澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

どれだけのスラップ訴訟があるのだろうか。なぜ日本でスラップ訴訟が増えているのだろうかー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第87 弾

私自身が被告にされたDHCスラップ訴訟に関連して、発言を求められる機会が多い。あるメディアの編集者から次のような質問を受けた。「なぜ日本でスラップ訴訟が増えているのか」というもの。少し、考え込まざるをえない。

日本でスラップ訴訟が増えていることを当然の前提とした質問で、私もそのような傾向にあるものと印象を受けている。しかし、スラップ訴訟の正確な件数の推移についての統計はない。もとより、スラップの定義が困難な以上、正確な統計を取りようがない。また、世に話題となった「いわゆるスラップ訴訟」は数えられるが、その暗数を推測する方法は考え難い。

私は、DHC・吉田から提訴を受けた際に、これは報道されるに値する大きな問題性を抱えた事件だと思って、主要な新聞各社の記者に取り上げてもらうよう訴えた(産経・読売には行ってない)。しかしどの記者も、おそらく記事にはならないということだった。「その程度の事件はありふれているから」というニュアンスなのだ。

これには少々驚いた。スラップの被告となった被害者は自分で声を上げなければ、スラップ被害を報道してはもらえない。世間は知ってくれないのだ。私は、自ら声を上げる決意を固めて猛然と自前のブログで反撃を始めた。おかげで、私の事件は多少は世に知られるようになった。

DHC・吉田は、同時期に私を含めて自分を批判した者10人に訴訟を提起している。請求額は最低2000万円から最高2億円まで。しかしこのことも、マスメデイアには取り上げられなかった。結局、DHC・吉田から訴えられた10人のうち、声を上げたのは私一人だけだった。DHCスラップ訴訟に限ってのことだが、声を上げた被害者の1人に対して、暗数となった9人の被害者が存在したことになる。

自分がスラップの当事者となってよく分かる。ともかく、早く被告の座から下りたいのだ。騒ぐことで傷口を広げたくない、問題を大きくして引き延ばしたくない。そういう心情になるのだ。明数1に暗数9を加えて、スラップ実数はその10倍。スラップ被害を受けた者の1割だけが声を上げる。そんなところなのかも知れない。

言論萎縮を求めたDHC・吉田の提訴に、私は徹底して闘う決意をした。これは自由な言論を封じようとする社会的圧力との闘いと意識した。闘うことで、スラップの「言論萎縮効果」ではなく、「反撃誘発効果」の成功例を作ろうと考えた。そうして、この不当提訴をブログで猛然と批判し始めた。DHCスラップ訴訟を許さないシリーズである。法廷で闘う以外には、ブログだけが私の武器だった。こんな風に声を上げるスラップ被害者はおそらく稀有の例なのだろう。だから、明数だけを取り出しても、全体数はなかなか推測しがたい。

それでも、スラップ訴訟が今大きく話題となっていることは疑いない。それだけのスラップ実害についての認識が社会的に浸透しつつあるということだ。そのような目立つスラップが増えているとして、その原因はどこにあるのだろうか。

そのひとつは、この社会の「言論対政治的権力」、あるいは「言論対経済的権力」の対立構造において、言論が劣勢になっているからではないかと思う。ジャーナリズム全体が萎縮状況にあると言ってもよい。権力や富者を批判する言論が不活発で、天皇制批判、政権批判、与党批判、財界批判、米国批判における言論の分厚さがなく、やや突出した言論が権力や経済的強者の側から叩かれる。言論界が一致して、これに対抗して表現の自由擁護のために闘うという雰囲気が弱い。こういう状況が、スラップを生む土壌となっているのではないか。

高額請求訴訟の提訴で発言者は黙るだろう。世間も提訴を糾弾することはないだろう。そう思い込ませる空気がある。言論全体がなめられているのだ。

一つ一つの事件で、このような空気を払拭して、言論の劣勢を挽回したい。DHCスラップ訴訟での勝訴はそのささやかな一コマである。
(2016年10月24日)

「被告業・廃業宣言」と、「スラップ糾弾業・就業宣言」?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第86弾

「DHCスラップ訴訟」勝訴確定の第一報を受けて以来10日が経過した。なんとたくさんの人から祝意を受けたことだろう。そして嬉しいことに、多くの人から、「今後DHCの製品は絶対に買わない」「DHCのコマーシャルにはスイッチを切る」「機会あるたびに、周りの人にDHCや吉田嘉明の酷さを知ってもらうようお話ししている」と言ってもらった。

ブログを見た高校時代の友人から、メールが届いた。
「やっと無罪放免?となったようで、良かった。おめでとう。…普通なら、『齢も齢だから、マアあまり無理をしたりトラブルを起こさないようにしたら、』などと言うところだけど、澤藤君に対しては無意味、あるいは失礼になるのかな? 昨秋以来、TVコマーシャルにDHCが出てくるとチャンネルを換えたり、実生活においては、サプリメントなどは全く使わなくなったり・・・」
不愉快な思いはさせられたが、負けずにがんばった甲斐があったというものだ。スラップ常習者には相応の報いがなければならない。

ところで、ここ1年ほど、私の自己紹介は次のようなものだった。
「私は、現役の『弁護士』です。弁護士とは社会正義と人権の守り手。法を武器に、弱者の側に立って権力や富と闘うのが本来の任務。私こそがそのような弁護士だと自負しています。そして、私は『ブロガー』です。毎日「澤藤統一郎の憲法日記」を書き続けています。そのネタは、弁護士としての業務と関係し、どれもこれも権力や権威や経済的な強者には、当たり障りのあるものばかり。さらに、私は『被告業』を営んでいます。2014年5月以来、当ブログの記事が名誉毀損に当たるとして、DHCと吉田嘉明から仕掛けられた不当極まるスラップ訴訟の被告です。提訴時には2000万円、後に請求は拡張されて6000万円の損害賠償請求訴訟。その応訴には煩わしさがつきまといます。もちろん、心理的な負担も大きい。

以上の『弁護士』『ブロガー』『被告業』は、私の中では三位一体なのです。弁護士は社会から与えられた自由を、臆することなく怯むことなく適切に行使する責務があると思っています。ブログはその責務を果たす場。その遠慮のない強者糾弾の記事で6000万円請求の提訴を受けたのですから、一歩も引けない。弁護士が不当な圧力に屈して、批判の言論を萎縮するようなことがあってはならない。被告としての応訴の実態も、ブログに発表することで、弁護士としての職業倫理の責めを果たしていると考えているのです。」

その私が、勝訴確定によって被告であり続ける資格を失った。2年と半年の間、暖め続け慣れ親しんだ被告の座。憤ったり、不愉快な思いもしたが、今は懐かしさを込めて振り返り、ここに厳粛に『被告業廃業宣言』をせざるを得ない。

続いて、話題は再就職に及ぶことになる。私は被告業を廃業しても、「元被告」の地位は持ち続けることになる。なにより、私は弁護士であり続け、ブロガーとしての記事の掲載も続けていく。DHCスラップ訴訟の後始末もしなければならない。

「被告業」を辞して、「元被告業」を営むというのでは積極性に欠ける。考えた末、「スラップ糾弾業」への転職宣言をすることとしたい。

私は、平和や政教分離、国旗国歌問題、政治とカネ、思想・良心の自由、教育を受ける権利、消費者問題、医療・薬害などに関心をもってきた。以前からスラップ問題に格別の思い入れがあったわけではない。しかし、不本意ながらもスラップの当事者となった。この問題に取り組むボルテージは自ずから高い。このテーマについては、社会から私に期待するところも小さくなかろう。

被告業をやめるとは、スポーツ選手が現役を引退するようなものだ。引退後、さっぱりとその世界から足を洗う生き方もあるが、監督としてあるいはコーチとして、あるいは解説者としての再スタートもある。

私の「スラップ糾弾業」就業宣言は、現役引退後のスポーツ選手が、その経験を活かして監督か解説者に転進するようなもの。元スラップ被告の私が、スラップの害悪を世に語り続ける語り部となろうという決意の表明である。

とりあえずは報告集会を開かねばならない。パンフレットも作ろう。そして、私のブログでは、DHC・吉田のやり口を繰りかえし語ろう。政治とカネの問題だけでなく、サプリメントの安全に保証のないことを広くみんなに知らせよう。スラップの薄汚さを社会に周知せしめよう。

