澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

売春防止法の視点からの橋下徹の責任

風俗業活用発言と、飛田の料理組合顧問問題に限って、橋下徹の弁護士としての責任を考えて見たい。いずれも、売春防止法の視点からの検討である。

売春防止法第3条は、「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」と定める。売春をすることも、その相手方となる(買春する)ことも、法は明確に禁止している。まずもってその原則を確認しなければならない。

なぜ、売春は禁止されているのか。
売春防止法の目的規定である第1条に、次の文言がある。「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、売春を助長する行為等を処罰する…」
法は、売春を
人としての尊厳を害するものであり、
性道徳に反するものであり、
社会の善良の風俗をみだすものである、
ととらえている。実定法上の定めだからそのように考えなければならない、というのではなく、よく考えぬかれた納得できる規定ではないだろうか。通常の感覚からは首肯するしかなく、反論はなし難い。

ここまでは分かりやすい。問題は、売春とはなんぞやにある。何が「法において禁止された売春」なのか。
同法は、定義規定である第2条で、「この法律で『売春』とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」と定める。この定義は、かなり厳格なもので、禁止される売春は限定され、あるいは立証を困難としている。別の角度から見れば、悪智恵の発揮次第では脱法が可能となる。

売春防止法は、処罰を伴う特別刑法に属する以上、罪刑法定主義が貫徹されなければならない。したがって、処罰対象行為が厳格に定められることを要する。そのため、性交類似行為などという曖昧な概念を処罰対象としていない。そのことから、橋下の言う「風俗業の活用」論が出てくる。

「売春」とは性行為のみに限定される。たとえ、「対価を受けて不特定の相手方に性的サービスを行った」としても、性交を伴うものでない限りは売春にならない。売春でなければ犯罪ではない。だから大いに活用したらよい、との論法につながりうる。

橋本の言を朝日から引用すれば、次のとおり。
「だから僕はあの、沖縄の海兵隊、普天間に行ったときに、司令官の方に、もっと風俗業を活用してほしいっていうふうに言ったんです。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって」「米軍ではオフリミッツだと。禁止って言ってるもんですからね。そんな建前みたいなことを言うからおかしくなるんですよと。法律の範囲内で認められてるね、中でね。」「いわゆるそういう性的なエネルギーをある意味合法的に解消できる場所は、日本にあるわけですから、もっと真正面からそういう所を活用してもらわないと、海兵隊のあんな猛者の性的なエネルギーをきちんとコントロールできないじゃないですか。」

法は、売春の定義を厳格化した。犯罪の範囲は、限定されたものになった。
しかし、「性風俗産業における対価を受けて不特定の相手方に対してする性的サービスの提供」は、性交を伴わないものとはいえ、
人としての尊厳を害するものであり、
性道徳に反するものであり、
社会の善良の風俗をみだすものである、
とは言えないだろうか。通常の感覚からは首肯するしかなく、反論はなし難い。

売春防止法は、売春の助長行為を犯罪とする。風俗業活用の勧めは、確かに売春の助長行為でない。しかし、「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだす」行為の助長ではないのか。犯罪でないことは当然としても、弁護士としての品位にもとる行為というべきではないか。

弁護士法56条は、「職務の内外を問わずその品位を失うべき非行」を懲戒事由としている。性風俗産業の活用を勧めることは、売春を勧めたものではないにせよ、懲戒事由たりうる。橋下の「僕は政治家の立場として発言した。懲戒請求権の乱用で、政治活動に対する重大な挑戦だ」は、噛み合わない反論である。法が、職務の内外を問わずと明定しているのだから、問題は「品位を失うべき非行」にあたるか否かの判断に尽きる。

その際、「風俗業」の所管法である「風俗営業等取締法」の立法趣旨をも勘案すべきであろう。
同法は、「本法の風俗営業は、風俗犯罪の予防という見地を特に入れて、これに関係あるものに範囲を限った。風俗犯で最も実質的内容をなすものは、売淫と賭博であって、こうした犯罪がこの種の営業にはとかく起こりやすいので、これを未然に防止するために、防犯的な見地からこの種の営業を規制する」(立法時の政府説明員の委員会答弁)との見地からの立法である。

橋下の発言は、人としての尊厳を蹂躙する行為の勧めであるだけでなく、「直接に売春を勧めてはいないが、とかく売春に陥りやすい風俗業の活用を積極的に勧めた」点でも、品位に欠ける発言というべきである。

ところで、飛田新地の営業の実態は、性交を伴う点において売春の要件を具備している。となると、橋下が顧問をしていたという料理組合加盟の各「料亭」には、売春の場所の提供者として以下の各条の犯罪該当行為があったことになる。

第11条(場所の提供) 情を知つて、売春を行う場所を提供した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
2  売春を行う場所を提供することを業とした者は、七年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
第12条(売春をさせる業) 人を自己の占有し、若しくは管理する場所又は自己の指定する場所に居住させ、これに売春をさせることを業とした者は、十年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。

飛田新地の営業を「売春ではない」と強弁するためには、知恵を絞らなければならない。「性交との対価関係に立つ対償の授受がない」「金銭の授受はあったが、それは料理の対価に過ぎない」「不特定の相手方との性交ではない」「場所は提供したけど売春が行われるなどの事情は知らなかった」…などという苦しい言い訳をしなければならない。形ばかりの料理を出して、料亭、料理屋、料理組合などと称する必要も出てくる。顧問弁護士の役割は、そのような智恵を求められての法的アドバイスであることが推認される。あるいは、警察の取締りへの牽制の役割を期待されてのことなのかも知れない。

いずれにせよ、彼が飛田料理組合顧問の時代に飛田の営業態様が抜本的に変わったとの話しを耳にしない以上は、
法が禁圧する売春を覆い隠し、
売春を持続させることによって、
人としての尊厳を害する営業を助長し、
性道徳に反する行為を助長し、
社会の善良の風俗をみだすことを助長した、
と認定される可能性が極めて高い。

犯罪者も違法業者も弁護士の法的助言を受けることができる。弁護士も犯罪者や違法業者に法的助言をすることができる。しかし、犯罪を隠蔽し助長する内容の助言については、この限りでない。弁護士は、依頼人の正当な権利の実現には誠実に努力する義務を負うが、違法、不当な目的に利用されてはならない。法の抜け道を探すことが弁護士の仕事であってはならないのだから。
(2013年6月1日)

