澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「別姓訴訟」に素敵な判決を

私が、盛岡で若さに任せて活動していたころ、たいへんお世話になった先輩弁護士が菅原一郎さん。菅原さんは、労働事件をやるために弁護士になったという人で、岩手弁護士会の中心に位置して、危なっかしい私を支えてくれた恩人。惜しいことに、昨年鬼籍に入られた。

その一郎さんは、ご夫婦ともに弁護士。旧姓坂根一郎さんと菅原瞳さんとが結婚して、婚氏を菅原にしたのだ。しかも、一郎さんは母の手一つで育てられた長男。姓を変えることに抵抗がなかったはずはない。それでも、自分の姓を捨てて妻の姓をとられたことが語りぐさだった。愛着ある旧姓に固執せず、妻の姓を名乗られたことは、口先ばかりの男女同権を語る男性が多い中で異彩を放つものとして、たいへんな尊敬を受けていた。

後輩には伝説となっていた。真偽のほどは定かでないが、どちらの姓を名乗るかで、夫婦は世紀のじゃんけんを5回戦して瞳さんが勝ったのだ、などとまことしやかに伝承されていた。私はといえば、じゃんけんもせず籤も引かず、私の姓を名乗ってしまった。ずっと、そのことの負い目を感じ続けている。

民法750条が、夫婦は同一の姓を名乗らなければならないとしている。法文上は、「夫または妻の姓を称する」としているが、96%が夫の姓という現実がある。

これについて法制審議会は、1996年2月採択の婚姻法改正要綱の中で、選択的夫婦別姓を導入するとの提案を行った。これに対するパプコメは、圧倒的に賛成が多かったという。しかし、家族制度の崩壊につながるとして、保守派の抵抗は強く、いまだに法改正に手は付けられていない。

世に事実上の夫婦でありながら、別姓にこだわって法律婚を回避している人もいれば、法律婚によって姓を変えられたことにこだわりを持ち続けている人も少なくない。そのような人たち5人が民法750条を違憲だとする裁判を起こしている。「別姓訴訟」という。その判決が29日に東京地裁民事第3部で言い渡される。注目に値する。

立法不作為を違法として、国家賠償を請求する訴訟である。憲法論としては、13条違反(姓の保持の喪失が個人の尊厳を侵害する)、24条違反(両性の本質的平等に違反。婚姻は両性の合意のみで成立しなければならない)。そして、女性差別撤廃条約違反でもあって、国会で750条改正をしなければならない具体的な作為義務があるのに、これを違法に怠っている、という構成である。

現在の裁判所のあり方から見て、困難な訴訟であることは否めない。しかし、当事者の願いの「寛容な社会」の実現に寄与する判決を期待したい。夫婦同姓が愛情に不可欠だと思っている人は、そちらを選択すればよい。しかし、結婚によって夫か妻のどちらかが姓を変えなければならないことに抵抗ある人にまで同姓を強要することはない。それぞれのライフスタイルを尊重する、柔らかい社会が望ましいと思う。

29日、ステキな判決を期待したい。

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  『山縣有朋と椿山荘』
この季節、晴れて気温が高くなると、庭の椿からパラポリパラポリと不思議な音が降ってくる。大食らいのチャドクガの毛虫が、美味しそうな若葉に取り付いての食事の音なのだ。可哀想だが、見逃すわけにはいかない。高枝切りバサミのお出ましだ。ビニール袋に重たいほどの収穫。気の弱い人、アレルギー気味の人には出来ない作業。
午前中、我が庭でチャドクガ退治をして、午後、「椿山荘」庭園見学。さすが椿山荘のツバキには毛虫一匹いない。すごい。毛虫がいないだけではない。その広大さ、贅をこらした作庭と、広島から移築したという3重の塔…。
椿山荘は文京区の西部、神田川を見おろす目白台地に位置し、1万8千坪の敷地は起伏に富んだ緑深い大庭園である。現在は大きなホテルが建ち、結婚式場として有名であるが、鷹揚なことに、広大な庭は一般に公開されている。
江戸時代には、上総久留里藩の下屋敷があったところで、ツバキがたくさんはえていたので「つばきやま」と言われていた。1878(明治11)年、山縣有朋が購入して、立派な庭を造らせた。
山縣は長州藩の軽輩の出であったが、身分を超えて才能を重んじた「奇兵隊」と「松下村塾」閥を足がかりに、明治、大正の時代を頂点まで登りつめた「軍人政治家」である。
尊皇攘夷、英米仏蘭4国連合艦隊との下関戦争、長州征伐、戊辰戦争、徴兵令制定、竹橋事件、佐賀の乱、西南戦争、自由民権運動弾圧、保安条例、日清戦争、陸軍元帥、政党敵視、義和団制圧、日露戦争参謀総長。まさに、「あなたの手は血塗られている」人生を生きた。軍人勅諭を作ったことでも知られる。最初の下関戦争で負けて負傷したことに懲りてか、あとの方は勝ち馬に乗る選択をした。血は血でも相手の血だ。
元帥、陸軍大将、従一位、大勲位、公爵、内閣総理大臣、枢密院議長、陸軍司令官、陸軍参謀総長。「もっとあるよ」と墓場のなかの肩書き収集屋から声がかかりそうだ。
そして、大庭園の持ち主としても知られる。椿山荘だけではない、山縣の名に結びつけて知られる「無鄰庵」は三つもある。取得の順に並べると、無鄰庵(取得時期不明・長州)、山縣農場(1877年・栃木県矢板市)、椿山荘(1878年・東京都文京区)、小淘庵(1887年・大磯)、無鄰庵(1891年・京都)、無鄰庵(1896年・京都)、新々亭(1907年・東京都文京区)、古希庵(1907年・小田原)、新椿山荘(1917年・麹町)
これらは全て、山縣が購入したか、払い下げを受けたか、贈賄を受けたかした大庭園。普請道楽・造園好きといわれた山縣は、次々に広大な敷地に贅をこらした建物を建て、「椿山荘」のような庭を造った。いくら地価も人件費も安く、権力者の贈収賄に甘い時代だったと考えてもすごいこと。あきれかえる。
1922(大正11)年83歳で没。「国葬」が営まれたが、参列者は軍人と官僚が少しで寂しいものだった。いくら権力と金に執着しても「過去の人」になっていたのだ。その少し前に亡くなった大隈重信の「国民葬」では、人柄を慕った「民」が続々と集まり、生前の人気の差が歴然だったという。
山縣が最晩年に政党嫌いを曲げて首班として認めた、「平民宰相」原敬の日記は、山縣の権力や金銭、邸宅への執着、勲章好きには嫌悪を示し、「あれは足軽だったからだ」とにべもない。
山縣は「維新の元勲」の一典型。国民の財産を横領同然に我が物にして恥じるところがない。血税の吸血鬼、これが「維新」の正体ではないか。山縣とは異なるやり方で、年間100万円や200万円の低賃金で人を使って、自分は天文学的な数字の金を貯めて恥じない経営者も、山縣と同じく、庶民の血を吸う吸血鬼だと思う。やっぱり「おまえの手は血塗られている」。
(2013年5月26日)

