澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「朝日新聞元記者の名誉毀損訴訟事件弁護団」事務局長に対する業務妨害に関する会長声明

本日(2月17日)付で、標記の東京弁護士会会長声明が発表された。「朝日新聞元記者の弁護団」とは、現在北星学園大学の講師の任にある植村隆氏が今年1月9日に提訴した、文藝春秋社や西岡力氏らを被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の原告側弁護団のこと。その弁護団の実務を担っている事務局長弁護士の法律事務所に、いやがらせの悪質な業務妨害がおこなわれた。会長声明はこれを厳しく糾弾している。URLは以下のとおり。
 http://www.toben.or.jp/message/seimei/

 従軍慰安婦に関する記事を書いた朝日新聞元記者は現在週刊誌発刊会社等を被告として名誉毀損に基づく損害賠償等を請求する裁判を追行しているが、この裁判の原告弁護団事務局長が所属する法律事務所に、本年2月7日午前5時10分から午後0時27分までの間に延べ9件合計431枚の送信者不明のファクシミリが送りつけられ、過剰送信によりメモリーの容量が限界に達してファクシミリ受信が不能となる事件が起きた。ファクシミリの内容は、朝日新聞元記者に対する中傷、同記者の家族のプライバシーに触れるもの、慰安婦問題に対する揶揄などであった。

 この朝日新聞元記者に関しては、2014年5月以降その勤務する北星学園大学に対し、学生に危害を加える旨を脅迫して元記者の解雇を迫る事件が起きており、当会ではこのような人権侵害行為を許さない旨の会長声明(2014年10月23日付け)を発出したところである。しかし、その後の本年2月にも再び北星学園大学への脅迫事件は起きている。

 言うまでもなく、表現の自由は、民主主義の根幹をなすがゆえに憲法上最も重要な基本的人権のひとつとされており、最大限に保障されなければならない。仮に報道内容に問題があったとしても、その是正は健全かつ適正な言論によるべきであり、犯罪的な手段によってはならない。

 今回の大量のファクシミリ送信は、いまもなお朝日新聞元記者に対する不当な人権侵害とマスメディアの表現の自由に対する不当な攻撃が続いていることを意味するだけではなく、元記者の権利擁護に尽力する弁護士をも標的として、司法への攻撃をしていることにおいて、きわめて悪質、卑劣であり、断じて看過できない。

 当会は、民主主義の根幹を揺るがせる表現の自由に対する攻撃を直ちに中止させるため、関係機関に一刻も早く厳正な法的措置を求めるとともに、引き続き弁護士業務妨害の根絶のために取り組む決意である。
                        2015年02月17日
東京弁護士会 会長 ?中 正彦

植村氏の提訴は、脅迫や名誉毀損・侮辱、業務妨害や解雇要求の強要など、言論の域を遙かに超えた明白な犯罪行為の被害に耐えきれなくなっておこなわれた。朝日新聞社へのバッシングは、「顕名の言論」と「悪質卑劣な匿名の犯罪」とが、役割を分担し相互に補完して勢力を形づくっている。表部隊と裏部隊とが一体となることによって、「言論」が「実力」を獲得して強力な社会的影響力を発揮している。

顕名の言論に扇動された匿名の犯罪者たち。あるいは犯罪すれすれの名誉毀損や侮辱の言論を繰り返す、匿名に隠れた卑劣漢たち。その「実力」行為抑止の最有効手段として顕名者を被告とする民事訴訟が決意されたのだ。その訴訟に対する匿名者の悪質な業務妨害行為は、顕名部隊と匿名部隊の一体性を自ら証明するものと見るべきであろう。

著しい非対称性が明白となっている。植村氏の言論(20年前の記者としての記事)に、すさまじい実力によるイヤガラセがおこなわれた。これを抑止しようとする植村氏の提訴の弁護団にまで卑劣な妨害行為がおこなわれる。これがリベラルな言論に対する右翼勢力(排外主義派)からの実力妨害の実態である。

一方、右翼言論に対するリベラル派からのこのようなイヤガラセも実力行使もあり得ない。右翼勢力が原告を募集して「対朝日新聞・慰安婦報道集団訴訟」を起こしているが、この原告側弁護団への業務妨害行為などはまったく考えられない。リベラル派は、本能的に匿名発言を恥じ、卑劣行為を軽蔑する。右翼勢力は、これに付け入るのだ。

植村氏の提訴に対して、「言論人であれば、言論には言論で反論すべきではないか。提訴という手段に至ったことは遺憾」という、したり顔の批判があったやに聞く。現実をありのままに見ようとしない妄言というべきだろう。せめてもの対抗手段として有効なものは提訴以外にはないではないか。

そもそも「言論対言論」の応酬によって問題の決着がつけられるという環境の設定がない。武器対等者間での言論の応酬などという教科書的な言論空間が整えられているわけではない。排外主義鼓吹勢力が、虎視眈々と生け贄を探しているのが、実態なのだ。思想の自由市場における各言論への冷静な審判者が不在のままでの、「言論には言論で」とのタテマエ論の底意は透けて見えている。卑劣な実力を背景にした強者の論理ではないか。

このような事態に、理性に裏打ちされた弁護士会の機敏な声明はまことに心強い。弁護士会は、いつまでも、かく健全であって欲しいと願う。
(2015年2月17日)

建国記念の日 「国家主義との対決」の覚悟を

昨年の2月11日、当ブログは「去年までとは違う『建国記念の日』」と題して、歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことを取り上げた。是非ご一読いただきたい。
   https://article9.jp/wordpress/?p=2086

今年は、右翼メディアの代表格としての産経の本日付社説を解説してみたい。「建国記念の日 『よりよき国に』の覚悟を」と標題するもの。もちろん、産経のいう「よりよき国」には独特な意味合いが込められている。安倍政権が曖昧にしか言えないことをズバリと言っている点において、産経とは貴重な存在なのだ。

「わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。」

冒頭の一節。こういう比喩の使い方が、騙しのテクニックの基本であり典型でもある。まったく異質の「わが子」と「国家」を、等質のものと思わせようという魂胆。うっかり、この手の論法に乗せられると、国家の誕生を祝わない国民は、子を虐待する非道の親のごとくに貶められてしまう。「非国民」概念をつくり出そうという発想なのだ。

「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。」

騙しのテクニックはさらに続く。日本書紀に書かれている紀元前660年に誕生した日本国と明治政府と日本国憲法下の日本国とを、何の論証もなく「連綿と同一性を保った国家」と言いたいのだ。ことさらに2月11日を選んで祝おうという狙いは、「連綿と続いた国家」を強調することにある。

当然のことながら紀元前660年の頃の日本は縄文晩期と弥生とが重なる時代、いまだ統一国家の萌芽もない。8世紀に編まれた日本書紀に、1400年も前の神武即位の年月日が特定されているわけでもない。どこの国ももっている建国神話を日本書紀が書き留め、明治政府が荒唐無稽な解釈によって、紀元前660年2月11日と擬制しただけの話。元祖歴史修正主義の所業というべきであろう。わが子の誕生日ははっきりしているが、日本国の誕生日など、歴史の見方次第でどうにでもなること。どうにでもなることだが、紀元前660年ではあり得ない。

