(2022年9月11日)
遠つ国のことよ
とあるオバアサンがおっての
先祖伝来えらく金持ちで
キンキラ着飾って
チヤホヤされていたが
あっけなく、ぽっくりと
3日前に亡くなった
96歳だったそうな
そのオバアサンの仕事はの
なんとまあ、今の世に女王なんだと
このオバアサン、大真面目に
女王という仕事をやっていたようだ
照れもせず、恥ずかしがることもなく…
この国の国民も、大真面目に
女王という仕事をやらせていた
むかしむかしのことではない
21世紀の今の話だ
むかしむかしの世にはの
世界中に、王や、女王や、
皇帝やらがはびこっていた
テンノーなんてものもあってな
わけもなくむやみに
エラそーにしていたものよ
世の中が少しずつひらけて
人が少しずつ賢くなるにつれて
王も、女王も、皇帝も
少しずつ影をうすくし
無用の長物となって消えていった
遠つ国のオバアサンはその生き残りよ
化石みたいなものさね
この国にも化石みたいなテンノーがおって
化石どうしの付き合いには年季がはいっている
こっちの化石が、あっちの化石に、
「深い悲しみと哀悼」を述べたということだ
「世界の多くの人々の悲しみは尽きません」
「国民を導き、励まされました」
「数多くの御功績と御貢献に心からの敬意と感謝」
なんて言うとる。そりゃ口が過ぎる。
女王にしてもテンノーにしても、
その地での一番の
悪辣で、狡猾で、腕力が強かった
そういうやつの末裔というわけだ
その先祖は、
神話を捏造し信仰を利用した大嘘つき
化石ならぬ身が、
遠つ国の女王に弔意なんて
そんな恥ずかしいことをしてはならぬ
たぶらかされてはならぬ
(2022年9月3日)
毎日新聞に毎月一回の大型コラム「時の在りか」。ベテラン政治記者伊藤智永の健筆で、知らないことを教えてくれる。本日は、「石橋湛山は国葬に反対した」。石橋湛山の山県有朋国葬反対を評価する立場からの、「安倍国葬」論である。さすがに読ませる。が、途中の違和感ある一文ですっかり白けた。
「明治の元勲、山県有朋が83歳で病没したのは1922(大正11)年2月。時に37歳の雑誌「東洋経済新報」記者、石橋湛山(後の首相)は「死もまた社会奉仕」とコラムに書いた。」
石橋湛山よくぞここまで書いたもの、また東洋経済よくぞこの記事を掲載したものと感嘆せざるを得ない。今、安倍晋三の死を「社会奉仕」「政治浄化への貢献」と、公然と論じるメディアは見当たらない。大正デモクラシー侮るべからずである。
「山県の国葬予算に議員2人が反対したのも変化の表れだった。湛山は…親の葬式さえ出せない貧民が多いのに、彼らも納めた間接税で山県の葬式を行うのかという批判に賛成する。反対演説中、衆院議長は「他人の身上を論議するな」と制した。湛山は問う。国葬にすることがすでに山県への評価である以上、議長の整理は自己矛盾だ。それこそ国葬なるものの不自然さを示すものに他ならない、と。」
「(山県)国葬当日は雨上がりで寒かった。1万人収容の仮小屋に数百人しか参列せず、議員数人の他は軍人と官僚ばかり。たまたま1カ月前、同じ東京・日比谷公園で行われた政敵、大隈重信の国民葬に30万人が詰めかけ、沿道に100万人が並んだ盛況との明暗を、毎日新聞の前身・東京日日新聞は『大隈侯は国民葬 きのうは<民>抜きの<国葬>で 中はガランドウの寂しさ」と伝えた。」
このあたりは、面白い。伊藤自身の国葬に対する姿勢は、以下のようにまとめられている。
「1883年の岩倉具視以下、戦前・戦中を通じて皇族・華族・元勲・軍人ら21人の国葬が行われ、大正末に国葬令も制定されたが、敗戦で失効。あくまで天皇主権国家の恩賜であり、国民主権の世では役割を終えた儀式だ。必要なら国民主体の新しい形で、趣旨や対象や条件を法制化するのが筋である。
1967年、佐藤栄作首相(当時)が吉田茂元首相の葬儀を法的根拠なく閣議決定で「国葬」にしたのは、戦後も「臣茂」を公言した政治の師に対する弟子の恩返しだったらしいが、その後は例がない。やっぱり無理があったのだ。」
ところが、唐突に、「そもそも天皇ご一家以外の国葬って何だ。」という一文に出くわし、ギョッとし、興醒めし、このコラム全体が色褪せてしまった。伊藤智永はよくもまあこんな文章を書いたものだし、毎日新聞はよくもまあこんな記事を掲載したものと嘆息せざるを得ない。戦後民主主義とは、「表現の自由」の現状とは、こんな程度のものなのだろうか。
伊藤は「天皇ご一家」と書き慣れてるのだろうか。伊藤の筆はこのような表現に抵抗感はないのだろうか。「そもそも天皇ご一家以外の国葬って何だ」という言葉の響きには、「天皇ご一家の国葬ならあって当然」「天皇ご一家の国葬なら、全国民が弔意を表明しても当然」という立場を感じさせる。とうてい、自覚的主権者の文章ではない。
天皇や皇族の葬儀なら国葬も当然、国民に弔意を要請しても(強制できるはずのないことは自明)不自然ではないなどと言ってはならない。それは主権者の言葉ではなく、自尊の矜持を捨て去った奴隷の言葉なのだから。権威主義的な政治支配には、このような奴隷の言葉を受容する被治者が必要でなのだ。安倍国葬も天皇の国葬も、主権者として、人権主体として原理的に拒否しなければならない。
ところで、「週刊金曜日」(9月2日号)《編集委員から》欄の想田和弘コメントに、目が行った。
「『ツィッターで、安倍氏国葬で黙祷を強制されたら、黙祷の時間どうしますか? 大喜利よろしく』と呼びかけた。すると、『壺を割る』だの『黙々と仕事』だの多数のアイデアが寄せられたが、最も多かったのは『赤木俊夫氏の冥福を祈る』という趣旨のものだった。あなたなら?」