橋下徹発言は、飛田経営者側の視点

未読だが、「さいごの色街 飛田」という本が話題となっている。井上理津子さんというフリーライターが12年をかけて「現存する最後の遊郭」を取材したルポだという。この本の話題性は、もちろん橋下徹の「従軍慰安婦は必要だった」「風俗業活用を」という、あの妄言をきっかけとしたもの。

毎日新聞の5月16日夕刊に、その井上理津子さんのインタビュー記事がある。
「一連の橋下氏の発言は、社会的弱者への差別や階層社会を肯定していると受け取らざるを得ません。『慰安婦になってしまった方への心情を理解して優しく配慮すべきだ』とも言いましたが『支配階層』からの、極めて上から目線の言葉ですね」という発言が印象的だ。

「私は大阪の遊郭・飛田新地で働く女性約20人に話を聞きましたが、「自由意思」で入った女性など一人もいなかった。貧困だったり、まっとうな教育を受けられなかったりして、他に選択肢がないため、入らざるを得なかった女性が大半でした」「慰安婦になる以外に選択肢がなかった女性にとっては強制以外の何物でもないんです。『軍の維持のために必要だった』という発言に至っては、戦争を容認している証し。正体見たりです」「苦しい事情を背負った女性の境遇、慰安婦に送り出さざるを得なかった家族の思い、社会的背景に心を致しているとは思えない。政治家の役割を果たしていると言えない」とも。

この人が言えばこその説得力である。綿密な現場取材をされた方の発言としての重みを感じざるをえない。

本日(5月25日)付「毎日」朝刊に、林和行さん(カトリック司祭)という方の「橋下発言は権力者の視点」と題する投書が掲載されている。井上志津子インタビューを引用してのものだが、橋下徹がかつてこの街の業者組合の顧問弁護士だったことを指摘。橋下の権力者の視点の根拠について、「井上さんはそこで働く女性の側に立ったのに対して、橋下氏は経営者側の視点に立ったことによるものではないか」という。これも、なるほど。

橋下徹が、飛田の業者組合の顧問であったことについて、林さんの投書では『さいごの色街 飛田』からの指摘を引用している。実は、「大阪では知らぬものとてない公知の事実」とも聞く。

先日、IWJの岩上安身さんから、「飛田で違法な管理売春が行われていることは天下周知の事実。そのような違法収益から顧問料をもらっていることが弁護士の職業倫理上問題にはならないのか」と聞かれた。

この問は、弁護士とは倫理感覚に優れていなければならないことを前提としたもので、橋下の倫理観の欠如を批判したいとする心情は良く分かる。しかし、私は、弁護士に対して、反権力、反社会的勢力と接触することを禁じてはならないと思う。暴力団も、カルト教団も、ブラック企業も、悪徳商法企業も、殺人犯も詐欺犯も、選挙違反者も、不貞行為者も、相談内容についての守秘義務を前提に、資格のある法律専門家としての弁護士に相談できるのだ。そのことが、大局としてあらゆる人の基本的人権を擁護することになる。たとえ橋下が、「公然と管理売春を行っているとされる業者の組合の顧問」となっていたとしても、それだけで弁護士として非難すべきことはならない。

しかし、問題は顧問として何をやったかである。好個の実例がある。
1985年に豊田商事事件が大きな社会問題となった。同社の破綻以前、この会社にはかなりの数の顧問弁護士がいた。最も有名だったのが,吉井文夫さんというヤメ検。検事時代は正義の味方として悪徳商品取引摘発に辣腕を振るったと言われている。弁護士に転進してからは、専らその業界の顧問として活躍。豊田商事にも引き抜かれて、最後の半年の顧問料は月額500万円だった。

この人は、被害者弁護団からの懲戒請求の申立があって、東京弁護士会から業務停止1年の懲戒処分を受けた。懲戒相当とされたのは、豊田商事の顧問になったこと自体ではなく、弁護士としての業務の内容である。

悪徳商法としての被害者や社会からの追求に対しての会社としての対応へのアドバイス、あるいは従業員に対する「会社のやっていることは法的に問題がない」との解説を通じての激励、それが弁護士としての正当な業務の矩を超えて「悪徳商法に加担した」と認定された。

私も吉井さんとは、何度か法廷でまみえている。強面の人ではない。むしろフェアーな訴訟態度だった。悪辣な印象とは無縁の人。金の力は恐ろしい。

さて、橋下のこと。飛田新地の業者組合から、幾らもらって、何をしていたか、である。どんな事件や相談に、どう対処し、どうアドバイスをして、客観的にどんな役割を果たしていたか。管理売春という犯罪行為の継続に加担するところはなかったか。

豊田商事の例では、破産管財人が洗いざらい会社の業務内容を公表したから、顧問弁護士の行状が明らかになった。しかし、橋下には弁護士としての守秘義務の壁がある。これを突破してどんな業務をしていたのか、明らかにすることは難しい。

井上理津子さんと、林和行司祭の指摘を噛みしめて、橋下徹発言の目線が拠って来たるところ、つまり「橋下発言は、飛田新地の業者の感覚と目線から発せられたもの」、そう指摘することで、橋下批判は十分というべきであろう。
(2013年5月25日)

「一番はじめは 一の宮」

 汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも

この啄木の歌が好きだ。その気持がよく分かる。いつも、盛岡が近くなると車窓から岩手山を探す。人はふるさとに近づくと、自然に襟を正す気持になるのだ。今日は、幸運。名残の雪を戴いた岩手山が目に入る。その堂々と落ちついた姿が好もしい。そして夕刻、岩手山のシルエットを背に盛岡を離れた。

帰京までの新幹線の徒然に、なんの脈絡もなく次の数え歌を思い出した。母からではなく、父から教えられた記憶がある。

一番はじめは 一の宮
二は 日光東照宮
三は 佐倉の宗五郎
四は 信濃の善光寺
五つ 出雲の大社(おおやしろ)
六つ 村々鎮守様
七つ 成田の不動尊
八つ 八幡の八幡宮
九つ 高野の弘法さん
十は 東京泉岳寺
これだけ願をかけたなら浪子の病も治るだろう