「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。」

「意義があった」は偏頗なイデオロギーによる決め付け。冷静には、「紀元節の制定こそは、嘘で塗りかためた建国神話を徹底利用して、薩長閥が作り上げた政権の神聖性を臣民に刷り込むための小道具」「天皇制の始まりとされる日を拵え、その日の祝意を強制することによって国民に国家との一体感をつくり出すための演出」というべきなのだ。

「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。」

「祝日としての復活」は、国民を二分するイデオロギー対立の暫定決着としてのことである。明治百年論争、元号法制化、国旗国歌法制定そして憲法改正論議なども同じ問題。一方に復古主義的な、「天皇中心の国体護持論+国家主義+軍国主義+歴史美化派」のイデオロギー陣営があり、他方に「国民主権論+個人の人権尊重+平和主義+歴史修正反対派」の陣営がある。両陣営の長いせめぎ合いの末に、両陣営とも不満足ながらの「名前を変えた祝日としての復活」に至った。そして、このせめぎ合いは今も続いている。国家主義への警戒の大切さは、今ももちろん変わっていない。

「ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。」

これも、欺瞞のテクニック。「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたこと」などという抽象的な文章は、情に訴えようとするだけで実は何も語っていない。次に控えている危険な毒物を飲み込みやすいようにする準備の一文なのだ。

「日本を少しでもよい国にしようと、血のにじむ努力を重ねてきた先人」とは、何を指しているのだろうか。悲惨な戦争を画策し指導したA級戦犯たちを含んでいるのだろうか。政・商結託して大儲けをした明治の元勲たちはどうだろう。あるいは天皇制の野蛮な弾圧を担った特高警察や憲兵や思想検事たちも「少しでもよい国にしようと努力を重ねた先人」なのだろうか。一方、野蛮な天皇制の暴力に抗して平和や民主主義を目指した不屈の闘いを試みた人々はどうなのだろうか。

「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない」は、空疎空論の見本である。めざすべき「さらによい国」とは、声高に「国」の存在や権威を振りかざす者のいない国ではないか。

「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空しきものとなる。然らば、その独立を衛るものは誰れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)

ようやくここで本音が出て来る。「先人らの血のにじむ努力」とは国防の努力、「さらによい国」とはさらに軍備を増強した国のことなのだ。要するに、防衛力を増強したいのだ。もう一度富国強兵を国家的スローガンに掲げたいということなのだ。そのために「国の誕生」から説き起こし、「国の誕生日への祝意」を大切なものとし、「先人の努力」と「国をよくする」とまで論理をもってきたのだ。

「57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。」

まったくの驚きだ。57年前も今日と同じ言葉で国防への警鐘がなされていたのだ。いつの時代にも同じ言葉が繰りかえし語られるということなのだ。いつもいつも、仮想敵と敵による危機が叫ばれてきた。ソ連の脅威であり、李承晩の脅威であり、赤い中国の脅威であり、北朝鮮の脅威であり、今またイスラムの脅威であり、テロの脅威である。日本を取り巻く国際環境の厳しさは、際限なく無限に進行しているのだ。

「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。」

これが産経社説の締めくくり。社説子の頭の中は、今日は「建国記念の日」ではなく、完全に「紀元節」である。そして、かつての紀元節が、天皇中心の国家主義的イデオロギー鼓吹の小道具であったように、「建国記念の日」を国家主義、軍国主義思想浸透のきっかけにしようというのだ。「2月11日は富国強兵思想の記念日」というわけだ。

本日の産経社説。何のことはない。「わが子はかわいい」「かわいいわが子の誕生日を祝おう」「同様にかわいい国の誕生日も祝おう」「かわいい国には武装をさせて守ろうではないか」。だから「国民よ、国防国家となるべく覚悟を決めよ」と言っているだけのこと。

個人よりも国家が大切で、国防が何よりも重要で、歴史の真実よりは国家への誇りが大切だとするイデオロギーが、メディアの一角でこうまで露骨に語られる時代を恐ろしいと思う。しかし、萎縮してはおられない。憲法や人権・平和の理念を護る覚悟が要求されているのだ。

昨年のブログの最終節はこうだった。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。

ほとんど同じだが、産経社説の標題に倣って、今年は次のように締めておこう。

「建国記念の日 『国家主義との対決』の覚悟を」
(2015年2月11日)

韓国メディアの歴史修正主義への敏感さ

朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュースなどの韓国メディアが、インターネット日本語版で発信している。まことに貴重な情報源である。

例えば、2月6日の朝鮮日報ネット日本語版に朴正薫(パク・チョンフン)という幹部記者の次のようなコラムが掲載されている。

標題が、「悲劇に冷静な日本、ぞっとするほど恐ろしい」というもの。同記者は20年前の阪神淡路大震災の現場取材を行って、「頭を殴られたような衝撃を感じる出来事」に遭遇したという。70代とみられる高齢者夫婦の自宅が崩壊し、妻ががれきの下に埋まった。夫が見守る中、救助作業が行われたが、妻は遺体となって発見された。
「記者が本当にぞっとしたのは次の瞬間だった。救助作業中、ずっとその場に立ちすくんでいた白髪の夫は妻の死を確認すると、救助隊員らに深々と頭を下げ、何度も『ありがとうございます。お疲れさまでした』と大声で叫んでいるようだった。夫は一滴も涙を流さず、自らの感情を完璧にコントロールしていた。ロボットのようなその様子を見ると、記者は『これが日本人だ』と感じた。…被災地のどこにも泣き叫ぶ声は聞こえなかった。『静けさゆえに恐ろしい』という感覚。これこそ記者が日本の素顔を目の当たりにしたと感じた体験だった」

続いて、記者はこう続ける。
「過激派組織『イスラム国』により2人の日本人が殺害され、日本国民の間に衝撃が走った。しかし、日本社会の反応は20年前の阪神淡路大震災当時とほとんど変わらなかった。最初の犠牲者となった湯川遥菜さんの父は、息子が斬首され殺害されたとのニュースを聞くと『ご迷惑を掛けて申し訳ない』と述べた。また2人目の被害者となった後藤健二さんの母もカメラの前で『すみませんでした』と語った。何が申し訳なくて、何が迷惑だったのだろうか。」

記者は、これを「迷惑コンプレックス」と紹介している。「日本人の潜在意識には『他人に迷惑を掛ける行為は恥』と考える遺伝子が受け継がれている。『侍の刀による脅し』が日本人をそのようにしたという見方もあれば、教育の効果という見方もある。いずれにしても理由は関係ない。重要なことはたとえ悲惨な状況の中でも、彼らは常に忍耐を発揮するということだ」という。

記者が言いたいことは次のようなことのようだ。
「イスラム国に家族を殺害された遺族らは、日本政府に対して恨み言の一つでも言いたいはずだ。2人の人質が殺害されるという最悪の結果を招いたことについては、安倍政権の失政が大きいからだ。2人が人質となったのは昨年10月ごろで、イスラム国との交渉も水面下で行われていたという。ところが安倍首相は致命的なミスを犯した。中東を歴訪した際、現地で『イスラム国との戦争に2億ドル(約240億円)を拠出する」(原文のママ)と表明し、まさに彼らの面前で挑発したのだ。安倍首相の発言が報じられた直後、イスラム国は2人の人質を殺害すると突然表明した。無用にイスラム国を刺激する結果を招いた戦術的なミスだった。」