もっともっと多くの人に、「今後DHCの製品は絶対に買わない」「DHCのコマーシャルにはスイッチを切る」「機会あるたびに、周りの人にDHCや吉田嘉明の酷さを知ってもらうようお話ししている」と言ってもらえるようにする努力。それが私のなすべきこと。そのような「スラップ糾弾業」と、「弁護士」および「ブロガー」の三者は、私の中で三位一体なのだ。
(2016年10月17日)

内藤光博先生からのお祝いメール?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第85弾

DHCスラップ訴訟の勝訴確定に関して、たくさんの方からお祝いメールやハガキをいただいた。そのなかの最も遠方からの一通が、専修大学の内藤光博先生からのもの。なんと、イタリア・ボローニャ大学で、研究中とのこと。

日民協で親しく、「経産省前『テントひろば』裁判」で被告側の依頼で鑑定意見書を作成されたと聞いていた。「法と民主主義」493号(2014年11月号)には、そのことを寄稿いただいてもいる。DHCスラップ訴訟一審段階での法廷後報告集会で、ミニ講演をお願いして、ご快諾いただいた。

その際のレジメの冒頭は以下のとおり、とても分かり易い。
スラップ訴訟の本質?裁判を利用した言論弾圧
(1)「スラップ訴訟」とは何か?
?1980年代にアメリカで誕生した[違法な訴訟]の概念。
?Strategic Lawsuit Against Public Participasion(SLAPP)
直訳:「公的参加に対する戦術的訴訟」
大企業・政府機関(政治的・経済的・社会的強者)による市民(弱い立場にあるもの)に「公的意見表明の妨害」を狙って提訴された民事訴訟であり、「恫喝訴訟」とも呼ばれている。
(2)特質
?表現活動に対する、文字通りの「萎縮効果」が目的
 裁判により金銭的・精神的・肉体的負担(疲弊)を被告に強いることにより、言論活動に萎縮的効果を与え、原告の利益に反する言論活動を弾圧することに真の目的を有する訴訟=濫訴
?現在ばかりでなく、将来の公的発言者に対する萎縮効果を特つ。
?提訴により目的が達成されるので、訴訟の勝敗にこだわることのない「裁判を利用する言論弾圧」であり、「裁判としての意味を特たない訴訟
」(以下略)

ところで、イタリア・ボローニャ大学である。
ウイキペディアを検索してみたところ、「ヨーロッパ最古の総合大学であり、規模においてイタリア国内第2位の大学でもある。世界の大学の原点とされ、『母なる大学』とも雅称される。創立以来9世紀を超える歴史のうちには、ペトラルカやダンテ、ガリレオ・ガリレイ、コペルニクスなどといったそうそうたる著名な才人が過去の在籍者に名を連ねる。」とある。なんだか途方もなく、すごいところ。

ご承諾をいただいたので、内藤先生からのお祝いメールを、ご紹介する。
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内藤光博
ご無沙汰しております。
お元気でご活躍のことと存じます。

DHCスラップ訴訟で、最高裁が上告不受理を決め、先生の完全勝訴となったことを知りました。おめでとうございます。心よりお祝い申しあげます。

スラップ訴訟は、日本ではまだ認識が低く、これから究明を進めなければならない重要な課題だと考えております。
先生の勝訴が、スラップ訴訟の実態を社会に広く知らしめることになると思います。その意味で、今回の訴訟は大きな意味を持つと思います。

私は、現在、イタリアのボローニャ大学で、研究生活を送っております。
スラップ訴訟についても調べておりますが、やはりイタリアでもスラップ訴訟については弁護士や法学者に間にも認識はないようです。

ただ、ボローニャの著名な左派リベラルの弁護士に会って、スラップ訴訟の話しをし、イタリアでも問題となっているのかなど聞き取り調査をしましたところ、スラップ訴訟の概念はないが、そのような訴訟は頻繁に起きており、イタリアでは社会的連帯という憲法原理から、民主主義を擁護する市民団体により、かなり厳しい批判が寄せられ、裁判所に大きな影響を与えるので、問題はないとのことでした。

私のイタリア語力の問題もあり、もう少し詳しく、調べてみようと思います。

ボローニャは、日本の初冬にあたる気候で、朝晩は10度を下回っております。夏から一気に冬に向かうという感じで、日本の秋がありません。日本は暑い日があったり、台風が来たりと異常気象が続いていると聞いております。また、阿蘇山の爆発的噴火があったとのニュースも聞きました。被害が心配です。

どうかお元気でお過ごください。
匆匆
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拝復、お返事をいただき、ありがとうございました。
イタリア・ボローニャ大学には、今年の3月から来ています。
専修大学長期在外研究員制度を利用して、1年間の研究休暇をいただきました。
出発の連絡もせず、たいへん失礼いたしました。
こちらの生活は、残すところ半年となり、来年3月には帰国いたします。
ボローニャ大学では、イタリア共和国憲法の「連帯」の基本原理と抵抗権について調査し、勉強しています。

2010年代以降の日本の憲法政治は、立憲主義を突き崩す「暴政」とみており、安保法制反対運動・沖縄基地反対運動・反原発運動は、日本国憲法を否定している政府に対する抵抗権行使だと見ております。それに抵抗するために、市民の政治的・社会的連帯と抵抗権行使が行われているのだと思います。

抵抗権論については、今年の年末に出版予定の論文集に、経産省前テントひろば裁判に関して抵抗権論を展開しています。帰国しましたらお送りしますので、ご笑覧いただければと存じます。

先生の憲法日記は、毎回欠かさず拝読させていただき、勉強させていただいております。お祝いメールは、拙文で恐縮の限りですが、もちろん公開していただいて構いません。
よろしくお願いいたします。
不一 (2016年10月12日)

「言論の正義」とは何か??「DHCスラップ訴訟」を許さない・第84弾

DHCスラップ訴訟の勝訴確定に関して、たくさんの方からお祝いメールをいただいた。そのなかには建設的な提言も真摯な問題提起もある。そんな一通である下記のメールでの問に、自分なりに答えてみたい。

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澤藤さん
第80弾のブログで、「『DHCスラップ訴訟を許さないシリーズ』は、まだ続くとあって、その意気軒高ぶりをうれしく思いました。
そこで、澤藤さんに一つ質問してみたいことがあります。

第80弾の最後に、今回の訴訟がもつ4つの意味があげられています。
1.言論の自由にたいする不当な攻撃である。
2.攻撃された言論は、「政治とカネ」にかんする政治的言論である。
3.また、消費者目線の規制緩和批判である。
4.言論萎縮をねらうスラップである。
この相互に関連する4点は、これまでの弁論と報告集会のなかで、たえず確認されてきたことです。

ところで今日、「言論の自由」「表現の自由」は、きわめて錯綜した状況にあるのではないでしょうか。DHC吉田は、澤藤さんのブログを名誉棄損だとして訴えたわけですし、在特会までが自分たちの「言論の自由」を主張しています。ツイッターでの誹謗中傷は日常茶飯事ですし、ヘイトスピーチをめぐる立法や論争もあります。辺野古埋立てにかんする福岡高裁那覇支部の判決もありました。

こうした状況のなかで、人々は、ともすると、強い者の言論が結局は正義としてまかり通ると思いがちです。そんななかで、澤藤さん、言論の正義とは何でしょう?
そして、憲法が保障する「表現の自由」という権利(法権利)は、この正義とどう関係しているのでしょう?

澤藤さんは、一方で、表現の自由の保障は無害な言論を対象とはしていない、と述べています。それが対象とするのは危険な言論、誰かに害を与えかねない言論です。他方で、言論が実際の力関係のなかに置かれていることも認めていらっしゃる。
公権力、経済力、影響力をもつ者は強者であり、それらをもたない民は弱者であって、力関係によって結びつけられている弱者から強者への批判の言論こそが、自由を保障されねばならない(なぜなら、それはいつも脅かされているからだ)。
したがって、言論の正義とは、踏みつけにされている者の正義、口を塞がれ、言わずにはおれない者の正義ということになるのでしょうか?

2012年都知事選での大河さんの随行員解任事件から、澤藤さんの運営委員解任事件を経て、DHCスラップに至るまで、僕たちは、同じ事件、同じテーマに出会い続けてきたような気がします。
僕がいまだにその答えを正確に見つけることができないでいる、言論の正義とは何か?澤藤さんは、どうお考えですか?

