澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

未来につながる希望の光『文京の教育』購読のお薦め

「文京の教育」というミニコミ紙が毎月届く。発行人は元家庭裁判所調査官の浅川道雄さん、発行所は文京教育懇談会となっている。タブロイド版で4頁。いかにも地域に密着した手作り感のある紙面構成。教員中心ではなく地域住民が編集主体。保育・幼稚園から地域の子育て、小中高のあり方まで、テーマは広い。まったく元号を使わないところも私のお気に入りである。

その「文京の教育」の2015年新春号が届いた。なんと、巻を重ねて499号である。次号が500号の記念紙となるという。1970年創刊で、営々と45年間続けて到達することになる500号。この積み重ねはたいしたものだ。

実は、日民協の機関誌「法と民主主義」も今月(15年1月)に495号を発行する。もうすぐ500号なのだ。いま、その記念号のプランを練っているところ。継続が難事であること、それだけに称賛に値するものであることが身に沁みてよくわかる。

発行人の浅川さんが、創刊号の想い出を語っている。1970年暮れに、ガリ版刷り2頁での発行だったという。そのとき以来、題字は東京教育大学教授であった和歌森太郎氏の筆になるものを使っているそうだ。

家永教科書訴訟の一審杉本判決が1970年7月だから、教科書運動の盛り上がりがこのミニコミ誌を産み、以来営々45年も地域の教育運動が受け継がれているのだ。この間、無償の編集や発送の作業担当者が途絶えなかったということだ。たいしたことではないか。

私も執筆を依頼されて何度か寄稿した。自分の寄稿記事を読むと、固くてくどくて七面倒で少しも面白くない。それに較べて、「文京の教育」の他の記事は、軽やかで読みやすい。

なかでも、優れた教育実践の記事が面白い。いま、「元小学校教諭 山崎隆夫」さんが、「心はずむ学びの世界」を連載中、今回が第23回。国語の時間も、理科の時間も、算数の時間も、文字どおり「心はずむ」教師と生徒との交流が描かれている。子どもたちの瞳の輝き、胸の躍りが目に見えるような授業の面白さ。「小学校の先生ってなんて素敵なお仕事だろう」「私もこんな授業を受けてみたかった」と思わせる。

戦争体験記あり、被爆体験記もある。福島の被災地の子どもたちについてのレポートもあり、教育の市場化の問題点や地教行法「改正」問題もある。封切り映画の紹介もなかなかのもの。そして、吉田典裕さん(出版労連教科書対策部長)のような、その世界での著名人の寄稿もある。「今、教科書を考える」シリーズの第7回。今号は「実は大問題の教科書価格」というタイトルの記事。この内容を抜粋してお伝えしたい。

「教科書問題」と聞くと、ほとんどの方は「検定」や「採択」を連想するでしょう。しかし「価格」も「教科書問題」の大きな位置を占めるのです。価格問題はきわめて政治的な性格をもっています。
教科書は民間の発行者がつくり、文部科学省がそれを買い取り、その価格は文部科学省が決めます。文部科学省は、教科書は公共料金的なものなので、できるだけ安い方がよいのだとして、教科書価格を低く抑えてきました。
実は、そのねらいは教科書の種類を減らして国による統制をしやすくすることです。1963年6月衆議院文教委員会で暴露された、「文部省(当時)が自民党文教部会に渡した資料」の内容は、「国定教科書にすると莫大な費用が掛かる、それよりも制度の規制を強化して縛り上げれば、1教科あたり5種程度に絞れるので、安上がりに統制できる」というものでした。
「無償措置法」が導入された1963年以降、教科書の種類は激減してきました。たとえば1965年と2015年用の小学校教科書発行者教(=教科書の種類)を比べると、
 国語 8→5
 書写 7→6
 算数 9→6
 社会 6→4
 理科 9→6
 音楽 8→2
 図工 9→2
 家庭 8→2
 と、軒並み減っています。自民党政府と文部科学省のねらいは、残念ながら実現したといわねばなりません。

私はまったく運営に関係していない。宣伝を頼まれたこともない。が、応援したくなる紙面なのだ。このようなミニコミ紙、このような教育運動が民主々義を支え、未来の希望につながるのではないかと思う。年10回刊の月刊紙、年間購読料は郵送料込みで2500円。「ご連絡は下記へFAXでお願いします」とある。心ある人に、ぜひ、ご購読をお薦めしたい。
 03?3690?7440(内田)
(2015年1月23日)

「日の丸・君が代」訴訟はまだまだ続く

本日(1月16日)は、東京「君が代」裁判・3次訴訟(東京地裁民事11部)の判決期日。原告50名が、56件の懲戒処分(戒告25件、減給29件、停職2件)の取り消しと、慰謝料の支払いを求めた訴訟。

いつものことながら、判決言い渡しの前は緊張する。広い103号法廷が水を打ったように静かになって、裁判長の主文朗読に耳を傾ける。

「原告らの請求をいずれも棄却する」なら全面敗訴だが、そうではない。朗読は、「東京都教育委員会が別紙『懲戒処分等一覧表』の…」と始まった。少なくとも全面敗訴ではない。処分が取消される原告の氏名が次々と読み上げられる。指折り人数を数えるが、26人の名前で止まった。そして「…の各原告に対してした各懲戒処分をいずれも取り消す」という。結局、50人の原告のうちの26人について31件の減給・停職処分が判決で取消された。

しかし、ここまで。その余の戒告処分者の取り消しはなかった。減給・停職の処分を取り消された原告についても、国家賠償としての慰謝料請求は棄却された。これまでの最高裁判例の枠内での判決。ということは、憲法論については進展がないということだ。

法廷の緊張は解けた。裁判官3名はそそくさと退廷する。満員の傍聴席から、ため息やらつぶやきやらが聞こえてくる。「最高裁判決へのヒラメか」「裁判官はどこを見てるんだ」「裁判所がしっかりしないから、都教委がつけあがる」…。

とは言え、獲得したものもけっして小さくはない。前進の期待があっただけに落胆が前面に出た本日の判決だが、都教委は処分を違法として取り消されたことの重大性を知るべきである。しかも、26人についての31件の処分取り消しである。
行政が、司法から「違法に人権を侵害した」と糾弾を受けているのだ。まずは真摯に謝罪しなければならない。そして、責任をあきらかにせよ、さらにしっかりと再発防止策を策定せよ。その第一歩が、控訴の放棄でなくてはならない。

やがて判決正本と謄本が届いて、弁護団が分担して解読を始める。「素晴らしい判決だ…」「ここが使える…」などという声は出て来ない。弁護団見解まとめ役の植竹和弘弁護士は、「最高裁判決の枠組みから一歩の前進もない判決」「控訴理由書が書きやすい判決」との総括的評価。

で、原告団・弁護団連名の声明は、次のようなものとなった。やや悲観的、否定的なトーンが見て取れるだろう。

「都教委は、2003年10月23日通達及びこれに基づく職務命令により、卒業式等における国旗掲揚・国歌起立斉唱を教職員に義務付け、命令に従えない教職員に対し、1回目は戒告、2、3回目は原則減給、4回目以降は原則停職と、回を重ねるごとに累積加重する懲戒処分を繰り返し、さらに「思想・良心・信仰」が不起立・不斉唱の動機であることを表明している者に対しても反省を迫り実質的に思想転向を迫る「服務事故再発防止研修」を強要するなどの「国旗・国歌の起立斉唱の強制」システムを実施してきた。

2012年1月16日、最高裁判所第一小法廷は、これらの処分のうち、「戒告」にとどまる限りは懲戒権の逸脱・濫用とはいえないものの、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とし、原則として社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとした。本判決は、この最高裁判決の内容を維持したものである。本判決が、原告ら教職員の受けた減給以上の懲戒処分を違法としたことは最高裁に引き続き、「国旗・国歌強制システム」を断罪したものであって、都教委の暴走に歯止めをかける判断として評価される。

しかしながら、2006年度の規則改訂により、2007年度以降に戒告処分を受けた本訴原告らは、2006年以前に減給処分を受けた場合以上の金銭的な損害を受けているのであり、その実質的な検討をしないまま、形式的に2012年最高裁判決に従った判断を下したことは真に遺憾である。

更に、本判決は、10・23通達・職務命令・懲戒処分が、憲法19条、20条、13条、23条、26条に各違反し、教育基本法16条(不当な支配の禁止)にも該当して違憲違法であるという原告ら教職員の主張については、従前の判決を踏襲してこれを認めなかった。また、原告らの予備的主張(国家シンボルの強制自体の違憲性)には何ら言及しないまま合憲と結論づけている。さらに、原告らの精神的苦痛には一切触れることなく、都教委に国賠法上の過失はないとして、国家賠償請求も棄却した。これらの点は事案の本質を見誤るものであり、きわめて遺憾というほかはない。」