「他人に迷惑を掛ける行為は恥」と考える遺伝子を受け継いでいる日本人は、安倍首相のミスで家族を失っても、政権を批判しないどころか、「ご迷惑を掛けて申し訳ない」「すみませんでした」と謝るばかり。記者は、そのように日本人に対する苛立ちを隠さない。日本通と思われる韓国人から、われわれはこう見られている。思いがけないというべきか、思い当たるというべきだろうか。

韓国メディアは、権力批判に遠慮がない。日本の政権にも手厳しい。安倍政権の従軍慰安婦否定発言問題ではことさらである。

安倍首相が今月初めの国会審議において、「アメリカの教科書が従軍慰安婦問題をどのように記述しているかを知って驚愕した」「政府として教科書の記述の変更を求める」と、答弁したことへの反応は敏感である。昨日(2月8日)の朝鮮日報(ネット日本語版)は、アメリカ歴史学界の動向をインタビュー取材して次のように報道している。

「安倍首相は学問の自由を脅かしている」というもの。

今年の1月2日に、アメリカ歴史学会(AHA)が昨年11月の安倍首相による歴史修正主義的発言を批判する全会一致の声明を出した。また、今月5日には、安倍首相の教科書非難発言について、専門家19学者連名の声明が出ている。その中心となった歴史学者のインタビュー記事である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150207-00000800-chosun-kr

米国コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授は「日本政府の教科書修正要求は学問の自由に対する直接的な脅威であり、教科書を執筆したハワイ大学ハーバート・ジーグラー教授を、私たち歴史学者が支持しなければならないということにすぐ同意した」と語った。安倍首相は先日、米国の教科書に日本軍慰安婦問題が間違って記述されていると語り、その前にも日本の外務省は教科書を発行したマグロウヒル社に慰安婦に関する部分を削除するよう要求していた。

同教授は「日本の間違った行動に対し警告すべきだという共感と連帯感が強かった。歴史は自分の都合のいいように選び、必要なものだけを記憶するものではない」と述べた。以下は一問一答。

?声明に賛同したのはどんな学者たち?
「さまざまな地域を研究する、さまざまな地位の学者たちが集まった。アジアを専攻する学者だけでなく、ロシア、欧州、ラテンアメリカなど世界各地の専門家だと考えればよい」

?日本政府の教科書修正要求を歴史学者たちはどのように受け止めているのか。
「学問の自由に対する直接的な脅威だと深刻に受け止めている。日本政府が独特なのは、従軍慰安婦問題は論争の種ではなく、すでに全世界が認めている『事実』なのにもかかわらず、しきりに政治的な目的をもってこれを変更、あるいは歴史の中から削除しようとしている点だ。マグロウヒル社は非常に評判が高い出版社で、見当違いもいいところだ」

?なぜ安倍政権はしきりに歴史問題を取り上げると思う?
「日本政府の不名誉を覆い隠そうという意図ではないかと思う。しかし、河野談話を通じて多くの人々が慰安婦に関する真実を知り、これを認めている。日本の人々も同様だ。特に慰安婦に関する真実のほとんどは、日本人学者の吉見義明・中央大学教授の努力により証明されている。さらに過去数十年間、日本の小中高校に関連の記述があったが、安倍政権になって急に、安倍氏とその支持者たちが真実を変えようとしている。自分たちに有利な記憶だけ大事にしようとしているが、これは問題だ」

?日本はなぜ、第二次世界大戦中のナチスの過ちを謝罪し続けるドイツのように行動できないのか。
「日本人の多くはドイツと自国を比較することを好まない。終戦70周年を迎えたのにもかかわらず、安倍政権は不幸にも日本の過去の責任を認めた村山談話にも挑もうとしている。地域内の平和を20年以上守ってきた歴史問題やそれに関連する大きな枠組みを個人的な政治ゲームのため不必要に崩そうとするのは問題だ。だが、安倍首相がドイツのように過去の過ちを謝罪し、未来に向かって進めない理由はない。世界が直面している危機に共に対処しても不十分なのに、安倍政権は全てを後退させる傾向がある。北東アジア地域や世界にとって良くないことだ」

韓国メディアは米国歴史学者の安倍批判発言を大きく取り上げている。日本と韓国、足を踏んだ側と、踏まれた側の違いではないだろうか。私たちは、韓国国民の発信に耳を傾け、その感情の動きにもっと敏感でなくてはならない。
(2015年2月9日)

「間違った歴史を真に終わらせるために」ーワイツゼッカー逝く

昨日(1月31日)、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが亡くなった。われわれには、ドイツの大統領という存在がなかなか理解しにくい。任期5年の国家元首として、党派性の薄い立場だという。血筋ではなく、国民を代表するにふさわしい良識と知性を体現することをもって国家と国民統合の象徴としての機能を期待されているのだ。要するに、尊敬される言動が任務の内容ということではないか。これはたいへんなことだ。ワイツゼッカーといい、ガウクといい、それに相応しい人物と国民の信頼は厚いという。安倍だの麻生だのの類とは大違い。これは、残念ではあるが、ドイツ国民と日本国民の良識と知性の差でもあることを認めざるを得ない。

ワイツゼッカーが「荒れ野の40年」と題して連邦議会で演説をしたのは、ドイツ敗戦から40周年となる1985年5月8日。その10年後の8月に日本で戦後50周年の村山談話の発表となり、60周年では小泉談話が続いた。そして今年8月、余計なことに安倍談話が出るという。

安倍談話は、村山談話と対比されるだけでなく、ワイツゼッカーとも比較されることになる。良識と知性の格差は覆うべくもない。国恥となりかねないのだから、やめた方が賢明ではないか。

ワイツゼッカーの名演説は、大きな波紋を巻き起こした。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という一節が現代の名文句として有名となった。歴史を直視し、自らが犯した罪と真摯に向き合うことで、はじめて近隣諸国との真の「和解」が可能となるという文脈。これは、同じ全体主義国家として敗戦した日本にとっての優れたお手本以外のなにものでもない。

この名演説、意外に長文である。それに、決定訳を知らない。本日の毎日新聞に、要旨が掲載されているが、これすら相当に長い。文章としてもおさまりがよくない。思いきって、我流にスクリプトして、心にとどめ置きたい。

そして、「ドイツ国民」を「日本国民」に、「ユダヤ人」を、「中国人や朝鮮人」に読み替えて、正確に歴史を記憶するところから、間違った歴史を真に終わらせる方法を考えたいものと思う。

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私たちは、この日(敗戦記念日)に向き合う必要がある。この日はドイツにとってお祝いの日ではない。多くのドイツ人は祖国のため戦うのをよしとした。だがそれは犯罪的な政権の非人間的な目的に寄与するものだった。この日はドイツの間違った歴史の終わりの日だ。

この日は記憶の日でもある。記憶とはそれが自分の内部の一部となるように正直に、純粋に思い出すことだ。私たちは独裁政権によって殺されたすべての人、特に強制収容所で殺された600万人のユダヤ人を記憶する。命を失ったドイツ国民や兵士、祖国を追われたドイツ人を記憶する。ロマ民族や同性愛者、宗教・政治上の理由で殺された人を記憶する。死者の苦しみや、傷つき、強制的に断種され、逃走し、空襲の夜を過ごした苦しみを記憶する。

どの国も戦争や暴力に罪深い間違いを犯した歴史から自由になれない。罪は少数の者に主導されたが、ドイツ人一人一人はユダヤ人の苦難に共感できたはずだ。良心を曲げ、現実を見ず、沈黙していた。