なるほど。安倍晋三の冥福を祈るよう命じられての黙祷で、実は安倍のために命を奪われたに等しい赤木俊夫さんの冥福を祈ろう、という提案。これぞ、究極の面従腹背。その立場如何にかかわらず、自尊の矜持を護る方法はあるものなのだ。
(2022年8月28日)
よく知られた啄木の短い詩に、「ココアのひと匙」がある。
われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき心を。
明らかに、「おこなひをもて語らむとする心」を肯定したテロリストへの共感が詠われている。この詩には、「一九一一・六・一五 TOKYO」と付記があるが、同じ日付の詩に、「はてしなき議論の後」がある。「われらは何を為すべきかを議論す。されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD!’と叫び出づるものなし」という、あの鮮烈な言葉。こちらは、理論倒れで行動に出ることの出来ない軟弱な自分を責めている趣きがある。
啄木がこの詩を編んだ1911年の1月18日、「大逆事件」の判決が言い渡されている。幸徳秋水以下24名が死刑となった。罪名は大逆罪、よく知られているとおり、「(天皇等に)危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」という条文。「危害ヲ加ヘントシタ」だけで死刑、未遂でも、予備・陰謀でも、死刑なのだ。他の刑の選択の余地はない。
管轄は大審院、一審にして終審である。上訴はない。早々と1月24日に11名、25日に1名の死刑が執行された。他は、「天皇の慈悲による」特赦で無期刑に減刑という。恐るべし天皇制、恐るべし天皇制刑法とその運用。ムチャクチャというほかはない。
こんな時代、「奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らむとする心」に共感を寄せつつも、「冷めたるココアのひと匙を啜りて、そのうすにがき舌触りに、われは知る、テロリストのかなしき心を」と唱うことが精一杯であったろう。
啄木はかなり詳細に、大逆事件でっち上げの経過を知っていたようである。従って、啄木が共感したテロリストを秋水とするのは当たっていないようだ。
むしろ、啄木没後の1923年、関東大震災直後の虎ノ門事件(1923年12月27日)における難波大助の方がテロリストのイメージに近い。当時の皇太子裕仁(摂政)をステッキを改造した仕込銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長車が軽傷を負ったが皇太子にはかすり傷も負わせなかった。それでも、死刑である。
これは大事件だった。震災復興を進めていた第2次山本権兵衛内閣は引責による総辞職を余儀なくされた。警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞した、と丸山眞男の「日本の思想」(岩波新書)の中に、「國體における臣民の無限責任」という小見出しで記されている。
山上徹也は皇太子ではなく、元首相を銃撃した。こちらは既遂である。時代は変わった。難波大助に比較すれば、まともな裁判を受けることができるだろう。そして、今、世論の風当たりは山上にけっして厳しくなくなっている。
さて、仮に石川啄木が今にあって山上徹也に、「われは知る、テロリストの かなしき心を」と共感を寄せるだろうか。私は思う。けっしてそんなことはない。あの時代の、あの天皇制の苛酷な支配下の大逆事件であればこそ、啄木は「テロリストへの共感」を詩にし得た。今の世、山上の行動への共感は詩にならない。
今の世、まだ言葉は奪はれてはいない。奪われた言葉のかはりにおこなひをもて語らむとする心は、詩にも歌にもならない。
やはり100年無駄には経っていないのだ。私はそう思う。銃撃に倒れた安倍晋三をいささかも美化してはならないにもせよである。
(2022年8月22日)
統一教会の正式名称は、「世界基督教統一神霊協会(Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity)」であった。現在は改称して、「世界平和統一家庭連合(Family Federation for World Peace and Unification)」となっている。
旧名称には、「基督教」「神霊」という宗教団体らしい単語があったが、新名称にそれらしいものは一切なく、「宗」「教」「神」「霊」の一字すらない。新旧名称の共通単語は、「世界」と「統一」だけで、新名称には「平和」と「家庭」が入った。新名称での略称は「家庭連合」とされている。
新旧の名称上の変化は、何よりも「家庭」の強調である。英文では、トップに「Family」。統一教会はこれが布教に有益で、かつ、彼らの政治主張にも適合的と考えたのだ。その思想は、自民党主流ないし右派と通底するものである。
2012年4月に公表された「自民党改憲草案」では、日本国憲法24条に、次の1項を書き加えるものとなっている。自民党は、24条をいじりたい。憲法に「家族」のあり方を盛り込みたくてしょうがないのだ。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」
「個人」と「国家」との間には、いくつもの中間組織が重層的に存在する。そのうち個人に最も近いものが「家族」であって、強権国家・全体主義国家は、常に家族・家庭を通じての個人支配に虎視眈々なのだ。