少し、噛み砕いて説明しておきたい。
10・23通達とこれにもとづく職務命令・懲戒処分によって、教職員に、国旗・国歌への起立・斉唱およびピアノ伴奏を強制することについては、これまで、「予防訴訟」、「君が代」裁判、同2次訴訟という大型集団訴訟において争われ、最高裁は一応の判断を示している。「懲戒処分の違憲性は否定しつつも、戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とした。原則として「減給」及び「停職」処分は重きに失して社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用するものとし、原則違法として取り消してきた。

本件の審理もこの点に集中し、「戒告を超える処分についてこれを正当化する特別の事情があるか」が攻撃防御の焦点となった。結果的には、すべてそのような特別の事情はないとされて、31件の減給・停職事案全部が取り消された、その成果は強調されてしかるべきである。

3次訴訟で最も注目されたのは、戒告処分を受けた原告の懲戒権逸脱濫用の違法がないかということである。実は、規則の変更によって、1次・2次訴訟の減給処分者よりも、3次訴訟の戒告処分者の方が経済的不利益が大きいという逆転が生じていたのだ。

最高裁は、1次・2次訴訟の減給処分者の経済的不利益に着目して「重きに失する」とし、それゆえ「減給は処分権の逸脱または濫用に当る」と判断したのだ。ならば、それ以上の経済的不利益を科されている3次訴訟の戒告処分者についても処分権の逸脱または濫用と判断されるべきが当然ではないか。

これについて、本日の判決は次のように言っている。
「確かに,本件規則改訂の結果,本件規則改訂後においては,戒告処分により,昇給及び勤勉手当について,本件規則改訂前に減給処分を受けた場合よりも大きな不利益を受けていることが認められる。

しかしながら,これらの昇給及び勤勉手当の不利益は,戒告処分自体による不利益ではなく昇給及び勤勉手当について定めた規則上の取扱いによるものであり,当該事情が,戒告処分の選択に係る都教委の裁量権の逸脱・濫用を基礎付けるものとはいえないことは,本件規則改訂前と同様であり,これに反する原告らの前記主張は採用することができない。」

なんという冷たい形式論であろうか。権利濫用論とは、可能な限りのあらゆることを考慮要素とした実質的な総合判断でなければならない。規範的に除外すべき考慮要素がありうるとしても、被処分者に不利益となる経済的事情を除外してよいはずはない。これでは教委のお手盛りで、いかようにも戒告処分の不利益を過酷化できることになるではないか。

また、期待されていたのが、国家賠償請求の認容である。処分取消の違法よりは国家賠償の違法のハードルは高いとされている。それでも、停職処分取消とともに慰謝料の支払いが命じられた前例がある。2件の停職処分取り消しとともに、55万円の慰謝料請求の認容があってしかるべきだった。

これを否定して、判決は次のように言っている。
「原告らは,違法な本件各処分を受けたことにより精神的苦痛を披ったとして,これに対する国家賠償法1条1項に基づく慰謝料の支払を求めている。しかしながら,本件各処分のうち,戒告処分については,前述のとおりこれを違法であると認めることはできない。また,減給処分以上の本件各処分については,…それらについての処分量定に係る評価・判断に問題のあることを確実に認識したのは本件各処分のされた後であると考えられること等からすれば,減給処分以上の本件各処分を行った時点において,都教委がこれらの本件各処分を選択したことについて,職務上尽くすべき注意義務を怠ったものと評価することは相当ではなく,この点について都教委に国家賠償法上の過失があったとは認められない。」

この判断も納得しがたい。国賠法1条1項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」と定めている。
賠償の責任が生じるためには、「違法性」と「故意又は過失」が必要とされているところ、判決は「過失がない」(もちろん故意もない)と言って切って捨てたわけだ。

過失とは、注意義務違反ということである。都教委には管轄下にある教員に対して、各教員がそれぞれの思想や良心・信仰を貫徹することができるように環境を整え、各教員に「自分の思想や良心あるいは信念や信仰を貫徹すること」と「職務命令違反としての処分の不利益を免れること」との二律背反に陥って葛藤することのないよう十分な配慮をすべき注意義務があるのに、これを怠った。と言えばよいだけのことなのだ。「最高裁判決を知ったあとでなければ過失がない」などと言うことはあり得ない。「最高裁判決で違法を知ったあとでの減給以上の処分」があれば、過失ではなく故意が成立するというべきであろう。

憲法論のレベルではまったく見るべきもののない判決となった。この点、最高裁の呪縛下の下級審裁判官は、管理者に縛られて自由や裁量を剥奪されている教員の悲哀に思いをいたして判決を書くことができなかったのだろうか。

「日の丸・君が代」訴訟は、まだまだ続く。4次訴訟も係属中であるし、5次訴訟も予定されている。都教委の違憲違法な教育支配の続く限り、闘いも訴訟も続いていくことになる。
(2015年1月16日)

朝鮮学校への補助金支給復活の「公論」を起こそう

昨日(9月2日)の定例記者会見で舛添要一都知事は、現在支給されていない朝鮮学校への補助金の支給について、「万機公論に決すべし」との考えを披瀝した。この言を「一歩前進」と評価すべきであろう。ときあたかも、国連差別撤廃委員会からの勧告がこの問題に言及している。差別を撤廃して朝鮮学校にも補助金を支給し授業料無償化を実現すべく「公論」を興そう。知事は、聞く耳を持っているようなのだから。

この点は、2014年都知事選における重要な争点ではなかったが、政策対決点の一つではあった。都は、2010・11年度と続けて予算に計上した2千万円の朝鮮学校補助金支給を「凍結」し、2012年度以降は予算の計上自体を取りやめている。この事態においての選挙戦で、舛添候補は、田母神候補と同様に、石原・猪瀬都政が布いたレールに乗って補助金不支給の「現状維持」を「公約」とした。昨日の記者会見発言は、この公約に固執するものではないことを明らかにしたのだ。石原都政の継承に与するものではないことの表明としても注目に値する。石原元知事は、田母神陣営応援団の立場。舛添知事は、石原・猪瀬承継に縛られる必要はない。

朝鮮学校補助金支給の「万機公論」発言は、予定されたものではないようだ。都のホームページでの広報によれば、共同通信記者の質問に答えてのもの。その質問と回答の要点は以下のとおり。

「【記者】先日、国連の人種差別撤廃委員会で対日審査会合の最終見解が公表されたのですけれど、その中で地方自治体による朝鮮学校への補助金の凍結などについて何か懸念が示されていたようなのですけれど、東京都では2010年度から補助金の支出、朝鮮学校に対して凍結してまして、昨年、支給しないことを決めて発表されてるのですが、知事はこの政策、どのようにしていくべきだと思いますか。」

「【知事】こういうのはやはり万機公論に決すべしでですね。要するに国益に沿わないことはやはり良くないということは片一方でありますけれども、しかし、どこの国の言葉でも、どこの国の子供でも教育を受ける権利はあるわけですから、そういうものを侵害してはいけない。そのバランスをどうとるのかなということが問題だと思います。
だから、私が今問題にしているヘイトスピーチにしても、これが言論弾圧に使われるということであってはいけませんけれども、人種差別を助長するということであれば、国連の理念にも、我が日本国憲法の理念にもそぐわないので、そこのところをバランスをとってやる。そのためにはやはり皆さん方のメディアを含めて、広く議論をしていくということが必要だと思いますので。…検討したいと思います。」

確認をしておこう。知事の言のとおり、「どこの国の言葉でも、どこの国の子供でも、教育を受ける権利はある」「そういうものを侵害してはいけない」。このあと、「権利は当然に平等を要求する」と続くことになろう。補助金支給に差別があってはならない。石原慎太郎元知事からは、とうてい期待しえない発言。石原後継の猪瀬前知事からも、無理だろう。舛添知事がサラリと言ってのけたことを無視せず無駄にせずに、政策転換の一歩とする世論形成の努力をするべきだろう。

ところで、舛添知事会見の記録を読んでも、知事自身が国連人種差別撤廃委員会の対日最終見解に目を通していたのか否かが判然としない。8月29日採択のこの見解に既に目を通していたとすればその関心は見識と評価しえようし、この見解を読まずして政策転換を示唆したとすればこれもなかなかのものではないか。

