澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

続々「ひらがなで語る立憲主義」

下り急勾配の機関車の喩えは、立憲主義の権力制約の側面に重きをおいた説明。機関車が権力だが、この機関車には急勾配や急カーブでは、危険な暴走によってレールを踏みはずすことのないよう、あらかじめブレーキを掛ける仕組みとなっている。そのような仕組みの機関車と軌道とは主権者人民が造る。その機関車暴走予防システムの設計思想が立憲主義ということになる。

オデュッセウスとセイレーンの説話は憲法の硬性原理に重きをおいた説明。主権者の意思も、時に激情によって過つことがある。そのような誤りのおそれあることを見据えて、十分に理性的なときに、自分をも縛っておく知恵が立憲主義。現在の主権者の意思が、過去の主権者の意思に制約されることは一見不合理に見えるけれども、実はその方が近視眼的な誤りを避けて、安定した国家の運営ができるのだという歴史の検証を経た叡智。これも立憲主義。

別の話。盲導犬の育成で難しいのは、「不服従の訓練」なのだそうだ。盲導犬は、視覚障害者である主人の安全を守るよう訓練される。普段は主人の意向を汲んで、その指示のとおりに行動する。しかし、主人がその身の安全に反する行動に出ようとする時には、あらかじめ教えられた安全策を優先して、不服従を貫かなければならない。賢い盲導犬の自主的判断尊重という文脈ではない。あらかじめ想定された危険への対応行動についての十分な訓練の成果なのだ。主人が人民、盲導犬が権力だ。権力は人民の安全のためのものとして存在する。うっかりと人民が自らの安全に反して、あらかじめ決められた安全の方策から逸脱しそうになった場合には、権力はこれに従ってはならない。あらかじめ決められた安全の方策が憲法で、人民や権力のときどきの意向よりも、十分に練られ整備された安全策を優先し徹底することによって、長期的に人民の安全をはかろうという考え方。これが立憲主義。

なお、こんなご意見をいただいた。なるほど、これもよく分かる。
「国の形、国家の根幹を形づくる憲法と、他の法律のあいだに、人々は、なんとか階層性を保とうとした。その方策が、3分の2の改正発議要件であり、憲法に違反する法律は作れない違憲立法審査権だったりするわけですね。この階層性は重要だと思います。実際、国の形を変えるということは、きわめて重大なことなので、時の内閣の一存で、近視眼的、短慮軽率に変えるべきものではありません。日常の細々とした規則は、お父さんが決めても、国の根幹にかかわることは、お祖父ちゃんの意見も聞かなくては、ということでしょうか。家父長的な表現ですみませんが(笑)。」

自分の言葉で語ろうとすると、本当にはよく分かってはいないことが見えてくる。「ひらがなで語れ」とはそういうことなのだろう。立憲主義に限らない。
これから、ひとにものをかたるときには、ひらがなでかたろうとおもう。
(2014年2月18日)

続・立憲主義を「ひらがなで語る」こと

昨日(2月16日)のブログは、自分でも手抜きだと思った。いろんな事情があったのだが、言い訳にはならない。さっそく、親しい知人から叱責をいただいた。

「当初一見かみ合わないように見えた、三氏の問題提起が、会場からの質問と意見を受けながら、どのようにかみ合っていったのか。また、立憲主義を『ひらがなで語る』とどうなるのか。続きを期待する」

手厳しい指摘だが、こんなに丁寧に拙文を読んでくれる読者のいることがブログを書き続けることの冥利。立憲主義を「ひらがなで語る」ことの続編だけでもきちんと書いておかなければならない。

梓澤和幸君流の「ひらがなで語った」立憲主義は、大要次のとおり。
「全速力で走り続けている機関車がある。下りの急勾配に差しかかったが、スピードは落ちない。このままでは危ない。このとき、権力という機関車の暴走へのブレーキが憲法。機関車に、あらかじめ国民の意思によるブレーキを組み込んでおくことが立憲主義だ」「用語はどうでもよい。権力の暴走を許さず、あらかじめの国民の命令として、ブレーキをかけられる仕組みが整っていることがたいせつなのだ」

なるほど、おもしろい。それなりによく分かる。しかし、まだ腹にストンと落ちるところまではいかない。名人芸の域に達しているとは言いがたい。

よく引き合いに出されるのは、ギリシア神話に登場する海の妖精セイレーンとオデュッセウスの話。セイレーンは岩礁から美しい歌声で船人を惑わし、歌声に魅惑された船人は舵を誤って難破し命を落とす。ホメーロスに詠われた『オデュッセイア』では、トロイ戦争から帰路のオデュッセウスが、船員には蝋で耳栓をさせ、自身を帆柱に縛り付け、「自分かセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命じても従ってはならない。より一層強く締め上げるよう」部下に命令する。部下はこの命令を忠実に実行して、一行は難を逃れる。サイレーンの歌声の誘惑に自らが負けてしまうことを知っているオデュッセウスの知恵として説かれる。

名古屋大学教授・愛敬浩二さんは、この説話を引いて、自らの「意志の弱さという問題を抱える合理的主体が自らの自立性を損なうことなく、継続的な合理性を獲得するテクニック」と解説する。これこそ立憲主義の神髄というわけだ。

主権者オデュッセウスは、「自分がセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命令した場合は、より一層強く締め上げるよう」憲法を制定する。いざ、オデュッセウスの気が変わって、「この馬鹿者ども。私の命令が聞けないのか。この縄をほどけ」と叫んでも、縄を解くことは違憲の行為として許されない。セイレーンと遭遇する以前のオデュッセウスの最初の命令が高次なもので、その後現実にセイレーンと遭遇してからの命令はそれに劣るものとして従ってはならない。最初の命令が憲法の制定で、次の命令は憲法に違反するものとして効果を否定される。これが立憲主義。

「民主国家において、主権者であるはずの人民の政治的な決定権が憲法によって制限されているのも、そうして制限を課された政治権力の方が、長期的に見れば、理性的な範囲内での権力の行使をおこなうことができ、無制限な権力よりも強力な政治権力でありうる」から、などとも説明される(東大教授・長谷部恭男さん)。

「開戦が主権者国民の意思だから戦争を始める。半世紀も前の国民の意思に縛られる必要はない」という意見を憲法は許さないのだ。これが立憲主義。自らの弱さや変節の可能性をよく知る主権者が、自らを帆柱に縛り付けた縄、それが憲法、そして予めそのような制約を自らに課しておこうという考え方が、立憲主義だということ。これもなかなかの説明だが、まだ十分には納得しがたい。

「おまえはどうだ。自分のひらがな言葉で語ってみよ」と言われても、実はできない。しばらくは、漢字の「近代立憲主義」と、横文字の「constitutionalism」で語るしか能がない。立憲主義を説明するには、人権の至高性、憲法制定権力と権力授権の関係、そして憲法の権力に対する制限規範性、さらに主権者が主権者自身をも制約することが語り尽くされなければならない。これを、やさしく、深く、楽しく、愉快に、明るく、展望をもって、そしてひらがなでかたれるようになりたい。
ああ、今日も結局は不十分な内容で終わってしまった。
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            雪の日の白イチゴ
今年は東京にも何度も雪が降った。家中冷蔵庫に入ったように寒い。積もった雪を集めて重ねると却って融けが悪くなると理屈をつけて、雪かきはしない。