家族ないし家庭を国家統制の手段として利用することに熱心だったのは、戦前の天皇制国家だった。これは、儒教的伝統の「家」の活用でもあった。復古主義的自民党右派が、最も郷愁を覚えるのが、「民族の文化・伝統としての家族秩序」なのだ。端的に言えば、家父長制的「家」の復活への願望である。
私の手許に、早川 タダノリ(編著)の「まぼろしの『日本的家族』」(青弓社ライブラリー・2018年)がある。これが、なかなかの優れもの。
「右派やバックラッシュ勢力は、なぜ家族モデルを「捏造・創造」して幻想的な家族を追い求めるのか。家族像の歴史的な変遷、官製婚活、結婚と国籍、税制や教育に通底する家族像、憲法24条改悪など、伝統的家族を追い求める事例を検証する」と問題意識が語られている。一口に言えば、「改憲潮流が想定する『伝統的家族像』は、男女の役割を固定化して国家の基礎単位として家族を位置づけるものである」ということ。私流に翻訳すれば「全体主義国家は、家族を通じて個人を抑圧する」のだ。その典型が近代天皇制における「家」のあり方にほかならない。
この書は、7人の著者による7章からなり、それぞれに面白い。
第1章 「日本的家族」のまぼろし 早川タダノリ
第2章 右派の「二十四条」「家族」言説を読む 能川元一
第3章 バックラッシュと官製婚活の連続性― 斉藤正美
第4章 税制と教育をつなぐもの 堀内京子
第5章 家庭教育への国家介入の近代史をたどる 奥村典子
第6章 在日コリアンと日本人の見えにくい「国際」結婚の半世紀 りむ よんみ
第7章 憲法二十四条改悪と「家族」のゆくえ 角田由紀子
私は、とりわけ第5章を興味深く読み、知らないことを教えられた。
全国民のマインドコントロールに熱心だった文部省教学局が、1937年に「國體の本義」を、1941年に「臣民の道」を発刊したことは良く知られている。実は、これに続いて44年4月刊行予定の「家の本義」の編集に手を染めていたが、戦局悪化のためにこの計画は潰えたという。
常識的に、天皇制国家は「家族国家観」を基礎として成立した。家庭内の秩序を国家大に拡大したイデオロギーである。道徳の基礎としてまず家庭内の秩序の形成と受容を求める。教育勅語の徳目羅列は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」から始まっている。臣民に対する教化の根幹は、「家を思い親に対する孝心を養え。その孝心を忠君愛国の精神に昇華せよ」というものである。
ところが、未刊に終わった「家の本義」のイデオロギーはこれとは違うのだという。「真に家を思ふのであれば、家を忘れなければならない」「生まれた子どもは『我が子』ではなく、『陛下の赤子』である」「親の務めは『陛下の赤子』を天皇の盾へと育てあげること」と説くものなのだそうだ。「家」あっての「御国」という悠長なことを言っておられなくなり、天皇と国家への戦闘要員の供給源としての「家」を露骨に説くものとなったのだ。
全体主義国家の家族観として、行き着くところを示したものと言うべきであろう。自民党の復古主義家族観の恐さを示して余りある。これと呼応するがごとき、《私たち統一教会は、家庭を中心として国家救援、世界救援を主張しているのです》という、統一教会の家庭の捉え方も恐ろしい。「反人権・親国家」のイデオロギーとしての「家族」「家庭」「家」、いずれもとうてい受容し得ない。
(2022年8月16日)
昨日(8月15日)は終戦記念日だった。「敗戦記念日」と称すべきとの意見もあるが、私は「終戦記念日」でよいとする。敗戦したのは天皇制国家であって、民衆ではないからだ。心ならずも戦禍に巻き込まれ、あるいは洗脳されて戦争に協力した国民の側からは、ようやくの終戦というべきだろう。
その終戦記念日には、毎年「全国戦没者追悼式」が行われる。このネーミングがはなはだよくない。「全戦争被害者追悼式」とすべきであろう。本来、「戦没者」とは戦陣で倒れた者である。従って、どうしても軍人・軍属の戦死・戦病死者を連想する。靖国に合祀される死者と重なる。
1963年5月14日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」以来、「本式典の戦没者の範囲は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人、軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含むものとする。)とする」とされてはいるが、どうしても民間戦争被害者の追悼は隅にやられるイメージを免れない。もちろん、「敵」とされた国の犠牲者への配慮は微塵もない。
昨日の式典での岸田文雄首相式辞全文を紹介して私の感想を述べておきたい。
「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。」
式辞の冒頭に、遺族を差し置いての「天皇夫婦のご臨席を仰ぎ」は主客の転倒、順序が逆だ。戦没者にも遺族にも失礼極まる態度ではないか。天皇を主権者国民が「仰ぐ」もおかしい。そもそも、国民を死に至らしめた戦犯天皇(の末裔)をこの席に呼んでこようという発想が間違っている。呼ぶなら、謝罪を要求してのことでなければならない。
「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。」
先の大戦で失われた命は、300万余の同胞のものにとどまらない。300万余の同胞によって失われた近隣諸国の民衆の命もある。その数、およそ2000万人。日本の軍隊が外国に侵略して奪った命である。ちょうど、ロシアがウクライナに侵略して、残虐に無辜の人の血を流したごとくに。被害だけを語って、加害を語らないのは不公正ではないか。