読者D・K

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拙いブログを、丁寧にお読みいただいていることに感謝いたします。

D・Kさんは、「言論の正義とは何か」という形で問を発しています。「人々は、ともすると、強い者の言論が結局は正義としてまかり通ると思いがちです。そんななかで、言論の正義とは何でしょう?」

D・Kさんのいう「言論の正義」には、言論内容には正義と非正義があって、その分類には客観的な基準があるはずだ、という前提がおかれているのだと思います。けっして、すべての言論が「表現の自由」の名の下に、内容の如何を問わず平等に尊重されるべきなどとはいえない。その主張に基本的に賛意を表します。

「誰のどのような言論も自由」と言ってしまうと、DHC吉田にも、在特会にもネトウヨ・ツイッターでの誹謗中傷も、「言論の自由」があって許容されるということになります。しかし、DHC・吉田の言論とは批判者を恫喝して黙らせようというスラップ、在特会の言論とは露骨な民族差別のヘイトスピーチ、そして匿名性に隠れてのネトウヨ・ツイッターでの薄汚い誹謗中傷。彼らのそんな言論に「言論の自由」を語る資格はなく、正義などカケラもないではないか、というご指摘と思います。

そして、辺野古埋立てにかんする福岡高裁那覇支部の判決も、その内容はけっして「正義」として尊重すべきものではない。アベ政権の壊憲論・壊憲論も同様だと思います。

これらの言論がなべて「言論の自由」として相対化されて同じ土俵に乗ってしまうと、あろうことか、結局は「強い者」「権威ある者」の言論が「正義」を乗っ取ってしまうことになってはいまいか。そのことに対するD・Kさんの苛立ちがあるのだと思います。

そのD・Kさんの思いが、「憲法が保障する『表現の自由』という権利(法権利)は、この正義とどう関係しているのでしょう?」という問になっています。多分、「表現の自由などというものは、この現実社会の中で美しい見掛けだけのもの。内実のない嘘っぱちではないのか」「あれもこれも自由と許容してしまうと、行き着くところは、声の大きな強者の言論が正義となってしまう現実があるではないか」という批判が込められているように思われます。

さらに問われているのは、「言論の自由という美名をもってしても正当化されない非正義の言論」というカテゴリーがあることを確認して、いったい言論の正義と非正義を分かつ基準はどこにあるのか、どう分類すべきかということ。

おそらく、そのご指摘は、「言論の自由の正義」を越えて、「正義とは何か」という根本的な問いかけなのだと思われます。

2012年と14年の都知事選において宇都宮陣営がしでかしたことの非正義ぶりについては、既に私のブログ(「宇都宮君立候補をおやめなさい」シリーズ)で徹底して論及しましたから繰り返しません。確認しておくべきは、ここにも小さな部分社会の中での小さな権力者たち(宇都宮健児・上原公子・熊谷伸一郎ら)に、あれこれの名目では糊塗し得ない非正義の言動があったということです。

正義と非正義を分けるものは何か。いくつかの試論が可能かと思います。私は、この社会におけるすべての個人がその尊厳を平等に尊重されるべきことを公理とし、この公理を出発点としてすべての立論を組み立てたいと思っています。個人の尊厳を尊重するとは、生命・身体の安全、精神活動の自由、経済生活における豊かさを増進することを意味します。その個人の尊厳の平等を実現する方向のベクトルをもつ言動は正義、不平等化の方向のベクトルをもつものは不正義、と言ってよいのでないでしょうか。

私のこの物差しは、まず差別を助長する一切の言動を不正義と弾劾するものです。優生思想、民族差別、男女差別、血筋や家柄による差別、障がい者差別、経済格差の助長…。ヘイトスピーチも、その反対に特定の血筋や家柄をありがたがる言動も正義ではありません。

また、当然に人権を侵害する言論も不正義となります。DHC・吉田のスラップは、言論の自由という個人の精神的活動の人権を侵害する言動として、また多くの人の消費生活上の利益を侵害する言動として、また多くの市民の権利擁護の合理的なシステムとしての民事訴訟制度を悪用する言動として、非正義であるというべきでしょう。

問題が大きすぎて回答は雑駁に過ぎますが、せっかくのご指摘また考えてみたいと思います。いったい何が社会的な正義か。法の正義はどうとらえるべきか。そもそも、正義という用語での問題の建て方が有効なのか。正義の言葉で本当は何を語っているのか…。
(2016年10月10日)

スラップ提起者らにはしかるべき損害額を賠償させる必要がある?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第83弾

DHCスラップ訴訟の「勝訴確定おめでとうメール」の中には、「さあ、反撃ですね」「損害賠償請求はいつ出しますか」「次はS63年判例への挑戦ですね」などというものが少なくない。私は、DHC・吉田への反撃を期待されているのだ。もしかしたら、挑発されているのかも知れない。

スラップ訴訟の被告は、訴訟に勝って原告の請求を斥けただけでは被害を回復できたことにはならない。恫喝目的の高額提訴自体が被告に精神的苦痛をもたらす。応訴には弁護士費用もかかり、手間暇を要することになる。本来の業務にも差し支えが生じる。これらの損害を回復するためには、スラップを提起した原告やその補助者(たとえば代理人弁護士)に損害賠償請求訴訟の提起が必要なのだ。

「反撃」とは、この損害賠償請求訴訟の提起をさしている。そして、「S63年判例」とは、提訴が違法となる要件についてのリーディングケースとされている1988(昭和63)年1月26日最高裁(第三小法廷)判決を指している。

違法な行為(あるいは過失)によって他人に損害を与えれば、その損害を賠償しなければならない。はたして、スラップの訴訟提起が違法といえるのか。スラップは形のうえでは民事上の訴権の行使としてなされる。敗訴となる訴の提起がみな違法となるわけではないのは当然のこと。DHC・吉田側は憲法32条(裁判を受ける権利)を援用して「勝訴・敗訴の結果にかかわらず、提訴自体が違法となることはない」と防戦することになる。しかし、言論封殺目的でのスラップが許されてよかろうはずはない。

このことについてのリーディングケースとされている最判(最高裁判決)が「63年判例」である。注意すべきは、これがスラップについての事案ではないことだ。スラップについては「63年判例」を修正して考えなければならない。

このことについての検討を、DHCスラップ訴訟の被告弁護団で活躍した小園恵介弁護士が、「法学セミナー10月号」のスラップ訴訟特集に「昭和63年判例の再検討」と題して寄稿している。

私は、この「法学セミナー10月号」を多くの人に購読してお読みいただきたいと願っている。これで3度目となるが、宣伝させていただく。定価は税込1512円(本体価格 1400円)、お申し込みは下記URLから。
  https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html

63年判例の事案の内容は以下のとおりである。
本件には、先行する前訴がある。
前訴は、原告Yが被告Xに対してした損害賠償請求。土地売買に際して測量を行ったXの測量結果に誤りがあったためYに損害が生じたとするもの。結果は原告Yの敗訴となった。
その訴訟に続いて攻守ところを変え、今度は原告Xが被告Yを提訴した。Yの前訴提起が不法行為に当たるとして損害賠償を求めるという事案。

最高裁は、概ね次のとおり判示して、Xの請求を棄却した。(小園論文を引用)
「民事訴訟を提起した者が敗訴の確定判決を受けた場合において、右訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは、(?)当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、(?)提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である。けだし、訴えを提起する際に、提訴者において、自己の主張しようとする権利等の事実的、法律的根拠につき、高度の調査、検討が要請されるものと解するならば、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となり妥当でないからである。」

つまり、こう言うわけだ。
提訴者には憲法32条の後ろ盾がある。だから、軽々には提訴自体を違法とはいえない。しかし、提訴が「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるとき」には違法となる。もっとも、違法はその場合に限られる。
具体的には、次の2要件があれば、違法となる。
?(客観要件)当該訴訟において提訴者の主張した権利等が事実的、法律的根拠を欠くこと
?(主観要件)提訴者が、そのことを知りながら提訴した、または通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したこと

この要件は高いハードルではあるが、ラクダが針の穴を通るほどに難しいものではない。この2要件を使う形で、スラップ訴訟でもいくつかの反訴認容判決が出ている。私が、筆頭代理人を務めた「武富士の闇」スラップ訴訟判決(4被告による反訴で各120万円、計480万円の認容)がその典型であろう。なお、この事件の顛末についても、被告とされた新里宏二弁護士が「法学セミナー10月号」の特集に寄稿している。