庶民信仰の神社仏閣定番メニュー、あるいはベストテンランキングとしてまことに興味深い。もっとも、「一番はじめ」から「七つ」までは間違いないが、「八つ」から「十」まではうろ覚えで自信がない。

いろんなバリエーションがあるのだろうが、「村々鎮守様」や「宗五郎神社」があって、東大寺や法隆寺、伊勢神宮や明治神宮、そして京都五山も鎌倉五山も、歌に数えられていないのが面白い。国家鎮護の大伽藍は、庶民信仰になじまないのであろう。

とすると、靖国神社がないのが微妙なところ。
東京招魂社以来庶民に支えられてきた神社である。意識的に庶民と結びつき、花見や相撲、サーカス、演芸等々のイベントで賑わい続けてきた靖国である。しかし、典型的な「国家鎮護の大伽藍」でもある。数え歌に出てきてもおかしくないし、出てこないことに必然性があるようにも思う。

庶民と結びつき庶民に支えられた靖国ではあるが、国家の命令による戦争や戦死とも結びついた忌まわしさもつきまとう。庶民感覚は、アンビバレントな靖国神社評価をしていたのだろう。

靖国を読み込むとなれば、
五は 護国のご祭神
八つ 靖国ご大祭
九は 九段の大鳥居
十で とうとう倅も神様に
などと数え歌に乗り易い。

ところが、ネットで検索してみると「十は 東京招魂社」というバリエーションがあるそうだ。庶民信仰メニュー・ベストテンに顔を出す靖国神社、恐るべし。

「96条の会」発足と9条問題

本日、樋口陽一さんを会長とする「96条の会」の発起人が国会内で記者会見し会の発足をアピールした。「護憲・改憲の立場を超えて幅広く結集し、世論を喚起したい」との趣旨だという。

発起人は憲法学者を中心に36人とのことだが、9条改憲論者をまじえての96条改正批判の一点での結集。現時点で、これをどのように評価したら良いのだろうか。

昨日、日民協執行部会の意見交換で、安倍自民の「96条先行改憲論」が思惑外れとなっていることが話題となった。これに関して、「マスメディアは、9条改憲や集団的自衛権の解釈変更問題についてはものが言えない。96条だからものが言えるという側面を見落としてはならない」との見解があった。

いずれにせよ、96条先行の明文改憲の動きが鳴りをひそめたということは、取りあえずの焦点は解釈改憲問題になるだろうということ。焦点は96条から、再び9条問題へ。明文改憲への警戒は当然としても解釈改憲の動きをを注視しなけばならない。したがって、安保法制懇の論議が注目の的となる。そして、必ずしも火急のことではないとしても、安倍が明文改憲をあきらめることはない。そのときは、96条と9条改憲とがセットになった明文改憲提案となるだろう。そのことを見据えた運動が必要。そのように大方の意見の一致があった。

とはいえ、96条改憲問題は、おそらくはこれから何度もくり返し出て来る大きなテーマである。「96条の会」によるこの問題について世論への訴えには大きな意義がある。96条改憲の是非を考えることは、立憲主義を学ぶことであり、硬性憲法の由縁を学ぶことでもあるのだから。

当面は、96条改憲と9条改憲、そして解釈改憲としての集団的自衛権に関しての政府解釈変更問題を訴え続けなければならない。9条については、まず改憲しようという改憲勢力の意図を明確にすることが必要だ。そして9条改憲を許せば事態のどこがどう変わることになるのか。その2点が検討課題であり、世論への訴えのポイントであると思う。もっと具体的には、今ある自衛隊を、「専守防衛の原則のもと、自衛のため実力」という枠を超えた存在に変貌させることの是非が問われているのだ。

そのような問題の建て方であれば、「96条の会」の36人のほとんどは、9条明文改憲や解釈改憲問題についても意見を同じくすることができるのではないだろうか。

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  『命』
きょうはどこに行っているのか心配してたら
ひるすぎに、スズメの親子が帰ってきて、賑やかにお食事だ。
いないと心配だし、いるとチュンチュンうるさいし。
きょうは蚊がブンブンでてきてるから、遠慮しないで食べておくれ。
蚊の親は、金魚鉢だけじゃなくて、ちっちゃな水たまりでもお湿りでも、
夢中になって、必死になって卵を産んでいる。
どんなに金魚やスズメが食べても、ボウフラは沸きほうだい、蚊ははやけほうだい。
屋根の梁にはオオスズメバチが巣の土台を作り始めた。
去年は一抱えもある、まあるいボールのような巣をぶら下げて
黄色と黒のだんだら縞の制服着た用心棒がごろついて
近くを通るのがほんとに怖かったよ。
雪のような真っ白いウノハナに隠れた茂みの奥には
コガタスズメバチの母蜂がたったひとりで、
鶴首のとっくりのような奇妙な形の巣を作った。
偉い母さんだ、ひとりでずいぶんみごとな仕事っぷりだ。
ごめんよ、知らないで草刈りに入ったのだから、
そんなにカチカチと肩いからせて脅かさないでおくれ。
はやくはたらきバチを1000匹も育てて大家族を作りなさい。
みんなみんな大忙しだ。
(2013年5月23日)

東京都教育委員会の皆さま 被処分者と懇談の機会を持ちませんか

文科省の諮問機関である中央教育審議会に教育制度分科会がある。昨日(5月20日)その会合が開催された。議題は、「地方教育行政の在り方について」である。ここしばらくは開店休業の状態となっていた「地方教育行政部会」が動き出すことになるのだろう。

4月15日に教育再生実行会議が「地方教育行政の在り方について」を提言した。これを受けて、首長が任命する教育長に権限を集中させる教育委員会制度改革案が審議される。どうせ形ばかりのこと‥にならないようにしていただきたい。

戦後教育改革の目玉のひとつとして、教育委員会制度が誕生した。教育の自由を確立するするために、地方教育行政を国家からも自治体の首長からも独立させる役割を期待されての公選制の教育委員会制度発足であった。その公選制は、首長の選任と議会の同意の制度に後退はしたものの、今なお独立行政委員会として首長からの独立の形式はまだ守られている。今回の「改正」は、これをも徹底して形骸化してしまおうというもの。これまでは、教委の事務局の長に過ぎなかった教育長を、名実ともに地方教育行政の責任者にしようというのだ。これが実現すれば、教育行政の独立性は、ほぼ失われてしまうことになるだろう。教育の自由は逼塞させられることになりかねない。

その制度「改革」の理由とされているのが、教育委員会制度の形骸化である。非常勤の教育委員はお飾り同然、どうせ大したことをしていないのだから、実態にふさわしい組織形態にしてしまえ。そういう、理念を無視した乱暴な提言である。