「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。」
なんと、自然災害の犠牲者に対する追悼文のごとくではないか。戦争は人間が起こしたものであって、その大量の殺人には理非正邪の判断が必要であり、無惨な死の悲劇には責任が伴う。その追及を意識的に避けるがごとき語り口ではないか。この犠牲の責任を明確にせずしては、「御霊安かれ」は実現しない。遺族も安心できようがない。
「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。」
これは戦没者追悼の常套句だが、警戒が必要だ。この言い回しには巧妙な仕掛けがある。「今日、私たちが享受している平和と繁栄」は、「戦没者が命を懸けて戦った成果」としてあるものではない。「戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」という式辞は、誇張ではなく嘘である。歴史的事実としては無条件敗戦の事態を迎えて戦没者の死は無に帰した。しかし、生存した者が戦争とはまったく異なる方法で国家を再生し「今日、私たちが享受している平和と繁栄」を作りあげたのだ。戦死者たちが夢想もしなかった、「国体の放擲」「民主主義」「人権」にもとづく平和と繁栄である。
とすれば、戦死は余りに痛ましい。その死の痛ましさ、無意味さを見つめるところから、戦後の平和と繁栄の本質を考えなければならない。が、決して政府がそう言うことはない。ときの社会と権力者が望むとおりに、命を捨てた者を顕彰しなければ、次ぎに必要なときに、国民を動員することができない。そのために、戦後の政権は戦死を美化し続けた。岸田も同じである。
「未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。」
それこそ、白々しい嘘だ。沖縄南部の激戦地には、「未だ帰還を果たしていない多くの遺骨」がある。政府は、この遺骨を含む土砂を辺野古新基地の埋立に使おうとしている。まずは、辺野古新基地建設工事の続行をやめよ。
「戦後、我が国は、一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。」
これも不正確だろう。「戦後の保守党・保守政権は、一貫して、日本国憲法を敵視し、大日本帝国憲法への復古を目指してきましたが、国民の間に広範に育った平和を望む声に阻まれて、改憲も戦争も実現せずに今日に至っています」が正しい。
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります。未だ争いが絶えることのない世界にあって、我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、この国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。」
あらあら、ついに出た「積極的平和主義」。これは安倍造語、その正確な意味は「積極的に軍事力を増強し積極的な外国への軍事侵攻も躊躇しない、積極的な軍事活用による平和」ということ。これで切り拓かれる日本の未来はたいへんなものとなる。
「終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。」
私も終わりに、いま一度、言っておきたい。「戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を」は、この国が次の戦没者を作らねばならないときのための準備なのだ。真の意味で戦没者の死を意義あらしめるためには、戦争の悲惨さと非人道性を徹底して明らかにし、天皇を筆頭とする戦争犯罪者の責任を、国民自身の手で明らかにしなければならない。そうして初めて、本当の積極的平和が実現し、「戦没者と遺族の平安」がもたらされることになろう。
(2022年8月14日)
統一教会をめぐる一連の議論の中で、「この団体は本当に宗教団体なのか、実は反共を掲げる政治団体に過ぎないのではないか」という疑問が散見される。もちろん、このような団体に「信教の自由」を口にする資格があるのか、という問題意識を伏在させての疑問である。
しかし、結論から言えば、統一教会(ダミーやフロントも含めて)とは、「宗教団体でもあり、政治団体でもある」と言わざるをえない。もっとも、宗教団体性を認めたところで、刑事的民事的な違法行為が免責されることにはならない。この点での宗教団体の特権はあり得ない。
問題は別のところにある。宗教団体でもあり同時に政治団体でもある統一教会の、宗教性と政治性の結びつき方がきわめて危険なものと指摘されなければならない。
宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させる。場合によっては圧殺もする。理性を喪失した信者が宗教指導者に心身を捧げ、宗教指導者がその信者を政治的な行動に動員する。場合によっては犯罪行為や軍事行動にまで駆りたてる。このような宗教の俗世への影響は、古今東西を通じて人類が経験してきたことであって、統一教会もその一事例である。
宗教的熱狂が信者を支配して反社会的行為に駆りたてるその小さな規模の典型を最近はオウム真理教事件で見たところであり、大きな規模としては天皇教という宗教が大日本帝国を支配した成功例から目を背けてはならない。