しかし、留意すべきは、「63年判例」がスラップに関するものではないことである。違法を問われる提訴が、表現の自由を攻撃するものである場合には、「63年判例」は修正を余儀なくされるはず。なぜなら、「正当な表現活動を、裁判制度を利用して抑圧しようとすることは、まさに『訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く』ものにほかならない」からだ。これが小園論文のエキスである。

これを敷衍して、小園論文は次のようにも述べられている。
「スラップ訴訟の対象とされるような批判的言論は、その多くが公共的な問題を社会に訴えかけるものであり、まさに国民の意思決定を支える礎といえる。批判的言論には、特に手厚い保障が与えられなければならない。したがって、スラップ訴訟のように批判的言論を対象とした訴訟の提起の違法性を検討するに当たっては、原告側の裁判を受ける権利と被告側の応訴負担だけで利益調整をしたのでは足りない。天秤の被告側に、表現の自由の保障という考慮要素が乗せられなければならないのである。」
まったくそのとおりではないか。

ラクダが針の穴を通るほどではないにしても、この要件は相当に高いハードルではある。ことスラップの場合に限っては、もっとこのハードルを下げなければならない。それが、憲法21条を死活的に重要な基本権とする憲法が要求するところなのだ。この基本的な考えに基づいて、小園論文は、「63年判例」枠組みについての具体的な修正案を複数例提示して興味深い。

違法な提訴の責任主体を訴訟代理人弁護士まで含めることは、スラップ訴訟に大きな抑制効果をもつものとなるが、小園論文はその場合に必要な共同不法行為論にまでは言及していない。

なお、小園論文はスラップ提訴の損害論に及んでおり、これも興味深い。
前述の「武富士の闇」スラップ訴訟反訴の認容額は反訴原告一人が120万円だった。内訳は、100万円の慰謝料と20万円の弁護士費用である。これは、少額に過ぎる。とりわけ、問題にすべきは弁護士費用の額である。

20万円の弁護士費用額は、反訴の認容額を基準とする金額とした場合には妥当だろうが、違法提訴への応訴のための弁護士費用としては全く不十分である。

小園論文は、「原告の設定した請求額によって被告の弁護士費用が決まるのであるから、原告の請求額を基準として弁護士会の旧報酬会規により算出される金額を、被告の(応訴に必要な弁護士費用として)損害と認定すべきである」という。これも、まったくそのとおりだ。

その上で、算定の具体例を挙げている。
「請求額が2000万円なら、『327万円+消費税』である」と。

請求額6000万円の場合の算定はないが、計算してみると747万円である。消費税込みだと800万円を越す。これが、認容さるべき弁護士費用なのだ。

私がDHC・吉田を提訴するとなれば、慰謝料よりも、彼が設定した高額請求訴訟の応訴弁護士費用の損害額が大きくなる。こうすることが定着すれば、スラップの提起は安易にできなくなるだろう。とりわけ過大な高額請求事案は減るに違いない。
(2016年10月9日)

スラップに成功体験させないために、訴訟実務に「現実的悪意の法理」の導入を?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第82弾

DHCスラップ訴訟の勝訴確定に関して、たくさんの方からお祝いメールをいただいた。そのなかには、「DHC・吉田嘉明のごときスラップ常習者の濫訴を、どうしたら防止できるか」と問題提起をされる方が少なくない。カネに飽かしての言論萎縮を目的とした濫訴をどうしたら防止できるかという問である。

これに対する回答は容易ではない。社会的制裁、現行の名誉毀損訴訟実務の枠組み変更、スラップ防止の立法策、各分野での研究者への問題提起等々の多様なアプローチが考えられるが、体験者の実感からは、「スラップに成功体験をさせてはならない」努力の積み重ねがスラップ対策の基本であると思う。

スラップに成功体験をさせないとは、まずはスラップ原告に勝訴させてはならないことだ。それだけではなく、スラップが目的とする言論萎縮を成功させてもならない。さらに、スラップに対する制裁を考えなければならない。法的にはスラップの提訴自体を不法行為とする損害賠償請求があり、社会的にはスラップを批判する言論が巻きおこり、スラップ提起者の社会的イメージに傷がつかなければならない。原告が企業であれば、ブランドイメージのダメージとならねばならない。

とりあえず、訴訟の帰趨に問題を絞れば、名誉毀損訴訟における現行の訴訟実務の枠組みをどうにかしなければならない。現行の訴訟の枠組みでは、スラップを提起された被告の負担はあまりに重い。これが憲法21条を持つ国の訴訟実務かと、嘆かずにはおられない。

この過重な負担をなくして被告を早期に訴訟から解放させること、つまりは原告を敗訴させてスラップの効果を減殺することが、スラップ提起を抑止する何よりの効果を発揮する。そのための名誉毀損訴訟における判断枠組みの変更が求められている。目標とすべきは、古くからアメリカの訴訟実務に定着している「現実的悪意の法理」を我が国の訴訟実務にも取り入れることだ。
 
 この法理は、公人・私人二分論を前提として、公人(公的立場にある人物、公務員や政治家に限らない)に関する名誉毀損の言論が違法となるのは、論者に「現実的悪意」(actual malice=当該言論が虚偽であることについての悪意又は重過失)あることを要するというもの。そのベースには、表現の自由を民主主義の根幹をなす優越的な価値とする認識がある。

公人・私人二分論は、判決文に明示されるかどうかはともかく、日本の法律実務においても既に説得力をもつものとなっている。DHCスラップ訴訟においても、吉田嘉明の公的立場を強調して主張している。

私とて、憲法21条万能論を主張するものではない。心ない言論に傷つけられる、弱い立場の人権には十分な保護が必要だと思う。公人と私人との分類は、強者と弱者にオーバーラップする。公人(≒強者)には、「言論には対抗言論で」という自力救済を求め原則として法的救済を否定する。対抗言論を期待し得ない私人(≒弱者)には法的救済を認める。この二分論が、説得力のあるものだと思う。

現行の違法性阻却3要件(公共性、公益目的、真実(相当)性)を被告に負担させるという被告に過重な訴訟実務は、原告が公人(あるいは公的人物)である場合には顧慮無用というべきなのだ。

DHCスラップ訴訟に例をとれば、被告は原告吉田嘉明が公的人物であること、あるいは指摘された名誉毀損言論が公共の事項にかかるものであることを立証すればよいことになる。そうすれば、原告吉田嘉明側が、被告に「現実的悪意」(actual malice=当該言論が虚偽であることについての論者の悪意または重過失)あることを立証しない限り請求棄却となる。平易に表現すれば、私が私のブログの表現を虚偽であると認識していたか、虚偽と認識ないことに重過失がない限り、間違った言論であっても私の言論は保護されるのだ。公的立場にある吉田は、仮に間違った言論に対しても、訴訟で勝つことはできない。

スラップで原告となるのは公人(公的立場にある人物)なのだから、この枠組みの採用はスラップ対策として極めて有効となる。これで不都合ということはない。公人(≒強者)は対抗言論をもって自分の正当性を明らかに出来るのだから。また、二分論は私人(≒弱者)の「報道被害」救済についても配慮しているのだから、採用されやすいのだと思う。

なお、日本評論社の「法学セミナー」2016年10月号の特集「スラップ訴訟」が問題意識をよくとらえた特集になっている。
「日本においてようやく認知され始めたスラップの定義、実態、弊害を整理して紹介し、アメリカの反スラップ法を参考に日本における抑止・救済策を整理し、今後の議論を展望する。」という惹句。是非ご一読を。
  https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html
(2016年10月8日)

吉田嘉明のスラップに関する「見解」に反論する?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第81弾

下記は、「DHCスラップ訴訟」の上告受理申立書に添付された吉田嘉明作成の「見解」である。スラップ訴訟に関する彼の考え方が述べられたもの。その全文をご紹介し、これに反論しておきたい。