国連人種差別撤廃委員会の対日最終見解は35項目。ヘイトスピーチ、慰安婦問題、外国人労働者問題、在日外国人の公務就労制限、外国人女性に対する暴力、アイヌ民族差別、沖縄への差別、朝鮮学校の無償化問題、部落差別問題等々にも触れている。グローバルスタンダードからみれば、日本には差別問題満載なのだ。

共同記者が質問で引用した朝鮮学校差別問題の「第19パラグラフ」を文意が通る程度に訳してみた。もちろん私の語学力だから正確ではない。大意以下のとおりである。
「〔19〕当委員会は朝鮮出身の子どもたちの教育の権利を妨げる立法と政府の以下の行為について懸念している。
(a)高等学校授業料補助からの朝鮮学校の除外
(b)朝鮮学校への地方自治体財政からの支給停止や継続的な減額

当委員会は、「市民権を持たない居住者に対する差別についての一般的勧告」(2004年)を再記して、教育の機会についての法規に差別があってはならないこと、その国に永住する子どもたちが学校の入学に当たって妨害を受けてはならないこと、これらを当事国が保障するという先の勧告を繰り返す。

当委員会は、日本に対し、朝鮮学校が高等学校授業料財源からの支出を受給できるように立場を変えること、同時に地方自治体に対して朝鮮学校への補助金支出を回復するように指導することを勧奨する。

当委員会は日本が1960年の「教育における差別撤廃のユネスコ条約」に加入するよう勧告する。」

国連の委員会勧告は、差別問題に意識の低い日本政府を諭すがごとく、なだめるがごとくである。安倍政権には聞く耳なくとも、せめて舛添都政には国連の良識に耳を傾けてもらいたい。そのような声を上げよう。もしかしたら、「東京から日本が変わる」かも知れない。
(2014年9月3日)

今日は、日本の歴史に慚愧の遺産が刻印された日

9月1日「震災記念日」である。姜徳相の「関東大震災」(1975年中公新書)と、吉村昭の「関東大震災」(1973年菊池寛賞受賞・77年文春文庫版発行)とを読み返した。

前者は、「未曾有の天災に生き残った人をよってたかってなぶり殺しにした異民族迫害の悲劇を抜いて、関東大震災の真実は語れない」「朝鮮人の血しぶきは、日本の歴史に慚愧の負の遺産を刻印した」との立場に徹したドキュメント。後者も、125頁から229頁までの紙幅を費やして、震災後の朝鮮人虐殺、社会主義者虐殺(亀戸事件)、大杉栄・伊藤野枝(および6才の甥)惨殺の経過を詳細に描写している。

姜の書の中に、「自警団員の殺し方」という一章がある。「残忍極まる」としか形容しがたい「なぶり殺し」の目撃談の数々が紹介され、「死体に対する名状し難い陵辱も、また忘れてはならない。特に女性に対するぼうとくは筆紙に尽くしがたい。『いかに逆上したとはいえこんなことまでしなくてもよかろうに』『日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない』との感想を残した目撃者がいることだけ紹介しておこう」と結ばれている。

中国では柳条湖事件の9月18日を、韓国では日韓併合の8月29日を、「国恥の日」というようだ。今日9月1日は、日本の国恥の日というべきだろう。現在の日本国民が、3世代前の日本人が朝鮮人に対してした残虐行為を、恥ずべきことと再確認すべき日。

災害を象徴する両国の陸軍被服廠跡地が東京都立横網町公園となっており、ここに東京都慰霊堂が建立されている。その堂内に「自警団」という大きな油絵が掲げられている。いかなる意図でのことだろうか。無慮6000人の朝鮮人を虐殺したこのおぞましい組織は、各地で在郷軍人を中心につくられた。

「在郷軍人というのは何か。軍人教育を受け、甲午農民戦争や日露戦争やシベリア出兵、こういうもので戦争経験をしている。朝鮮人を殺している。こういう排外意識を持った兵士たち」(姜徳相講演録より)なのだ。

なるほど、甲午農民戦争(1894年)や日露戦争(2004年)を経て、日韓併合(2010年)、シベリア出兵(1918年)、そして3・1万歳事件とその弾圧(1919年)を経ての関東大震災(1923年)朝鮮人虐殺なのだ。当時、既に民族的差別意識と、民族的抵抗への憎悪と、そして後ろめたさからの報復を恐れる気持ちとが、広く国民に醸成されていた時代であった。歴史修正主義派は、この点についての責任糊塗にも躍起だが、「新たな戦前」をつくらないためにも、多くの日本人に、加害者としての歴史を確認してもらわねばならない。

過日、高校教師だった鈴木敏夫さんから、「関東大震災をめぐる教育現場の歴史修正主義」という論文(大原社会問題研究会雑誌・2014年6月号)の抜き刷りをいただいた。その中に、高校日本史の教科書(全15冊)がこの問題をどう扱っているかについての分析がある。
「朝鮮人・中国人虐殺に触れているか。人数の表記はどうなっているか」「虐殺(殺害)の主体はどう書かれているか」「労働運動、社会主義運動の指導者の殺害に触れているか」について、「さまざまな努力により、濃淡の差はあるが、…総じて最近の学界の研究成果を反映した内容になっている」との評価がされている。

末尾の資料の中から、いくつかの典型例を紹介したい。

東京書籍『日本史A 現代からの歴史」が最も標準的で充実してる記載といえよう。
○小見出し「流言と朝鮮人虐殺」
「社会的混乱と不安のなかで、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こすという事実無根の流言が広まった。警察・軍隊・行政が流言を適切に処理しなかったこと、さらに新聞が流言報道を書きたてたことが民衆の不安を増大させ、流言を広げることになった。
 関東各地では、流言を信じた民衆が自警団を組織した。自警団は、在郷軍人会や青年団などの地域団体を中心にして、警察の働きかけにより組織された。彼らは刀剣や竹槍で武装し通行人を検問して朝鮮人を取り締まろうとした。こうしたなかで、首都圈に働きにきていた数多くの朝鮮人や中国人が軍隊や自警団によって虐殺された。「朝鮮人暴動説」は震災の渦中で打ち消されたが、虐殺事件があいついだのは、民衆の中に根強い朝鮮人・中国人蔑視の意識があったからであった。
 また、震災の混乱のなかで、労働運動家や社会主義者らにも暴行が加えられ、無政府主義者大杉栄らが殺害される事件が起きた。」
(注に、死者数として「朝鮮人数千人、中国人700人以上と推定される」

清水書院『高等学校日本史A 最新版』が最も詳細。
○[こらむ関東大震災]
「1923年9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9という大地震が襲った。ちょうど昼食の準備の時間で火を使っていた家庭も多く、各地で火災が発生した。家屋の大半が木造で、水道も破壊され消火活動がほとんど不可能であったことも被害を拡大させた。東京・横浜両市の6割以上が焼きつくされ、関東地方全体で10万の死者と7万の負傷者を出し、こわれたり焼けたりした家屋は70万戸に及んだ。通信も交通もとだえ、余震が続くなかで、翌日から朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ、放火をしてまわっている、暴動をおこすらしいなどのうわさが流れはじめた。
 東京市および府下5郡にまず戒厳令が出され、続けて東京府、神奈川・千葉・埼玉3県にその範囲が拡大された。『戒厳』とは、戦争に準ずる内乱や暴動の場合に、軍事上の必要にこたえて行政権と司法権を軍司令官に移しこれに平時の法をこえた強大な権限をあたえることであるが、この戒厳令下で、軍隊と警察は『保護』と称しで大量の朝鮮人をとらえ、留置場に収容したり、殺したりした。また民衆もうわさを信じ、在郷軍人会や青年団、消防団などを中心に自警団をつくり、刀剣・竹やり・木刀などで武装して、通行人を検問し、朝鮮人を襲った。この朝鮮人に対する殺傷は東京・神奈川・埼玉・千葉などを中心に7日ごろまで続き、約6、000人が殺された(『韓国独立運動史』による。内務省調査では、加害者が判明した分として。朝鮮人231人、中国人3人としている)。そのほか中国人も多数被害にあっており、江東区大島だけでも約400人が虐殺された。
 また労働運動家10名が警察にとらえられ、軍隊に殺された亀戸事件、甘粕事件がおこるなど、首都を壊滅状態にした災害の混乱のなか、警察や軍隊そして民衆の手による、罪も無い人びとの虐殺がおこなわれた」
(注に、「亀戸事件」「甘粕事件」の説明がある)