ところが、常緑のミカンや椿に雪が積もって、しなった枝が地面まで届いている。雪下ろしの手間を惜しんだばかりに、大枝が見事にボキリと折れてしまった。天から落ちてくる雪を相手に喧嘩をするわけにもいかないので、「チャドクガがつくので、枝透かしをしなければと思っていたのだから、手間が省けた。」と案外さっぱりあきらめている。落語の「天災」のとおり、石田梅岩流「心学」で納得しているのがおかしい。

もっとも、「ツバキ 曙」の腕ほどの太さの枝が折れて、蕾が最後を知ってか、ピンクの花びらを競って開こうとしているのが憐れである。「大丈夫、椿は強い。新梢を吹いて、4,5年で回復する。低く仕立てて楽しめばいい」と自分に言い聞かせている。

真っ白な雪の美しさに感心していたら、朝日に「白イチゴ」の記事が出ていた。人の欲望は計り知れない。イチゴは真っ赤なものと思っていたら、真っ白い雪のようなイチゴが売り出されたという。「実の重さが100グラムを超える大玉の『天使の実』は銀座で2万9千円(9粒)で販売される超高級品」と報じられている。確かにイチゴの品種改良は激しく、ちょっと前に「東の女峰 西のとよのか」といわれてもてはやされていたが、今では八百屋さんにそんな名前は見えない。今主流は、とちおとめ(栃木)、さがほのか(佐賀)、あまおう(福岡)、紅ほっぺ(静岡)。みんな1個50グラムはありそうな、つやつやのピカピカ。値段も1パック300円ほどから800円ほどまで。大粒ほど高い。

ヘタのところまで赤いとうれしがっていたのは昔のこと。真っ白いイチゴ「天使の実」は色づかないように、厳格に温度、紫外線の管理をして、土で汚れないように白いビニールシーツで覆って栽培するという。

2007年9月16日のやはり朝日の記事の切り抜き。「中国西部の山岳地帯で不思議なイチゴを見つけた」「この(野)イチゴは完熟しても白いままなのだ。この地域のイチゴはみんな白いかというとそうでもなく、別の種のイチゴはちゃんと赤く、場所によっては紅白入り交じる」「口に入れると、まず桃に似たほのかな香りと、凝縮された甘さ。それを、濃厚なミルクの味が追いかけてきた」(青山潤三・動植物写真家)と書かれてある。

さて、一個3千円もする「天使の実」はどんな味と香りがするのだろう。絶対買いはしないけれど、見物に行って形と色と、そして香りだけでも愛でてこようか。
(2014年2月17日)

安倍は知るや「立憲主義」のなんたるかを

東京新聞の13日トップに、意外な大見出しが躍った。「首相、立憲主義を否定」というもの、副見出しとして「解釈改憲『最高責任者は私』」「集団的自衛権で国会答弁」とある。

以前であれば、あるいは凡庸には、「首相、集団的自衛権容認に積極姿勢」「『解釈改憲』に踏み込む発言」「首相、政府の九条解釈変更に意欲」くらいの見出しとなったのではないか。「立憲主義否定」が一面トップとなったことに、いささかの感慨を禁じ得ない。1年前ではあり得なかった。この1年の改憲阻止の運動の中で、「立憲主義」は人口に膾炙したのだ。

「東京」の記事は、「安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更をめぐり『(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける』と述べた。憲法解釈に関する政府見解は整合性が求められ、歴代内閣は内閣法制局の議論の積み重ねを尊重してきた。首相の発言は、それを覆して自ら解釈改憲を進める考えを示したものだ。首相主導で解釈改憲に踏み切れば、国民の自由や権利を守るため、政府を縛る憲法の立憲主義の否定になる」というもの。

集団的自衛権行使容認のために解釈改憲を進めようという安倍の発言を捉えて、「立憲主義を否定」と言いきったところに、センスのよさが光る。とはいえ、この発言の孤立・空回りの危険も感じていたのではないだろうか。

翌14日の赤旗がこれに続いた。やはり一面トップで、「立憲主義を否定する集団的自衛権への暴走は許されない」「志位委員長が首相を批判」というもの。内容は東京新聞と変わらない。政党機関紙でも、赤旗は全国紙。東京新聞としては、援軍として心強かったのではないか。

本日(15日)の毎日では、石破幹事長の防戦の言葉が紹介されている。「立憲主義をないがしろにし、『首相が言えば何でもできる』と言ったわけではない」というもの。俄然、立憲主義をめぐる攻防が政治の表舞台に躍り出た。

もちろん、産経は冷ややか。東京の13日トップの記事を取りあげて、「最近の東京新聞は『反原発、反自民』路線が徹底しており、皮肉ではなく『よくぞここまで』と感心します」と「褒めちぎって」いる。その上で、「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます。その憲法の解釈権は、行政府では内閣法制局ではなく、内閣が持つのが通説で、首相答弁は、当たり前の話です。東京さん、子供だましはもうやめましょうね。(編集長 乾正人)」と言っている。

もしかして、産経しか読まない読者は、「東京さんが子供だましをしている」と思い込んでしまうかも知れない。ここは、「東京さん」のためではなく、立憲主義のためにどうしても一言しておかねばならない。

「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます」という産経流は、どこから拾ってきた定義だろうか。まったくの嘘ではないように見えて、実は決定的に間違っている。

今、この社会で普通に使われている立憲主義という用語は、個人主義と自由主義に立脚した近代立憲主義を指す。ここには、主権者国民が人権の擁護を至高の価値として、人権侵害の危険をもつ権力の発動を制約するために憲法を制定し、主権者国民の立ち場から権力に憲法を守らせるというコンセプトがある。「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うこと」という定義では、どんな憲法でも、どんな政府でも、どんな統治でも、「形式的に憲法に従った政治」でさえあれば、立憲主義に背馳するものではないことになる。これでは、立憲主義の内実は殺ぎ落とされ、三文の値打ちもなくなってしまう。安倍晋三を喜ばせるだけ。「最近に限ったことではありませんが、産経新聞は『親自民、親安倍、親権力』路線が徹底しており、もちろん皮肉ですが、『よくぞここまで』と感心します」

正確には、産経流の「立憲主義」は、真正の立憲主義から区別して、「外形的立憲主義」という。外形的立憲主義に基づく憲法の典型として、プロイセン憲法(1850年)、ドイツ帝国憲法(1871年)、そして大日本帝国憲法(1889年)が挙げられる。いずれも、強大な君主大権をもつもので、個人主義、自由主義、国民主権に立脚するものではない。それでも、産経流の定義にはぴったりなのだ。

昨日(14日)、首相は国会答弁で「立憲主義」の考え方を「王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と説明したと報じられている。産経流は安倍流でもある。もしかして、産経子は、「17か条の憲法による政治」も、「憲法に立脚した統治を行うことをいいます」の範疇に入れているのではないだろうか。「産経さん、子供だましはもうやめましょうね。」

これまで行政組織全体として積み重ねてきた憲法解釈を、主権者国民の意向を問うことなく、安倍個人が瓦解させようというのだ。暴挙というほかはない。真っ当な多くの人々から、安倍批判が噴出している。

