澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

続・立憲主義を「ひらがなで語る」こと

昨日(2月16日)のブログは、自分でも手抜きだと思った。いろんな事情があったのだが、言い訳にはならない。さっそく、親しい知人から叱責をいただいた。

「当初一見かみ合わないように見えた、三氏の問題提起が、会場からの質問と意見を受けながら、どのようにかみ合っていったのか。また、立憲主義を『ひらがなで語る』とどうなるのか。続きを期待する」

手厳しい指摘だが、こんなに丁寧に拙文を読んでくれる読者のいることがブログを書き続けることの冥利。立憲主義を「ひらがなで語る」ことの続編だけでもきちんと書いておかなければならない。

梓澤和幸君流の「ひらがなで語った」立憲主義は、大要次のとおり。
「全速力で走り続けている機関車がある。下りの急勾配に差しかかったが、スピードは落ちない。このままでは危ない。このとき、権力という機関車の暴走へのブレーキが憲法。機関車に、あらかじめ国民の意思によるブレーキを組み込んでおくことが立憲主義だ」「用語はどうでもよい。権力の暴走を許さず、あらかじめの国民の命令として、ブレーキをかけられる仕組みが整っていることがたいせつなのだ」

なるほど、おもしろい。それなりによく分かる。しかし、まだ腹にストンと落ちるところまではいかない。名人芸の域に達しているとは言いがたい。

よく引き合いに出されるのは、ギリシア神話に登場する海の妖精セイレーンとオデュッセウスの話。セイレーンは岩礁から美しい歌声で船人を惑わし、歌声に魅惑された船人は舵を誤って難破し命を落とす。ホメーロスに詠われた『オデュッセイア』では、トロイ戦争から帰路のオデュッセウスが、船員には蝋で耳栓をさせ、自身を帆柱に縛り付け、「自分かセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命じても従ってはならない。より一層強く締め上げるよう」部下に命令する。部下はこの命令を忠実に実行して、一行は難を逃れる。サイレーンの歌声の誘惑に自らが負けてしまうことを知っているオデュッセウスの知恵として説かれる。

名古屋大学教授・愛敬浩二さんは、この説話を引いて、自らの「意志の弱さという問題を抱える合理的主体が自らの自立性を損なうことなく、継続的な合理性を獲得するテクニック」と解説する。これこそ立憲主義の神髄というわけだ。

主権者オデュッセウスは、「自分がセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命令した場合は、より一層強く締め上げるよう」憲法を制定する。いざ、オデュッセウスの気が変わって、「この馬鹿者ども。私の命令が聞けないのか。この縄をほどけ」と叫んでも、縄を解くことは違憲の行為として許されない。セイレーンと遭遇する以前のオデュッセウスの最初の命令が高次なもので、その後現実にセイレーンと遭遇してからの命令はそれに劣るものとして従ってはならない。最初の命令が憲法の制定で、次の命令は憲法に違反するものとして効果を否定される。これが立憲主義。

「民主国家において、主権者であるはずの人民の政治的な決定権が憲法によって制限されているのも、そうして制限を課された政治権力の方が、長期的に見れば、理性的な範囲内での権力の行使をおこなうことができ、無制限な権力よりも強力な政治権力でありうる」から、などとも説明される(東大教授・長谷部恭男さん)。

「開戦が主権者国民の意思だから戦争を始める。半世紀も前の国民の意思に縛られる必要はない」という意見を憲法は許さないのだ。これが立憲主義。自らの弱さや変節の可能性をよく知る主権者が、自らを帆柱に縛り付けた縄、それが憲法、そして予めそのような制約を自らに課しておこうという考え方が、立憲主義だということ。これもなかなかの説明だが、まだ十分には納得しがたい。

「おまえはどうだ。自分のひらがな言葉で語ってみよ」と言われても、実はできない。しばらくは、漢字の「近代立憲主義」と、横文字の「constitutionalism」で語るしか能がない。立憲主義を説明するには、人権の至高性、憲法制定権力と権力授権の関係、そして憲法の権力に対する制限規範性、さらに主権者が主権者自身をも制約することが語り尽くされなければならない。これを、やさしく、深く、楽しく、愉快に、明るく、展望をもって、そしてひらがなでかたれるようになりたい。
ああ、今日も結局は不十分な内容で終わってしまった。
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            雪の日の白イチゴ
今年は東京にも何度も雪が降った。家中冷蔵庫に入ったように寒い。積もった雪を集めて重ねると却って融けが悪くなると理屈をつけて、雪かきはしない。

ところが、常緑のミカンや椿に雪が積もって、しなった枝が地面まで届いている。雪下ろしの手間を惜しんだばかりに、大枝が見事にボキリと折れてしまった。天から落ちてくる雪を相手に喧嘩をするわけにもいかないので、「チャドクガがつくので、枝透かしをしなければと思っていたのだから、手間が省けた。」と案外さっぱりあきらめている。落語の「天災」のとおり、石田梅岩流「心学」で納得しているのがおかしい。

もっとも、「ツバキ 曙」の腕ほどの太さの枝が折れて、蕾が最後を知ってか、ピンクの花びらを競って開こうとしているのが憐れである。「大丈夫、椿は強い。新梢を吹いて、4,5年で回復する。低く仕立てて楽しめばいい」と自分に言い聞かせている。

真っ白な雪の美しさに感心していたら、朝日に「白イチゴ」の記事が出ていた。人の欲望は計り知れない。イチゴは真っ赤なものと思っていたら、真っ白い雪のようなイチゴが売り出されたという。「実の重さが100グラムを超える大玉の『天使の実』は銀座で2万9千円(9粒)で販売される超高級品」と報じられている。確かにイチゴの品種改良は激しく、ちょっと前に「東の女峰 西のとよのか」といわれてもてはやされていたが、今では八百屋さんにそんな名前は見えない。今主流は、とちおとめ(栃木)、さがほのか(佐賀)、あまおう(福岡)、紅ほっぺ(静岡)。みんな1個50グラムはありそうな、つやつやのピカピカ。値段も1パック300円ほどから800円ほどまで。大粒ほど高い。

ヘタのところまで赤いとうれしがっていたのは昔のこと。真っ白いイチゴ「天使の実」は色づかないように、厳格に温度、紫外線の管理をして、土で汚れないように白いビニールシーツで覆って栽培するという。

2007年9月16日のやはり朝日の記事の切り抜き。「中国西部の山岳地帯で不思議なイチゴを見つけた」「この(野)イチゴは完熟しても白いままなのだ。この地域のイチゴはみんな白いかというとそうでもなく、別の種のイチゴはちゃんと赤く、場所によっては紅白入り交じる」「口に入れると、まず桃に似たほのかな香りと、凝縮された甘さ。それを、濃厚なミルクの味が追いかけてきた」(青山潤三・動植物写真家)と書かれてある。

さて、一個3千円もする「天使の実」はどんな味と香りがするのだろう。絶対買いはしないけれど、見物に行って形と色と、そして香りだけでも愛でてこようか。
(2014年2月17日)

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Published in 月曜日, 2月 17th, 2014, at 23:49, and filed under 未分類.

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