実教出版『高校日本史B』は、簡略ながら必要事項がよく書き込まれている。
○小見出し「関東大震災」
「1923(大正12)年9月1日、関東大震災がおこった。震災直後の火災が京浜地方を壊滅状態に陥れ、混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こした』などという民族的偏見に満ちたうわさがひろめられ、軍隊・警察や住民が組織した自警団が、6、000人以上の朝鮮人と約700人の中国人を虐殺した。また、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝が憲兵大尉甘粕正彦に殺害され(甘粕事件)、労働運動の指導者10人が軍隊と警察によって殺害された(亀戸事件)。」
さらに、次の段落で、「天譴論」にふれている。また「政府は個人主義の風潮、社会主義の台頭を警戒して、国民精神作興詔書を出すなど思想取り締まりを強化した。震災は国家主義的風潮が強まるきっかけともなった。」と書いている。

山川出版社『詳説日本史』は背景事情への目配りがよい。
○小見出し「関東大震災の混乱」(コラム)
「関東大震災後におきた、朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に例を見ないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署構内で警備に当たっていた軍隊により社会主義者10名が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍部ともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。」

一方、採択率は微々たるものだが、「『つくる会』系教科書の先輩格」(鈴木)である明成社『最新日本史』の記載は次のとおり。「これでも検定を通るのかと驚く」(同)のレベル。
○小見出し「戦後恐慌と関東大震災」(縦書き)
「大正十二年(1923)九月一日、大地震が関東一円を襲い、京浜地帯は経済的には大打撃が受けた(関東大震災)。」
・注1「大震災による被害は、全壊一二万戸。全焼四十五万戸、死者・行方不明者十万数千人に及んだ。混乱の中、無政府主義者大杉栄と伊藤野枝が憲兵大尉甘粕正彦に殺害された。また、朝鮮人に不穏な動きがあるとする流言に影響された自警団による朝鮮人殺傷事件が頻発した。その一方、朝鮮人を保護した民間人や警察官もいた。また、政府は戒厳令を布き事態の収拾に当たった。」

心ある高校生には、教科書から一歩踏み出して、せめて吉村昭「関東大震災」に目を通してもらいたいと願う。決して心地よいことではないが、勇気をもって歴史と向かいあうことの必要性が理解できるのではないだろうか。
(2014年9月1日)

教育勅語は臣民の義務の根拠たりえたのか

先日、ある集会にお招きいただき、改憲問題についてお話しをしたときのこと。
現行憲法の、「国民の三大義務」が話題になって、大要次のような発言をした。

「三大義務」とは、納税と教育と労働とに関するもの。しかし、近代立憲主義が貫徹している日本国憲法では、正確な意味での「国家に対する国民の憲法上の義務」はありえない。納税の義務を定めている憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」は、「適正な法律の定めによらなければ課税されない国民の権利」を定めたものと読むべきだろう。憲法27条1項の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」も、義務よりは雇用機会創出を求める国民の権利規定であろう。

教育に至っては、かつては国家のイデオロギー刷り込みを受容すべき臣民の義務であったが、現行憲法26条は国民の教育を受ける権利を明確化して、権利義務の関係を逆転させた。「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」は体系的には違和感のある規定。

現行憲法が第3章を「国民の権利及び義務」としたのは、旧憲法第2章「臣民権利義務」に引きずられたからに過ぎない。いまも「三大義務」などというのは、旧憲法時代の「臣民の三大義務」(納税、兵役、教育)の言い回しを踏襲したからなのだろう。旧憲法時代には、憲法上の「三大義務」でよいだろうが、現行憲法体系においては本来的な憲法上の義務を考える必要はない。教える必要も覚える必要もない。」

これに関連して、会場から質問が出た。

「旧憲法には、納税、兵役の両義務については根拠規定があったが、教育の義務についての定めはなかった。にもかかわらず、『臣民の三大義務』と並べられた根拠はどこにあるとお考えですか。」

私が、常識な回答をする。「憲法と同格の教育勅語による義務と考えてよいのではないでしょうか。」「ほかには根拠を知りません。」「1872(明治5)年の学制発布はどうでしょうか。」

さらに、質問者が発言した。「教育勅語自体が、法源として臣民の義務の根拠になるということが理解しにくいのです。また、学制発布は太政官布告として教育制度を定めるものですが、就学の義務を設定するものではないはずです。」

言葉を交わしてみれば、明らかに質問者の方がよくものを知っている。むしろ、こちらが教えてもらいたい。その場では、「お互い調べて見ましょう。わかったことがあれば、当ブログに出しましょう」で終わった。その後この件については、私にはこれ以上の知見の獲得はない。

本日、その質問者から丁寧なメールをいただいた。次のような内容。
「その後出張やら遠出があったためにご報告が大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。Oと申します。
先日、ご質問させていただいた件についてです。

奥平さんの著書にはこうあります。
大日本帝国憲法下のもと、「『臣民の三大義務』なるものが語られていた。このうち兵役・納税の二つは、憲法典にあげられていたが、もうひとつの『教育の義務』は、憲法典はおろか、どんな法律にも、その根拠規定を有していなかった。それは単なる勅令(明治憲法九条にもとづき天皇が発する命令)によって設定されていたものである。」(奥平康弘『憲法?』一九九三年、有斐閣、437頁)

旧憲法下の1886年小学校令第三条では、「児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」と定められています。

また、1900年(第三次)小学校令に「学齢児童保護者ハ就学ノ始期ヨリ其ノ終期ニ至ル迄学齢児童ヲ就学セシムルノ義務ヲ負フ」とあります。

義務教育制度がどの段階で成立したというかは、正直のところ難しく、1886年とみる説、1900年とみる説がありますが、花井信『製紙女工の教育史』は後者をとっています。

教育勅語(1890年、もちろん「勅語」であり、明治天皇の個人的見解を述べたものにすぎません)において、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ?器ヲ成就シ…」とあるのが、子どもには勉強をする義務がある(道徳的義務?)ととれなくもありませんが、それでいくと子どもの勉強する義務は「夫婦相和す」のと同等の義務であり、「臣民の三大義務」の一つというには根拠薄弱です。

いずれにせよ、どうして「兵役、納税、教育」が臣民の三大義務と語られるようになったのか。私にはよくわかりません。

お返事がおそくなりましたことを重ねてお詫びします。」

Oさん。丁寧なご教示、ありがとうございます。教育勅語を臣民の教育を受ける義務の根拠とすることへの疑問のご指摘、なるほどと思います。

あらためて、私見を申し上げれば、「臣民の三大義務」は、その内容や根拠が厳密である必要は全くなかったものだと思います。権力の思惑として、臣民の道徳観念支配の小道具として通用すればよいだけの話。これを争う国民が想定されているわけではなく、裁判上の義務概念としての厳密性や、論理的な説得力も不要だったのだろうと思います。その意味では、どんな根拠でもよかったのではないでしょうか。もちろん教育勅語でも、です。

もっとも、誰が、いつ頃から、どのような意図で、どのように「臣民の三大義務」を語り始めたのか、とりわけ、「教育を受ける義務」を言い始めたのか。旧天皇制政府の民衆支配の歴史の問題としては、興味の尽きないところです。

また、何かわかれば、教えてください。
(2014年08月17日)

「すえこざさ」の衝撃

「すえこざさ」をご存じの方がいたら、よほどの植物マニア。学名だから、本来は「スエコザサ」と書くべきなのだろう。植物学者が新種に妻の名を冠する例がある。シーボルトの「オタクサ」が有名だが、牧野富太郎もこの特権を行使した。仙台で発見した新種の「笹」に、妻・寿衛子の名を冠して、「寿衛子笹(すえこざさ)」としたのだ。

『「すえこざさ」の衝撃』とは、「法と民主主義」5月号巻末「風」欄の、穂積匡史エッセイのタイトル。牧野富太郎の行為を衝撃というのではない。「つくる会」系教科書の「すえこざさ」の命名をめぐる物語の引用のしかたが「衝撃」なのだ。達意の文章であり、読みやすくおもしろい。なによりも、若手弁護士のセンスのよさが光っている。部分の引用では惜しいので、全文を引用させていただく。

   *****************************
いわゆる「つくる会」系教科書で有名な育鵬社が、「十三歳からの道徳教科書」(道徳教育をすすめる有識者の会・編)を発行している。帯には「これがパイロット版道徳教科書だ!」「新しい道徳のスタンダード」などの文字が躍る。内容は、道徳教材として三七の逸話が収録されており、そのなかの一つが、「異性についての正しい理解を深め」るための教材「すえこざさ」である。あらすじは次のとおり。