本日の東京は追い打ちをしている。「憲法分かってない」「首相解釈変更発言」「与野党やまぬ批判」というもの。名前が上がっているのは、公明党の井上義久幹事長、民主党の枝野幸男憲法総合調査会長、結いの党の小野次郎幹事長。生活の党の鈴木克昌幹事長、共産党の志位和夫委員長、社民党の又市征治幹事長、自民党内では、村上誠一郎、野田毅、船田元、そして谷垣禎一法相も。

枝野幸男の批判は厳しい。「権力者でも変えてはいけないのが憲法という、憲法の『いろはのい』が分かっていない」というもの。

最後に、意外な人の意外な立憲主義「擁護」発言のご紹介。舛添要一新都知事だ。「自民憲法改正草案、立憲主義の観点で問題」というもの。短いから、本日毎日社会面の片隅の記事を全文転載する。
「東京都の舛添要一知事は14日、就任後初の定例記者会見で、選挙で支援を受けた自民党の憲法改正草案について『立憲主義の観点から問題がある。今のままの草案だったら、私は国民投票で反対する』と述べた。
 舛添氏は2005年に自民党がまとめた第1次憲法改正草案の取りまとめに関わった。会見で野党時代の12年に出された第2次草案について問われると『学問的に見た場合、はるかに1次草案の方が優れている』と指摘。2次草案の問題点として
(1)天皇を国の「象徴」から「元首」に改めた
(2)家族の条文を設け「家族は互いに助け合わなければならない」と規定した
(3)「国防軍」の創設を盛り込んだ−−点などを挙げた。
また国民の権利に関し、1次草案の『個人として尊重される』を2次草案で『人として尊重』と変えたことに触れ『憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ』と厳しく批判した。
 舛添氏は19日に憲法改正の考えをまとめた新書を発行するが、内容について『都知事選に出るから自民党寄りに書き換えたことは全くない』と強調した。」

「個人として尊重される」を「人として尊重」と変えたことについて、「憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ」という説明には、なるほどと頷かざるを得ない。

舛添と枝野の両名。かつては自民党と民主党を代表して憲法改正の協議を煮詰めた張本人。当時は改憲をたくらむ実務者・実力者として評判が悪かった。それが今は、ともに安倍改憲への批判の矛先が鋭い。この両名への評価の見極めは難しいが、安倍がたくらむ改憲内容のひどさを際立たせることには貢献している。
(2014年2月15日)

キャロライン・ケネディ大使の沖縄訪問

ケネディ駐日米大使が2月11日から13日まで沖縄を訪問した。平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」「戦没者墓苑」を訪れ、「厳粛な場所を訪れることができ誠に光栄に思います。命を落とされた兵士と一般市民の名前を読むのは圧倒される体験でした」と述べている。一人の市民の感想として真っ当なもの。籾井や百田、長谷川などの、支離滅裂で凶暴な言葉を聞かされて来た身には、このコメントは耳に心地よい。

昨年11月アメリカ大使として日本に着任して以来、ケネディは三陸地震被災地、被爆地長崎などを訪問している。また、安倍首相の靖国参拝について「disappointed!」(がっかりしたわ!)とツィートしたり、和歌山のイルカ漁について「イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」と述べたり、話題にはこと欠かない。50年前に暗殺された父親の柩につきそう5歳の少女の印象もあって、悲劇のプリンセスは過剰な期待と歓迎の空気の中にある。

そのケネディ大使の沖縄訪問にあわせて、琉球新報は2月11日、大使に呼びかける社説を掲げた。日本文に加えて英文でも。

社説は、「沖縄住民にとって米国は民主主義の教師であり、反面教師でもありました。」から始まる。戦後米国は強制的に理不尽な沖縄の基地建設を進めた。普天間基地も住民を排除してつくられた歴史が語られ、名護に移転しても、「県民は事故の危険性や騒音被害などで北部地域住民の命と人権、財産が半永久的に脅威にさらされることを危惧しています」。「イルカ追い込み漁の非人道性について懸念されているというのでしたら、ジュゴンの餌場を破壊して生息地を脅かすことは非人道的ではないでしょうか」。そして最後に「父親譲りの使命感で、米軍が住民の安全を脅かしている沖縄の軍事的植民地状態に終止符を打ち、新しい琉米友好の扉を開いてください。今回の沖縄訪問を辺野古移設断念と普天間撤去への大きな転機とするよう強く求めます」と結んでいる。

アメリカ側からの要求で、名護の稲嶺市長は予定外にケネディ大使と会談した。市長は「普天間基地の名護移設に反対する地元市民の声をオバマ大統領に伝えてほしい」と要請し、ケネディ氏は「よく分かった」と述べて、大統領への伝達に前向きな姿勢を示したという。(沖縄タイムス2月13日)

琉球新報の社説は「新しい琉米友好の扉を開いてください」と呼びかけている。「琉米友好」である。普天間基地のゲートでオスプレイ配備への抗議行動をしていた大田朝暉さんは「ケネディ氏は名護市長の話を聞いた。むしろ恥ずかしいのは地元を無視する日本政府だ」と言っている。

ウォールストリートジャーナルは、仲井間知事と会談したケネディ大使の発言について、「普天間基地の移設計画には言及しなかった」が、「米軍駐留の負担軽減に向けて協力することが重要だ」とまでは述べた、と報じている。

キャロライン・ケネディが何かをなし得るか。まだまったく分からない。個人の善意や理解では到底解決できないほど問題は深刻で大きい。しかし、何度も何度も裏切られ続けた沖縄が、呼びかけて答えてくれるかもしれないという誠実さを感じる相手が、日本政府ではなくケネディ大使だということには、考えさせられる。本土の私たちは、力のなさを深く恥じなければならない。
(2014年2月14日)

都教委の開き直りを許さない

本日、都立校の現役教員7名が東京都人事委員会に懲戒処分の取消を求めて審査請求を申立てた。それに伴う記者会見を、都庁で行った。被処分者の会の代表と事務局長、4人の審査請求人、そして弁護団から私が出席した。

この現役教員7名に対する戒告処分は、昨年12月17日に発令された。実は、この7人の方、いずれも同じ行為で2度目の処分を受けたもの。みな、怒り心頭。事情はこうだ。

よく知られたとおり、都教委は累積加重の処分を重ねてきた。式典での国歌斉唱時の不起立1回目は戒告。2回目目は減給(10分の1・1か月)、3回目目は減給(10分の1・6か月)、4回目は停職(1か月)、5回目は停職(3か月)、6回目は停職(6か月)…である。

これは、思想転向強要システムにほかならないとして、さすがに行政に甘い最高裁も、減給以上の処分をすべて違法として取り消した。このような取り消しが今のところ、25人30件に及んでいる。

昨年12月に戒告処分を受けた現役の7人は、いずれも減給処分の違法を争って、最高裁まで争って勝訴判決を得た人々である。都教委の違法な処分によって、有形無形の大きな被害を受けてきた人たち。ようやく訴訟に勝訴したら、都教委は「減給処分だったから裁判に負けた。改めて戒告処分として出し直す」とされた。これはひどい。

刑事事件では一事不再理という原則がある。警察も検察も、一度無罪になった事件を蒸し返してはならない。「あの事件、窃盗として起訴したら無罪になった。じゃ今度は横領で起訴だ」などということは許されない。今回の都教委がやったのは、実質的に同じことだ。「減給処分は違法で取り消しか、それなら今度は戒告だ」というもの。