先人は重い遺産を残した。私たち全員が過去に対する責任を負わされている。それは過去を乗り越えることではないし、過去は変えられない。過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる。非人間的な行いを記憶しない者は、また(非人間的な考えに)汚染される恐れがある。和解は記憶なしにはあり得ないことを理解すべきだ。

若者は当時のことに責任はない。だが歴史から生み出されるものに責任はある。若者に呼びかける。憎しみや敵意に陥らず、共生することを学び、自由を尊び、平和のために努力しよう。
(2015年2月1日)

対朝日集団訴訟を憂うるー新手スラップの横行を許してはならない

本日の朝刊に掲載された小さな記事。朝には見落として、夕方に気が付いた。世間の耳目を引かないようだが、私にはいささかの関心がある。

「慰安婦報道:『朝日新聞は名誉毀損』8749人が賠償提訴」というベタの見出し。
「朝日新聞の従軍慰安婦報道によって『日本国民の名誉と信用が毀損された』などとして、渡部昇一・上智大名誉教授ら8749人が26日、同社を相手取り、1人1万円の賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した。訴状によると、原告側が問題視しているのは、朝日新聞が1982〜94年に掲載した『戦時中に韓国で慰安婦狩りをした』とする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事など13本。『裏付け取材をしない虚構の報道。読者におわびするばかりで、国民の名誉、信用を回復するために国際社会に向けて努力をしようとしない』などと訴えている。
朝日新聞社広報部の話 訴状をよく読んで対応を検討する。」(毎日)

世の中は狭いようで広い。こんな訴訟の原告団に加わる「名誉教授」や、こんな提訴を引き受ける弁護士もいるのだ。この奇訴にいささかの興味を感じて、訴状の内容を読みたいものとネットを検索したが、アップされていない。靖国関連の集団訴訟などとの大きな違いだ。

それでも、「『日本国民の名誉と信用が毀損された』として、朝日を相手取り、賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した」というメディアの要約が信じがたくて、当事者の言い分で確かめたいと関連サイトを検索してみた。

「頑張れ日本!全国行動委員会」という運動体が提訴の委任状を集めており、姉妹組織「朝日新聞を糺す国民会議」が訴訟の運動主体のようでもある。これらを手がかりに検索を重ねても訴状を見ることができないだけでなく、請求原因の要旨すら詳らかにされていない。法的な構成の如何にはまったく関心なく、原告の数だけが問題とされている様子なのだ。勝訴判決を得ようという本気さはまったく感じられない。

ようやく3人で結成されている弁護団のインタビュー動画にたどり着いた。3人の弁護士が語ってはいるが、その大半は「訴訟委任状の住所氏名は読めるようにきちんと書いてください」「郵便番号をお忘れなく」「収入印紙は不要です」「委任の日付は空欄にしてもかまいません」などと細かいことには熱心だが、請求原因の構成については語るところがない。「朝日がいかに国益を損なったか」という政治論だけを口にしている。ここにも、真面目な提訴という雰囲気はない。

永山英樹という右派のライターが、次のように提訴記者会見での原告団の言い分をまとめている。おそらくは、訴状を読んでのことと思われる。
「日本の官憲による慰安婦の強制連行という朝日の宣伝により、旧軍将兵、そして国民は集団強姦犯人、あるいはその子孫という汚名を着せられ、人格権、名誉権が著しく損なわれた。日本の国家、国民の国際的評価は著しく低下して世界から言われなき非難を浴び続けている。たしかに虚報を巡って朝日は「読者」に対し反省と謝罪の意は表明した。しかし捏造情報で迷惑を被ったのは「読者」だけではないのである。国際社会における国家、国民の名誉回復の努力も一切していない。そこで朝日新聞全国版で謝罪に一面広告を掲載することと、原告に対する一万円の慰謝料の支払いを求めるのがこの訴訟なのだ」
どうやらこれがすべてのようだ。これでは、そもそも裁判の体をなしていないといわざるを得ない。

この提訴は、訴権濫用により訴えそのものが却下される可能性が極めて高い。訴訟の土俵に上げてはもらえないということだ。訴え提起が民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き信義則に反する場合には、訴権濫用として、訴えを却下する判決は散見される。このような信義則に反する場合としては、?訴え提起において、提訴者が実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするのでなく、相手方当事者を被告の立場に立たせることにより訴訟上または訴訟外において有形・無形の不利益・負担を与えるなどの不当な目的を有すること、および?提訴者の主張する権利または法律関係が、事実的・法律的根拠を欠き権利保護の必要性が乏しい、ことが挙げられている。
今回の集団による対朝日提訴は、まさしくこの要件に該当するであろう。

さらに、提訴が訴権の濫用に当たることは、却下の要件となるだけでなく、提訴自体が朝日に対する不法行為を構成する可能性もある。そのときは原告すべてに不法行為による損害賠償責任が生じることになる。通常8749人に損害賠償の提訴をすることは事務の繁雑さと郵送料の負担とで現実性がないが、本件では反訴なのだから好都合だ。反訴状は正副各1通だけで済むし、送達費用はかからない。当事者目録は原告側が作ったものをそのまま利用すればよい。朝日にとってはお誂え向きなのだ。

朝日を被告としたこの訴訟は不法行為構成であろうが、何よりも各原告に、「権利または法律上保護される利益の侵害」がなくてはならない。「国益の侵害」や「日本国民の名誉と信用が毀損された」では、そもそも訴えの利益を欠くことになって、私的な権利救済制度としての民事訴訟に馴染まないことになる。この点で訴訟要件論をクリヤーできたとしても、法律上保護される利益の侵害がないとして棄却されることは目に見えているといってよい。

さらに誰もが疑問に思うはずの、時効(3年)と除斥期間(20年)について、原告側はどのようにクリヤーしようとしているのか、とりわけ除斥期間は被告の援用の必要はない。訴状に何らかの記載が必要だし、原告を募集するについて重要な説明事項でもある。しかし、この点についてはなんの説明もないようだ。

この訴訟は新手のスラップだ。勝訴判決によって権利救済を考えているのではない。ひたすらに朝日に悪罵を投げつける舞台つくりのためだけの提訴ではないか。本来の民事訴訟制度は、こんな提訴を想定していない。

朝日は、早期結審を目指すだけでなく、提訴自体を不法行為とする反訴をもって対抗すべきではないか。負けて元々の提訴で、相手を困らせてやれ、という訴訟戦術の横行を許してはならないと思う。
(2015年1月27日)

今日から、「戦後70年」の年の通常国会

憲法第52条は「国会の常会は、毎年1回これを召集する」と定めている。今日が、戦後70年となるこの年の常会(通常国会)開会の日。多事多難な中で、波乱含みの第189通常国会が始まった。会期は6月24日までの150日間である。

今日は、例のごとく参議院本会議場で天皇出席の開会式が行われる。大日本帝国時代の貴族院での開会式と少しも変わらない。天皇は主権者の代表を見下ろす「お席」から「お言葉」を述べる。そのあと、衆議院議長が「お席」まで階段を登り、おことばを受け取った後、後ろ向きに階段を降りるのだという。天皇に背を向けてはならないからというばかばかしさ。蟹のヨコ歩きを拒否した松本治一郎の気概をこそ見習うべきではないか。議席を増やして存在感を増した共産党議員団はこの奇妙な開会式をボイコットしているはず。それでこその共産党。ものわかりよく、開会式に出席して行儀よく「お言葉」を聞くようになってはならない。