「戦争当時は公娼制度があった。だから慰安婦は合法だった」のではない

「日本維新の会の幹部が、『大戦当時は公娼制度があって、慰安婦は合法の存在だった』と言っています。これについてご意見を伺いたい」

先日、IWJの憲法鼎談のさなかでの突然の質問。「当時の売春に関する法制度についてはまったく知らない。制度がどうであろうとも、女性の自由を奪って性的サービスを強要することが許されるはずがない」としか答えられなかった。で、少し調べてみた。以下の出典は主として、「注解特別刑法7『売春防止法』」(青林書院新社・佐藤文哉著)。

江戸期の遊郭制度は、「傾城町の外傾城屋商売致すべからず」(1617(元和3)年幕府掟書)として、一定地域(傾城町)の公娼を認めるとともに、それ以外の私娼による密売淫(傾城屋商売)を禁止するものだった。明治期になって、人身売買としての売春を禁ずる1872(明治5)年の芸娼妓解放令(太政官布告)が発せられたが、基本的に遊郭制度はそのまま維持されたという。

1900(明治33)年内務省令として「娼妓取締規則」が制定され、敗戦まで制度を形づくる根拠法となった。「大戦当時の公娼制度」はこの行政法規に基づく以外にない。

この法規は、いわば、「売春の登録制である」という。娼妓を所轄警察官署に備え付けた名簿に登録して警察の監督に服せしめる。娼妓への監督は次のように徹底している。これでは、まさしく「籠の鳥」である。
「第七条 娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず
娼妓は法令の規定若くは官庁の命令により又は警察官署に出頭するが為め外出する場合の外警察官署の許可を受くるに非ざれば外出することを得ず但し庁府県令の規定に依り一定の地域内に於て外出を許す場合は此限に在らず」(原文はカタカナ)

そして、重要なことは、売春営業(娼妓稼)の場所が「貸座敷」内に限定されての公許であること。
「第八条 娼妓稼は官庁の許可したる貸座敷内に非ざれば之を為すことを得ず」

つまり、公許の売春は、「公許された貸座敷における、登録された娼妓の娼妓稼」に限られ、それ以外の「密淫売」は、違法であって警察犯処罰令で「30日未満の拘留」に処せられた。

軍慰安所の始まりは、第一次上海事変(1931年)の際に海軍が作ったものとされる。陸軍は翌年これを追った(吉見義明「従軍慰安婦」)。しかし、これが「官庁の許可した貸座敷」において「登録された娼妓の娼妓稼」としてなされたものとは考えがたい。少なくとも、内務省令「娼妓取締規則」は戦地における遊郭制度・公娼制度を想定してはいない。前記「注解特別刑法」における「売春防止法の沿革」の記事も、戦時における記載は一行もない。

戦争の激化と戦線の拡大に伴って、中国のみならず東南アジア、南方各地に広がった軍や軍周辺の慰安所が、「娼妓取締規則」に則ったものとしての合法性を獲得した公許の営業であったはずはなかろう。

日本維新の会の幹部が、「大戦当時は公娼制度があった」というのは、そのとおりである。しかし、その「公娼制度」でさえも売春一般を合法としたものではない。むしろ、警察的取締りと監督の制度を整えて、監督に服する公許の売春のみを合法とした。公許されていない売春一般は、違法であり犯罪であった。

「大戦当時は公娼制度があって、慰安婦は合法の存在だった」は、明らかに間違い。「公許の貸座敷で、登録娼妓が稼働していることを資料をもって立証できた限りにおいて、合法」の存在だったのだ。

なお、念のために付言しておくが、仮に当時は「合法」だったとしても、人倫において許されるものではない。また、刑法典においても、当時日本が加盟していた国際条約においても、強制を伴う売春が違法であったことは言うまでもない。

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  『梅雨とアジサイ』
5月29日、関東地方が早々と梅雨入りした。もっとも、65年には5月6日梅雨入りという記録もあるそうだから、驚くほどではない。天保年間の随筆には「花葵の花咲きそむるを入梅とし、だんだん標(すえ)のかたに花の咲き終わるを梅雨の明くるとしるべし」とあるそうだ。子どもの頃にはあちこちでよく見た「タチアオイ」の花が、下の方から上の方に、だんだんに咲き上がっていくあいだが梅雨だといっている。今では「タチアオイ」を見るのは難しい。2メートル以上にまで丈高く育つので、狭い場所向きではないからだろう。そういえば「カンナ」も見なくなった。「ヒマワリ」も30センチほどの丈でで花をさかせるように改良されてしまった。陽の当たる広い庭がなくなり、植えられる植物の流行も変わってしまった。
変わらぬものもある。梅雨に付きものの「アジサイ」だ。あちこちの垣根の隙間から顔を出している。今は早咲きの「ヤマアジサイ」系が咲いている。全体に小ぶりで、茎も細く、せいぜい1メートルぐらいにしか育たない。花は真ん中に粟粒のような両性花をこんもりと付け、そのまわりに四弁の装飾花がちらばり、径10センチくらいにまとまる。ブルーか薄いピンクで、いかにも風通しが良さそうで、涼しげである。
本格的な梅雨時になると、「ヤマアジサイ」を一回り大きくしたような「ガクアジサイ」が咲き始める。装飾花も大きく、茎や葉もがっちりして、背丈も2メートルほどにもなる。公園などに広く植えられている、ブルーがかったボールのような、いわゆる「アジサイ」も色づいてくる。「アジサイ」には両性花はなく、装飾花だけが集まって、手まりのようにまるく咲く。咲き進むにつれて、色が七変化するので、見飽きることはない。
西洋で品種改良されて、日本に里帰りした西洋アジサイ(ハイドランジア)にいたっては、「アジサイ」とは別物のような豪華絢爛さだ。「ガクアジサイ」の粟粒のような両性花を人工授粉して、品種改良する。 毎年新しい花が園芸カタログに紹介されている。時々、庭にアジサイの実生がはえていることがある。花の咲くまで四,五年待ってみよう。びっくりするような花が咲くかもしれない。とにかくアジサイ類は種類が多いので、欲張りな私でも、集めようという気力がわかない。
そんななかで一番のおすすめは、草と木の中間のような「ヤマアジサイ」系だ。日陰でも、数多くは望めないが、かならず花を付ける。花は雨に打たれてもしっかり形が保たれて、次第に変わる色の変化が楽しめる。秋までほうっておけばドライフラワーが出来る。ほとんど害虫がいない。元々小ぶりなので、小さく育てられる。湿度の高い少々日当たりの悪い都会の庭にピッタリだ。水を切らさないように注意すれば、鉢植えでも花を咲かせられる。日当たりのよい場所に置けば、花がたくさんつく。香りがないのもかえってサッパリしていい。
ブルーの小ぶりの花の爽やかさは、梅雨時のうっとうしさを振り払ってくれる。うっとうしさは梅雨時だからというだけではない、モヤモヤとした世の中の、先行きの見えないうっとうしさの中で、この花は鬱屈した気分を慰める清涼剤となってくれている。
(2013年5月31日)