都教委は、25人30件の裁判で負けて処分を取り消された。このことを深刻に受けとめなければならない。あの行政に甘い最高裁に、「いくら何でも、都教委のやり方はひどい」と違法の認定を受けたのだから。

仮にも法治国家の行政の一翼を担う都教委である。最高裁からアウトの宣告を受けたら、形だけでも、口パクでも、過酷な処分をされた教員に謝罪しなければならない。なぜ違法な行為に及んだのか原因を究明しなければならない。そして、責任者を明確にし、再発の防止策を真剣に考えなければならない。その過程を、都民に説明し、明らかにしなければならない。これが、今の世の常識。

ところが、都教委はやるべきことをまったくやらない。謝罪も反省もしない。責任者の追及も再発防止策も、何もかも。他人には過酷で自分には甘い。絶対に自分の間違いを認めようとしない、恐るべき体質。やるべきことをすべてネグレクトして、都教委がやったことは開き直りの八つ当たりだった。

最高裁の法廷意見は、処分の違憲性までは認めなかった。しかし、多くの裁判官が異例の補足意見を書いている。「なんとか都教委のイニシャチブで教育現場を正常化してもらいたい」「そのために、話し合ってはどうか」「まずは都教委が謙抑的であるべきだ」というもの。これを受けて、都教委が歩み寄りの姿勢を見せるのかと思いきや、この八つ当たりなのだ。

7人の身にもなって見よ。6年も7年も裁判をやって、苦労を重ねてようやく最高裁で裁判に勝ったのだ。こうして減給処分を取り消したら、「改めての戒告処分として出し直しだ」という。人事委員会の審査請求から始めて、最高裁まで。気が遠くなるような闘いをまた始めなければならない。

今日の記者会見では、4人の教員が発言した。
「都教委は、私たちのような教員がいなくなることを望んでいます。しかし、記者の皆さん、それでよいのでしようか。多様な意見がひとつにまとめられていくことに危機感はありませんか」「生徒たちには、自分の意見を大切にしなさいと教えています。でも、そのことを言えなくなる雰囲気があります」

石原慎太郎が308万票を獲得した傲りから「日の丸・君が代」の強制が始まった。いま、新知事は石原後継を標榜していない。保守であっても良識を示して欲しい。昨日の初都庁では職員に、「都民からの信頼の回復」を説いたとのこと。それなら、まずは都教委からだ。何とかしたまえ教育委員の諸氏。このままでは、教育現場の「混乱」が続くだけではない。恥の上塗りをすることになりますぞ。
(2014年2月13日)

それぞれのオリンピック事情?ブラジルと日本と

2016年にはリオで、2020年には東京で、オリンピック・パラリンピックが開催される。それぞれの事情を抱えながら。

「アマゾン河の博物学者」(H.W.ベイツ著 平凡社)は155年前のブラジルの自然と社会を興味深く伝えている。著者はイギリス人の探検家であり博物学者でもあった人。「種の起源の問題を解き明かす」ために、1848年から1859年まで、ブラジルのアマゾン川流域に11年間も滞在し、動植物の採集研究を行った。この著書にはチャールズ・ダーウィンが献辞を書いている。

アマゾン流域の豊富な昆虫や鳥や樹木の織りなす華麗さを描写が見事である。目の前を飛び回るたくさんの種類のチョウチョの美しさを画像で見るかのごとく語ってくれる。「美」だけで無く「死闘」についても、冷酷に記述する。

「シボ・マタドール、すなわち絞め殺しのつるとよばれている無花果(いちじく)の仲間で、・・・私はこの植物をたくさん観察した。・・・マタドールの取りつき方は特異で、たしかに嫌な印象を与える。取りつこうと思う木のすぐ近くに芽をだし、幹の木質部は支持木の幹の片側の表面に、可塑性の鋳型のように、広がりながら成長していく。それからこんどは両側から一本ずつ腕のような枝を伸ばす。それはすみやかに生長するが、まるであふれ出た樹液が流れながら固まっていくかのようである。これは被害木の幹にしっかりとへばりつく。そして二本の腕は反対側で出会うと絡み合って折れ曲がる。こうした腕が上方に登りながらほぼ一定の間隔で出てくる。するとその絞め殺しの木がじゅうぶんに成長したとき、被害木は多数の硬直した環にしっかりと抱きしめられた形となる。これらの環は殺し屋が繁茂するにつれてしだいにより大きく成長し、その葉冠は隣人のそれといっしょになって空中にかかげられるようになる。そして時がたつうちに、彼らは宿主の樹液の流れを止め、それを殺してしまう。その結果そこに残るのは、ほかでもないおのれの成長の援助者であった犠牲者の生命のない腐食しつつある体を腕に抱きしめた、利己的な寄生者の奇妙な姿である。その目的は達せられたーーそれは花を開き、実を結び、繁殖し、種子をまき散らした。そして今や死んだ幹が崩壊するときそれ自身の終わりも近づきつつある。支持木は消え去り、自分もまた倒壊する。」

これを読むと、一瞬、原発利権に群がる企業とそれに絞め殺されそうになっている日本の姿について述べているのかと思ってしまう。たしかにマタドールは悪魔のような木だ。

こんな記述もある。あるポルトガル紳士がアフリカとの奴隷売買禁止のために高騰した奴隷の値段について「以前は1人120ドルで買えたものが、今では400ドルでも手に入れることが困難だ」とこぼしていると書いている。ベイツが滞在していた頃のブラジルは、フランス軍に追い出されたポルトガル宮廷がリスボンからリオデジャネイロに遷都していた時期にあたる。この地は完全にポルトガルの植民地であった。サトウキビ、ゴム、コーヒーのプランテーション経営のため、インディオの奴隷化だけでは足りなくて、アフリカから黒人奴隷を盛んに連行していた奴隷国家でもあった。奴隷制が廃止されたのは1888年、その翌年帝政は廃止され共和制となった。その後やむなく、労働力確保のためヨーロッパや日本移民(1908年笠戸丸がはじめ)が奨励された経緯がある。

さて、その100年後、インディオ、ポルトガル人、アフリカ系黒人、日本人その他諸々の人たちが活気溢れる民主主義国家をつくりあげた。そして今年はワールドカップ世界大会、2年後にはオリンピックを開催しようとしている。そのこと自体は驚くべきことではないけれど、民衆が果敢にオリンピックやワールドカップ開催反対のデモをくり広げていることにおおいに感動する。

ブラジルでの平均月収は都市部でも日本円にして10万円にはるかに届かない。W杯競技場などのインフラ建設など一部の利権者だけが潤う金の使い方や公共料金、税金の値上げに批判が集まっている。学校や病院の整備を先にせよというもっともな要求である。昨年6月にはブラジル中にデモが拡大し、参加者は100万人ともいわれた。今年1月25日にもサンパウロ、リオなど13都市でW杯反対デモがくり広げられ、100人以上が拘束されている。スローガンは、「W杯いらない、ほしいのは医療と教育」

東京ではオリンピック推進派の都知事が選出された。ブラジルとちがって、「オリンピックいらない、原発もいらない」という声はほとんど聞こえない。オリンピック凱旋パレードに50万人もの人が集まっても、オリンピック反対デモには人が寄りつかない。