いつも通常国会の前半は、予算審議がメインで経済政策の論議が中心になるのだが、何しろ今年は戦後70年である。歴史認識問題や集団的自衛権行使、安保法制をめぐっての憲法論議が焦点となるだろう。

この通常国会終了後の8月には、村山談話(戦後50年)・小泉談話(60年)につづく、戦後70年の安倍談話が出る模様だ。今国会の歴史認識や憲法論議がその談話に収斂するものと思われる。当時の小泉純一郎をずいぶんな「変人」と思ったが、小泉談話を見る限り常識的な内容となっている。安倍晋三は「変人」の枠には収まらない。既に「危(険)人」である。小泉の支持は保守層にあったが、安倍の支持は右翼層で、危険ラインを踏みはずしている。

本日の朝刊各紙が、昨日のNHK番組での「戦後70年安倍談話」の内容についての安倍自身のコメントを紹介している。

安倍は、「(村山談話や小泉談話など)今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍内閣としてどう考えているかという観点から談話を出したい」と述べ、過去の植民地支配と侵略を謝罪した戦後50年の村山富市首相談話などの文言は、そのままでは使わないことを明言したと受け止められている。

「『植民地支配と侵略』『痛切な反省』『心からのお詫び』などのキーワードを同じように使うか問われると、『そういうことではない』と明言した」(毎日)とのことである。

「キーワード」とは、まさしく文章を読み解くための「キー」となる重要語である。「キーポイント」は和製語だそうだが、まさしく「キーポイントとなることば」。新明解なら気の利いた語釈があろうかと引いてみたが、「問題の解決や文の意味の解明にかぎとなる重要語(句)」と、広辞苑と大差ない。

いずれにせよ、両談話の文意を決定している重要語は、「植民地支配」「侵略」「反省」「お詫び」である。これらのキーワードを用いることなく、談話の趣旨を踏襲するなど不可能ではないか。また、わざわざそのようなアクロバティックな文章を練り上げる必要もまったくない。

憲法前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とある。まさしく、日本国憲法は、歴史認識の所産である。侵略戦争と植民地支配への痛切な反省と謝罪を土台に、不再戦の誓約をしているのだ。

しかし、被侵略国、被植民地国の国民からは、常に日本の為政者に対して、反省と謝罪の自覚の真摯さが問われ続けてきた。ファシズム同盟国であったドイツが徹底した反省と謝罪によって、近隣諸国からの信頼を勝ち得たことと好対照なのである。

さて、安倍談話。「近隣諸国への植民地支配と侵略」「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」「その痛切な反省」「心からのお詫びの気持」などの言葉を使わずして、いったい村山談話の何を継承できるというのだろうか。

民主党の岡田克也代表は「植民地支配や侵略を『細々としたこと』と言った首相の発言は許せない。過去を認め、戦後70年日本がやったことを伝え、未来志向と、この三つがそろわなければならない。過去の反省が飛んでは、戦後70年の歩みを否定することになりかねない」と批判した。
公明党の山口那津男代表は同じ番組で、「キーワードは極めて大きな意味を持っている。それを尊重して意味が伝わるものにしなければならない」と語り、表現の変更に慎重な姿勢を示した。(毎日)

岡田民主党も、山口公明党も、安倍自民に較べれば、すこぶる立派ではないか。最近「安倍話法」のずるさを感じる。原発問題で原子力村に住む人たちの「東大話法」が話題となっているが、安倍話法はこれとよく似ている。誰かが教え込んでいるのだろう。

安倍話法の特徴として、「聞かれたことにはけっしてまともに答えない」。「はぐらかして、自分にとって都合のよいことだけをまくし立てる」。それから、「社会的な理解とはまったく別の意味で言葉を使う」、などがある。

安倍晋三流の「平和」も「積極的平和」も、「安倍話法」の典型。憲法が定める国際協調主義や武力によらない平和との接点がない。武力を整備し、集団的自衛権行使を容認し、武器輸出三原則を骨抜きにし、停戦前の機雷の除去もできるようにし、A級戦犯にも額づいて近隣諸国を挑発することが、「平和を築くための積極的な方法」だというのだ。

この安倍の姿勢での戦後70周年談話とは、背筋が寒くなるほど恐ろしい。その前段階としての今国会の議論における安倍発言のロジックを、じっくりと注視し見極めよう。権力者に対する監視こそ主権者の任務なのだから。
(2015年1月26日)

70年の平和をさらに続けようー今年初めての街頭宣伝行動

ここ、本郷三丁目の交差点で、お昼休みのひとときに、今年はじめての訴えをさせていただきます。少しの間、耳をお貸しください。

私たちは、「本郷・湯島九条の会」の会員です。この近所に住んでいる者が、憲法九条を大切にしよう、憲法九条に盛り込まれている平和の理念を守り抜こうと寄り集まって作っている小さな会です。私も近所の本郷五丁目に住んでいる弁護士で、憲法と平和を何よりも大切にしようとしている者のひとりです。

今年は、「戦後70周年」をもって語られる年です。70年前と比較すれば、今年のお正月は平和に明けました。戦争のないお正月。空襲警報は鳴りません。敵機の来襲もなく、特高警察も憲兵もありません。徴兵も徴用も、宮城遙拝の強制もなく、治安維持法や軍機保護法で痛めつけられることもありません。ラジオの臨時ニュースが大本営発表をしているでもありません。

70年前の正月、私たちの国は激しい戦争をしていました。戦争のために、国民生活のすべてが統制され、一人ひとりの自由はありませんでした。空襲は日増しに激しさを増し、3月10日には都内の10万人が焼け死んだ東京大空襲の悲劇が起こります。6月には沖縄の地上戦が陰惨を極め、8月には広島・長崎に原爆が投下されて、15日の敗戦の日を迎えます。その日までに、日本国民310万人が戦争で尊い命を落としました。また、日本軍が近隣諸国に攻め込んだことによる犠牲者は2000万人にのぼるとされています。

戦争は日本の国民に、被害と加害の両面において、このうえない惨禍をもたらしました。どんなことがあっても、再び戦争を繰り返してはならない。これが、生き残った国民の心からの思いでした。どうして戦争が起こったのか、どうして戦争を防ぐことができなかったのか。そして、どうすればこのような悲惨な戦争を繰り返さないようにすることができるのだろうか。

真剣な議論の答の一つは、民主主義の欠如ということだったと思います。戦争で最も悲惨な立場に立つことになる庶民の声が反映されない政治の仕組みこそが問題ではないのか。国民が大切な情報から切り離されて、政治に参加できないうちに一握りの財閥や軍人や政治家たちの思惑に操られて戦争に協力させられてしまった。国民一人ひとりが、自分の運命に責任を持つことができるように、国民自身の手に政治を取り戻さねばならない。それができれば、国民を不幸にする戦争を、国民自身が始めることはないだろう。民主主義の発展こそが、平和の保障だという考えです。

もう一つの答が、憲法9条に盛り込まれた平和主義であったと思います。人類は、身を守るために長く暴力に頼ってきました。でも、次第に暴力を野蛮なものとし、暴力ではなく他と相互に信頼関係を築くことで安全を守ることに切り替えてきたのではありませんか。これが文明の進歩というものではないでしょうか。国家という集団でも同じことです。国の平和を守るためには軍事力が必要だというのが長らくの常識でした。しかし、武力の行使や戦争を違法なものとする考え方が次第に成熟し、国連憲章を経て、日本国憲法にこのことが銘記されることになったのです。