議会制民主々義下の人権としての選挙権ー成年後見選挙権判決

本日は、日本民主法律家協会・憲法委員会の例会。「成年被後見人の選挙権訴訟」の主任代理人である杉浦ひとみさんをお招きしての学習会だった。

「法の実現における私人の役割」の大きさと貴重さが、具体的な判決において、改めて認識されることがある。本年3月14日東京地裁民事38部(城塚誠裁判長)が言い渡した「成年被後見人の選挙権訴訟・違憲判決」がその典型。

公職選挙法11条1項1号は、「成年被後見人は選挙権を有しない」と定めている。この規定によって選挙権を剥奪された原告が、「投票をすることができる地位にあることを確認する」との判決を求めた訴訟において、裁判所はその確認請求を認容した。しかも、判決は公職選挙法11条1項1号を違憲で無効と断じた。ひとり原告のみならず、全成年被後見人の選挙権回復に道を開く判決となって、国会はこの判決に実に素早く反応し、全会一致で公職選挙法11条1項1号を削除する法改正を行った。

学説において指摘されていた権利について判決が追認し実現した事例ではない。成年被後見人とその家族が制度の欠陥を指摘して、弁護士に権利救済の援助を求めての提訴実現だったという。関与した学者が異口同音に、「どうして今までこの不合理に気付かなかったのだろう」と言ったそうだ。このような判決の獲得こそ、弁護士冥利に尽きるというもの。

判決は、「さまざまな境遇にある国民がその意見を、自らを統治する主権者として、選挙を通じて国政に届けることこそが、国民主権の原理に基づく議会制民主々義の根幹」として、議会制民主々義の根本理念から、「国民」のひとりである成年被後見人の選挙権を憲法上の権利としてその重要性を認める。そして、国民の選挙権またはその行使の制限が許されるのは「そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保することが事実上不能、ないし著しく困難という『やむを得ない事由』がある極めて例外的な場合に限られる」とする。

判決は、その「やむを得ない事由」があるか否かを検討するが、選挙権を行使する者には一定の知的な能力が必要、という一般論は認めながらも、財産管理のための保護規定である成年後見制における被後見人の能力判断を選挙権の有無に連動させる不合理を指摘する。

議会制民主々義の理念から説き起こして、人権としての選挙権の重要性を確認し、これを軽々に制限し得ないとする判断の枠組みに異論はない。ときどき、このような「憲法良識を体現する判決」があるから、司法への信頼を断ち切れない。この判決は、国民の司法への信頼をつなぐ貴重な判決と評しなければならない。

これに比して、一昨日の「夫婦別姓・国賠訴訟」の一審判決は、対極の内容となった。婚姻による同姓(氏)の強制を違憲違法とする主張を排斥し、そのことから生じた精神的損害の賠償請求を棄却した。寛容な社会をつくるにふさわしい、ステキな判決を期待したが、そうはならなかった。

両判決を分けるものは、原告の主張の根拠が、憲法上の権利と認められるか否かである。選挙権訴訟で請求の根拠とされた原告の選挙権が、その位置づけはともかく、憲法上の権利であることに疑問の余地はない。これに対して、同姓(氏)の強制を拒否する人格権が、憲法13条から紡ぎ出される権利と言えるかが問題とされ、ノーと結論された。ここでイエスと判断されれば、判決の全体象が変わってくる。

日民協・憲法委員会の次の例会は、別姓訴訟の弁護団をお招きして、選挙権訴訟判決と比較しながら5月29日東京地裁別姓訴訟判決を学ぶこととした。
(2013年5月30日)

ボクの大誤算ー橋下徹内心のつぶやき

なんだか変だ。今までチヤホヤしてくれたマスコミが、手の平を返したよう。天まで持ち上げておいて放り出す。いったいどうなっているんだ。ボクと一緒にイジメを楽しんでいた輩が、今度ばかりは敵にまわって、ボクをイジメにかかっている。ボクにだって、人権があるんだぞ。

もっとも、ボクは他人の人権に関心はない。これまで他人のことは容赦なく攻撃してきた。労働組合の権利も組合員の思想良心の自由も無視し続けてきた。だって、小気味よく他人を攻撃して人気をとるのが、たったひとつのボクの取り柄。人気の源泉なんだもん。だから、他人への攻撃のためなら、マスコミだって法律だって裁判だって利用できるものはなんでも使ってきた。それで、これまではうまく行ってきたんだ。どうして、突然に風向きが変わっちゃったんだ。ひどいじゃないか。

しゃべるときは思いきりよく、自信たっぷりに、躊躇なく、そして断定的に。そのやり方で、これまでは喝采を博してきた。だから堂々と言ってやったんだ。「従軍慰安婦が必要だったことは誰にだって分かる」「沖縄の米軍は風俗業を活用しなさい」ってね。今どき「堅気の女を守るために風俗業が必要だ」。そんなホンネを言える奴、ボク以外にいるか。話題の発言を繰り返していないとボクの存在感なくなっちゃう。これは、話題にもなり、受けるはず…と思っていた。

ボクになんの思想も主義主張もあるわけはない。面白そうだから、政界に出てきただけさ。国民なんて通俗テレビ番組の視聴者のレベル。あれが相手なら、説得もできる票も取れる。楽なことだ。分かり易くて面白そうなことを、切れ味良い言葉で語りかければよいだけなのだから。