 後に著名な植物学者となる牧野富太郎は、幼いころから草花が大好きで、二六歳で寿衛(すえ)と結婚した後も、植物研究に没頭していた。寿衛が出産をした三日後、富太郎の借金をとり立てに、高利貸が家まで来ることになった。富太郎は産後の寿衛をいたわり、「今日は、私が話して帰ってもらうから、お前はやすんでいなさい」と寿衛に言う。しかし、実際に高利貸が家にやって来ると、寿衛は起き上がり、大きな声を出そうとする借金取りをなだめすかして帰らせる。そして、寿衛が富太郎の部屋をそっと窺うと、富太郎は借金取りのことなど忘れて、一心に本を読んでいた。寿衛は、「よかった」と思う。寿衛は、「どうしたら夫に安心して研究をつづけてもらえるか」と、そればかりを考えつづけていたのだ。ところが富太郎六六歳のとき、寿衛が病に伏す。「もうむずかしい」と医者に告げられると、富太郎は寿衛の枕元で「こんど発見した新しい笹の種類に、お前の名をつけることにしよう」と言う。こうして「すえこざさ」が生まれた。

 さて、教科書は、このストーリーで「異性についての正しい理解を深める」というが、「正しい理解」とは何か。
 一心に本を読む富太郎を見て、寿衛が「よかった」と思うシーンがある。この「よかった」を墨塗りにして、生徒に考えさせたとしよう。「夫は言うこととすることが違う。ひどい。」と生徒が感じたら、それは道徳的に「正しくない」ことなのだろうか。
 寿衛のように「どうしたら夫に安心して研究をつづけてもらえるか」と思うのとは違って、「どうしたら家事や育児を分担してもらえるだろうか」と生徒が考えたとしたら、それは「異性についての誤った理解」なのだろうか。
 あるいはまた、寿衛が女性研究者で、富太郎が「主夫」だったとしても、この教材は掲載されたであろうか。

 自民党改憲草案は、「家族は、互いに助け合わなければならない」「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないもの」と規定し、安倍「教育再生」は教科書検定強化と道徳教科化を推し進める。そうやって教化される家族の模範が「すえこざさ」であると、「有識者」が臆面もなく吐露してしまうあたりに、安倍「教育再生」の浅薄さと病理の深さを見る。そういえば、この原稿が掲載されたころには既に、別の「有識者」たちが憲法を変えずに憲法を変えろという無茶苦茶な報告をしているのだろうか。

 ところで、現実の日本社会で女性が置かれた立場は寿衛よりさらに過酷かもしれない。家事・育児・介護を引き受けながら、さらに非正規労働者として低賃金で働かされる上、出生率目標まで課されるのだから。支離滅裂な安倍「女性活用」政策である。

   *****************************

いかがだろうか。なるほど、「法と民主主義」とはおもしろそうだ、と思っていただけたろうか。同誌5月号(通算488号)は、5月26日に世に出た。まだ、もぎたての新鮮さである。できるだけ、みずみずしい内に講読いただけたらありがたい。

その内容紹介は、下記のURLを。
http://www.jdla.jp/houmin/
定価は1000円、ご注文は下記のフォームへ。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

もし私に声をかけていただけたら、著者紹介扱いで800円でお頒かちできる。

「特集?」が、『安倍政権の「教育再生」政策を総点検する─「戦後レジームからの脱却」に抗して』という直球勝負の内容。巻頭の堀尾輝久「安倍政権の教育政策─その全体像と私たちの課題」から、川村肇「戦後教育改革の内容とその後の変遷」、村上祐介「安倍政権の教育改革プランの全体像」、俵義文「教科書問題の最近の動向と竹富町への『是正要求』」村山裕「安倍政権の教育政策・競争と選別の思想」、小畑雅子『安倍「教育再生」は、子どもと教育に何をもたらすか』、齋藤安史「大学における教育・研究体制への影響」中村雅子「国立市教育委員の経験から」と並べば、教育問題に関心のある方には講読意欲を持っていただけるものと思う。

安倍政権の教育政策と切り結ぶためには、その全体像を正確に把握することが不可欠である。本特集はそのための第一歩にふさわしいものと確信し、活用を期待したい。

「特集?」が、教育に関連して、「少年の心に寄り添う審判とは─第4次少年法『改正』批判」という座談会。出席者は、佐々木光明/佐藤香代/井上博道/佐藤むつみ(司会)の諸氏。

その他の執筆陣の名を挙げておこう。原発被害と核廃絶についての時評を埼玉の重鎮宮沢洋夫弁護士、裁判員問題について五十嵐双葉弁護士、メディアウオッチにについて丸山重威元関東学院大学教授、袴田再審決定について秋山賢三弁護士、書評に浦田賢治早稲田大学名誉教授等々。

ぜひ、ご購読を。
(2014年6月4日)

「竹富町教科書採択問題」から見えてきたもの

「竹富町教科書採択問題」が、一応の決着をみた。
小さな竹富町が、文科省・自民党文教族と対等以上に渡り合って一歩も引かず、結局は育鵬社教科書の押しつけ拒否を貫徹した。沖縄県も竹富町も、下村博文文科相の嫌がらせと恫喝に屈することなく毅然たる姿勢を堅持し、文科相は振り上げた拳の下ろし場所を失ったまま終局を宣告せざるをえない事態となった。公権力による子どもたちへの、国家主義教科書押しつけ策動の失敗。痛快の極みである。

5月21日、沖縄県教委は教科書無償化法改正に伴う採択地区の再編手続において、八重山採択地区(石垣市・与那国町・竹富町)から竹富町を分離独立させ、「竹富採択地区」を新設することを決めた。竹富町の要望を容れた「満額回答」である。これで、竹富町教委は、後顧の憂いなく単独で教科書を採択できるようになった。正確に言えば、これまでも採択の権利はあったのだが、無償配布は拒否という文科省の嫌がらせを甘受せざるをえなかった。来年度からは、竹富町立中学校生徒に東京書籍版公民教科書の無償配布が実現する。

この県教委の決定に対して、文科相は「無償措置法の趣旨を十分踏まえたものとは言い難く、遺憾だ」と不満を述べていた。その不満を形に表す最後に残された恫喝手段が竹富町に対する違法確認訴訟の提起であったが、5月23日文科相は記者会見でその断念を公表した。文科省は、これまで育鵬社教科書の採択を拒否した竹富町には教科書無償配布を行わず、さらには育鵬社版の教科書を使えと異例の「是正要求」までして圧力をかけて、精いっぱいの恫喝と嫌がらせをしては見た。しかし、腹の据わった相手にブラフが通じず、拳を下ろさざるをえなくなったという図なのだ。教科書採択の権利が教育委員会にあるというのが、一貫した文科省の見解であった。竹富町側に違法があるという主張が明らかに無理筋なのだ。

むしろ、採択地区内の各教育委員会の意見がまとまらないからとして、竹富だけに教科書の無償配布を拒否した文科省の違法をこそ問題としなければならない。協議がまとまらなかったことにおいて同じなのに、育鵬社版を採択した石垣と与那国には無償配布を実行しているではないか。東京書籍版を採択した竹富だけに無償配布を拒絶したことは筋が通らない。文科省・文科相の歴史修正主義教科書採択加担の姿勢が余りに露骨ではないか。

そもそも、八重山採択地区の事前調査において、東京書籍版が最高の評価を得ていた。育鵬社版は最低評価。担当教科教員でこれを推薦する見解は皆無だった。真摯に教育の在り方を考える立ち場からは、竹富町教委の姿勢こそが常識的で真っ当なもの、国や歴史修正主義勢力に擦り寄った石垣・与那国の方がおかしいのだ。

5月22日の琉球新報社説「竹富分離決定 妥当な解決を国は阻むな」の言辞の厳しさに驚く。この件について、沖縄の良識がどれほど怒っているかが伝わってくる。下記の抜粋に目を通されたい。

「下村博文文科相は竹富の単独採択を阻みたい考えを露骨に示してきた。自民党内でも分離を疑問視する声がある。だが…自治体が工夫して導いた解決を国が不当に介入して阻害するのは断じて許されない」「問題は、八重山採択地区協議会会長が規定を無視して独断で採択手順を変更したことに始まった。極めて保守色の強い育鵬社版教科書を恣意的に選ぼうとしたのは明らかだ」
「下村氏らは(竹富町の教科書採択を)教科書無償措置法に違反すると強弁するが、無償の措置を受けていないのに、無償措置法違反とは矛盾も甚だしい。地方教育行政法は市町村教委の教科書選定を定める。この法に照らせば竹富は明らかに合法だ」
「政府は竹富の措置について『違法とは言えない』とする答弁を2011年に閣議決定し、先日も内閣法制局が答弁は有効と述べた。だが下村氏ら自民党文教族は違法だと非難し続ける。権柄ずくの、理性に欠ける態度と言うほかない」
「教科書無償措置法改正に伴う政令が近く出る。保守的な教科書が採択されるよう、採択地区の構成を国が恣意的に定める政令を出すのではないか。そんな危惧を聞く。政治家の利益を図るための、教育への政治介入は許されない」

