澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍は知るや「立憲主義」のなんたるかを

東京新聞の13日トップに、意外な大見出しが躍った。「首相、立憲主義を否定」というもの、副見出しとして「解釈改憲『最高責任者は私』」「集団的自衛権で国会答弁」とある。

以前であれば、あるいは凡庸には、「首相、集団的自衛権容認に積極姿勢」「『解釈改憲』に踏み込む発言」「首相、政府の九条解釈変更に意欲」くらいの見出しとなったのではないか。「立憲主義否定」が一面トップとなったことに、いささかの感慨を禁じ得ない。1年前ではあり得なかった。この1年の改憲阻止の運動の中で、「立憲主義」は人口に膾炙したのだ。

「東京」の記事は、「安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更をめぐり『(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける』と述べた。憲法解釈に関する政府見解は整合性が求められ、歴代内閣は内閣法制局の議論の積み重ねを尊重してきた。首相の発言は、それを覆して自ら解釈改憲を進める考えを示したものだ。首相主導で解釈改憲に踏み切れば、国民の自由や権利を守るため、政府を縛る憲法の立憲主義の否定になる」というもの。

集団的自衛権行使容認のために解釈改憲を進めようという安倍の発言を捉えて、「立憲主義を否定」と言いきったところに、センスのよさが光る。とはいえ、この発言の孤立・空回りの危険も感じていたのではないだろうか。

翌14日の赤旗がこれに続いた。やはり一面トップで、「立憲主義を否定する集団的自衛権への暴走は許されない」「志位委員長が首相を批判」というもの。内容は東京新聞と変わらない。政党機関紙でも、赤旗は全国紙。東京新聞としては、援軍として心強かったのではないか。

本日(15日)の毎日では、石破幹事長の防戦の言葉が紹介されている。「立憲主義をないがしろにし、『首相が言えば何でもできる』と言ったわけではない」というもの。俄然、立憲主義をめぐる攻防が政治の表舞台に躍り出た。

もちろん、産経は冷ややか。東京の13日トップの記事を取りあげて、「最近の東京新聞は『反原発、反自民』路線が徹底しており、皮肉ではなく『よくぞここまで』と感心します」と「褒めちぎって」いる。その上で、「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます。その憲法の解釈権は、行政府では内閣法制局ではなく、内閣が持つのが通説で、首相答弁は、当たり前の話です。東京さん、子供だましはもうやめましょうね。(編集長 乾正人)」と言っている。

もしかして、産経しか読まない読者は、「東京さんが子供だましをしている」と思い込んでしまうかも知れない。ここは、「東京さん」のためではなく、立憲主義のためにどうしても一言しておかねばならない。

「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます」という産経流は、どこから拾ってきた定義だろうか。まったくの嘘ではないように見えて、実は決定的に間違っている。

今、この社会で普通に使われている立憲主義という用語は、個人主義と自由主義に立脚した近代立憲主義を指す。ここには、主権者国民が人権の擁護を至高の価値として、人権侵害の危険をもつ権力の発動を制約するために憲法を制定し、主権者国民の立ち場から権力に憲法を守らせるというコンセプトがある。「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うこと」という定義では、どんな憲法でも、どんな政府でも、どんな統治でも、「形式的に憲法に従った政治」でさえあれば、立憲主義に背馳するものではないことになる。これでは、立憲主義の内実は殺ぎ落とされ、三文の値打ちもなくなってしまう。安倍晋三を喜ばせるだけ。「最近に限ったことではありませんが、産経新聞は『親自民、親安倍、親権力』路線が徹底しており、もちろん皮肉ですが、『よくぞここまで』と感心します」

正確には、産経流の「立憲主義」は、真正の立憲主義から区別して、「外形的立憲主義」という。外形的立憲主義に基づく憲法の典型として、プロイセン憲法(1850年)、ドイツ帝国憲法(1871年)、そして大日本帝国憲法(1889年)が挙げられる。いずれも、強大な君主大権をもつもので、個人主義、自由主義、国民主権に立脚するものではない。それでも、産経流の定義にはぴったりなのだ。

昨日(14日)、首相は国会答弁で「立憲主義」の考え方を「王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と説明したと報じられている。産経流は安倍流でもある。もしかして、産経子は、「17か条の憲法による政治」も、「憲法に立脚した統治を行うことをいいます」の範疇に入れているのではないだろうか。「産経さん、子供だましはもうやめましょうね。」

これまで行政組織全体として積み重ねてきた憲法解釈を、主権者国民の意向を問うことなく、安倍個人が瓦解させようというのだ。暴挙というほかはない。真っ当な多くの人々から、安倍批判が噴出している。

本日の東京は追い打ちをしている。「憲法分かってない」「首相解釈変更発言」「与野党やまぬ批判」というもの。名前が上がっているのは、公明党の井上義久幹事長、民主党の枝野幸男憲法総合調査会長、結いの党の小野次郎幹事長。生活の党の鈴木克昌幹事長、共産党の志位和夫委員長、社民党の又市征治幹事長、自民党内では、村上誠一郎、野田毅、船田元、そして谷垣禎一法相も。

枝野幸男の批判は厳しい。「権力者でも変えてはいけないのが憲法という、憲法の『いろはのい』が分かっていない」というもの。

最後に、意外な人の意外な立憲主義「擁護」発言のご紹介。舛添要一新都知事だ。「自民憲法改正草案、立憲主義の観点で問題」というもの。短いから、本日毎日社会面の片隅の記事を全文転載する。
「東京都の舛添要一知事は14日、就任後初の定例記者会見で、選挙で支援を受けた自民党の憲法改正草案について『立憲主義の観点から問題がある。今のままの草案だったら、私は国民投票で反対する』と述べた。
 舛添氏は2005年に自民党がまとめた第1次憲法改正草案の取りまとめに関わった。会見で野党時代の12年に出された第2次草案について問われると『学問的に見た場合、はるかに1次草案の方が優れている』と指摘。2次草案の問題点として
(1)天皇を国の「象徴」から「元首」に改めた
(2)家族の条文を設け「家族は互いに助け合わなければならない」と規定した
(3)「国防軍」の創設を盛り込んだ−−点などを挙げた。
また国民の権利に関し、1次草案の『個人として尊重される』を2次草案で『人として尊重』と変えたことに触れ『憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ』と厳しく批判した。
 舛添氏は19日に憲法改正の考えをまとめた新書を発行するが、内容について『都知事選に出るから自民党寄りに書き換えたことは全くない』と強調した。」

「個人として尊重される」を「人として尊重」と変えたことについて、「憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ」という説明には、なるほどと頷かざるを得ない。

舛添と枝野の両名。かつては自民党と民主党を代表して憲法改正の協議を煮詰めた張本人。当時は改憲をたくらむ実務者・実力者として評判が悪かった。それが今は、ともに安倍改憲への批判の矛先が鋭い。この両名への評価の見極めは難しいが、安倍がたくらむ改憲内容のひどさを際立たせることには貢献している。
(2014年2月15日)

Info & Utils

Published in 土曜日, 2月 15th, 2014, at 23:11, and filed under 未分類.

Do it youself: Digg it!Save on del.icio.usMake a trackback.

Previous text: .

Next text: .

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2014. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.