政治家としての立ち位置をどうするか。自分の信念からなどではなく、世の風を見て決めた。今の世、風は右風と見た。右からの風に乗るからには、スタンスは一番右に位置しておこう。そのうえで、小気味の良い、本音を語る政治家として売り出そう。これで成功してきた。

ところが最近賞味期限が切れたといわれて少々焦っていた。議会運営もうまく行かない。そこで起死回生の従軍慰安婦発言。なんと、これが受けるどころではない。非難囂々、反撃の嵐だ。だから、いつものやり方でかわそうとしたんだ。そう、責任転嫁の術。「マスコミの大誤報だ」「真意が伝わっていない」「日本人の読解力不足が原因だ」とかね。ところが、これもなんだかうまく行かない。火に油を注いだ結果になっちゃった。

では次の手だ。少し火の手が拡がりすぎたからには、ちょっぴり折れて、真意はこうだと釈明しておこうか。「表現が不適切だった」「その事実を指摘しただけで、ボク自身が容認してるわけじゃない」。これまでは、これくらい言えば大丈夫。甘いメディアも世論も追及緩めたんだけどね。「ボクは女性の人権は充分尊重しているけれど、戦時下は別でしょう」「河野談話は否定するつもりないけれど、核心的部分に信憑性がない」「慰安婦は日本軍だけじゃない。世界中どこの軍隊だってやっている」。どうです。そうでしょ。あら、ほんとに怒らせちゃった?

せっかく「慰安婦になってしまった方への心情を理解して優しく配慮すべきだ」とか「精神的に高ぶっている集団に休息をさせてあげる」なんて、使い慣れない表現したのに、かえって誤解を招いたのかしら。それじゃ仕方ない。一番強そうなところには謝っちゃおう。「アメリカには撤回してお詫びします」

えっ?それでもだめ?
どうも雰囲気違うみたい。ついこの間までは、ボクが何をやっても、言ってもヤンヤの拍手。マスコミなんてボクの腰巾着だったんだ。あんまり冷たいじゃないか。言い訳しても、開き直ってもだめなようだ。それじゃ、カワイコちゃんぶって、横目を使って、泣きべそかいてみようかな。結構これって効き目があったんだよ。

何だか応援団も静かになっちゃった。石原代表も黙っちゃった。去年の夏には「大変勇気ある発言だと高く評価している。戦いにおける同志だ」と焚きつけた安倍さん、盾になって代弁してやったのに引いちゃった。裏切っちゃってずるいよ。

でもいいさ、最後は投げ出せばいい。大阪市長も「維新の代表」も、たいした未練があるわけじゃなし。風俗業界の顧問弁護士やってりゃ食ってはいけるさ。
(2013年5月29日)

再び、「取り消せ、謝れ、辞めろー橋下」

まずは、取り消せ
 品性下劣な恥ずべき妄言を
 人間の尊厳を蹂躙する暴言を
 歴史を偽るその虚言を
  どうして、いまだに取り消さないのか。
  今さら取り消しても既に遅いが、
  人を傷つけた言葉をそのまま残しておくことは許されない。

そして、謝れ
 この上ない侮辱を受けた女性に対し
 愚弄された沖縄に対し
 貶められた平和と人権と歴史の真実に対して
  どうしていまだにあやまらないのか。
  強いアメリカとアメリカ国民には謝罪したのに、
  本当に謝罪しなければならない相手にそのままとは何ごとぞ。

そのうえで、辞めろ
 大阪市長も政治家も弁護士も
 思想良心の侵害も不当労働行為も
 そして歴史の改ざんも改憲策動も
  どうして、いまだに辞めないのか。
  大阪市民は肩身が狭い、弁護士仲間も恥ずかしい。
  維新にはお似合いだが、政治家としては失格だ。

しかし、たったひとつ。取り消さない、謝らない、辞めない、橋下徹の功績がある。公平な立ち場から、その功績を述べておきたい。
日本国憲法が硬性で96条の改正手続が厳格なことの理由として、改憲には国民の熟慮が必要とされていることが挙げられる。一時的な国民的熱狂が過半数を超えたとしても、その勢いで憲法を変えてはいけない。冷静な熟慮とそのための期間が必要なのだ。

今、あらゆる世論調査で、維新の会の支持率の低下が続いている。その理由は、橋下徹の薄汚い正体が明らかになってきたからだ。国民が情報を集積し熟慮を重ねて、橋下のみっともなさに愛想をつかしてきた。今度ばかりは、国民の目は節穴ではない。

冷静に熟慮をするには一定の時間がかかる。この熟慮期間をおくことが大切だ。ボロを出さないうちの橋下人気で96条先行改憲などしていたら、それこそ肌に粟立つホラーな事態であった。維新の人気凋落が、冷静な熟慮とそのために必要な期間の重要性を教えてくれている。これが、橋下の唯一の功績。

もう一つ、提案したい。橋下の醜悪さは、実は安倍晋三の醜悪さでもある。歴史修正主義者として、人権感覚の鈍さにおいて、大戦後の世界の秩序に仲間入りするための条件だった戦争に対する真摯な反省を覆そうとしている悪質さにおいて。橋下から安倍批判に的を変えよう。橋下を批判した論法の多くはそのまま安倍晋三批判に使える。

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 『関口芭蕉庵』
文京区関口に松尾芭蕉の旧跡がある。神田川に面した目白台の緑のなか、広大な「椿山荘」と「新江戸川公園(細川藩下屋敷あと)」に挟まれて、肩身が狭そうにちんまりとした「関口芭蕉庵」である。芭蕉はここで1677年から3年間を過ごした。出身の藤堂藩が神田浄水の改修工事にたずさわり、その帳付け役をしていたらしい。詳細はわからないが、心楽しい日々ではなかったはずだ。ところがこの場所は、青年芭蕉が糊口を凌ぐため、しばし住まいしてくれたお陰で、「芭蕉庵」の名を冠した名所になって残っている。1726年の33回忌に、門人たちの手で、芭蕉と其角・去来らの像を祀った「芭蕉堂」が急な狭い丘の上に建てられた。その脇には真筆の短冊を埋めて作った石碑「さみだれ塚」がある。眼下の早稲田田圃を琵琶湖畔に見立てて、「五月雨にかくれもせぬや瀬田の橋」とある。
初めて知ったことだが、芭蕉を「俳人」というのは間違いらしい。正しくは「俳諧師」。古く、貴族の優雅な遊びとして、一首の短歌を上の句と下の句にわけて、二人以上で詠み合い鎖のようにつなげていく「連歌」があった。それが江戸時代には、武士町人のあいだで諧謔味がつけくわえられて「俳諧」といものに変化していった。その最初の五七五を発句といい、脇句、第三と次々つなげて最後を挙句と名付けて楽しんだ。
発句のみを独立した作品としたのは芭蕉に始まるもののようだが、俳諧は連綿として続いた。そして明治時代、正岡子規が発句だけを俳諧から独立させて「俳句」と名付けた。だから芭蕉の時代には「俳句」という言葉はなかったし「俳人」もいなかった。