スラップ訴訟云々に関して
共同通信の斉藤友彦氏や朝日新聞の干葉雄高氏より、小生とDHCが提訴している澤藤被告がブログや記者会見でスラップ訴訟云々と主張している件に関して見解を伺いたいとのことなので、取材に応じる代わりに本紙面で私の見解を述べることにいたします。
そもそも私が渡辺元議員を支援したのは当時官僚改革に最も真摯に取り組んでいた彼の姿を見て陰から支えてあげたいと思ったからであり、それ以外の何もありません。私は官僚改革こそが日本再生の必須の課題であると今も思っています。澤藤被告が「吉田嘉明が自分の儲けのために、尻尾を振ってくる矜持のない政治家を金で買った」とか「大金持ちが更なる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」とか、その他諸々の悪口雑言をインターネットに並べ立て小生を悪罵していたために提訴したわけですが、そのどこがスラップ訴訟なのでしょうか。事実無根の、全く根拠のない嘘でたらめを、しかも悪意を持って世間に広言されたら誰もが怒りに震えるのは当然のことでしょう。渡辺氏のことを矜持のない政治家だと贅言していますが、無名の弁護士が売名のために騒ぎまくっている行為こそが矜持のない醜態だといえるのではないでしょうか。渡辺氏は検察の最終判断ですべてが不起訴となり、一連の騒動はすべて終了しました。今は浪人中ですが依然として国が必要とする類い稀な政治家であることに変わりはありません。それを虚名の三百代言ごときに矜持がないなどとは言われたくはありません。格が違います。「行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」などと妄言していますが、小生がただの一度でも当時の渡辺議員に行政への橋渡しを依頼したことがあるのか、直接渡辺氏なり、厚労省の担当官に尋ねてみればわかることです。澤藤被告は訴訟の書面やブログで、この裁判は、裁判の勝敗よりも相手を萎縮させ、言論を封じることを目的としたスラップ訴訟であり、訴権を乱用していると主張しています。
渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹膀中傷をインターネットに書き散らかされました。当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に熟慮検討した上で、特に悪辣な十件ほどを選んで提訴したものです。専門の顧問弁護士が確実に勝てると思って行ったことです。やみくもに誰もかもともと提訴したわけではありません。それに提訴後、澤藤被告の言論を封じたどころか、彼は連日のごとく悪口雑言をブログに書きまくっているではありませんか。全く萎縮などしていません。
そもそもスラップ訴訟の意味すら分かっていません。拡大解釈も甚だしい。SLAPP とはStrategic Lawsuit Against Public Participationの略で「社会参加を邪魔するための戦略的訴訟」ということですが、今回の訴訟のどこが被告の社会参加を邪魔しているのか、どこが戦略的なのか笑ってしまいます。
名誉棄損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます。泣き寝入りをしている人がほとんどです。メディアはスラップ訴訟を云々するより、むしろ、善良な人たちの泣き寝入りをいいことに嘘、悪口の言いたい放題が許されている現状こそ問題にすべきです。インターネットの醜さはどうでしょうか。人間生活を完全に壊しています。朝日新聞は何十年にもわたって嘘を書き続け、世界に向かって日本及び日本人を貶めたことをお忘れでしょうか。共同通信も最近では朝日に劣らず反日メディアなのではと危惧され始めています。どこの国の人かわからないような似非日本人が跳梁跋扈している世の中、そして嘘、悪口の言いたい放題が許されている世の中には私は断固反対します。嘘つきは信用できません。
平成28年2月21日
株式会社DHC 代表取締役会長・CEO吉田嘉明

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スラップ訴訟云々に関して
共同通信の斉藤友彦氏や朝日新聞の干葉雄高氏より、小生とDHCが提訴している澤藤被告がブログや記者会見でスラップ訴訟云々と主張している件に関して見解を伺いたいとのことなので、取材に応じる代わりに本紙面で私の見解を述べることにいたします。

私(澤藤)は、吉田嘉明とDHCの私に対する高額損害賠償請求訴訟を典型的なスラップ訴訟と位置づけ、この訴訟に「DHCスラップ訴訟」と固有名詞を冠した。DHCスラップ訴訟は、当初は市民運動や心あるジャーナリストだけの注目するところだったが、ようやく共同通信や朝日新聞が取材するようになった。法学セミナーの10月号にも特集となった。その他にも、寄稿や講演の依頼が少なくない。今や、DHCとスラップ、スラップとDHCは、切っても切れない仲となった。スラップには薄汚いイメージがつきまとう。当然にその薄汚いイメージはDHC・吉田のイメージとして拭いがたく定着している。このことは、自らスラップを提起したDHC・吉田の自業自得であり、身から出た錆というべきものなのだ。

そもそも私が渡辺元議員を支援したのは当時官僚改革に最も真摯に取り組んでいた彼の姿を見て陰から支えてあげたいと思ったからであり、それ以外の何もありません。

政治家の支え方にはいろいろある。労力を提供すること、知恵を貸すこと、人脈を紹介すること…。カネを出すこともそのひとつだが、カネを出す場合には、政治資金規正法に則った透明性が要求される。もちろん、金額の上限もある。政治がカネの力で壟断されてはならないからだ。

吉田は、渡辺を「陰から支えて」「巨額のカネを提供した」のだ。「政治家を陰から支えるための巨額のカネ」を、日本語では「裏金」という。本来政治資金の動きは透明でなくてはならない。この透明性を欠いた「裏金」には、薄汚い思惑が秘められていることが常識である。私のブログは、DHC・吉田の薄汚い思惑について、合理的で常識的な推認にもとづく意見ないし論評として記事にした。判決はこれを表現の自由の範疇にあるものと認めた。当然のことだ。

私は官僚改革こそが日本再生の必須の課題であると今も思っています。澤藤被告が「吉田嘉明が自分の儲けのために、尻尾を振ってくる矜持のない政治家を金で買った」とか「大金持ちが更なる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」とか、その他諸々の悪口雑言をインターネットに並べ立て小生を悪罵していたために提訴したわけですが、そのどこがスラップ訴訟なのでしょうか。事実無根の、全く根拠のない嘘でたらめを、しかも悪意を持って世間に広言されたら誰もが怒りに震えるのは当然のことでしょう。

「吉田嘉明が自分の儲けのために、尻尾を振ってくる矜持のない政治家を金で買った」とか「大金持ちが更なる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」は、合理的で常識的な推論なのだ。「事実無根の、全く根拠のない嘘でたらめ」ではない。私のブログの記事は、もっぱら吉田が週刊新潮に自ら書いたとされる「手記」を根拠にし、これに基づいてのものである。その標題を確認しておこう。「借金8億円を裏金にして隠した『みんなの党』代表への実名告発」「さらば器量なき政治家『渡辺喜美』代議士」「DHC吉田嘉明会長独占手記」というのだ。

吉田は、自らの手記の内容を事実無根と言うのだろうか。その手記の中には、自らが経営する事業に対する厚労省の行政規制に不満が述べられ、「厚労省の規制チェックは…特別煩わしく、何やかやと縛りをかけて来ます」と言い、「私から見れば、厚労省に限らず、官僚たちが手を出すほど、日本の産業はおかしくなっている」「霞ヶ関、官僚機構の打破こそが今の日本に求められている政治家」と語られている。一般常識を持つ人ならば、誰もが、吉田の裏金提供の意図を、規制緩和による利潤拡大と推認するだろう。私はこのことを厳しく表現した。けっして、「事実無根」でも、「全く根拠のない嘘でたらめ」でもない。仮に吉田が、怒りに震えたにしても、自らの行為と、週刊誌に手記を発表した己の不明を恥じるべきで、私を怨む筋合いではない。

「どこがスラップ訴訟なのでしょうか」に答えよう。
まずは、私の言論は客観的に違法性のない真っ当な言論である。言論の自由の保障が与えられることが明々白々な言論にほかならない。この私の言論を違法として提訴すること自体が、自らを批判する言論を嫌忌し、これを恫喝して萎縮せしめようというスラップにほかならない。

主観的には違法と考えていたという言い訳は通じない。その言い訳は、言論の自由を尊重しない体質を露呈しているだけである。

何よりも、高額請求がスラップの性格をよく反映している。本件で損害賠償が認められる余地はさらさらないと言うべきだが、法や判例に疎い者が原告になって、勝訴の見通しを誤認したとしても、100万円以上の慰謝料請求はリアリテイを欠く。当初2000万円、さらには6000万円の法外な請求額は、言論萎縮を狙った恫喝目的訴訟以外のなにものでもない。

さらに、DHC・吉田には前科がある。争議中の労組ホームページの記事を、会社に対する名誉毀損だとして5000万円を請求して全面敗訴(東京地裁・2005年11月1日判決)の前科である。これも、典型的なスラップ。

また、私を含め、類似案件としてほぼ同時に10件の提訴をしていることも、その批判言論嫌忌の体質を物語っている。ここまで来れば、スラップ常連と言って差し支えない。

吉田嘉明が自分を批判する言論を気に食わないとすれば、本来は言論をもって反論すればよいことなのだ。対抗言論の発信力あるものは言論による反批判をすればよい。敢えて、高額請求訴訟におよぶのは、恫喝の意図を推認させるものである。