私は、東京都教育委員の皆様に逆の立場から提言を申しあげたい。教育委員本来の、国家からも知事からも独立した教育委員会本来の大仕事をひとつやり遂げてみてはどうだろうか。教育委員会が形骸化しているという世評を吹き飛ばし、全国の教育委員会に独立行政委員会としての模範を示して見ていただけないだろうか。その素晴らしい材料があることには既にお気付きだろう。

あなた方は、首都の教育行政の責任者として、確かにお飾り同然、今までは大したことをしてない。そもそも、あなた方は教育についての見識を買われて教育委員に選任されたわけではない。知事の目から見て、政策の手駒に使える安全パイであればこそのあなた方の選任なのだ。むしろ、確乎たる見識や主張を持ち合わせていないからこそ、あなた方は今その地位にある。しかし実は、あなた方は、知事や教育庁の役人の意のままに振る舞わねばならない立場にはない。自らの意思で行動しようと思えば出来るのだ。その覚悟さえあれば、だ。

私は、操り人形に呼び掛けたい。あなたは自分の意思で動けるのだよ、さあ動いてみなさい、と。人形が、自ら魂を獲得し、まとわりついている操りの糸を断ち切って、その意思で本来あるべき使命を全うするとなれば、なんというロマン、なんという素敵なファンタジーではないか。

都教委が抱える最大で最重要の懸案が、国旗国歌(日の丸・君が代)強制問題だ。教育と教育行政のあり方の根本を問う課題でもあり、歴史認識や国家観、そして憲法の理解の根幹に関わる問題でもある。この問題へ関わったすべての者は、好むと好まざるとにかからず、後世においてその姿勢を問われることになる。

その最重要案件が未解決のまま放置されている。最高裁判決は都教委の強制を違憲とまでは言わなかったが、そのやり方を、過酷・やり過ぎとして断罪はした。そして、子どものために教育の場としてふさわしい環境を作るよう、関係者みんなで話し合え知恵を出し合えと、異例の補足意見が書かれている。明らかに、都教委にそのイニシャチブを取れと言っているが、その動きはまったく見えてこない。

この最高裁判決に耳を傾け、10・23通達を撤回して教員や生徒・保護者に思想良心の自由を保障することは、知事や教育庁の役人には難しいことかも知れない。しかし、教育委員のあなた方に出来ないことではない。操りの糸を断ち切りさえすれば。

まずは、10・23通達関連の最高裁判決を、虚心によくお読みいただきたい。大橋寛明判決(2011/3/10)も、難波孝一判決(2006/9/21)にも目を通されたい。そうすれば、不起立・不斉唱が、一部の不届きな過激派教師の行為などではなく、真面目で良質な教員の真摯な良心の発露であることが理解いただけるだろう。都教委の名で出された「10・23通達」が、どれほど多くの教員を苦しめ、教育を歪めているかもお分かりいただけるだろう。

そのとき、操り人形に魂が入る。自分の意思で動けるようになる。そうしたら、処分をされた多くの人々の代表者と直接会って、その生の声を聞いていただきたい。そのような機会を設けるよう働きかけをしていただきたい。最高裁の裁判官が、まずはあなた方になんとか知恵を絞っていただきたいと呼び掛けている。その呼び掛けに応えていただきたい。

そのことが、あなた方に対する「お飾り」や「形骸化」という批判から、あなた方自身を救うことになるだろう。そうすることが、「操り人形」から脱する道となる。教育委員会制度の理念を救うことにもなる。そうでなければ‥、あなた方は「所詮は木偶人形であったか‥」との批判を甘受せざるを得ない。

犬になれなかった裁判官

IWJというインターネットメディアによる「自民党憲法改正案についての鼎談」が本日第10回目となった。岩上安身さんが司会して、私と梓澤和幸君とがしゃべる企画だが、岩上さん自身の発言も長く、確かに鼎談になっている。

日本国憲法と自民党憲法改正草案との対比を逐条で論じようとの企画だが、ときどきの憲法問題への論及に時間を割かれてなかなか進行しない。11回目で終わろうという予定だが心もとない。前回は喋りすぎた。今回は私だけでも寡黙を通そう。

ところで、話題は「橋下・慰安婦必要だった発言」「石原・侵略戦争否定発言」、そして96条先行改憲論のぽしゃり。朝日の5月1日世論調査で96条改憲反対54%、本日の毎日の世論調査でも反対52%と出た。なんとなく、がんばった甲斐があると嬉しくなる。

安倍の思惑は多分こうだったはず。
96条先行改憲は、「確固たる改憲派」だけでなく、「ともかく改憲派」や「なんとなく改憲派」まで含めて、改憲部分を特定しない「改憲統一選線」を意味する。改憲箇所を特定すれば国民の過半数をとれなくても、改憲箇所の特定を要しない96条改憲なら、過半数をとれるだろう。

しかし、この方針は裏目に出た。改憲目的を明確にしない、改憲のための改憲に世論が猛反発した。それだけではない。96条問題を通して、立憲主義や硬性憲法の重要性を多くの国民が学んだ。96条先行改正の、その先にあるもののイメージを把握した。このいくさ、緒戦は順調。幸先がよい。

本日の逐条解説は、日本国憲法の第6章「司法」。76条から82条まで。
ここでは裁判官の独立に関連して、「犬になれなかった裁判官―司法官僚統制に抗して36年」を著した安倍晴彦さんのことを語った。

安倍さんは、憲法と良心に忠実になろうと決意を固めた裁判官だった。出世や上司の見る目を少しも気にすることなく、ヒラメにも犬にもならずに、裁判官として人間の尊厳を守り抜いた。

しかし、そのために最高裁から徹底して冷遇された。36年の裁判官人生の大半を裁判官の出世街道からはずされ、昇給や任地の差別を受けた。ご自身が一番辛かったこととして、「若い後輩裁判官との接触の機会を断たれたこと」と言っておられる。

公職選挙法の個別訪問禁止規定の違憲無罪判決、じん肺訴訟における損害賠償請求権の時効起算点は弁護団からの説明あった日という判断など、人権の実現に素晴らしい役割を果たした。裁判官としての良心を貫くことの満足感と、冷遇への不満との両者の葛藤が常にあったろう。自分の生き方の師としたいと思う。

しかし、これが最高裁の司法官僚制の実態なのだ。体制に与し、多数派に迎合し、上司にへつらう判決を書いている限りは、波風は起きない。敢えて波風を起こせば、差別と冷遇が待っている。こうして、人事の統制を通じて、判決の統制がはかられる。だから、裁判官一人ひとりの独立が大事なのだ。裁判所が真に憲法の番人、人権の砦であるために。