沖縄タイムス社説「『竹富分離決定』地域の主体性生かそう」(5月23日)には、以下の解説がある。

「八重山教科書問題は、そもそもなぜ起きたのか。
2012年度の中学校公民教科書の選定をめぐり石垣、竹富、与那国の教育長らで構成する『八重山採択地区協議会』の玉津博克会長(石垣市教育長)が、これまでの選定ルールを突然変えたのが発端だ。選定ルールの変更は、保守色の強い育鵬社版の教科書の使用を決めるのが目的だった。これに反発した竹富町が結果的に、文科省から是正要求を出された。
 国の不当介入が、八重山教科書問題をいびつに発展させてきたのは論をまたない。だが、足元の『ゆがみ』にも目を向ける必要があるのではないか。教科書採択をめぐっては、与那国町の教育長も石垣市に同調している。なぜこうしたことが八重山で起きたのか。
 玉津教育長は20日、県教委が竹富町を単独採択地区化する方針を示していることを受けて上京。文科省の上野通子政務官との面会後、自民党文科部会にも出席し、県教委の姿勢を批判した。玉津教育長はこの際、記者団に『八重山は教育も行政も経済も一体だ。教科書だけ別というのは理解できない』と述べている。
 竹富町の分離を余儀なくしたのは玉津氏ではないか。その張本人が、『八重山の一体化』を強調するのは皮肉に響く。とはいえ、玉津氏の指摘に一理あるのも事実だ。
 八重山の3市町は、…政治的な立場の違いを超え、観光などの分野で協調してきた。今回の竹富町の分離で、八重山社会全体に亀裂が波及する事態は避けなければならない」

問題は、竹富町に関しては決着した。しかし、石垣・与那国では、現場教員に悪評高い育鵬社の教科書が引き続き使われている。教科書採択問題に権力がかくも露骨に介入し、国家主義的・歴史修正主義的な教科書の押し付けにかくも執心していることが見えてきている。何が起きているのかをしっかりと社会に訴えて、自民党文教族や文科省に対抗しうる世論形成に力を尽くさなければならないと思う。

そして、竹富町の奮闘の成果は、おおきな励ましである。いまなら、まだ間に合う。偏頗な教科書の使用を拒絶する闘いは十分に可能なのだ。
(2014年5月25日)

教育委員会の「事実上の解体」を許してはならない

本日は、地方教育行政法改悪に反対する声明についての文科省記者クラブでの会見。やや長いタイトルだが、「首長や国の権限を強め、教育への政治的支配を強化する地方教育行政法『改正』への反対声明」。タイトルから声明の内容を察してもらえるだろう。

同期の児玉勇二弁護士の奮闘で、昨日までに162名の「賛同呼びかけ人」が集まった。著名な教育学者や教育法学者、子どもの権利やいじめ問題に携わってきた弁護士や、活動家が名を連ねている。今、衆院で審議の地教行法改正案を、百害あって一利なしとして、廃案を求めるもの。

声明は第1?4のパラグラフからなる。

第1パラグラフでは、安倍政権のいう「戦後レジーム」とは、日本国憲法と準憲法としての教育基本法が形づくる基本理念にほかならず、「戦後レジームから脱却しての教育再生」とは、日本国憲法と教育基本法を頂点とする戦後教育法体系への全面攻撃であることを指摘している。

第2パラグラフは、今国会に上程されている地教行法「改正」案が、事実上教育委員会制度の解体を目論むものとして容認し得ないとするもの。教育委員会制度は、戦後教育法体系の中にあって、政治や権力の直接介入から教育の自主性を擁護するための中心をなす制度のひとつである。安倍政権の教育委員会解体は、教育に対する権力支配・政治支配を貫徹することを目的とするもの。

第3パラグラフが、いじめ問題を論じて長文になっている。教育委員会不要論は、大津市のいじめ自殺事件を発端にしている。いじめに関する調査事実の隠蔽を画策する教育委員会と、事実の開示を求める市長という対立構造が描き出され、教育委員会を不要とする世論の素地をつくった。これを意識して、いじめを撲滅するためにも、教育委員会解体をしてはならないとする主張である。
声明は、大津市の第三者調査委員会の報告書の次の部分を引用している。
 「それでは(『教育委員会』の)存在意義がないのかという問いには否と答えなければならない。本来委員には生徒の権利を保障するために当該地域の教育について積極的に意見を述べ役割を果たすという職責があるはずであるが、これまでの長い経過の中でそうした職責を十分に果たすことができない状況に置かれるようになった。」「今重要なことは、教育長以下の事務局の独走をチェックすることであり、その一翼を担う存在としての教育委員の存在は決して小さいものではない。」「ここで重要な問題は、こうした本来の教育委員会の活動を復活するためにどのような委員各自の行動や施策が必要かということである。」
この考え方は、本声明の基調に通じるもの。
 
また声明は、次のとおり指摘している。
「過去の多くのいじめ事件において、いじめが無いものと隠蔽され、その陰で多くの子どもたちが犠牲となってきた事実を真摯に見つめなければならない。隠蔽の多くは、教育委員会事務局と首長とが一体となってのものであって、教育委員が主導してのものではない。首長に権限を集中し、教育長の権限を強化すれば、歯止めが失われて隠ぺいの可能性はむしろ増大する。この隠ぺい体質を無くすことこそが真の改革の課題と言わなければならないが、そのためには、見識と能力を有する教育委員の選任制度を確立し、教育委員会の独立性を高めて、教育長への指揮監督を強める権限の強化こそがあるべき方向でなければなない。法案は改革の方向を完全に誤っていると言わざるを得ない。」
この部分が、本声明の白眉である。

そして、第4パラグラフでは、現行の制度下において、公権力や地方政治の支配・介入に抗して教育委員会本来の役割を果たしている典型例を挙げている。今、行うべきはこのような教育委員会本来の趣旨や理念を再生させる工夫であって、教育委員会解体ではないことを述べて、政府提出案の廃案を求めている。

全体として、いじめ事件の調査資料の公開に教育委員会が消極的だとして、いじめ事件の防止が教育委員会制度「改正」の口実にされていることへの怒りが基調となっている。まず、隠蔽は必ずしも「委員」の責任ではなく、教育委員会事務局の責任であることの指摘が重要である。そして、事態の改善のためには、教育委員会の権限を強化することと、教育委員の人選宜しきを得ることが必要である。いじめ事件への対応を口実に、教育委員会を解体して政治や権力の教育への介入を許してはならない。それは、安倍政権にとっての「教育の再生」ではあっても、実は戦前教育復活の悪夢なのだから。
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具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細である。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
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支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
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☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年5月13日)

道徳教育の教科化に反対する

小中学校における道徳教育の教科化がはかられようとしている。「文部科学省は、近く中央教育審議会に諮問し、2018年度にも実施の見通し」などと報道され、「道徳科」検定教科書の導入も既定の方針のごとく語られている。安倍政権の教育政策の柱のひとつとして危険極まりなく、看過しえない。

「道徳」には、上から目線の胡散臭さがつきまとう。そのような役割を果たしてきたからだ。人類が社会を形成して以来、支配被支配の関係が途絶えることはなかった。支配者は暴力で支配を確立し、宗教的権威で支配を確実化しようと試みた。時代が下ってからは、経済力による支配の比重が大きくなっている。そして、安定した支配の手段として、被支配層にその時代の支配の秩序を積極的に承認するよう「道徳」が求められてきた。

社会的支配の手段としての道徳とは、被支配者層の精神に植えつけられた、その時代の支配の仕組みを承認し受容する積極姿勢のことだ。内面化された支配の秩序への積極的服従の姿勢といってもよい。支配への抵抗や、権力への猜疑、個の権利主張など、秩序の攪乱要因が道徳となることはない。道徳とは、ひたすらに、奴隷として安住せよ、臣下として忠誠を尽くせ、臣民として陛下の思し召しに感謝せよ、お国のために立派に死ね、文句をいわずに会社のために働け、という支配の秩序維持の容認を内容とするのだ。