古池やかわず飛び込む水の音(芭蕉)
芦のわか葉にかかる蜘蛛の巣(其角)

五月雨を集めて涼し最上川(芭蕉)
岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄)

むざんやな甲の下のきりぎりす(芭蕉)
ちからも枯れし霜の秋草(享子)

これらの有名な芭蕉の句は連綿と続くストーリー性のある「俳諧」の一部を切り取ったもの(らしい)。

ところで、プロの「俳諧師」を「業俳」といい、アマを「遊俳」と言った。芭蕉は業俳の典型だが、業俳稼業は楽ではない。まず、文句のない教養と才能と実力がなければ続かない。要求されるそのレベルを、「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入るやから」と門人の曲水へ書いている。実力をもって門人の尊敬と献身を勝ち得なければならない。蕉門の門人は十哲をはじめとして2000人ともいわれた。その中には「俳諧の連句を興業」して「出板費」を引き受けたり、紀行行脚の企画立案をしてくれたり、日々の生活の面倒を見てくれたり、庵を提供してくれるようなスポンサーが全国各地に数多くいた。次々と「歌仙を巻いて」連句の座を興業し世間の耳目をひきつけておくのは、才能あふれる門人の協力なくしてはできないこと。才気煥発で、我が儘な門人たちの喧嘩の仲裁もうまくしなければならない。自分の才能を枯渇させないためには、病気味でも「奥の細道」への旅にも出なければならない。
忙しく、清貧の51年の生涯を終える時、「木曽殿と塚をならべて」(其角の「終焉記」)と残した言葉どおり、芭蕉は大津の義仲寺の木曾義仲の墓の隣に葬られた。生前芭蕉は義仲が好きであった。31歳の若さで、瀬田で討たれた義仲の心が哀れでならなかったのだ。
40歳の頃でも60歳に見え、気詰まりで面白くないと、敬して遠ざけられた大先生の「義仲好き」を門人たちはどう思っただろうか。
墓の下で「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の脇句を付けてくれよと義仲にせがんでいるのでなかろうか。いや、もう相当な俳諧ができあがっているのかも知れない。
(2013年5月28日)

梅原猛も「平和憲法擁護」論者である

本日(5月27日)の東京新聞夕刊文化欄に、梅原猛が「平和憲法について」と題した論稿を寄せている。話題とするに値する。

書き出しはこうなっている。
「改憲論議が盛んであるが、私は、‥『九条の会』の呼びかけ人に名を連ねたほどの頑固な護憲論者である」

ところが、この「頑固な護憲論者」の9条論は戦力の不保持を主張しない。護憲勢力とは見解を異にして、「自衛隊という軍隊」の存在を当然とする。次のように、である。
「外国からの攻撃に対しては万全の備えをするがけっして外国を攻撃しない軍隊を持つことこそ日本の名誉ある伝統である。それゆえ、自衛隊こそまさに日本の伝統に沿う軍隊であろう」

東アジアの一触即発の危機も、平和憲法の下で解決を図るべきではないかとはするのだが、その根拠については次のように語られる。
「平和の理想を高く掲げ、内に死を賭してたたかう強い軍隊をもつ国には容易に外国が攻めてくるとは思われない」

要するに、侵略戦争と自衛戦争とは峻別できることを前提として、平和の維持のためには、自衛力たる強い軍隊が必要だというのである。死を賭してたたかう強い軍隊をもつことによって、他国からの侵略を防止することが可能とまで言うのだ。

梅原は、侵略する他国があり得ることを前提に、自衛のための軍隊が必要だという。が、同時に、その軍隊はけっして外国を攻撃しない、専守防衛に徹するというのだ。梅原流の解釈では、「専守防衛に徹する自衛のための軍事組織」は憲法9条2項に反せず、合憲合法の存在なのである。

その梅原が、「九条の会」呼びかけ人9人のひとりである。梅原こそが、九条の会の幅の広さを示している。梅原の論稿の立場は、我が国の多くの良心的保守派の人々の考えを代表するものと言えるだろう。自衛隊なくして国や国民の安全が守れるだろうか、安保と自衛隊あればこその平和ではないか、というものである。しかし、この人たちは同時に、戦争はご免だ。自衛隊を平和共存のバランスを崩すような強大なものにはしたくない。軍国主義の跋扈もまっぴらだ。そう考えてもいる。このような多くの人々を味方にしなくてはならない。

「九条の会」は国民の多数世論を結集して、9条改憲阻止を目標とする。ならば、専守防衛の自衛力容認論者を味方に付けずして、多数派の形成はあり得ない。9条改憲阻止の課題の焦点は、自衛隊違憲論でも自衛隊解体論でもない。自衛隊縮小論ですらない。9条2項の改憲阻止とは、自衛隊を外国で戦争できる軍隊にしないということなのだ。専守防衛からの逸脱を防ごうということである。

憲法9条2項の現実の機能は、自衛隊がかろうじて合憲であるためには、専守防衛に徹する組織であることを必須の要件とするところにある。政府見解をして、「自衛のために必要最小限度の実力を保持することを憲法は否定していない」「自衛隊は専守防衛に徹する組織であるから「戦力」にあたらない」と言わしめているのは、9条2項あればこそなのだ。