ブラジルが帝政を廃止して共和制を選んだその同じ頃、日本では万世一系の天皇の帝政を選んだのだから、果たしてどちらが民主主義的民度が高いのだろうか。
(2014年2月12日)

闘いすんで日は暮れて…

都知事選が終わった。「圧勝舛添氏211万票」(毎日)、「細川氏らに大差」(読売)という、面白くも可笑しくもない結果。いくつかの印象を感想程度に述べておきたい。

まずは、投票率のあまりの低さについてである。
大雪が外出の意欲を阻んだのは投票前日の2月8日だけのこと。選挙当日の9日は、積もった雪こそあれ、近所の投票所まで足を運ぶことに差し支えるほどだったとは思えない。まったく影響なかったとは言わないが、投票率46.14%は盛り上がりに欠けた選挙だったというほかはない。

この都知事選限りのものであればよいのだが、政治というものの総体としての地盤沈下が進行しているのではないかと不気味である。有権者の主権者意識や、政治参加意識、あるいは民主主義が衰退しつつあるのではないか。そもそも議会制民主主義が揺らいではないだろうか。

この低投票率が細川護煕候補への逆風となった。思いがけない惨めな負け方。陣営が語っているとおり、風を恃むだけで組織力のない選挙戦の無力をさらけ出した形。素人衆団が右往左往するだけだった前回宇都宮選挙の二の舞となった。

一方、自民・公明・連合、そして共産の各組織はフル回転したようだ。
本日の毎日の夕刊で、平沢勝栄・選対本部長代理が「永田町日記」の2月6日の記事として語っている。「組織票は、自民がフル回転して120万、公明が60万。無党派層を取り込み最低250万票は欲しい」 これが、低投票率でやや目算が狂ったものの、組織票がものを言ったことになる。
また、東京選出の全衆議院議員には、秘書を一人づつ舛添陣営に送り込むことや、集票のノルマが課された。全国の各国会議員には都民100人以上の名簿の提出を求めたという。「公認候補以上の力の入れ方だ。猪瀬直樹、石原慎太郎両氏の都知事選でもここまでやっていない」とのこと。

なお、平沢は告示直後の「日記」の記事として、舛添の勝利を確信し、その勝因を「相手(対立候補)に恵まれたこと」と言っている。「相手」とは細川候補だけのことで、その他の候補はまったく眼中になかったようだ。

共産党もフル稼働だった。連日の赤旗紙面は、突然救世主が地上に舞い降りたかのごとくに「素晴らしい候補者」を持ち上げた。前回選挙とは様変わりで、振り子は反対に大きく振れた。全国から運動員を東京に集中させてもいる。外から見る限り、宇都宮選挙は共産党の選挙となった。そして、前回の無能な選対本部とは打って変わって、選挙運動実務のスムーズな進行が見て取れる。時期を接しての同じ候補者の同じ知事選で公約もほぼ同じ。選挙運動のやり方を変えて、得票数では97万票から98万票に、得票率では14.5%から20.2%に伸ばした。

しかし、それが精いっぱいのところ。私は宇都宮君には、「立候補をおやめなさい」と言い続ける。今回選挙で革新の共闘にふさわしい清新な候補者を立てることができれば、細川氏の立候補もなく、本気で勝ちに行く選挙ができたはず、というのが私の確信である。

まことに意外だったのが、極右候補・田母神俊雄の泡沫とは言いがたい得票。61万票で得票率12.5%。これは恐るべき事態ではないか。61万票とは、かつて共産党の党内候補が知事選で獲得した得票に匹敵あるいは凌駕する。12.5%は、前回都知事選の宇都宮君の得票率(14.5%)と大差ない。

安倍と田母神は、この選挙ではねじれている。しかし、安倍晋三の「極めて親しいお友だち」である百田尚樹が、田母神の応援演説を買って出て物議を醸したのは2月3日のこと。安倍・百田・田母神は一つのラインにつながっており、安倍の心情は、舛添よりは田母神に遙かに近い。安倍が田母神やその同類と本気でグループを結成すれば、いやも応もなく、対抗のための反ファシズム統一選線を模索せざるを得ない。その日は、案外近いのかも知れない。

今回、脱原発運動を担ってきた広範な人々が脱原発二候補の「一本化」を願った。一本化とは、当然に細川候補への一本化だった。告示前も選挙期間中も、それ以外に一本化の選択肢はなかった。宇都宮君を支持した勢力が、今、ドングリの背比べに少しだけ勝ったとして、脱原発を誠実に願う立場から一本化実現に向けての発言をした人々を非難するようなことがあってはならないと思う。舛添211万票の右翼別動隊として、田母神が61万票をとっている時代なのだから。

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              命をつなぐ

「独立行政法人・森林総合研究所林木育成センター」は優良樹の育成や遺伝資源の保存をおこなっている。人間の役に立つ樹木をつくりだし、保存している。

例えば、マツノザイセンチュウ抵抗性品種の作成。松枯れの被害は、明治時代に九州から始まり、1960年代に急増し、現在は青森県にまで及んでいる。センターでは松枯れをひきおこすマツノザイセンチュウに抵抗力をもった松を作り出そうと研究を重ねている。何千本もの小松の枝にセンチュウをうえつけて、枯れないものを選び出す。現在十数種の品種が選別されているという。消えてしまった海岸の白砂青松の復元も夢ではない。

花粉症の人は春の訪れが憂鬱である。その最も大きな原因がスギ花粉だ。センターでは、「無花粉スギ」も作っている。スギの花粉は雄花から放出される。だから雄花の生育の悪い「雄性不稔スギ」の発見と改良が行われている。すでに20種類も発見され、成長や材質の優れたものが作出されているという。遺伝子組み換えによって花粉を出さない品種を作る研究も行われている。花粉症の人にとっては朗報である。

樹木の生長試験には永年にわたるモニタリングが必要なので、すぐというわけにはいかない。しかしながら、いったん優良樹が選定されれば、植物の場合、増殖は容易だ。接ぎ木や挿し木でいくらでも増やすことができる。山の杉林が絵に描かれたように整然としているのは、クローン杉で覆われているからである。

その接ぎ木技術が、同センターの東北育種所(岩手県滝沢村)で発揮され、三陸津波の被害を受けた陸前高田市の「奇跡の一本松」の保存に生かされている。高田松原の7万本におよんだクロマツとアカマツの林は、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)には防潮林の役割を立派に果たした。しかし、今回の三陸津波では7万本ものマツが根こそぎにされ、一本の巨木だけが持ちこたえた。と思われたが、地盤沈下で潮水に犯された根はじわじわと蝕まれ、9カ月耐えて命つきた。樹齢270年、樹高28メートル。レプリカが立てられたが、永い年月保存し続けるのは至難の業だ。当然レプリカは不自然で、不満だという声も聞こえる。

その声に応えるように、この奇跡のマツは枯死する前に、滝沢の同センターに「一枝の命」を託したのである。この一枝から100本の接ぎ木が作られ、9本が活着してすくすくと育っているという。現在30センチあまりに成長している。2011年4月にやや時期はずれに行った接ぎ木苗のうち、50日後に4本の芽が出ているのが確認された。このツギキ4兄弟に故やなせたかしさんが「ノビル」「タエル」「イノチ」「ツナグ」と命名した。きっと今頃津波犠牲者の方々にやなせさんが「つながれた命」のお話を伝えていることだろうと思う。