本家の中国に「王土王臣」思想というものがあった。詩経に「溥天の下王土に非ざるは莫く、率土の濱王臣に非ざるは莫し」とあるそうだ。要するに、「広大無辺のこの地のすべてが帝王のものであり、その地の人々のすべてが帝王の臣なのだ」という、王と王の支配に加担する者たちが勝手に作りあげたご都合主義の「思想」。この強者の押しつけが、被支配者に積極的に受容されれば、「道徳」となる。儒家とは、そのような道徳の主たる宣伝者であった。「君君足らずとも、臣臣たれ」と、自虐的にバカ殿にも忠義を尽くせとまで説いたのだ。

中国を真似て、古代日本にも「ミニ王土王臣思想」が取り入れられた。割拠勢力の勝者となった天皇家を神聖化し正当化する神話がつくられ、その支配の受容が皇民の道徳となった。支配者である大君への服従だけでなく、歯の浮くような賛美が要求され、内面化された。

武士の政権の時代には、「忠」が道徳の中心に据えられた。幕政、藩政、藩士家政のいずれのレベルでも、お家大事と無限定の忠義に励むべきことが内面化された武士の道徳であった。武士階級以外の階層でもこれを真似た忠義が道徳化された。強者に好都合なイデオロギーが、社会に普遍性を獲得したのだ。

明治期には、大規模にかつ組織的・系統的に「忠君愛国」が、臣民の精神に注入された。学校の教室においてのことである。荒唐無稽な「神国思想」「現人神思想」が、大真面目に説かれ、大がかりな演出が企てられた。天皇制の支配の仕組みを受容し服従するだけではなく、積極的にその仕組みの強化に加担するよう精神形成が要求された。個人の自立の覚醒は否定され、ひたすらに滅私奉公が求められた。

恐るべきは、その教育の効果である。数次にわたって改定された修身や国史の国定教科書、そして教育勅語、さらには「国体の本義」や「臣民の道」によって、臣民の精神構造に組み込まれた天皇崇拝、滅私奉公の臣民道徳は、多くの国民に内面化された。学制発布以来およそ70年をかけて、天皇制は臣民を徹底的に教化し臣民道徳を蔓延させて崩壊した。この経過は、馬鹿げた教説も大規模に多くの人々を欺し得ることの不幸な実験的証明の過程であったといえよう。

戦後も、「個人よりも国家や社会全体を優先して」「象徴天皇を中心とした安定した社会を」などという道徳が捨て去られたわけではない。しかし、圧倒的に重要になったのは、現行の資本主義経済秩序を受容し内面化する道徳である。搾取の仕組みの受容と、その仕組みへの積極的貢献という道徳といってもよい。

為政者から、宗教的権威から、そして経済的強者や社会の多数派からの道徳の押しつけを拒否しよう。そもそも、国家はいかなるイデオロギーももってはならないのだ。小中学校での教科化などとんでもない。

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☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年5月9日)

竹富町の八重山採択地区からの独立の意向を尊重せよ・再論

4月12日の当ブログで、「竹富町の八重山採択地区協からの独立の意向を尊重せよ」と書いた。「尊重せよ」の宛名は、安倍政権であり、文科省であり、下村博文文科相であり、石垣・与那国の教育長らのつもりだった。

竹富町教委を支持して政権の不当を論じているのは私ばかりではない。多くの良識の一致するところといってよい。これに対して、産経・読売がタッグを組んだがごとく、瓜二つの社説を書いている。13日産経「竹富町の教科書 法の無視は認められない」、本日(15日)読売「竹富町の教科書 法改正の趣旨踏まえた対応に」というもの。安倍政権が攻撃されれば、産経・読売が反撃する。さながら、集団的自衛権の行使を彷彿とさせる。

中央紙には産経・読売に対抗する社説の掲載はない。4月11日付の沖縄タイムスが政府批判の立ち場から「八重山教科書問題ー政治介入に終止符打て」という渾身の社説を書いている。また、文科省から竹富町への是正要求に関して、3月15日付の琉球新報の「文科相是正要求 道理ゆがめる『恫喝』だ」というこれも気合いのはいった社説がある。両社説とも、客観的に見て格調高く、自説の根拠を具体的に展開して説得力に富む。両社説とも感動的ですらある。産経・読売のお粗末さとはまったく比較にならない。比べて読めば、一目瞭然である。

下記がこの4社説のURLである。是非、読み比べていただきたい。もうひとつ、併せて「沖縄の教科書―両方を使ってみては」という朝日のふやけた社説もどうぞ。沖縄地方二紙の格調が理解されよう。

産経http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140413/trl14041303060002-n1.htm
読売http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140414-OYT1T50106.html
沖タイhttp://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66620
新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221379-storytopic-11.html
朝日http://www.asahi.com/articles/ASG3G4J94G3GUSPT006.html

産経と読売とでは、多少の差がないわけではない。読売の方がほんの少しだけ反対論に目くばりをしている。独善的な断定調にも多少のぼかしが入っている。産経社説のこの独善の論調は、読者の要求に応えたものなのか、社説執筆陣が読者を先導しているのか。卵と鶏の関係はわからない。拠って来たるところはわからないながらも、産経だけを読んでいる人の精神構造はいったいどうなるのだろうと、他人事ながら心配せざるを得ない。心配のあまり、逐語的に反論を書かねばならないという意欲が湧いてきた。なお、産経批判はそのまま読売批判でもある。産経とほんの少しの差でしかない。五十歩百歩の差にも至らず、せいぜいが「五十歩六十歩」の程度、歩の進む方向はまったく同じである。

産経の社説は「主張」と称されている。4月13日の「主張」は、「竹富町の教科書 法の無視は認められない」との標題。以下、産経社説の部分々々を引用しながら全文を批判する。

「国の是正要求に従わず法改正の趣旨も歪(ゆが)めるのか。教科書採択で沖縄県竹富町教育委員会が、石垣市などとの共同採択から離脱を検討している。これを認めるべきではない。是正要求に従い、勝手な教科書使用をやめることが先だ。」

この出だし。なんと大上段で、なんと大袈裟なことか。滑稽極まる。国家権力から理不尽に人権を蹂躙された側に立って憤るのなら、どんな大声を発してもよい。地方の小さな町が、国の意向に従わないとして、権力の尻馬に乗る姿勢が恥ずかしくはないか。いじめに加担する卑怯な振る舞いというしかない。
しかも臆面なく、典型的な「お上は正しい」「お上のいうことには従え」論。さすがに産経の社説というべきか。本来、ジャーナリズムとは、まず「お上のいうことに本当に理があるのだろうか」「権力への抵抗には一理あるのではないか」を吟味しなければならない。「国の是正要求」は「国の要求」であるから従わねばならないものではない。国とて間違う、いや国も大いに間違うのだ。間違っているか否かの基準は日本国憲法である。憲法大嫌いな安倍政権であれば、大切な問題について間違う公算は極めて高い。是正要求の根拠とされているものには様々な疑義が提示されている。論点は具体的に明確化されているのだ。「法改正の趣旨」についても同様だ。これらの具体的な問題点に触れることがないままの、勝手な結論押し付けをやめることが先だ。

「小規模な市町村は、近隣市町村と共同で教科書を選ぶルールが、義務教育の教科書を配布するための教科書無償措置法で定められている。生活、文化など一体性のある広域で同じ教科書を使えば効率的な配布のほか、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携などメリットが大きいからだ。」

複雑な法体系を一面化しあるいは過度に単純化して把握することが間違いの第一歩である。場合によっては、誤導の論法ともなる。産経社説には教科書無償措置法しか言及されていないが、文科省の有権解釈によれば、地教行法上教科書採択の権限は各市町村の教育委員会にある。各市町村教育委員会の独立性が大前提で、小規模な市町村の便宜のために広域採択の制度ができたと理解すべきであろう。便宜のためであるべき制度が、メリットの享受よりもデメリットの桎梏が優るとなれば、制度利用に縛られるいわれはない。
広域採択のメリットはもちろんある。しかし、同時にデメリットも大きいのだ。広域化のメリットだけを語って、各市町村教育委員会の独立性喪失というデメリットを語らないのは不都合である。産経のいうようなメリットばかりであれば、強制の問題は生じない。事実、今回の法改正以前には、採択地区での教科書採択に強制は予定されていなかった。協議を尽くすべきことことが求められていただけ。
また、本来は、教科書を使う専門家としての現場教師の意見の集約や集団討議による意見反映がもっとも重要視されるべきなのだ。現場の発言の重視は、採択単位が小さいほど現実性を帯びる。現場の教師の影響力をできるだけ排除したいという政策的要求が広域採択の制度になった。「効率的な配布、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携」などのメリットは、当然に現場が考える。押し付けが正当化されることにはならない。