憲法9条2項は、けっして死文化していない。これあればこそ、自衛隊は専守防衛を逸脱して他国で戦争することができない。たとえ、アメリカという大親分の命令でも。

その9条2項は、守るに値する。自衛隊の存在を合憲とする者にとっても、専守防衛でなければならないとするかぎりは。

だから、梅原猛は頑固な9条2項擁護論者であり、「九条の会」の呼びかけ人のひとりであり、貴重な「平和憲法擁護」の同盟の一員なのだ。

「別姓訴訟」に素敵な判決を

私が、盛岡で若さに任せて活動していたころ、たいへんお世話になった先輩弁護士が菅原一郎さん。菅原さんは、労働事件をやるために弁護士になったという人で、岩手弁護士会の中心に位置して、危なっかしい私を支えてくれた恩人。惜しいことに、昨年鬼籍に入られた。

その一郎さんは、ご夫婦ともに弁護士。旧姓坂根一郎さんと菅原瞳さんとが結婚して、婚氏を菅原にしたのだ。しかも、一郎さんは母の手一つで育てられた長男。姓を変えることに抵抗がなかったはずはない。それでも、自分の姓を捨てて妻の姓をとられたことが語りぐさだった。愛着ある旧姓に固執せず、妻の姓を名乗られたことは、口先ばかりの男女同権を語る男性が多い中で異彩を放つものとして、たいへんな尊敬を受けていた。

後輩には伝説となっていた。真偽のほどは定かでないが、どちらの姓を名乗るかで、夫婦は世紀のじゃんけんを5回戦して瞳さんが勝ったのだ、などとまことしやかに伝承されていた。私はといえば、じゃんけんもせず籤も引かず、私の姓を名乗ってしまった。ずっと、そのことの負い目を感じ続けている。

民法750条が、夫婦は同一の姓を名乗らなければならないとしている。法文上は、「夫または妻の姓を称する」としているが、96%が夫の姓という現実がある。

これについて法制審議会は、1996年2月採択の婚姻法改正要綱の中で、選択的夫婦別姓を導入するとの提案を行った。これに対するパプコメは、圧倒的に賛成が多かったという。しかし、家族制度の崩壊につながるとして、保守派の抵抗は強く、いまだに法改正に手は付けられていない。

世に事実上の夫婦でありながら、別姓にこだわって法律婚を回避している人もいれば、法律婚によって姓を変えられたことにこだわりを持ち続けている人も少なくない。そのような人たち5人が民法750条を違憲だとする裁判を起こしている。「別姓訴訟」という。その判決が29日に東京地裁民事第3部で言い渡される。注目に値する。

立法不作為を違法として、国家賠償を請求する訴訟である。憲法論としては、13条違反(姓の保持の喪失が個人の尊厳を侵害する)、24条違反(両性の本質的平等に違反。婚姻は両性の合意のみで成立しなければならない)。そして、女性差別撤廃条約違反でもあって、国会で750条改正をしなければならない具体的な作為義務があるのに、これを違法に怠っている、という構成である。

現在の裁判所のあり方から見て、困難な訴訟であることは否めない。しかし、当事者の願いの「寛容な社会」の実現に寄与する判決を期待したい。夫婦同姓が愛情に不可欠だと思っている人は、そちらを選択すればよい。しかし、結婚によって夫か妻のどちらかが姓を変えなければならないことに抵抗ある人にまで同姓を強要することはない。それぞれのライフスタイルを尊重する、柔らかい社会が望ましいと思う。

29日、ステキな判決を期待したい。

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  『山縣有朋と椿山荘』
この季節、晴れて気温が高くなると、庭の椿からパラポリパラポリと不思議な音が降ってくる。大食らいのチャドクガの毛虫が、美味しそうな若葉に取り付いての食事の音なのだ。可哀想だが、見逃すわけにはいかない。高枝切りバサミのお出ましだ。ビニール袋に重たいほどの収穫。気の弱い人、アレルギー気味の人には出来ない作業。
午前中、我が庭でチャドクガ退治をして、午後、「椿山荘」庭園見学。さすが椿山荘のツバキには毛虫一匹いない。すごい。毛虫がいないだけではない。その広大さ、贅をこらした作庭と、広島から移築したという3重の塔…。
椿山荘は文京区の西部、神田川を見おろす目白台地に位置し、1万8千坪の敷地は起伏に富んだ緑深い大庭園である。現在は大きなホテルが建ち、結婚式場として有名であるが、鷹揚なことに、広大な庭は一般に公開されている。
江戸時代には、上総久留里藩の下屋敷があったところで、ツバキがたくさんはえていたので「つばきやま」と言われていた。1878(明治11)年、山縣有朋が購入して、立派な庭を造らせた。
山縣は長州藩の軽輩の出であったが、身分を超えて才能を重んじた「奇兵隊」と「松下村塾」閥を足がかりに、明治、大正の時代を頂点まで登りつめた「軍人政治家」である。
尊皇攘夷、英米仏蘭4国連合艦隊との下関戦争、長州征伐、戊辰戦争、徴兵令制定、竹橋事件、佐賀の乱、西南戦争、自由民権運動弾圧、保安条例、日清戦争、陸軍元帥、政党敵視、義和団制圧、日露戦争参謀総長。まさに、「あなたの手は血塗られている」人生を生きた。軍人勅諭を作ったことでも知られる。最初の下関戦争で負けて負傷したことに懲りてか、あとの方は勝ち馬に乗る選択をした。血は血でも相手の血だ。
元帥、陸軍大将、従一位、大勲位、公爵、内閣総理大臣、枢密院議長、陸軍司令官、陸軍参謀総長。「もっとあるよ」と墓場のなかの肩書き収集屋から声がかかりそうだ。
そして、大庭園の持ち主としても知られる。椿山荘だけではない、山縣の名に結びつけて知られる「無鄰庵」は三つもある。取得の順に並べると、無鄰庵(取得時期不明・長州)、山縣農場(1877年・栃木県矢板市)、椿山荘(1878年・東京都文京区)、小淘庵(1887年・大磯)、無鄰庵(1891年・京都)、無鄰庵(1896年・京都)、新々亭(1907年・東京都文京区)、古希庵(1907年・小田原)、新椿山荘(1917年・麹町)
これらは全て、山縣が購入したか、払い下げを受けたか、贈賄を受けたかした大庭園。普請道楽・造園好きといわれた山縣は、次々に広大な敷地に贅をこらした建物を建て、「椿山荘」のような庭を造った。いくら地価も人件費も安く、権力者の贈収賄に甘い時代だったと考えてもすごいこと。あきれかえる。
1922(大正11)年83歳で没。「国葬」が営まれたが、参列者は軍人と官僚が少しで寂しいものだった。いくら権力と金に執着しても「過去の人」になっていたのだ。その少し前に亡くなった大隈重信の「国民葬」では、人柄を慕った「民」が続々と集まり、生前の人気の差が歴然だったという。
山縣が最晩年に政党嫌いを曲げて首班として認めた、「平民宰相」原敬の日記は、山縣の権力や金銭、邸宅への執着、勲章好きには嫌悪を示し、「あれは足軽だったからだ」とにべもない。
山縣は「維新の元勲」の一典型。国民の財産を横領同然に我が物にして恥じるところがない。血税の吸血鬼、これが「維新」の正体ではないか。山縣とは異なるやり方で、年間100万円や200万円の低賃金で人を使って、自分は天文学的な数字の金を貯めて恥じない経営者も、山縣と同じく、庶民の血を吸う吸血鬼だと思う。やっぱり「おまえの手は血塗られている」。
(2013年5月26日)