これが安倍自民の本性ー自民党「防衛大綱」見直し提言案

自民党のホームページにはまったく掲載されていないが、各紙の報道を総合すると、自民党は5月17日、党本部で国防部会・安全保障調査会の合同会議を開き、「防衛計画の大綱」に対する提言の骨子案を提示した。政府が新たに策定する長期的な防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」に対する提言の案という性格のもので、党内の反応を確認して月内にも正式決定として、6月の防衛省の「見直し・中間報告」に間に合わせるという。

「防衛計画の大綱」は最も重要な軍事政策の基本指針である。安全保障会議を経て閣議で決定される。最初の大綱は1976年に決定され、95年、04年、10年と改定されたが、安倍内閣発足直後の13年1月25日、2010年大綱を凍結して新大綱の策定を目指すこととし現在5回目の見直し作業中。

産経が次のように絶賛していることからも、危険極まりないことが理解できよう。

「防衛計画の大綱」改定に向けた自民党の提言案は戦後、過度に抑制してきた防衛政策を根本的に見直す内容が網羅されているといって過言ではない。集団的自衛権行使や憲法改正に踏み込み、安倍カラーを前面に掲げることで今夏の参院選の「旗印」と位置づける。

産経が紹介する内容を項目として挙げると、
・自主憲法制定(集団的自衛権、国防軍の設置)
・国家安全保障基本法の制定(集団的自衛権の確認、防衛産業の育成、武器輸出を規定)
・日本版NSC(官邸機能強化、軍事専門家の配置)
・国防の基本方針の見直し
・防衛省改革
【大綱の基本的考え方】
・新たな防衛力の構築として「動的機動防衛力」
・「強靱(きょうじん)な防衛力」なども検討
【国民の生命、財産、領土、領海、領空を断固として守り抜く態勢の強化】
・隙間のない事態対応(警察や海上保安庁など関係省庁との連携強化、領域警備などの法的枠組みの検討、「マイナー自衛権」の検討、自衛隊の権限行使に関するポジリスト的な考え方からの脱却)
・統合運用態勢の強化
・警戒監視、情報収集機能の強化
・島嶼(とうしょ)防衛態勢の強化(海兵隊的機能の整備)
・輸送能力の強化
・核、弾道ミサイル攻撃への対応能力の強化(効果的で効率的なミサイル防衛の運用態勢の構築、早期警戒情報を含む情報共有体制の強化、核抑止戦略の調査研究)
・テロ、ゲリラへの実効的な対処(原子力発電所の警備・防護)
・邦人保護、在外邦人輸送能力の強化(陸上輸送と武器使用権限)
・災害対処能力の強化(南海トラフ巨大地震や首都直下型地震などの対応検討)
・情報機能の強化
・サイバー攻撃に関する国際協力の推進、対処能力の強化、法的基盤の整備
・安全保障分野での宇宙開発利用の推進
・無人機、ロボットの研究開発の推進
【日米安保体制】
・日米安保体制の深化
・集団的自衛権の行使に関する検討の加速化
・日米防衛協力強化のためのガイドライン見直し
・日米の適切な役割分担下での敵基地攻撃能力の保有
・平素から緊急事態に至るまで隙間のない協力強化(共同警戒監視、共同訓練、共同使用、指揮統制機能の連携強化)
・在沖縄米軍基地の整理、統合、縮小の推進
【国際および日本周辺の環境安定化活動の強化】
・豪、韓、印、ASEAN諸国などとの戦略的安保協力、国際協力活動の推進
・大局的観点からの中国との安保関係の推進、海上連絡メカニズムの構築
・国際平和協力のための一般法の制定
・国際平和協力活動の取り組み強化(武器使用権限)
・能力構築支援の強化
・ジブチ基地の機能拡充
【大幅な防衛力の拡充】
・自衛隊の人員、装備、予算の大幅拡充
・中長期的な財源確保
・統合運用ニーズを踏まえた中長期的視点に立った防衛力整備
【防衛力の能力発揮のための基盤の強化】
・防衛生産、技術基盤の維持、強化
・安全保障の強化に資する輸出管理政策の構築
・効率的、効果的、厳正な調達制度の確立
・中長期的な最先端の防衛装備品の研究開発の推進

なるほど、確かに網羅的ではある。
各紙が特に懸念しているのは、自衛隊に「海兵隊的機能」を付与するということ。水陸両用車や垂直離着陸機オスプレイを配備した「水陸両用部隊」の創設が提案されている。赤旗の表現を引用すれば、「他国への侵略=“殴りこみ”を主任務とする米海兵隊をモデルにした「海兵隊的機能」は自衛隊の侵略的変質をもたらす」。

提言案は、「具体的な提言」の冒頭に「自主憲法制定と『国防軍』の設置」を明記。集団的自衛権の行使などを盛り込んだ「国家安全保障基本法の制定」を示し、憲法9条改悪と一体の内容になっています。その上で、巡航ミサイルなどを念頭に、“敵基地攻撃能力”の保持について「検討を開始し、速やかに結論を得る」と明記しました。また、▽陸上自衛隊「陸上総隊」の創設▽自衛隊の定員拡充▽軍事費増額▽海外派兵恒久法▽武器輸出の促進▽普天間基地の辺野古「移設」▽国家安全保障会議(NSC)創設と併せた「秘密保護法」制定―なども示しています(以上赤旗)。

これが安倍カラーだ。これが安倍自民の本性なのだ。アベノミクスで浮かれている場合じゃない。長嶋・松井の国民栄誉賞で欺されてはならない。96条での譲歩の姿勢を柔軟と見誤ってはならない。飽くまで改憲と国防軍創設、そして集団的自衛権容認が、その狙いなのだ。油断をしてはならない。