日本国憲法9条第1項は、「戦争を永久に放棄する」としています。そして、同第2項は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、軍隊をもたないことを宣言したのです。戦争はしないと宣言し、軍隊をもたないという謂わば捨て身の覚悟で、日本は平和を獲得しようとしたのです。

放棄されたものは、明らかに侵略戦争だけでなく自衛戦争までを含むものでした。当時政権を担っていた吉田茂や幣原喜重郎などの保守政治家が、「古来すべての戦争が自衛の名のもとに行われてきた。日本国憲法の平和主義は自衛の名による戦争を許さないものである」「文明と戦争とは両立し得ない。文明が戦争を駆逐しなければ、戦争によって文明が駆逐されしまうだろう」と述べています。

ところが、これが冷戦の中で、変化してきます。厳密な自衛のための武力行使や戦争は憲法が禁じているところではない、とする説明が出てきたのです。これが集団的自衛権行使は認められないとした上で、個別的自衛権なら認められるという理屈です。専守防衛に徹する限りにおいて自衛隊は合憲なのだというのです。

この考え方で60年が過ぎました。ところが、安倍政権は昨年これをも覆して、集団的自衛権行使容認の閣議決定をしてしまいました。これは恐るべき事態。憲法の条文を変えないで、解釈を変えることで憲法の根幹を骨抜きにしてしまおうというのです。

もっとも、閣議決定だけでは自衛隊をうごかすことができません。今年の国会では、安倍内閣は、集団的自衛権を現実に行使できるようにするためのたくさんの法律案を提案し、その多くが対決法案となることでしょう。

戦争を始めるためには、それだけでは足りません。教育とマスコミの掌握は不可欠なものです。煽られた戦争の相手国の一人ひとりと仲良くしていたのでは戦争はできません。我が日本民族が優れて他は劣っているとし、近隣諸国への排外主義を煽るには、教育とメデイアの役割が欠かせないのです。

そのような目で安倍内閣を見直すと、憲法改正、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法の制定、村山談話や河野談話の見直し、武器輸出三原則の撤廃、侵略戦争の否定、靖国神社参拝、教育再生、NHKのお友だち人事、国家安全保障会議の設置、、日米ガイドライン改訂…等々の動きは、明らかに70年前の敗戦時に日本の国民が共通の認識としたところとは大きくへだったものになってきています。

そのほか、安倍政権がやろうとしていることは、原発再稼働であり、原発輸出であり、派遣労働を恒久化する労働法制の大改悪であり、福祉の切り捨てであり、大企業減税と庶民大増税ではありませんか。そして、このような状況で民族差別を公然と口にするヘイトスピーチデモが横行しています。従軍慰安婦報道に比較的熱心だった朝日新聞に対する嵐の如きバッシングが行われています。

庶民の生活にとっても、民主主義の良識に照らしても良いことは何にもなく、危険な事態が進行しています。このようなことを見せつけられた近隣諸国の人々は、日本は本当に先の戦争の反省をしているのだろうか。平和を大切にしようとする意思があるのだろうか。そう疑念を持たざるを得ないのではないでしょうか。安倍政権は、緊張関係を煽っているのではないでしょうか。

皆さん、戦後70年の平和をこれからも続けようではありませんか。安倍政権による危うい政治を正して、戦争ではなく平和をと声を上げていこうではありませんか。
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寒さの中で、声を枯らしたが、「くどい」「長すぎる」「工夫が足りない」「もっと短いフレーズで」と悪評サクサクだった。が、めげてはならない。がんぱらなくちゃ。
(2015年1月13日)

植村提訴記者会見報告ー敵役をかって出た産経に小林節の一喝

1月9日、植村隆元朝日新聞記者が、株式会社文藝春秋と西岡力の2者を被告として、損害賠償等請求の民事訴訟を東京地裁に提起した。係属部は民事第33部。事件番号は平成27年(ワ)第390号となった。

請求の内容は、次の3点。
 (1)ウェブサイト記事の削除
 (2)謝罪広告
 (3)損害賠償
請求する賠償の金額は合計1650万円。請求原因における不法行為の対象は、以下の各記事。

被告文春について
 (1)「週刊文春」2014年2月6日号記事
  「『慰安婦捏造朝日新聞記者』がお嬢様女子大教授に」
 (2) 同8月21日号記事。
  「慰安婦火付け役朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ」

被告西岡について
 (1)単行本「増補版 よくわかる慰安婦問題」
 (2)歴史事実委員会ウェブサイトへの投稿
 (3)「正論」2014年10月号掲載論文
 (4)「中央公論」2014年10月号掲載論文
 (5)「週刊文春」2014年2月6日号記事中のコメント

植村隆元記者は、朝日に次の2本の記事を書いた。
 (1)1991年8月11日
  「もと朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」
 (2)1991年12月25日
  「かえらぬ青春 恨の人生」
被告らが23年前の原告執筆記事を「誤報ではなく捏造」と決め付け、原告を「捏造記者」とすることは名誉毀損に当たり、また不必要な転職先を記事にしたことは違法なプライバシーの侵害に当たる。これが訴状請求原因の骨格である。

この提訴は、植村バッシングの問題点をほぼ網羅している。他の「週刊文春的な報道」や「西岡的な記事」に対しては、この訴状請求原因の一部の応用で対応可能である。弁護団事務局長は、記者会見で次のとおり発言している。
「植村さんを捏造といっている主体はたくさんある。われわれは全国から弁護士を募り、170人の弁護士が代理人に名を連ねた。その他の被告となりうる人々についても、弁護団の弁護士が力をつくし、順次訴えていき、植村さんに対する誹謗中傷を完全に打ち消すところまで闘いたい」
その言の実行にさしたる労力は要しない。

当日(1月9日)の提訴後に、原告と弁護団が司法記者クラブで提訴報告の記者会見を行った。この会見に憲法学者小林節が同席している。これが興味深い。

小林節は人も知る改憲派の法学者である。「憲法守って国滅ぶ」(1992年)という著書があるくらいだ。だが、安倍内閣のような危うい政権に憲法をもてあそぶ資格はないとして、強固に「とりあえず改憲反対」を唱えている。けっして「そもそも改憲反対」の立場ではない。その小林は弁護士資格を持っており、反文春、反西岡の立場を明確にして植村弁護団に加わったのだ。

記者会見では、冒頭植村がまとまった発言をし、次いで3人の弁護団員が敷衍しての説明をした。その中に小林の発言もあり、「これは法廷闘争だ」「慰安婦問題の論争をしようということではない」「植村と家族にとっての人権問題であり、大学の自治の問題でもある」「誹謗中傷で、名誉毀損であることを法廷の場できちっと決めて責任をとらせる」「そのことで派生したさまざまな攻撃も消えていくことを期待する」

従軍慰安婦の歴史的な論争は、そのあとの冷静な環境のなかできちっと議論されるべきだ、というのが小林の発言の趣旨だった。

そのあとに質疑応答があり、まず質問に手を上げたのは産経の阿比留記者。あきらかに、産経が書こうとしている予定記事の筋書きに使えそうな言質を取ろうとしての質問。植村の回答に再度の質問をし、さらに3度目の質問に及んだが、司会から遮られ、ジャパンタイムズ記者が替わった。その後阿比留記者は、また質問しようとしたが、司会はフリーの江川を指名した。さらに、阿比留が5度目の質問をして植村が回答している。続いて、TBSの質問があり、新聞労連委員長の発言があって、予定の時間が尽きた。