明治政府が作りあげた天皇教(=国家神道)は、天皇とその祖先を神とする宗教であり、同時に天皇主権を基礎付ける政治思想でもあった。現人神であり教祖でもあった天皇は、同時に政治的な統治者ともされた。大日本帝国は、日本国民を包括する狂信的宗教団体であり、その狂信に支えられた統治機構でもあり、さらに排外的な軍事的侵略組織でもあった。
恐るべきは、国民の精神を支配した天皇教の残滓がいまだに十分には払拭されぬまま、今日にも生き残っていることである。その典型を小堀桂一郎という人物の言説に見ることができる。この人、常に「保守の論客」として紹介される、東京大学名誉教授である。
真面目に読むほどの文章ではないが、一昨日(8月12日)の産経・正論欄の「この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏」という記事を紹介したい。
この表題における「安倍氏」とは、国葬を予定されている安倍晋三のこと。「叡慮」とは、敗戦の責任をスルーした天皇裕仁の「考え」あるいは「気持」、ないしは「望み」であろうか。その、ばかばかしい敬語表現である。「応へた」は、誤字ではない。これもばかばかしい、旧仮名遣いへのこだわり。結局、「安倍晋三とは、裕仁の期待に応えたアッパレなやつ」というのがタイトル。
少しだけ抜粋して引用する。洗脳された人間の精神構造の理解に参考となろうからである。なお、このような、もったいぶった虚仮威しの文体は、内容の空虚を繕うためのもの。このようにしか書けない人を哀れと思わねばならない。
「昭和20年8月14日付で昭和天皇の「終戦の詔書」を奉戴(ほうたい)した事により辛うじて大東亜戦争の停戦を成就し得てから本年で77年を経た。
この日が近づくと自然に思ひ浮ぶのは、言々句々血を吐く如き悲痛なみことのりを朗読されたあの玉音放送である。承詔必謹の覚悟の下に拝聴した詔書の結びの節をなす<…総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ遅レサランコトヲ期スヘシ>のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」
「あの詔勅の核心をなす叡慮(えいりょ)に背く事の多い、恥づべき歴史を国民は辿(たど)つて来たのではないか、と慙愧(ざんき)の思ひばかり先立つ一方で、ふと思ひ返すと去る7月8日に何とも次元の低い私怨から発せられた凶弾を受け、不条理極まる死を遂げられた安倍晋三元首相の存在が俄(にわ)かに思念の裡(うち)に甦(よみがえ)つて来た。
安倍氏は疑ひもなく戦後の我が国に現れた政治家の中で最大の器量と志を有する人だつた。詔書に謂(い)ふ「世界の進運」に大きく寄与する事を通じて国体の精華を発揚する偉業を成し遂げた人である。氏にはまだ自主憲法の制定、皇位継承の制度的安定化といふ必須の大事業が未完のままに残されてをり、この二つを成就するための再登場が期待されてゐたのであるから、その早過ぎた逝去は如何(いか)に惜しんでも惜しみ足りない我が国の運命に関はる悲劇である。」
以下、小堀の「皇国史観」「排外ナショナリズム」「軍事大国化願望」「反中論」が臆面もなく綴られる。「平成4年には宮沢喜一内閣が、我が天皇・皇后(現上皇・上皇后)両陛下に御訪中を強ひ奉るといふ不敬まで敢(あ)へてした。」などというアナクロニズムまで語られている。
何しろ、「天皇のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」という、嗜虐史観。この人にとっての天皇は、オウム信者にとっての麻原彰晃、統一教会信者にとっての文鮮明と基本的に変わるところのない、聖なる存在であり、絶対者なのだ。
このような偏狭な天皇教信者の精神構造は、日本国憲法の理念を受容し得ない。そんな人が、統一教会とのズブズブを批判されて窮地に立つ安倍や岸田を援護のつもりの論稿なのだろうが、逆効果が必至。何とも虚しい。
確認しておこう。宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させ、反社会的な行為に走らせる。この危険に敏感でなくてはならない。天皇教においても、オウムにおいても、そして統一教会においても。
(2022年7月19日)
かつて、「国葬令」というものがあった。特定の個人の死を国家として悼む制度を法制化したものである。帝国議会の協賛を経ない勅令という法形式。1947年の日本国憲法施行にともなって失効した。
その全文(本文5か条)が以下のとおり。半角を使って、少し読みやすくしてみた。
勅令第三百二十四号
朕 樞密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ 茲ニ之ヲ公布セシム
嘉仁 裕仁 御璽 (当時、裕仁は摂政だった)
大正十五年十月二十一日 (1926年)
内閣総理大臣 若槻礼次郎(以下自署)
陸軍大臣 宇垣一成
海軍大臣 財部彪
外務大臣 男爵 幣原喜重郎
文部大臣 岡田良平
内務大臣 濱口雄幸
遞信大臣 安達謙蔵
司法大臣 江木翼
大蔵大臣 片岡直温
鉄道大臣 子爵 井上匡四郎
農林大臣 町田忠治
商工大臣 藤澤幾之輔
第一条 大喪儀ハ 国葬トス
第二条 皇太子皇太子妃 皇太孫皇太孫妃 及 攝政タル親王 内親王 王 女王ノ喪儀ハ 国葬トス
但シ 皇太子 皇太孫 七歳未満ノ殤ナルトキハ 此ノ限ニ在ラス
第三条 国家ニ偉勳アル者 薨去又ハ死亡シタルトキハ 特旨ニ依リ 国葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ 勅書ヲ以テシ 内閣總理大臣之ヲ公告ス