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 『国際子ども図書館』
上野の山の国立博物館と東京芸術大学の間の道路に面した、少々わかりづらい、静かな、人通りのない場所に「子ども図書館」はある。3階建ての四角い堂々とした外観で、クリーム色と白を基調にした、装飾的で美しいレンガ造りの建物だ。縦長の窓は飾りのついた破風で囲まれ、壁面も彫刻が施されている。直線的なガラスに囲まれて屹立する現代のビルディングを見なれた目には、贅沢と余裕に映る。
 もとはこの建物は、1906年に、明治政府が威信をかけて、東洋一、いな、世界一をめざして建設に着手した「帝国図書館」だ。はじめ計画は「ロの字型」の設計だったけれど、お定まりのとおり「文は武より弱く」、日清・日露戦争などの軍費に圧迫されて、建物の4分の一の南面だけの建設で終わってしまった「未完の図書館」なのだ。今は改装されて、そんな不完全さを感じさせない、なかなか魅力的なルネサンス様式の西洋建築だ。
 戦後、永田町に国立国会図書館が設置されると、国立図書館としての機能はそちらに移り、その支部の上野図書館となった。現在の瀟洒な姿は、2000年に児童専門の国立国会図書館「国際子ども図書館」としてリニューアルされた結果である。
 「子ども」の名にふさわしく、明るく清潔で、広々として、おとぎの国の子ども部屋はこんなだろうかと思わせる。1階の「子どものへや」は円形で、丸くカーブした本棚にたくさんの絵本や読み物が並べてある。大人だって退屈しない。3階は天井高10メートルもあり、白の漆喰の壁には彫刻がほどこされ、シャンデリアが下がっている。「子ども宮殿」だ。ベランダに出れば、樹齢50年は下らないうっそうたる樹海が目に入る。すばらしい。
 けれどもなんだか静かで寂しい。広さの割に子どもがいないからだ。町の図書館と違って、なんだかよそ行きで、澄ました感じがするからか。場所を考えると、大人の付き添いがなくては子どもは来ることが出来ないからだろうか。文化的を絵に描くとこんなになるのかなと思う。「国際」というからには、外国からの見学もあるのだろう。日本の子どもはみんなこんな図書館で本を読んでいるのだと、大間違いして帰るのかしら。
 こんな図書館が身近な町のあちこちにあって、保育園や児童館が併設されていたらどんなにいいだろうか。戦闘機も軍艦もみんなやめて、こんな図書館や保育園をポストの数ほど作ればいい。
 休館日は月曜日と国民の祝日・休日。今度、暇な日があったら、一人でも、友人とでも、家族連れでも、行ってみてください。大人も子どもも入場無料。飽きたら、動物園でパンダとゴリラの赤ちゃんが待ってます。こちらは有料。
 ただし残念なことが一つ。この図書館には「図書館の自由宣言」の掲示がない。事務員さん(ここは司書さんを採用するのではないそうだ)に話すと、「採用されてから司書の勉強はするので知っています」とのこと。「外に掲示してなくとも、胸にしっかり納めておいてください」とお願いすると、笑って了解してくれました。

「侵略戦争」は否定できない

日本国憲法は戦争の惨禍への反省から出発している。戦争への反省とは、それが大義のない侵略戦争だったことからのものであって、無謀にも負ける戦争をしたからではない。歴史認識とは、天皇制政府が起こした戦争が侵略戦争であったことと、植民地支配の不正義を認めるか否かの問題である。

朝日の報道によれば、維新の石原慎太郎は17日、先の大戦の旧日本軍の行為について「侵略じゃない。あの戦争が侵略だと規定することは自虐でしかない。歴史に関しての無知」「正確な歴史観、世界観を持っていないとだめだ」と語って、橋下徹の見解を批判したという。この批判に対して、橋下は「石原代表は当時、命をかけて戦っていた(時代の)人。いろんな考え方があるだろう」と理解を示した、とのこと。

石原や西村慎吾の暴論は、「右には右があるもの」と呆れるしかなく、論外と切り捨ててよい。問題は、「いろんな考え方があるだろう」という橋下の一見ものわかりの良さそうな見解である。これを問題にしなければならない。

もちろん、いかなる内容の言論にも自由がある。「いろんな考え方」のあることも、事実としてはそのとおりだ。しかし、政治家が記者会見において公にする見解の内容としては、自ずから限度がある。そのような場では、「先の大戦の旧日本軍の軍事行為は侵略ではない」とも、「いろんな考え方があるだろう」とも、軽々に口にできることではない。それを口にするには、世界を敵に回す覚悟が必要であり、百万言の論述と万巻の資料とを要する。立証責任を背負わなければならないからだ。

我が国は、くり返し、公式に「アジア諸国に対する植民地支配と侵略の過ち」を認め、謝罪をしてきた。以下は、戦後50周年における村山談話の抜粋だが、中曽根も小泉も同様の発言をしている。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
この見解は、戦後の日本には当然のことと言わねばならない。

第2次大戦の主要な性格は、民主々義陣営たる連合国と、全体主義陣営たる枢軸国の争いである。また、枢軸側各国は「遅れた持たざる帝国主義国家」として領土的野心を逞しくして戦火を開いた。

敗戦した枢軸側各国は、全体主義と領土的野望を清算して初めて、大戦後の国際秩序に組み入れられることを許容された。日本の場合、過ぐる大戦が侵略戦争であったことは、政府が受諾したポツダム宣言と降伏文書そして東京裁判に明らかであり、日本が独立を認められたサンフランシスコ講和条約11条にも、「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」との文言で、日本による東京裁判の受諾が明記されている。

ポツダム宣言には、「日本を世界征服へと導いた勢力を除去する」「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること」「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない」などと明記されている。

「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること」の実行として、東京裁判が開かれた。A級戦犯は極東国際軍事裁判所条例の第5条(イ)項の「平和ニ対スル罪」の被訴追者である。その構成要件は、「(イ)宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加」というものであった。

侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行したとして、戦争指導者28名が起訴され、判決前の病死者と精神障害発症者を除く25名に有罪判決が言い渡された。うち7名が絞首刑に処せられた。

前述のとおり、この東京裁判の受諾、すなわち侵略戦争としての戦争指導者の処罰を受け入れることによって、日本は国際舞台に復帰を認められたのである。今さらの侵略性の否定は、道義にもとるというほかはない。

なお、侵略の定義は、1974年12月の国連総会決議で明らかにされている。「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土的保全、政治的独立に対する、もしくは国連憲章と一致しないすべての武力的行使を指す」という常識的な定義規定のあとに、具体的な境界事例が列挙されている。

しかし、1974年に初めて厳格な定義ができて、侵略戦争が違法とされたわけではない。1928年の不戦条約は戦争一般を違法としたが、解釈において「自衛戦争は禁止の対象とされていない。その結果、侵略戦争のみが違法とされた」との見解が暗黙の了解となった。このとき既に、厳密な明文の定義如何はともかく「侵略戦争」の概念は存在した。当然のことながら、大戦の終了時に定義曖昧ということはあり得ない。「いろんな考え方があるだろう」で、済ませられる問題ではないのだ。

維新の内部紛争などはどうでもよい。問題は、憲法の基本理解に関わることだ。戦争への反省から日本国憲法が生まれた。その「戦争」の性格と「反省」の内実とをゆるがせにしてはならない。