残ったツギキ5姉妹に「朝凪」「夕凪」「さざ波」「そよ風」「思い出」と名付けたらどうだろう。その9兄弟姉妹からつぎつぎと命がつながれていけば、高田松原の再生も夢ではない。高田松原で拾われたマツボックリから600本の実生も育って、「高田松原を守る会」へ引き渡されたそうである。地盤さえしっかり作れば20年後には見栄えのする松原がきっと出来上がる。

そんな話を聞くと、私もセンターの育種所で接ぎ木をしたり、種をまいたりする手伝いをしてみたいものと切に思う。
(2014年2月10日)

選挙運動費用収支報告書虚偽記載の摘発実例

本日の赤旗社会面に、次のベタ記事がある。
「民主陣営関係者3人を書類送検=公選法違反容疑など
 2012年の衆院選などの際、うその領収書を作成したなどとして、秋田県警は7日までに、衆院選秋田3区に民主党公認候補として出馬し落選した三井マリ子氏、13年の参院選で落選した同党秋田県連代表の松浦大悟氏の両方の陣営で選挙運動をしていた3人を、横領と公選法違反(虚偽記載)容疑で書類送検しました。」

ここまでは、2月7日に時事が配信した記事のとおり。そのあとに、次の記載が続いている。
「三井氏が、13年5月、政治資金に不明瞭な流れがあったなどとして、関係者らを告発していました。秋田地検などによると、3人は陣営の協力者への報酬の一部を着服し、報酬を別人に支払ったなどとする嘘の領収書を作成した疑い。」
さすが赤旗。記事は小さいが、都知事選投票日に全国版の記事として扱っている。

ただ、この赤旗記事だけでは、何が起こったのかはよく分からない。
「うその領収書を作成」したのなら、有印私文書偽造。公選法違反(虚偽記載)容疑とどう結びつくのか。そして、横領容疑の中身は? 金額は?

昨日(2月8日)の「毎日」秋田版に次の記事がある。
「2012年12月の衆院選秋田3区や13年7月の参院選秋田選挙区で民主党公認候補者の選挙運動費用収支報告書にうその記載があったとして、陣営関係者が公職選挙法違反(虚偽記載)容疑で書類送検された事件で、送検されたのは陣営幹部運動員ら男3人と分かった。県警は3人を横領容疑でも書類送検した。

 捜査関係者によると、3人は衆院選秋田3区で落選した三井マリ子氏陣営の選対本部副本部長ら。このうち2人は参院選秋田選挙区で落選した松浦大悟党県連代表陣営の運動員でもあったという。

 送検容疑は、衆院選や参院選で、選挙ポスター張りをした人の報酬の一部を着服し、実際は報酬を支払っていないのに、支払ったといううその領収書を作成したとしている。領収書は県選管に提出する収支報告書に添付されていた。県警などは着服した金額は1人当たり数万円で、ガソリン代や食事代に使ったとみて調べている。」

私の関心は、「公職選挙法違反(虚偽記載)容疑での書類送検」と、「うその領収書を作成して、県選管に提出する収支報告書に添付していた」事実だ。そして、「ガソリン代や食事代」なら、実費弁償として認められる出費が、届出をしていないばかりに横領とされていること。

2013年10月30日付毎日(秋田版)は、「三井マリ子氏の告発を機に、浮上した選挙運動費用収支報告書の虚偽記載問題」の内容を次のとおり報告している。
「三井氏陣営の選挙運動費用収支報告書によると、衆院選公示日は86人がポスター張りなどをし、報酬を支給された。しかし、県警のこれまでの調べでは、架空の領収書が作成され、実際は報酬を受け取っていない人や額面の一部しか受け取っていない人がいるとされる。県警は虚偽記載の経緯とともに、浮いた金の使途などを調べている。」

また、2013年10月28日付毎日(秋田版)は、「県選管に提出した収支報告書によると、衆院選告示日の昨年12月4日に三井氏の選挙ポスター張りなどをした横手市などの有権者86人に労務の対価として報酬計81万9000円が支払われた。」と報道している。

実は三井マリ子氏の告発は関連する別件を含むもので、その別件に関連して民事訴訟の係属もある。しかし、その件は論じることに公共性・公益性が乏しく、私の関心事でもない。その別件を切り離して、問題を整理すれば、以下のとおりである。

純粋にポスター張りだけの機械的労務の提供をする者に、一日1万円を限度として「労務者報酬」を支払うことは、公選法の認めるところ。事前の届出も必要がない。三井マリ子陣営の選対本部副本部長らは、選管に「86人の労務者に報酬計81万9000円を支払っていた」旨の選挙運動費用収支報告の届出をした。届出には、領収書の添付が必要だから、届出内容に沿った領収証が作成され添付されていたはずである。

ところが、警察の捜査によって、そのうちの一部が架空の報酬支払いであって、選管への届出は虚偽の報告として公選法(246条)違反であり、添付の領収証は名義人が作成したものではない偽造文書として、刑法159条に該当する。さらに、偽造の届出によって浮かせた金の着服が横領(おそらくは刑法253条の業務上横領)の罪に当たると判断されて送検に至った。

三井陣営の選対副本部長ら3名の氏名は、選挙運動費用収支報告書に記載されていない。捜査機関の捜査によって特定された。公選法違反は、選挙の公正の保障と、世人の選挙公正への信頼を傷つけるもの。横領は、財産犯だが、「1人当たり数万円」だから、3人で15万円前後であろうか。しかもその使途が「ガソリン代や食事代に使った」とみられている。それでも、摘発され、捜査対象となり、送検されている。適正に届出をする限り、「ガソリン代や食事代」の支出は実費弁償の支出として何の問題もない。しかし、届出をしなければ、横領として処理されることになる。このことの意味は極めて重い。

翻って、三井マリ子選挙と同じく、2012年12月16日投開票の都知事選宇都宮候補の選挙運動費用収支報告を比較してみたい。

東京都選挙管理委員会に対する2012年12月28日付の「第1回」報告では、上原公子選対本部長(元国立市長)、服部泉出納責任者の両名について、「選挙報酬として」と明記された10万円受領の領収証が添付されて、「労務者報酬」としての支出届出がなされている。後の訂正届出(2014年1月22日)によって、これが虚偽報告であることが明らかになっている。添付の領収証も「撤回」されたごとくであるが、覆水は盆に還らない。いったん成立した虚偽届出の犯罪(公選法246条違反)が事後の行為によって消滅することはない。

「三弁護士の法的見解」によって、上原公子選対本部長(元国立市長)、服部泉出納責任者の各10万円の受領自体は明確にされている。「三弁護士の法的見解」は、実費弁償の対象となる出費があって、それに充てるための支払いであったと言うがごとくである。しかし、それでもなお、その20万円について、横領罪が成立するというのが、今回摘発された秋田の事件なのである。

「第1回報告」に添付された、上原公子選対本部長(元国立市長)と服部泉出納責任者の各領収証は、仮に本人が作成したものではなく偽造されたというのであれば、偽造者の特定が必要であって特定された偽造者の犯罪が追及されなければならない。偽造でなければ、選挙運動者に対する報酬の支払いとして、運動員買収・被買収の犯罪が成立する。