最後に小林が、「ひとこと」と発言の許可を求めた。そして、産経の阿比留記者に向かって次のように言葉をぶつけた。

「今の論争を聞いて、とても不愉快だ。入り口で相手が敵か味方か決めて、敵と決まると、10の論点があっても、都合の悪い8の論点は聞こえなく見えなくなる。自分にとって都合のいい2つの論点だけをガンガンガンガン、お前どう思ってんだどう思ってんだと。そういう議論の仕方が問題だ。
お互い、不完全な人間が日々走りながら記事書いたり報道したりしてるんじゃないですか。完璧な発言をいつもしてきたと自信あるやつなんていません。お互いそうやって、向こう傷しょいながら、大きな議論をして方向性を出していくんじゃないですか。
聞いていて情けない。10ある論点のうち、たった2つだけ。それも決めつけて、自分達の結論に都合のいいようにだけ、何度も何度も確認しようとする。そういう議論をやめてほしいから、この訴訟に私は参加しているんです」

訴訟は、文春と西岡を被告とするものだが、はからずも産経が被告らと責任を分担していることを露わにした一幕。それにしても小林節(ぶし)の一喝は冴えている。

ところで、産経はiRONNAというインターネット・サイトをもっている。ここに「池上彰が語る朝日と日本のメディア論」という記事が掲載された。池上彰が産経新聞のインタビューに答える形の記事。1月6日のこと。
そのなかに、植村バッシングに触れて、「産経さんだって人のこと言えないでしょ?」という池上の発言が掲載されている。

「この問題に関して言えば、元朝日記者の植村隆さんがひどい個人攻撃を受けてしまった。そこら辺の経緯は私も良く分からないからコメントできないですけど、ただ植村さんが最初は神戸かなんかの大学の先生に決まっていたでしょ。あの時、週刊文春がそれを暴露した。あれはやりすぎだと私は思いましたね。こんなやつをとってもいいのか、この大学への抗議をみんなでやろうと、あたかも煽ったかのように思えますよ。
 これについては週刊文春の責任が大きいと思います。植村さんが誤報したのだとしたら、それを追及されるのは当たり前ですが、だからといってその人の第二の就職先はここだと暴露する必要があるのか。それが結局、個人攻撃になっていったり、娘さんの写真がさらされたりみたいなことになっていっちゃうわけでしょ。ものすごくエスカレートする。逆に言えば、産経さんはこの件に一切関与していないにもかかわらず、なんとなく植村さんへの個人攻撃から娘さんの写真をさらすことまで、全部ひっくるめて朝日をバッシングしているのが、産経さんであるかのようにみられてませんか? 産経さんの誰かが書いていましたよね。うちはちゃんと分けているのに、全部ひっくるめて批判するのはおかしいって。そんな風になってしまったのは、これまた不幸なことだと思いますね」

1月9日記者会見は、そのインタビューから3日後のことである。この会見での産経記者の振る舞いによって、「なんとなく植村さんへの個人攻撃から娘さんの写真をさらすことまで、全部ひっくるめて朝日をバッシングしているのが、産経さんであるかのようにみられる…不幸」を重ねてしまったようだ。
(2015年1月12日)

安倍首相の年頭伊勢神宮参拝に異議あり

昨日1月5日の月曜日が、どこも仕事始めであったろう。
歳時記に
   何もせず坐りて仕事始めかな (清水甚吉)
とある。なるほど、情景が目に浮かぶ。

本郷三丁目の駅から、サラリーマン軍団が神田明神に向かっていた。「何もせず」ではなく、神事で結束を確認する儀式に参加なのだろう。もしかしたら、上司の強制かも知れない。報道では、この日お祓いを受けた会社数は3000を超えたという。恐るべし、神道パワーいまだ衰えず。

もっとも、神田明神は天つ神の系統ではない。典型的な国つ神と賊神を祀る。天皇制との結びつきは希薄だ。自らを新皇と名乗った平将門を祭神とする神社として印象が深いが、実は3柱の祭神を祀っているという。一ノ宮に大国主を、二ノ宮に少彦名を祀って、平将門は三ノ宮に祀られているという。大国主が大黒、少彦名が恵比須信仰と習合して、産業の神となり、とりわけ恵比須信仰が商売繁盛に霊験あらたかと、資本主義的利潤拡大祈願の集客に成功したようだ。

それでも、神田明神とは将門の神社と誰もが思っている。天皇に弓を引いて、賊として処刑され首をさらされたと伝えられる反逆の将を祀る神社である。ここに、仕事始めのサラリーマンが押し寄せる図は、なかなかに興味深い社会現象ではないか。

一方、天つ神系の総本山、伊勢神宮では安倍晋三クンが仕事始め。参拝しただけでなく、ここで記者会見を行い年頭談話とやらを発表している。安倍クン、そんなところで、そんなことをしてちゃいけない。官邸で、「何もせず坐りて仕事始め」をしていた方が、ずっとマシなのだ。

安倍首相の年頭談話の冒頭が次の一節。
「皆様あけましておめでとうございます。先ほど伊勢神宮を参拝いたしました。いつもながら境内のりんとした空気に触れますと、本当に身の引き締まる思いがいたします。先月の総選挙における国民の皆様からの負託にしっかりと応えていかなければならない、その思いを新たにいたしました。」

各紙が、首相の伊勢参拝は新春恒例のこと、と異を唱えずに見過ごしているのが気になる。確かに、伊勢には靖国と違って、軍国主義や戦争のきな臭さがない。だから、近隣諸国からの抗議の声も聞こえてこない。しかし、外圧があろうとなかろうと違憲なものは違憲なのだ。

伊勢こそは国家神道の本宗であった。最高の社格・官幣大社の中でも特別の存在。憲法20条の政教分離とは、国家神道の復活を許さないとする日本国憲法制定権力の宣言である。とすれば、「政」(国家権力)の最高ポストにある内閣総理大臣が、伊勢神宮という「教」(神道)の最高格式施設に参拝することを許容しているはずもない。明らかな違憲行為として、首相の年頭参拝に「異議あり」と声を上げずにはおられない。

違憲・違法は、回数を重ね、時を経ても変わらない。労基法違反も男女差別賃金も、「これまでずっとやって来たことだから、今さら違法と言われる筋合いはない」などという会社側の開き直った言い訳は通らない。「毎年のこと。恒例だから問題ない」と言っても、伊勢参拝が合憲にはならない。ダメなものはダメ。違憲は違憲なのだ。

安倍晋三クン、キミの悪癖だ。憲法をないがしろにしてはいけない。8月の戦後70周年談話をどうするかは先のこととして、まずは伊勢神宮への参拝を反省したまえ。これも、天皇を神の子孫とする天皇制を支えた制度の歴史認識の問題であり、憲法遵守義務の重要な課題でもあるのだから。
(2015年1月6日)

新年の社説に、戦争に対する真摯な反省のあり方を考える

いまや、日本のジャーナリズムの良心は地方紙が担っている。事実と歴史に真摯に向き合う姿勢において、地方紙の良質さが際立っている。とても地方紙のすべてに目を通すことはできないが、紹介されたいくつかの地方紙社説を読んでみてその感を強くした。昨日(1月4日)の高知新聞社説「70年目の岐路ー日独に見る戦後の歩み」は、その典型。良質だし、語っていることの水準が高い。「自由は土佐の山間よりいづ」という伝統が息づいているからだろうか。