取り消せ、あやまれ、辞めろー橋下

まずは、取り消せ
 品性下劣な恥ずべき妄言を
 人間の尊厳を蹂躙する暴言を
 歴史を偽るその虚言を

そして、謝れ
 この上ない侮辱を受けた女性に対し
 愚弄された沖縄に対し
 貶められた平和と人権と歴史の真実に対して

そのうえで、辞めろ
 大阪市長も政治家も弁護士も
 思想良心の侵害も不当労働行為も
 そして歴史の改ざんも改憲策動も

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  『刈り込まれた柏の木』
急に気温が上がると、庭仕事がおしよせる。庭仕事の要諦は「思い切り」。気分は「勇気」「果敢」「決断」。草刈りするなら「根」まで断て。「匍匐枝」(ランナー)をのがすな。「スギナの根は地獄の底までいっている。いっくら掘れども果てがない」「スギナの根は、日本に3本しかなくて通じているもんだから、頭つまんどくよりしょうない」(草木ノート 宇都宮貞子) 可憐な花を思い浮かべるな。大丈夫、来年も咲く。
 枝落としするなら、深々と切れ。風が通り、陽が当たり、虫もつかない。
切りすぎたって、刈りすぎたって、時が回復してくれる。

ここからは、切られ刈られた草木の心。
  「刈り込まれた柏の木」(ヘルマン・ヘッセ)
樹よ なんとおまえは刈り込まれてしまったことか!
なんと見なれぬ奇妙な姿で立っていることか
おまえの心に反抗と意思のほかは何も残らぬほど
なんとおまえは幾百回となく苦しんだことだろう!
私もおまえと同じだ 切り取られ
責めさいなまれた人生を放棄せず
悩まされ通しの惨めな状態から
毎日新たに額を光にあてている。
私の心の中の柔らかく優しかったものを
世間は罵倒し殺してしまった
だが私の本質は破壊し得ない
私は満足し宥められた
幾百回となく切り刻まれた枝から
我慢強く新しい葉を萌え出させた
そしてどんな苦しみにも抵抗して
私はこの狂った世界に恋し続けている。

警察・検察は石原宏高議員の選挙違反を黙過するのか

当ブログでの石原宏高議員選挙違反糾弾の第4弾である。
第1弾は、本年3月14日「金権・金まみれの選挙運動を糾弾する」との標題をつけてのもの。第2弾は、同月19日「石原宏高議員選挙違反続報」。そして第3弾は、本年4月11日「選挙運動収支報告書を読む」であった。それから1か月以上が経過している。

この選挙違反事件が世に知られたきっかけは、3月14日「朝日」のトップ記事である。当時はまだ、当ブログが日民協に間借りしていた時代。その日の記事を皮切りに、私はこれまで要旨次のように書いてきた。

選挙とは投票日だけのものではない。有権者が投票行動を決める過程における自由な言論戦こそが選挙の本質として重要視されなければならない。公正に設計された「思想の自由市場」における諸言論の自由かつ公正な競争、それこそが選挙運動にほかならない。選挙運動の自由は最も重要な場面における表現の自由(憲法21条)として最大限の保障を要する。選挙運動の自由(戸別訪問・文書の掲示頒布等)に対する権力的規制は不当な弾圧であるが、この弾圧はもっぱら革新陣営を対象としてなされる。

また、選挙運動は公正におこなれなければならない。「思想の自由市場」の公正が金の力でゆがめられてはならない。金がものを言うこの世の中で、買収・供応等の金権選挙・企業ぐるみ選挙を許してはならない。経済的な格差を投票結果に反映させてはならず、取り締るべきは当然のこと。その摘発は、もっぱら保守陣営を対象としてなされ、現実にけっこうな数にのぼっている。

革新陣営を対象とする買収・供応等の実質犯の摘発事件がないのは、革新陣営には金がないからだ。多少のカンパが集まっても、ビラや電話代に消える。金で票を集める、金で運動員を集める、運動員に日当を出すという発想がそもそもない。まず金を集めて金の力で人を動かす保守陣営の選挙との根本的な違いがある。

3月14日「朝日」一面のトップ記事。見出しは、「石原宏高議員側が運動員要請 UE社派遣、法抵触の疑い」とつけられている。分かりにくいが、「石原宏高議員に公選法上の買収の疑い」がある、ということだ。

公選法上の買収には、「投票買収」と「運動(員)買収」との2種類がある。「投票買収」は金で票を買うという古典的な形態だが、いまどきそんな事案はほとんどない。摘発されているのは、もっぱら「運動買収」である。これは、人に金を渡して選挙運動をさせるということ。選挙運動員に金を渡せば、本来無償でなされるべき選挙運動を金で買ったものとして、運動買収に該当し刑事責任を科せられる。

選挙が金で動かされてはならない。選挙運動とは金をもらってするものではない。この潔癖さが保守陣営にはない。石原宏高選挙がその典型である。純粋のボランティアで選挙運動員が集まるはずはなく、日当を支払うか、勤務先からの賃金を保障する形での経済的利益供与がなければ運動員を確保できないのだ。しかも、金をもらって選挙運動をしたのは、石原議員のカジノ解禁という「政策」実現で金儲けをたくらむ「ユニバーサルエンターティンメント(UE)社」の社員である。政治とビジネスの薄汚い癒着を象徴するのがこの事件。

なお、当不当の議論は別として、判断要素のない純粋に単純労務を提供する者には所定の日当を支給しても良いことになっている。事務作業については、従事する者の氏名と日当額とを予め選管に届出ることによって一定額までは支払うことができる。しかし、実質における選挙運動者を「労務者」や「事務員」として収支報告書に届け出れば虚偽の記載だし、報酬を受けとっている「労務者」や「事務員」が単純労務や事務の範囲を超えて、選挙活動の方針を決める選対会議に出席して発言をしたり、電話かけやビラ配りをするなど、少しの時間でも選挙運動をすれば、運動買収(日当買収ともいう)が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者・出納責任者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となる。

「石原宏高議員側が運動員要請 UE社派遣、法抵触の疑い」とは、朝日の報道とこれを追った毎日や赤旗の報道によれば、
(A)「UE社なるカジノ運営企業は、選挙期間中3人の社員を派遣して石原陣営の選挙の手伝いをさせた。応援の期間、3人については、UE社が給与のほか、選挙運動で遅くなったときの宿泊代や交通費、食事代なども負担した」
(B)「石原議員側が都選挙管理委員会に届け出た選挙運動費用収支報告書には、UE社の社員3人が「事務員等」と記載されている」
(C)「石原議員側からUE社役員に選挙を手伝う社員を出すよう依頼があった」という。