橋下徹発言は、飛田経営者側の視点

未読だが、「さいごの色街 飛田」という本が話題となっている。井上理津子さんというフリーライターが12年をかけて「現存する最後の遊郭」を取材したルポだという。この本の話題性は、もちろん橋下徹の「従軍慰安婦は必要だった」「風俗業活用を」という、あの妄言をきっかけとしたもの。

毎日新聞の5月16日夕刊に、その井上理津子さんのインタビュー記事がある。
「一連の橋下氏の発言は、社会的弱者への差別や階層社会を肯定していると受け取らざるを得ません。『慰安婦になってしまった方への心情を理解して優しく配慮すべきだ』とも言いましたが『支配階層』からの、極めて上から目線の言葉ですね」という発言が印象的だ。

「私は大阪の遊郭・飛田新地で働く女性約20人に話を聞きましたが、「自由意思」で入った女性など一人もいなかった。貧困だったり、まっとうな教育を受けられなかったりして、他に選択肢がないため、入らざるを得なかった女性が大半でした」「慰安婦になる以外に選択肢がなかった女性にとっては強制以外の何物でもないんです。『軍の維持のために必要だった』という発言に至っては、戦争を容認している証し。正体見たりです」「苦しい事情を背負った女性の境遇、慰安婦に送り出さざるを得なかった家族の思い、社会的背景に心を致しているとは思えない。政治家の役割を果たしていると言えない」とも。

この人が言えばこその説得力である。綿密な現場取材をされた方の発言としての重みを感じざるをえない。

本日(5月25日)付「毎日」朝刊に、林和行さん(カトリック司祭)という方の「橋下発言は権力者の視点」と題する投書が掲載されている。井上志津子インタビューを引用してのものだが、橋下徹がかつてこの街の業者組合の顧問弁護士だったことを指摘。橋下の権力者の視点の根拠について、「井上さんはそこで働く女性の側に立ったのに対して、橋下氏は経営者側の視点に立ったことによるものではないか」という。これも、なるほど。

橋下徹が、飛田の業者組合の顧問であったことについて、林さんの投書では『さいごの色街 飛田』からの指摘を引用している。実は、「大阪では知らぬものとてない公知の事実」とも聞く。

先日、IWJの岩上安身さんから、「飛田で違法な管理売春が行われていることは天下周知の事実。そのような違法収益から顧問料をもらっていることが弁護士の職業倫理上問題にはならないのか」と聞かれた。

この問は、弁護士とは倫理感覚に優れていなければならないことを前提としたもので、橋下の倫理観の欠如を批判したいとする心情は良く分かる。しかし、私は、弁護士に対して、反権力、反社会的勢力と接触することを禁じてはならないと思う。暴力団も、カルト教団も、ブラック企業も、悪徳商法企業も、殺人犯も詐欺犯も、選挙違反者も、不貞行為者も、相談内容についての守秘義務を前提に、資格のある法律専門家としての弁護士に相談できるのだ。そのことが、大局としてあらゆる人の基本的人権を擁護することになる。たとえ橋下が、「公然と管理売春を行っているとされる業者の組合の顧問」となっていたとしても、それだけで弁護士として非難すべきことはならない。

しかし、問題は顧問として何をやったかである。好個の実例がある。
1985年に豊田商事事件が大きな社会問題となった。同社の破綻以前、この会社にはかなりの数の顧問弁護士がいた。最も有名だったのが,吉井文夫さんというヤメ検。検事時代は正義の味方として悪徳商品取引摘発に辣腕を振るったと言われている。弁護士に転進してからは、専らその業界の顧問として活躍。豊田商事にも引き抜かれて、最後の半年の顧問料は月額500万円だった。

この人は、被害者弁護団からの懲戒請求の申立があって、東京弁護士会から業務停止1年の懲戒処分を受けた。懲戒相当とされたのは、豊田商事の顧問になったこと自体ではなく、弁護士としての業務の内容である。

悪徳商法としての被害者や社会からの追求に対しての会社としての対応へのアドバイス、あるいは従業員に対する「会社のやっていることは法的に問題がない」との解説を通じての激励、それが弁護士としての正当な業務の矩を超えて「悪徳商法に加担した」と認定された。

私も吉井さんとは、何度か法廷でまみえている。強面の人ではない。むしろフェアーな訴訟態度だった。悪辣な印象とは無縁の人。金の力は恐ろしい。

さて、橋下のこと。飛田新地の業者組合から、幾らもらって、何をしていたか、である。どんな事件や相談に、どう対処し、どうアドバイスをして、客観的にどんな役割を果たしていたか。管理売春という犯罪行為の継続に加担するところはなかったか。

豊田商事の例では、破産管財人が洗いざらい会社の業務内容を公表したから、顧問弁護士の行状が明らかになった。しかし、橋下には弁護士としての守秘義務の壁がある。これを突破してどんな業務をしていたのか、明らかにすることは難しい。

井上理津子さんと、林和行司祭の指摘を噛みしめて、橋下徹発言の目線が拠って来たるところ、つまり「橋下発言は、飛田新地の業者の感覚と目線から発せられたもの」、そう指摘することで、橋下批判は十分というべきであろう。
(2013年5月25日)