第四条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ 喪儀ヲ行フ当日廃朝シ 国民喪ヲ服ス
第五条 皇族ニ非サル者 国葬ノ場合ニ於テハ 喪儀ノ式ハ 内閣總理大臣勅裁を経テ之ヲ定ム
これを分かり易く意訳してみればこんなところだろうか。
第1条 天皇や皇后・皇太后の葬儀は国葬として行う。
第2条 皇太子や一定の皇族の葬儀も同様とする。
第3条 国家に特別の貢献あった者が死んだときには、天皇の特別のはからいで国葬にすることがある。
第4条 皇族でない者の国葬の日には、天皇は執務を控え国民は喪に服する。
第5条 皇族でない者の国葬の儀式のあり方は、天皇の決裁を得て内閣總理大臣が決める。
この勅令(法律と同様の効力を持つ)の眼目は、第4条の「国民喪ヲ服ス」である。「いやしくも国葬である、国民一同国家に貢献あった被葬者を悼み服喪せよ」という、上から目線の弔意の強制なのだ。「皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ」と限定されているようだが、実は、天皇や皇族の葬儀については、「皇室服喪令」(1909年)が先行してあり、「臣民も喪に服する」とされている。つまり、国葬は国を挙げての一大行事であって、天皇も臣民も、その死者の生前における国家への貢献に敬意を表し哀悼の意を示さなければならない。国葬の日には服喪が要求される。歌舞音曲なんぞとんでもない、のだ。
以下は宮間純一教授(近代史・中央大学)の教えるところ(要約・抜粋)である。とても分かりやすく、肯ける。
「戦前の国葬は岩倉具視にはじまり、以降、1945年まで21名の国葬が、天皇の「特旨」によって執り行われた。
国葬は、回数を重ねる中で形式を整えてゆく。「功臣」の死を悼むために天皇は政務に就かない(これを「廃朝」という)、国民は歌舞音曲を停止して静粛にする、死刑執行は停止するといったことも定型化する。
葬儀の現場東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施された。また、メディアが発達したことを背景に、新聞などを通じてその人の死が「功臣」たるにふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、追悼行事に参加することで、「功臣」が支えたとされる天皇や国家を鮮明に意識することになる。
天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。
国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見を抑圧しうる制度など、民主主義のもとで成立しようはずがない」
さて、「民主主義のもとで成立しようはずがない」という国葬が安倍晋三について強行されようとしている。国民に対しては、歌舞音曲を停止して静粛にし、安倍晋三に対する哀悼の意を表明することが事実上強制されることになる。東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施されるに違いない。また、メディアが発達したことを背景に、新聞やテレビ、ネットなどを通じて、安倍晋三の死が「国葬」にふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、追悼行事に参加することで、安倍晋三が支えたとされる、国家や自民党や右翼勢力を鮮明に意識することになる。そして、安倍の負の遺産を批判することが封じられる雰囲気がつくられていく。
やっぱりごめんだ。安倍晋三の国葬。
(2022年6月16日)
人は平等である。これは民主主義社会における公理だ。差別はあってはならない。差別を間近に見ることもおぞましい。差別に曝されている人の辛さは想像を絶する。この世からあらゆる差別をなくさねばならない。あらゆる人がのびのびと生きていけるように。
しかし、現実には差別はなくならない。この世には差別が好きな人が、少なからずいるのだ。たとえば石原慎太郎。民族差別・人種差別・女性差別・障害者差別・思想差別・不幸な者に対する差別、弱い存在に対する差別…。この天性の差別大好き人間に対する糾弾の声が必ずしも社会全体のものとならない。この恥ずべき人物を支持する一定の勢力が確かに存在するのだ。
山縣有朋の死に対して石橋湛山が送った言葉が「死もまた社会奉仕なり」だという。石原の死に際してこの湛山の言葉があらためて引用され、社会は多少健全化されたかと思ったは甘かった。安倍晋三や渡辺恒雄らが発起人となって、「お別れ会」が開催された。差別大好き陣営の総決起集会である。
安倍晋三がこの会で、石原について、「いつも背筋を伸ばし、時に傍若無人に振るまいながらも誰からも愛された方だった」と発言したという報に接して驚愕し、ややあって驚愕した自分を恥じた。私は、差別された側の民族・人種・女性・障害者・思想、総じて弱者が石原を愛するはずはないではないか、差別をあってはならないとする多くの良識ある人々が石原を軽蔑こそすれ、愛するなんてとんでもない、そう思ったのだ。
しかし、石原や安倍の眼中には、差別される人も差別に憤る人もない。石原や安倍が言う「誰からも」とは、差別を肯定し、差別を笑う、差別大好き人間だけを指しているのだ。なるほど、確かに石原は、差別大好き人間の「誰からも」愛される存在だった。そして、安倍もその同類なのだ。