また、「三弁護士の法的見解」によって明確にされた上原・服部が受領した20万円は、その後の訂正届出によって宙に消えてしまった。どう取り繕うとも、宇都宮陣営がクリーンで透明性を確保されたな選挙にほど遠いことが明らかである。革新陣営の候補者は徹底してクリーンでなければならない。ましてや、前都知事の選挙運動費用の不正を徹底して追及しようと公約を掲げている候補者においてはなおさらである。

また、クリーンでない実態が明らかになったら開き直ってはならない。それは、自浄作用の能力を欠いていることを自白するだけのことなのだから。
(2014年2月9日)

オリンピックはうんざりだ

ソチでの冬季オリンピックが始まった。メディアは都知事選を駆逐してオリンピック一色。そればかりではない。開会式の派手な演出にマスメディアが踊らされて、プーチン・ロシアの国威発揚を幇助している。いや、ロシアばかりではない。この舞台に溢れる過剰なナショナリズムに辟易せざるを得ない。

2020年東京オリンピックの際の喧噪はいかばかりだろう。不愉快な行事への巻き込まれは、まっぴらごめんだ。その間は我が家に鍵をかけて東京を脱出しよう。オリンピック疎開だ。

なによりも、各国の国旗の洪水にうんざりである。旗ではなくバラの一輪、梅の一枝でもかざして歩く風流な参加者はいないものか。旗でもよい。手作りのデザインで、平和や自然の保護を訴えてみてはどうか。「国家」という、これ以上ない不粋なもののシンボルをかかげた何千人もの無邪気な行進を恐ろしいと思う。

幕藩体制の崩壊とは、各藩のナショナリズムが日本というインターナショナリズムに呑み込まれる過程だった。いま、日本というナショナリズムが、インターナショナリズムと拮抗している。インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実のパワーである。いずれ、ナショナリズムは克服されて消滅するだろう。国境という人為的境界は、情報と経済と往来の交流によって意味をなさなくなる。言語と宗教と生活様式も入り乱れ、人種の純粋も維持できるはずがない。国境という政治権力の支配領域が消滅することは、人が人らしく生きていくことのできるための大きな歴史の進歩である。

国際社会が、国家を単位として成立している現状では、国旗は各国家を識別する機能をもつものとして有用な存在である。本来それだけのことだ。しかし、国民のナショナリズムの感情と、ナショナリズムの機能を知悉する国家や政権においては、国旗は別のはたらきを期待され、あるいは意図的に利用される。国民一人一人の意識を国家に収斂させ、その方向で国民を統合させる機能の活用である。国旗が象徴する国家の統治における利便のために、国民の個人としての人権意識を眠り込ませ、国家に服属せしめる役割と言ってもよい。

権力は、無批判な統治しやすい国民がお望みだ。「個の確立」だの、「思想良心の自由」などと、生意気なことを言わない国民精神を叩き込みたい。権力や国家と一体化した国民の精神形成を好都合としているのだ。さらに、国家の政策に積極的に献身する国民の精神をつくり出すことができればこの上ない。

「国家を抑圧者だと思うな。国家を危険な存在と考えてはならない」「国を愛せ。国を敬え。国民一致して国を支えよ」と教えたいのだ。その意図を貫徹するために、国家を象徴する国旗への忠誠の態度の涵養が極めて重要な役割を演じる。まずは、なんの疑問もなく、無邪気に無批判に、そして自然に国旗に頭を下げ、日の丸の小旗を打ち振る習慣を作ってもらいたい。そうすればしめたもの。そのために、オリンピックは格好の学習の場だ。

かつて、出征兵士は日の丸の小旗の波で戦地に送られた。その戦地では、一つの街を落せば、そこに日の丸が掲げられた。日の丸は、侵略と植民地支配のシンボルというだけでなく、戦争を支えた忠君愛国、滅私奉公の臣民精神のシンボルでもあった。その忌まわしい過去を持つ旗が、今法制上国旗となっていることを嘆かざるを得ない。

ソチのオリンピック会場の開会式では、日本の選手団も観客も、無邪気に日の丸の小旗を振っていたようだ。その無邪気さ、無批判さが恐しい。その無邪気・無批判な多数者の行為が、集団の圧力となって日の丸に敬意を表することに疑問を呈する少数者を圧迫する。それだけではない。無邪気な多数者が支える権力が少数者への国旗強制を可能とする。

いま、ロシアは、同性愛に対する偏狭な姿勢で国際的な批判を受けている。同性愛宣伝禁止法や同性婚への非寛容が人権侵害であることは、多くの無邪気で無批判な日本の国民には理解しがたいのではないか。国旗や国歌の強制についても、よく似ている。無邪気で無批判な大多数には他人事だが、国旗や国歌、あるいは「日の丸・君が代」の押しつけには、精神の核心において受容しがたく、全人格をかけて抵抗せざるを得ない人もいるのだ。

オリンピック会場の国旗の波は、社会的同調圧力となり、さらに「民主主義的手続」で権力的な強制に至る。だから、オリンピックは憂鬱だ。オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。オリンピックを国威やナショナリズム昂揚の場とすべきではない。国家からの統制を受けない精神の自由に思いを馳せよう。
(2014年2月8日)

「憲法の『うまれ』と『はたらき』」              ー樋口陽一論文を読む

本日配送された東京弁護士会の機関誌「りぶら」の巻頭に、樋口陽一さんの「憲法の『うまれ』と『はたらき』」という寄稿がある。憲法改正の論議が、「うまれ」と「はたらき」を問題にするものと捉えて、副題のとおり、「改憲論議の背景を改めて整理する」という内容。長い論文ではないが、さすがに読み応えがある。

憲法の「うまれ」と「はたらき」という用語法は、1957年の宮沢俊義「憲法の正当性ということ」によるものとして、まず宮沢の、「うまれ」と「はたらき」についての議論が紹介される。続いて、同じく敗戦から生まれた憲法をもつドイツ(再統一前は西ドイツ)における議論との比較に紙幅が割かれ、その考察から自民党改憲草案の批判で締めくくられている。

「うまれ」に関する論述にも興味深い点があるが割愛する。主たるテーマとしての「はたらき」についての論説だけを紹介したい。

『宮沢が憲法施行10年を経て憲法の「はたらき」を論ずるとき、彼は、「法の解釈」を主導する立場に立って明確な価値判断の物差しを提示する。「人間の社会の目的」として,「自由」と「人間に値いする生存」という二つの価値を挙げている…。これら二つの価値は…この地上で「人類普遍」にゆき渡っていることから離れて遠い。だが,「解釈学説」の立場に立ってこの物差しを前提にするならば,憲法の「はたらき」について,水掛け論でない議論が成り立つはずである。』

「自由」と「人間に値いする生存」。この二つが、「人間の社会の目的」であって「法の解釈」を主導する価値判断の物差しだという。なんとシンプルで、力強いメッセージではないか。

この物差しを基準にした評価において、ドイツと日本とでは、憲法の「はたらき」に大きな差が生じている。その視点から、つぎように語られている。

『基本法成立50周年の節目におこなわれたドイツ国法学者大会(1999年)で,演説した学会理事長(Ch.シュタルク)は,半世紀間の憲法と憲法学の実績を積極的に評価することができた。』『西ドイツという部分国家の暫定憲法だった基本法は,すでに長く確定的な憲法と目され,本物であることを実証し,法についての共通理解の根拠,統合要因となり,それどころか,他の諸国の多くの新憲法の手本としてすら役立ってきた。』