渡辺氏のことを矜持のない政治家だと贅言していますが、無名の弁護士が売名のために騒ぎまくっている行為こそが矜持のない醜態だといえるのではないでしょうか。

「贅言」は日本語の使い方の間違い。「売名のために騒ぎまくっている無名の弁護士」「虚名の三百代言ごとき」とはいずれも私のことを指すようだ、これは明らかに侮辱に当たる。しかも、違法性を阻却する文脈にない。3年の時効期間経過までに折あれば問題にしたいが、今のところは勝者の余裕をもって寛容の大度を見せておこう。

「行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」などと妄言していますが、小生がただの一度でも当時の渡辺議員に行政への橋渡しを依頼したことがあるのか、直接渡辺氏なり、厚労省の担当官に尋ねてみればわかることです。

こうなると、相手にするのも愚かしい、驚かざるを得ないレベル。子どもの喧嘩の類の論法。私が、繰りかえし「合理的推論」と言っている意味がお分かりでないよう。「あなたは涜職に関する罪を犯しましたか」と尋ねてみて、いったい何がわかると言うのだろうか。

澤藤被告は訴訟の書面やブログで、この裁判は、裁判の勝敗よりも相手を萎縮させ、言論を封じることを目的としたスラップ訴訟であり、訴権を乱用していると主張しています。渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹膀中傷をインターネットに書き散らかされました。

「渡辺騒動」で吉田嘉明を批判したのは、私だけでなく、「数十名の反日の徒」だったという。私が特異な意見を発信したのではなく、吉田が認識しただけでも「数十名」あった批判者の内の一人に過ぎなかったということではないか。

なお、この文書の中に「反日」が複数回出てくる。私や朝日・共同に対する悪口として、である。これは特定の立場の人びとだけが使う言葉。吉田嘉明はそういう立場なのかと思わせる。

当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に熟慮検討した上で、特に悪辣な十件ほどを選んで提訴したものです。専門の顧問弁護士が確実に勝てると思って行ったことです。やみくもに誰も彼もと提訴したわけではありません。

こんなことはなんの言い訳にもならない。代理人の不見識や能力不足あるいは過誤は、対外的には依頼者本人が引き受けなければならない。しかも、名誉毀損とされた私のブログの掲載日(2014年4月8日)から、提訴(4月16日)までの期間がわずか8日である。到底慎重で真摯な検討がなされたとは考えられない。ともかくも早期提訴による萎縮効果を狙ったものと考えざるをえない。

それに提訴後、澤藤被告の言論を封じたどころか、彼は連日のごとく悪口雑言をブログに書きまくっているではありませんか。全く萎縮などしていません。

これは、私に対する褒め言葉として承っておこう。当てが外れたのだ。自分の物差しで人をはかって、見損なったということだ。DHCが同時期に起こした10件のスラップ訴訟で、私以外は萎縮させた。10件の被告以外の多くの人に、DHC・吉田を批判すると面倒になる、と思わせたではないか。それが、スラップの狙いであり効果なのだ。

そもそもスラップ訴訟の意味すら分かっていません。拡大解釈も甚だしい。SLAPP とはStrategic Lawsuit Against Public Participationの略で「社会参加を邪魔するための戦略的訴訟」ということですが、今回の訴訟のどこが被告の社会参加を邪魔しているのか、どこが戦略的なのか笑ってしまいます。

こちらこそ嗤ってしまう。誰からこんなことを吹き込まれたのだろうか。DHC・吉田は、10件の高額請求訴訟(最低2000万円、最高2億円)の提訴をもって、民主々義社会の土台をなす自由な言論という Public Participationを害したのだ。被害に遭遇したのは、被告になった者にとどまらない。被告以外にも威嚇効果が及んでいる。民主々義に実害が及んでいることを知らねばならない。

名誉棄損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます。泣き寝入りをしている人がほとんどです。メディアはスラップ訴訟を云々するより、むしろ、善良な人たちの泣き寝入りをいいことに嘘、悪口の言いたい放題が許されている現状こそ問題にすべきです。

「名誉棄損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます。」には、いうべき言葉を見つけがたい。開いた口が塞がらないとでも言うべきだろうか。

また、「泣き寝入りをしている人がほとんどです」以下には、意図的なすりかえがある。匿名に身を隠したネトウヨの暴力的な名誉毀損記事に人権を侵害されている善良な人びとは数多い。不用意なメディアの誤報に怒りながらも泣き寝入りを強いられている人も少なくない。しかし、DHC・吉田が、このような人びととことさらに自分を同じ立場に見せようというのは、卑怯きわまる。まったく立場が違うのだ。

人の名誉を傷つける言論の許容度を考えるに際しては、誰を対象とする言論であるかで、二分することを要する。この社会の一握りの強者と、それ以外の市井の市民とである。強者とは、権力や権威をもつ者あるいは企業や財界など経済的な強者をさす。この強者に対しては、批判の言論が最大限に許容されなければならない。一方、市井の市民にはその人格権としての名誉やプライバシーの保護が尊重されなければならない。

吉田嘉明は、経済的強者であり、健康に関わる消費材生産の大企業主であり、何よりも自分の眼鏡にかなった政治家に巨額のカネを提供して政治に関わろうとした人物である。批判を甘受すべき立場にあることを自覚しなければならないのだ。

インターネットの醜さはどうでしょうか。人間生活を完全に壊しています。
文頭に「ネトウヨの」と付ければ、まったく同感。

朝日新聞は何十年にもわたって嘘を書き続け、世界に向かって日本及び日本人を貶めたことをお忘れでしょうか。共同通信も最近では朝日に劣らず反日メディアなのではと危惧され始めています。どこの国の人かわからないような似非日本人が跳梁跋扈している世の中、そして嘘、悪口の言いたい放題が許されている世の中には私は断固反対します。嘘つきは信用できません。

突然に朝日と共同通信攻撃。文脈混乱で論理も混乱だが、吉田嘉明の思想的立場だけは、しっかりとよく分かる。

以上のとおり、吉田嘉明の「弁明」はまったく無力なもので、スラップ訴訟の表現の自由に対する侵害は到底看過し得ないのだ。
(2016年10月7日)

最高裁上告不受理決定! 「DHC敗訴・澤藤勝訴」が確定?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第80弾

私自身が被告とされたDHCスラップ訴訟。吉田嘉明とDHCは、私のブログ記事を名誉毀損として、勝ち目のないスラップ訴訟を提起した。一審(東京地裁)、二審(東京高裁)と敗訴を重ねて常識的にはこれで終わりのはずが、いやがらせの上告受理申立におよんだ。ラクダが針の穴を通るほどに困難だということを知りながらのこと。

10月4日(一昨日)付で、最高裁第三小法廷は、DHCと吉田嘉明両名による上告受理申立に対する不受理を決定し、その旨を通知した。所詮ラクダが針の穴を通ることはできなかったということだ。

決定書は、以下のとおりの無味乾燥な定型文書。これが全文である。不受理の理由は、「三くだり半」にもおよばない、わずかに42字。

吉田嘉明は「名誉毀損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます」と述べている。「普通の人」には到底できない、「驚くほどの金銭」として、41万2000円の印紙を貼り、「山田昭ほか」の弁護士に弁護士費用を支払って、最高裁に勝ち目のない上告受理の申立をしたのだ。その「驚くほどの金銭」をかけた結果として、彼が手にしたものがこの一枚の不受理決定である。

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事件の表示 平成28年(受)第834号
決定日平成28年10月4日
裁判所最高裁判所第三小法廷
裁判長裁判官 山崎敏充
裁判官 岡部喜代子
裁判官 大谷剛彦
裁判官 大橋正春
裁判官 木内道祥

当事者目録
申立人 吉田嘉明
申立人 株式会社ディーエイチシー
同代表者代表取締役 吉田嘉明
上記両名訴訟代理人弁護士 山田昭ほか
相手方 澤藤統一郎
同訴訟代理人弁護士 光前幸一ほか

原判決の表示 東京高等裁判所平成27年(ネ)第5147号(平成28年1月28日判決)