「一番はじめは 一の宮」

 汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも

この啄木の歌が好きだ。その気持がよく分かる。いつも、盛岡が近くなると車窓から岩手山を探す。人はふるさとに近づくと、自然に襟を正す気持になるのだ。今日は、幸運。名残の雪を戴いた岩手山が目に入る。その堂々と落ちついた姿が好もしい。そして夕刻、岩手山のシルエットを背に盛岡を離れた。

帰京までの新幹線の徒然に、なんの脈絡もなく次の数え歌を思い出した。母からではなく、父から教えられた記憶がある。

一番はじめは 一の宮
二は 日光東照宮
三は 佐倉の宗五郎
四は 信濃の善光寺
五つ 出雲の大社(おおやしろ)
六つ 村々鎮守様
七つ 成田の不動尊
八つ 八幡の八幡宮
九つ 高野の弘法さん
十は 東京泉岳寺
これだけ願をかけたなら浪子の病も治るだろう

庶民信仰の神社仏閣定番メニュー、あるいはベストテンランキングとしてまことに興味深い。もっとも、「一番はじめ」から「七つ」までは間違いないが、「八つ」から「十」まではうろ覚えで自信がない。

いろんなバリエーションがあるのだろうが、「村々鎮守様」や「宗五郎神社」があって、東大寺や法隆寺、伊勢神宮や明治神宮、そして京都五山も鎌倉五山も、歌に数えられていないのが面白い。国家鎮護の大伽藍は、庶民信仰になじまないのであろう。

とすると、靖国神社がないのが微妙なところ。
東京招魂社以来庶民に支えられてきた神社である。意識的に庶民と結びつき、花見や相撲、サーカス、演芸等々のイベントで賑わい続けてきた靖国である。しかし、典型的な「国家鎮護の大伽藍」でもある。数え歌に出てきてもおかしくないし、出てこないことに必然性があるようにも思う。

庶民と結びつき庶民に支えられた靖国ではあるが、国家の命令による戦争や戦死とも結びついた忌まわしさもつきまとう。庶民感覚は、アンビバレントな靖国神社評価をしていたのだろう。

靖国を読み込むとなれば、
五は 護国のご祭神
八つ 靖国ご大祭
九は 九段の大鳥居
十で とうとう倅も神様に
などと数え歌に乗り易い。

ところが、ネットで検索してみると「十は 東京招魂社」というバリエーションがあるそうだ。庶民信仰メニュー・ベストテンに顔を出す靖国神社、恐るべし。

「96条の会」発足と9条問題

本日、樋口陽一さんを会長とする「96条の会」の発起人が国会内で記者会見し会の発足をアピールした。「護憲・改憲の立場を超えて幅広く結集し、世論を喚起したい」との趣旨だという。

発起人は憲法学者を中心に36人とのことだが、9条改憲論者をまじえての96条改正批判の一点での結集。現時点で、これをどのように評価したら良いのだろうか。

昨日、日民協執行部会の意見交換で、安倍自民の「96条先行改憲論」が思惑外れとなっていることが話題となった。これに関して、「マスメディアは、9条改憲や集団的自衛権の解釈変更問題についてはものが言えない。96条だからものが言えるという側面を見落としてはならない」との見解があった。

いずれにせよ、96条先行の明文改憲の動きが鳴りをひそめたということは、取りあえずの焦点は解釈改憲問題になるだろうということ。焦点は96条から、再び9条問題へ。明文改憲への警戒は当然としても解釈改憲の動きをを注視しなけばならない。したがって、安保法制懇の論議が注目の的となる。そして、必ずしも火急のことではないとしても、安倍が明文改憲をあきらめることはない。そのときは、96条と9条改憲とがセットになった明文改憲提案となるだろう。そのことを見据えた運動が必要。そのように大方の意見の一致があった。

とはいえ、96条改憲問題は、おそらくはこれから何度もくり返し出て来る大きなテーマである。「96条の会」によるこの問題について世論への訴えには大きな意義がある。96条改憲の是非を考えることは、立憲主義を学ぶことであり、硬性憲法の由縁を学ぶことでもあるのだから。

当面は、96条改憲と9条改憲、そして解釈改憲としての集団的自衛権に関しての政府解釈変更問題を訴え続けなければならない。9条については、まず改憲しようという改憲勢力の意図を明確にすることが必要だ。そして9条改憲を許せば事態のどこがどう変わることになるのか。その2点が検討課題であり、世論への訴えのポイントであると思う。もっと具体的には、今ある自衛隊を、「専守防衛の原則のもと、自衛のため実力」という枠を超えた存在に変貌させることの是非が問われているのだ。

そのような問題の建て方であれば、「96条の会」の36人のほとんどは、9条明文改憲や解釈改憲問題についても意見を同じくすることができるのではないだろうか。

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  『命』
きょうはどこに行っているのか心配してたら
ひるすぎに、スズメの親子が帰ってきて、賑やかにお食事だ。
いないと心配だし、いるとチュンチュンうるさいし。
きょうは蚊がブンブンでてきてるから、遠慮しないで食べておくれ。
蚊の親は、金魚鉢だけじゃなくて、ちっちゃな水たまりでもお湿りでも、
夢中になって、必死になって卵を産んでいる。
どんなに金魚やスズメが食べても、ボウフラは沸きほうだい、蚊ははやけほうだい。
屋根の梁にはオオスズメバチが巣の土台を作り始めた。
去年は一抱えもある、まあるいボールのような巣をぶら下げて
黄色と黒のだんだら縞の制服着た用心棒がごろついて
近くを通るのがほんとに怖かったよ。
雪のような真っ白いウノハナに隠れた茂みの奥には
コガタスズメバチの母蜂がたったひとりで、
鶴首のとっくりのような奇妙な形の巣を作った。
偉い母さんだ、ひとりでずいぶんみごとな仕事っぷりだ。
ごめんよ、知らないで草刈りに入ったのだから、
そんなにカチカチと肩いからせて脅かさないでおくれ。
はやくはたらきバチを1000匹も育てて大家族を作りなさい。
みんなみんな大忙しだ。
(2013年5月23日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.