『「日本国憲法50年一回顧と展望」を主題とした1996年日本公法学会での二つの記念講演は,同じく自国の憲法50年をふり返ってのシュタルク講演との好対照を見せている。宮沢のあとをうけて憲法解釈学説の主流を担った芦部信喜は,「改憲論およびそれとセットで打ち出された軍事,公安・労働,教育,福祉あるいは選挙制度改革などの諸政策を前にして,自由主義的・立憲主義的憲法学は批判の学ないし抵抗の学としての性格を強めざるを得なかった」と指摘した。違憲審査の実務に最高裁判事として携った体験をふまえて伊藤正己は,「憲法学と憲法裁判の乖離の現象とその原因と考えるもの」の検討を主題としなければならなかった。』

ドイツでは「半世紀間の憲法と憲法学の実績が積極的に評価」されているのに、日本では「憲法のはたらきの欠損」を問いつづけなければならない現実があるのだ。

憲法学は現行憲法の「はたらきの欠損」を嘆いているが、現政権は現行憲法の「欠損したはたらき」さえも桎梏と感じている。その典型が、「政権に不要な足かせと感じられている9条」の改廃が必要とされていることだ。

そのような視点から、『いま一番有力な案として国民に示されている「自由民主党憲法改正草案」(2012・4・27)が,これまでの同党の草案・構想類と質的に違う』ことを見定めておく必要があるという。その具体的な指摘が次のとおりだ。やや長いが、引用する。

『自民党案の特徴は,何より,前文の全面書き換えにあらわれている。案に添えられたQ&Aは,全文差し替えの理由を説明して,「天賦人権振り」の規定だからよくないと言う。現行の前文は,「この憲法」が西洋近代の法の考え方を「人類普遍の原理」として受け入れるという立場で書かれている。それに対し改正案の文言は,「日本国」「わが国」の特性を強調する言葉で綴られている。「長い歴史と固有の文化」「天皇を戴く国家」「国と郷土」「誇りと気概」「美しい国土」「良き伝統」「国家を末永く子孫に継承」などの語句それ自体としては,人びとの共感を呼びおこすでもあろうし,逆に反感の対象となるかもしれない。だがここでの問題はそういう次元でのことではない。これらの文言が,「天賦人権振り」を嫌い「人類普遍の原理」への言及をあえて削除するという文脈の中で持ち出されていることが,問題なのである。「イスラームにはイスラームのやり方がある」「中国には中国流の人権がある」というのに倣うかのように「日本は日本」という対外発信を含意する改正案は,これまでの政権が「価値観を共有する」と揚言してきた米欧諸国との間でのどのような関係を想定しているのだろうか。』

つけ加えて、樋口さんは次のように言う。
『改正案を「明治憲法への逆戻り」と評するのは,全くの見当違いと言わなければならない。』

樋口さんによれば、大日本帝国憲法は、近代化による欧米世界への参入のための必然的要請に応えるものとしてつくられ、『その本文各条は概ね19世紀ヨーロッパ基準の原則に対応して書かれている」。つまり、グローバルスタンダードからの乖離という視点では、自民党改憲草案は大日本帝国憲法以上に問題性を抱えたものだというのだ。

さらに、現行憲法13条の,「すべて国民は,個人として尊重される」の「個人」を「人」に変えようとする改正案に関して、『「個人」の生き方の自律と利益主張に正当性の根拠を提供して戦後社会の安定を支えてきた憲法の「はたらき」に,正面から異議申立をあえてするそのような改正案を掲げる現在の自由民主党のありように対し,元総裁(河野洋平)や幹事長経験者(加藤紘一,野中広務,古賀誠)の諸氏が憂慮の思いを公にしていることは,重要な示唆を与える。』と指摘している。

戦後社会の安定を支えてきた「保守」政治に、日本国憲法の「はたらき」が大きく寄与してきたとの認識である。旧来の保守とは様相の異なる、現安倍政権は、この「憲法のはたらきに基づく安定」を投げ捨てて、危険な方向に走り出しつつあるということだ。

安倍政権の暴走を止めなくてはならない。「旧来の保守層」の良識を信頼し、大きな共同の力を結集して。手遅れにならなないうちに。
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               ウメの木のピンチ
「春されば まず咲くやどの梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ」
                                       山上憶良
「梅の花 折りてかざして遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり」
                                       礒氏法麻呂

「梅の便り」が聞かれる季節になった。しかし今年はそんな暢気なことをいっていられない。今日の毎日が「青梅の『公園』まつり後」「梅すべて伐採」と報じている。果実の葉や実に天然痘(ポックス)のような丸い模様が出て、実が商品価値のなくなる、プラム・ポックス・ウイルス(PPV)の流行が猖獗をきわめているとのこと。人体に悪影響はないが、ウメ本体の治療法はなく、根ごと抜いて焼却する以外に蔓延を防止する方法はない。吉野梅郷の「梅の公園」では、すでに500本以上を伐採したが残る700本も、「梅まつり」のあとに伐採することにしたという。

青梅市全体では、2009年の病気流行以来6万5千本あったウメの3分の1が消滅した。それでもPPVの流行が食い止められるかは予断を許さない。緊急防除地区は、青梅市、羽村市、日ノ出町、八王子市など広範な東京都西部地域にひろがっている。さらに、ここから苗木や接ぎ木が出荷された大阪府や兵庫県にも流行はおよんでいる。南高梅の最大産地・和歌山県はさだめし戦々恐々としていることだろう。

恐ろしいことに、このウイルスはアブラムシによって媒介され、ウメだけでなく、アンズ、モモ、セイヨウスモモなどのサクラ属が感染する。果樹園だけでなく、公園や一般家庭の庭木の感染にも目を配らなければならない。各自治体では「お宅の庭木に病気が出ていれば申し出てください」と呼び掛けている。このままおけば、PPVは全国にひろがってしまうおそれがあるのだから。「まず咲くやどの梅の花」などと暢気なことはいっておられない。

農作物としての梅の木の除却には、植物防疫法に基づいて損失補償がなされるというが、丹精込めて梅の木と実を育ててきた出荷農家の不安はいかばかりだろう。なお、青梅市の「梅まつり」観光収入は9億円にのぼるが、こちらは補償が難しいといわれている。「花を愛でる愛着の心」などは補償の対象に考慮してもらえそうにない。

日本の植物の代表格「松竹梅」のうちのふたつが深刻な受難の事態にある。アカマツもクロマツも数年前から、マツノザイセンチュウに侵されて、海岸からも庭からも消えつつあるのだ。庭の黒松の枝や葉がだんだんに赤くなり、枯死していくのをなすすべもなく見ているのは本当につらいことだ。そしていま、梅も同じ運命をたどりつつある。しかし、もうひとつの「竹」だけは、過疎化して手入れの行き届かない竹林から這い出して、山や野原や道路まで埋め尽くす勢いで繁茂している。

今に始まったことではないが、「滅び」も「栄え」も、人の手には負えない。せめては、人の手でできる範囲では徹底して自然を守ろう。戦争はやめよう。原発もやめよう。
(2014年2月7日)

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