、ジュゴンの餌場を破壊して生息地を脅かすことは非人道的ではないでしょうか」。そして最後に「父親譲りの使命感で、米軍が住民の安全を脅かしている沖縄の軍事的植民地状態に終止符を打ち、新しい琉米友好の扉を開いてください。今回の沖縄訪問を辺野古移設断念と普天間撤去への大きな転機とするよう強く求めます」と結んでいる。
アメリカ側からの要求で、名護の稲嶺市長は予定外にケネディ大使と会談した。市長は「普天間基地の名護移設に反対する地元市民の声をオバマ大統領に伝えてほしい」と要請し、ケネディ氏は「よく分かった」と述べて、大統領への伝達に前向きな姿勢を示したという。(沖縄タイムス2月13日)
琉球新報の社説は「新しい琉米友好の扉を開いてください」と呼びかけている。「琉米友好」である。普天間基地のゲートでオスプレイ配備への抗議行動をしていた大田朝暉さんは「ケネディ氏は名護市長の話を聞いた。むしろ恥ずかしいのは地元を無視する日本政府だ」と言っている。
ウォールストリートジャーナルは、仲井間知事と会談したケネディ大使の発言について、「普天間基地の移設計画には言及しなかった」が、「米軍駐留の負担軽減に向けて協力することが重要だ」とまでは述べた、と報じている。
キャロライン・ケネディが何かをなし得るか。まだまったく分からない。個人の善意や理解では到底解決できないほど問題は深刻で大きい。しかし、何度も何度も裏切られ続けた沖縄が、呼びかけて答えてくれるかもしれないという誠実さを感じる相手が、日本政府ではなくケネディ大使だということには、考えさせられる。本土の私たちは、力のなさを深く恥じなければならない。
(2014年2月14日)