「竹富町の場合、石垣市、与那国町の3市町で八重山採択地区協議会をつくり採択してきた。平成23年夏の採択で協議会は、中学公民教科書に育鵬社版を決めた。だが竹富町は従わず東京書籍版の使用を24年度から始めた。地方自治法で最も強い措置の是正要求が出されたが、今年度も違法状態の教科書使用を強行している。」

これを過度の単純化という。むしろ、単純化を装った意図的な事実の曲解というべきであろう。この単純化への反駁として、少し長いが、「不審な経過」と小見出しを付された、3月15日付琉球新報社説の一節を引用する。
『そもそも竹富町教委の行為は正当な教育行政だ。それをあたかも違法であるかのように政府は印象操作している。
 経過を振り返る。石垣・竹富・与那国3市町の教科書を話し合う八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長は2011年6月、教科書調査員を独断で選任できるよう規約を改正しようとして反対された。役員会で選任することになったが、玉津氏は役員会を開くことなく独断で委嘱した。
 その調査員も、報告書では、保守色の極めて強い育鵬社版の中学・公民の教科書について「文中に沖縄の米軍基地に関する記述がない」などと難点を指摘。複数を推薦した中に育鵬社版は入れていなかった。
 だが同年8月23日の採択地区協議会は、玉津氏の主導で育鵬社版を選ぶよう答申した。しかし竹富町教委は8月27日、選考過程における前述の不審な点を挙げ、育鵬社版でなく東京書籍版を選んだ。
 一方、石垣・与那国2市町教委は育鵬社版を選定。3市町教委は8月31日に採択地区協議会を開き、再協議したが、決裂した。
 9月8日、今度は3市町教育委員全員で協議し、多数決で東京書籍版を選んだ。だが文科省は「全員協議はどこにも規約がない」と、この選定を無効とした。
 規約の有無を言うなら、玉津氏の調査員選任も規約にない手法だった。その点は問わないのか。
 政府は同年11月、「自ら教科書を購入して生徒に無償で給与することは、無償措置法でも禁止されるものではない」との答弁書を閣議決定している。竹富町教委の行為は合法だと閣議で決めたのだ。それが自民党に政権交代した途端、違法になるというのか。』
迫力十分な叙述である。経過の説明は以上に尽きる。これへの反論は聞いたことがない。

「竹富町の共同採択離脱の方針は、9日に成立した教科書無償措置法改正に伴うものだ。採択地区の構成単位を「市郡」から「市町村」に変えたことを捉え町単独で採択できるとしている。沖縄県教委は要望を受け認める方向だ。
 この改正は市町村合併に伴い、飛び地の自治体が共同採択するケースなどができ、不都合を解消しやすいよう見直したものだ。竹富町にはあてはまらない。」

この法改正の趣旨が最大の問題なのに、産経社説は、何とも迫力に欠ける。結論は明瞭だが、根拠の薄弱なことこの上ない。読者を説得する意思も能力もないことを露呈するのみ。
文科省が、ホームページに「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」について、下記URLに、概要、要綱、案文・理由、新旧対照表を掲載している。ここには産経の言い分に与するものはひと言もない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/1344707.htm

産経の社説は、下村文科相の言い分を口移しにしただけのものだが、これについては、4月11日付沖縄タイムス社説が次のとおり反駁している。
『下村博文文科相は3月の会見で「(採択地区は)市町村教委の意見を尊重しながら、県教委が最終的に決定する」と明言。県教委が竹富町を分離しても「法の違反には当たらない」と述べた。
 政府見解は腰の定まらない印象をぬぐえない。国の恣意(しい)的な法律運用がまかり通れば不当のそしりは免れない。』

法の解釈は、文理解釈が基本である。法の文言が明晰性を欠き、文理解釈が困難なときにはじめて、立法者意思などが忖度されて目的論的解釈などに頼らざるを得なくなる。本件では、そのような事情なく、法文は極めて明晰である。ややくどいが、産経の読者にもわかるように噛み砕いて、解説しておきたい。

改正前の教科書無償措置法12条1項は、「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に」教科書用図書採択地区を設定しなければならないと定めていた。だから、採択地区は、論理的に、「市」「郡」という区域単独の場合と、「市および郡」をあわせた地域から構成される場合があり得たことになり、それ以外はなかった。つまり、市は単独で採択地区を構成することはできたが、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったのである。

改正法は、当該箇所を「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域に」と変更した。これによって、採択地区は、論理的に、「市」「町」「村」という各区域単独の場合と、「市および町」「町および村」「村および市」「市および町および市」を併せた地域から構成される場合があり得ることとなった。つまり、これまで、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったが、郡という区域単位を捨象することによって、町・村ともに、単独での採択地区となる資格を取得したのである。「飛び地の自治体が共同採択する不都合を解消しやすいよう見直す」こともあり得ようが、それにとどまるなどとは条文の読みようがない。「竹富町にはあてはまらない」などということに何の根拠もない。

「同法改正では、共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された。竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ。」

改正法が13条5項が、「共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された」ことは、指摘のとおりである。そのための法改正であった。反対解釈からは、改正前には、「共同採択地区で同一教科書を使う義務は存在しなかった」と言える。これまでの竹富町教委の行動に違法があったとは到底考えられない。今後は、県教委の承認があれば、竹富町の独立した教科書採択は可能となる。「竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ」などの言は児戯に等しい。役場の存在場所が自治体の独立性を蹂躙する理由にはならない。「共同採択が自然だ」などというふやけたことが何の根拠とも理由ともなり得ない。

「下村博文文部科学相は、採択の際に教科書の内容を吟味する調査研究が、小規模の教委では難しいことも挙げ、法の趣旨を竹富町教委に「しっかり伝える」としている。沖縄県教委も法を曲げないでもらいたい。協議会が育鵬社版を選んだのは、尖閣諸島を抱える地域性から、領土などの記述が詳しい内容を重視した結果だ。」

ここにいたって、本性露顕である。恐るべき「論理」といわねばならない。教育の本旨の何たるか、教育が行政から、なかんずく国家から独立していなければならないとする大原則に無理解も甚だしい。「小規模教委は大規模教委に付け」とするのは、教育の地方分権に対する露骨な敵対感情である。教育は国家統制から距離を置かねばならない。国より広域自治体の教育委員会、広域自治体よりは基礎自治体の教育委員会、さらには学校、そして教師一人一人の独立と、分権が理想である。産経社説の「論理」はその真逆なのだ。

「同社版の歴史や公民教科書に対しては「戦争を美化する保守系教科書」などと批判が繰り返されていた。いわれのない教科書批判にとらわれ、採択を歪めたのは竹富町や沖縄県教委の方である。法に従わぬ教育委員会に安心して教育は任せられない。国の責任で是正を果たしてもらいたい。」

まさしく、国家による教育統制が安倍政権の狙いであり、右往左往しながらも、下村文科省の狙いでもある。そして、産経・読売がその応援団となっている。

本日の読売社説の一節に、「竹富町教委だけが独自に異なる教科書を採択したのは、明らかに違法行為である。文科省が地方自治法に基づき、是正要求を発動したのは当然のことだった。是正要求に従おうとしない竹富町教委の姿勢は、教育行政を担う機関として、順法精神に欠け、許されるものではない」とある。沖縄タイムスや琉球新報社説を読めば、読売の異常さは明らかとなる。しかし、何百万もの読者に、「竹富町教委・違法」と垂れ流す読売の影響力に背筋が寒くなる。

最後に3月15日琉球新報社説の末尾を引用しておきたい。

『竹富町の教育現場では(教科書採択問題が生じて以来の)過去2年、問題は起きていない。仲村守和元県教育長によると、問題行動は皆無で学力は県内トップ級、科目によっては全国一の県をも凌駕(りょうが)する。静穏に教育が行える環境ができているのだ。子どもたちに無用な混乱をもたらしているのはむしろ文科省の方ではないか』
産経よ、読売よ。竹富町への無用な混乱の助長は余計なお世話なのだ。

琉球新報は、文科省から竹富町に対する違法確認訴訟をスラップ訴訟と警戒している。しかし、竹富町は、このスラップ訴訟の提起を恐れることはない。恫喝目的の提訴自体が不法行為を構成する可能性は高い。その場合には、応訴費用を反訴請求することも可能となる。
がんばれ竹富。叛骨の島。
(2014年4月15日)

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