以下は、かなり長文の同社説の要約紹介。
同社説は、ワイツゼッカーの演説から説き起こす。「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも、目を閉ざすこととなります」「非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、またそうした危険に陥りやすいのです」。この言葉は、ヒトラーを選挙という合法的手法で生み出したドイツの人々の頭から離れなかった。そして、「戦後の思想、哲学、文化などの分野での、かんかんがくがくの議論によって、かの国は過去の記憶、戦争責任、そして未来を語り、過去を克服しようと努めてきた」と評価する。
戦後25年目の1970年、旧西ドイツのブラント首相がポーランドを訪問し、ゲットー跡でひざまずき、痛恨の過去について許しを請うた。ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ氏は昨年10月、高知新聞記者らと会談。氏は旧西ドイツ首相の謝罪を評価し、国のリーダーが果たす役割と記憶の風化を防ぐことの大切さを語った。ドイツは統一後も政府や企業が基金を積み立て、戦後賠償を続けた。何より彼らはナチス犯罪の時効をなくし、今も自ら戦争を裁いている。」

同社説は、読者に「被害と加害見つめよ」と語りかける。
日独両国とも敗戦国だが、戦後の典型戦争体験として国民に語り継がれたものが、日本では広島・長崎の「原爆体験」であり、ドイツでは「アウシュビッツ体験」ではないか。前者は「被害」の体験であり、後者は「加害」の体験となろう。

戦後の歩みの中で、ドイツは加害者として謝罪と反省を徹底して繰り返すことによって、近隣諸国からの信頼を回復し、今や欧州の盟主という地位にある。

ワイツゼッカー演説があった1985年、日本では「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根首相による靖国神社への公式参拝があった。「英霊」の名の下に戦争の指導者をもまつる一宗教法人への参拝は、憲法の政教分離の原則からいっても果たして許されるのだろうか。安倍首相の靖国神社参拝も、中韓との「トゲ」をあえて刺激した。日独の大きな差異となっている。

社説の最後は次のように結ばれている。
「私たちはあの戦争の被害者意識にとらわれ過ぎていたのではないか。8月の全国戦没者追悼式の式典で安倍首相は、歴代首相が踏襲してきたアジア諸国への『加害責任』に2年続けて触れなかった。日本は今年、どのような戦後70年談話を出すのだろうか。」

強調されていることは2点ある。
まずは、戦争体験における「加害者意識」自覚の重要性である。ドイツでは深刻な加害者意識にもとづく国民的議論があったのに比して、日本では被害者意識が優り加害者意識が稀薄化されている。その姿勢では近隣諸国からの信頼回復を得られない。まずは、ドイツの徹底した反省ぶりをよく知り、参考にしなければならない。安倍政権の靖国参拝などは、信頼回復とは正反対の姿勢ではないか。それでよいのか、という叱正である。

次いで、ドイツの反省が、「ヒトラーを選挙という合法的手法で生み出したドイツの人々の責任」とされていることである。つまりは、ヒトラーやナチス、あるいは突撃隊や親衛隊だけの責任ではなく、ヒトラーを民主的な選挙で支持し政権につかせた全ドイツ国民の責任とし、国民的な「かんかんがくがくの議論」によって過去を克服しようとしたということである。この真摯さが、近隣被侵略国民の評価と許しにつながったということなのだ。

日本でも同じことではないか。天皇ひとりに、あるいは東條英機以下のA級戦犯だけに戦争責任を帰せられるだろうか。国民すべてが、程度の差こそあれ、被害者性と加害者性を兼ね備えている。天皇制の呪縛のもと煽られた結果とは言え、戦争を熱狂的に支持した国民にも、相応の戦争責任がある。再びの戦争を繰り返さないためには、戦前の過ちの原因についての徹底した追求と対応とについての国民的な「かんかんがくがくの議論」の継続が必要なのだ。

その議論においては、侵略戦争を唱導した天皇の責任の明確化と、天皇への批判を許さず戦争へ国民を総動員した天皇制への批判を避けては通れない。天皇の戦争責任をタブーとして、あの戦争の性格や原因を論じることはできない。

皇軍の兵士を英霊と称える姿勢は、加害者意識の対極にあるものだ。ここからは、あの戦争を侵略戦争と断罪し反省する意識は生まれない。皇軍が近隣諸国で何をしたのかについて、真摯に事実と向かい合いその責任を問うことができない。靖国神社とは、公式参拝とは、そのような重い意味をもつものである。

戦後70年。遅いようでもあるが、「被害者意識から脱却して、加害者としての責任の認識へ」国民的議論を積みかさねなければならない。

ところで、東京新聞は「東京の地方紙」として、全国各紙に比較してその良識を際立たせている。これも、元日付け「年のはじめに考える 戦後70年のルネサンス」という気合いのはいった長文の社説を書いている。全体の論調に異論はない。が、どうしても一言せざるをえない。

末尾を抜き書きすれば、次のとおり。新聞の戦争責任に触れたものとなっている。
「◆歴史の評価に堪えたい
戦争での新聞の痛恨事は戦争を止めるどころか翼賛報道で戦争を煽り立てたことです。その反省に立っての新聞の戦後70年でした。世におもねらず所信を貫いた言論人が少数でも存在したことが支えです。政治も経済も社会も人間のためのもの。私たちの新聞もまた国民の側に立ち、権力を監視する義務と『言わねばならぬこと』を主張する責務をもちます。その日々の営みが歴史の評価にも堪えるものでありたいと願っています。」

その言やよし。しかし、天皇が唱導した戦争を煽り立てたことを反省する、その同じ社説の中に、次のような一節がある。
「81歳の誕生日に際して天皇陛下は『日本が世界の中で安定した平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、できるだけ多くの世界の国とともに支え合って歩んでいけるよう願っています』と述べられました。歴史認識などでの中韓との対立ときしみの中で、昭和を引き継ぎ国民のために祈る天皇の心からのお言葉でしょう。」

一瞬我が目を疑った。これが、私がその姿勢を評価してやまない東京新聞の意識水準なのだろうか。この姿勢では、天皇や天皇制に切り込んで戦争責任を論ずることなど、できようはずもない。

私は、「陛下」や「殿下」「閣下」などの「差別語」は使えない。「お言葉」もそうだ。「陛下」や「お言葉」をちりばめた紙面で、「権力を監視する義務と『言わねばならぬこと』を主張する責務」を果たせるだろうか。本当に、「その日々の営みが歴史の評価にも堪えるものでありたい」と言えるのだろうか。

魯迅の「故郷」の中の名言を思い出そう。
「希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。
それは地上の道のようなものである。
地上にはもともと道はない。
歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。」

「天皇の権威などというものは、もともとあるものではない。
それは地上の道のようなものである。
天皇の権威を認め敬語を使う人が多くなれば、
それが集積して天皇の権威となるのだ。」

だから、「陛下」や「お言葉」を使うことは、自覚的にせよ無自覚にせよ、天皇の権威の形成に加担することであって、戦争の惨禍への反省とは相反することとなる。とりわけ言論人がこの言葉を使うことは、自らの記事の価値をおとしめ、センスを疑われることになろう。
(2015年1月5日)

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