差別とは心根である。人の平等を認めたくないといういびつな精神の表れである。知性に劣り自我を確立できない人物は、常に自分が多数派で強者の側に属していることを確認したいのだ。社会を多数派と少数派に分け、多数派を優れたものとし少数派を劣ったものとする「思い込み」に基づいて、自分が多数派に属することでの安心を求める。
差別大好き人間にとっては、この世の人々が平等であってはならない。社会は水平ではなく凹凸がなければならず、自分が社会の上位の部分に属することを確認せずには安心が得られない。差別はまったくいわれのない侮蔑であるが、この差別を生む構造は、まったくいわれのない尊貴とこれに対する敬意(ないしは、へつらい)とを必要とする。
この世に「貴族」あればこその「卑族」の存在である。かつてはバカバカしくも、人の価値が天皇からの距離で測られた。今なお、その残滓がある。天皇がいるから、被差別部落があり、在日差別がまかりとおる。天皇や皇族に畏れいる心根と、在日や部落差別を受け入れる心根とは表裏一体と言わねばならない。
だから、差別を許さないと考える人が、天皇大好きであってはならない。天皇こそ、日本社会の差別の根源なのだから。今ころ、天皇や皇族なんぞに畏れいってはならない。天皇や皇族に近いという家柄をひけらかす輩を、真の意味で「人間のクズ」であると軽蔑しよう。人の家柄は、誇るべきものでも、卑下すべきものでもない。
再確認しておこう。人は平等である。在日も被差別部落も天皇も、人間の尊厳においていささかの区別もない。これは民主主義社会における公理である。外国人に対するいわれのない差別や、人の血筋をもってする差別の恥ずべきことは当然だが、これと裏腹の関係にある、天皇や皇族を貴しとする感性もまた恥ずべきことと知らねばならない。
(2022年5月27日)
一昨日(5月25日)、名古屋地裁での「『あいトレ』未払い費用請求訴訟」の判決言い渡し。その報道の見出しを、産経は「昭和天皇の肖像燃やすシーン『憎悪や侮辱の表明ではない』 名古屋地裁」とした。『昭和天皇の肖像燃やす』にこだわり続けているのだ。
わが国における「表現の自由」の現状を雄弁に物語ったのが「あいちトリエンナーレ2019」事件である。公権力と右翼暴力とのコラボが、「表現の自由」を極端なまでに抑圧している構造を曝け出した。そして、その基底には、「表現の自由」の抑圧に加担する権威主義の蔓延がある。この社会は権威を批判する表現に非寛容なのだ。
日本の「世界報道自由度ランキング」は71位だという。いわゆる先進国陣営ではダントツの最下位。もちろん、台湾(38位)・韓国(43位)にははるかに及ばない。69位ケニア、70位ハイチ、72位キルギス、73位セネガル、76位ネパールなどに挟まれた位置。あいトレ問題の経緯を見ていると、71位はさもありなんと納得せざるを得ない。
報道にしても、芸術にしても、その自由とは権力や権威の嫌う内容のものを発表できることにある。今回の「昭和天皇の肖像燃やすシーン」こそは芸術の多様性を象徴する表現行為である。これは、特定の人々の人権侵害や差別の表現行為ではない。社会の権威に挑戦するこのような表現こそが自由でなければならない。
ポピュリズム政治家と右翼政治勢力にとっては、「とんでもない」表現なのだろうが、表現の自由とは「とんでもない」表現への権力的介入を許さないということなのだ。
河村たかし名古屋市長は、「市民らに嫌悪を催させ、違法性が明らかな作品の展示を公金で援助することは許されない」と主張したが、判決は「芸術は鑑賞者に不快感や嫌悪を生じさせるのもやむを得ない」と判断。作品の違法性を否定して市の主張を退けた(朝日)、と報じられている。
この判決については、毎日新聞の報道が詳細で行き届いている。
「愛知県で2019年に開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」を巡り、同県の大村秀章知事が会長を務める実行委員会が、名古屋市に未払いの負担金支払いを求めた訴訟の判決が25日、名古屋地裁であり、岩井直幸裁判長は請求通り約3380万円の支払いを命じた。
同芸術祭の企画展「表現の不自由展・その後」で、昭和天皇の肖像を燃やすシーンがある映像作品や従軍慰安婦を象徴する少女像を展示したことを、名古屋市の河村たかし市長が、「政治的中立性を著しく害する作品を含む内容・詳細が全く(市側に)告知されていなかった」などと問題視。一部負担金の不払いを決めたため、実行委員会が支払いを求めて20年5月に提訴していた。
判決で岩井裁判長は、作品の政治的中立性について、「芸術活動は多様な解釈が可能で、時には斬新な手法を用いる。違法であると軽々しく断定できない」と指摘。映像作品については、「天皇に対する憎悪や侮辱の念を表明することのみを目的とした作品とは言いがたい」とし、少女像も含めて、「作品内容に鑑みれば、ハラスメントとも言うべき作品であるとか、違法なものであるとかまで断定できない」と判断した。
訴訟では、河村市長自身が証人として出廷。「政治的に偏った作品の展示が公共事業として適正なのか。問題は公金の使い道であり、表現の自由ではない」などと意見陳述していた。」
判決後、河村市長は「とんでもない判決で司法への信頼が著しく揺らいだ。控訴しないことはあり得ない」と言っているそうだ。この人の辞書には、反省の2文字がないのだ。
河村のホンネとして、「天皇バッシングは怪しからん」と騒げば票につながるだろうとの思惑が透けて見える。この河村の姿勢は、果たして名古屋市民を舐め切っているのだろうか。それとも彼の読みは当たっているのだろうか。
いずれにせよ、河村の判断ミスによって、払わずに済むはずの遅延損害金や応訴費用が、名古屋市民の負担となっている。控訴すれば、更に無駄な出費は加算されることになる。潔く一審判決に従うべきが名古屋市民の利益であり、民主主義の利益にもなる。