(A)の文脈における「UE社」側の行為は、公選法221条1項1号の「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をした」に当たり、買収罪として最高刑は懲役3年の犯罪となる。選挙運動の総括主宰者または出納責任者の実質がある者が行った場合は公選法221条1項1号(運動買収)・3項(加重要件)に該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たる。さらに多数回の行為があればさらに加重されて5年となる(222条1項)。仮に、候補者自身が関与していれば同罪である。また、「UE社」から派遣された社員3名は、同条1項4号の「第1号の金銭の供与を受けた」にあたり、被買収罪として同じく最高刑は懲役3年となる。

(B)の文脈において、「事務員」としての登録者に選挙運動の実態があって、これに金銭を支払っていれば買収罪が成立して、授受の双方に犯罪が成立する。「事務員」ができることは、判断要素のない純粋な事務作業だけとされている。これを超えて選挙運動をした者に石原陣営からの金銭の供与がともなっていれば、選挙運動を総括主宰した者あるいは出納責任者の刑事責任が生じ、最高刑は懲役4年となり、受けとった方は3年となる。

(C)の文脈では、「UE社役員に選挙を手伝う社員を出すよう依頼をした」という石原議員側の人物に刑事責任が生じる。221条1項6号の「前各号に掲げる行為に関し周旋又は勧誘をしたとき」に当たるか、あるいは依頼行為が教唆罪(刑法61条1項)に当たるからである。石原議員自身が「周旋又は勧誘をした」とされる場合には、候補者であるが故の加重要件に該当して最高刑は懲役4年となり、有罪の確定と同時に公民権の停止も行われて議員資格を失う。選挙運動の総括主宰者あるいは出納責任者が有罪になった場合にも、連座制の適用によって石原議員の資格が剥奪される。

繰り返すが、選挙運動は金をもらってやるものではない。たとえ形式的に「労務者」や「事務員」として届出された者であっても、実質において選挙運動をする者であれば、これに金を渡せば、渡した方も受けとった方も犯罪なのだ。また、当然のことだが、「法律を知らなかった」は言い訳にならない。アルバイト募集に応募したところが勤務内容がたまたま選挙運動で、アルバイト料の支払いを買収として結局有罪になったという気の毒な実例もある。「UE社」側のみならず、派遣社員の有罪も動かしがたい。

石原陣営もUE社も、「有給休暇中のボランティア」としての選挙運動であったと口裏を合わせて弁明している。カムフラージュの常套手段だ。しかし、後日「朝日」が入手したという「選挙応援の件(ガイドライン)」と題する文書(UE社人事部門が作成)によれば、「あくまでもボランティアを募集して行わせる体裁をとる」ことが明記されているという。実態が違法であることを認識していた証左といえよう。UE社の人事担当者について運動買収罪が成立し、賃金保障で選挙運動をした3人も被買収罪が成立する。いずれも最高刑は懲役3年である。

ところで本日(5月16日)、石原候補の選挙運動収支報告書を再度閲覧してきた。
4月23日付で訂正がなされている。訂正は、頁単位で旧記載を「削除」し、頁単位で新記載を「追加」するという形式で行われている。「削除」は頁全体への×印と押印で当該頁を抹消したことを明示し、「追加」頁の表記と相俟って、訂正した経過が明瞭に残されている。

最重要の訂正内容は以下のとおり。
原報告書では、「事務員等報酬」の支払い対象が12名で合計支払金額が109万円とされていた。それが、訂正後は4名となり合計額25万円となった。原報告書に「事務員」として記載された12名のうち8名が姿を消し、原報告では支払われてはずの84万円も消えた。

仮に、訂正後の記載が真実で消えた8名については実は金銭授受の事実がなかったとすれば、原報告書提出の時点で、出納責任者における公選法189条の違反となり、同法246条5号の2の「選挙運動収支報告虚偽記載」の罪が成立する。法定刑は、3年以下の禁固または50万円以下の罰金である。事後の訂正は、情状には影響しようが犯罪の成立を阻却しない。

また仮に、訂正前の記載が真実で、訂正によって記載から消えた8名について実は金銭授受の事実があったとすれば、訂正報告書提出の時点で、「選挙運動収支報告虚偽記載」の罪が成立する。

さらに、法189条は報告書に領収書の添付を義務づけている。原報告書には、消えた8名の領収書が添付されていたはずである。もし、訂正のとおりに実は当該の8名に対する金銭の支払いがなかったとすれば、添付の領収書は偽造されたものということになる。誰が偽造したかは明らかではないが、行使の目的での私文書偽造の法定刑は3月以上5年以下の懲役である。

報道によれば、「消えた8人」のうちの3人は、UE社の社員であるという。石原陣営はこの3人を報告書に残しておくことが不都合と考えて報告書を訂正したものであろう、そのように判断せざるを得ない。実質犯としての買収罪(最高刑は懲役)よりは形式犯の収支報告書虚偽記載罪を選択したものと忖度される。買収罪だと石原候補に影響が及ぶことは必至だが、虚偽記載罪なら出納責任者がかぶることで済ませられる、との計算が働いたのであろうとも。

さて、選挙が終了してから今日で5か月。朝日が事件を報道してからでも2か月余を経過した。どうして、警察も検察も石原陣営を検挙しないのだろうか。投票買収だけでなく収支報告書の虚偽記載も加わっている。私文書偽造の疑いもある。しかも、石原議員とUE社との薄汚い密接な関係に基づいての投票買収である。姑息な隠蔽策を弄してもいる。情状はすこぶる悪質というほかはない。各紙の報道によって天下周知の事実にもなっている。それでも、選挙に大勝した自民党の議員については、「この程度のことはお目こぼし」なのであろうか。

投票日を同じくした都知事選の宇都宮陣営では、ビラ配布をしていた70歳が公団住宅の廊下で住居侵入として逮捕され、勾留請求却下まで3泊4日を留置所で過ごした。革新陣営にたいする選挙運動の自由にはかくも厳しく、保守陣営の金権選挙にはかくも甘いのが、警察・検察の実態なのであろうか。

それにしても、事件発覚の発端は朝日の記者の選挙運動収支報告書の閲覧であった。その後に、これを追った毎日・赤旗の各記者の報告書を深く読む炯眼にも感服した。せっかくの情報公開制度を、大いに活用しよう。敵対陣営だけでなく、自分が支持した陣営の選挙についても、収支報告書をよく読み込んでみることをお勧めしたい。興味深い新しいことを発見できるはずだ。

窓口は、都庁第1庁舎39階の選挙管理委員会事務局。印鑑も身分証明も不要。担当職員はとても親切で、けっして面倒な顔などされない。

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