裁判官全員一致の意見で,次のとおり決定。
第1 主文
1 本件を上告審として受理しない。
2 申立費用は申立人らの負担とする。
第2 理由
本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。
平成28年10月4日
最高裁判所第三小法廷
裁判所書記官 千石靖之?
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☆この不受理決定で、吉田嘉明とDHCの敗訴が確定し、私(澤藤)の勝訴が確定した。光前幸一弁護士を筆頭とする136名の弁護団の皆さま、一審以来法廷に駆けつけていただきご支援をいただいた多くの皆さまに感謝いたします。

とりわけ、法廷後の集会で、貴重な講演や報告をいただいた、右崎正博、田島泰彦、内藤光博の各教授。北健一、三宅勝久、烏賀陽弘道の各ジャーナリストの皆さま。そして、労働組合ネットワークユニオン東京DHC分会の皆さま。さらに、山口広、茨木茂、今瞭美、新里宏二さんら、スラップ訴訟体験先輩弁護士の皆さまの具体的なご支援とご協力に厚く御礼申しあげます。

☆10月4日は、私にとっての「勝訴記念日」となりましたが、「勝利」したのは私ばかりではありません。この社会に不可欠な表現の自由にとっての勝利の日でもあります。

私の言論は、その内容において政治とカネをテーマとする典型的な政治的言論であり、強者の横暴を批判する言論であり、消費者の利益を擁護する言論であり、社会的規制を無用とする乱暴な行政規制緩和論を批判する言論であり、かつ民事訴訟を強者の横暴のために濫用してはならないとする言論にほかなりません。憲法21条は、まさしく私の言論を擁護しなければなりません。

私の5本のブログの中に、原告(DHC・吉田)は16個所の「名誉毀損」個所があると指摘しました。一審判決はこう言っています。「原告指摘の16個所の内の15個所の記事は、確かに原告の社会的評価を低下せしめ名誉を毀損している」「しかし、その記事のすべては、真実とされる事実を前提とし、その前提とする事実との論理的関連性があると認められる意見ないし論評である」「しかも、その意見ないし論評は、公共の利害に関する事実にかかるもので、もっぱら公益を目的としたものである」「したがって、原告の名誉を毀損するが違法性を阻却する」と。

表現の自由とは、誰をも傷つけない言論の保障ではありません。無害な言論なら保障の意味はない。私のブログの表現は、確かにDHC・吉田を攻撃して打撃を与えてはいますが、その言論も憲法21条が保障するところだということなのです。公権力を持つもの、公権力に関わろうとする者、社会的な影響力を持つ強者が市民の側からの批判の言論を甘受すべきは当然のことなのです。

とりわけ吉田嘉明は、厚生行政・消費者行政の規制に服する大企業経営者としての立場にありながら、国の規制への不服を述べつつ、規制緩和推進派の政治家に8億円もの裏金を提供していたのです。そのことに対する批判が封じ込められてよいはずはありません。

☆以下に経過の概要を振り返ってみたい。
なお、詳細は下記URLを開いてご覧いただきたい。「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズ、第1弾?第80弾+関連のいくつかをお読みいただける。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12

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☆DHCスラップ訴訟の概要
株式会社DHCと吉田嘉明(DHC会長)の両名が、当ブログでの私の吉田嘉明批判の記事を気に入らぬとして、私(澤藤)を被告とする2000万円の損害賠償請求の裁判を起こした。不当な提訴に怒った私が、この提訴を許されざる「スラップ訴訟」として、提訴自体が違法・不当とブログでの弾劾を開始した。要するに、「黙れ」と言われた私が「黙るものか」と反撃したのだ。
そうしたら、2000万円の請求額が、3倍の6000万円に増額された。「『黙るものか』とは怪しからん」というわけだ。なんという無茶苦茶な輩。なんという無茶苦茶な提訴。
強者の恫喝に萎縮して黙ることは、言論の自由を放棄し、消費者の利益を損なうこと。まして私は弁護士である。市民の権利を擁護する任務を持つ私が、DHC・吉田の恫喝に屈することはできない。
☆DHCスラップ訴訟の経過
2014年3月31日 違法とされたブログ(1)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
同年4月16日 原告ら東京地裁に提訴
(DHCは同時期に10件の同種提訴、請求額最低2000万、最高額2億)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
以下2016年9月14日の第79弾まで(予定は100弾)
8月29日 原告 請求の拡張(200万→6000万円に増額)
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月1日 第8回(実質第7回)弁論 結審
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2015年12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年 1月28日 控訴審判決言い渡し 控訴棄却(澤藤)全面勝訴
2016年 2月10日 上告受理申立
2016年 4月 5日 上告受理申立書提出
2016年 4月28日 上告受理申立事件第三小法廷に係属
2016年10月 4日 上告受理申立に不受理決定 確定
この間、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズを書き続けて、
本日が第80弾。もちろん、この先も続けます。ご期待ください。
☆DHCスラップ訴訟が持つ意味
1 私の言論の自由に対する、DHC・吉田の不当な攻撃である。(憲法21条論)
2 攻撃された私の言論が「政治とカネ」という政治的言論である。
3 攻撃された私の言論が、消費者目線の規制緩和批判である。(消費者問題の側面)
4 言論萎縮を狙っての、訴権濫用による典型的な「スラップ訴訟」である。
以上
(2016年10月6日)

プライドあればできることではないー「産経記者の行政への資料提供」と「DHCの情報収集行為」。

1週間ほど前のこと、次の記事が目を惹いた。
「産経記者、大津市に録音記録提供 市を提訴の住民側取材」(朝日)、「大津・行政訴訟 産経記者が原告会見録音を被告の市に提供 産経新聞社 取材受けて、原告側に謝罪」(毎日)、「産経新聞記者 原告側資料を無断提供 被告の大津市に」(NHK)、「提訴会見の録音データを渡す 被告の大津市に、本紙記者」(産経)

産経記者が何をしたか、おおよそは察しがつくが、朝日の記事を引用しておこう。
「産経新聞社は(9月)8日、大津支局の記者が、大津市を提訴した住民団体の記者会見の録音記録や、会見で配布された訴状などの訴訟資料を市職員に渡していたことを明らかにした。
 地元の住民団体が5日、大津市に競走馬育成施設を建設する民間企業の計画の市の認可取り消しを求めて提訴した。産経新聞社によると、大津支局の記者は、住民団体の会見で録音したICレコーダーや、会見で配布された資料を渡した。別の記者が市の担当者から『取材でコメントを求められており、提訴の詳細を知りたい』と依頼されたという。一方、市の担当者は朝日新聞の取材に『記者にコメントを求められ、内容を尋ねたら、渡しましょうかと言われた』と話している。
 産経新聞社広報部は『取材過程において、記者の取材データの取り扱いに軽率な行動があったことは遺憾です。厳正に対処するとともに、改めて記者教育を徹底します』とするコメントを出した。」

毎日が、次の識者のコメントを載せている。
「大石泰彦・青山学院大教授(メディア倫理)は『取材で得た音声データなどの資料を報道目的以外で使用しないのは記者なら誰でも知っているルールのはず。また、メディアは公的機関とは一線を画するべきだが、今回の件は権力との癒着すら疑わせる行為だ。基本的な倫理教育を受けていない記者がいることは驚きで、残念でならない』と話した。」

さて、コメンテーター氏は、本当に「驚いた」のだろうか。「驚いた」と言って見せただけではないだろうか。産経が「権力との癒着」を疑われて当然の基本姿勢であることに、いまさら驚くこともない。あるいは、個々の記者のモラルは社の方針とは別として、その「権力との癒着すら疑わせる行為」に心底驚いたというのだろうか。しかし、これとて、市に恩を売っておけばなにかと便宜をはかってもらえるという、情報提供者に対する擦り寄りは、大いにあり得ることではないか。そのことが、結局は権力に手厳しい記事は書けなくなることにつながる。社の権力に対する基本姿勢に確固たるものなくして、個別記者のジャーナリズム精神も育たないことになるだろう。

とはいえ、記者会見から産経を排除することは非現実的であるだけでなく、排除すべきとする立場もいかがかと思われる。記者会見をすれば、その内容や資料が権力や相手方に筒抜けになることは常に覚悟してなければならない。記者会見ばかりではない。身内の集会でも同じことだ。運動を意識する訴訟においては、法廷が終了したあとには、報告集会が行われる。支援者だけではなく、記者も参加する。見たこともない人物もはいってくる。一々、身元のチックなどできるはずはないし、すべきでもない。