(2022年5月19日)
昭和天皇(裕仁)は、皇太子時代に欧州5か国を歴訪の途上沖縄に立ち寄ってはいる。が、摂政・天皇の時代を通じて一度も沖縄訪問の機会を得なかった。戦前も戦中も、そして40年を越える長い戦後も、一度として沖縄の土を踏んでいない。おそらく、戦後の彼は沖縄県民に対する後ろめたさを感じ続けていたからであろう。端的に言えば、会わせる顔がないと思っていたに違いない。あるいは、沖縄で露骨に民衆からの抗議を受ける醜態を避けたいとする政治的な配慮からであったかも知れない。
だから、「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(沖縄県作成・1995年)には裕仁は一切出て来ない。代わって顔を出しているのは、その長男明仁である。それも、ほんの少しでしかない。
「記録」の306ページに、「沖縄海洋博覧会」の項がある。海洋博の「会場全景」という大きな写真に添えて、やや小さな明仁の写真。「海洋博名誉総裁の開会を宣告する皇太子(現天皇)。1975年7月19日」という簡潔な解説。過剰な敬語のないのが清々しい。
そして、次のページに、「皇太子火炎ビン襲撃事件」のごく小さな写真。「幸いにも皇太子ご夫妻を含め怪我人はなく、混乱は最小限にとどめられた」と解説されている。これ以外に、皇族に関連する記載はない。
明仁ではなく裕仁が訪沖していれば、どんな展開になっただろうかと思わないでもない。裕仁と沖縄との関係については、曰わく因縁がある。天皇(裕仁)は、本土防衛の時間を稼ぐために沖縄を捨て石にした。天皇の軍隊は沖縄県民を守らず、あまつさえ自決を強要したり、スパイ容疑での惨殺までした。そして、新憲法ができた後にも、天皇(裕仁)は主権者意識そのままに、いわゆる「天皇・沖縄メッセージ」で、沖縄をアメリカ政府に売り渡した。沖縄県民の怨みと怒りを一身に浴びて当然なのだ。
彼にも人間的な感情はあっただろう、忸怩たる思いで戦後を過ごしたに違いない、などと思ったのは甘かったようだ。それが、近年公開された 「拝謁記」で明らかになっている。「拝謁記」とは、初代宮内庁長官田島道治が書き残した、天皇(裕仁)との会話の詳細な記録。その内容の着目点が、朝日・毎日などの中央紙と、沖縄の新聞とがまったく異なるという。
福山市在住のジャーナリストが、K・サトルのペンネームで、書き続けている「アリの一言」というブログがある。その2019年8月22日付け記事が「『拝謁記』で本土メディアが無視した裕仁の本音」という表題で、このことを鋭くしている。K・サトル氏に敬意を表しつつ、その一部を引用する。
『琉球新報、沖縄タイムスが注目したのは「拝謁記」の次の個所でした。
「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為二之がいいと分かれば一部の犠牲は巳(や)むを得ぬと考える事」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953年11月24日の発言)
琉球新報は「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇 米軍基地で言及 53年、反対運動批判も」の見出しで、リードにこう書きました。
「昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の『天皇メッセージと同じ路線だ』と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について『反省していたかは疑問だ』と述べた」
朝日新聞、毎日新聞は記事中でも「拝謁記要旨」でも、この部分には触れていません。同じネタ(裕仁の発言)であるにもかかわらず本土メディアと沖縄県紙で際立った違いが表れました。これはいったい何を意味しているでしょうか。
米軍基地によって生じる「やむを得ぬ」「犠牲」を被る「一部」とはどこか。基地が集中している沖縄であることは明らかです。裕仁はそれを「沖縄の」とは言わず「一部の」と言ったのです。これが沖縄に「犠牲」を押し付ける発言であることは、沖縄のメディア、沖縄の人々にとっては鋭い痛みを伴って直感されます。だから琉球新報も沖縄タイムスも1面トップで大きく報じました。ところが本土紙(読売、産経は論外)はそれをスルーしました。裕仁の発言の意味が分からなかったのか、分かっていて無視したのか。いずれにしても、ここに沖縄の基地問題・沖縄差別に対する本土(メディア、市民)の鈍感性・差別性が象徴的に表れていると言えるのではないでしょうか。
裕仁の「沖縄(天皇)メッセージ」(1947年9月)を世に知らしめた進藤栄一筑波大名誉教授はこう指摘しています。
「『天皇メッセージ』は、天皇が進んで沖縄を米国に差し出す内容だった。『一部の犠牲はやむを得ない』という天皇の言葉にも表れているように、戦前から続く“捨て石”の発想は変わっていない」(20日付琉球新報)
「拝謁記」には、戦争責任を回避する裕仁の弁解発言が多く含まれていますが、同時に裕仁の本音、実態も少なからず表れています。「一部の犠牲」発言は、「本土防衛」(さらに言えば「国体」=天皇制護持)のために沖縄を犠牲にすることをなんとも思わない裕仁の本音・実像がかはっきり表れています。』
まったくそのとおりだと思う。これに付け加えるべき何ものもない。あらためて今、沖縄を考えるべきときに、戦前も戦後も「沖縄を捨て石にした」天皇(裕仁)の実像を見極めたい。