だから、集会にはスパイがはいりこむ。何をもってスパイと蔑称するかは微妙だが、たとえば、DHCスラップ訴訟での原告側の集会に意識的に送り込まれ紛れ込んでの情報収集活動があれば、卑劣なスパイ行為と言って差し支えなかろう。

DHCスラップ訴訟の一審終盤から、被告DHC側の準備書面に、原告側の報告集会の模様が出てくるようになった。たとえば、DHCの一審「原告準備書面3」4頁には次のような記載がある。

「心ある者から原告が開示された被告(私・澤藤のことである)が作成したと思われる2014年9月16日付『DHCスラップ訴訟』ご報告」と題する全13頁からなるチラシには、《応訴の運動を「劇場」と「教室」に》まずは、楽しい劇場に。誰もがその観客であり、また誰もがアクターとなる 刺激的な劇場」などとも書かれ、さらには、原告会社についても「一言で言えば『元祖ブラック企業』!」などとも書かれ、原告らの悪口が相当に書かれており、これを公然配布しているようである」

これは、明らかにDHCの手の者が、9月17日の公判の後に開かれた「DHCスラップ訴訟を許さない報告集会」に参加して「全13頁からなるチラシ」を入手したことを物語っている。DHCの書面に表れた「心ある者」とは、実は心ないスパイ行為をした者なのだ。

また、DHCの控訴理由書には次のような記載がある。
「被控訴人(私・澤藤のことである)は,第一審継続中,控訴人会社(DHCのこと)について『元祖ブラック企業』と記載したチラシを配布していた。『ブラック企業』とは,一般的に,『労働条件や就業環境が劣悪で,従業員に過重な負担を強いる企業』などのことを指すが,これが本件とは全く無関係であることは明らかである。披控訴人はブログ記事の中で『政治とカネ』という大義名分を並べてはいるものの,結局,経済的強者=悪という個人的な信念ないしは偏見のもと,大企業である控訴人会社(DHC)及びその代表取締役会長である控訴人吉田(嘉明)を悪人に仕立て上げたいというのが,ブログ記事掲載の隠れた動機であろう。また,上記のとおり,披控訴人は,控訴人会社の商品の有用性や安全性についても言及しているが,これも8億円の貸付とは全く別次元の話である。準備書面(6)で自認しているとおり,被控訴人は健康食品やサプリメントの安全性に強い猜疑心を抱いているものであるから,本件に便乗して控訴人会社の商品の安全性に対する一般消費者の不安を煽り,その信用を貶めることも隠れた動機として有していたと考えられる。
 このように,ブログ記事の内容などの外形に現れていない実質的な関係を含めて検討した場合,その執筆態度に真摯性がなく,公益性の否定につながる隠れた目的も存したのであるから,本件記述について,専ら公益を図る目的に出たものと判断した原判決の判断は誤りである。」

こんなレベルの書面しか書けないのだからDHCの敗訴は当然であることは別として、これは誰かがスパイとして、毎回の法廷終了後に開催された報告集会に送り込まれ、これをDHCに報告して、さらに伝言ゲームのように受任弁護士にまで収集した情報が伝えられ、これを情報源とした訴訟上の主張が行われたものと考えざるをえない。

私が名誉毀損とされたブログ記事を書いたころには、DHCについても吉田嘉明についても、具体的なイメージを持っていなかった。そんな会社は知らなかったのだ。ただ、企業一般、規制緩和一般、政治とカネの問題一般に照らして、吉田嘉明の「巨額のカネで政治を壟断するごとき行為を許してはならない」と考えたのだ。DHCがどんな会社か、吉田嘉明がどんな人物かは、おいおいと分かってきた。法廷後の集会は貴重な情報を得る場となった。『元祖ブラック企業』という情報もその一つにしか過ぎない。

記者会見資料を市に提供して結果的に市側のスパイになってしまった産経記者。そして、集会にもぐり込まされて、『元祖ブラック企業』情報の収集をさせられたDHCのスパイ。いずれも、プライドを持った人物にはできないことだ。

もし、DHCがこの役割を社員にさせていたとすれば、自ずから「元祖」はともかく、「ブラック企業」と称されるに、資格は十分であろう。
(2016年9月15日)

「法学セミナー」に、特集「スラップ訴訟」?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第79弾

本日(9月12日)発売の「法学セミナー」(日本評論社)10月号が、「スラップ訴訟」を特集している。弁護士・学者・ジャーナリストが執筆した、計9本の論文から成っている。

私が、総論として「スラップ訴訟とは何か」を書き、以下各論が充実している。事例紹介、言論への萎縮効果、アメリカでの反スラップ法の紹介、名誉毀損訴訟の理論的検討、スラップ提起を不法行為とする判例枠組みの再検討、そしてスラップ抑止・救済のあり方、立法論の検討まで、充実した特集となっている。

執筆者の一人、紀藤正樹さんは、「ついにいろいろな方々の協力を得て、ここまでこぎつけました。今月号の法学セミナーの『スラップ訴訟』特集。是非お読みください。現時点の日本での最高峰の議論はできていると思います。」と宣伝に努めている。

言論の自由を大切に思う方、民事訴訟制度のあり方に関心をお持ちの方に、是非ご購読いただきたい。定価は税込1512円(本体価格 1400円)、お申し込みは下記URLから。
  https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html

特集の冒頭に、編集部の次のリードがある。
「日本においてようやく認知され始めたスラップの定義、実態、弊害を整理して紹介し、アメリカの反スラップ法を参考に日本における抑止・救済策を整理し、今後の議論を展望する。」

内容は以下のとおり。
? スラップ訴訟とは何か……澤藤統一郎

? 事例紹介
  1 武富士事件スラップ訴訟……新里宏二
  2 伊那太陽光発電スラップ訴訟……木嶋日出夫

? 恫喝訴訟と言論萎縮効果……三宅勝久
  ──高額損害賠償請求の「恫喝訴訟」による企業批判のタブー化

? スラップ訴訟、名誉毀損損害賠償請求訴訟の現状・問題点とそのあるべき対策(立法論)……瀬木比呂志

? アメリカにおける反スラップ法の構造……藤田尚則

? 昭和63年判例(最三小判昭63・1・26)の再検討……小園恵介
  ──抑止・救済のための法的課題の検討1

? 日本の名誉毀損法理とスラップ訴訟……佃 克彦
   ──抑止・救済のための法的課題の検討2

? スラップ訴訟の外縁から見る抑止・救済の法的課題の検討……紀藤正樹
   ──抑止・救済のための法的課題の検討3

上記の各タイトルの内、「? 昭和63年判例の再検討」だけが、やや呑み込みにくい。これは、スラップ提起への対抗策として、提訴自体を不法行為とする損害賠償請求反訴(または別訴)の認容要件についての再検討である。この「昭和63年判例」は、「訴えの提起が不法行為にあたる場合」のリーディングケースとなっているが、事案は言論の自由に関わるものではなく、不動産取引に関する提訴である。この判例の判断枠組みを、言論の自由を意識的に攻撃するスラップ訴訟に、そのまま当てはめることの不当と、再検討の必要を論じたのがこの論文。

法律雑誌にこのような特集が組まれることは、スラップの横行が社会悪として看過し得ない事態に至っていることを示している。スラップ被害回復とスラップ阻止、そしてスラップ廃絶への大きな一歩というべきだろう。スラップ常連企業には、こころしていただきたい。

各論文は雑誌をお読みいただくとして、ご購読の意欲喚起のために、私の論文の「結びに」の一部を抜粋してご紹介しておきたい。
「かつては、社会にも訴訟関係者にも不当訴訟の提起を許さない雰囲気があった。真っ当な弁護士なら、民事訴訟をこのような不当な手段には使わないという黙契があった。いま、企業も政治家もスラップ提起に躊躇なく、またスラップ訴訟提起を受任して恥と思わない弁護士が増えてきている。」
「スラップ訴訟は敗訴を重ねているが、その威嚇効果の有効性を否定し得ない。立法措置を展望しつつ、法廷では個別の案件でスラップに成功体験をさせない努力の積み重ねが必要だが、それだけではない。スラップという用語と概念を世に知らしめ、スラップ提起を薄汚いこととする常識を定着させなければならない。スラップ提起者のイメージに傷がつき、ブランドイメージや商品イメージが低下して、到底こんなことはできないという社会の空気を醸成することが重要だと思う。法制度の設計も運用も、社会の常識と離れてはあり得ないのだから。
(2016年9月12日)

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